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BO85Q2 - 第2回、質疑応答会合
インド、ボンベイ(ムンバイ)
1985年2月7日



0:10 クリシュナムルティ: これら質問に答えるか、 これら問いを探検する前に、 私たちは、問い、危機、挑戦に、 どのように接近しますか - 何か私たちが究明しなくてはいけないものに、です。 私たちはそれに、どのように接近しますか。 接近は、おそらく問い自体より、 はるかに大事だと、私は思います。 なぜなら、私たちは、それに怠惰に、何気なく、接近するなら、 問い自体は、ほとんど意味を持たないからです。 ですが、私たちはそれに、 何の偏見もなく、 楽になる解決への願望もなく、 接近するなら、です - 問いを征服するとか、 危機を片付けてしまうとの感覚ならば、 私たちは問いを、さほど深刻にでなく、 かなり些細にするだろうと、思います。 それで、接近が、尋常でなく大事です。 で、私たちは本当に、ともに話し合うべきです - 私たちは、どう接近するのか、私たちの動機は、何なのか、 私たちは、どの挑戦、どの問いをも、 どのように見做し、受け取るのかについて、です。 いいですね? 私たちは、 このホールの中の、私たちのみんなは - かなりみじめなホールです。 すみません。 汚れて、快適でない。 神様、どうしてこれは・・・私は、それに入らないでしょう。 この国で、私たちはなぜ、これら汚物を、堪えますか。
2:46 それに入りましょう。
2:50 仮に、私は問題を持っている、とします。 初めに、私は、問題とは何かを、問います。 問題(プロブレム) - その言葉の、まさに語源的な意味は、 何か投げつけられたものです。 それが、問題(プロブレム)という言葉の、実際の意味です - 何か投げつけられたものや、何か挑戦してくるもの、です。 私たちはどのように、その問題を、見つめますか。 その問題への、私たちの即時の応答は、何ですか。 それは、問題より、後ずさりすることなのか、 または、問題を征服しようとするのか。 私たちがみんな一緒に、ここにいることを、願っています。 私たちは少し、そうではないですか。 朝もかなり早いですが。 または、私たちは、問題への答えを、 見つけようとします - 境遇的に快く、満悦できるだろう答えを、です。または、 私たちは、問題を、まるでそれが、何か新しく新鮮なものであるかのように、見つめます。
4:42 どの問題も、古いのですか。 これは、だいじょうぶですか。 私はこのように、進んでいいですか。 私たちは、ここで、少し一緒にいますか。 どの問題、危機、問いも、 それは、何か新しいものですか。 または、それは、何度も何度も何度も 反復されてきた問題ですか。 いいですか? それが、反復的な問題であるなら、 なぜそれは、反復的な問いになったのでしょうか。 私たちの頭脳は、反復的などですか。 いいですか? 私たちは今朝、一緒にこれらにいますか。 タンピ(仕方ない)それは、あなたしだいです。
6:00 何ですか? 悪いタイプライターです! 私には分かりません。
6:23 第一の質問: 「神は、一つの法則を作り、眠りに就いた。 あなたは・・・ 」いったい何? - 「あなたは、蒔いたように、刈り取るべし。 理性的な行為に向かって、現在の人間の尽力により、 これの効果を、希釈することは、 可能でしょうか。」
6:56 それらはどういう意味ですか。 そのほうが良い。 ここには、逆光がある。 そういうわけで、困難なんです。 私の視力は、かなり良いが、それはさほど良くない。
7:39 (同じくバイブルからのことわざに)笑う時があり、泣く時がある。 ですね? 私は、これは笑う時である、と思います。
7:55 第二の質問: 「あなたはしばしば、私たちに、自らの頭脳を行使するよう、言われます。 またあなたは、私たちが聞いてきたことに則って、 行為することなく、単に聞くことを、提案されます。 これら二つの発言は、矛盾して見えます。 どうか、説明してください。」
8:20 「あなたはしばしば、私たちに、自らの頭脳を行使するよう、言われます。」 - ああ、そのほうが良い - 「またあなたは、私たちが聞いてきたことに則って、 行為することなく、単に聞くことを、提案されます。 これら二つの発言は、矛盾して見えます。 どうか、説明してください。」 あなたはしばしば、私たちに、自らの頭脳を行使するよう、言われます。 私たちは、ほとんどの時間、自らの頭脳を行使しています。 あなたは、お金を稼いでいるとき - あなたは、お金を稼いでいるとき、行くとき・・・ それを、いつの時も、行使しています。 しかし、私たちは、自分が考えること、 自分が慣れていることより、何か全然違ったことを 言っている誰かに、聞くとき 私たちは、他の一人が述べた発言を、ほとんど聞きません - ふつうの発言ではないかもしれないものを、です。 で、語り手が、「あなたの頭脳を使いなさい」と提案したとき - 頭脳の一部だけではなく、その全体を、使ってください。 理解されますか。 また、聞くこと。 彼は、私たちは聞くべきだと、提案してきました。 彼は、聞くとはどういう意味かを、説明しました。 耳で聞こえることが、あるだけではない。 また、耳の裏に聞こえることも、ある。 理解されますか。 あなたは、一つの言葉を聞きます。
