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AM81T1 - 思考と時間が恐怖の根源である
第一回
オランダ アムステルダム
1981年9月19日



1:30 非常に残念な事に講演は二回です ですから話すべき事を生命の全ての 存在についてを凝縮せねばなりません これは何かのプロパガンダではありません ある特定の考えに方向付け説き伏せるのではなく 何かを説得しようとしているのでもありません これは非常に明確にすべきです 東洋から何か風変わりな事を持ち込むのではありません 教祖と言う名の下の戯言ではなく インド訪問後におかしな事を書く人達でもありません 私達はそのような集団に全く属しません しかしこれは指摘致したいのです この二回の講演の間 私達は共に考えます 単に講演を聞くだけではなく 何かの考えを聞くだけでなく それに賛同反対すると言う事ではなく 何かの議論 意見 判断を創造するのではありません しかし一緒に -共にです あなたと話し手が共に世界のあり方を考察します 西洋の世界だけでなく東洋についてもです 深刻な貧困困窮 そして爆発的な人口増加 ここ西洋において政治家は 起きている惨事に対応する能力がありません 政治家はみな部族主義的に考えます 部族主義は国家主義の中で美化されてきました ですからどんな政治家にも指導者にも または宗教について書かれた本にも頼る事は出来ません このような人達に頼る事は到底できません 科学者も生物学者も心理学者にもです 彼らは人間の問題について解決できていません 皆さんそれについて賛同されると思います どんな教祖達にも頼れません 残念な事に西洋に来る彼らは 人々を搾取し富を得て 彼らは宗教と何の関係もありません
5:48 述べました通り私達あなたと話し手が 共に考える事が重要です 共に考えると言う事は 単に意見や評価を受入れるのはありません 共に考察するのです外面的だけでなく - 世界で何が起きているのかと言う事を - 心の中に心理的に何が起きているかと言う事もです 外面的に外的には大きな不安 混乱 戦争 または戦争の危険な兆候があります 世界の地域によっては戦争が続いており 人間が互いを殺し合っています ここ西洋では起きていませんが 核戦争の恐れが存在します 核爆弾そして戦争の準備です そして我々一般人にそれらについて 出来る事は何も無いようです デモやテロハンストなどがあります これが実に世界で外面的に起きている事です; ある部族が他の部族と対抗する; 西洋アメリカが他国と対抗するなどとです 科学者達はこれに加担します そして哲学者達はそれらに反論をしているようですが 内面的には自分たちのキャリアに 応じて国家主義者を継続しています よってそれが表面的世界に起きている事で それは聡明な人は誰でも察する事ができます
8:59 そして内面的に私達の心理そして私達の心も 大変混乱しています 安定はありません恐らく私達のみならず 我々の未来もまた未来の世代にもです 宗教は人類をキリスト教やヒンドゥー教 イスラム教や仏教などと分断してきました
9:50 これらを考慮すると客観的に冷静に 何も偏見なく考察するに 私達が共に考える事が当然重要となります 共に考えます 別の反対意見を持つのではなくです; 一つの結論に対して別の結論を持つのでもありません ある理想に対して別の理想を持つのではなくです; 寧ろ一緒に考え私達に何が出来るのかを確かめます 危機とは経済や政治の中の世界ではありません 危機とは私達の意識の中にあります お気づきの方は殆どいないと思います 危機は私達の心理心の中にあります つまりこの危機は私達の意識にあるのです 我々の意識とは私達全ての存在で私達の信念 私達の結論私達の国家主義 人の持つ全ての恐怖心や喜び 明らかに解決できない悲哀の問題 いわゆる愛と呼ばれる事慈悲心 そして死についての問題 それにまだ先に在るとしたら 瞑想についての問題 そして時間を超える思考を超える何かの存在 永久な何かの存在です それが我々の意識の中身です それが全ての人間の中身です この国に住もうとアジアに住もうと インドやアメリカロシアであろうとです 意識の内容は全ての人類の共通の土台です これは最めに非常に明確するべきかと思います
