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BO85T4 - 思考により、もたらされていない冥想が、あるのか。
第4回、公開講話
インド、ボンベイ(ムンバイ)
1985年2月10日



0:18 クリシュナムルティ: みなさんが聞こえることを、願っています。 すっかり明らかですか。 はい? よし。
0:42 カメラを持って行ってもらっても、構わないでしょうか。 私たちは今晩、及ぶべき地面を、たくさん持っています。 だから、私たちは戻って、 過去三回の講話で言ってきたことを、反復しないでしょう。 昨日の晩、私たちは、悲しみと、悲しみの終わりについて、 話していました。 悲しみが終わることでもって、熱情(パッション)があります。 私たちのほとんどは、 悲しみの問いを、本当に理解したり、 深く入ったりしません。 悲しみすべてを終わらせることは、可能でしょうか。 これは、すべての人間が訊ねてきた問いでした。 おそらく、あまり意識的にではなく、 深く彼らは - 私たちみんなが、そうなのですが - 人間の苦しみ、人間の痛みに終わりがあるのかどうかを、 見出したいのです。そして、悲しみが終わることを、です。 なぜなら、悲しみが終わることなしには、 愛はないからです。 この問いに、きわめて真剣に入るには - 悲しみがあるとき、 それは、神経系にとって、大きな衝撃です。 生理学的な全体とともに、 心理的な存在にとって、打撃のように、です。 私たちは一般的に、それより逃避しようとします - 薬物をとったり、飲酒や、 あらゆる形の宗教的な現実逃避か、 または、単に冷笑的になるのか、または、物事をありのままに受け入れるのか - 回避不可能だ、と。 この問いに、とても深く真剣に入るには、 まったくそれより逃避しないことは、可能でしょうか。 おそらく、私の息子が、死にます。 そして、無量の悲しみ、 衝撃が、あります。 私は、自分が本当に、とてもさびしい人間であることを、発見します。 私はそれに、向き合えません。 私はそれを許容できません。 それで私は、それより逃避します。 多くの逃避が、あります - 宗教的、世俗的や、哲学的なもの、です。 この逃避は、エネルギーのむだです。
4:59 私たちが言いましたように、私たちはともに、物事について話し合っています。 あなたと語り手は、 この悲しみの事柄を、のぞき見ています。 私たちはともに、旅を行っています - 語り手が一人で、ではありません。 もし私たちは、どの形でも苦痛より、逃避しないで - さびしさの痛み、嘆き、衝撃より、です - 出来事とともに、この、苦しみと呼ばれるものとともに、 完全に留まる - それは可能ですか。 私たちは、何か問題を保っているなら、 保ってください。 それを解決しようとしないで、 それを見つめようとしてください。 貴重な宝石を保っているなら、 精巧な腕前など、 美しいものです。 それを見つづけます。 それから逃避したいと思いません。 それの美しさこそが、魅力的であり、楽しめます。 私たちは、それを見つづけます。 同じように、 もしも私たちが、思考の動きや逃避なしに、完全に保てたなら - それを保つのです。 そのとき、まさにその、 事実より動いて離れない行為こそが、 痛みを引き起こしてきたものより、全的な解放を、もたらします。 私たちは、少し後でもまた、これに入るでしょう。
7:26 また、私たちは、美しさとは何かを、考慮すべきです。 これは、とても重要です。 ただ、或る人物の美しさとか、 博物館へ行って、すばらしい絵画と彫像を見、 石や、絵の具、または詩歌に、自らの感情を表現しようとする 太古の人の尽力を、見る、だけではない。 また、私たちが自分自身に訊ねるなら - 美しさとは何ですか。 美しさは、真理なのかもしれません。 美しさは、愛なのかもしれません。 「美しさ」という、その、とてつもない言葉の 本性と深さを、理解することなしには、 私たちは、神聖なものに、けっして出くわすことが できないだろうことは、必然的なのです。 で、私たちは、美しさとは何かの問いに、入らなければなりません。 私たちは、或る人物の美しさ、顔、 美しいサリー、麗しい樹と、古代の絵画について、 話していません。
9:20 あなたは、何か大いに美しいものが、見えるとき - 青空に対して、雪に満ちた山のように、です - 実際に何が起きますか。 あなたは、何かとてつもなく生きて、美しく、 大いなる威厳のものが、見えるとき、 一瞬の間、一秒の間、 その山のまさしく威厳、 それの無量性が、自己関心すべて、 問題すべてを、追い払うのです。 その秒に、それを見守っている「私」は、何もない。 あの山のまさに偉大さこそが、 私の自己関心すべてを、一秒の間、追い払ってしまったのです。 確かに、これに注目したことが、あるにちがいありません。 そのときあなたは、「それは何ととてつもなく美しいのか」と言います。 そこで、あの雪と、青空に対する 美しい線をもった、あの山の威厳 - まさにその威厳こそが、 「私」を、一秒の間、脇に置きます。 あなたは、玩具をもった子どもに、注目したことがありますか。 その子は、一日中ずっと、いたずらでした - それは正しい。 