10:50 この街のスモッグは、すさまじいね。 すみません。
11:08 私たちが言いましたように - すみません。 私たちが言いましたように、 聞くことは、芸術です。 芸術はまた、あらゆる物事を、その正しい所に置くことを、意味しています。 聞くことは、注意を必要とします。 気づかいの感覚、 受け取るか、何かに聞く感覚を、必要とします。 それは、意味を持つかもしれないし、意味をもたないかもしれません。 それは、偽りの発言なのかもしれません。 そして、その偽りの発言の中に、 その偽りの発言の真理を見ること、聞くこと。 これらに付いてきておられますか。 聞こえることは、大変多くの敏感さを、含意しています - ただ聞こえるとか、 あなた自身の快や不快に応じてとか、あなたがすでに知っていることに応じて、 翻訳するだけではない。 言われつつあることを、 まるで初めて聞いているかのように、聞くこと。 それが芸術です。 他のどの芸術とも同じく、それは、大変多く・・・聞く能力を、必要とします。 ですね? あなたの妻に、夫に、友だちに聞く、 あなたの子どもに聞く、 または、鳥などに、です - それで、 自らは、とてつもなく敏感になる。 それが、聞く芸術です。 彼は、問いは矛盾している、と言います。 すなわち、聞こえることと、 頭脳の活動、です。 そうではないですか。 聞こえることは、何か頭脳の活動より、違ったことですか。 あなたは、この問いに、興味がありますか。 または、私たちはそれを、飛ばしましょうか。
14:34 私たちは、自らの頭脳がいかに働くかに、注目したことがありますか。 私たちの頭脳、です。 - 科学者、生物学者などに沿ってではなく - あなたは、自身の頭脳が働いているのを、観察したことがありますか。 ありますか。 なぜそれは、一定のことを考えるのか。 なぜいつも、問題の反復があるのか。 なぜそれは、先入観を持っているのか。 なぜそれは、信念に、観念などに、 取りすがるのか。 あなたは、それが作動中なのを、見守ったことがありますか。 あなたがそれを見守るのではなく、それが生ずるままに、それを見つめている。 これらに付いてきておられるのかと思われます。 あなたはこれらを、試したことがありますか。 いいえ、ありません。 それで今、私が大変尊敬を込めて提案してもよろしいなら、 あなたは、語り手に聞いているとき、 まるで初めてかのように、聞いていますか。 彼は、英語の言葉を用います。 見たところ、私たちは、あなたと語り手は、英語を理解します。 さて、あなたは、一つの言葉を聞くとき、 言葉は、響きを持っています。 響きは、頭脳へ伝導されます。 そのとき頭脳は、その言葉の意味と、 その言葉の意義と、その言葉の了解を、 翻訳します。ですね? よろしいですか。 で、あなたは今、まるで初めてかのように、聞いていますか。 または、あなたは、語り手がこれらのことの多くについて話すのを、 すでに聞いてきた。 あなたはたぶん、本を読んだり、テープなどを聞いてきた。 あなたは、それらを脇に置いて、 言われつつあることを、 まるで初めてかのように、聞けますか。 または、初めてのように、日の出や日の入りを、見つめますか - 海を見つめるとき、です。 それで、頭脳が物事に、慣れてしまわないように、です。 私が言っていることを、理解されますか。 頭脳は、日の入り、日の出が、 あなたの妻、夫、その他すべてが、慣習化しない - それで、あらゆる物事が、新たで、新鮮であるのです。 それが、聞くことの芸術です - まるで初めて、それを見つめているかのように、 何かが見える芸術です。 それは、記憶が差し控えられている、という意味です。 これは修練です - 服従の修練ではなく、 どう見るか、どう聞くかを学ぶ修練です。 「修練(ディシプリン)」という言葉は、 語源的に、 学んでいる学徒を、意味しています。 自らの師匠からや、自らの導師からや、 知っている人から、ではなく、 学んでいる人、です。 それは、まるで、前に、何も知らなかったかのように、 彼は今、学んでいる、という意味です。 それが、その「修練(ディシプリン)」という言葉の意味です - 「学徒(ディサイプル)」という言葉から、来ています。 さて、私たちは、いつの時も、学んでいるなら、 あなたは、同時に、導師と学徒になる。 これらに付いてきておられますか。 ああ、いいえ。 私がお訊きしてもいいなら、 あなたは、語り手から学んでいますか。
19:47 聴衆: ええ、そうです。
19:49 K: あなたは本当に、学んでいますか。 誰がそう言ったのかを、気に掛けないでください。 あなたは学んでいるなら、 その言葉は、どういう意味ですか- 学ぶとは。 記憶することですか。 または、付け加えの過程が、何もないのですか。 私が言っていることを、理解されますか。 あなたがすでに蓄積してきたことへ、付け加えない。 むしろ、蓄積していなくて、 学んでいて、動いている。 たぶんあなたは、これらのことを、一つもしたことが、ありません。 それはすべて、新しい。 で、学ぶこと、 聞こえること、見えることは、大きな芸術です。 あらゆる物事が、ありのままに見える - 外的に、だけではなく、特に内的に、です。 物事が、まさにあるとおりに、見える。 それが、本当の正直です。 そこには、何も欺瞞がありません。 なぜなら、私たちは、自分自身を欺瞞しがちであるからです - 進んでなのか、気が進まずに、です。 神様!今朝は、あらゆる物事が、かなり、ぎこちないのでしょう。