13:47 世界のこの地域に住む人間として彼は苦しみます 身体的な事だけでなく内向的にもです 彼は不安で不確かで恐れ混乱し 不安で深い安心感がありません アジアにおいても同様に人類みな同様にです インドでも同じでアメリカでもロシアでもです つまり我々の意識とは全人類共通なのです どうかお聞きください これを初めてお聞きかもしれませんが どうか放棄しないで下さい 共に調査しましょう共に考えましょう 家に帰ってからではなく今です あなたの意識 - 何を考え何を感じ あなたの反応 不安感孤独感 悲しみ 痛み 単に物理的な何かの探求はなく それを超え全ての思考とは- インドやロシアやアメリカに住む人みな同じです 皆あなたと同様に問題を抱えます 同様に人間関係の問題男女の問題 私達はみな同じ土台に立っています - 意識 我々の意識はみな共通です ですから私達は個々ではありません これをどうか考慮してください 私達は宗教的にも学問的にもしつけられ教育されてきました 私達は個別の魂個人であり自分の為に努力すると しかしそれは錯覚です なぜなら意識とは全人類に共通だからです 私達は人間です 私達は自分の為に戦う個別の個人ではありません これは理論的で合理的で真っ当です 私達は別々の心理を持ち自分の為に苦闘する 個別の存在ではありません 私達一人ひとりが実に残りの人類です
17:57 ですから理論的にたぶん頭では受入れるでしょうが もしあなたが心から理解すれば 私達の活動は根本的な変化を遂げるでしょう それが私達が一緒に考える最初の問題です: 私達の意識とは私達の考え方 生き方 多分もっと心地よく豊かに もっと楽に旅をするなどとです それを除けば内向的に心理的に あなたは何千キロも何万キロも遠く 離れた人達と全く類似します
19:19 ですからこれらの諸問題を共に考えるのです 最初に人間関係の問題です: 全ての生命は結びつき存在そのものが関係しています 親密であろうと無かろうと 二者の間男女の間であろうと 私達のなしてきた人間関係を考察するにあたり 極めて大きな闘争対立や課題が存在します - なぜでしょうか? 何万年以上も生きて来た私達人類が 人間関係の問題について解決し来ていないのでしょうか? それは二人の人間が対立無く共に生きる事です 明らかに解決していません ですから今朝この一時間程の間 共に考えましょう 共に男女の間人間関係とは何かについて 考察しましょう 社会全体は人間関係の上に成り立っています 人間関係が無ければ社会は存在しません すると社会は抽象的概念となります ですから今朝共に 私達の人間関係とは実に何かを共に考えるべきです
21:51 深く考察すれば男女の間に対立があります 男性は自身の理想探求心や野心を持ち 世界で大物になろうと成功を常に追い求めます また女性も奮闘していますひとかどの人になろうと 自身を満たそうと何かになろうとします お互いに自身の方向性を追求しています ですから二つのレールが平行に走り交わる事はありません 恐らくベッドの中でそうでなければよく考察すると 男女は向かい合う事はありません心理的 内向的にです - なぜですか? それは一疑問です なぜかと問うとき私達は常に原因を問います 私達は因果関係の観点から考えます 原因を理解すれば恐らく 結果は変わるだろうと望みます お尋ねします - 皆さん英語がお分かりですよね でなければ私の独り言でそれは馬鹿げています この国に来るのは十年ぶりで また来る事ができてうれしく思います しかし英語が分らなければ 私達のコミュニケーションは不可能です ですから出来る限り明瞭に英語を理解されると望みます 残念ですがフランス語やイタリア語を話します しかし同様に難しい事です
