Krishnamurti Subtitles home


AM81T2 - 信仰心とは非常に事実に基づく心である
第二回
オランダ アムステルダム
1981年9月20日



0:47 これが最後の講話です 清々しい日に公園で二人の友人が座り 人生について語るように 互いの問題について語るように 真剣に彼らの存在について精査し 自身について真剣に問います なぜ人生がこう大きな問題となって来たのかと なぜ知的に非常に洗練されているのに 私達の日々の生活は意味もなく苦しめるのか 生き残りを除きそれはまた寧ろ疑問です なぜ人生は日々の存在がこうも酷い拷問になってきたのでしょう ある人は教会に行くでしょう ある政治的または宗教的な指導者に従い しかし日常は常に混乱の中です 時には喜び幸せな時もあるでしょうが しかし常に私達の人生に暗く雲がかってます そして二人の友人は共に話します 皆さんと話し手です 友好的に話をしています 恐らく愛情配慮 心配の心で 人生を 私達の日々を全くの問題もなく 過ごす事が可能であろうと無かろうとです 高い教育を受けてある職を持ち洗練されていても しかし未だ未解決の課題があります 苦痛 苦悩 喜び 時に完全に自分勝手ではない大きな感情と 今朝可能なら共に この議題に向かいます:なぜ人間はこう生きているのか 九時から六時までオフィスに向かい この先50年 または常に忙しく自分の問題だけではなく 脳もまた心もまた常に塞がり 静けさは無く平和は無い 常に何かに塞がっています それが私達の人生です それが私達の単調な寧ろ孤独で不十分な人生の日々です そしてそこから逃避しようとします宗教を通し あらゆる娯楽を通してです
5:55 一日の終わりに未だ過去数千年も 数千年もの間同じ位置にいます 心理的に内向的には我々は殆ど変化していないようです 更に私達の問題は増えます 常に老齢の恐怖心や 病気や事故が私達の心を乱します これが私達の存在です幼少期から死ぬまで 自発的にまたは不本意に死を迎えます その問題についても解決できていないようです 生死についての問題です 特に年を取るにつれ 様々な過去を思い出します: 喜ばしい時苦しい時 悲哀の時涙した時 しかし常にこの未知の死と言うものが存在します 殆どの人が恐れています 二人の友人が公園のベンチに腰掛け この電気の明るい寧ろ不快な 会場ではなく 公園で陽の射すベンチに腰掛け- まだらな光木の葉の木漏れ日- 運河のあひるや地球の美 互いに話しています それを私達は行います 長い人生を生きた二人の友として 多くの問題を抱える長く真面目な人生 性の問題孤独感 絶望 鬱不安 疑念 無意味な感情全てです そして常にこの全ての終わりが死です
9:29 死について語る際知的に取り組むと それは不可避の事だと理論化します ある種の信念を通し恐れるな避けるなと アジアでは生まれ変わりを信じます死後の世界です または非常に知的であればこれが全ての終わりであると 私達の存在の終結です経験 記憶 優しく愉快で豊富な事などと そしてまた大きな痛みと苦痛を伴います 何を意味するのでしょうか? この人生を注意深く精査すると 寧ろ無意味でしょうか? 人は知的に口語的に人生の意味を構築できます しかし私達の生き方は実に殆ど意味がありません
11:12 そこで生死というものが在ります それが私達が知る全てです それ以外は全て理論 憶測となります または安定や希望を見出す信念の追求です しかしそういう信念もまた非常に浅はかです 寧ろ無意味ですあらゆる信念がそうです または思考によって投影された理想を持ちます そしてその理想を達成しようともがきます これが私達の人生です 若かく活気にあふれ楽しかろうと 自分には何でもできると感じていようと しかしそれでも若年中年 老年と この疑問があります- 死 死ぬ事です 今朝はこれを共に話したいと思いますが? どうかお願いします昨日も話した通り 共に考えるのです 指摘申し上げますと皆さんは単に言葉の連続や ある思想を聞いているのではありません 寧ろ共に一緒にです この生死における問題の全体を精査します ご自身の心の全てを注ぎます または部分的に表面的に精査すると 意味は殆どありません
