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BO85Q1 - 第1回、質疑応答会合
インド、ボンベイ(ムンバイ)
1985年2月5日



0:08 クリシュナムルティ: 朝、ちょっと早いですね。
0:22 幾つもの質問が、(書面で)出されていて、 ここにあります。 私は、それらを見ていません。 質問をすることは、重要である、と思います。 問いの本性を、本当に探究する - なぜ私たちが問いを出すのかと、 誰に、私たちは問いを出すのか、です。 私たちは、誰かから答えを見つけるために、問いを出しますか。 または、私たちは、自分自身に、問いを出しますか。 私たちが、自分自身に問いを出すなら、 どの深さからなのか、 表面的にか、私たちは、自分自身に問いを出します。 私たちは、自らの問いへ、自らの問題へ、 自らの様々な複雑な生の道への答えを、 どこに見つけますか。 それは、何か、私たちの外側のものですか。 または、それは、何か私たちが、見出すために、きわめて深く、掘り下げなくてはいけないことですか。
2:26 私たちは、これらの問いが何であるかを、知りません。 私たちは、今すぐ、それらに入るでしょう。 問いが、重要でしょうか。 問いへの答えは、 問い自体に、あるのでしょうか。 私たちがこれに出会っていることを、願っています。 答えは、問いの外側にありますか。 または、答えは、問い自体にありますか。 質問を理解されますか。 私たちは、どのように問いに、接近しますか。 答えを見つけたいとの願望をもって、 動機をもって、ですか。 または、動機なく、問いを出しますか。 それは、可能ですか。 私たちが互いに出会っているのかどうか、私は知りません。 出会っていますか。 または、あまりに、朝早すぎますか。 あなたが、すてきな眠りを取ったことを、願っています。
4:11 私たちは、答えが問いの外側にあるのか、または、 問い自体にあるのかを、訊ねています。 それは、誰かが答えるために、外側にあるのなら、 問いは、意義深くありません。 しかし、問いが深刻であるなら、 ゆえに、問い自体が、答えを持つのです。 いいですか? 私たちは、それを見出そうとしています。 なぜなら、私たちは、答えではなく、問いを、究明しようとしているからです。 私たちは、これを進めていいですか。
5:11 仮に、自らは問題を持っている、とします。 私たちはいつも、問題の解決、その解消を、 見出したいと思っています。 しかし、私たちは、問題の本性を理解しはじめ - 問題の含意が何なのか、 問題がどう生じたのかを、です - そして、問題を究明するなら - 問題の究明の、まさにその過程において、 解決は、問題にあるのです。 私たちはそれを、しようとしています。 そうしてもいいですか。 私たちは、問いに答えようとしていません。 たぶん、私たちが問いを近くで見つめるとき、 答えは、出てくるでしょう。
6:32 第一の質問: 「私のすべての愛、気づかい、 注意にもかかわらず、 私は、娘を育てる中で、自分はどこが欠けているかを、知りません。 あなたは、子どもを教育する一番良い道に、何か光を、照らせますか。」
7:00 「私のすべての愛、気づかい、注意にもかかわらず、 私は、娘を育てる中で、 自分はどこで欠けているかを、知りません。 あなたは、子どもを教育する一番良い道に、何か光を、照らせますか。」
7:25 いいですか? あなたたちは、みんな親ですか。 たぶん、あなたは、親でないなら、それを望むかもしれません。 そうなりたいかもしれません。 私たちは、子どもを教育するとは、 どういう意味なのかを、ともに、探究すべきです。 私たちがいう教育とは、どういう意味ですか。 私たちはみんな、見たところ、とても良い教育を、受けています。 そして、子どもを育てる中で、 母親や父親の本性とは、何ですか。 それが本当に、問いなのです。 あなたは、その子を愛しているかもしれないし、愛していないかもしれません。 あなたは、その子が成長するにつれて、 その子に、技術者や科学者、 物理学者になってほしいかもしれません。 または、あなた自身のような、或る種の職歴、です。 一般的に、それが、親の野心です。 ですね? 私たちは、これが見えますか。 親は一般的に、自らの子どもに、 自分の特定の様式に、従ってほしいとか、 自らの生計に適している生の様式を、 確立してほしい、 などなどと思います。 それで、私たちはともに、問いについて、 話し合うべきです- 教育とは何でしょうか。 なぜ教育は、こんなに信じがたく困難になったのでしょうか。 なぜ、彼らは成長するにつれて、そして、彼らが幸運にも、 専門校や大学を出て、学位を得るなら、 それから、職を探し、 結婚し、子どもを設け、 サーカス全体が、始まります。 ですね? 問題全体が、始まります。
10:14 で、問いはこうです - 私たちがいう、教育とは、どういう意味ですか。 それは、全包括的な教育ですか。 または、職歴志向だけの教育ですか。 質問を理解されますか。 私が子どもを持ち、 子育ての問題すべてを、持っているなら、 自らが愛情、優しさ、気づかいを 持っているなら - 私たちはいつも、その子を使いたいのです - 一種の人形としてなのか。 私が言っていることを、理解されますか。 あなたは、人形とは何かを、知らないですか。 私たちは、自らの子どもたちを、自分自身を満足させるために、使いませんか。 違いますか? やれまあ。あなたたちは今朝、かなり静寂です。 私は訊ねています - 私たちは、生の問題全体に、生の複雑で分割的な道全体に、 向き合うよう、子どもを教育しますか。 または、私たちは、良い記憶を持つよう、彼らを教育しますか - 蓄積されてきた記憶を、 15年、20年、30年の教育の間に、たくさん憶えて、 それから、技術と職を取得するために、 それら記憶を行使します。 私たちは、生の他の側面を、生の心理的な側面を、 全的に無視します。 私たちは訊ねています - 教育は、一方に傾いていますか。または、全包括的ですか。 質問を理解されますか。 よろしいですか。
