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BO85T2 - 思考と時は、いつも一緒である。
第2回、公開講話
インド、ボンベイ(ムンバイ)
1985年2月3日



0:19 クリシュナムルティ: 私たちは、 昨日の晩、話していたことを、つづけてもいいですか。 あなたたちは、私が話すために、ここにいるのだ、と思います。 そうではないですか。 で、私たちは、講話を行うでしょう。 それは本当は、まったく講話ではなくて、 私たちの間の会話、 二人の友の間の会話、です - 彼ら自身が独特である友だち、 互いにとても長い時の間、知り合ってきた友だち、 互いに印象づけようとしていなくて、 互いに何についても、確信させようとしていない友だち、です。 彼らはただ、友だちです - 一緒にゴルフをしてきたり、 散歩をし、 空と美しい夕べと気持ちいい樹々と、 緑の芝生と、美しい山々を 見つめてきたのです。 彼らは、自らの親密な問題について、話し合っています - 彼らが、解決することができなかった問題、 混乱する主題について、 すべての困難と騒動と それらの低俗さをもった現代世界に 生きることについて、です。 彼らは、人間たちが何になろうとしているかに、 関心を持っています - なぜ彼らは、百万年を掛けて、今あるものになってきたのかに、です。 非合理的で、迷信深く、 何でも信じていて、だまされやすく、 組織に捕らわれているのです。
2:55 で、これら二人の友、すなわち、あなたと語り手は、 ともに物事について、話し合おうとしています。 すなわち、あなたは、語り手に聞きません。 あなたは、彼の精神に、彼の探究に 入ろうとしています。 で、あなたと語り手は、あなたの頭脳を、可能なだけ、 行使しなくてはいけません - 彼が言うことを、何も受け入れないで、です。 懐疑的、合理的であってください。 問い、探究してください。 そして、あなたがそうしたいのなら、私たちはともに、長い旅を行うでしょう - 外的にだけではなく、内的にも、 心霊の世界全体、 思考の世界、 悲しみの世界、 恐れの世界と、人類の苦労 すべての中へ、です。 で、これは、情報を与え、確信させ、 教示する講義ではありません。 むしろ、二人はともに、対話を行います - 会話の感覚です。 自分の特定の形の信念や確信に、 けっして取りすがらないで、 交流し、進みながら変化していきます。 自分の経験、迷信などに、取りすがったり、 握りしめたりしないで、です。 で、あなたが、あの人物です。 あなたは、語り手がともに話をしていて、 会話を行っているあの友だちです。 で、どの種の宣伝をするという疑問も、ないのです。 あなたに、何をも、まったく確信させようとしていません。 反対に、合理的、論理的に、健全に疑い、問い、 探究するよう、あなたに頼んでいます - それが可能なら、です。 友として、彼らは、互いに聞くのです。
6:03 聞くことは、私たちのほとんどが その能力を持たない芸術です。 私たちは、けっして実際に聞きません。 言葉は、響きを持っています。 私たちは、響きを聞かないとき、 いつもそれを解釈しています。 言葉を、私たち自身の特定の言語や 特定の伝統へ、翻訳しようとしています。 私たちはけっして、どんな歪曲もなく、鋭く聞きません。 で、私は - 語り手は、あなたがそう聞かれることを、 おそらく尊敬をこめて、提案します。 彼が言うことを、解釈したり、 彼が言うことを、あなた自身の特定の用語へ、とか、 あなた自身の知識に応じて、翻訳したりしないで、 聞くのです。 あなたが、小さな子どもへ、物語を、 かなり興奮する物語を、語っているとき、 その子は、ものすごい興奮の感覚、好奇心をもち、 エネルギーに充ちて、聞いています。 彼は、何が起きようとしているかを、知りたいと思います。 誰が悪者なのか。誰がヒロインなのか。 彼は、まさに最後まで、興奮して待っています。 私たち、大人は、見出そうとするその好奇心の能力、エネルギーの感覚 すべてを、失ってしまいました - 物事を、何の歪曲もなく、ありのままに、きわめて明らかに見るために、 必要とされるエネルギーを、です。 そして、私たちは、けっして互いに聞きません。 あなたはけっして、奥さんに聞かないでしょう。 あなたは彼女を、あまりに知りすぎています。 または、彼女があなたを、です。 あなたたちが、互いに聞くような、 深い感謝、友情、 親睦の感覚が、ないのです - それが好きでも好きでなくても、あなたは聞くのです。 あなたが、そう完全に聞くなら、 まさにその聞くこと、まさにその聞く行為こそが、 大きな奇跡です。 なぜなら、その聞くことは、見ること、 観察することのように、とても重要であるからです。