14:10 初めに我々の脳は十分に完全には活動しません その事を理解すべきです非常に小さな領域のみを使います その部分が思考の構造です その部分自体が一部であり即ち不完全です 思考が不完全のようにです よって脳は非常に狭い領域内で機能します 私達の感覚に依存します 我々の感覚はまた部分的であり 全ての感覚が完全に覚醒する事はありません 試した事があるでしょうか 全ての感覚をもって何かを見ると言う事: 海を見る 鳥達や芝生に注ぐ月の夜光 部分的にでもまたは 覚醒した全感覚をもって見た事がありますか この二つは完全に異なる状態です 何かを部分的に見る際 あなたは更に分離的で 利己的な態度と生き方を確立しています しかしあなたの全ての感覚をもって 月明かりが織りなす水上の銀色の筋を見る際 つまり意識を持ち心と共に 神経をもってあなたの全ての注意をその観察に注ぐのです すると観察ことから 中心が無い事がご自身で解るのです
16:52 では生きるとは実在とは何かを そして死は何を意味するか観察できますか? 共にです 私達の人生 日々の生活は記憶のプロセスです 私達の脳と心は全て記憶です ですよね?どうですか? お互いに理解し合えているか これは寧ろ難しい事です 英語をどれ程ご存知かわかりませんが そしてこれは侮辱ではありません 英語を完全に理解しているでしょうか 話し手が言っている事をです または部分的に聞き部分的に英語を理解しているのか 注意が散漫になっているのか 放心しているようですが- ここから見ると 話し手が使っている言語は 非常に一般的で非専門的です シンプルな英語です ですから互いを理解すると願います
19:11 私達は- 私達 利己 個性 - この全構造は全部記憶としてまとまります 私達は記憶です- そうですよね? これは精査の議題ですからどうか受入れないでください 観察し聴いてください 話し手は言うのは ご自身 利己 自己とは全て記憶です はっきりとした場所やスペースがありません または汚れの無い何かが自分の中にあると 信じ希望や信仰を持つ事はできます それは神でその火花であり永遠であると それを全て信じる事はできます しかしその信念全ての信念は錯覚にすぎません しかし事実は私達の存在全て 私達は全て記憶回想なのです 記憶ではない内向的な場所やスペースは存在しません お時間があれば精査できます 恐らく今朝ではなく先の話を進めないとなりませんから ご自身を真剣に問えば '自己' 利己は記憶であり回想だと解るでしょう それが私達の人生であり私達は機能し記憶から生きます 我々にとって死は記憶の終わりを意味します ですよね?
21:56 私の独り言でしょうかまたは皆さんご一緒ですか? 話し手は普段はこのギラギラの照明の下ではなく 木陰や大きなテントのもとで話すのに慣れています すると非常に密なコミュニケーションを互いに図る事ができます 実に あなたと私だけが話しています 大きなこの会場の聴衆の皆さんではなく あなたと私が川のほとりに座り またはベンチに腰掛けこの事を話しているのです そしてあなたにこう言います:我々は記憶以外のものではないと その記憶に付属しているのだと - 私の家 私の所有地私の経験 私の人間関係 私の行くオフィスや工場 ある期間に体得したいスキル 私とはそれ全てです それに思考が付属していますそれを生きると言います そしてこの付属それに付随する全ての問題 それに付着している故そこに失う恐怖があります 私達は孤独ですから所属します 窒息し孤立し憂うつな深く続く孤独 何かに付属すればするほど 再度ですがそれは記憶です- 他方が記憶です: 私の妻 私の夫 私の子供は物理的に私とは違います 心理的な私の妻の記憶です私がそれに付属しています 名前や型私の存在とは自分の 人生全てを通し集めた記憶の付属です 付属が在り 識別し観察し腐敗が存在します 私がある信念に付属すると その信念への付属がある種の安全をもたらすと望みます 心理的にも物理的にもそうです その付属が更なる精査を阻むだけではありません 何かに非常に付属していても 凝視する事を恐れます - ある人物や思想や経験などにです ですからその付属がある所に腐敗が存在します そして人生全ては既知の領域の中での動作です これは明確です 死とは既知の終結です そうですよね? 物理的な有機体の終わり 自分の全ての記憶の終わりです 私とは記憶 既知の記憶以外の何でもありません それを全て手放すのが怖いのですそれが死を意味します 少なくとも口頭ではそれは非常に明確だと思います つまり知的にそれを受入れる事はできます
