Krishnamurti Subtitles
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AM81T2 - 信仰心とは非常に事実に基づく心である
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| 0:47 これが最後の 講話です 清々しい日に公園で 二人の友人が座り 人生について語るように 互いの問題について語るように 真剣に彼らの存在について 精査し 自身について真剣に問います なぜ人生がこう大きな 問題となって来たのかと なぜ知的に非常に 洗練されているのに 私達の日々の生活は意味もなく 苦しめるのか 生き残りを除き それはまた寧ろ疑問です なぜ人生は日々の存在が こうも酷い拷問になってきたのでしょう ある人は教会に行くでしょう ある政治的または 宗教的な指導者に従い しかし日常は常に 混乱の中です 時には喜び幸せな時も あるでしょうが しかし常に私達の人生に 暗く雲がかってます 3:08 そして二人の友人は 共に話します 皆さんと 話し手です 友好的に 話をしています 恐らく愛情 配慮 心配の心で 人生を 私達の日々を 全くの問題もなく 過ごす事が 可能であろうと無かろうとです 高い教育を受けて ある職を持ち洗練されていても しかし未だ未解決の 課題があります 苦痛 苦悩 喜び 時に完全に自分勝手ではない 大きな感情と 今朝 可能なら共に この議題に向かいます: なぜ人間はこう生きているのか 九時から六時まで オフィスに向かい この先50年 または常に忙しく 自分の問題だけではなく 脳もまた心もまた 常に塞がり 静けさは無く 平和は無い 常に何かに 塞がっています 5:31 それが私達の人生です それが私達の単調な寧ろ孤独で 不十分な人生の日々です そしてそこから逃避しようとします 宗教を通し あらゆる娯楽を 通してです |
| 5:55 一日の終わりに未だ 過去数千年も 数千年もの間 同じ位置にいます 心理的に内向的には我々は 殆ど変化していないようです 更に私達の問題は増えます 常に 老齢の恐怖心や 病気や事故が 私達の心を乱します これが私達の存在です 幼少期から死ぬまで 自発的にまたは不本意に 死を迎えます その問題についても 解決できていないようです 生死についての 問題です 7:13 特に年を取るにつれ 様々な過去を 思い出します: 喜ばしい時 苦しい時 悲哀の時 涙した時 しかし常にこの未知の 死と言うものが存在します 殆どの人が 恐れています 二人の友人が公園の ベンチに腰掛け この電気の明るい 寧ろ不快な 会場ではなく 公園で陽の射す ベンチに腰掛け- まだらな光 木の葉の木漏れ日- 運河のあひるや 地球の美 互いに話しています 8:30 それを私達は 行います 長い人生を生きた 二人の友として 多くの問題を抱える 長く真面目な人生 性の問題 孤独感 絶望 鬱 不安 疑念 無意味な感情 全てです そして常にこの 全ての終わりが死です |
| 9:29 死について語る際 知的に取り組むと それは不可避の事だと 理論化します ある種の信念を通し 恐れるな避けるなと アジアでは生まれ変わりを信じます 死後の世界です または非常に知的であれば これが全ての終わりであると 私達の存在の終結です 経験 記憶 優しく愉快で豊富な事などと そしてまた大きな痛みと 苦痛を伴います 何を意味するのでしょうか? この人生を 注意深く精査すると 寧ろ無意味でしょうか? 人は知的に口語的に 人生の意味を構築できます しかし私達の生き方は 実に殆ど意味がありません |