9:24 私たちは、けっして観察しません。 私たちは、便利であり仲のよい物事を、観察します。 私たちは、報賞や処罰があるなら、観察します。 あなたが注目したことがないのかどうか、私は知りませんが、 私たちの育ち、教育全体、私たちの生、日常生活は、 とてつもない一つの原理に、基づいているのです。 報賞と処罰です。 ですね? あなたは、報賞を得るために、冥想します。 あなたは、報賞を得るために、前進する、などです。 で、ここには、何も報賞や処罰が、ありません。 私たちはともに、物事について話し合っています。 これを理解することは、とても重要です。 物理的にも、心理的にも、 報賞を探し求めているとき、 報賞へのその探求の中には、処罰もまた、あるのです - その報賞が、満足できないのなら、です。 で、どうぞ、 私たちは互いに聞けますか - 他の何かのためではなく、それ自体、そのもののために、です。 あなたが、すばらしい音楽や 鳥の歌を、聞くように、 あなたの心でもって、精神でもって、自らが持っているエネルギーすべてでもって、聞く。 そのとき、はるか遠くへ行けます。 で、私たちは、昨日の晩、止めたところから、 ともに話し合おうとしています。
11:46 ほとんどの人間、私たちのみんなは、安全を探し求めます。 それは、多くの、多くの形を、取ります。 安全は、とても重要です。 あなたは、物理的にも心理的にも、 安全でないなら、 あなたの頭脳は、適切に、十分に、 エネルギーをもって、機能できません。 私たちは、安全を持たなければなりません。 しかし、物理的な安全は、何百何千万の人々には、拒否されています - 彼らは、ほぼ一日一食もないのです。 私たち、いわゆる教育を受け、暮らしが豊かな人々は、 様々な形の信念などを、持ってきましたが、 私たちは、いつの時も、探し求めています - 意識的にか、あるいはまた、知らずに、 完全な満足を与えてくれるだろう一種の安全を、です。 しかし、私たちは、不安全とは何かを、けっして探究しません。 質問を理解されますか。 私たちは安全がほしいし、 それは必要です。 生物学的にも、心理的にも、 安全がなければなりません。 安全の探求の中、 私たちは、不安全とは何かを、けっして探究しません。 理解されますか。 私たちはともに、不安全とは何か、 なぜ私たちは不安全なのかを、見出せるなら、 そのとき、それが解き明かされる中、その因果の中、 安全は自然に訪れます。 私たちは会話の中で、一緒にいますか。 私たちは、なぜ自分たちが不安全なのかを、けっして探究しません。 私たちはいつも、安全をほしがっています - もっと多く、もっと良くを、です。 で、不安全とは何ですか。 なぜ私たちは、互いへの関係において、不安全なのですか。 外面的な世界には、ものすごい動揺があります。 世界には、騒乱、苦悶が、つづいています。 一人一人が、自分の所がほしい。 一人一人が、自分の安全がほしい。 この不安全のひどい状態から、逃避したいのです。 で、私たちはともに、なぜ私たちが不安全なのかを、探究できますか。 いいですか?私たちはそれをできますか。 私たちは、それをできますか。 私たちはその線で、進んでいけますか。 安全とは何か、ではない。 なぜなら、あなたの安全は、幻影に、 何か夢想的な、ロマンチックな概念に、あるかもしれないからです。 あなたの安全は、何かイメージに、伝統に、あるか、 または、安全は、家族に、名前に あるかもしれません。 そして、安全を見つけようとすることには、いつも不確実さが、ある。 ですね? 私たちは進んでいけますか。
16:18 で、なぜ人間たちは - あなたと、私たちのような人々は、です。 私たちは、専門家ではなく、素人です。 なぜ私たちは、不安全なのですか。 その言葉は、どういう意味ですか。 妻へ、夫への私たちの関係において、 完全な安全でないとの感覚が、あります - あらゆる物事がだいじょうぶだとの完全な感覚が、ない。 あらゆる物事が、すっかり正しくはないと感じる、 この背景の感覚が、いつもある。 あらゆる物事が、混乱し、不確実だ、と。 で、私たちは、もしも探究できたなら - 人間の頭脳は、いつの時も安全を探し求めているし、 それは、安全を持たなければなりません。さもなければ、それは適切に機能できません。 ですね? あなたはそれに、注目したことがありますか。 あなたは、あまりにたやすく同意します。 あなたは頷きます - まるで、それが何かであるかのようです。 どうぞ、頭をじっとさせて、 私とともに探究してください - なぜ人間たちは不安全なのかを、見出すように、です。 何について、不安全なのか。 職を持たないことについて、ですか。 人口過剰である国では - この国のように、 毎年、千五百万人が、生まれます。 人口過剰です。 この国の教育は、腐っています。 一つの職があるなら、それを求める人が、たぶん一万人、います。 そして、能力、 テクノロジー的な能力など、 それらには、一定の探究の状態が、あります - 調査だけではない。それを達成する中で、 一定の安全があると、感じます。 ですね? 彼らの関係には、 いつも、この不安全の感覚がある。ですね? これらをご存じないですか。または、私が、これらを創案していますか。 で、不安全とは何ですか。 私たちは、もしも不安全でなかったら、 神々について、話をしないでしょう。 私たちは、安全について、話をしないでしょう。 私たちは、不安全であるから、対極を探し求めます。