13:11 全包括的な教育とは、何ですか。 部分的な教育、制限された教育とは、 何ですか。 制限された教育は、今、行われているものです - 記憶し、記憶し、記憶する。 学ぶのではない。 学ぶことと記憶することの間には、違いがあります。 記憶することは、相当に、比較的に簡単です - 学校へ行く。 歴史、地理学、物理学、理科 などについて、すべてを学ぶ。 そしてあなたは、記憶します - 次々、本を、教育者が言うことを、です。 で、それは、頭脳の中に、知識として、蓄えられます - 本などをとおして取得されて、です。 それが、現代の教育なるものです。 生をとおしてずっと、それが、作動中です。 私たちは、訊ねています - なぜ私たちは、心理的な分野の 区域全体を、無視するのですか。 それは、無量に重要なのに。 いいですか? 私たちの教育は、単に、職を得ること、生計を立てることなどに、 関連しているだけですか。 または、それは、世界と心理的な分野のような分割が 何もない生の道を、生きるよう、 人間を助けることに、関連していますか。 理解されますか。 これは可能ですか。 世界には、これをしている学校や 大学が、ありますか - すなわち、頭脳を、その一部分ではなく、全体として、養成することを、です。 私たちは、どこかで、一緒に出会っていますか。 私たちは訊ねています - それは可能ですか。 頭脳の一部ではなく、 全体の養成のために、です。
16:15 これを理解するには、私たちは、自らの意識の構造全体を、 究明しなくてはなりません - あなたが進んで、それらに入ろうとするなら、です。 語り手は - 彼は、虚栄とか、或る種、変わっていることから、 これを、言っていません - 彼は、どの哲学書をも、読んだことがありません。 また、ギーター、ウパニシャッドとそのすべての事柄をも、読んだことがありません。 なぜ読むべきですか。 なぜあなたは、以前の著者、以前の思想家、 いわゆる宗教的な体験をした以前の人々などの 知識すべての重荷を、負うべきですか - なぜあなたは、それらを読むべきですか。 なぜなら - 私たちは訊ねています - あなたは、人類の物語ではないですか。 質問を理解されますか。 あなたは、人類の歴史ではないですか。 質問を理解されますか。 あなたは、人間として、 あなたは、人類の書物です。 あなたは、その書物をどう読むのかを、知るなら、 他のどの書物も、読まなくていい - おそらく、生計を立てるために、 テクノロジーの知識を学ぶの以外は、です。 何ですか? 私たちは少し、ともに考えていますか。
18:39 私たちは、どのようにこの問いに、接近しますか - 頭脳の一部分のみではなく、その全部を 養成することは、可能なのかどうか、です。 それが、教育の本当の問いです。 頭脳にとって、それは可能でしょうか - 最新の科学的な発言によれば、 それは、三百五十万年以上、生きてきました。 ものすごい知識を蓄積してきた頭脳、 動物とともに始まった頭脳。 そして、動物の恐れと心配すべてが、 やはり、私たちの意識の中に、ある。ですね? いや、あなたは同意しません - 私が言っていることには、どれにも、どうぞ同意しないでください。 ただそれを、聞いてください。 私たちの意識、私たちの頭脳は、 動物的な反応、恐れ、それらを すべて、収容しています。 それは、私たちの遺伝の一部です。 なぜなら、私たちは、類人猿などより、来たからです。 それが、私たちの意識の一部です。 ですね? ただ、それを聞いてください。 あなたは、同意しないかもしれませんが、見出してください。 さて、私たちは、頭脳の部分でもってのみ、機能するよう、 訓練され、教育されてきました。 すなわち、特定の主題について、 その修練でもって、大変多くの記憶、知識を取得する - 生計を立てるために、です。 ですね? 技術者になるため、 専門化した科学者、物理学者や 心理学者になるため、です。 私たちは、そのように訓練されます。 そのように教育されます。 ゆえに私たちは、頭脳の部分を、使っているだけです。 明白です。 他の部分、心霊的な部分は、教育されていません。 放って置かれています。 で、私たちの教育は、一方に傾いています。 ですね? つづけてもいいですか。
21:33 気の毒なお母さんが、この質問をしました。 それは、かなり複雑になります。 で、知識、記憶を養成するだけではなく、 また同時に、あるいは、違った期間に、 人間の心理的な内容全体を、養成し、理解することは、 可能でしょうか。 それらの両方が、一緒に動いている。 ビヤン(よろしいですか)?それは可能ですか。 語り手は、それが唯一つの正しい種類の教育であると、考えます。 教育の一つの種類だけではない。 他の側面をも、理解する - すなわち、心理的な世界をも、です。 あなたは、人類です。 あなたは、人の歴史です。 あなたは、人の物語です。明白です。 なぜなら、あなたは、苦しんできた、あらゆる種類の困窮を、経てきたからです - 他のあらゆる人間のように、です。 あなたは、残りの世界と一つです。
22:57 すてきな鳩が、通っていきました。
23:08 で、あなたは、人類の書物を、読めますか- それは、あなたです。 質問を理解できますか。 あなたは、人間として、 一方向に教育されるだけではなく、 また、人間として、 あなたは、人類の全歴史です - 王たちと時代と女王たちの歴史ではなく、 経験、悲しみ、痛み、 それらものすごく複雑な心理的な世界です。 あなたは、その書物を読めますか - ふつうの書物を読むように、です。 私たちは、そうする能力が、ありません。 なぜなら、私たちは、 その書物を読んでもらうために、他の人たちに、依存してきたからです。 あなたがこれらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 よろしいですか? 自分は、導師に、司祭者や心理学者に、依存しました - あなたが神経症でなければ、ですが、 おそらく、私たちのほとんどは、かすかに神経症なのです。 私たちは、歪曲なく、その書物を読めますか。 なぜなら、あなたは、良い科学者であったり、 科学の初歩を学んでいるなら、 あなたは、とても精確で、とても明晰であり、 その特定科目に関与した修練すべてに、従わなければならないからです。 で、同様に、 この書物を、どの種の歪曲もなく、読まなくてはなりません。 いいですね? それは可能でしょうか。 私たちの一人一人が、その書物を読むのを助けてもらうのを、 他の誰にも依存しないことは、可能でしょうか。 それは - どんな歪曲もなく、読むことは、可能でしょうか。 質問を理解されますか。
