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BO85T3 - 悲しみは、私たちの自己中心的な活動の一部である。
第3回、公開講話
インド、ボンベイ(ムンバイ)
1985年2月9日



0:17 クリシュナムルティ: 先の日曜日に話していたことについて、 継続してもいいですか。 強調しなければならない、と思いますが・・・ - 聞こえませんか。いいかな。 彼らは聞こえていません。 私たちは先週、話していましたが・・・ 私たちは、全包括的な生について、話していました - 私たちの生のように、断片化していない、 砕けていない、生き方について、です。 全包括的であり、全体的である 生き方を、私たち自身で 見出すのです - 断片化していなくて、砕けていなくて、 割れていない生き方を、です。 私たちは、その問いに、相当に深く、入りました。 私たちは、人間の頭脳と人間の生のこの断片化の原因が 何であるかを、見ました。 また、私たちは、自らの社会的、道徳的、 宗教的な生における、様々な要因について、話をしました - 私たちがそれを、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒などとして、 砕いてしまったことについて、です。 宗教は、人間存在のこの大惨事に対して、 大いに責任が、ありました。 私たちはまた、時について、話しました。 時とは、過去だけではない。 すべての記憶、 蓄積された経験などが、 現在により修正されて、未来へ継続します。 それが、私たちの生です。 私たちは、生物学者や考古学者などによれば、 この地上に、三百五十万年以上の間、 存在してきました。 いわゆる進化の、その長い間隔の間に、 私たちは、甚大な量の 記憶を、蓄積してきました。 私たちはまた、記憶の制限、 ゆえに、思考の制限についても、話をしました。 その思考の制限は、世界を、地理的に、民族的に、 宗教的に、砕いてきたのです - ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒などとして、です。
3:45 私たちが先日、言いましたように、 これは講義ではありません。 講義は、情報を知らせ、教示することを、 標示しています。 私たちは、そうしていません。 私が、大変尊敬をもって、指摘してもいいなら、 私たちは、一連の観念、結論を、 聞いていません。 むしろ、私たちは - 聞こえませんか。すみません - 彼らは聞こえません。 このように、もっと押しますか? だいじょうぶですか。 どうぞ、今、聞こえますか。 はい? ましですが、良くはない。 私は、より大きな声で、話しましょうか。 いいですよ。
5:47 私たちが言っていましたように、これは、講義ではありません。 私たちはどちらも、一緒です。 あなたと語り手は、旅を行っています。 二人の友として、 話し合っています - 自らの様々な、 家族の問題だけではなく、 世界の問題などをも、です。 で、これは、物事をはっきり言うことが、語り手の責任なのと同じく、 気をつけて聞くことが、あなたの責任です - そのため、 私たちはどちらも、自分たちが話していることを、理解するように、です。 私たちは、多くの物事について、話し合おうとしています - この晩と明日の晩だけではない。 私たちはともに、話し合おうとしています- 秩序と無秩序について、 楽しみ、 愛、 悲しみについてと、 時間があるなら、死について、です。 これらはすべて、かなり錯綜した疑問です - 私たちがみんな、日常生活において、向き合わなくてはならないことです。 あなたが豊かでも、貧しくても、 一連の官僚であっても、 私たちは、存在のこの問題に、向き合わなくてはいけません - その中で、私たちの生は、無秩序の状態に、あります。 それは、相当に明白です。
7:46 私たちの生、私たちの日常生活は、無秩序の中にある。 それは、矛盾、という意味です - 一つのことを言い、別のことをする。 何かを信じているが、 実際には、自分たちが信ずることより、 全然違った方向へ、動いている。 この矛盾は、無秩序を、創り出します。 自らがそもそも、この問題に気づいているのかと、思われます。 見たところ、世界には、ますます多くの無秩序が、あろうとしています - 悪しき政府、経済状況、 社会的な無秩序だけの せいではない。 いつも、戦争の脅威 - それは、ますます緊迫しつつあります。 ますます圧迫しつつあります。 世界中で、すべての政府は、 武器を買っています。 一番小さな国家、民族さえも、武器を買っています。 それで、世界中を観察すると、 大きな無秩序が、あります。 私たちの生、私たちの日常生活もまた、無秩序の中にあります。 私たちはいつも、秩序を追求しています - 政府、法律などだけではありません。 私たちは、秩序をほしがります。 なぜなら、秩序なしには、 人間たちは、必然的に自分たち自身を、破壊するであろうからです。 私たちがともに、問いを分かち合っていることを、願っています - あなたもまた、ともに、この問いについて、考えていることを、です。 すなわち、ともに考え、 ともに観察し、ともに聞き、 あなたが参加している対話を行っていることを、です。 で、それは、幾つか、わずかな観念と結論を集めるとの事柄ではなく、 なぜ私たちは、無秩序の中に生きるのか、 ともに、見出すことなのです。 私たちの生に、全的な秩序はありうるのか。 ゆえに、社会に、全的な秩序は、ありうるのか。