21:50 聴衆: 口で言う質問と一緒の対話を許可してくださるよう、 要望してもいいですか - 書かれた質問を読むよりも、です。
22:01 K: 何ですか。 残念ながら、私はそれが、適切に聞こえませんでした。 誰か聞こえた人は、私に言ってくれるでしょうか。
22:19 聴衆: 彼は、対話を望みます。 彼は、直接的な対話を、お願いしています。
22:23 K: あなたは、対話を望みますか。

聴衆: ええ。
22:25 K: あなたは、その言葉がどういう意味かを、ご存じですか。
22:29 聴衆: 私たちは、あなたから学ぶでしょう。
22:32 K: それは、二人の間の会話です。 他の一人と本当に良い対話をするには、 私たちは同等に、それに興味を持つか、参与していなければなりません - 私たちがともに議論し、話し合いをしていることについて、です。 会話 - それは、 あなたと相手が、同じ水準にいなければならない、 同じ興味、同じ熱情を持たなければならない、 という意味です。 さもなければ、あなたは対話をできません。 対話をすることは、良い - 私たちはそれをできたならと、私は思います。 しかし、聴衆と、こんなに多くの人々とでは、 良い対話をすることは、可能ではありません。 それができるなら、それは、すばらしいことです。 私は、あなたが質問をなさるのを、阻止していません。 ですが、良い、深い対話をするには、 あなたと語り手が、同じ方向へ 動くことを、必要とします - 同じ意味をもって、 理解の同じ即時性をもって、です。
24:14 聴衆: 私は、あなたがちょうど今、仰ったことを、明確化してほしいのです。 あなたは、真理か、偽りの発言か、と仰りました。 真理と偽りとは、何ですか。
24:25 聴衆: 彼はあなたに、真理と偽りとは何かを、訊ねています。 真理か、偽りの発言か、です。
24:32 K: 真理 - 真実の発言や、偽りの発言とは、何ですか。 あなたは、どのように見出そうとしていますか。 他の一人からですか。 偽りの発言とは、何ですか。 偽り - あなたがいう偽りとは、どういう意味ですか。 例えば、ですね、 多くの人々は - それは、ごく普通の例です - 多くの人々は、民族主義はすばらしい事実であると、受け入れます。 私たちは、民族主義的でなければならない、と。 それは、偽りの発言ですか、真実の発言ですか。 あなたはそれを、どのように見つめますか。 あなたはどのように、見出しますか。 例えば、 世の中の、あなたたちのほとんどは、神を信じています。 信じていませんか。 いいですよ。 あなたは、神を信じています。 それは、偽りの発言ですか。 または、真実の発言ですか。 あなたはどのように、見出しますか。 信念 - あなたは、何でも好きなことを、信じられます。 どの幻影をも、 どの夢想的、ロマンチックで、感傷的な概念をも、です。 信念は必ずしも、真実でないかもしれません。 どの信念も、そうではない。 で、あなたは、どのようにこれらのことを、見出しますか。 あなたは、神があるのかどうかを、どのように、見出しますか。 見出すには、あなたは、信じる精神ではなく、 自由な精神を、持たなければなりません。 あなたは、究明し、見つめ、疑い、問うことが 可能な精神を、持たなければなりません - 恐れているのではなくて、です。 で、恐れは、偽りであることを、真実として、 真実であることを、偽りとして、創り出しうるのです。 ですね? これは、世の中で起きています。 で、何が真実であるか、何が真理であるかを、見出すには、 大きな敏感さ、自由の感覚が、 なければなりません - 自由の観念だけではなく、実際の自由、 恐れからの自由などが、です。 私たちのほとんどは、多くの幻影を持っています。 それら幻影は、真理、実在になってしまっています。 幻影より自由であることは、 最も必要で、難儀な仕事です - 幻影すべてより、全的に自由であることは、です。 そのときにのみ、あなたは、何が真実であり、何が偽りであるかを、見出せるのです。 ああ、ここにあります。
28:45 第二の質問: 「あなたは、神といったものはないと言われるし、 またあなたは、偶像崇拝をも非難される上は、 私たちがどう生まれるかと、 自然がどう存在するようになったかの問いが、 画像に入ってきます。 どうぞ、説明してください。」私が、説明しなくてもいい。
29:26 「あなたは、神といったものはないと言われるし、 またあなたは、偶像崇拝をも非難される上は、 私たちがどう生まれるかと、 自然がどう存在するようになったかの問いが、 画像に入ってきます。 どうぞ、説明してください。」
30:01 科学者たちは、私たちが水から、細胞から 動物、類人猿から 来た、と言います。 それらは、自然の一部です。 人間になるためには、三百五十万年か、 そこらが、掛かってきました - すなわち、今の私たちなるものに、です。 そのとおりなのか。または、あなたは、神が私たちを作ったことを、信じています。 ですね? この問いに、付いてきておられますか。 あなたは、科学的な理論や、科学的な事実を 信じているのか、または、 神が私たちを作ったことを、信じています。 または、私たちの中に神があることを、です。 あなたが、どんなゲームをやりたいにしても、です。 科学者たちは、これを事実として、証明してきました - 私たちが、小さな細胞として来て、 水より、それ自体を増殖させ、 次第に、陸生となり 類人猿より、私たちは、今ある私たちになった、ということを、です。 すなわち、私たちは自然の一部です。 全世界が、私たちの一部です。 そしてあなたが、何か創造主が、あなたを作ったことを、信じているなら、 その創造主は、かなりバカ、かなり盲目的で、 白痴的な男や女であるにちがいありません。 なぜなら、私たちを、私たちが何なのかを、見てください。 今、あなたは笑います。 しかし、すべての寺院、神殿、モスクと教会は、 これで満たされています。 私たちは、神の姿に似せて、作られていません。 私たちは、自分たちの姿に似せて、神を作ってきたのです。 違いを理解されますか。