25:44 あなたが、髪を櫛ですいたり、髭を剃るとき、 鏡に自分の顔を見るように、 そこに、あらゆる物事が、きわめてはっきりと、明瞭に、 反映している鏡が、ありますか - それで、その書物が、鏡に反映するように、です。 私が訊ねていることを、理解されますか。 ああ、神様。 どうぞ、眠らないでください。 仮に、私は、その書物をどう読むのかを、知らない、とします。 なぜなら、私の頭脳は、かすかに歪曲されているからです。 私の先入観、私の民族性など - それは、歪曲されています。 ゆえに、私はその書物を、ほとんどはっきりと読めません。 で、私は、自らが蓄積してきた先入観より、自由でありうるでしょうか。 書物は、先入観に満ちているかもしれません。たぶんそうです。 理論、仮説に満ちています。 で、私は、それらなしに、それを読むことができなければなりません。 さもないと、私はそれを、読めません。 いいですか? で、私は、自分の先入観、意見より、私が近頃集めてきた結論より、 自由であることは、可能ですか。 なぜなら、その書物は、伝統に満ちているかもしれないからです。 理解されますか。 ゆえに、私は、伝統を読むには、 伝統より自由でなければなりません。 あなたは、これを理解されましたか。 はい? あなたがこれに入るなら、それは、かなり興味深いのです。
28:03 私は、気の毒なご婦人に、答えています。 彼女は、自分の子どもを、愛しています。 彼女は、娘を、気をつけて育て上げ、 よく教育したいと思います。 教育期間に、彼女は、 社会の戯言すべてを、取得します。ですね? 彼女は、あらゆる種類の・・・そうね、 世の中で起きつつあることを、取得します。 私が、それらへ入らなくてもいい。 彼女は、何をすべきかを、知りたいのです。 私たちは、まず最初に、その「何をすべきか」を、終了させるでしょう。
29:13 私たちは本当に、子どもを愛していますか。 あなたは本当に、自分の娘、息子を、愛していますか。 その愛は、どういう意味ですか。 もしもあなたが、自分の娘や息子を、本当に、深く愛していたなら、 あなたは、その子が成長して、 このものすごい葛藤と狂気の世界に、 捕らわれるのを、 許すのでしょうか。 あなたは、もしも本当に、自分の息子を愛していたなら、 彼が軍隊に加わるのを、許す - 行って、他の一人を殺す、不具になるのを、許すのでしょうか。 私たちは、アメリカで、きわめて有名な医師により、 病院へ連れて行かれました。 それは、ほとんど人々が行かない病院でした - 入ることを許されません。 そこには、腕と脚のない人、眼のない人 顔がつぶれた、 人々が、いました。 いびつで、負傷していて、ぞっとする光景です。 それは、戦争の結果です。 彼らの母親たちは、「私たちは自分の子どもたちを愛している」と、言っていました。 彼らはそこに、あの病院に、行き着いてしまいます。 あなたがこれらを悟られるのかどうかと、思われます。 或る人たちは、発狂して、拘束衣を着せられていました。
31:43 で、私たちがいう愛とは、どういう意味ですか。 私たちは、彼らに、あなたが愛する自分の子どもたちに、 この狂気の世界に、入ってほしいのですか。 これは、ものすごい問題です。 しかし、あなたは、その世界に、入らなくてはなりません。 あなたは、職業を持たなくてはなりません。 あなたは、生計を立てなくてはなりません。 あなたは、世界より、ただ退くことはできません。 なぜなら、あなたは世界であるからです。 で、母親は訊ねます - 社会が腐敗していて、 とてつもなく不均衡であるのを、知って、 私は、何をするのでしょうか。 あらゆる人が、自分自身のために、がんばっています - 自己利益です。 母親は、何をすべきでしょうか- または、親は、です。 で、愛は、一定の年齢の後で、止まりますか。 あなたは、自分の子どもを、学校へ、専門校へ送ってきました。 おそらく、あなたが運が良く、 あなたが十分なお金を持ち、 その子を行かせられるなら、大学へも、です。 結婚し、落ち着く。 いいですか? それが、ほとんどの親が、関心を持っていることです。 これが、愛と呼ばれます。 私たちは、それがそもそも愛なのかどうかを、問うています。 私は、何も軽蔑的とか不作法とか、 無礼なことを、言っていません。 私は、問います。私たちは、問います - それが愛なのかどうかを、です。 もしもあなたが、本当に深く愛していたなら、 それは、何か全的に違ったことを、意味しています。 自己利益があるなら、愛はありえません。 いいですか? これは事実です。 私は、いつの時も自分自身に、関心を持っているなら - 私たちはそうなのです - どうして、愛がありうるでしょうか。 あなたは、それについて話をし、それについて、ロマンチックにし、 映画へ行き、愛とセックスとそれらの事柄について、 それら戯言を見るかもしれません。 それで、この問い、愛とは何かに、入らなくてはいけません - その子への私たちの関係は、何なのか、 世界への私たちの関係は、何なのかなどに、です。 それが、その一つの側面です。
35:36 私たちは、あなたが人類の物語を 読めるのかどうかについて、話しています - 私がその言葉を、使えるなら、あなたである書物を、です。 あなたは、その書物を、読めますか。 書物の始まり、 第一章やその数行だけではなく、 まさにその終わりまで、すっかり行くのです。 それは、関係の鏡においてのみ、可能です。 いいですか? なぜなら、その関係の鏡において、 あなたは、自分が何なのか、見えるからです - あなたの反応と応答が、です。 生物学的な応答だけではなく、 野心、貪欲、妬み、へつらい、侮辱の 応答すべても、です。よろしいですか。 あなたがよく見守っているなら、 あなたの意識の内容全体が、開示されます - 何も歪曲なく、ごく近くで見守るのです。 そのとき、それは動きです。 全包括的な動きです。 科目を学ぶ - その科目は、自体の修練を持っています。 数学などのように、です。 また、自らは、生の中で、いつもあらゆる物事に関係しているので - 私は、あなたに関係しています。 私は、他の一人に関係しています - それで、その鏡において、 歪曲なく、気をつけて見守る。 それには、ものすごい興味とエネルギーが、必要とされます。 これらは、どちらもできますか。 質問を理解されますか。 それが、本当の教育です。 そのときあなたは、心理・精神について、 一冊の書物をも、読まなくていい。 あなたは、他の物事について、たくさんの書物を、読めます。