19:33 あなたは、響きを、聞いたことがありますか。 あのカラス。 響き。 宇宙・万物は、響きに満たされています。 大地は、響きに満ちています。 そして、私たちは、静寂を探し求めます。 冥想は、或る種の平和や、 或る種の静寂を、見つけることです。 しかし、あなたは、響きを理解するなら、 響きが聞こえるその中に、静寂があるのです。 静寂は、響きより分離していません。 あなたは、これを理解しないでしょう。 なぜなら、あなたはけっして、響きを聞かないからです。 あなたは、樹の下に座ったことがありますか - 空気がすっかり止まって、静かであり、 木の葉が一枚も舞っていないとき、 絶対的に静かであるとき、です。 あなたは、そのように、樹の下に座って、 樹の響きを、聞いたことがありますか。 もしも静寂がなかったなら、響きは、何もないでしょう。 あなたは、これらを理解しない。 で、不安全の響き、音が、私たちに、 安全を探し求めさせるのです。 なぜなら、私たちは不安全の響きを、一度も聞いたことがないからです。 理解されますか。 もしもあなたが、不安全の含意を、聞いたなら - それが、私たちに、神々、儀式と それらの愚かな戯言を、創案させるのです - あなたが、不安全の動き全体を聞くなら、 そのとき、その不安全の中から、自然に、安全が出てきます。 しかし、安全を、何か不安全より分離したものとして、追求するなら、 あなたは葛藤の中にいます。ですね? これを理解されるのかどうか、と思われます。 どうぞ、これを少し理解してください。 そうですね、 星々がきれいである晩に - (この大都市)ボンベイで、ではない。 星々がきれいであるとき、 空に唯一つの星があり、 絶対的な静寂が、ある。 しかし、あなたは聞くなら - あの静寂を聞くなら、 あの静寂には、響きがある。 そして、響きと静寂との間に、何も分離が、ありません。 それらは相伴います。 同じように、あなたは不安全を、その因果を 理解するならば、 不安全の原因は、 私たち自身の制限され、壊れた 心理的な状態です。 そして、全包括的な生き方が、あるとき、 安全や不安全といったものは、ないのです。
24:13 で、私たちは、ともに話し合おうとしています- あなたがそうしたいなら、 全包括的(ホリスティック)な生き方とは何かに、ついてです。 全体的な(ホール)という言葉は、完全だ、という意味です。 全体的な(ホール)という言葉は、そこに何も断片化がない、 壊れたことがない、それらが断片を持たない、という意味です - ビジネスマンとして、芸術家として、詩人として、 宗教的な阿呆や ビジネスマンなどとしての断片。 私たちが自らの生において、分割してきたものが、です。 あなたは、花輪をつけ、変った衣服を着て、 特定の集団に所属しています。 他の人は、何か他の種類の衣装を、着ています。 私たちは、常に彼らを分類し、 何らかの引き出しへ、入れています - それで、彼らはこれである、彼らは共産主義者、社会主義者、 資本家であるなど、と。 さて、私たちの生は、あなたが間近で観察するなら、 私たちの生は、砕けてしまっています。 ですね? 私たちの生は、断片化しています。 私たちは、本性を理解するなら - なぜ私たち人間は、 このすばらしい地上に、 何千年か、何百万年か、百万年か、 五万年の間、生きてきて、 なぜ私たちは、こんなに断片化し、砕けてしまっているのか、です。
26:28 この切れ切れに砕けてしまったことのおもな原因の一つは、 私たちが昨日、言いましたように、 私たちが、頭脳が、思考の奴隷である、ということです - 私たちが昨日、入ったように、思考は制限されています。 どこでも制限があるところ、断片化があるにちがいない。 私が自分自身に関心を - 自分の前進に、自分の充足に、自分の幸せに、 自分の問題に、関心を持っているとき、 私は、人類の構造全体を、私に砕いてしまったのです。 これを理解されますか。 で、なぜ人間たちが、断片化しているかの 要因の一つは、思考です。 どうぞ、これにあなたの注意を、注いでください。 また、要因の一つは、時です。
27:51 あなたは、時とは何かを、考慮したことがありますか。 時に関心を持っている科学者たちによると、 それは物質です。それは、一連の動きです。 で、動きが、時です。 ですね?これを理解されますか。 時は、時計によって、年代順に、だけではない。 日の出、日の入りとしての時。 夜明けがあるときの時。 山々の雪と 深い谷 - それもまた、時です。 夜の闇と、朝の明るさ。 また、心理的な時、内的な時も、ある - 私はこれである、私はあれになるだろう。 私は数学を知らないが、 或る日、私は、それについてすべてを学ぶだろう。 それには、時が必要とされます。 新しい言語を学ぶには、 大変多くの時が、必要とされます - 三ヶ月、六ヶ月か、二ヶ月です。 それもまた、時です。 学ぶため、記憶するため、技能を持つための時が、ある。 また、自己中心的な実体としての時も、ある - 「私は、他の何かになるだろう」と言って、です。