10:58 社会は - あなたたちは、話をするのを、終えましたか - 社会は、私たちにより、もたらされます。 私たちにより、組み立てられます。 私たちの貪欲、私たちの野心、私たちの妬み、 この、自由の個人的な概念 - 私たちはそれへ、今すぐ入るでしょう - これは、大変多くの無秩序を、もたらしてきたのです。 この個人性の感覚が、です。 どうぞ、聞いてください。 言われつつあることを、ともに、聞きましょう。 実際に聞く。 解釈や抵抗や防御するのではない。 なぜなら、私たちは何をも、攻撃していないからです。 私たちは単に、世界で起きつつあることを、 ともに、観察しているだけです。 で、私たちが、これらすべての百万年の後、 今、それを生きているような、私たちの生において、 私たちはいまだに、無秩序の中にいます。 人はいつも、秩序を探し求めてきました。 なぜなら、秩序なしには、 自らはとうてい、自由に、全包括的に、機能できないからです。 ですね? で、秩序とは何かを、見出すには - 青写真ではなく、 何か枠組みに入れて、従うものではなく、 秩序は、何か活動的で、生きているものです。 様式へ順応することではない - 様式が、理想主義的で、 歴史的で、弁証法的な結論であっても、 あるいは、宗教的な裁可であっても、です。 世界中の宗教すべては、一定の法、一定の裁可、 命令を、定めてきました。 ですが、人間たちは、まったくそれらに、従ってきていません。 で、私たちは、それらすべてのイデオロギー的な結論を、脇に置けます。 また、あなたの宗教的な信念をも、脇に置けます - それらは、日常の存在と、何の関わりもありません。 あなたは、宗教が定めた法に、 順応し、従うのかもしれません。 しかし、それはまた、大きな頑迷さをも、もたらす、 などです。
14:19 で、秩序とは何ですか。 そして、私たちの頭脳が混乱し、無秩序であるとき、 秩序とは何かを、見出すことは、可能ですか。 ですね? で、私たちは、初めに、秩序ではなく、無秩序とは何かを、見出さなければなりません。 なぜなら、無秩序がないとき、自然に、秩序があるだろうからです。ですね? で、私たちはともに、探究しなければなりません - どうぞ、ともに、です - 無秩序とは何なのか、なぜ私たちは、無秩序の中に生きるのかを、です。 この無秩序の原因の一つは、 おそらく、主要な原因は、 葛藤です。 私たちは、ここ三回の講話で、それについて、話をしました - 私たちは、今晩それへ、はるかに深く入らないでしょう。 葛藤があるところ、無秩序があるにちがいない。 男と女の間だけではなく、 国家、民族の間、 宗教的な信念、信仰の間、 順応に、 無秩序があるにちがいない。 無秩序の主要な原因の一つは、 私たちがみんな、個人であるとのこの概念、この幻影です。
16:17 私たちが以前の講話で、言いましたように、 あなたは、問い、疑わなければなりません - 語り手が言っていることを、疑い、 彼が言っていることを、問う。 誰から何をも受け入れないで、問う。 抵抗するのではなく、究明する。 言われつつあることが、真実だろうが、虚偽だろうが 私たちは単に、それに抵抗するだけなら、 私たちの会話は、終わりになります。 二人の人々が、自分たちの問題について、 ともに話し合っているのなら、 自らは抵抗しているのなら、 そのとき会話は、終わります。 しかし、彼らのどちらも、互いに説得し合っていなくて、 互いに情報を知らせ合っていなくて、 互いに感化しようとしていなくて、 ともに、友好的に- なぜなら、彼らは友人であるからです - この問いに、入ろうとしています。 私たちが、この幻影 - 私たちはみんな、分離した個人であるということ - の中に、 生きているのかどうか、です。