38:18 第二の質問: 「私たちが、 二分間以上の間、注意を維持できないのは、 なぜでしょうか。」
38:36 「私たちが、二分間以上の間、注意を維持する 能力がないのは、なぜでしょうか。」
38:49 あなた自身に、その質問をしてください。
38:56 まず最初に、 なぜあなたは、何かを、いつの時も、維持したいのですか。 あなたは、楽しみをいつの時も、維持したいですね。 あなたは、喜悦がほしい。 あなたは、一定の結論に、継続的であってほしい。 あなたは、一定の関係が、長続きし、 維持され、育まれてほしい。 なぜ、継続性を持ちたいとの、この願望ですか。 質問を理解されますか。 あなたは、注意を維持したいと思います。 なぜですか。 誰かがあなたに、注意はとても重要であると、語ってきたからですか。 または、あなたは、注意の本性を自分自身で発見しましたか。 ゆえに、あなたは、不注意とは何かを、探究しなくてはなりません。 理解されますか。 重要なのは、注意ではなくて、 不注意とは何か、です - 注意することではない。 いいですね? 私たちは、二つを分割してきましたね。 完全な注意を持っていなくて、 また、それを欠いている - それが、不注意です。 注意していないことです。 さて、どちらが重要ですか - 私たちはどちらを見るべきか、という意味で、重要ですか。 不注意のほうが、注意より重要ではないですか。 同意されるでしょうか。 なぜなら、私は、不注意が何かを理解するなら、 そのとき、注意があるからです。 ですね? で、注意しないとは、何ですか。
41:47 私たちは今、ともに話し合っています。 あなたは、いつの時も、注意していますか。 または、一部の時間だけですか。 どうぞ、それを見つめて、答えてください。 あなた自身で、それを見つめて、 あなた自身で、それに入ってください。 あなたは、今言われつつあることに、本当に、注意を払っていますか。 または、ほんの二、三秒や、二、三分の間だけで、 それから、他の何かへ逸れてしまいますか。 維持された注意が、ありますか。 もちろん、ありません。 で、なぜ不注意があるのかを、理解することが、重要です。
42:49 不注意といったものが、ありますか。 質問を理解されますか。 あなたは、これらに興味がありますか。 不注意は、散漫です。 ですね? それは、散漫と呼ばれるものです。 そもそも、散漫がありますか。 私は何かについて、考えたいと思います。 そのとき、まさにその思考は、他の何かへ、逸れてしまいます。 逸れてしまうことを、私は、散漫と呼びます。 いいですか? 思考自体が、散漫ではないですか。 あなたはそれが分かるのかどうかと、思われます。 私は、この主題に集中したい。 私は、ほんの二、三分の間だけ、それをできます。 そのとき思考は、他の何かへ逸れてしまいます。 私が、考えているとされていることの代わりに、 他の何かについて考えることは、 散漫と呼ばれます。 しかし、私はそれを散漫と呼ばなくて、それに付いていくなら - 理解されますか。 私は、或る章を読むことに、集中しています。 私は、見守ります - 思考がまた、他の何かへ逸れていっていることも、見えます。 そのとき私は、それは散漫だ、と言います。 しかし私は、それを散漫と、呼ばないでしょう。 私個人にとって、それはそもそも、存在していません。 私にとって、散漫は何もありません。 なぜなら、私は、散漫と呼ばれるものへ、付いていくからです。 私は、「この章や、この数行を、私は読まなければならない」とは、言いません。 どんな方向に思考が動こうとも、それを見守ります。 そのため、散漫の感覚が、ないのです。 それは、分割がない、という意味です。 あなたはこれが分かるのかと、思われます。 そのため、見守りがあるのです - 注意と不注意、です。 そのとき、不注意は、注意です。 あなたはそれが分かるのかと、思われます。
45:35 私たちがいかに、言葉により散漫になるかを、見てください。 散漫という言葉は、 とても破壊的な過程です。 なぜなら、あなたは、何かへ集中したいと思い、 ゆえに、それから動いて離れてしまうことが、散漫と呼ばれるからです。 思考はいつも、動いています。 それはけっして、静止していません。 それは、いつも作用中です - あなたが眠っていても、 あなたが目覚めていても、夢想に耽っていても、 何らかのことをしていても、です。 それは作用中です。それは動いています。 そして、思考は、物質的な過程です。 あなたはこれを、理解されたのかと、思われます。 なぜなら、思考は、記憶、経験、知識に 基づいているからです。 それは、頭脳に蓄えられています。 頭脳は、何百万、何千万の細胞を、収容していて、 それら細胞が、記憶を保っています。 これは、科学的な事実です。 それらは、いつも動いています。 それで、頭脳は自らのリズムを持っていることを、発見しはじます - 思考のリズムではない。 あなたが付いてこられるのかどうかと、思われます。 私は、それらに入らないでしょう。 今、私たちは訊ねています - 見守ることは、 可能でしょうか。 見守ること、いつの時も、絶対的に見守っていること。 それは本当は、別の形でこう訊ねることです - 私は注意を、維持できますか、と。 注意は、努力をとおして、もたらされますか。 あなたが努力をするなら、それは注意ですか。 すなわち、注意を実践する。 うるわしい考えです。 来る日も来る日も、実践する。 自分の身体、動きを見守る - 自分がやるゲームのすべて、です。 終わりにあなたは、「ええ。私は注意を学んだ」と言います。 注意は、注意について、記憶を取得することの一つの形ですか。 質問を理解されますか。 注意は、実践をとおして、様々な形の 心理的な訓練をとおして、集められますか。 または、注意があるのは - 不注意が、ではない。 あなたが不注意を理解するなら、注意があるのです。 それは、けっして維持されません。 なぜあなたは、いつの時も、注意すべきなのですか。 そのときあなたは、星々を見つめられます。 またそれも、注意を必要とします。 それで、散漫はないのです。
49:57 質問者: すみません、クリシュナジ。 一つ、短い疑問です・・・(聞き取れない)
50:03 K: 何でしょうか。 私は、あなたの疑問を、理解したいと思います。 それは、すっかり明らかではありません。
50:24 聴衆: 彼は、あなたに質問をしたいんです。
