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BO85T1 - 私たちの頭脳とは、何なのか。
第1回、公開講話
インド、ボンベイ(ムンバイ)
1985年2月2日



0:19 クリシュナムルティ: これは、私たちの間の対話、 二人の友だちの間の会話です。 で、これは、教示したり、情報提供したり、 導くための講義ではありません。 私たちはともに、多くのことについて、 話し合おうとしています - 確かに、あなたに何をも、確信させるためではなく、 宣伝ではなく、 あなたに、新しい観念や新しい概念、 結論や理想の情報を、知らせるためではない。 私たちはともに、この世界全体を、ありのままに、見つめようとしています - 世界のこの部分だけではなく、 また、残りの世界で起きつつあることをも、です。 ともに、です。 語り手は本気で、ともに、と言っています。 あなたと彼は、観察しようとしています - どんな偏見もなく、どんな先入観もなく、 地球的に何が起きつつあるかを、です。 ですから、どうぞ、 これは真剣な話です。 知的、言語的や、情動的や 信仰的ではない。 私たちの頭脳を、行使しなければなりません。 私たちは、懐疑的であり、疑い、問わなければなりません。 誰が言うことを、何も受け入れないで、です - すべてのあなたの導師、聖典とその他すべてを含めて、です。 なぜなら、私たちは世界の危機に、到ったからです。 危機は、単に経済的とか、戦争とかだけではなく、 むしろ心理的です。 なぜなら、私たちはこの地上に、五万年以上か、 百万年の間、生きてきたからです。 この長い期間の間に、私たちは、 あらゆる種類の大惨事、あらゆる種類の戦争を、 通り抜けてきました。 幾つもの文明が、消え去りました- 文化が、 人間たちの振るまいを、形作りながら、です。 大変多くの指導者たちが、いました - 政治的、宗教的なのが、です。 そして、彼らが、人間たちにやってきた、ごまかしのすべてです。 人間の頭脳の この甚大な進化の間に、 私たちは、これまでの私たちなるものです- かなり原始的で、野蛮で、残酷で、 いつも戦争の準備をしています。 あらゆる国家、民族が、今、兵器を蓄えています。 たぶんあなたは、これらをご存じです。 私たち人間は、これに捕らわれています - 時の輪に、です。 私たちは、あまり変化してきていません。 私たちは、いまだに野蛮人です。 あらゆる種類の迷信、 あらゆる種類の信念を信じ、 様々な指導者に、従っています - 政治的、宗教的なのと、 あなた自身の地元の導師に、です。 そのすべての終わりに、私たちは、どこにいますか。 あなたは、お金を持っているかもしれません - 特にこの街では、お金と力が、最も重要なものです。
5:30 どうぞ、私たちが言いましたように、私たちはともに、話し合っています。 それは、語り手がこれらを説明している、というのではない - それは明白です - ともに、 あなたと私、語り手は、よく気をつけて、 勤勉に検討します。 私たちが何になったのか、 私たちが何なのかを、検討します。 そして訊ねます - 時は私たちを、変化させるのでしょうか。 時は、すなわち、 さらに百万年か 五万年ですが - 時は、人間の精神、 人間の頭脳を、変化させるのでしょうか。 または、時は、まったく重要でないのでしょうか。 それで私たちは、これらすべてのことについて、話そうとしています。 私たちは、話をしようとしています - 人間たちは、心理的に、けがをしています。 世界中の人間たちは、 大きな悲しみ、痛み、苦しみ、 さびしさ、絶望に、捕らわれています。 頭脳は、最もとてつもないものを、創り出してきました - 思想的にも、テクノロジー的にも、宗教的にも、です。 最もとてつもない美しい記念物を、築いてきました。 頭脳は - それは、私たちの頭脳、あなたのと、語り手の頭脳です - それは、とてつもなく有能です。 ですね? その能力は、とても制限されています。 なぜなら、私たちは テクノロジー的に、とてつもない速度で、前進しつつあり、 そして、心理的、内的に - 私がその言葉を使っていいなら - 私個人は嫌いなその言葉を、 あなたが気にされないことを、望みますが - 「霊的」という言葉、です。 たくさんのあなたたちが、ネックレスと、 あらゆる種類の衣装を着けて、ここにいるのが、見られます。 内的に、 心理的に、 私たちは、とても原始的です。 私たちは、野蛮人です。 残酷で、無思慮で、気に掛けず、 起きつつあることに、無頓着です。 腐敗すべてに、無頓着です - 環境的に、だけではなく、 宗教の名、政治とビジネスなどの名において、 つづいている腐敗に、です。 腐敗は、テーブルの下でお金を渡すことや、 品物をこの国へ、密輸することではありません。 自己利益があるところ、腐敗は始まります。 ですね? 自己利益があるところ、それが腐敗の起源です。