| 11:12 そこで生死という ものが在ります それが私達が知る全てです それ以外は全て 理論 憶測となります または安定や希望を見出す 信念の追求です しかしそういう信念もまた 非常に浅はかです 寧ろ無意味です あらゆる信念がそうです または思考によって 投影された理想を持ちます そしてその理想を達成しようと もがきます これが私達の人生です 若かく活気にあふれ 楽しかろうと 自分には何でもできると 感じていようと しかしそれでも若年 中年 老年と この疑問があります - 死 死ぬ事です 12:53 今朝はこれを共に 話したいと思いますが? どうかお願いします 昨日も話した通り 共に 考えるのです 指摘申し上げますと 皆さんは単に言葉の連続や ある思想を 聞いているのではありません 寧ろ共に 一緒にです この生死における問題の 全体を精査します ご自身の 心の全てを注ぎます または部分的に 表面的に精査すると 意味は殆ど ありません |
| 14:10 初めに我々の脳は十分に 完全には活動しません その事を理解すべきです 非常に小さな領域のみを使います その部分が 思考の構造です その部分自体が一部であり 即ち不完全です 思考が不完全のようにです よって脳は非常に狭い 領域内で機能します 私達の感覚に依存します 我々の感覚は また部分的であり 全ての感覚が完全に 覚醒する事はありません 試した事が あるでしょうか 全ての感覚をもって 何かを見ると言う事: 海を見る 鳥達や 芝生に注ぐ月の夜光 15:47 部分的にでも または 覚醒した全感覚をもって 見た事がありますか この二つは完全に 異なる状態です 何かを 部分的に見る際 あなたは更に分離的で 利己的な態度と生き方 を確立しています しかしあなたの 全ての感覚をもって 月明かりが織りなす 水上の銀色の筋を見る際 つまり意識を持ち 心と共に 神経をもってあなたの 全ての注意をその観察に注ぐのです すると観察ことから 中心が無い事が ご自身で解るのです |
| 16:52 では生きるとは 実在とは何かを そして死は何を意味するか 観察できますか? 共にです 私達の人生 日々の生活は 記憶のプロセスです 私達の脳と心は 全て記憶です ですよね? どうですか? お互いに理解し合えているか これは寧ろ 難しい事です 英語をどれ程 ご存知かわかりませんが そしてこれは 侮辱ではありません 英語を完全に 理解しているでしょうか 話し手が言っている事をです または部分的に聞き 部分的に英語を理解しているのか 注意が散漫に なっているのか 放心しているようですが - ここから見ると 話し手が使っている 言語は 非常に一般的で 非専門的です シンプルな英語です ですから互いを 理解すると願います |
| 19:11 私達は - 私達 利己 個性 - この全構造は全部 記憶としてまとまります 私達は記憶です - そうですよね? これは精査の議題ですから どうか受入れないでください 観察し聴いてください 話し手は言うのは ご自身 利己 自己とは 全て記憶です はっきりとした 場所やスペースがありません または汚れの無い何かが 自分の中にあると 信じ希望や信仰を 持つ事はできます それは神でその火花 であり永遠であると それを全て信じる事はできます 20:32 しかしその信念 全ての信念は錯覚にすぎません しかし事実は 私達の存在全て 私達は全て記憶 回想なのです 記憶ではない内向的な場所や スペースは存在しません お時間があれば 精査できます 恐らく今朝ではなく 先の話を進めないとなりませんから ご自身を真剣に 問えば '自己' 利己は記憶であり回想だと 解るでしょう それが私達の人生であり 私達は機能し記憶から生きます 我々にとって死は 記憶の終わりを意味します ですよね? |
| 21:56 私の独り言でしょうか または皆さんご一緒ですか? 話し手は普段は このギラギラの照明の下ではなく 木陰や大きなテントのもとで 話すのに慣れています すると非常に密なコミュニケーションを 互いに図る事ができます 実に あなたと私だけが 話しています 大きなこの会場の 聴衆の皆さんではなく あなたと私が 川のほとりに座り またはベンチに腰掛け この事を話しているのです そしてあなたにこう言います: 我々は記憶以外のものではないと その記憶に 付属しているのだと - 私の家 私の所有地 私の経験 私の人間関係 私の行くオフィスや 工場 ある期間に 体得したいスキル 私とはそれ全てです 23:51 それに思考が付属しています それを生きると言います そしてこの付属 それに付随する全ての問題 