24:53 ですから非常に単純しかし大変に複雑な質問をします: なぜ私達人間は何百万年も何百万年以上もの間 この地球に生きてきて人間関係の問題についてを 解決できていないのでしょうか? 各々が思考によって造られた自分固有の イメージを持ち人間関係が その二つのイメージだけが基礎となるからでしょうか: 男性が女性に対して造るイメージ また女性が男性に対し造るイメージでしょうか? つまり私達の人間関係は:二つのイメージが共存します それが事実です ご自分をよく観察してみてください あなたは彼女に対するイメージをつくってきました そして彼女も同様に男性の描写を逐語的な構造をつくりました ですから人間関係とはこれら二つのイメージの間です これらのイメージは思考によってつくられてきました そして思考は愛と関係しません
26:55 思考は愛ですか? お互いのこの関係のあらゆる記憶 お互いについての回想描写 結論 私が深く偏見なく考察するに これらが思考の産物です これらが様々な記憶の結果であり 経験やいら立ち孤独感です 従って互いの人間関係とは愛ではなく しかし思考が構成したイメージです
28:03 ですから私達が人間関係の実際について 理解するにあたり 思考の全ての活動について精査し理解すべきです 私達は思考によって生き私達の全ての行動は思考に起因します; 世界のあらゆる優れた建物は思考によって造られました 全ての大聖堂や教会お寺やイスラム教寺院は 思考により構築され存在します 宗教的建築物の中は何でしょう - 内装や肖像シンボルやイメージ - 全ては思考の発明です それに反駁はありません ですから思考が 最高に素晴らしい建築物 それら建物の内容だけでなく 戦争の機器をも造り出してきました 爆弾様々な型のその爆弾 思考はまた外科医 とても繊細な手術に使う素晴らしい機具をつくり そして思考が大工を造りました 大工は木や機具を学ぶなどとです よって思考がこの全てを行ってきました 教会の内装や執刀医 美しい橋をつくる工学の専門家 全ては思考の結果です 反駁はありませんが多くの人が論争するかもしれません ですから思考とは何かを精査すべきです なぜ人類は思考に基づき生きるのか なぜ思考が世界にこのような惨事をもたらしてきたのか - 戦争互いの人間関係の欠如 非常なエネルギーをもつ思考の偉大な能力 そして何百万年を通して思考が何をして来たか 人類に悲哀をもたらしました これをどうか考察してください共に精査しましょう 話し手への反論ではなく一緒に精査しましょう 話し手が云わんとする事を 全人類に実に何が起きているのかを共に理解する為にです 私達は自身を破壊しています
32:12 ですから思考の問題について非常に注意深く進むべきです 思考とは記憶の反応です 記憶とは過去の回想のみならず 未来の希望としてそれ自体を投影する思考でもあります よって思考は記憶の反応で記憶は知識であり 知識は経験です つまりそこに経験がありその経験から知識が存在し その知識から記憶または回想が存在します そしてその記憶から行動するのです その学んだ行動が更なる知識です 私達はこのサイクルの中に生きます- 経験 知識 記憶思考 行動 このサイクルの中に人間は生き 常に知識の領域の中に生きます 退屈でなければいいのですが 退屈でしたら申し訳ありません もしあなたを喜ばせるロマンティックで 感傷的な何かを求めているならお聞きにならないで結構です しかし私達の話しは非常に真面目な事です 週末の何かカジュアルな視聴ではありません 人間の意識の根本的な変化を懸念しているからです よってこの事全てを共に見て考察し確認しましょう なぜこの地球上に何百万年も生きて来た 人類は未だ同じなのでしょうか 技術的に進化をして来たかもしれません より良い通信より良い交通 衛生面などとしかし内面的には事実上同じです 不幸で不安 孤独で悲哀の重荷を終わり無く背負っています これに立ち向かう真面目な人は誰でも反応するはずです 背を向けて気軽に捉えられません ですから今朝と明朝の会議は非常に真剣なのです なぜなら我々の意識の中の根本的変化の解明に 私達の意識と心を傾けなければなりません 意識とはつまり私達の活動や行動です