9:40 私たちは、ともに考えていますか。 または、あなたは単に、語り手から聞いていますか。 私たちは、ともに二人の友人として、 長い旅を行いますか - 地球的な世界への旅、 私たち自身の中への旅です - 私たちは何なのか、私たちは何になったのか、 なぜ私たちは、私たちのように、今あるものになったのかの中へ、です。 これは、この旅をともに行うことを、必要とします。 語り手がそれを行って、あなたに、地図、道路と道を 指し示すのではない。 むしろ、ともに、です。 語り手は本気で、ともに、と言っています。 なぜなら、彼は導師ではないからです。 思考の世界、心理の世界においては、 誰にも、従うべきではありません。 私たちは、助けてくれる他人に、 大いに依存してきました。 そうなっています。 私たちは、あなたを、助けていません。 その点は、とても明らかにしましょう。 語り手は、あなたを助けていません。 なぜなら、あなたは、助ける人をいっぱい持ってきたからです。 私たちは、一人で立つこと、 自分自身で考えぬくこと、 世界と、世界への私たちの関係を、見つめることが、できてきませんでした - 私たちはそもそも個人なのか、 大きな人類の一部なのかを、です。
12:20 私たちは、自らの頭脳を、行使してきませんでした - それは、とてつもなく有能です。 私たちは、自らのエネルギー、能力、 知的な理解を、 一方向にのみ、費やしてきました - すなわち、テクノロジーの世界に、です。 しかし、私たちはけっして、人間の振るまいを、理解してこなかった - なぜ私たちが、この長い期間の進化の後、今、あるようであるかを、です。 語り手がちょうど言いましたように、 彼は、助けていません。 私たちは、ともに見ています。 理解しています。 なぜなら、助けは、含意として - 私たちは、心理について話しています - もちろん、あなたは、医師や外科医へ行くのは、助けが要ります。 あなたは、政府に依存します - 彼らが、どんなに腐っていても、です。 あなたは、郵便配達人や牛乳屋などに、依存します。 ですが、祈りをとおして、 冥想をとおして、助けを求めることは、 全く無益に思われます。 あなたは、そんなに助けを、もらってきました。 あなたは、何千もの導師と、 何千もの書物を、持ってきました - いわゆる宗教的なのと非宗教的なの、 心理的なのなどを、です。 それらすべてにもかかわらず、私たちは助かりません。 あなたは、たくさんのお金を、稼ぐかもしれません - 大きな家、車、などです。 ですが、心理的、内的、主観的に - それについて、私たちは、 時間のほとんど、話そうとしていますが - 私たちは、ほぼ助からないのです。 なぜなら、私たちは、何をすべきか、何を考えるべきかを語る 他の人々に、依存してきたからです。 で、どうぞ、語り手は 大変尊敬を込めて、真剣に、熱心に、 これを言っています - 彼は、あなたを助けようとしていないのです。 反対に、 私たちはともに - 語り手は本気で、ともに、と言っています。あなたと彼は、 世界で起きつつあることを、 公平に観察するだけではなく、 また、なぜこれら長い時の期間の後で、 私たちはいまだに、残酷、残忍なままなのか - 無頓着で、冷淡で、怯えて、 安全を探し求め、 自分たちの根が動揺しないだろうと望んでいるのかも、です。 そして、ともに、 あなたと語り手は、頭脳を使い、行使し、 これらを究明します。
16:37 私たちが言いましたように、世界への私たちの関係だけではなく - それは、ますます複雑になりつつあります - 様々な民族、国家への私たちの関係、 お互いへの私たちの関係も、です - それが、どれほど親密であろうとも、です。 理想への私たちの関係、 いわゆる神への私たちの関係、 導師への私たちの関係 - あなたがそれを持っているなら、です。 私は、あなたが持っていないことを、望みます。 そして、頭脳の性質を、 真剣に、深く探究する - すなわち、私たちがそこに生きる、 外的と心理的な世界全体を、了解するか、 洞察を持つ、掴まえるものを、です。 これが、明らかであるなら - すなわち、私たちは、道、方法、体系を、指摘しようとしたり、 どのようにも、あなたを助けようとしたり していない、ということが、です - 反対に、 私たちは、独立した人間です。 これは、残酷な発言や、無頓着な発言ではありません。 それは、二人の友が一緒に話し合うのと、似ています。 彼らのどちらも、理解しようとしています- 世界を、だけではなく、 すなわち、環境と、 経済的な世界の錯綜すべて、分離した諸宗教、 分離した国籍、民族性を、理解するだけではなく、 またともに、二人の友人として、自らの問題についても、話し合っています。 私たちがそこから、二人の友として、 始められるなら - 友情は、彼らが互いに説得しようとしていない、互いに強制しようとか、 印象づけようとしていないことを、 意味しています。彼らは友だちです。 ゆえに、慈しみ、理解、交流の 一定の性質が、あります。 私たちは、その立場にいます。
19:53 で、私たちはまず、始めましょう - 私たちの頭脳は、何なのか。 語り手は、頭脳の専門家ではありませんが、 彼は、頭脳の専門家たちと話してきました。 頭脳は、頭蓋骨の内側にありますが、 それは、たいへんとてつもない道具です。 それは、ほぼあらゆる物事について、 ものすごい知識を、取得してきました。 それは、最も信じがたいものをも、創案してきました - コンピューターのように、 すばやい通信、 兵器のように、です。 そこで頭脳は、自由に究明すること、創案すること、探求すること、調査することができます。 それは全面的に自由です。 それは、知識でもって始まり、 ますます多くの知識を、蓄積します。 もし一定の理論が働かないなら、彼らはそれを棄てて、 もっともっと多くの知識を、付け加えつづけます。 それは、同等に自由に、自己を探究できません。 それは、条件づけられ、形作られ、プログラムされています。 