32:43 みなさま、その言葉ではなく、 記憶ではなく、伝統ではないものを、 時のなどではないものを、 見出すには、発見するには、 出くわすには、 私たちは初めに、自らが何であるかを、理解しなければなりません。 なぜ私たちは、このようになったのか - 野蛮で、暴力的で、貪欲で、妬み、 金銭志向で、互いに憎み合っている。 世界で、つづいていることすべてを、ご存じですね。 誰が私たちを作ったのか、と言うより、 初めに、それを見つけるほうが、はるかに重要です。 私たちは、今の私たちなるものです - 盲目的で、かなり愚かで、 だまされやすく、 怯えて、さびしく、憂鬱で、悲しんでいる。 それらが、私たちなるものです。 人間心理の、この構造全体を、理解するほうが、 単に神について話をするより、はるかに重要です - または、何か反復的な儀式をしたり、 寺院に行って、一個の石を崇拝したりするより、はるかにそうです。
34:39 語り手は、何をも非難いたしません。 これを指摘するのを、お許しください 彼はただ、私たち、人間が何をしているかを、示すだけです。 彼は、鏡として作用しています - あなたが、その鏡をのぞき見るように、です。 その鏡は、権威ではありません。 それは、何の権威をも持っていません。 それはただの鏡です。 その鏡は、あなたがそれを、明らかに見、 その鏡に見えるものを理解するとき、 鏡を投げ捨て、壊してください。 それを、もう一つの偶像や、 もう一つの個人崇拝に、しないでください - ほとんどのインド人が、そうしがちであるように、です。
35:42 で、初めに、重要なのは、私たちがどう生きるかを、見出すことです。 なぜ私たちは、狭く、制限されていて、 自己中心的で、利己的なのか。 それは、反復的に聞こえるかもしれませんが、 それは、私たちの生すべてを形作る 最も重要な要因です。
36:33 第三の質問: 「精神とは何ですか。 知覚者なしに、それが それ自体を見つめることは、 いったい可能ですか。 それは、どの中心からでもなく、 花を見つめるほど、 単純だとは、思われません。」
37:05 「精神とは何ですか。 知覚者なしに、それがそれ自体を見つめることは、 いったい可能ですか。 それは、どの中心からでもなく、 中心なく、 花を見つめるほど、 単純だとは、思われません。」
37:32 いいですか?問いを理解されましたか。 はい? どうぞ、言っていただけないでしょうか。

聴衆: ええ。
37:43 K: 精神とは何ですか。 そして、頭脳とは何ですか。 頭脳が、精神ですか。 または、精神が、頭脳ですか。 それが、一つの問いです。 他のは、こうです - 頭脳は、思考は、それ自体が作用中なのを、 動いているのを、見ることが、可能でしょうか。 それが、二番目の問いです。 そして、知覚者なしに、観察すること、 見ること、見えることは、いったい可能でしょうか。 ですね? それらが、これに関与した三つの問いです。 あなたは、これに興味がありますか。
38:32 聴衆: はい。

K: 私を喜ばせないでください。 私は、立ち上がって、去ってもいい。 それは大事なことではないでしょう。 あなたがそれに、興味を持っていることを、願っています。 または、あなたがそれに、関心を持っていることを、です - 興味ではなく、関心、です。 精神は、頭脳より異なっていますか。 これは、とても重要な問いです。 なぜなら、私たちは、この事柄について、幾人もの科学者とともに、 議論、その他すべてを、してきたからです。 頭脳は、私たちの神経の 応答すべてにとって、中心です。ですね? 行為と反応(作用と反作用)すべての中心です - 応答と、応答しないことのです。 それは、恐れの中心です - 嫉妬、憎しみ、暴力、悲しみ、 さびしさ、心配、憂鬱、悲しみ などの中心です。 それは、すべての動きの中心、 時と思考の、中心です。 よろしいですね? その頭脳は、条件づけられています- 思考により、 恐れにより、苦しみによって、です。 または、それは、知識によっても、条件づけられています。ですね? これらに付いてきておられますか。

聴衆: はい。