ですね? で、心理的に、なっていくこともまた、時を含意しています。 で、私たちは、時とは何かを、探究しています。 技能を学ぶための時だけではなく、 また、私たちが、達成の過程として 発達させてきた時も、です。 私は、どう冥想するかを、知らない。 私は、脚を組んで座ろう。 或る日、私は、どう自分の思考を制御するかを、学ぶだろう。 或る日、私は、冥想とは何かと思われているものを、達成するだろう。 それで、私は実践し、実践し、実践します。 そのときあなたは、機械的な猿になる。 なぜなら、何を実践しようとも、あなたは、機械的になるからです。 私たちは今、冥想に入らないでしょう。 なぜなら、それは、とても複雑な問いであるからです - 私たちは後で、それについて話すでしょう。
31:01 で、時です。 時は、過去、 現在、未来です。ですね? 時、それは、過去です。 すべての私の記憶、すべての記憶、経験、知識、 人間たちが達成してきたすべて - それは、記憶として、頭脳に残っています。それは過去です。 ですね?それは単純です。 その過去は、今、現在において作動しています。 ですね? それは単純、明らかですか。 過去 - すべての記憶、すべての知識、すべての経験、 傾向など、背景です。 その背景が今、作動しています。 で、あなたは過去です。 未来は、今のあなたなるものです - おそらく修正されていますが、 未来は過去です - 修正されています。ですね? これを見てください。どうぞ、これを理解してください。 それで、過去が、現在において修正されたのが、未来です。 ここ三千から五千年の間、文化的な国としての、あなたたちの伝統、 この広大な知識の蓄積、文化、 人間たちが、格闘し、探究し、 対話をしてきたことすべて - そのすべてが、現在において、打ち砕かれます。 なぜなら、経済的な状況が、要求するし、 過去は壊れていて、修正されて、 未来になろうとしているからです。 ですね? これは事実です。 で、過去が、現在において自体を修正するのが、未来です。ですね? で、現在において、根本的な変化がないのなら、 明日は、今日あるあなたと、同じでしょう。 で、未来は今です。 あなたがこれを理解されるのかと、思われます。これを理解されますか。 未来は - 知識を取得する未来ではなく、 心理的な未来。 心理、「私」、自己は、 過去、記憶なのです。 その記憶は、今それ自体を修正し、つづいていきます。 で、未来と過去は、現在にある。 で、すべての時 - 過去、現在は、今に収容されています。 よろしいですか? どうぞ、それは錯綜していません。 それは論理的です。
35:06 それで、今、あなたが、人間の頭脳が今、即座に変化しないなら、 未来は、今のあなたなるもの、これまでのあなただったものに、なるでしょう。 ですね?論理的です。 それで、未来にではなく、今、根本的、根源的に 変化することは、可能でしょうか。 で、私たちは訊ねています - 不安全の要因の一つは、 時と思考です。 ビヤン(いいですか)? 私たちはここで、少し一緒にいますか。 私たちはわずかに一緒に、動いていますか - 一時に、一歩、です。 これは、とても単純です。 錯綜させないでください。 私たちは過去です。 それについて、疑問はありません。 その過去は、反応の中、挑戦の中、 様々な形で、修正されます。 それが、未来になる。 見てください。あなたたちは、三千から五千年の間、この国に 文明を持ってきました。 それが過去です。 現代の状況は、あなたが過去より離れ去ることを、要求します。 今、あなたは、もはや文化を、持っていません。 あなたは、過去の文化について話をし、 過去の名声と過去の長年、 幾世紀を、楽しむかもしれません。 しかし、それら過去は、現在の要求により、 現在の挑戦により、吹っ飛ばされ、散らかされています。 その挑戦、その要求は、あなたを、 経済的な実体へ、変化させつつあります。 それで、過去が今により挑戦されたのが、未来になる。 で、すべての過去と未来は、今にある。 それで、すべての時は、今にある。 あなたがこれを、理解されるだろうことを、願っています。
37:51 で、私たちは、思考と時は、 断片化した人間たちの 主要な原因である、と言っています。 また私たちは、根、同一視がほしいのです。 集団との同一視、 家族との同一視、 或る導師との同一視、 そういうわけで、あなたはこれら変わった衣を、まとうのです。 あなたたちがそれから去ろうとしないのは、存じていますが、 それはあなたの仕事です。 で、私たちは、集団と、家族と、 民族、国家などと同一視されたいのです。 そして、戦争、戦争の脅威は、 私たちの生における主な要因です。 なぜなら、戦争は、私たちの根を破壊するかもしれないからです。 心理的に、ゆえに、私たちは進んで、他の人たちを殺そうとしています。 また私たちは、同一視されたいのです。 理解されますか。 名前と同一視され、 家族などと同一視されたいのです。 で、これらが、私たちの 断片化した生の、主な要因です。 さて、あなたは、それの真理を聞きますか。 