ですね? それは、ヒンドゥー教徒であるよう、イスラム教徒であるよう、 キリスト教徒、仏教徒 などであるよう、プログラムされています。 コンピューターのように、人間の頭脳は、プログラムされています - すなわち、あなたは、戦争をしなければならない、 あなたは、一定の集団に所属している、 あなたの根は、世界のこの地方にある、などとです。 これは正確です。 これは、誇張ではありません。 私たちのみんなが、プログラムされています - 伝統により、 新聞、雑誌、導師の常なる反復と、 何千年もの圧迫、印象によって、です。 私たちの頭脳は、一方向では、 テクノロジーの世界では、自由です。 ですが、その頭脳は、とてつもない能力がありますが、 その頭脳こそが、自らの自己利益により、制限されています。 私たちは、一緒にいますか。または私は、ちんぷんかんぷんなことを、話していますか。 あなたは、本当に、互いに理解し合う二人の友だちのようならば、 あなた自身で、見出してくださるでしょうか。 または、一人の人が話をしていて、 もう一人の仲間は、まったく話をしないのか。 または、言われつつあることすべてへの自らの反応へ、 観察が、ありますか。 この真理への自らの応答について、です。 すなわち、あなたは、ユダヤ人であるよう、イスラム教徒であるよう、 ヒンドゥー教徒であるよう、仏教徒であるよう、プログラムされているとの真理へ、です。
24:19 で、私たちの頭脳は、プログラムされ、 条件づけられていて、 それは、一方向では、驚くほど自由ですが、 心理的に、それは不具なのです。 人間の頭脳は、全面的に自由であり、 それで、ものすごいエネルギーを持つように なることは、可能でしょうか。 もっと多くの悪さをするためではなく、 もっと多くの金銭、権力を、持つためではない- それらの腐れを、です。 あなたは、お金を持たなければなりませんが、 自由であって、入り、探究し、 生の道を、見出しうるように、です - そこに、何の恐れもなく、さびしさもなく、 悲しみもない生の道を、です。 そして、死と冥想と真理の本性を、探究しうるように、です。 人間の頭脳は、何千年もの間、条件づけられてきましたが、 それが全面的に自由であることは、 可能でしょうか。 または、人間たちは、自由とは何かをけっして知らずに、 永久に奴隷でなければならないのでしょうか。 抽象的な自由ではなく、 葛藤からの自由、です。 なぜなら、私たちは葛藤の中に、生きるからです - 子どもの頃より、私たちが死ぬまで、です。 それは、すべての人間にとって、一つの事実です。 この常なる格闘 - 宗教的にも、です。 安全を探し求め、ゆえにけっして見つけない。 または、不安全であって、安全がほしい。 で、私たちはともに、私たち自身で見出そうとしています - 葛藤なくどう生きるかを語ってくれる 他の人たちに、依存しないで、私たち自身で、です。 社会の複雑さすべてがともなう、 現代の世界に生きていて、人間たちは、 葛藤の影もなく生きることは、 可能なのかどうか、です。 なぜなら、葛藤は、 頭脳を歪曲し、 その能力、 そのエネルギーを減らし、 すぐにそれは、自ら擦り切れてしまうからです。 あなたは、年を取るにつれて、それを、自分自身に観察できます - この永続的な葛藤、です。
28:17 なぜ私たちは、葛藤を持っていますか。 どうぞ、あなた自身に訊ねてください。 ただ聞かないで、 なぜ私たちは、葛藤の中に生きるのかを、あなた自身で見出してください - 自分の妻と夫とだけではなく、 自分の導師とも、です。 なぜなら、あなたは、彼らのようになりたいからです。 ゆえに、それは葛藤です。 この葛藤は、 ますます強烈になります - それは戦争です。 なぜ人間たちは、あなたは、葛藤の中に生きるのか。 葛藤とは何ですか。 ああ、どうぞ、私がそれに答えるのを、待たないでください。 それは、まったく面白くありません。 しかし、あなたが自分自身に、その質問をして、 見出すように、あなたの精神を注ぐなら、 葛藤の本性は、何ですか。 葛藤は確かに、二元性があるとき、存在します。ですね? - 私とあなたが、いるとき、です。 ですね? 私より分離した私の妻がいるとき、 冥想者と冥想との間に、この分割があるとき、です。 これらに付いてきておられますか。 これらに興味を持たれることを、願っています。どうですか。 で、分割が - 国籍、民族性の間、 宗教の間、 人々の間、 理想と事実との間、 「あるもの」と「あるべきもの」との間に、 分割があるかぎり、 葛藤があるにちがいないのです。 それは法則です。 どこでも分離、分割の感覚が、あるところ - アラブ人とユダヤ人、 ヒンドゥー教徒とイスラム教徒のように、です。 あなたは、つづいているそれらの分割を、ご存じです - 世界においてだけではなく、また、家族の間、 息子と父の間にも、です。 あなたは、これらをご存じですね。 で、どこでも分割があるところ、葛藤があるにちがいない。 それは事実です。 その分割は、「もっと多く」です。 理解されますか。 自分は知らないが、「私に二、三年をください。私は知るでしょう」と。 あなたがこれらを理解されることを、願います。 ヌサム・ダコー?(私たちは合意していますか)