50:27 K: さあ、どうぞ。

質問者: (聞き取れない)
50:50 K: 何ですか。
50:53 質問者: (聞き取れない)
51:05 聴衆: もし、関係する人が誰もいないなら、私たち自身を知ることは、可能ですか。
51:10 K: ああ、あなたが、誰にも関係していないとき、
51:13 自分自身を知ることは、可能ですか。 それが質問ですか。 あなたは、質問されました。 私はそれに、入っていいですか。 あなたはそもそも、一人ですか。

質問者: ええ。
51:33 K: いいえ。ちょっと待ってください。 あなたは、「一人」という言葉が、どういう意味かを、ご存じですか。 その言葉の語源的な意味、です。 「一人(アローン)」は、すべて一つ、という意味です。 ちょっと待ってください。 私は、冗談を言っていただけです。 私はその言葉で、遊んでいただけです。許してください。 私たちは、一人でしょうか。 または、あなたはいつも、何かに関係していますか。 それは、あなたの妻や夫ではないかもしれません。 あなたは、独りぼっちなのかもしれません。 ですが、あなたは関係しています。 あなたは、自然に関係しています - あなたは、その一部です。 あなたは、世界に関係しています。 あなたは、自分の母親、父親などに、関係しています。 単独であるといった実体は、何もない。 生物学的に、あなたは単独であり、物理的に関係していないかもしれません。 ですが、心理的に、あなたは人類の全体へ、関係しています。 そのとき私たちは、自分自身に、 「私たちはさびしい」と言います。独りぼっち、ということです。 そして、独りぼっちであることの問題すべてが、伴います。 そのとき、私は、他の一人と関係を持とうとしますが、独りぼっちに留まります。 理解されますか。 私は、結婚し、子どもを持ち、 オフィスへ行く、その他すべてをするかもしれませんが、 私は独りぼっちに留まります。なぜなら、私は、私の野心、私のその他すべてを、追求しているからです。 それで、関係していない人物は世界に、誰もいないのです - さびしい隠遁者を含めて、です。 彼は関係しています - 過去に、伝統に、 彼が取得してきた知識 すべてなどなどへ、 関係しています。
54:08 第三の質問: 「苦しみと楽しさは、 以前の生と、現在の生の行いに、 何か係わりが、ありますか。」
54:22 「苦しみと楽しさは、 以前の生と、現在の生の行いに、 何か係わりが、ありますか。」
54:35 あなたは、輪廻転生について、話しているのでしょう。 また、それは、「業(カルマ)」という言葉に、含意されています - 因と果です。 業(カルマ)は、私は聞かされましたが、 その言葉の根本の意味は、行為です。 私たちは、この問いへ、真剣に入ってもいいですか。 あなたは、それに入りたいですか。 他のものが、真剣でなかった、ということではない。
55:15 行為とは何ですか。 行為とは、行為している、という意味です。ですね? 私は行為してきたとか、行為するだろうとか、ではない。 行為は、今、という意味です。 いいですか? 行為は、ほとんどの人々にとって、 過去の思い出、動機や 未来の意図や、未来の理想など、 といった意味合いです。 過去が、行為を方向づけ、形作っているのか、 あるいは、未来が、行為を形作っているのか。 で、それは行為ではありません。 あなたはこれが分かるのかどうか、と思われます。 行為は、すること、能動的な現在を、意味しています。 しかし、あなたが、行為のための動機、原因を持つとき - そして、未来のための行為、です - 能動的な現在は、拒否されます それで、あなたは本当に、 未来や過去に依存するとき、あなたは行為していません。 これがお分かりになるのかと思われます。 私たちのほとんどにとって、行為するのは、記憶に、動機に基づいています。 それについて、全く明らかであり、正直でありましょう。 私は、あなたから何かがほしいから、あなたにへつらいます。 あなたが私に何かを与えてくれたから、私は、あなたを愛しています。 などと、です。あなたは、そのゲームをやります。
57:13 さて、 質問者は、訊ねます。 私は前に、この地上に生きてきましたか。 そして、私は、前世で適切に物事をしなかったから、 ゆえに、私は今、苦しんでいる。 私は、今、正しい行為が何かを、理解するなら、 来世に、私は、より良い機会を、得るでしょう - より良い家を、 より良い妻を、 より良い冷蔵庫を、得るでしょう。 さて、これは本当に、とても深刻な問いです。 私たちはこれに入るべきなのかどうか、私は知りません。
58:10 自己とは何ですか。 「私は継続しなければならない」と言う「私」とは、何ですか - すなわち、過去から、現在をとおして、 未来へ、継続性がある、と。 それが、一つのことです。 そのとき、他は、原因です。 因と果、 それは業の一部です。 私は、一定の種子を蒔いてきました - 善し悪しの、です。 そして、それが花開く。 善し悪しの匂いがします。 効果はそれです。 さて、原因は、恒常的ですか。 効果もまた、恒常的ですか。 または、効果は原因になる。 ですね? それは、もう一つの効果を持つ - そのとき、それは原因になる。 で、因果は動きです。 ですね?理解なさるのかと、思われます。 あなたが、よく気をつけて入るなら、それは、なかなか興味深い。 原因はこうです - 私は、病気で苦しむ。 原因の一つです。私は苦しむ。 仮に、私は胃が痛い、とします。 なぜなら、私は、間違った食べ物を食べた、 あまりに多く飲みすぎたから、などです。 それで、私は適切に食べないなら、効果は痛みです。 そのとき私は、痛みを制御しなければならない、と言います。 私は、錠剤をとるが、 原因はやはり、つづきます。 なぜなら、私は、間違った食べ物を、食べつつあるからです。 で、原因の継続と、表面的な効果が、あります。 ですね? しかし、私は、間違った食べ物を食べるという原因が、見えるなら、 それを変化させます。 効果は健康です。 健康は、(最終的な)結果ではありません。 それは、適切に生きることです。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 論理的に、それはこれらです。 で、原因は、けっして恒常的でないし、効果もまた、そうです。 効果は、原因になる。 それで、それは連鎖です。 それは動きです。 そこで本当の問いは、こうです - あなたが、興味があるなら、です - この動きは、止まりうるのでしょうか。 理解されますか。 この動きは、因と果ですが、 効果は原因になる、などです。 この動きは、当然、時のです。 いいですか?それで、私は訊ねています - 行為のために、因果は必要ですか。 いいですか? あなたたちは、みんな、眠そうに見えます。