または、あなたは単に、 言われつつあることの叙述を聞き、 それの真理ではなく、叙述を持って行くだけですか。 理解されますか。 それの事実ではなく、それの観念を、です。 ヴザヴェ・コンプリ?つまり、理解しましたか。 例えば、 語り手は、すべての時は今である、と言います。 あなたが理解するなら、それは、最も驚くべき真理です。 あなたはそれを、一連の言葉として、 ゆえに、響きや言葉や観念として、聞きますか - 観念としての真理の抽象化です。 または、あなたは、真理を抽象化しないで、 それの真理を捉えますか。 理解されますか。 あなたは何を、なさっていますか。 見て、事実とともに生きるのか。 または、事実を観念へ抽象化し、 それから、事実ではなく、観念を追求するのか。 これは、知能がすることです。 知能は必要です。 たぶん私たちは、どうせ、知能をほとんど、持っていません。 なぜなら、私たちは、自分自身を誰かに、譲り渡してきたからです。 知能は、理性、論理を含意し、要求します - 物事をきわめて明らかに見る、 判別することを、です。 また、知性の能力は、情報を集めて、 その情報に則って行為することです。 あなたは、このような発言が聞こえるとき- すべての時は今である、 そして、あなたは人類である、というような発言、です。 なぜなら、あなたの意識は、他のものすべてと、一つであるからです - あなたはどのように、それらの発言を聞きますか。 あなたは、それを、観念として抽象化しますか。 または、それの真理、それの事実、それの深さ、 そこに関与した無量性の感覚を、聞きますか。 観念は、無量ではない。 ですが、事実は、ものすごい可能性を、持っています。 で、全包括的な生は、可能ではない -
43:38 原因は思考、時であり、 同一視へと根への欲望ですが、 それらが、全体的で完全である生き方を、阻止します。 今、あなたは、この発言が聞こえます。 そのとき、あなたの問いは、こうでしょう - 私はどうやって、考えるのを止めるのだろうか。 自然な問いでしょう。 よろしいですね? 私はどうするのでしょうか。 私は、技能、言語などを学ぶ、 テクノロジーの主題を、学ぶには、 時が必要であることを、知っています。 調査するには、時が必要です。 ですが、私は、ちょうど悟りはじめています - 「あるもの」より「あるべきもの」になることには、時が関与しているが、 それは全的に、間違っているかもしれない。 それは、真実ではないかもしれない、と。 で、あなたは、問いはじめます。 または、あなたは、こう言いますか - 「ええ。私は、あなたが何を話しているかを、理解できない。 でも、私はそれと付き合っていこう」と。 それが実際に、起きつつあることです。 私たちは自分自身に、とても正直であったらなあ、と、私は願っています。 正直は、最も重要なことの一つです - 謙虚さのように、です。 虚栄の人は、謙虚さを養成しています。 理解されますか。 虚栄の人は、謙虚さを、組み立てています。 その謙虚さは、虚栄の一部です。 しかし、謙虚さは、虚栄と、誇りと何の関わりも、ありません。 それは、「私は知らない。探究しよう」と 言う精神、頭脳の状態です - 「私は知っている」と、けっして言わない。 これらを理解されますか。 で、今、あなたは、すべての時は今であるとの事実を、
46:23 聞いてきました - 事実を、です。 あなたは、同意しないかもしれません。 同意するかもしれません。 それは、私たちの怖ろしいことの一つです- 同意することと不同意すること、です。 なぜ私たちは、同意や不同意をすべきなのでしょうか。 事実は、日は東から昇る、ということであるなら、 それは、事実です。 あなたは、同意や不同意をしません。 日は沈んでしまった。それは事実です。 で、私たちは、 自らの言語より、自らの条件づけより、 同意するのと不同意するのを、脇に置けますか - それで、私たちがどちらも、事実を見つめられるように、です。 それで、同意する人たちと、同意しない人たちとの間に、 分割が何もない。 理解されますか。 物事をありのままに、見ることだけが、ある。 あなたは、「私は見えない」と言えます。 そのとき、それは違った事柄です。 そのとき私たちは、なぜあなたは見えないのかなどに、入られます。 しかし、同意と不同意の区域に入るとき、 私たちは、ますます混乱します。 で、語り手は、私たちの生は断片化していると、言ってきました。
47:51 それは事実です。 私たちの考え方は、断片化しています。 あなたは実業家です。 お金を、たくさん、たくさん稼ぎます。 そのときあなたは、行って、寺院を建てます。 ですね? または、それを慈善に与えます。 矛盾を見てください。 私たちは、けっして自分自身に、正直でないのです - 深く正直、です。 他の何かになるためや、 他の何かを理解するために、正直、ではない。 疑問もないほど明らかであること。 絶対的に、正直さの感覚 - それは、何も幻影がない、という意味です。 あなたは、嘘を言うなら、嘘を言うし、あなたは、それを知っている。 それを覆い隠さないで、「私は嘘をついた」と言う。 あなたは怒っているとき、怒っている。 自分は怒っている、と言う。 その原因や説明や、その取り除き方を、 見つけないでください。 で、これは絶対的に必要です - 私たちが今しているように、あなたが、はるかに深い物事を、 探究しようとしているなら、です。 事実を観念にするのではなく、事実とともに留まります。 それには、きわめて明晰な知覚が、必要とされます。