32:03 誰が、この分割を、創り出してきましたか - 「あるもの」と「あるべきもの」との間、 アラブ人とユダヤ人との間、 ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との間、 導師と弟子との間に、です。 いわゆる神と- もしそういう実体があるとして - あなた自身との間に、 この分割がある。 平和を欲しがることと、葛藤、抗争の中にいること。ですね? これが、私たちの日常生活の実際の存在です。 語り手は訊ねています。あなたもまた、訊ねていなければなりません - 誰が、この分割を創り出してきましたか。 外的に、だけではなく、内的にも、です。 どうぞ、あなた自身に、この質問をしてください。 これらの乱れに、これらの終わりなき格闘、 終わりなき痛み、さびしさ、絶望、 悲しみの感覚に、誰が責任がありますか - 人がけっして、そこを免れたことがないと思われるものに、です。 誰が、これらに責任がありますか。 誰が、私たちの生きる社会に、責任がありますか - その複雑さすべてをともなう、 社会、現代社会に、です。 この国には、この無量の貧困が、ある - 無量です。 そして、社会事業家すべてが、います。 これらを理解されますか。 または私たちは、これについて、まったく考えたことがありません。 または私たちは、自分の冥想に、自分の神々に、 自分の諸問題に没頭しているので、 私たちはこれらを、一度も見つめたことがない。 一度も訊ねたことがないのです。
34:49 これらには、幾つものことが、関与しています。 人はいつも、探し求めてきました - 相当に智恵があり、相当に気づき、敏感である人たちは、です。 平等主義の社会は、いったいありうるのでしょうか。 理解されますか。 階級の違いがない。 平等な機会。 それで、働く者と経営者、大工と政治家の間に、 何も分割がないように、です。 テクノロジー的には、違いがあります。 ですが、人間として、です。 問題の一つはまた、こうです - 世界に正義は、ありますか。
36:03 今、はっきりと聞こえることを、願っています。
36:10 私たちは訊ねています - 世界に正義は、ありますか。 革命が、ありました - フランス革命、 最近の共産主義革命、(ロシアの)ボルシェヴィキ革命。 平等のある社会、 正義があり、 善がある社会を 確立しようとして、です。 それらは、まったく成功したことがありません。 反対にそれらは、違った据え付けの古い様式に、戻ってしまいました。
36:55 で、私たちは、探究しなくてはいけません - なぜ人間たちは、永続的な葛藤と悲しみと、安全への探求の中に 生きるのかを、だけではなく、 また、私たちはともに、正義の本性をも、 探究すべきです - 世界には、そもそも正義があるのかどうかを、です。 ありますか? あなたは、利巧です。 もう一人は、そうでない。 あなたは、特権すべてを持っているが、 もう一人は、いかなるものをも、一つも持っていない。 あなたは、御殿に生活し、 もう一人は、小屋に生活し、一日一食ほどもない。 あなたは、豊かであるなら、弁護士を雇えます。 そのビジネスのことは、よくよくご存じです。 で、そもそも正義が、ありますか。 自分自身で見出す、ゆえに、人類を助けることが、 重要ではないですか。 すみません。私がいうのは、助けではない。 私は、その言葉を、取り下げます。 で、正義の本性を理解するとき、 そもそも正義がありますか。 それを見出すには、 きわめて深く、悲しみの本性を、探究しなければなりません - そもそも、自己利益が、何もありえないのかどうかを、です。 また、私たちは、これらの講話の間、 むしろ、これらの会話の間、そうするでしょうが、 自由とは何かと、善さとは何かを、 探究すべきです。 で、誰が、このとてつもなく複雑な社会を、創り出してきましたか -
39:44 宗教の中の分割、 民族、国家の分割、 親密な者と親密でない者との 間の分割などを、です。 ですね? 誰がこれらを、創り出してきましたか。 語り手は、それへ入られるなら - 情報提供者としてではなく、 教示者としてではなく、 あなたに対して、「そのなのです。ゆえに、それを受け入れなさい」と語る誰かではなく、 あなたと語り手は、見出すように、 自らの頭脳、自らの智恵、 自らの能力を、行使しています。 問いは、こうです - 誰がこれらを、創り出してきましたか。 社会が、あらゆる人間により創り出されていることは、理解できます。 その中で、私たちは生きます。 その中で私たちが生きる社会は、あらゆる人間により、創り出されています - 彼らの貪欲をとおし、彼らの妬みをとおし、 彼らの攻撃をとおし、 彼らの安全への探求をとおして、です。 私たちは、その中で自分たちが生きる社会を、創り出してきました。 それから私たちは、その社会の奴隷になります。 ですね? あなたは、これらに付いてきていますか。 付いてきているのではない。 これらを理解されますか。 いいえ? あなたが、とても単純なその事実を、理解しないなら、私は何をすべきでしょうか - すなわち、私たち人間が、 私たちの文化、私たちの社会、私たちの宗教、 私たちの神々、それらを、創り出してきた、 ということを、です。 私たち人間は、恐れの中から、 自らのさびしさの中から、 自らの、安全への探求の中から - 不安全が何かをけっして理解せずに、 いつも安全をほしがり、 私たちはけっして、宗教とは何かという問い、 伝統を断ち切り、離れて見つけることが可能なのかどうかに、 入ったことがないのです。 それで、戻ってくると、誰が、この分割を創り出してきましたか。 なぜなら、分割があるところ、葛藤があるからです。 ですね? それは、絶対的に確実です。