17:46 共産主義の理論は、 あなたたちのほとんどが、おそらくすでに知っているように、 私たちは、環境の連続の 結果である、ということです。 だから、環境を変化させろ。 すると、人間たちは、変化する、と。 それは、すっかり不条理です。 なぜなら、それは、示されてきたからです。 ロシアの全体主義は、 とても明らかに、指し示してきたのです - わずかな人たちの権勢が、人々に信じ込ませ、 人々の思考を制御する、などなど、ですが、 それは、望まれたような、個人性の終わりを、もたらしていないのです。 反対です。 で、私たちはともに、見出そうとしています。 なぜなら、私たちが言いましたように、 それは、私たちの生における、無秩序の主要な原因の一つであるからです。 各々が、自分は自由であると、考えます。 各々が、自分の充足、自分の欲望、 自分の野心、自分の私的な楽しみを 考えています。 私たちはともに、見出そうとしています- それは、事実であるのか、 または、長く確立された体裁のいい幻影であるのかを、です。 私たちはともに、これに入っていいですか。 ともに、です。 受け入れるのでも、拒否するのでもない。 「私はあなたに同意します」とか、「あなたに同意しません」とか言うことは、愚かです。 なぜなら、あなたは、日の出や日の入りに、同意や不同意をしないからです。 それは事実です。 あなたはけっして、「私はあなたに同意します。 日は東から昇ります」と、言いません。 で、おそらく、あなたは、同意と不同意の感覚を 脇に置けるでしょうし、 ともに、 気をつけて、何の偏見や抵抗もなく、 探究できるでしょう - 実際に、個人性があるのか、 何か全然違ったものが、あるのかを、です。 いいですか? ソックスを引き上げて(気を引き締めて)、 ともに話し合いましょう。
20:57 私たちの意識は、 百万年以上の結果であったのです。 私たちの意識は、 動物的欲望の、原始的な本質すべてを、 収容しています。 なぜなら、私たちは、動物より、自然より、来ているからです。 で、私たちの意識の奥深くにおいて、 さらに深く、動物たちの応答と恐れと、 安全への欲望が、あることが、 見つかるでしょう。 それは、私たちの意識の部分です。 ですね? また、私たちの意識は、 無数の信念、信条、反応と行為(反作用と作用) すべてを、収容しています。 私たちの意識は、 恐れ、楽しみ、様々な記憶、 悲しみと、完全な安全を所有するために、 何かを探求することです。 それが、私たちなるものすべてです。 あなたは、自分の一部は神聖であると、考えるかもしれません。 それもまた、あなたの考えることの一部です。 で、それら意識は、各々であると、私たちは考えます - それは、私たちの一人一人に、所属している、と。ですね? 宗教は、あなたたちは、分離した魂である、と主張してきました - キリスト教とヒンドゥー教と、 様々な他の形の宗教的活動の中で、です。 今、私たちは、それの全体を、問うています。
23:34 あなたは、残りの人間たちの悲しみを、分かち合っていませんか。 世界中の人間すべては、 様々な形の恐れ、 様々な形の楽しみを、持っています。 あなたが苦しむように、彼らは、苦しみます。 彼らはほしがる。彼らは祈る。 あなたがそうするように、彼らは、あらゆる種類の不条理な儀式を、します。 儀式をとおして、刺激を探し求めます - 感受を、です。 あなたがそうするように、です。 で、私たちは、人類すべての 意識を、分かち合っています。 で、あなたは、全人類です。 ですね? 初めにそれを、論理的に見てください。 論理的に、この地上のあらゆる人間は、 宗教、信念などが何であれ、 彼らは苦しみます。 この地上の、あらゆる人間は、苦しみます - 深くか、表面的にか、です。 苦しみを回避する、などです。 私たちは、今すぐ、それに入るでしょう。 この意識を、私たちは、私のだ、個人的意識だと 考えてきましたが、それは、事実ではありません。 なぜなら、私たちが指摘したように、 このすばらしい、美しい地上に生きている、あらゆる人間は - 私たちは、その大地を気をつけて、破壊しつつあります - 私たちはみんな、一つです。 なぜなら、私たちはみんな、同じ問題、 同じ痛み、心配、さびしさ、憂鬱、 涙、笑い、矛盾、葛藤を、 経ていくからです - 男と女、夫と妻の間で、です。 (ソヴィエト・)ロシアですら、これが、つづいています。 で、あなたたちは、自らの意識において、 個々人ですか。 なぜなら、それが、あなたなるものであるからです - あなたの意識が、です。 あなたが、何を考えようと、あなたが、何を想像しようと、 あなたの傾向、適性、才能、 素質、能力が、何であろうとも、 それは、他の人間すべてが、分かち合っています - まさしくあなたのような、あなたと同様な人たちが、です。 これは、論理的な事実です。 論理は、一定の所を、持っています。 自らは、明らかに、論理的に、合理的に、健全に考えなければなりませんが、 それは、思考に基づいています。 自らが、どれほど論理的であろうとも、 思考は制限されています。 私たちが幾度も、それに入ったように、です。 私たちは今晩、それに入らないでしょう。 思考は、合理的になるが、それは制限されている、ということ、です。 で、自らは、思考を乗り越え、 理性の制限の必然性を、 乗り越えなければなりません。 それは、論理的です。 それで、あなたは、全人類です。