49:37 さて、これらを言っておいて、 私たちは、「ええ、私は論理的に、知的に、これを理解します」と言います。 それが、あなたが言うであろうことです。 私は、自らが論理的に、知的に理解したことを、 聞いてきたことに、どのように関係づけるべきでしょうか - 真理とは何かに、です。理解されますか。 で、あなたはすでに、知的な理解と行為との間に、 分割を創り出したのです。 ですね? これは分かりますか。 で、聞いてください。それについて何もしないで、ただ聞いてください。 「私はどうやって、何かを得るべきか。 私はどうやって、 思考と時を終わりにすべきか」と、言わないでください。 あなたは、それをできません。 それは不条理でしょう。 なぜなら、あなたは、 時と思考の結果であるからです。 で、あなたは、円をぐるぐると回るでしょう。 しかし、あなたは聞くなら - 反応せず、「どうやって」と言わずに、 実際に、あなたが何か麗しい音楽、 呼び声、鳥の響きを聞くように、 聞く。 すなわち、時はすべて今にある。 そして、思考は動きである、と。 それで、思考と時はいつも、一緒です。 それらは、二つの分離した動きではない。 一つの常なる動きです。 それは事実です。 それを聞いてください。
51:35 それから、 同一視。 あなたは同一視されたい。 なぜなら、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒、キリスト教徒としてとか、それが何であっても、 同一視において、あなたは安全だと感じます。 それは事実です。 それは、私たちの生の断片化の原因の一つです。 時、思考、同一視のように、 また安全をほしがることと、 ゆえに、特定の国や特定の家族、 共同体、集団に 根づくことのように、です。 これらが - 聞いてください。 何もしないでください。 これらが、私たちの断片化の要因です。 さて、あなたは、よく気をつけて、それを聞くなら、 まさにその聞くことこそが、自らのエネルギーを、創り出します。 ですね? 理解されますか。 私が、事実を、言われてきたことを、聞くし、 反応が何もないなら - なぜなら、私はただそれを聞いているからです - そのとき、それは、聞くように、あなたのエネルギーすべてを集める、という含意です。 それは、聞くことへ、あなたのものすごい注意を、注ぐ、という意味です。 まさにその聞くことこそが、 断片化の要因や因果を、壊してしまうのです。 あなたは、何かをするなら、事実に対して行為しています。 しかし、あなたが単に - 歪曲なく、先入観なく、観察があるなら、 その観察、その知覚は、 大きな注意であり、 そのとき、まさにその注意こそが、時、思考とその他すべての感覚を、焼きつくしてしまいます。
54:15 止める時間ですか。 ちょうど一時間です。いや、まだです。 7時5分です。 で、私は、7時15分に止めるでしょう。
54:38 また、私たちは、断片化の中で生を生きますが、 その生の要因の一つは、 恐れです。 ですね? それは、共通の人間的な要因です。 人間たちは、時の瞬間より、 百万年か、五万年前より、 彼らは、怯えてきました。 彼らは、その問題を解決したことが、ないのです。 もしもあなたは、まったく怯えていないなら、 神々はなく、儀式はなく、祈りはないでしょう。 すべての神、すべての神々、すべての導師と彼らの不条理を、 創り出してきたのは、私たちの恐れです。 で、私たちは、この問いに入られますか - なぜ人間たちは、恐れの中に生きるのかと、 それより全面的に自由であることは、可能なのかどうか、です。 時折に、ではなく、 散発的に、ではない。 恐れの対象に気づくことと、 また、恐れの内的な原因に気づくことが、です。 質問を理解されますか。 あなたは、「私は恐れていない」と言うかもしれません。 しかし、あなたの背景すべては、 背景が、恐れの上に構築されていることを、標示します。 なぜなら、あなたたちはみんな、神を信じているからです - そうでないですか。 ありがたい。少なくとも、信じていない人が、一人います。 または、多くの人は、神を信じていないかもしれません。 神は、人間たちにより、創案されてきました。 なぜなら、彼らは恐れているからです。 すべての儀式、 司祭者たちがまとう、すべての派手な衣服 - 背景には、恐れがあります。
57:23 恐れとは何ですか。 何が恐れを引き起こすのか、ではない- 私たちは今すぐ、それに入るでしょう。 ですが、恐れとは何ですか。 あなたは恐れていませんか。 ちょっと変えると、あなたは、本当に正直であるなら、 「私は恐れている」と言わないでしょうか。