43:02 で、それは、思考ではないですか。 考えぬいてください。あなたの頭脳を、それへ注いでください。 世界を分割してきたのは、 思考ではないですか - キリスト教徒、仏教徒、 ユダヤ人とアラブ人、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒として、です。 それは、思考ではないですか。 そのとき、訊ねます - 思考とは何ですか。 思考は、それにより私たちが生きる作用・行為です。 思考は、私たちの行為の中心的な要因です。 ですね? 思考により 私たちは生きて、お金を稼ぎます。 思考 - 私とあなた、 私の夫と私の妻、 理想と「有るもの」を、分離するのです。 それは、思考ではないですか。 そのとき、思考とは何ですか。 考えるとは、何ですか。 考えることは、 記憶の活動ではないですか。
45:13 どうぞ、語り手が言っていることを、一つも受け入れないでください。 この疑いの性質を、持たなければなりません。 疑ってください - あなた自身の経験を、 自身の観念を、 なぜ自分がこれらの花輪を着けるのかを、 なぜ自分が一定のことをするのかを、です。 単に受け入れるだけではなく、疑い、問うてください。 で、どうぞ、 どんな境遇の下でも、語り手が言っていることを、 受け入れないでください。 彼は、友だちとして、言っています - あなたは、お好きなように、彼に聞くことや聞かないことができます。 彼は、こう言っています - 思考が、この分割を創り出してきた。 思考は、戦争に責任があった。 思考は、人が創案してきた神 すべての間で、責任があった。 思考は、人を月に立たせるのに、 コンピューターを創り出すのに、責任があった。 思考は、テクノロジーの世界でされている、 とてつもないことすべてに、責任があったのです - 私たちは今、それに入らないでしょう。 思考は、「有るもの」と「有るべきもの」との間の この分割に、責任があります。 思考は、「有るもの」と「有るべきもの」との間の あの葛藤に、責任があります。 「有るべきもの」は、理想です - 「有るもの」より離れて、 何か達成されるべきもの、 何か獲得されるべきものです。 例えば、 人間たちは暴力的です。 それは、明白な事実です。 時の長い期間の間、 人は、暴力より自由ではない。 ですが、人は、非暴力を創案してきました。 ですね? 人はそれを、創案してきたし、それを追求しつつあります。 人は、自らが暴力的であることを、認知します - 彼がそもそも、正直であるなら、です - 人は暴力的ですし、 人は、非暴力と呼ばれる、いわゆる理想を、追求中なのです。 ゆえに、その追求中に、非暴力のその達成中に、 人はいつの時も、暴力の種子を蒔きつつあるのです。 当然です。 これは事実です。 この国は、非暴力について、大変多く話してきました。 それは、かなり恥ずべきです。 なぜなら、私たちはみんな、暴力的な人々であるからです。 暴力は、単に物理的ではありません。 暴力は、一つの形の模倣、順応です - 「有るもの」より離れて、です。 で、暴力は、対極がないとき、
49:38 人間の精神において、人間の心において、 完全に終わりうるだけなのです。 対極は、非暴力です - それは、実在していなくて、 暴力からのもう一つの逃避です。 あなたが逃避しないなら、暴力だけがある。 ですね? 私たちは、その事実に、向き合うことができませんでした。 私たちはいつも、この事実より、逃げ去っています - 言い訳を見つけ、経済的な理由を見つけ、 暴力を乗り切る無数の方法を、見つけるが、 いまだに暴力です。 その乗り切ることこそが、暴力の一部です。 で、暴力に向き合うには、あなたは、それから逃げ去るのではなく、 それに注意を向けなければなりません。 ですね? それが何なのかを、見てください。 男と女の間の暴力を、見てください - どちらも性的に、様々な形で、です。 あなたが、もっともっと多くを探し求めていて、 もっともっとなっていくとき、暴力が、ないですか。 で、暴力を見つめて、それとともに留まること - それから逃げ去るのではなく、 それを抑圧とか超越とかしようとするのではない - それらは、葛藤を含意しています。 それとともに生きる、それを見つめること、 実に、それを大切にすること、 それを自分の求めや好き嫌いに応じて翻訳しないで、 大きな注意をもって ただ見つめて、観察する。 私たちは、当面の間、注意とは何かに、入らないでしょう。放っておきましょう。 それは、複雑に聞こえるけれども、とても単純です。 何かへ完全に注意を向けるなら、 それは、明るい光をつけるのに、似ています。 そのときあなたは、暴力のすべての性質、微妙さ、含意、 世界全体が、見えるのです。 あなたは、何かがとても明らかに見えるとき、 それは去っています。 なぜなら、私たちは、物事を明らかに見るのを、拒絶するからです。