40:15 K: それで、頭脳は、この地上に、三百五十万年以上か、 四百万年の間、生きてきましたが - 人としてではなく、動物などとして、です。 ここ百万年か、五万年の内だけ、 それは、人間になったのです。 今、人間に収容されている頭脳、です。 これが、科学者たちが言うことです - この頭脳は、紀元前八千年より、存在してきたし、 おそらく、さらに長く、と言うのです。 で、この頭脳は、条件づけられています。 ですね? それは事実です - 思考により、時により、条件づけられています。 それは、制限された形で、部分的に、 行為できるだけです。 いいですか? あなたが、技術者として、専門化しているなら、 余生の間、それは、 特定の方向で、機能しています。 あなたは、お金に興味があるなら、それは、その方向で働いています。 ですね? あなたは、学者、パンディットであるなら、 情報を集めるでしょうし、 あなたの頭脳は、その知識に、はまり込んでいます。 で、頭脳は、経験により、知識により、 記憶により、条件づけられています - すなわち、思考と時によって、です。 これは、明白な事実です。 精神は、頭脳の内にありますか。 質問を理解されますか。

聴衆: ええ。
42:44 K: 精神は、頭脳の内にありますか。 または、頭脳の外側にありますか。 私はこれを、あまり長くつづけないでしょう。なぜなら、私たちは、 これについて対話をできないからです - 私たちはそれができたら、と思います。
43:14 そうね、愛は、頭脳の内にありますか。 この問いに、答えてください。 愛は、(ともに苦しむ)慈悲ですか - 同情や共感や、 優しさとそれらではない。 愛は、それらを、持っているかもしれませんが、 頭脳は、制限され、条件づけられています。 愛は、頭脳の内にあるなら、 愛は、条件づけられ、制限されています。 いいですか? 愛は、制限されていますか。 慈悲は、 その無際限の智恵とともに、 それは、頭脳の内にありますか。 または、その外側にありますか。
44:23 聴衆: はい。 

K: いいえ。 「はい」と言わないでください。 どうぞ、これは、とても深刻な問いなのです。 きわめて深く、それへ入らなくてはいけません。 あなたは・・・いや、頭脳は、自らの制限に気づいてこそ、 見出しうるのです - その制限を悟り、それに注意していて、 そのとき、それは、まったく自由になり、ゆえに、静かになるのです。 そのとき、精神は、 頭脳と接触する可能性が、あるのです - 頭脳が、精神と、ではない。 これらを理解されるのかどうか、私は知りません。 あなたは、これらに、少し付いてきておられますか。
45:24 聴衆: はい。
45:27 K: 本当に、ですか。 あなたは、それがどういう意味かを、ご存じですか - 自分の日常の生き方を理解し、 あなたの日常生活の真理と虚偽を見て、 その日常の作動、日常の存在が、いかに条件づけられていて、狭くて、 制限され、自己利益に基づいているかを、見ることなのです。 そして、その自己利益より、自由であることは、 可能なのかどうかを、です。 そのとき、何が起きるかを、見てください - 何が起きるかもしれないと、想像するのではない。 そのすべては・・・あなたが、多くの年を掛けるのか、 あるいはまた、一瞬にそれを捉えられるのか、です。 これは、とても深刻な事柄です。 なぜなら、精神は、とてつもないものであるからです - あなたが入り、それがそもそも存在するなら、 すなわち、愛がそもそも存在するなら、です。 愛は、条件づけられていません。 私は、自分の妻や父や母や息子を、愛せます。 けれども、あの香りは、いつもそこにありえます。 それは、個人的ではありません。
47:36 第四の質問: 「恐れ、さびしさ、悲しさといった、 人間の問題を理解するためには、 あなたの、「観察者は観察されるものである」との発言ばかりが、 重要であるように、思われます。 けれども、その発言の論理は、 知的な水準を、 越えていくように、 思われません。 一定の事実が、単なる概念に留まるのは、 なぜですか。」
48:26 「恐れ、さびしさ、悲しさといった、 人間の問題を理解するためには、 あなたの、「観察者は観察されるものである」との発言ばかりが、 重要であるように、思われます。 けれども、その発言の論理は、知的な水準を、 越えていくように、思われません。 一定の事実が、単なる概念に留まるのは、なぜですか。」
49:12 私たちのいう、理解とは、どういう意味ですか - 「理解する」という言葉です。 あなたが、「私は理解する」と言うとき、それは、どういう意味ですか。 あなたは、それら言葉の意味を、理解しますか。 または、それら言葉の含意を、理解する、ということですか - それは、それら言葉の響きですが、 または、あなたはそれを、いわゆる知的に、理解しますか。 すなわち、あなたは言葉の意味を、理解したのです。 意味は頭脳に、概念として残ります。 ですね? で、理解する - それは単に、言語的な了解、という意味だけですか。 または、理解する - すなわち、あなたは、究明し、観察し、探求し、 問い、疑ってきて、 「よし、分かった」と言う点に、来ます。 あなたが、「理解する」という言葉を使うとき、それはどちらですか。 それが、私たちの困難です。 あなたは、発言が聞こえます - 私たちがちょうど今、行ったような、です。 あなたは、その発言より、抽象化をします。 その発言のジュース、です - それから、それを観念にします。 そして、事実ではなく、観念ばかりが、重要になる。ですね? 私たちは少しは、一緒にここにいますか。 あなたは今、そうではないですか。 語り手が、「あなたがいう、理解するとは、どういう意味ですか」と、言うとき、 あなたは、そうではないですか。 それは、単に言葉ですか。 意味を知的に掴むこと - 意義、言語的な含蓄、 などを、だけですか。 あなたはそれを、知的に掴みます - それはただ、理解のごく、ごく一部の役割です。 