1:01:50 何かのためではなく、そのもののため、それ自体のために、行為がありますか。 それを理解するには、私は、賞罰の問いへ、 入らなくてはいけません。 人間は、この原理に則って生きます - 報賞と処罰に、です。すべての動物が、そうであるように、です。 ですね? あなたは、犬を飼っているなら、 犬が何かを適切にするとき、犬に褒美を与えます。 あなたは、「従いなさい」と言うとき、 賞罰をとおして、次第に犬を調教します。 犬がこちらに来るとき、ビスケットをやります。 来ないとき、ビスケットをやりません。 それで、犬は、賞罰に依存するのを、学びます。 それから、次第にあなたは、「従いなさい」と言い、 犬はそうします。 よろしいですか。 同じ原理に則って、私たちは働きます。 私は、この生や過去の生、適切にしてこなかった。 私は今、それのつけを払っている。 だが、私は、適切に振るまうなら、来世、報われるだろう、と。 いいですか? で、それは、賞罰、同じ原理です。 さて、あなたは、動機なく、 この賞罰の原理なく、 行為できますか。生きられますか。 それに入ってください。その含意が何であるかを、見てください。 輪廻転生ではない。 私たちは後で、それに入るでしょう。 それは、とても些細な事柄です。 少なくとも、語り手にとっては、それは戯言です。 私は今、それに入らないでしょう。 なぜなら、この問いに、入らなくてはいけないからです - 継続性とは何か、終わることとは何か、継続するのは、何かに、です。 理解されますか。これら三つのことが、含意されています - それは、入るには、幾らか時間が、掛かります。 私たちは、次の二つの講話で、そうするでしょう。
1:04:08 で、私たちは、訊ねています - 原因なしの行為がありますか。 それに入って、それがいかに、とてつもなく興味深いのかを、見てください。 あなたが、輪廻を信じているのかどうか、だけではない。 それは、かなりバカげています。 何も原因を持たない行為を、見出すのです - 何も動機を持たないし、何も自己利益を持たない行為を、です。 自己利益があるなら、それは制限されています。 動機があるなら、それはやはり、さらなる制限です。 それで、行為は、けっして完全ではなく、ゆえに、問題をもたらします - あなたたちが、政治的にやっているように、です。 それで、私は訊ねています - そのもので、それ自体のために、行為がありますか。 あります。 それは愛です。 愛は、動機を持ちません。 愛は、報賞も処罰も、持ちません。 それは愛です。 その愛の性質があるとき、正しい行為がある。 正しい行為は、利巧な思考の中から、生まれていません。 全包括的な愛の感覚があるとき、正しい行為は、起こります。 私は、妻を愛し、人類を愛することができます。 なぜなら、それは愛であるからです。 それは、一人への愛であり、他の者たちへ拒否される、のではない。 あなたはこれを理解されるのかどうかと、思われます。 それが、本当の慈悲です。 その慈悲があるとき、智恵がある。 その智恵は自らに、対極を持ちません。
1:07:02 第四の質問: 「感覚 - 目、耳、頭脳など - すべてでもって、 同時に気づくことは、 可能でしょうか。」
1:07:15 「感覚 - 目、耳、頭脳、神経等 - すべてでもって、同時に気づくことは、 可能でしょうか。」 何でも、可能です。 しかし、私たちは人間として、どのように、機能しますか - 私たちの感覚すべてでもってか、または、部分的な感覚でもってだけか。 質問を理解されますか。 感覚は、とても重要なのでしょう。 さもなければ、あなたは生きられなかったでしょう。 触れ、感じ、味わい、見え、 見守り、聞こえるなどなど、 感覚すべてを、十分に目覚めさせて、です。 しかし、私たちの感覚は、そうではありません。 それらは、部分的に目覚めているだけです。ですね? なぜなら、自分の感覚を制御することは、 世界中の宗教の教義の一つであったからです。ですね? 神のためのエネルギーを持つために、感覚を制御する。 ですね? 性的な感覚、 聞こえる感覚 - 書物で言われないことは、何も聞くな、と。 いいですね? 何にも聞くな。 それは、疑惑、疑い、疑問を、目覚めさせるかもしれないからです。 だから、聞くな、と。 もう一つの興味深いことは - あなたは、注目したことがありますか。 書物により生きる人々 - イスラム教徒とキリスト教徒 - は、頑迷で、偏狭です。 私がこう言うのを、気になさらないことを、願っています。 たくさんの書物を持っている人たち - ヒンドゥー教徒のように、彼らは遊び回ります。 彼らは、さほど頑迷ではない。 彼らは、寛容です。彼らは、吸収します。 彼らはその吸収を、大きな器量と考えます - それは、そうではなく、ただの無頓着です。 で、同時に気づくことは、可能でしょうか - 感覚すべてが十分に・・・気づく。
1:10:12 あなたは、自らの感覚すべてでもって、日の入りに、注目したことがありますか。 あなたは、自らの感覚すべてでもって、 海の動きに、青い光と波の動きに、注目したことがありますか。 ありませんね。 あなたは、自らの感覚すべてでもって、妻を見守ったことが、ありますか。 ない。 さて、あなたが、自らの感覚すべてでもって、見守るとき、何が起きますか。 あなたは、その問いに答えられません。 なぜなら、一度も、そうしたことがないからです。 それで私たちは、感覚すべてが目覚めて、十分に機能しているとき、 何が起きるかを、言ってはなりません。 私たちが、いつも部分的に応答しているのは、なぜなのか。 おそらく、性的以外には、 部分的に応答している。なぜですか。 理解されますか。 諸感覚の部分的な応答 - なぜですか。 それは、私たちが、一つか二つの感覚に、重要性を与えてきた、ということですか。 いいですか? 私はあなたに、訊ねています。 または、私たちは、これらについて、考えたことすら、ありません。 それで、私たちは、自らの諸感覚に、気づきはじめるなら - 他の感覚より、一つの感覚を、より良いと選択するのではなく、 諸感覚の動き全体に、選択なく気づく。 その一部分に、ではない。 あらゆる感覚への私たちの反応を、見守る。 味わい、聞こえる、見える、 匂う、感じる - それらです。 私たちは、それにより生きます。 私たちは、感受により生きます。 ですね? 思考が、感受を引き継ぎます。 あなたは、それに注目したことがないですか。 私は、それらに入りたくないが、 それは大事なことではない。 それに入りましょう。