52:51 で、私たちは、訊ねています。 誰が、人間たちのこの複雑な葛藤を、 創り出してきましたか - 互いと、環境と、 神々と、あらゆる物事とにおいて、です。 私たちは、思考がこれをしてきた、と言っています。 あなたは、なぜあなたが自分は個人であると 考えるのかを、考慮したことがありますか。 あなたは個人ですか。 または、あなたは、自分が個人であると考えるよう、プログラムされてきましたか。 あなたの意識は、他のあらゆる人間の意識に、似ています - あなたは苦しむ、あなたはさびしい、あなたは恐れている、 あなたは、楽しみを探し求めている、痛みを回避している。 それは、地上のあらゆる人間において、そうなのです。 それは事実です。心理的な事実です。 あなたは、背が高いかもしれません。 色が黒いかもしれません。 色が白いかもしれません。 それらはすべて、気候、食べ物などの外的な縁飾りです。 文化もまた、外的です。 しかし、心理的に、主観的に、 私たちの意識は、他のすべての人間に相似し、 共通していて、一つです。 あなたは、それが好きでないかもしれません。 ですが、それは事実です。 で、心理的に、 あなたは、残りの人類より、分離していません。 あなたは人類です。 「はい」と言わないでください。 そのとき、それは何の意味もない。 単にそれを、観念として受け入れるだけです。 しかし、あなたが、分離した誰かではなく、 残りの人類であるということは、 ものすごい事実です。 あなたのほうが、良い頭脳を持っているかもしれません。 もっと裕福で、ずるがしこく、 もっと見目が良いかもしれません。 しかし、それらを、脇に置いてください。 それらは、表面のことです。 それらは縁飾りです。 しかし、内的に、 この地上のあらゆる人間は、 悲しみにおいて、あなたと一つです。 あなたはそれを悟るとき、それが何を意味するかを、知っていますか。 いいえ、知らないでしょう。 あなたはそれを、観念や理想にし、それを追求するでしょう。 それは必要とし、それは含意するのです - 自分は残りの人類である、と言うとき、 それは、あなたがものすごい責任を持つ、という意味なのです。 それは、大きな慈しみ、愛、慈悲を、含意しています。 あなたたちは一つであるとの、何かバカげた観念ではない。
56:51 で、私たちは、 物事について話し合っている二人の友として、言っています - 思考は責任があった、と。 思考は、最もとてつもない物事を、創り出してきました - 外的に、です。 行為の世界に、日常生活の世界において、 思考は、大きな便宜、保健衛生、健全さと、 また不健全さをも、もたらしてきました。 また戦争の手段などをも、です。 で、私たちは、ともに探究しなければなりません - 考えるとは何なのか、 そして、なぜ考えることが、とてつもなく重要になったのかを、です。
57:55 考えることは、記憶なしに、存在できません。 ですね?もし私は記憶を・・・ 記憶が何もないのなら、思考は何もありません。 私たちの頭脳は、 残りの人類すべてと一つであり、 分離した小さな頭脳ではありません- それは、腐っています。 私たちの頭脳は、知識により、条件づけられています - ですね? - 記憶によって、です。 知識、記憶は、経験に基づいています - 科学的な世界においても、主観的な世界においても、です。 ですね? 私たちの経験は、どれほど微妙でも、 どれほど、いわゆる霊的とか、それらの事柄であっても、 科学的でも、個人的な経験でも、 いつも制限されています。 それで、私たちの知識もまた - それは、経験から出てきたものです - 制限されています。 私たちは、科学的に、この科学の世界でも、 ますます多くを、付け加えています。 ですね? 付け加えがあるところ、 付け加えられつつあるものは、制限されています。 ですね? あなたが退屈しているなら、すみません。そうなんですか。 あなたたちは、あくびをしています。 やれまあ、 あなたたちは、どういう種類の人々ですか。 どうぞ、私たちは、 何かとても深刻なことを、言っております。 退屈しているなら、眠ってください。 ここで眠ってください。 あなたは、疲れているなら、誰かに寄りかかって、眠ってください。 ですが、これは、大変多くのエネルギー、思考、 探究、疑いを、必要とします。
1:00:37 それで、私たちは言っています - 経験は制限されている。 ゆえに、知識はいつも制限されている、と。 今も、過去にも、未来にも、です。 知識は、記憶を意味しています - コンピューターに収まっているメモリーでも、 私たちの頭脳の内側に収まっている記憶でも、です。 それで、私たちの頭脳は、記憶です。 その記憶が、思考を方向づけます。 これは事実です。 で、思考はいつも、制限されています。 ですね? どうぞ、これは論理的で、 理性的です。 何も創案されていません。 これは、そうなのです。 経験は、制限されています。 ゆえに、知識は制限されています。 そして、知識は記憶です。 記憶は、思考の活動です。 記憶なしに、思考は存在できません。 あくびをしないでください。 疲れているなら、眠ってください。 そうです。 あなたが本当に真剣でないとき、 そもそも話をするかい、あなたと会話をするかいが、 あるのか、と思われます。 まあ、それはあなたしだいです。 そうね、馬を池まで連れて行けますが、 馬が飲まなくてはいけません。