それに付着している故 そこに失う恐怖があります 私達は孤独ですから 所属します 窒息し孤立し憂うつな 深く続く孤独 何かに付属すれば するほど 再度ですがそれは記憶です - 他方が記憶です: 私の妻 私の夫 私の子供 は物理的に私とは違います 心理的な私の妻の記憶です 私がそれに付属しています 名前や型 私の存在とは自分の 人生全てを通し集めた 記憶の付属です 25:32 付属が在り 識別し観察し 腐敗が存在します 私がある信念に付属すると その信念への付属が ある種の安全をもたらすと望みます 心理的にも 物理的にもそうです その付属が更なる精査を 阻むだけではありません 何かに非常に 付属していても 凝視する事を 恐れます - ある人物や思想や 経験などにです ですからその付属がある所に 腐敗が存在します そして人生全ては既知の 領域の中での動作です これは明確です 26:55 死とは既知の 終結です そうですよね? 物理的な 有機体の終わり 自分の全ての記憶 の終わりです 私とは記憶 既知の記憶 以外の何でもありません それを全て手放すのが怖いのです それが死を意味します 少なくとも口頭では それは非常に明確だと思います つまり知的にそれを 受入れる事はできます |
| 27:47 理論的に正論として それが事実です そこで質問は: それにも関わらず なぜ人間は全世界を通して -アジアの国々のある人々は - 彼らの次の人生の 再生を 信じるのでしょう: 次の人生が更に威厳あり もっと繁栄し もっと良い家や地位を得ると ですから輪廻を 信じる人達 それは精神 エゴ '自己' - それは記憶の束であり- 次の人生にうまれると 今の品行方正であるから 次の人生はさらに良いと 自分自身を正当に指揮し 暴力なく生きる 欲を捨てて生きるなどとです 29:10 次の人生は良い人生を 良い地位をと しかし次の人生とは 生まれ変わりとの信念とは 単なる信念です ですからこの強い信念を 持つ人は 正しい人生を 現在送りません そうですよね? お解りでしょうか? 次の人生は素晴らしいだろうと言う 単なるアイディアです 来世の美しさは 現人生の美しさと 合致すべきです しかし現人生が非常に苦痛で 辛くとても複雑で 信念と苦闘 偽りと偽善 あらゆる俗悪 などを忘れます |
| 30:18 来世の何かを信じる それは死の一面であります しかしそういった理論を 受入れない人は 輪廻の証拠を 集めようとしますが 寧ろそれは馬鹿げています - お解りですか? - なぜなら何が 生まれ変わるのですか? 継続するのは 何ですか? 私の質問が解りますか? 共に話しているでしょうか? 我々の日々の人生で 継続するものは何ですか? 昨日の経験の 記憶ですか 喜び 恐れ 不安 その継続は人生の中で 常に存在します それを壊しその流れから 立ち去らない限り |
| 31:34 ですよね? そこで質問は: 人生において 全ての混乱 そのエネルギー 能力を 例えばその付属を 終結する事は可能ですか? なぜなら死を迎えたら それが起きる事です あなたの妻に夫に 付属されても あなたの所有物 -財産への執着は 危険です - 何かの信念や神の信念 に付属します その信念は単なる投影 または思考の発明にすぎません しかし私達はそれに付属します それがある安心感をもたらしますから 32:42 しかしながら私達は その錯覚に付属しています 死はその付着の終結を 意味します そこで生きている間に それを簡単に自発的に終えられますか 何の努力もなく その付属という型をです それは既知に死すことを 意味します わかりますか? 可能でしょうか? つまりそれは 生死の共存ですから 100年50年と 分離されるのではなく 何か病気で逝くのを 待つのではなく 全ての活力を エネルギーをもって 素晴らしい感情の 知的な能力を持ち 特定の結論を終結し 34:10 固有の独自性や経験 執着 痛みを終え生きるのです つまり生きながら同時に 死と生きるのです おわかりですか? 理解されていますか? 死は遠いものでは ありません 誰かの人生の 終わりではありません 事故や病気 老齢と しかし寧ろこれら 全ての記憶に生き それを終えるのが 死です |