27:47 理論的に正論としてそれが事実です そこで質問は: それにも関わらずなぜ人間は全世界を通して -アジアの国々のある人々は - 彼らの次の人生の 再生を信じるのでしょう: 次の人生が更に威厳ありもっと繁栄し もっと良い家や地位を得ると ですから輪廻を信じる人達 それは精神 エゴ'自己' - それは記憶の束であり- 次の人生にうまれると 今の品行方正であるから次の人生はさらに良いと 自分自身を正当に指揮し暴力なく生きる 欲を捨てて生きるなどとです 次の人生は良い人生を良い地位をと しかし次の人生とは 生まれ変わりとの信念とは単なる信念です ですからこの強い信念を持つ人は 正しい人生を現在送りません そうですよね?お解りでしょうか? 次の人生は素晴らしいだろうと言う単なるアイディアです 来世の美しさは 現人生の美しさと合致すべきです しかし現人生が非常に苦痛で辛くとても複雑で 信念と苦闘偽りと偽善 あらゆる俗悪などを忘れます
30:18 来世の何かを信じるそれは死の一面であります しかしそういった理論を受入れない人は 輪廻の証拠を集めようとしますが 寧ろそれは馬鹿げています - お解りですか? - なぜなら何が生まれ変わるのですか? 継続するのは何ですか? 私の質問が解りますか?共に話しているでしょうか? 我々の日々の人生で継続するものは何ですか? 昨日の経験の記憶ですか 喜び 恐れ 不安 その継続は人生の中で常に存在します それを壊しその流れから立ち去らない限り
31:34 ですよね? そこで質問は:人生において 全ての混乱そのエネルギー 能力を 例えばその付属を終結する事は可能ですか? なぜなら死を迎えたらそれが起きる事です あなたの妻に夫に付属されても あなたの所有物 -財産への執着は危険です - 何かの信念や神の信念に付属します その信念は単なる投影または思考の発明にすぎません しかし私達はそれに付属しますそれがある安心感をもたらしますから しかしながら私達はその錯覚に付属しています 死はその付着の終結を意味します そこで生きている間にそれを簡単に自発的に終えられますか 何の努力もなくその付属という型をです それは既知に死すことを意味します わかりますか? 可能でしょうか? つまりそれは生死の共存ですから 100年50年と分離されるのではなく 何か病気で逝くのを待つのではなく 全ての活力をエネルギーをもって 素晴らしい感情の知的な能力を持ち 特定の結論を終結し 固有の独自性や経験執着 痛みを終え生きるのです つまり生きながら同時に死と生きるのです おわかりですか? 理解されていますか? 死は遠いものではありません 誰かの人生の終わりではありません 事故や病気老齢と しかし寧ろこれら全ての記憶に生き それを終えるのが死です
35:13 死は生との分離ではありません 昨日話しました通り共に考慮すべきです その川沿いのベンチに座り 清らかな水が流れ汚れた汚染された水ではなく 水の全ての流れを 共に川下を求め見て 二人の友人としてここに座り 共に宗教とは何かを語ります なぜ宗教が大昔から今日にかけて 我々の人生に非常に大きな役割を持って来たのか? 信仰心とはどういうものでしょうか? '宗教'という言葉は実に何を意味するのでしょうか? 歴史的に - それについて沢山読んだわけではありませんが どのように文明が消滅し別の宗教で 生まれ変わるかを考察しました 宗教は新しい文明や文化をもたらしてきました 技術的なコンピューターの世界ではなく 潜水艦や軍事機器ではなく ビジネスマンや経済学者ではなく しかし世界中の宗教家達は 非常に大きな変化をもたらしました 宗教とは何を意味するのか共に問うべきです その意義は何でしょうか それは単に迷信不合理で意味の無い事でしょうか? またはもっと偉大な何かがあるのか より更なる永遠に美しい何かが そしてそれを見つけるには- 私達は二人の 友として話しています - 宗教として思考が発明した全ての事柄から 自由である事は不要なのでしょうか? 私の質問はわかりますか? 宗教の重要性が何かを知りたいのです その奥行きは何ですか?その終わりは何ですか? 人類は常に身体的存在の超える何かを 探してきましたから 人間は常に注視し探求し懐疑し苦しみ 時間や思考ではなく信仰でも信念でもない 何かの存在を確かめようと自身を苦しめてきました それを見つけるには完全に自由で在るべきです そうでなければある種の信念という型に位置づけられ その信念自体が何が永遠かというその調査を妨げます その永遠というものが存在すれば それは時間を超えあらゆる測定の概念を超えます ですから自由なければなりません 宗教とは何かという問いに真剣であれば 思考が生み出しつくり出した全ての事柄から自由であるべきで つまりそれが宗教と考慮されます つまりヒンドゥー教が造られた全ての事柄 その迷信と信念とイメージと共に そしてウパニシャッドとしての古代文献などと それら全てから完全に自由であるべきです それらに付属すれば原型を見つけるにあたり 当然ながら不可能です