1:02:56 で、思考は、制限されているので、 世界を創り出してきて、世界を分割してきました。 それは制限されているから、世界を砕いてきたのです。ですね? アラブ人とユダヤ人、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、 キリスト教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒などと、です。 それは、思考の活動です - それは、自体がいつも制限されていて、 分割を創り出し、ゆえに葛藤を創り出すにちがいないのです。 ですね? そのとき、あなたは言います。 あなたは言うでしょう - 分割的でなく、断片的でなく、砕いてしまわない 他の活動が、あるのでしょうか。 いいですね?あなたは、その問いを訊ねていますか。 または、私が、その問いをあなたに、出していますか。 全包括的な活動が、ありますか - けっして、ヒンドゥー教徒、私、あなたとして 砕いてしまわないものが、です。 それは、葛藤を創り出す分割です。 ですね。 さて、あなたはどのように、見出そうとしていますか。 あなたはどのように、自分自身で見出そうとしていますか - 思考は分割的であり、思考は葛藤を創り出すし、 思考は、社会と、社会より別のあなたを 創り出してきたことを、見て、です。 社会は、あなたが創り出してきた、 などなどと、です。 それは、これまで私たちが持ってきた、ただ一つの道具です。 あなたは、もう一つの道具、すなわち直観がある、と言うかもしれません - それは、願望なのかもしれません。 それもまた、修正され、説明され、非理性的なのかもしれません。 私は、自分が直観を持っていると、信じるかもしれません。 または、自らは・・・何?ナポレオンであるとか、導師であるとかの 直観を,持っています。 あなたは、何でも創案でき、 どの幻影にも生きられます。
1:05:42 で、私たちは、とても真剣に訊ねています - 自らは、思考の本性を理解したのかどうかを、です。 他の行為や、生きる道が ありますか - けっして断片的ではない、 けっして世界と私、「私」と世界として 砕けていないものが、です。 理解できますか。 そういう頭脳の状態や、 完全に全包括的で、健全である 非頭脳の状態が、ありますか。 ですね? 私たちは、見出そうとしています - あなたが真剣であるなら、 あなたが自由に・・・あなたが、蓄積してきた物事すべてを、投げ捨ててしまうなら、です。 物理的なものを、ではありません。 あなたの銀行預金を、投げ捨てないでください。 ともあれ、そうしないでしょう。 が、心理的に、あなたが収集してきた物事すべてを、片付けてください。 ふーん。それは、とても困難になるでしょう。 それは、自由がなければならないことを、意味しています。 自由 - そうね、 「自由(フリーダム)」という言葉は、 (フレンドなどと同じく)語源的にまた、愛を意味しているのです。 甚大な深みに自由があり、 限りないとき、 愛もまた、ある。 それを見出すには、 そこに自己利益が何もない、全包括的な 生きる道に、出くわすには・・・ 自己利益は、分割的です。 ですね? あなたがこれらを理解されるのかと、思われます。
1:08:21 私たちが初めに言いましたように、 自己利益は、腐敗の起源、始まりです - 自己利益が、神の名や、 冥想や祈りの名においてであっても、 権力を探し求めていても、 利己があるところ、腐敗がある。 何が怖ろしいものがあって、進んでいるのです。 で、それを見出すには、それに出くわすには、 自由が、なければなりません- 関係における 軋轢、葛藤よりの自由、です。 いいですか? 私たちは、関係によって生きます。 あなたは、ヒマラヤや僧院で生きたり、 自分一人で小さな小屋に、または宮殿に生きるかしれません。 あなたは、関係なしには生きられません。 関係は、関係すること、接触することを、 含意しています - 物理的にだけではなく、性的にだけではなく、 完全に他の一人と接触することを、です。 これらを理解されますか。 ああ、神様! ですが、私たちはけっして、他の一人へ完全に関係していないのです - 最も親密な関係、 男と女についても、 各々が、自分の特定の野心、自分の特定の充足を 追求しています - ですね? - 相手に対立した自分の生きる道 などを、です。 この関係には、いつも葛藤がある - けっして出会わない二本の平行線のように、です。 事実に向き合ってください。 何が、二人の人間の間に、葛藤を創り出しますか。 あなたの妻と、あなたの夫、 あなたの子どもたちとの、私たちの関係において - それは、最も親密な関係ですが - 葛藤を創り出すのは、何ですか。 あなた自身に、訊ねてください。 何が、あなたと、あなたの導師の間に、葛藤を創り出しますか。 それは、あなたが自分の妻についてイメージを持っているし、 彼女は、あなたについてイメージを持っている、ということではないですか。 ですね? そのイメージは、よくよく気をつけて築かれてきました - 短い期間か、とても長い期間の間に、です。 で、あなたの妻と、あなたの夫、 導師と非導師、 それらの事柄としての イメージ、映像、概念。 この常なる記録 - これらに付いてきておられますか。 いいえ。 他の一人との関係における、 頭脳の常なる記録。 この記録することが、あなたの妻やあなたの夫や 政治家やあなたの導師の映像です。 それは、あなたが彼について創り出してきた映像です - あなたが、語り手について、映像を創り出しているように、です。 ゆえに、その映像が、分割します。 ゆえに、あなたと語り手との間には、何も関係が、ないのです。 それは、とても単純です。 あなたが同じ家に生きているとき、特にそうです - すべての騒動 - それらより逃避するために、 あなたは、僧侶とか何にでも、なる。 しかし、あなたは、そこにもまた、自分の問題を持っています。 あなたは、自分の葛藤、自分の欲望、 自分の追求を、持っています - それは、再び葛藤になるのです。 ですね?