57:44 いいえ? 死を恐れ、職を失うことを恐れ、 自分の妻や夫を恐れ、 世論を恐れ、 自分の導師から、偉大な弟子として認識されないことを、恐れ、 暗闇を恐れ、 とても多くの物事を恐れる。 私たちは、恐れの原因、対象について、話していません - 私は、何かについて、恐れている、と。 私たちは、恐れ自体を探究しつつあります - それ自体を、そのものを、です。 私は、怯えている - 自らは、世論に怯えているかもしれません。 それは恐れについて、です。 私は、語り手は、怯えているかもしれません。なぜなら、来年、彼は、 この大きな聴衆が、いないかもしれないからです。 そして、それらの不条理のすべてです。 で、私たちは訊ねています- 原因は何ですか。 そして、原因なしに、恐れとは何ですか。 原因なしに、恐れといったものが、ありますか。 または、「恐れ」という言葉、恐れの響きが、私たちに恐れを、喚起しますか。 理解されますか。 あなたたちは、みんな・・・ 私は、あなたたちを、見つめてはなりません。 理解されますか。 そうね、例えば、 共産主義。 「共産主義」というその言葉が、聞こえるなら、あなたはそれへ反応します - あなたが資本家であるなら、です。 たとえ、あなたが社会主義者であっても、それへ反応します。 「恐れ」という言葉が、聞こえるとき、あなたは、それへ反応します。 しませんか? もちろんです。 さて、その言葉が、恐れを創り出していますか。 または、その言葉は、恐れより違っていますか。 これは、錯綜していません。 それは単純です。 言葉は、そのものではありません。 ですね? 「ランプ」という言葉、または、「マイクロフォン」という言葉は、 実際のマイクロフォンではありません。 言葉は、そのものではありません。 ですね? それで、私は、訊ねています。 私たちは、訊ねています - 「恐れ」という言葉は、事実より、違っています。 または、その言葉が、事実を創り出しますか。 ヴザヴェ・コンプリ? 理解されますか。 で、これについて、明らかでなければなりません。 もしも言葉が、「恐れ」といった言葉が、なかったなら、 恐れが、あるのでしょうか。 いいえ。気をつけて、それに入ってください。 ゆっくりそれに入ってください。 そうですね、 「愛」という言葉は、あの炎ではありません。ですね? 同様に、「恐れ」という言葉は、実際の、掴まれる感覚、 神経質の感覚に生きること、 恐れではないかもしれません。 理解されますか。 恐れです。 恐れが人々に何をするかを、ご存じですね。 彼らは、暗闇に生きます。 彼らは、いつの時も、 怯えに、怯え、怯えています。 彼らの生は、ちりぢりに砕かれる、などです。 それで、私たちは訊ねています - 言葉は、事実ではありません。 言葉は、そのものではありません。 それは、全く明らかでなければなりません。 「マイクロフォン」は、語り手の前の実際のものではありません。 で、恐れの原因や因果は、何ですか。 さて、一分間、待ってください。 私はあなたに、この質問をしました。 語り手が、あなたに、この質問をしました - 恐れの原因は何なのか、などです。 彼はあなたに、この質問をしました。 あなたはその問いを、どのように聞きますか。 なぜなら、その問い自体は、自らの活力、自らのエネルギーを、 持っているからです。ですね? なぜなら、それは、とても深刻な問いであるからです。 それは単に、知的な問いではありません。 知能はそれへ入ります。しかし、 問い自体は - 恐れの原因は何か、は - あなたがその問いとともに留まり、 答えを見つけようとしないのなら、 問い自体が、開きはじめます。 理解されますか。理解されますか。 いいえ。 仮に、私があなたに、まったく真剣に、 「私はあなたを愛しています」と言う、とします。 ロマンチックにならないでください。 仮に、私が心を込めて、あなたにそう言う、とします。 あなたはそれを、どのように聞きますか。 あなたは、それを聞きますか。 または、あなたの反応すべてが、それに入ってきますか。 なぜなら、おそらくあなたは、一度もまったく、愛したことがないからです。 あなたは、結婚してきて、セックスをし、子どもを持っていますが、 おそらくあなたは、愛とは何かを、知りません。 たぶんあなたは、知りません。 それは事実なのかもしれません。 もしもあなたが、愛していたなら、導師はなく、 イメージ、像はなく、分割はないでしょう。 私たちは、別の時にそれに入るでしょう。