知能は、役割を持っています。 しかし、その役割ばかりが、重要になるとき、 あなたは、あらゆる他の部分を、放置します。 で、あなたが何かを理解するとき、 その理解は、行為です - ただの理解だけではない。 例えば、私は、暴力の本性を、理解します - 物理的な暴力だけではなく、 暴力の複雑な本性全体を、です。 私は、それを理解するだけではなく、 暴力すべての帰結と、 暴力の含意、様々な形が、見えます。 私は、それの一部分だけではなく、それの全体を、見つめます - 私たちがいかに、この非暴力の夢想的な観念の中へ、逃避するのかを、です。 私は、それらを含めて、それを見つめます。 そのとき、見ることが起こるとき、 あなたは、それに注意を注いでいます。 ゆえに、それを越えていきます。ですね? さて、人間存在すべて、恐れ、さびしさと悲しみといった 諸問題の理解のためには、 「観察者は観察されるものである」とのあなたの発言ばかりが、 重要だと思われます。 それに入りましょうか。 観察者と観察されるもの。 あなたは、月を見つめたことがありますか - 満月や、新しい月を、です。 新しい月の美しさ、 西の空の、薄く細長い光や、 先日の夜の満月。 あなたは、それを見つめたことがありますか。 あなたが、それを見つめるとき、 誰が、それを見つめていますか。 気になさらないなら、どうぞ、少し、これに付いてきてください。 退屈しないで、ただ付いてきてください。 私は、あの新しい月を、見つめます。 私は、まるで初めてかのように、それを見つめますか。 または、私はそれを見つめて、「あれは新しい月だ。 二週間後に満月になるだろう」と言います。 で、私は、見えるものを、即時に言葉に表します。 ですね? 私は、あの新しい月を、その言葉なしに、見つめられますか。 ですね? なぜなら、その言葉は、月ではないからです。 「月」という言葉は、空の実際の月ではない。 しかし、私たちが、何かを見つめるとき、 即時の反応は、それを言葉に表すことです。 これは明白です。 私は、自分の妻を見つめるとき、「彼女は私の妻だ」と言います。 私たちは、まるで初めてかのように、けっして、彼女を見つめません - 言葉なく、記憶なく、 妻や夫の含意すべてなしに、です。 で、あなたは- それをごく単純にすると - あなたは、樹や花を、言葉なしに見つめられますか。 あなたは、それを試したことが、ありますか。 それをしたことが、ありますか。 言葉なしに、です。 そのときあなたは、言葉がいかに事実を歪曲するかが、見えるでしょう。 あなたは、「彼女は私の妻だ」とか、「彼は私の夫だ」とか、 「ガールフレンドだ」などと言うとき、 或る人間のまさにその言語化は、 - 生きている人の、です - あなたは、その人間を、言葉に入れたのです。 ゆえに、その言葉は、制限されています。 これらを理解されますか。 私たちは、これらを少し、理解しつつありますか。 で、あなたは、言葉なしに、何かを見つめられますか。 あなたは、そこに座っていて、 この姿を見つめていながら、 言葉なく、イメージなく、 この姿形を、見つめられますか - 評判なく、それらの戯言なく、 あなたは、彼を見つめられますか。 言葉が、観察者ではないですか。 これを理解されますか。 言葉と、 イメージ、記憶 - それらが、観察者ではないですか。 ヒンドゥー教徒であるとの背景が、 迷信すべてとともに、 信念すべてとともに、含意すべてとともに、 または、あなたがイスラム教徒であるなら、そのすべてとともに・・・それが、その背景です。 観察者に、まるでそれは、観察されるものより 異なっているかのように、するのは、記憶です。 ですね? 少しこれに、付いてきておられますか。 または、私たちは時間を、むだにしていますか。 で、あなたは、背景なく、見つめられ、観察できますか - 観察されつつあるものに対して、 過去の記憶が、障ることなしに、です。 あなたが、そうするとき、観察されつつあるものだけが、ある。 観察されるものを、観察し、見ている観察者は、ない。 これを少し、理解されましたか。 観察者や目撃する者との間に、 違いがあるとき、 観察者と、観察されるものとの間、 二つの間に、分割があるとき、 私たちが前に言いましたように、 どこでも、分割があるところ、葛藤があるにちがいない。 ですね? そして、なぜ人間たちが、葛藤の中に生きるかを、理解することは - 生まれた瞬間から死ぬまで、です - なぜこの分割が、観察者と観察されるものの間などに、 存在するかを、見出すことなのです。 または、観察されるものだけが、ある。
1:00:42 聴衆: (聞き取れない)
1:00:45 K: 何でしょうか。 ええ、喜んで。
1:00:55 聴衆: (聞き取れない)
1:01:12 K: あなたはここに来て、彼らが言っていることを、翻訳してくださるでしょうか。
1:01:17 聴衆: 彼は、観察者は死んだものであると、考えます。
1:01:27 聴衆: 私が参りましょうか。
1:01:29 K: お出でにならないでください。 それには、あまりに長く掛かります。 いいですよ。
1:01:51 彼は、消えてしまったのですか。 私は何かを、言ってもいいですか。 これが、あなたたちがどのようなのか、です - 話をする、叫ぶ。 彼は、消えてしまったのですか。 いいですよ。進みましょう。