35:53 前途の通りに思考とは経験と知識の産物です ですから思考は神聖なものでは全くありません 実利主義的で思考とは事象の過程です 我々の全ての問題を解決するのに思考に依存してきました 政治 宗教人間関係などとです 私達の脳 心は条件づいています 問題の解決に教育されています 思考が問題を生みすると脳が心が問題を 解決するよう訓練されています 工学の課題があればそれを解決し 病理の問題があればそれを解決するなどとです 私達の心理は問題解決に訓練されています これら諸問題は思考によって心理的に内向的につくられます お解りでしょうか? 思考が問題を心理的に生み そして心理は問題を解決するよう訓練されています ですから思考が問題を生み 思考が問題を解決しようとするのです よって同じ古いプロセスに捕われ習慣的に繰り返されます ですから問題はもっと更に複雑化し 解決できなくなっていきます ですから私達はこの人生のアプローチに 異なる方法があるのかそれが可能かを探るべきです 思考を通してではなくです思考は私達の問題を解決していませんから 反対に思考はより大きな複雑さをもたらしてきました 可能かどうかを探るべきです 人生に全く異なる側面 異なるアプローチが存在するのかについてです ですから思考の本質について私達の思考の特質を 理解する事が重要なのです 思考は記憶過去の記憶に基づきます 先週起きた事について考えます それについて考え現在に編集します そして未来へと投影されます これが人生の動作でそれが実際です そこで知識が我々に全て重要となってきました しかし知識とは完全ではありません どんな知識についても今だ未完であり 常に未完成のままです ですから知識は常に無知と平行します 知識は常に無知の影に生きます それは事実です これは話し手の発明でも結論でもなく しかしそうなのです
40:11 よって愛は知識ではありません 愛は記憶ではありません 愛は喜びでも欲求でもありません 欲求 喜び 記憶は記憶に基づきます よって我々の互いの人間関係は 如何に親しくも近しくもよく考察すれば 記憶に基づきそれは思考です よって実にその人間関係において 妻を夫を彼女などを愛すると言うでしょうが 実際には記憶でそれは思考に基づいています 従ってそこには愛は存在しません この事実をご理解しますか?もしくは 'なんと酷い事を言うのか私は妻を愛している' - しかしそうですか? 嫉妬 独占欲 執着が存在する中で 愛が存在しえますか お互いが自分独自の野心や欲や方向性を 追求しながらにです 二本の平行線が交わらないようにです それは愛ですか? 実存の問題について真剣に心から深く 追求するなら欲望とは何かを 問い精査すべきです なぜ人間は欲望に動かされて来たのか この話を続けますか? すみませんがご自身の責任でここにいるから我慢ください! そしておそらく話し手のせいでもあるでしょう! 共に考え考察していると願います 二人の友がその道を共に歩き そして周囲を見て 至近にある事直に把握される事だけでなく 遠い先の方を見て なぜなら私達は旅を伴にするのですから おそらく愛情をもち手を取り合い または二人の友人として友好的に人生の複雑な問題を分析します そこにリーダーや教祖など一切存在しません なぜなら私達の意識とは残りの人類の意識である と言う事を実際に理解すれば すると私達はお互いに師匠であり弟子であり 先生であり生徒であると気がつきます なぜなら私達はみなそうであり私達の意識の中にあります それは非常に偉大な気付きです 自分を深く理解し始めると 自分が自身の光となり誰に頼らず どんな本や権威者にも頼りません話し手も含めてです そしてこの人生の問題の全容を理解する事ができ そして自分自身が自身の光となります
45:30 ですから欲望とは何かを調査すべきです 仮に欲望が愛であれば欲望は問題を生みます 愛は問題を持ちませんそして自身の知性を伴う 愛と慈悲の本質を理解するには 私達は一緒に欲望とは何かを理解すべきです 欲望とは異常な活力を持ちます 桁外れの説得力衝動 達成感 そして成功の全行程は欲望に基づきます - 欲望が私達を互いに比較し真似をし同化させます ですから私達自身の本質を 理解するにあたり欲望についての理解は 非常に重要なのです 抑圧するのではなく逃避するのではなく 超越するのではなく理解するのです 見るのです全体のその勢いを理解するのです 共にしましょう それは話し手から学ぶという意味ではありません 話し手が教える事は何もありませんどうかご理解ください 話し手は単にご自身を見る鏡として行動するだけです すると自分自身をはっきりと理解すれば その鏡を捨てる事ができます重要なものではありません あなたが壊せばいいのです