1:05:22 で、恐れの因果は、何ですか。 それを聞いてください。私が大変に尊敬を込めて、提案していいなら、 それを聞いてください。 その問いを、あなた自身にしてください。 答えを見つけようとしないでください。 なぜなら、あなたは答えを、見つけようとするなら - すなわち、私は原因を見つけよう。そのとき私は、それをすっかり無くしてしまうだろう。 それは、そのとき、あなたが恐れより違っている、という意味です。 ですね? これに、付いてきておられますか。 あなたは、恐れより違っていますか。 または、あなたは恐れです。 あなたが貪欲であるとき、貪欲は、あなたより違っていますか。 あなたが怒っているとき、怒りは、あなたより違っていますか。 あなたは怒りです。あなたは貪欲です。 それであなたは、恐れです。 もちろんです。 怒りはあなたである、貪欲はあなたである、 恐れはあなたである、との事実を、ひとたび認める、いや、見るなら、結果的に、です。 しかし今、あなたは、恐れより自分自身を分離してきたし、 「私はそれについて、何かをしなければならない」と言います。 あなたはそれについて、五万年の間、何かをしてきました。 あなたは、神々、供養、その他すべての戯言を、創案してきました。 で、それを聞いてください。問いを聞いて、反応しないで、「どうやって」と言わないでください。
1:07:14 「どうやって」という言葉は、私たちの精神、頭脳から、完全に消え去らなければなりません。 そのときあなたは、助けを求めています。 そのときあなたは、誰かに依存しています。 そのときあなたは、すべての自らの活力、独立と 安定感を、失います。 それであなたは、この問いを、自分自身にして、 答えを期待しないのでしょうか。 その問いをしてください。 問い自体に、させてください - あなたは大地に、種子を植えたのです。 種子が生きているなら、 それは、コンクリートを、突き抜けるでしょう。 あなたは、舗道の中の草の葉を、見たことがないですか。 その草の葉は、何ととてつもない活力を、持っているのか - 重いコンクリートを突き抜けるとは。 同じように、 あなたは、この問いを自分自身にして、それを保つなら、 それの原因が、分かるでしょう。 原因は、とても単純です。 私は説明できます。 それは、当面の間、論点ではありません。 重要なのは、問いをすることと、問いにさせることです。 なぜなら、あなたは真剣であり、見出したいからです - あなたは、どう息をするか、どう適切に生きるかを、 見出したいのです。 それであなたは、その質問をしました。 その問い自体に、答えさせましょう - 地中の種子のように、です。 そのときあなたは、種子が花開き、萎れることが、見えるでしょう。 これを理解されますか。 しかし、それが成長しているかどうかを見るために、いつの時も引き抜くなら・・・ - あなたは大地に、何か種子を植えたのです。 私たちが、自らの心と精神に、 恐れとは何かの感覚を、植えてきたように、です。 ですが、それを引っぱりつづけ、それを訊ねつづけるなら、 あなたは、エネルギーを失いつつあるのです。 しかし、問いを放っておき、それとともに生きてください。 そのときあなたは、恐れには原因があることが、見えるでしょう - その言葉ではなく、説明ではなく、 それの実際の真理が、です。 恐れの因果は、思考と時です。 そうではないですか。私は、職を持っていますが、明日、それを失うかもしれません。 私は、痛みとともに生きてきました。 それは今、去っていますが、 私は、それが戻ってくるかもしれないと、恐れています。 ですね? これらをご存じないですか。
1:10:56 で、時は、未来と過去と、今です - 私が説明したように、です - また思考です。 思考と時は、恐れの二つの要因です。 あなたは、それについて何もできません。 「私はどうやって、考えるのを止めるべきなのか」と言わないでください。 それは、あまりにバカげた問いです。 なぜなら、あなたは、ここより自宅へ行くには、車を運転するには、 言語を話すには、考えなくてはならないからです。 しかし、時は、心理的、内的に、まったく必要でないかもしれません。 私は今、それに入らないでしょう。 それは、あまりに錯綜しています。
1:11:45 それで、私たちは言っています - 恐れは、時と思考の二つのおもな要因のせいで、 存在している、と。 そこには、報賞と処罰が、関与しています。 さて、私は、あなたが行ったこの発言が、聞こえてきました。 私はそれを、無量に聞いてきました。 なぜなら、これはものすごい問題であるからです。 それを、人はまったく解決してこなかったし、 ゆえに、人は世界に荒廃を、創り出しています。 私は、あなたに聞いてきました。 発言を聞いてきました。 あなたはまた、私に語ってきました - それについて、何もしないでください。 ただ問いをして、それとともに生きなさい。 女が子宮に、種子を孕んでいるように、です。 それで、あなたは、この問いをしたのです。 その問いに、花開かせましょう。 その問いが、花開く中で、 また、その問いが萎れてしまうことも、あるのです。 それは、花開く、それから終わる、のではない。 まさに花開くことこそが、終わることなのです。 話していることを、理解されますか。
1:13:29 聞く芸術を、学んでください - あなたの妻に、あなたの夫に、 通りの人に、聞くのです。 彼の空腹、彼の貧困、 絶望と、愛の欠如 - それを聞いてください。 あなたは聞くとき、その瞬間に、 何の問題をも持ちません。 何の騒動をも持ちません。 あなたは、ただ聞いています。 ゆえに、聞く行為に、時は何もないのです。
1:14:18 今晩はそれで十分だと、思います。 思いませんか。