28:17 理解されますか。 あなたは、個人ではないのです。 あなたは、その発言を聞くのか - すなわち、あなたは全人類である、と。 あなたは人類です。 インド人と、分割のゴミすべてではない。 あなたが、その種の発言を、聞くとき - あなたは全人類である、と - あなたはそれを、抽象化しますか。 すなわち、事実から、観念を作るか、もたらしますか。 理解されますか。 事実は、一つのことです。 事実についての観念は、別のことです。 ビャン?(いいですか) これは明らかですか。 事実 - すなわち、私たちが、自らは個々人であると、考えてきた、ということ、です。 私たちの宗教、私たちの日常生活、 私たちの条件づけは、私たちに、自らは個々人であると、信じさせてきました。 語り手のような誰かが、やってきて、 「気をつけて見てください。 そうなのですか」と言います。 初めに私たちは、それに抵抗します。私たちは、「あなたは何について話しているのか」と言います。 初めに私たちは、それを押しのけます。 しかし、あなたが気をつけて聞くなら、 私たち、二人の友だちが、互いに聞いているように、です。 そのときあなたは、自らが全人類であるとのこの発言が、聞こえます。 あなたはどのように、その発言が聞こえますか - その響きが、です。 あなたは、その発言の中から、事実を離れて、 観念を作り、そして、観念を追求しますか。 あなたがこれらに、付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 これらに、付いてきているのかどうか、誰かが私に言ってくださいますか。 理解されますか。
30:59 言葉は、そのものではない。ですね?私たちは、それに入りました。 マイクロフォン - 「マイクロフォン」という言葉は、 語り手の前の、実際のそのものではない。ですね? で、あなたは聞きます - すなわち、自分は全人類・・・あなたはそうです。 なぜなら、あなたは、あなたの意識であるからです- その反応と行為すべてとともに、です。 その意識は、人類すべてが、分かち合っています。 なぜなら、あらゆる人間は、 絶望、さびしさ、悲しみ、痛みを、経ていくからです - あなたが、そうなるように、です。 で、あなたは、全人類です。 さて、あなたは、その発言をどのように、聞きますか。 あなたは、それを拒絶しますか。 または、それを検討しますか。 あなたは、その問い、その発言を、究明しますか。 または、単に、「何て戯言だ」と言うだけですか。 あなたは、何をしていますか。 明日ではなく、今、です。 それへのあなたの反応は、何ですか。 なぜなら、これは、とても深刻な発言であるからです - あなたは全人類である、ということは、です。 あなたは、その深さ、その響き、 その美しさ、その無量性を、 聞くのか - そのものすごい責任とともに、です。 あるいは、あなたはそれを、表面的、言語的に、取り扱い、 「ええ、私はそれを、知的に理解します」と言う。 しかし、知的な了解は、ほとんど意味が、ありません。 それは、自らの血に、自らの腸に、なければなりません。 その中から、 違った頭脳の性質が、出てきます - 断片的ではなく、全包括的なものが、です。 無秩序を創り出すのは、断片です。 個々人として私たちは、人間意識を、断片化させてきました。 ゆえに、私たちは、無秩序の中に、生きます。 あなたが、これらを理解されるのかと、思われます。
34:07 あなたが、自分は全人類であることを、悟られるとき、 それが、愛なるものなのです。 あなたは、他の一人を、殺さないでしょう。 あなたは、他の一人を、害さないでしょう。 あなたは、すべての攻撃、暴力と、 宗教の残忍さより、動いて、離れます。 で、私たちの意識は、分かち合われ、人類すべてと一つです。 あなたは、それの美しさ、それの無量性が、見えません。 あなたは、自分の古い様式へ、戻っていくでしょう - 自分たちはみんな、個々人であると考えて、 戦い、闘争し、競争好きで、 各々が、自分のいまいましい小さな自己を、充足したくて、です。 よろしいですね? で、あなたにとって、それは、何をも、意味していません。 なぜなら、あなたは、自分の古い生の道へ、戻ろうとしているからです。 で、これらを聞かないほうが、はるかに良い。 あなたが、真理を聞き、それに則って行為しないなら、 それは、毒として作用します。 これを理解されますか。 そういうわけで、私たちの生は、見かけ倒しで、表面的であるのです。