1:13:03 あなたは、店に、何か美しいものを、見る - すてきなシャツや、すてきなサリーや、 何であれ、店に見られる、美しいものです。 知覚がある。見る。店に入る。 それに触れる - それが、感受です。ですね? 見る、接触、感受。 そのとき、思考がやってきて、言います - 「あのシャツを、私が着るのは、何とすてきか。すてきに見える」と。 いいですか? で、思考は、あのシャツやあのサリーを着たあなたのイメージを、創り出します。 ですね? そのとき、欲望が生まれます。 あなたが、これの順序全体に、付いてきておられるのか、と思われます。 私たちはいつも、欲望と戦っています。 世界中の宗教は、「欲望を抑圧しなさい」と、言います - それと戦ったり、それを抑圧したり、それを取り除いたりしないでください。 あなたはできません。 ですが、神への欲望は、シャツへの欲望と同じです。 すみません。 なぜなら、どちらも、欲望に基づいているからです。 で、見る、接触、感受。 そして、思考を許さない - 気をつけて。 あなたはそれを、許せません - その真理を、見てください - 思考が来て、イメージを築いた瞬間、 欲望が生まれます。それは、事実です。 単純で、観察可能な、日常的な事実です。 さて、感受は、正常で、健康的です。 さもないと、あなたは、死んでいるでしょう。 よく気をつけて、見守る - 思考がイメージを築かないように、です。 理解されますか。 そして、思考に、感受よりイメージを、創り出させない。 あなたがこれを理解されるのか、と思われます。理解されますか。 私は、店にあのシャツを、見ます。 そのとき私は、内側へ入り、素材に触れて、 「美しい素材、手作りだ」と言います。 そのとき、思考がやってきて、 「もしも私がそれを着たなら、何とすてきだろうか」と、言う。 「私は、それを着よう。 すてきな青だ」と。 いいですか? 思考がイメージを創り出すとき、 欲望が生まれます。 感受に、欲望はありません。 もちろんです。それは感受です。 あなたはこれが分かるのか、と思われます。それは、本当に重要です。 そのとき、気づくのです - 思考が来て、感受より形を作り、 それにイメージを与える。 そのとき、欲望の葛藤です。 さて、観察がありますか - 大きい・・・ 明らかで、正確であり、どんな歪曲もなく、強要もない 観察が、ありますか- 思考を、見るのです。 付いてきておられますか。 思考に、即時に反応するのを、許さない - そのため、隔たりがあるように、です。 理解されますか。 それが、必要とする、ものすごい・・・付いてきていますか。 そうしてください。そうして、何が起きるかを、見てください。
1:17:17 聴衆: 質問をしてもよろしいですか。
1:17:22 K: いいですよ。
1:17:24 質問者: あなたが仰ったことへの、さらなる疑問です - すなわち、あらゆる感受や頭脳の応答は、 なぜいつも、思考ということに立って、ですか。 あらゆる感受や、頭脳のあらゆる反応は、 なぜいつも、思考ということに立って、ですか。
1:17:41 K: 何ですか。 私は、質問を理解していません。 なぜ、あらゆることが、思考に変わるのですか。

聴衆: なぜ、あらゆる感受が、思考に変わるのですか。
1:17:57 K: 分かります。それが、私たちが言っていることです。
1:18:00 あらゆる感受 - なぜ思考は、あらゆる感受に、介入しているのか。ですね?
1:18:07 質問者: ええ。それが質問です。
1:18:14 K: あなたは、なぜそうなると、思いますか。 私に訊かないで、あなたが、その問いに答えてください。私は後で、あなたに言うでしょう。 他の一人に、どの質問もしないで、見出してください。 あなたは、とても怠けています。 それが、現にあることです。 私たちは、思考によって生きます。ですね? それが、あなたが今持っている、唯一つの道具です。 思考は、世界に、最も驚くべき物事を、創り出してきました。 思考は、世界に、ものすごい混沌を、もたらしてきました - それは、戦争、分離した国家、民族、分離した経済です。 思考は、諸宗教を創り出し、諸宗教を分離してきました。ですね? それで思考は、一方向で無量の害を、 別方向で、大いなる善を、なしてきたのです - 保健衛生や、通信、 すばらしい良い外科医療を、 持つように、です。 あなたは、見たことがありますか - 彼らは、人工心臓を考案してきて、 移植するなどを、しています。 彼らは、信じがたいことを、しています。 で、思考は、私たちの生の道です。 その思考は、とても制限されています。 ゆえに、それは、世界に混沌を、創り出しています。
1:20:04 私たちは、けっして訊ねません - もう一つの道具が、あるのでしょうか。 思考でない、もう一つの知覚が、あるのでしょうか。 よろしいですか? さて、それは、大変多く入って行くことを、必要とします - 言語的にだけではなく、そうするのです。 その道具が、あります - すなわち、洞察です。 そこには、記憶がなく、時がなく、未来がない。 それは、即座の知覚です。 その知覚は、行為です - 分離していません。 私は今、それに入らないでしょう。なぜなら、それは、あまりに長く掛かるからです。

質問者: なぜ・・・(聞き取れない)
1:20:56 K: 私はここに、質問を持っております。
1:21:06 質問者: 私たちは、努力により、この思考の世界の中から、出てこられますか。
1:21:19 質問者: 私たちは、努力でもって、思考の世界の中から、出てこられますか。
1:21:24 K: いいえ。