41:36 問題を理解していますか? つまり私の心と脳が ヒンドゥーの迷信信念 教義 偶像崇拝 それら古くからの全ての 伝統に条件づいていたら 私の心はするとそれに方向づけられます 従って動く事はできません自由ではありません よってその事柄全てから自由であるべきです: ヒンドゥー教徒である事から そうですよね? 同様にあなたは思考の考案から完全に自由であるべきです キリスト教の儀式 定説 信念 象徴救世主などからです 痛い所をついて寧ろ難しいかもしれませんね もしくはセイロン島やチベットを例えると 北側 仏教それら全ての偶像崇拝は キリスト教の偶像崇拝同様にこの問題があります 思考が発明した安全とした概念に付属されています ですから全ての宗教キリスト教だろうとイスラム教 ヒンドゥー教または仏教であろうと それらは時間の中で継続する思考の動きです 文献を通して象徴を通して 手や心で造られた事柄を通してです 現代の世界で宗教とみなされるもの全てです 話し手にとってそれは宗教ではありません 話し手にとってそれは錯覚の型です 慰めとな満足感があり空想的で感傷的ですが実際ではありません 宗教は私達の人生生き方に影響すべきです つまり命の大切さです すると人生に秩序がり初めて
44:56 これについては昨日お話しました- 秩序とは無秩序と完全に切り離された事です 私達は無秩序に生きていますつまり対立や矛盾 ある事を言いつつ他の事をするある考えを持ち別の行動をするなど それは矛盾です 矛盾が存在する所にはそれは分離であり 無秩序が存在します そして信仰心に無秩序は全くありません それが宗教的人生の基盤です
45:53 愚かな教祖達に起きている全てのナンセンスではありません それは非常に異常な事です 多くの教祖達は私に会いに来ました 彼らは私が教祖達を攻撃していると考えるからです おわかりですか? 攻撃しないようにと説得したいのです 彼らが言うにはあなたの生き方は 絶対的事実ではあるが私達にとってでは無いと あなたの様に進歩していない人々を助けるべきだからと 彼らのゲームが見えますよねおわかりですか? ですから西洋ではなぜ または西洋の人々の中でインドに行き 教祖に追随し信者となり-それが何を意味するにしろ- 異なる着衣を着て彼らは非常に宗教的だと考えます しかしその着衣を剥ぎ取ると
47:24 彼らを止め人生を問うと彼らも私達とただ同じなのです 何処かに行き啓発を見出すというアイディアは 何かサンスクリット語の名前に変えたりと とても異様で馬鹿げており現実性のない空想のようですが 非常に多くの人がそうしています 特に意味を持たない娯楽の一種でしょうか 話し手は攻撃していませんどうか理解しましょう: 何も攻撃していませんただ観察しているだけです 人間心理の不条理を観察しているのです
48:27 私達はいかに簡単に捕われとてもだまされ易いか ですから信仰心とは事実の心で事実を扱います つまり事実何が実際に起きているのかです 世界の外で世界の中で 世界の外とは世界の中の表現です そこに分離はありません外と中の間 - これをお話しするには時間が要ります ですから宗教的人生とは人生の秩序 勤勉さ 自分の中に実際起きている事に何の錯覚なく対応する事です そうする事で自身を秩序に導き高潔な人生を送る事ができます それが揺るぎなく確立されたら
49:48 それから瞑想について問い始める事ができます 瞑想 これは20年前または30年前でしょうか 西洋の世界には無かった言葉でしょう 東洋の教祖達が持ち込みました チベットの瞑想があり 禅ヒンドゥー瞑想 特異な教祖のその特異な瞑想 ヨガの瞑想胡座をかき 呼吸する 全部ご存知ですよね それら全て瞑想と呼ばれます これらを行う人を軽蔑していません 単に瞑想がなんと馬鹿げた事になって来たかを指摘するだけです キリスト教の中では観想を信じます 自己を神の意志に捧げ神の恩寵をなどとです アジアの世界にも同じ事があります サンスクリットで言語が異なるだけです しかし同じ事です 人間はある種の永遠の安定 幸福 平和を求め地球上ではない 何処かにあるだろうと希望を持ち 不滅の何かを探そうと必死です 計り知れない時からずっと人類の探求でした 古代エジプト古代インド
52:37 仏教など あるキリスト教でもそれに追随しました ですから共に問うには 瞑想とは何かを深く掘り下げるには 神聖なる聖なると呼ばれる何かが在るかどうか- 思考が生み出した聖なるものではなく 思考がつくり出した神聖とは聖なるものではありません なぜならそれは知識に基づくからです 知識は未完全であり思考が生み出す何れも 神聖な事ができましょうか?