35:59 私たちはまた、ともに話し合わなければなりません - なぜ人は、何千年に何千年もの間、 無秩序とともに、生きてきただけではなく、 また、なぜ人は永続的に、楽しみを探し求めているかを、です。 所有での楽しみ、 達成での楽しみ、 権力での楽しみ、 地位、象徴を持つ楽しみ。 性的な楽しみだけではない。 その楽しみは、維持されます - 常にセックスについて考えること、 想像すること、映像化すること、イメージ作りをすることによって、です。 すなわち、思考が、楽しみを与えます。 感受は、楽しみへ変えられます。 これらに、付いてきておられるのかと、思われます。 で、私たちは、楽しみとは何かを、理解しなければなりません - なぜ、私たちは楽しみを、探し求めるのかを、です。 私たちは、それは正しいとか、間違っているとか、言っていません。 私たちは、楽しみを非難していません - 私たちは、欲望を非難していないように、です。 欲望は、楽しみの一部です。 欲望の充足が、 楽しみの本性です。 で、私たちはともに、楽しみの本性だけではなく、 欲望とは何かについてもまた、話し合うべきです。 欲望が、無秩序の原因なのかもしれません - 各々が、充足したい、 自分の特定の欲望を、達成したい。 これらを理解されますか。 私たちはともに、旅を行っていますか。 または、語り手は、自分自身に話しつづけているか、 自分一人で歩んでいますか。 これは集会だと思われています。 集会は、深刻な事柄に、 真剣な関心を持つ人々の集会、という意味です - 娯楽に、ではなく、 知的な得に、ではなく、 私たちは、私たちの生に、関心を持っています - 私たちの日常的な、単調な、退屈な生 些細な生、見かけ倒しの生に、です。 で、どうぞ、私たちはともに、究明しようとしています - 欲望が、無秩序の主要な原因の一つであるのかどうか、そして、 無秩序は・・・すみません。 欲望は、その充足において、 その達成において、どの方向でも、 楽しみを与え、満悦させます。 で、私たちはともに、欲望とは何かを、
39:57 究明し、探検すべきです。 それを非難するのではなく、 それより逃避するのではなく、 それを抑圧しようとするのではない - ほとんどの宗教が、「欲望を抑圧しろ」と言ってきたように、です。 それは、不条理です。 で、私たちは、それを見つめましょう。 欲望とは何ですか。 あなたが、その問いを、欲望とは何かを、自分自身にするとき、 たぶん、私たちのほとんどは、 それについて、まったく考えたことがなかったのです。 私たちはそれを、生の道として、受け入れてきました - 男や女の自然な本能として、です。 私たちは、「なぜそれについて思い悩むのか」と言います。 いわゆる、世間を放棄してきた人々以外は、です - 彼らは、けっしてそうしたことが、ありません - そして、僧院、修道院、 組織化された僧院などに、入る人たち、です。 そこで彼らは、自らの欲望を、昇華させようとします - 象徴や人物などの崇拝において、です。 で、私たちはそれを、非難していないことを、どうぞ、心に留めてください。 私たちはともに、欲望とは何かを、見出そうとしています。 なぜ人は、百万年の間、ずっと 物理的に、生物学的にだけではなく、 心理的にもまた、欲望の罠に、欲望のネットワークに、 捕らわれてきたのか、です。 いいですか? あなたは、語り手とともに、究明するのでしょうか。 または、語り手が究明したり、探検したり、説明したりする間、 ただ、語り手に聞くだけですか。 あなたは、説明に、叙述に捕らわれることが、 いかにたやすいのかを、ご存じですね。 私たちは、注釈、叙述、説明に、 満足します。 しかし、私たちはここで、それをしていません。 私たちは、説明しなくてはいけません。 叙述しなくてはいけません。 私たちは、指摘して、それを言葉の枠組みに、入れなくてはいけません。 しかし、欲望は、理解するには、最も複雑なことの一つです - 知的にではなく、深遠に、です。 で、私たちは、見出そうとしています - いいですね? - ともに、です。 欲望とは何ですか。 私のほうを、見ないでください。 私は、説明するでしょう。私は、それに入るでしょう。 ですが、あなたもまたそれに、入らなくてはいけません - ただ、「はい、同意します」とか「同意しません」とか言うだけではなくて、です。 それは、バカげています。 欲望の本性を、見出す - 構築を、 欲望がいかに組み立てられているか、 欲望の起源、欲望の始まりが、 何なのかを、です。 この地上のあらゆる動物は、欲望を持っています。 あらゆる人間は、この欲望のネットワークに、捕らわれていますし、 自らの欲望が充足されないとき、不幸せに感じます。 それら欲望が充足されないとき - それら欲望が、イデオロギー的であれ、 宗教的であれ、プラトン的であれ、 単に物理的であれ、 欲望の起源、始まりは、何ですか。