| 35:13 死は生との分離 ではありません 昨日話しました通り 共に考慮すべきです その川沿いの ベンチに座り 清らかな水が流れ 汚れた汚染された水ではなく 水の全ての 流れを 共に川下を 求め見て 二人の友人として ここに座り 共に宗教とは何かを 語ります なぜ宗教が 大昔から今日にかけて 我々の人生に非常に大きな 役割を持って来たのか? 信仰心とは どういうものでしょうか? '宗教'という言葉は実に何を 意味するのでしょうか? 歴史的に - それについて沢山 読んだわけではありませんが どのように文明が 消滅し別の宗教で 37:00 生まれ変わるかを 考察しました 宗教は新しい文明や 文化をもたらしてきました 技術的な コンピューターの世界ではなく 潜水艦や 軍事機器ではなく ビジネスマンや 経済学者ではなく しかし世界中の 宗教家達は 非常に大きな変化を もたらしました 宗教とは何を意味するのか 共に問うべきです その意義は何でしょうか それは単に迷信 不合理で意味の無い事でしょうか? またはもっと偉大な 何かがあるのか 38:12 より更なる 永遠に美しい何かが そしてそれを見つけるには - 私達は二人の 友として 話しています - 宗教として思考が 発明した全ての事柄から 自由である事は 不要なのでしょうか? 私の質問はわかりますか? 宗教の重要性が何かを 知りたいのです その奥行きは何ですか? その終わりは何ですか? 人類は常に身体的存在の 超える何かを 探してきましたから 人間は常に注視し探求し 懐疑し苦しみ 時間や思考ではなく 信仰でも信念でもない 39:46 何かの存在を確かめようと 自身を苦しめてきました それを見つけるには 完全に自由で在るべきです そうでなければある種の信念という 型に位置づけられ その信念自体が何が永遠かという その調査を妨げます その永遠というものが 存在すれば それは時間を超え あらゆる測定の概念を超えます ですから自由なければなりません 宗教とは何かという問いに 真剣であれば 思考が生み出しつくり出した 全ての事柄から自由であるべきで つまりそれが宗教と 考慮されます つまりヒンドゥー教が 造られた全ての事柄 その迷信と信念と イメージと共に そしてウパニシャッドとしての 古代文献などと 41:20 それら全てから完全に 自由であるべきです それらに付属すれば 原型を見つけるにあたり 当然ながら 不可能です |
| 41:36 問題を理解していますか? つまり私の心と脳が ヒンドゥーの迷信 信念 教義 偶像崇拝 それら古くからの全ての 伝統に条件づいていたら 私の心はすると それに方向づけられます 従って動く事はできません 自由ではありません よってその事柄全てから 自由であるべきです: ヒンドゥー教徒である事から そうですよね? 同様にあなたは思考の考案から 完全に自由であるべきです キリスト教の 儀式 定説 42:47 信念 象徴 救世主などからです 痛い所をついて 寧ろ難しいかもしれませんね もしくはセイロン島や チベットを例えると 北側 仏教 それら全ての偶像崇拝は キリスト教の偶像崇拝同様に この問題があります 思考が発明した 安全とした概念に付属されています ですから全ての宗教 キリスト教だろうとイスラム教 ヒンドゥー教または仏教であろうと それらは時間の中で継続する 思考の動きです 文献を通して 象徴を通して 手や心で造られた 事柄を通してです 44:06 現代の世界で宗教と みなされるもの全てです 話し手にとってそれは 宗教ではありません 話し手にとって それは錯覚の型です 慰めとな満足感があり空想的で 感傷的ですが実際ではありません 宗教は私達の人生 生き方に影響すべきです つまり命の 大切さです すると人生に秩序がり 初めて |
| 44:56 これについては 昨日お話しました- 秩序とは無秩序と 完全に切り離された事です 私達は無秩序に生きています つまり対立や矛盾 ある事を言いつつ他の事をする ある考えを持ち別の行動をするなど それは矛盾です 矛盾が存在する所には それは分離であり 無秩序が存在します そして信仰心に 無秩序は全くありません それが宗教的人生の 基盤です |