1:13:47 で、あなたは・・・どうぞ、これを聞いてください。 少なくとも、あなたの注意を、少し注いでください。 あなたは、唯一つのイメージもなく、生きられますか - あなたと、他の一人との間に、 まったくイメージなしに、です。 あなたはそれを、試したことがありますか。 あるならば - それを試すのではなく、それの論理、それの健全さを見る。 すなわち、映像作りの機構が、進んでいるかぎり - それは、侮辱、へつらいを 記録することです。 「あなたは何とすばらしい人物だ」と言うことなどを、です - それらは、他の一人について、イメージを創り出しています。 そのイメージは、分割的な要因です。 ですね? そのイメージは、思考により創り出されます - 彼女は私を傷つけた。 彼女は今朝、優しくなかった、 などなどです。 で、唯一つのイメージもなく生きることは、可能でしょうか - 石から作り出された像だけではなく、 また、あなたの妻、あなたの導師、 誰でもない人の イメージも、です。 そのときあなたは、真の関係が何であるかを、見出すでしょう。 なぜなら、そのとき関係にまったく、葛藤がないからです。 それは、絶対的に必要です - 頭脳が、思考の制限を理解できて、 完全に断片化していない、砕けていない、 全包括的な生き方を、探究できるなら、です。
1:16:06 私たちの生における、もう一つの要因は、 子どもの頃より、私たちが心理的に、傷ついてきた、 私たちが負傷してきた、ということです。 ですね? 子どもの頃より、私たちは問題を持つよう、訓練されてきました。 ですね? これらを理解されますか。 私たちは、一時間近く話してきました。 私はつづけましょうか。 あなたたちは、私にこれを、つづけてほしいですか。言わないでください。 語り手は、深刻な事柄について、話す能力があります。 私たちが、或るパンディットジと、何時間もそうしたように、です。なぜなら・・・ しかし、あなたが、本当に真剣であり、 これらのことについて、話したことがないのなら、 あなたは、疲れているにちがいない。 あなたの頭脳は、「まあ、それで十分だ。 私は翌日、それを取り上げよう」と、言っているにちがいありません。 ですが、これを終了させましょう。
1:17:25 子どもの頃より、 私たちは学校へ送られたとき、 そこであなたは、書き方、読み方とその他すべてを、 学ばなくてはいけません。 書き方は、その子にとって問題になる。 どうぞ、気をつけて、これに付いてきてください。一分間で、分かるでしょう。 それは、問題になる。 数学は、問題になる。 歴史は、問題になる。化学も、です。 それで、彼は,子どもの頃より、問題とともに生きるよう、教育されます。 ですね? 神の問題、一ダースの物事の問題です。 で、私たちの頭脳は、問題とともに生きるよう、 条件づけられ、訓練され、教育されます。 子どもの頃より、私たちは、こうしてきました。 で、頭脳が、問題の教育をされるとき、何が起きますか。 どうぞ、探究してください。 それはけっして、問題を解決できません。 それは、もっと多くの問題を、創り出しえます。 理解されますか。
1:18:46 質問者: (聞き取れない)
1:18:49 クリシュナムルティ: どうぞ、きっと火曜日の朝には、 質疑応答の会合があるだろう、と思います。 どこでか、私は知りませんが、あるでしょう。 そのとき、あなたは、すべての質問で私に砲撃できます。 これを理解することは、とても重要です。 なぜなら、私たちは、頭脳が現代世界において、 唯一つの問題もなく、日常生活を生きられるかどうかを、 訊ねているからです。 それが問題を解決できるのは、そのときだけなのです。 問題を持つよう、問題とともに生きるよう、 訓練された頭脳ではない。 そのとき、それは、一つの問題を解決するとき、 その問題のまさに解決において、それは、もっと多くの問題を、創り出します - 政治的にやられているように、です。 ですね? それは、あなたにとって、例えば、あなたが冥想するなら - あなたがなぜ冥想するのか、私は知りません。 あなたが冥想するなら、 それは問題になる。 精神をいかに静かに保ち、それを制御し、実践、修練するのか - その他すべてのごみを、ご存じでしょう。 それは、冥想ではありません。 で、どうぞ、聞いてください。 子どもの頃より、私たちは、問題とともに生きるよう、 訓練され、教育されます。 ゆえに、問題に集中しているので、 それはけっして、どの問題をも完全に解決できません。 問題を解決できるのは、問題へ条件づけられていない、 自由な頭脳だけなのです。 ヴ・ザヴェ・コンプリ? これを理解されますか、どうですか。 これは、私たちの常なる重荷の一つです - いつの時も問題を持つことは、です。 ゆえに、私たちの頭脳は、けっして静かでなく、 自由に観察すること、見つめることができません。
1:21:18 で、私たちは訊ねています - 唯一つも問題を持たないで、問題に向き合うことは、 可能でしょうか。 なぜなら、あなたは、たくさんの問題を、持とうとしているからです。 ですが、それら問題を理解し、 全的にそれらを解消するには、頭脳は自由でなければなりません。 ですね? その論理を見てください。 なぜなら、論理は必要であり、 道理は、必要であるからです。 そのときだけ、あなたは、道理を越えられ、 論理を越えられます。 ですが、あなたは、一歩一歩一歩、論理的でないのなら、 あなた自身をずっと欺瞞し、 或る種の幻影に、終わってしまうかもしれません。 で、問題に向き合え、 問題に捕らわれるのでなく、 それらを解消できる、生き方を、見出す - そうです。これには、大変多くの観察、注意、気づきが、必要とされます - 一秒も、あなたが自分自身を欺瞞しないように見るため、です。 これはすべて・・・なぜなら、初めに秩序が、なければならないからです。 何の問題もないとき、自由があるときだけ、 秩序は始まります。 あなたが好きなことを、するためではない。 それはまったく自由ではありません。 または、この導師とあの導師の間や、この書物とあの書物の間で、 選択するためではない。 それは単に、もう一つの形の混乱です。 いいえ? 選択があるところ、自由はない。 頭脳が混乱しているとき、選択が存在するだけです。 頭脳が明晰であるとき、 何も選択はありません。 直接的な知覚と、正しい行為だけなのです。