1:02:52 あなたたちが、娯楽を楽しんでいるのが、うれしいです。 後生ですから、これは娯楽ではありません。
1:03:07 私たちが言っていることは、 どこでも分割があるところ、葛藤があるにちがいない、ということです。 ですね? それは法則です。 永遠の法則です。 分離、分割があるところ - 二つの部分に割れてしまうことが、あるところ、葛藤があるにちがいない。 その葛藤は、究極的に戦争に、人々を殺すことになる。 世界で、今、示されつつあるように、です - アメリカ、ロシア、レバノンで、イスラム教徒、 イスラム世界と、非イスラム世界 - 彼らは、葛藤、抗争になっています。 で、葛藤を理解し、自由になること、 本当にそれから自由であることは、 なぜ観察者が、観察されているものより、自らを分離して、 支配的になるかを、理解することです。 いいですね? 私は観察するとき、 私は結婚していたり、ガールフレンドを持っているなら、 私たちの間に、分割があります - 実際の、です。 物理的な分割だけではなく、 伝統的な分割、親の権威 誰かの権威 - それで、私たちの関係には、いつも分割が、ある。 ゆえに、いつも、人間たちの間に、葛藤、抗争がある。 葛藤が存在しない関係を持っている人は、 世界に、ほとんどいないのです。 葛藤は存在します。なぜなら、 私たちは、観察されるものより、観察者を分離してきたからです。 私は、自分の怒りより違っている。 ですね? 私は、自分の妬みより違っている。 私は、自分の悲しみより違っている。 ゆえに、違っているので、葛藤がある。 すなわち、私は、悲しみを取り除かなければならない。 または、私は、悲しみを乗り切らなければならない。 悲しみをどう乗り切るのかを、教えてくれ。 私の恐れをどうするのかを、教えてくれ - それで、葛藤、抗争がある。 いつの時も、です。 しかし、あなたは悲しみです。 あなたは、悲しみより、違っていないでしょう。 あなたは、怒りより、違っていないでしょう。 あなたは、自分の性欲より、違っていないでしょう。 あなたは、自らが感じるさびしさより、違っていません。 あなたがさびしいのです。 しかし、私たちは、「ええ。私はさびしいが、私はそれより逃避しなければならない」と言います。 それで、私は、寺院に行くとか、娯楽で楽しむ、などです。 あなたは、自分がなっている性質より、違っていません。 その性質は、あなたです。 私は怒りです。 私は悲しみです。 私はさびしい、憂鬱です。 さて、前に、私は分離したとき、 私は、自分の悲しみに対して、行為しました。 理解されますか。 私はさびしいなら、そのとき私は、さびしさより逃避します。 それを乗り切ろうとか、それを分析しようとします。 そして、あらゆる種類の面白いことや、宗教的な活動でもって、 さびしさを満たそうとします。 しかし、私がさびしいなら、それについて、何もできません。ですね? この事実を理解されますか。いいえ? どうぞ、私に言ってください。 私はさびしいなら - そして、私がさびしいのです。 私はさびしい、私より何か違ったものだ、というのではない。 私はそれです。 前に私は、それに対して行為しました。 今私は、それに対して行為できません。 なぜなら、私はそれであるからです。
1:07:52 で、観察者が観察されるものであるとき、何が起きますか。 理解されますか。 怒りが私であるとき、何が起きますか。 あなたは、これを探究したことがありますか。 または、ただ、「ええ、私は観察者、観察されるものです」と言うだけですか。 それは意味がない。 しかし、見出すか、経験するには、 それに入って、怒りがいつも、あなたより違っているのかどうかを、見出してください。 それはずっと、伝統でした。 それはずっと、条件づけでした - 「私は自分の怒りより違っている」と言うことが、です。 ゆえに、あなたは、それに対して、行為しました。 しかし、あなたは、自分が怒りであると、悟るとき、 あなたは何をしますか。 何が起きますか。 初めに、葛藤すべてが、止まります。 ですね? あなたは少し、これに付いてきておられますか。 あなたが、自分はそれであると悟るとき、葛藤すべてが、止まります。 私は褐色です - 終了しました。 それは事実です。 薄い褐色か、濃い褐色か、紫か、どんな色であっても、です。 で、あなたは、この分割的な過程を、 すっかり消去します - あなた自身において、葛藤をもたらすものを、です。
1:09:42 質問者は訊ねます - 私たちが、 事実より抽象化するのは、なぜですか。 事実は、私が怒りであることです - 私は嫉妬深い。私はさびしい。 なぜ私たちは、それを観念にし、それを抽象化しますか。 事実に向き合うより、むしろ、抽象化するほうが、簡単ですか。 なぜなら、観念でもって - 私はそれでもって、遊べるからです。 私は、「ええ、これは良い観念だ。 これは悪い観念だ。 それについて、私を納得させてください。 私を納得させない」と、言います。 よろしいですか。私はつづけられます。 しかし、抽象化がなく、事実があるとき、 私はそれを、扱わなくてはなりません。 そのとき、私は自分自身を分離し、 そのとき、「私はそれについて、何かをしよう」と言います。 しかし、分離がない、と悟るとき - あなたは、それです。 あなたは、「有るもの」です。 あなたは、ヒンドゥー教徒です。 あなたは、イスラム教徒です。 あなたは、キリスト教徒です。 あなたは、ビジネスマンです。 あなたは醜い。あなたは残忍です。 あなたはそれらです。 そのとき、あなたは、自分の中の分割の感覚を、 すっかり消去したのです。 ゆえに、葛藤がありません。 あなたは、葛藤がないとき、頭脳がどのようなのかを、知っていますか。 頭脳が、永続的な葛藤の中にあるとき - ほとんどの人々の頭脳は、そうですが - その頭脳には、何が起きますか。 それは負傷します。ですね? それは負傷し、傷ついています。