47:48 欲望を理解するには注意 真剣さが必要です これは非常に複雑な問題です なぜ人間はこの並外れた欲望のエネルギーに思考のエネルギーとして 生きて来たのでしょう 思考と欲望の関係はなんでしょうか? 欲望と意思の関係は何でしょうか? 私達は意思に非常に大きく依存し生きます 欲望の動き欲望の根源その源とは何でしょうか? 観察しますにその根源とは 欲望とは感覚感覚反応に始まります 感覚反応とはその接触や興奮 そして思考がイメージを造りますその瞬間に欲望が始まります 非常に注意深くみてください 窓に何かが見えます ドレス シャツ 車スカーフ 何であっても 見て感じてそしてそれに触れます そして思考が言います 'そのドレスやシャツを着たらどんなに似合うだろう' 思考がイメージをつくりますすると欲望が始まります そうですよね?お解りでしょうか? ご自身でみてくださいとても単純です 何か素敵な物を目にすると 神経反応を通して感覚がつくり出されます 視覚反応そして思考が 'ドレスやシャツやコートを着たらどんなに素敵だろうか' それが何であれそこで要望が始まります ですから欲望と思考の関係性は非常に密接しています 思考がなければ感覚だけが存在するでしょう 全ての問題が欲望によるものではありません 皆さん互いに合致していると願います
51:15 よって欲望とは意思の真髄です 思考が感覚を支配し衝動を生み 所有の欲望を生みます 私の独り言でしょうかご理解していますか? 恐らくこれは皆さんに新しい事かもしれませんが この事を共に考えるべきです 個々人として独自の結論を持つのではなく これを共に精査し非常に明確にするのです
52:16 よって人間関係においては思考が作用します それは記憶がお互いについてのイメージを造り 思考によりつくり出されたイメージに愛はありません または欲望が存在すれば性的や別の形の欲望 それが愛を阻みますなぜなら欲望とは思考の一部ですから
53:03 そして共に精査するにあたり 恐怖の本質も考慮すべきです 私達はみなこの不快な恐怖心に捕われています それを解決できないようです 私達は恐怖心と生きますそれに慣れるなり逃避するなり 娯楽を通し崇拝を通し あらゆる娯楽や宗教などを通してです ですから恐怖の構造についても共に精査すべきです 恐怖とは私達みなに共通します この整った清潔な国に住もうと 不潔で汚く過度な人口のインドに住もうとです 同じ問題を抱えます恐怖心 何千年も何千年もそれと共に人間は生きてきました そしてそれを解決してきていません 可能でしょうか -最も真剣に問います- 完全に恐れ無く生きる事は可能でしょうか 物理的な恐怖心のみならず もっと非常に微妙な内面的な恐怖もです 意識的な恐怖心と深く未開拓の恐怖心 私達の意識に深く根付いる恐怖心の 存在はこれまで一度も精査されてきていません
55:34 精査とは分析を意味しません何か問題が在れば 分析者に頼るのは流行だと存じています ここにはいないと願います! 分析者も私やあなた同様で彼らはあるテクニックを持つだけです しかし私達は観察と分析とは何かを精査すべきです 分析はそこに分析者がいると示唆します 分析者は分析する事象と異なるでしょうか? または分析者が分析されますか? この質問を理解しますか? 分析者が分析されますそれは明白の理です 私は自分を分析します'私は分析すべき'と言う 自分の中の分析者は誰でしょう 分析者が未だ自身を分析者と分析される側に分けます そして分析される事を精査します - ですよね? ですから分析者が精査し分析しています 両方とも同じです思考によるトリックです ですから私達が観察する際そこに分析は存在しません 単にそのものを観察するだけです 何かを実際に観察するにはその何かを分析するのではありません 分析のプロセスにおいて自分自身を欺く事ができます 仮にそのゲームがお好きなら 永遠に死ぬまで分析し続ける事はできます そして自身の中に抜本的な変化をもたらす事はありません 一方 観察 見る事現在の世界をありのままに見る事 オランダ人イギリス人フランス人などとしてではなく 何が起きているのかを実際に見る事です それが観察ですありのままの純粋な観察です