44:48 語り手は、分析しないで、 叙述するでしょう。 分析と知覚との間には、違いがあります。 分析は、分析者と、分析されるものとを、含意しています。 ですね? 分析者と、彼が分析しようとしているもの、です - それは、分析者が、分析されるものより、違っている、という意味です。 それらは違っていますか。 仮に、私は分析者であり、私は妬んでいる、とします。 私は、なぜ自分が妬んでいるかを、分析しはじめます - まるで、私は妬みより違っているかのように、です。 しかし、妬みは私です。ですね? 妬みは、私より分離していません。 貪欲、競争、比較、 そのすべてが、私です。 で、私たちは、分析していません。 私たちは、見ています。 聞こえています。 そして、学ぶ過程です。 学ぶことは、単に、記憶を蓄積することだけではありません - それは必要ですが、 学ぶのは、何か全然違ったことなのです。 それは、蓄積的な過程ではありません。 あなたは、動いています。 けっして記録していなくて、新鮮です - 私は今、それに入らないでしょう。 それは、私たちを、すっかり違った方向へ、連れて行きます。
46:56 で、ともに私たちは、欲望とは何なのかを、観察しています - 欲望の起源は、何なのか、 なぜ人間たちは、果てしなくそれに捕らわれているのかを、です。 あなたは、少しお金を持っているなら、もっと多くお金がほしい。 あなたは、小さな権力を持っているなら、もっと多く権力がほしい。 ですね? どの形でも権力は - あなたが、自分の妻や子どもに対して、権力を持っているのでも、 政治的に、宗教的にも、忌まわしいものなのです。 それは邪悪です。 なぜなら、それは、真理と何の関わりも、ないからです。 私たちはそれに、入るでしょう。 で、欲望の起源は、何ですか。
48:04 私たちは、感受により生きます。 もしも、感受がなかったなら - 生物学的にも、心理的にも、です - 私たちは、死んだ人間でしょう。 ですね? 私たちは、感受により生きます。 あのカラスが、鳴いている - あれは、耳の鼓膜、神経に作用しています。 そして、その物音を、カラスの声として、翻訳する。 それは、感受です。 聞こえることや見えること、それから接触により、感受は、もたらされます。 ですね? 私は、これらすべてのバカげたことを、説明しなければなりませんか。 あなたは、すてきな庭園を見ます - 美しく保たれています。 緑は豊かで、完璧です。 そこには、雑草がありません。 その芝生は、四百年間、保たれてきました。 それは、見守るには、見るには、麗しいものです。 そのとき、見える。 そのとき、あなたは敏感であるなら、行って、芝生に触れます。 その接触 - 見える、接触、そのとき、感受。 ですね?これに付いてきておられますか。 見える - 麗しい庭、 すてきな車、すてきな樹や、 美しい男や女が、です。 見える、接触、そのとき、感受です。 私たちは、感受により生きます。 それは必要です。 あなたは、敏感でないのなら、 あなたは、鈍いなら、半ば死んでいます - 私たちのほとんどが、そうであるように、です。 で、感受 - そのとき、何が起きますか。 とても単純な例を、取ってみてください。 あなたは店に、すてきなサリーや、シャツが、見えます。 あなたは、それを見る。内側へ入ってゆき、それに触れる。ですね? そのとき、それに触れる感受。 あなたは、「おやまあ、あれは何と麗しい素材なのか」と言う。 そのとき、何が起きますか。 理解されますか。
51:17 見えること、接触、感受が、ある。 そのとき、その後、何が起きますか。 あなたは、私があなたへ語るのを、待っていますか。 そうね、どうぞ、これを聞いてください。 あなたは、他の一人から語られるのではなく、自分自身で、これが見えるなら、 そのときあなたは、教師と学徒になるのです。 ああ、これらを理解してください - 愚かなみなさん。 しかし、あなたが、誰かが言ってきたことを反復し、反復し、反復するなら - 語り手のそれを、含めて、です - そのときあなたは、凡庸に、無思慮に、 反復的に留まります。 で、それに入りましょう。 見えること、接触、感受が、ある。 あのすてきな車が、見える。 ヨーロッパの最新の車の一つです- ここの、ではない。 インドには、美しい車は、ありません。 海外より輸入されたもの以外は、です。 あなたは、美しい車を、見ます。 あなたは、つやに触れます - その形、そのきめに、です。 そのとき、その中から、感受がある。 そのとき、思考が来て、 「もしも私が、あれを得たなら、何とすてきだろうか」と言う。 「もしも私が、それに乗り込み、走り去ったなら、何とすてきだろうか」と。ですね? で、何が、起きてきましたか。 思考は、感受に、形を与えてきました。 ですね? これに付いてきておられますか。 思考は、感受に対して、イメージを与えてきました - あなたがその車に座り、走り去るとの(イメージ)、です。 思考が、あなたが車に座っているイメージを、創り出すその瞬間に、 その秒に、欲望が生まれます。 いいですか? あなたは、これを理解しましたか。 理解できますか。 思考が感受に形を与えるとき、感受にイメージを、与えるとき、 欲望は、生まれます。 さて、問いはこうです - 感受は、存在の道です。 それは、存在の一部です - 敏感であることは、です。 私たちは、欲望を抑圧したり、征服したり、ともに生きることを、 学んできました - その問題すべてとともに、です。 さて、これを、知的にではなく、実際に理解するなら - すなわち、思考は、イメージをとおして、形を与えるが、 その秒に、欲望が、欲望の起源が、そこにあるのです。 そのとき、問いが生じます - 車を見る - それは感受です - それに触れるが、 思考に、イメージを創り出させないことは、可能ですか。 それで、隔たりを保つのです。 理解されますか。 これを理解されますか。