あなたはその子に、玩具を与えます。 次の一時間、それを壊してしまうまで、 その子は、とてつもなく静かです。 すなわち、 玩具が、その子のいたずらを、吸収してしまったのです。 玩具が、その子を持って行ってしまいました。 同様に、私たちは、何かとてつもなく美しいものが、見えるとき、 まさにその美しさが、私たちを吸収します。 すなわち、 自己がないとき、美しさがある。 理解できますか。 自己利益、 自己のすべての苦労が、ないとき、 何かとてつもなく美しいものにより、 - 山や、深い陰の中の谷のように - 吸収されたり、揺すぶられたりすることなく、 山により持って行かれることなく、 自己なき美しさを理解することは、 可能でしょうか。 なぜなら、自己があるところ、美しさはない、 自己利益があるところ、愛はないからです。 愛と美しさは、伴います。 それらは分離していません。
13:23 私たちが言いましたように、 私たちは今晩、大変多くの地面に、及ばなくてはいけません。 で、私たちはともに、死とは何かについて、 話し合うべきです。 それは、私たちみんなが向き合わなくてはいけない、一つの確実なことです - あなたが、豊かでも、貧しくても、 無知でも、学識に充ち満ちていても、 それは、あらゆる人間の確実なことです - 私たちはみんな、死のうとしているのです。 私たちはけっして、死の本性を理解できたことが、ありません。 なぜなら、私たちはいつも、死ぬことに、怯えているからです。 そうではないですか。 私たちは、死後の継続を、望みます。 で、私たちはともに、死ぬとはどういうことかを、自分自身で見出そうとしています。 なぜなら、私たちはそれに、向き合おうとしているからです。 あなたが、若くても、老いていても、 それは、生において一つの確実なことです。
15:06 死を理解するには、私たちはまた、生きるとはどういうことかをも、探究しなければなりません。 私たちの生とは、何ですか。 私たちは、自らの生を、むだにしていますか。 むだにする、というその言葉は、 私たちのエネルギーを、様々な形で消失させている、という意味です - 専門化した職業により、 消失させています。 私たちは、自らの存在全体、一つの生を、むだにしつつありますか。 私たちはそれを、むだにしつつありますか。 豊かな人々 - 彼らは、 「ええ、私たちはたくさんのお金を、蓄積してきた。 それは、大きな楽しみだった」と言います。 または、あなたは、一定の才能を持っているなら、 才能は、宗教的な生にとっての危険です。 才能とは、授かりもの、 能力、適性です。 特定の方向での適性、 すなわち、専門化です。 専門化は、断片的な過程です。 で、自らは生をむだにしつつあるかを、自分自身に、訊ねなければなりません。 あなたは、豊かなのかもしれません。あなたは、あらゆる種類の能力を、持っているかもしれません。 あなたは、専門家、偉大な科学者や、ビジネスマンであるかもしれません。 生の終わりに、 それらは、むだであったのか。 これらの苦労、これらの悲しみ、 すべてのものすごい心配、不安全、 人が収集してきた愚かな幻影、 彼の神々、すべての聖人など。 そのすべてが、むだだったのですか。 あなたは、権力、地位を持っているかもしれません。 その終わりに、何ですか? どうぞ、これは、深刻な問いで、自分自身に訊ねなければならないことです。 他の一人は、この問いに答えられません- あなた自身以外に、です。 で、私たちは、死ぬことより、生きることを、分離してきました。
19:17 この死ぬことは、自らの生の終わりに、ある - 可能なだけ、はるか遠くに置かれている。 長い時の間隔です。 ですが、長い旅の終わりに、 私たちは死にます。 私たちが、生きることと呼ぶものは、何ですか。 お金を稼ぐこと、 9時から5時まで、オフィスへ行くこと、働きすぎ - 研究所においても、オフィスにおいても、工場においても、です。 そして、果てしなき葛藤、抗争、 恐れ、 心配、さびしさ、絶望、憂鬱。 この存在の道全体 - それを、私たちは生、生きることと呼びます。 それが、生きることですか。 この甚大な人の苦労、 人の果てしない葛藤。 それに、私たちは取りすがります。 この生きることは、痛み、悲しみと呼ばれます - 心配、葛藤、 あらゆる形の欺瞞、 腐敗、と。 自己利益があるところ、腐敗があるにちがいない。 これが、私たちが生きることと呼ぶものです。 私たちはそれを知っています。 私たちは、それらに、よく親しんでいます。 それが、私たちの日常的な存在です。 誰も私たちを、そこからごまかせません。