| 45:53 愚かな教祖達に起きている 全てのナンセンスではありません それは非常に 異常な事です 多くの教祖達は私に 会いに来ました 彼らは私が教祖達を 攻撃していると考えるからです おわかりですか? 攻撃しないようにと 説得したいのです 彼らが言うには あなたの生き方は 絶対的事実ではあるが 私達にとってでは無いと あなたの様に進歩していない 人々を助けるべきだからと 彼らのゲームが見えますよね おわかりですか? ですから 西洋ではなぜ または西洋の人々の中で インドに行き 教祖に追随し信者となり -それが何を意味するにしろ- 異なる着衣を着て 彼らは非常に宗教的だと考えます しかしその着衣を剥ぎ取ると |
| 47:24 彼らを止め人生を問うと 彼らも私達とただ同じなのです 何処かに行き啓発を見出すという アイディアは 何かサンスクリット語の 名前に変えたりと とても異様で馬鹿げており 現実性のない空想のようですが 非常に多くの人がそうしています 特に意味を持たない娯楽の 一種でしょうか 話し手は攻撃していません どうか理解しましょう: 何も攻撃していません ただ観察しているだけです 人間心理の不条理を 観察しているのです |
| 48:27 私達はいかに簡単に捕われ とてもだまされ易いか ですから信仰心とは 事実の心で事実を扱います つまり事実 何が実際に起きているのかです 世界の外で 世界の中で 世界の外とは 世界の中の表現です そこに分離はありません 外と中の間 - これをお話しするには時間が要ります ですから宗教的人生とは 人生の秩序 勤勉さ 自分の中に実際起きている事に 何の錯覚なく対応する事です そうする事で自身を秩序に導き 高潔な人生を送る事ができます それが揺るぎなく 確立されたら |
| 49:48 それから瞑想について 問い始める事ができます 瞑想 これは20年前または 30年前でしょうか 西洋の世界には 無かった言葉でしょう 東洋の教祖達が 持ち込みました チベットの 瞑想があり 禅 ヒンドゥー瞑想 特異な教祖の その特異な瞑想 ヨガの瞑想 胡座をかき 呼吸する 全部ご存知ですよね それら全て瞑想と呼ばれます これらを行う人を 軽蔑していません 単に瞑想がなんと馬鹿げた事に なって来たかを指摘するだけです キリスト教の中では 観想を信じます 51:25 自己を神の意志に捧げ 神の恩寵をなどとです アジアの世界にも 同じ事があります サンスクリットで 言語が異なるだけです しかし同じ事です 人間はある種の 永遠の安定 幸福 平和を求め 地球上ではない 何処かにあるだろうと 希望を持ち 不滅の何かを探そうと 必死です 計り知れない時からずっと 人類の探求でした 古代エジプト 古代インド |
| 52:37 仏教など あるキリスト教でも それに追随しました ですから共に問うには 瞑想とは何かを深く 掘り下げるには 神聖なる聖なると呼ばれる何かが 在るかどうか- 思考が生み出した聖なるもの ではなく 思考がつくり出した神聖とは 聖なるものではありません なぜならそれは 知識に基づくからです 知識は未完全であり 思考が生み出す何れも 神聖な事ができましょうか? |
| 53:37 しかし私達は世界中で思考が 考案した思想を信仰します ですからある人は部分的にまた ある人は完全に全体的に 彼らの人生また 行動において そこに矛盾など 存在せず 秩序を確立し そして全ての瞑想という名のもの その制度や慣行は 完全に拒絶されます 練習する際あなたは 何度も繰り返しています ピアニストが練習するように 間違った音を弾いているかもしれません ですからパターンに同化するのは 簡単なのです 誰かの言う事に 従う事で 超越状態などと言われる事に 達する手助けになると ですから慣行し 制度を受入れます |