1:11:59 聴衆: 一つ、質問をしてもいいですか。
1:12:05 K: 私は、途中なんですが・・・ ここに来てください。来て、座ってください。 私はそうしたい・・・すみません。 気の毒に。彼は、はるばる来ました。 彼に質問を、してもらいましょう - 少し後で、です。 私に終了させてください。
1:12:40 たぶん、あなたは、 葛藤とともに、痛み、悲しみ、恐れとともに、 長く生きてきました。 この葛藤を、あなたは、 「それは自分の生の一部だ。私は葛藤を受け入れよう」と、言ってきました。 あなたは、そのように、つづけてきました。 しかし、あなたは、葛藤が頭脳に、人間に、心理に、何をするのかを、 一度も探究したことがありません。 そうね、それは永続的に、殴られています。 物理的に、自らが常に殴られているなら、 何が起きるかを、ご存じですか。 常に、葛藤で爆撃されています。 頭脳に、何が起きますか。 それは縮みます。 それは、とても小さくなり、制限され、醜くなります。 それが、私たちのみんなに、起きつつあることです。 で、相当に智恵のある人は、訊ねます - なぜ私は、余生の間、葛藤の中に生きるべきなのか、と。 で、彼は、葛藤とは何かを、探究しはじめます。 分割があるところ、葛藤は存在するにちがいない - 外側とともに、内側でも、です。 この分割は、深く、根源的に、「私」です。 観察者と観察されるものです。 二つの分離した活動が、進んでいます- それは真実ではありません。 なぜなら、あなたは怒りであり、あなたは暴力的であるからです。 で、あなたがこの点に来て、 観察者が観察されるものであることを、悟るなら、 全的に違った活動が、あって、進んでいるのです。
1:15:05 さて、あなたは、何を仰りたいですか。
1:15:12 質問者: あなたは私に、私は怒りである、と仰っています。 なぜなら、怒りは、私の精神の状況であるからです。 悲しみもまた、私の精神の状況です。 幸せと不幸せ、怒り - これらはすべて、私の精神の状況です。 なぜなら、私は自分の精神を知っているからです。 なぜなら、私は自分の精神ではないからです。 私の精神は、私より違っています。 それは、私の精神であるからです。
1:15:33 質問者: 私は精神ではありません。

K: 理解できます。
1:15:36 質問者: 精神は、私より全然違っています。 だから、私は、自分の精神の状況を、知っています。 なぜなら、それは時々、幸せな状況にあり、 それは時々、不幸せな状況にあり、 それは時々、悲しみの状況にあるからです。 なぜなら、私は以前、記憶の世界に、一つの思考を得るとき、 私は、想起するかもしれません。 私の精神は、その記憶を想起しつづけるし、 いつも、嘆き悲しんでいます。

K: ええ、そうです。
1:15:59 K: なぜですか。私はそれを、よくよく理解します。 あなたは、ここに来て、私たちへ講話をしたいですか。 さあ、さあ、来てください! では、彼らへ講義をしてください。
1:16:42 質問者: いえ、いえ、勘弁してください。

K: 仰ったでしょう。

質問者: 私が、自分の怒りを知るとき、それは怒りではありません。 なぜか。私は、自分の怒りを、知りつつあるからです。 私が、自分自身を怒りと同一視するとき、 即時に行為が、出てくるでしょう。 それは正確ですか、どうですか。 どうぞ、理解してください。私は、誰をも、思いとどまらせようとしていません。
1:17:08 K: ああ、はい。 私たちは、理解しようとします。
1:17:13 質問者: クリシュナムルティさん、誤解しないでください。
1:17:19 K: 静かにここに座ってください。

質問者: いえ、いえ。 静かに座ってください。座ってください。今、あなたはここにいるので、座ってください。
1:17:34 もう止める時間です。 もう止める時間です。
1:17:50 あなたたちは今朝、Kが話してきたことが、聞こえてきました。 あなたは、質問に対する様々な応答が、 様々な答えが、聞こえてきました。 私たちは、はっきりしないで、かなり混乱して、去ってゆきます。 しかし、私たちが互いに聞くなら - 私は、このお方に、聞いてきました。 本当に聞きました。 そして、語り手と彼自身との間に、葛藤は何もない。 なぜなら、彼は聞いてきたからです。 彼は、彼が言うべきことを、知っています。 もしも私たちが、一日か、一時間だけでも、 葛藤が何なのかを、見られたなら - なぜ私たち、人間が、葛藤に捕らわれているか、 痛みと心配すべて、 それらとともに、です。 そのときおそらく、私たちは、 けっして害されていない、けっして負傷や衝撃を受けなかった頭脳でもって、 生を生きることが、できるかもしれません - で、それが自由な頭脳であるように、です。 精神が - すなわち愛が、です - 頭脳に接触できるのは、おそらく、そのときだけなのです。 それだけです。