1:21:26 あなたは、努力でもって、思考の世界の中から、出てこられますか。 あなたは、努力でもって、思考の世界の中から、出てこられますか。 いいですか? 誰が、努力を行う者ですか。 努力を行う者は・・・ 思考もまた、言います - 「私は、この中から抜け出すなら、もっと良い報賞を、得るだろう」と。 そうね、私たちは、自分自身で考えぬくことなく、 これらの質問をしますね。 語り手は、あなたを助けようとしていません。 彼は、あなたを、助けたくありません。 ですが、私たちはともに、話し合えます。 私たちはともに、対話をできます - それで、私たちのどちらもが、同じことを、明らかに見るように、です。
1:22:34 第五の質問: 「私は、神聖な魂たちの 教義と命令に、従いません。 だから、私は、彼らが私に、何か間違ったことをしかねないと、恐れを感じます。 私はいつも、不安に感じるし、恐れる状況に生きます。 どうか、私を導いて、助言してください。」
1:23:00 「私は、神聖な魂たちの教義と命令に、従いません。 だから、私は、彼らが私に、何か間違ったことをしかねないと、恐れを感じます。」 神聖な魂たちが、あなたに、何か間違ったことをするの? 「私はいつも、不安に感じるし、恐れる状況に生きます。」
1:23:38 私たちは、最もとてつもない観念を、持っていますね。 - おそらく、それらは病的で、神経症的です - すなわち、誰か邪悪な者、 邪悪な魂が、私たちを制御している。 私たちを形作り、何をすべきかを、語っている、と。 そして、善い魂、神聖な魂たちが、いて、「そうするな」と言い、 悪玉の対極を助言している。 なぜ私たちは、呪いに、怯えていますか - 或る人々が心理的に私に害を加えることに、 黒魔術に、です。 そうね、この国の、それら暗黒面です。 あなたたちは、それをよくよくご存じです- この国の暗黒面、です。 他の国々は、暗黒面を持っていない、ということではなくて、 それは、さほど公言されません。 私たちはなぜ、いつも、これに、捕らわれていますか - 誰かが私に害を加えている、と。 あなたは、他の人たちへ、害を加えていませんか。 あなたは、一日一食をとる貧しい人々へ、 害を加えていませんか。
1:25:18 そこで、本当に問いは、 善と悪なのです。ですね? その単純なことで、通してください。 善と悪。 尊いものと、卑しいもの、など。 善は、悪に関係していますか。 さて、気をつけて、見出してください。 善は、悪に関係していますか。 それは、関係しているなら、善ではない。 ですね? で、善は、思考により、呼び起こされますか。 気をつけて。 社会は、「これは善い」と言います。 命令は、「これをするな、これをするな、 これをするな、これをするな」と言います。 世界中の宗教は、 道徳的な生き方を、定めます - 「殺すな、盗むな、これをするな、あれをするな」と。 すべての宗教が、そうしてきました。 私たちは、それらの全く対極を、します。 「殺すな」 - 私たちは、殺します。ですね? 「だますな」 - 私たちは、だまします。 「二重基準を持つな」など、です。 私たちはみんな、対極をします。 で、私たちは、なぜ命令を、気に掛けますか - それらが、神聖であっても、神聖でなくても、 それらが、馬の口から直に、であっても、です。 その言い回しを、ご存じですか。 いいですよ。私は、その言い回しを、使わないでしょう。 誰か聖人や、何か神さまから、直に、です。 なぜ私たちは、これら命令を、受け入れますか。 それは、不条理に思われます。 それは、何か自然でないことを、生きようとする、という意味です。 で、なぜ私たちは、自然であることを、変化させないのですか - 命令に従うのではなくて、です。 私は貪欲です。いいですよ、私は貪欲です。 私はまた妬んでいる、その他すべて、です。 私は妬んでいる。それは、貪欲の一部です。 私は、妬むのが好きです。 それのどこが、間違っていますか。 しかし、命令は、「妬むな」と言います。 「他人の妻を見るな」、 など、その他すべてを、です。 なぜ私は貪欲なのか。 それが、私の問題です。他の誰かの問題ではない。 で、私はなぜ貪欲なのか。 なぜなら、私の教育全体が、もっともっと多くを持つことであるからです - もっと多くのお金、もっと多くのこれ、もっと多くのあれを、です。 ですね? そうではないですか。 もっと多ければ多いほど、良い - それは、比較、という意味です。 それは、測量、という意味です。 ですね? 測量 - 私は、自分自身を、あなたと比較します。 あなたは利発だ、聡明だ、美しい、等です。 私はそうでない。 で、あなたとの比較において、私は鈍くなる。 あなたと比較しないなら、私は鈍いですか。 私は、ありのままの私です。 私は、そこから動けます。 しかし、私はいつも、自分自身をあなたと比較しているなら、 私は、疲弊します。 あなたと戦い、あなたを嫉妬します。ですね? それで、私は、まったく比較しないでしょう。 そうしたことが、ありますか。 あなた自身を、何とも比較しないのです。
1:29:26 そうね、あなたは、美術館へ行ったことがあるなら、 一方には、ミケランジェロがある。 他方には、何か他がある、などです。 あなたは、他の絵と比較せずに、 その絵を、見つめられますか。 あなたは、その絵画が見えますか - 古い、いにしえの絵画です。 脇への散漫なく、それを見つめる。 すなわち、比較なく、です。 ただ、それを見つめる。 あなたは、比較せずに、妻と自分自身を、見つめられますか。 あなたはこれを、試したこと、したことがありますか。 何の比較もなく、生を生きること。 それが、本当の自由、自由の始まりです - そのとき、あなたが何かになる測量は、何もない。 おそらく、ビジネスの世界以外では、ね。 それですら・・・ しかし、内的に、心理的に、何も測量がありません。 それは、あなたが、暴力において、ますます良くならない、という意味です。 理解されますか。 それは、非暴力と呼ばれますが。 あなたは、これの冗談が分かるのかと、思われます。 暴力において、ますます良くなる。 それは、あなたたちが、みんなやっていることです。 で、頭脳は、測量へ、 比較へ、条件づけられてきましたが、 それを、完全に脇に置けますか。 そのとき、自由のあの性質が、あるのです。 そこにまた、愛もあるのは、 あの自由の深さが、または、 ただ自由が、あるときだけです。 それは、あなたが自由である、ということだけではない。それは戯言です。 自分は自由であると気づいているとき、あなたはもはや、自由ではありません。 「私は知っている」と言うとき、あなたはもはや、知りません。 これらを理解されますか。
1:32:13 止めたほうがいい。すみません。