53:37 しかし私達は世界中で思考が考案した思想を信仰します ですからある人は部分的にまたある人は完全に全体的に 彼らの人生また行動において そこに矛盾など存在せず 秩序を確立しそして全ての瞑想という名のもの その制度や慣行は完全に拒絶されます 練習する際あなたは何度も繰り返しています ピアニストが練習するように間違った音を弾いているかもしれません ですからパターンに同化するのは簡単なのです 誰かの言う事に従う事で 超越状態などと言われる事に達する手助けになると ですから慣行し制度を受入れます
55:03 なぜなら'ありのまま'以外の何かを得たいからです ここで全く逆を言います そこに制度や慣行は存在せず 自由な心の明瞭な知覚が存在します それは位置づけや選択なくただし観察は自由です 殆どの瞑想は思考をコントロールするこの問題があります 瞑想を実践する人が実践している事と異なります ご理解頂けてるでしょうかもしご興味がおありなら 殆どの瞑想とは禅やヒンドゥー 仏教 キリスト教または他の最新の教祖であろうと 思考をコントロールしますコントロールを通し集中化させ ある特定のポイントに全てのエネルギーを集めるのです それは集中です つまりコントロールする側がありコントロールされる側と異なります ご理解されていますか? それはコントロールする側は過去にあり それは尚も思考であり記憶であり よって彼がコントロールしている事はまだ思考です その思考はさまよい出てそこに葛藤がうまれます 静かに安座し思考が逸れて集中したいと思うのです 窓の外を眺める生徒の様にですそして先生がいいます '窓の外を見ないで本に集中しなさい' 私達は同じ事をします ですから管理する側が管理される側である事実を学ぶべきです 明確ですか? 全て段階を追ってご説明しますか?
57:57 では - 説明致しましょう コントロールする側 考える人経験する人 コントロールされる側と異なると考えます 思考の動きから 経験する人から経験へと この二つは異なる動きだと考えます しかしよく注視すると考える人がその思考です 思考が考える人を思考とは別につくり出し そして言います'コントロールすべきだ' ご理解されていますか? 非常に理論的でとても真っ当です するとコントロールする側がコントロールされ すると対立を完全に取り除きます 分離がある時にのみ葛藤が存在します あなたとドイツ人との間イスラエル人とアラブ人との間 国家主義や経済的分断 または社会的分断そこに衝突が存在するに違いません よって内向的に観察する人との間に分離が存在すれば それを目撃する人 それを経験する人は経験した事と異なり そこに対立がうまれます 私達の人生はこの分離と生きる故対立します しかしこの分離とは誤りで実際ではありません 我々の習慣となってきましたコントロールする我々の文化です 管理者が制御される事を決して理解しません
1:00:02 ですよね? 分りますか? その事に言葉だけでなく理想上でなく 苦難を強いる理想郷としてではなく それを実際に自分の人生の中で観察するのです 制御する側が制御され 考える人がその思考である事です すると私達の思考のパターンは根本的な変化を遂げます なぜなら対立が存在しないからです 瞑想をするならばそれが絶対に必要です 瞑想には高い慈悲の心を必要とします 従って非常に知的で 愛から生まれる知性です
1:01:19 狡猾な思考ではありません つまり瞑想とは日々の人生の秩序の確立を意味します そこには矛盾はありません するとあらゆる制度や瞑想それらを完全に拒絶します 心は位置づけされず完全に自由であるべきだからです 加えてそれは完全に静かな心も意味します 可能でしょうか? 私達は常に際限無くおしゃべりをします 皆さんこの会場を出た瞬間からおしゃべりを始めるでしょう 私達の心はとめどなく塞がっています おしゃべり考えたりもがいたりそこに空間はありません 静けさを得るに空間が必要です 鍛錬し奮闘する心が 静けさを求めても沈黙はありません しかし静けさが絶対に必要であれば 思考によって投影される静けさではなく 二つの音や雑音の間の沈黙ではなく 二つの戦争の間の沈黙ではなく秩序の沈黙です そこにその絶対的静けさが存在する際に- 培われた静けさではなく それは殆どの瞑想が試みる事です: 養成された静けさ つまり培われた思考は決して静かではりません その不合理がお解りでしょうか その静けさが存在すれば自身は発見する事が -すみません 発見ではなく- その静けさの中岐路の無い真実が存在します 真実はすると永久で神聖で腐敗する事はありません
1:05:09 それが瞑想ですそれが敬虔な心です