| 55:03 なぜなら'ありのまま'以外の 何かを得たいからです ここで全く逆を 言います そこに制度や 慣行は存在せず 自由な心の 明瞭な知覚が存在します それは位置づけや選択なく ただし観察は自由です 殆どの瞑想は思考をコントロールする この問題があります 瞑想を実践する人が 実践している事と異なります ご理解頂けてるでしょうか もしご興味がおありなら 殆どの瞑想とは 禅やヒンドゥー 仏教 キリスト教 または他の最新の教祖であろうと 思考をコントロールします コントロールを通し集中化させ ある特定のポイントに 全てのエネルギーを集めるのです それは集中です 56:48 つまりコントロールする側があり コントロールされる側と異なります ご理解されていますか? それはコントロールする側は 過去にあり それは尚も思考であり 記憶であり よって彼がコントロールしている事は まだ思考です その思考はさまよい出て そこに葛藤がうまれます 静かに安座し思考が逸れて 集中したいと思うのです 窓の外を眺める生徒の様にです そして先生がいいます '窓の外を見ないで 本に集中しなさい' 私達は同じ事をします ですから管理する側が 管理される側である事実を学ぶべきです 明確ですか? |
| 57:52 全て段階を追って ご説明しますか? では - 説明致しましょう コントロールする側 考える人 経験する人 コントロールされる側と 異なると考えます 思考の動きから 経験する人から 経験へと この二つは異なる動きだと 考えます しかしよく注視すると 考える人がその思考です 思考が考える人を 思考とは別につくり出し そして言います 'コントロールすべきだ' ご理解されていますか? 非常に理論的でとても真っ当です するとコントロールする側が コントロールされ すると対立を 完全に取り除きます 59:05 分離がある時にのみ 葛藤が存在します あなたとドイツ人との間 イスラエル人とアラブ人との間 国家主義や 経済的分断 または社会的分断 そこに衝突が存在するに違いません よって内向的に観察する人との 間に分離が存在すれば それを目撃する人 それを経験する人は 経験した事と異なり そこに対立がうまれます 私達の人生はこの分離と 生きる故対立します しかしこの分離とは 誤りで実際ではありません 我々の習慣となってきました コントロールする我々の文化です 管理者が制御される事を 決して理解しません |
| 1:00:02 ですよね? 分りますか? その事に言葉だけでなく 理想上でなく 苦難を強いる理想郷 としてではなく それを実際に自分の人生の中で 観察するのです 制御する側が 制御され 考える人がその思考である事です すると私達の思考のパターンは 根本的な変化を遂げます なぜなら対立が存在しないからです 瞑想をするならば それが絶対に必要です 瞑想には高い慈悲の心を 必要とします 従って 非常に知的で 愛から生まれる 知性です |
| 1:01:19 狡猾な思考ではありません つまり瞑想とは日々の人生の 秩序の確立を意味します そこには矛盾は ありません するとあらゆる制度や瞑想 それらを完全に拒絶します 心は位置づけされず 完全に自由であるべきだからです 加えてそれは完全に静かな 心も意味します 可能でしょうか? 私達は常に際限無く おしゃべりをします 皆さんこの会場を出た瞬間から おしゃべりを始めるでしょう 私達の心はとめどなく 塞がっています おしゃべり考えたりもがいたり そこに空間はありません 静けさを得るに 空間が必要です 鍛錬し 奮闘する心が 静けさを求めても 沈黙はありません しかし静けさが 絶対に必要であれば 思考によって投影される 静けさではなく 二つの音や雑音の間の 沈黙ではなく 1:03:19 二つの戦争の間の沈黙ではなく 秩序の沈黙です そこにその絶対的静けさが 存在する際に- 培われた静けさではなく それは殆どの瞑想が 試みる事です: 養成された静けさ つまり培われた思考は 決して静かではりません その不合理が お解りでしょうか その静けさが存在すれば 自身は発見する事が -すみません 発見ではなく- その静けさの中 岐路の無い真実が存在します 真実はすると 永久で神聖で腐敗する事はありません |
| 1:05:09 それが瞑想です それが敬虔な心です |