58:34 ですから恐れとは何かを精査または観察すべきです 恐怖心の原因が何かではなくです-それについては間もなく見ていきます - 何が恐れの原因かではありませんそれは分析を示唆します その深くその後ろ恐怖心の根源です -それについてはすぐに判ります - 観察の美学を学びます観察した事の解釈ではありません 観察する事の説明でもありませんただ観察するのです 美しい花を観察するようにです 個々に引き裂いた瞬間に花ではありません それは分析です しかし花の美を観察するには 雲がかった光夕方の光 森の中の一本の木ただ観察します それと同様に恐怖心を観察します 何が恐怖心の根源なのか?恐れの様々な側面ではなくです 先に進めていいでしょうか? つまり仮に私が恐れるとします 仮にです - 恐れていません- 私が恐れています この点を私は明確にすべきです 話し手が言う事です生きています でなければ壇上に立ち話す事はしないでしょう この60年そうしてきました話し手は自身を欺きません しかし話し手は非常に深く追求してきました 話し手が言う事は彼にとってそれが事実です 単なる錯覚や逃避ではありません
1:00:47 完全に恐怖心から自由である事は 可能かと問うています 心理的に内向的にです何が恐怖心の根源ですか? 恐怖の意味はなんですか? 痛みを受けた何かの恐怖 何かが起るかもしれない恐怖 それは過去でありまた起るかもしれない事 -ですよね? 今何が起るでしょうか今そこに恐れは無いですから しかしご自身で解る通り恐怖とは時間の経過ですよね? 先週に起った事の恐怖 心理的または身体的な痛みをもたらした事件 そしてまたそれが明日起るかもしれない恐怖 職を失う望む事を達成しない 啓発されないなどとあらゆる事です よって恐怖心とは時間の中の動作ですね? 過去から現在を通しての動き それ自体を未来に編集します 即ち恐怖心の源とは思考です そして思考は時間です 思考とは経験を通した知識の蓄積です 記憶や記憶の反応思考や行動です ですから思考と時間は一つで思考と時間が恐怖心の根源です それは極めて明らかですそうなのです
1:03:35 そこで思考や時間を止めるという問題ではりません 勿論止める事は不可能です なぜなら'思考を止めるべき'と実在が言うのです それは不条理です実在とは思考の一部ですから お解りでしょうか? ですから思考を止めるというアイディアは不可能です それは思考をコントロールしようとする管理者を示唆します 管理者は思考によりうまれます ただ単にお聞きくださいただ観察してください 観察とはそれ自体が活動です 恐怖に何かすべきと言う事ではありません ご理解されていますでしょうか?
1:04:35 いいですか仮に何かを私が恐れるとします 暗闇や妻に去られるまたは孤独だなどと 私は深く恐れます あなたが来てこう言い説明します 恐怖心の動きとは 恐れの根源は時間です 痛みがあったまた何か事故に遭ったと 事故が恐怖をうみ脳内に記録し その記憶がまた過去の事故が起きるかもしれないと 従って恐怖心が存在します あなたはそう私に説明しました 私は注意深くその説明を聞きます その理論を健全さを理解します 拒否をせず 耳を傾けます すると傾聴が芸術になると意味します あなたの言う事を拒否せず受け入れずしかし観察します すると時間と思考について私は観察しそれは実際です '時間と思考を止めるべき'といいません しかし私に説明しました止めるのではなく 単に恐怖心がどう起るかを観察しますそれは思考と時間による動作です ただこの動作を観察しそれから動かないでください 逃避せずその中に生きそれを見てください エネルギーを注ぎ注視してください すると恐怖心が解消し始めるのがわかるでしょう それについて何もしないで 単に観察しそこに注意を向けたのですから その注意が恐怖へ差す光のようです 注意とはその観察に全エネルギーを注ぐと言う意味です これは多少明確ですか? 皆さん残念な事に講談は二回のみです もっと話ができれば良いのですが 質問を問いだしたら何か違うものになるでしょう ですが先を進めたいと思いますが よろしいですか?