55:43 この問いにおいてもまた、見出さなければなりませんね - 修練とは何ですか。 この国は、世界で最も修練されていない国です。 世界の地方です。 あなたたちは、いたる所に、唾を吐く。 あなたたちは、だらしない。 修練 - 修練とは何ですか。 なぜなら、それは、欲望に関係しているからです。 で、修練について、話しましょう。 私たちは後で、欲望へ、戻ってくるでしょう。 欲望(デザイア)という言葉は - すみません。 修練(ディシプリン)は、学徒(ディサイプル)という言葉から、来ます。 その言葉の起源、語源的な意味は、 「学んでいる人」です。 自らの師匠より学んでいる学徒、です。 学んでいる。 順応しているのではなく、 制御しているのではなく、 抑圧したり、従ったり、 服従したりではない。反対です。 観察から学んでいる。 すなわち、あなたは、欲望が何かを、学んでいます。 それについて、学んでいる - それは、それについて記憶することではない。 で、私たちのほとんどは、訓練されます。 特に、あなたが、軍隊にいたり、それらの事柄にいるなら、 様式に沿って規律をもつよう、訓練されます - まねをし、従い、服従するように、です。 あなたたちがみんな、何をしているのかを、見てください。 それが、修練と呼ばれます。 修練が、秩序をもたらすだろうと、望んで、です。 しかし、学ぶなら、学んでいるなら、 - それが、その言葉の根本の意味です - そのとき、まさにその学ぶことこそが、それ自体の秩序になります。 あなたは、法律や他の何かにより課された秩序を、持ちません。
58:41 で、思考が、感受にイメージを与えることにより、 それに形を与えるところ、 まさにその秒に、欲望が生まれます。 そして、学ぶ、見出すのです - 感受に、花開くのを許し、 思考を、それに介入させないことが、 可能なのかどうか。 分割を保つことが - 私は、「分割」という言葉を、使わないでしょう - それらを、別けておくことが、可能か、です。 あなたは、そうするのでしょうか。 あなたはできません。あなたは、これらすべてのことを、一度もしたことが、ありません。 そのときあなたは、欲望は、自らの正しい所を 持つことを、見出すでしょう。 あなたが、欲望の本性を理解するとき、 それについて、葛藤は何もないのです。
59:58 私たちはまた、ともに話し合うべきです - 愛と悲しみと死は、何なのか、です。 進みましょうか。 あなたは、語り手に、進んでほしいですか。 確かですか。 知っています。もちろん、あなたたちは、誰かが話すのを、聞くのが好きなのです。 どうぞ、これはあまりに深刻です - これらは、です。 それは、あなたの日常生活に、影響します。 それは、何か、あなたが知的に玩ぶことではない。 それは、あなたの生に関連します - 他の誰かの生に、ではなくて、です。 あなたの生きる道に、です。 これらすべての百万年の後、 私たちの生が何であるかを、見てください - いかに空っぽで、浅く、 いかに暴力的で、残忍で、無配慮、無思慮、その他すべてであるかを、です。 それを見てください。 これらは、世界に荒廃を、創り出してきました。 あなたたちはみんな、高い地位を、ほしがります。 何かを達成したい、 何かになりたいのです。 これらを見つめると、 大きな悲しみが、あるのでしょう。 世界のあらゆる人間は、 高い所にいても、ただの無知な村人でも、 彼は、大きな悲しみを、経てゆきます。 彼は、悲しみの本性と美しさと強さを、 認識しないかもしれません。 ですが、彼は、痛みを経てゆきます。 あなたがそうするように、です。 人類は、百万年の間、悲しみを経てきました。 彼らは、その問題を解決したことが、ありません。 彼らは、それより逃避したいのです。 彼らは、それを組織したいのです。 そして、愛と死に対する、悲しみの関係とは、何ですか。
1:03:42 悲しみに、終わりはありえますか。 これは、人類が百万年の間、訊ねてきた 問いの一つだったのです。 すべての痛み、心配に、悲しみの嘆きに、 終わりが、ありますか。 悲しみは、あなた自身の特定の悲しみだけではない。 人類の悲しみが、あるのです。 歴史的に言って、五千年の戦争が、ありました。 毎年、それは、誰かが他の誰かを殺す、という意味です - 自分の部族のため、 自分の宗教のため、 自分の民族、国家のため、自分の共同体のため、 自分個人の保護などなどのために、です。 あなたは、戦争が何をしてきたかを、悟ったことがありますか。 あなたたちは、イスラム教徒と戦っています - パキスタン人とヒンドゥー教徒、です。 あなたたちは、荒廃を創り出してきた戦争という、 問いに、入ったことがありますか。 何百万人が、泣いてきたのか、 何百万人が、負傷してきたのか、 腕もなく、脚もなく、目もなく、 顔さえもない。 みなさんは、これらについて、何も知りません。 で、悲しみと、その中での痛みすべてに、終わりが、ありますか。