1:07:50 分析の無い観察とは あなたの全ての注意をその問題に向ける事です 人間関係の問題恐怖心の問題 そして享楽の問題も見て行くべきです 今何時ですか? 何ですか? 12時15分です 一時間ほど話しましたね 残り30分を続けますか? 耐えられそうですか? 私ではなく皆さん次第です
1:08:57 あとすみませんが写真はお控えください お願いしますこれは真剣なのです 一日試して止めるといった類いの事ではありません 私達の生命全存在の懸念です 皆さんが真剣であればこれに全注力を注ぐべきです
1:09:42 なぜ人間は享楽を求めてきたのでしょうか? ご自身に問うてみてください 喜びとは痛みの反対ですか? 少し進めましょう 違いはあれどみな苦痛があります 身体的にも心理的にもです 心理的に多くの人が幼少期から痛み傷ついてきました それは苦痛です 苦痛の結果が更に傷つかないようにと 背を向け個人を孤立させてきました 幼少期から心に傷を負います学校では 自分より優秀な人と比べます 自分自身を傷つけ他人も私達を傷つけてきました 叱られたり小言やひどい事を言われたり 残忍な事を言ったり恐怖をおぼえます これらの結果で深い傷を負い それが孤立や反発となりもっと更に背を向けます そしてその反対が享楽だと考えます 苦痛とそれに対極するのが享楽です そうでしょうか?
1:11:37 ですから入念に精査すべきです気力があれば 時間があればご希望であればです 良い事とは良くない事の対極でしょうか? もし仮に良い事が対極であれば その良い事はそれ独自の反対を含みますね? 従って良くない事です 良い事はその良くない事とは完全に別です 享楽とは -どうかただお聞きください これについて非常に敬意を持ち聞いています 享楽とは苦痛の対極でしょうか? または対比でしょうか私達は常に対照や対極 を追求します ですから享楽とは完全に別でしょうか 善良のように - それは楽しくない?お解りでしょうか? または享楽とは脳による汚染でしょうか? 享楽を注意深く見るとそれは常に記憶ではありませんか? 自分が幸せな時はそういいません 'なんと幸せなのか'とは喜びを与えた その記憶享楽の記憶の 常にあとにきます 夕日のように美しい夕方を見る際 非常に美しい光 そこに非常な享楽大きな喜びがあります そしてそれは記憶され享楽がまれます ですから享楽も思考の一部です非常に明らかです
1:14:24 次の問題は - あらゆる人類の問題同様とても複雑です - 全ての悲哀を終える事は可能でしょうか? 悲哀が存在する所に愛はありません 悲哀がある所には明らかに知性も存在しえません 非常に複雑な知性についてお話しします 知性
1:15:10 人間関係恐怖心 享楽 悲哀の理解には 自身の住処に秩序が必要です 秩序なくして瞑想はできません その単語をおわかりですか? 残念な事にこの単語瞑想は東洋から 西洋に持ち込まれました では話し手は瞑想を講義の最後に置きます なぜならご自身の心理的住処に秩序がなければ 正当な瞑想とは存在し得ないからです 心理的住処が無秩序であればそれがあなた自身です 秩序がない瞑想をする意味はありますか? それは単なる逃避ですあらゆる錯覚に導きます あぐらで安座したり 逆立ちをしたりと残りの人生そうできるでしょうが それは瞑想ではありません 瞑想とは自分自身に完全な秩序をもち始めるべきです つまり人間関係の秩序欲望の秩序 享楽などとです
1:17:11 更に私達の秩序を阻む原因の一つは悲哀です これは共通の要因で全ての人類共通の現実です 皆この悲哀の悲劇を通ります ここやアジアでも西洋でもです 再度ですがこれは人類共通です 所謂個人の悲哀だけではありません 人類の悲哀も存在します 戦争がもたらした悲哀 五千年もの歴史の記録の中 毎年戦争があり互いを殺し合い 暴力 テロ 残忍行為 重傷を負い 手や目を失う人々 これら全ての恐怖戦争の残忍行為 数えきれない悲劇を人類にもたらしました それは個人の悲哀ではなく人類の悲哀です 何も全く持たない布切れ一つ そういう人を目にした時 その人は残りの人生をそのように送ります 西洋ではそうではなくともアジアの国々はそうです その人をみてそこに悲哀が存在します 錯覚に捕われた時の悲哀もあります ある教祖や他の教祖などへとそれは自身から逃避しています それは悲哀ですこれを観察するにあたり 利口な人達は東洋へ向かいます それについて本を書きどこかの教祖を称賛し 皆そのナンセンスに陥ります それもまた悲哀です 世界で政治家が 行っている事を見ると生じる悲哀 部族生活主義の考えそれもまた悲哀です
1:20:23 よって個々人の悲哀と大変大きな人類の悲哀の雲があります 悲哀とは空想的でも感傷的でも 非合理でもなくそこに存在します 息子が亡くなり人生が打ちのめされたと そして私達はこの悲哀と計り知れない間生きてきました 明らかにこの問題を解決してきていません 人は苦しむと慰めを求めます それはその悲哀の事実からの逃避です その悲しみが存在する際あらゆる娯楽を試します 逃避ですしかし悲しみは常にそこにあります そして人類は明らかにそれを解決してきていません そして問います そこから完全に自由になる事は可能なのか? 避けるのではなく慰めを求めるでもなく 何か非現実的な理論に逃避するのでなくともに生きるのです 'ともに生きる'の意味について理解しましょう 習慣にするのではありません多くの人がそうするように; 彼らは国家と共に生きそれは非常に破壊的です 分離した自分達の宗教的結論の中に生きます 自分たちの非現実的思想や理想の中に生きます そしてそれはまた自身の対立をもたらします よって何かと生きる悲哀と生きる 受入れるのではなくそれに慣れるのではなく つまり注視するのです逃避なく観察するのです 何の質問もせずその先を超えようとするのではなくです 手の中に持ち単に見るのです それは悲哀はまた非常に大きな孤独感の一部です 友達がいるかもしれません結婚しているかもしれません あらゆる物を所有しているかもしれません しかし内面的にこの完全な孤独感が存在します そしてそれは悲哀の一部です その孤独感を方向性なく観察するには その先を行こうとせず その代替を探そうとするのではなく それと共に生きます崇拝でなく心理的に病むのではありません つまりあなたの全ての注意をその苦痛に向けるのです その悲しみ その悲哀にです 息子が亡くなる愛すると思う人が亡くなると そこには大きな嘆きがあり逃避するのではなくです 苦痛を理解するのは非常に良い事です すると悲哀からの自由が存在しそこに慈悲の心が存在します どんな信念でもあなた独特の宗教的象徴に 固定される限りあなたは慈悲的ではありません 慈悲の心は悲哀から自由です そこに慈悲があれば愛があります その慈悲の心で知性があります 狡賢い思考の知性ではなく その修正でなく 何でも我慢する能力でもなくです 慈悲の心は悲しみの終結を意味します そこで初めて知性が存在します
1:26:51 よろしければ明日は死について 死後に何が起るかについて続けたいと思います 死の重要性とは何か そして瞑想とは何かを話します 明日までに耐えられたらですが
1:27:27 最も敬意を持つお願いですどうか拍手をしないで下さい 皆さんの拍手が私への激励ではありません 皆さん自身を理解した上でご自身への拍手です
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