1:06:17 そして、悲しみとは何ですか。 あなたは、悲しみを知りませんか。 知りませんか。 あなたは、それを認知するのが、恥ずかしいですか。 あなたの息子、娘と、 自分が愛していると考える誰か - 彼らが取り去られるとき、あなたは、涙を流しませんか。 あなたは、ひどくさびしく感じませんか。 あなたは仲間を、永久に失ってしまいました。 私たちは、死について、議論していません - この無量のことについて、です - 人が経てゆき、 けっしてそれへの解決、答えを持っていないこと、です。
1:07:26 悲しみを終わらせることなしには、愛はありません。 悲しみは、私たちの自己利益の一部です。 私たちの自我本位の、自己中心的な活動、 利己の一部です。 私は、もう一人のために、泣きます - 自分の息子、兄弟、母のために、です。 なぜですか。 なぜなら、私は、何か自分が執着しているものを、失ってしまった、 何か自分に仲間付き合い、慰め、その他すべてを、与えてくれたものを、 失ってしまったからです。 その人物のその終わりでもって、 私は、自分の生が、いかにまったく空っぽなのかとか、 自分の生が、いかにさびしいのかを、悟ります。 そのとき私は、泣きます。 すぐに私を慰めようとする人々が、何千、何万といます。 私は、きわめて安易に、そのネットワークの中へ、 その慰めの罠の中へ、滑り込みます。 神の慰めが、あります - すなわち、思考により組み立てられたイメージです。 または、何か幻影上の概念、観念の慰めです。 ですが、それは私に、慰めを与えてくれるし、それが、私が気づかうすべてです。 しかし、私は、慰めへのまさしく衝動、欲望を、 けっして問いません - そもそも、慰めがあるのかどうかを、です。 快適なベッドは、必要です。 それは、だいじょうぶです。 すてきな安楽な椅子も、です。 しかし、慰めへの衝動、欲求 - 私たちは、そもそも慰めがあるのかどうかを、けっして問いません - 心理的、内的に、です。 またはそれは、私たちの真理になってしまった幻影ですか。 理解されますか。 幻影は、私たちの真理になりえます。 あなたがこれらを理解されるのかと、思われます。 神がおられる、神があるとの幻影 - その神は、思考により、恐れにより、創り出されてきたのです。 もしもあなたが、恐れを持たなかったなら、神はありません。 しかし、神は、人により創案されてきたのです - 恐れをとおし、さびしさをとおし、絶望をとおし、 この永久の慰めがほしくて、です。 で、私たちは、そもそも慰めがあるのかどうかを、けっして問いません - すなわち、深い、長続きする満足が、です。 なぜなら、私たちはみんな、満足したいからです - 自分たちが食べる食物に、だけではない。 性的に満足する。 何か権威の地位を達成すること、 ゆえにその地位に、その状態に、慰めを持つことにより、満足する。 これらをご存じないですか。 で、そもそも慰めが、あるのかどうかを、訊ねましょう -
1:11:54 私たちが生まれた瞬間から死ぬまで、 満悦できて、満足できるだろうものが、何かあるのかどうか、です。 私に聞かないで、見出してください。 見出すように、あなたのエネルギー、 あなたの思考、あなたの血、あなたの心を、注いでください。 何も幻影がないなら、何か慰めがありますか。 何も恐れがないなら、あなたは慰めをほしいですか。 慰めは、もう一つの形の楽しみです。 で、これは、私たちの生のとても複雑な問題です - なぜ私たちは、こんなに浅く、空っぽであり、 他の人々の知識により、書物により 満たされているのか。 なぜ私たちは、依存なき、見出せる自由な人間でないのか。 なぜ私たちは奴隷なのか。 これは、修辞的な問いではありません。 これは、私たちの一人一人が、訊ねなければならない問いです。 まさに訊ねて、疑う中で、 自由が来るのです。 そして、自由なしには、 真理の感覚は、ありません。
1:14:13 で、私たちは、明日の午後、死の問いを継続し、 おそらく、この悲しみの問いに入るでしょう - 宗教的な生とは何か、 宗教とは何か、 そして、何か全的に神聖な、聖なるもの、思考により 何も創案されていないものが、あるのか。 私たちは明日、それに入るでしょう。 語り手が、明日来るよう、あなたを招待している、ということではない。 あなたが来ても、来なくても、彼は、ちっとも気にしません。 それは、あなたの生なのです。