22:00 私たちは、死ぬことを、恐れています。 すなわち、 私たちが知ってきた物事すべて、 私たちが経験し、集めてきた物事すべてを、手放すこと - あなたが持ってきた、麗しい家具、 あなたの絵、絵画の美しい収集品。 死は来て、「あなたは、もはや、それらのどれをも、持てない」と言います。 私たちは、知られたことに、縋りつき、知られていないことを、恐れています。 私たちは、輪廻転生を創案できます。 すなわち、私たちは来世に生まれるはずだ、と。 私たちはけっして、来世に生まれるのは、何であるかを、探究しません。 来世に生まれるものは、記憶の束です。 なぜなら、私たちは記憶によって、生きるからです。 私たちは、取得されたり相続されたりした知識によって、生きます。 その知識が、私たちなるものです。 自己は、過去の経験、思考などの 知識です。 自己はそれです。 自己は、創案するかもしれません - 自らの中に、何か神聖なものがある、と。 しかし、それはやはり、思考の活動です。 思考はいつも、制限されています - 私たちが先日、それについて話したように、です。 で、これが、私たちの生きることです。 これが、私たちが生と呼ぶものです - 楽しみと痛み、報賞と処罰、 これが私たちの生です。 死とは、それらが終わる、という意味です - 私たちが考え、蓄積し、楽しんできた 物事すべてが、終わる。 私たちは、これらに執着しています。 自分の家族に、執着しています - 蓄積されたすべてのお金に、 知識に、 自らがそれとともに生きてきた信念に、 理想に、です。 私たちは、それらに執着しています。 死は、言います - 「君、それは、その終わりだよ」と。
25:37 さて、問いはこうです。 なぜ頭脳は、生きることを分離してきたのか - 生きること、すなわち葛藤などと死とを、です。 なぜこの分割は、起きてきたのか。 ですね? 執着があるとき、 この分割が存在しますか。 どうぞ、私たちが言いましたように、私たちはともに、物事について、話し合っています。 私たちは、人が百万年の間、ともに生きてきたものを、分かち合っています - 生きることと死ぬことを、です。 それで私たちは、そのことを、ともに検討しなくてはなりません。抵抗せず、 「ええ、私は輪廻転生を信じています。 私はそれによって生きます。 私にとって、それは重要です」と 言わずに、です。 そのとき、私たちの間の会話は、終わりになります。 ですが、私たちは本当に、生きるとは何か、 自らの生をむだにするとは、何か、 死ぬとは何かの問いに、入るなら、です。
27:22 自分は、とても多く物事に、 執着しています - 自分の導師に、蓄積された知識に、 自分の息子、娘の記憶などに、です。 その記憶は、あなたです。 あなたの頭脳全体が、記憶でもって満たされています。 近頃の出来事の記憶だけではなく、 また、記憶 - 動物、類人猿であったものの、 深い長続きする記憶 - 私たちは、それの、あの記憶の一部です。 私たちは、この意識全体に、執着しています。 ですね? それは、事実です。 死は来て、「それは、あなたの執着の終わりだ」と、言います。 私たちは、それに怯えます。 それらより完全に自由であることに、怯えます。 死は、それです - あなたが持ってきたものすべてより、切り離すことです。 私たちは、創案できます。私たちは、「ええ、私は来世に継続するだろう」と、言えます。 ゆえに、継続するのは、何ですか。 質問を理解されますか。 私たちの中に、この継続したいとの欲望が、あるのは、何ですか。 そもそも、継続がありますか - あなたの銀行口座や、毎日オフィスへ行くこと、 礼拝の課業と、 あなたの信念の継続、以外に、です。 しかし、それらはすべて、思考により、まとめられています。 思考は、制限されてきて、それで、葛藤を創り出しています。 私たちは、それらに入りました。 私たちは今、それに入らないでしょう。 自己、「私」、自我、ペルソナは、 古代と現代の錯綜した記憶の束です。 それは、あなた自身で見られます。 あなたは、それらについて、書物と哲学を、研究しなくていい。 あなたは、自分自身でそれを、きわめて明らかに、見られます - あなたは、記憶の束であることが、です。 死は、そのすべての記憶を、終わりにします。 ゆえに、自らは怯えています。
31:04 さて、問いはこうです - 現代の世界に、死とともに、生きられますか。 自殺ではない。私たちは、それについて、話していません。 あなたは生きながら、執着すべてを、終わらせる - それが死です。 ですね? 私は、自分が住んでいる住宅に、執着しています。私はそれを買いました。 私はそれへ、大変多くのお金を、払ってきました - 持っているなら、です。 私は、すべての家具、絵画、写真、家族、 それらの記憶に、執着しています。 死は来て、そのすべてを、拭い去ります。 私は、自らの生の毎日を、 死とともに生きられますか - あらゆる物事を、毎日、終わらせる。 あなたの執着すべてを、終わらせる。 それが、死ぬとはどういう意味なのか、です。 しかし、私たちは、生きることを死ぬことより、分離してきました。 ゆえに、私たちは、永続的に怯えています。 しかし、あなたが、生と死を一緒にまとめるとき - 生きることと死ぬことを、です - そのときあなたは、 そこでは記憶としての知識すべてが終わる 頭脳の状態が、あることを、見出すでしょう。 しかし、あなたは、手紙を書くには、知識が必要です。 ここに来るには、英語を話すには、 帳簿をつけるには、 家に帰るなどには、知識が必要です。 しかし、知識を、何かとして保つこと - 精神を、全面的に占有されないように、です。 私たちは先日、コンピューターの専門家と話していました。 コンピューターは、プログラムできます。 それは、その記憶を蓄えます。 またコンピューターは、それらの記憶を、脇に置けます - 紙や、ディスクに、です。 そして、自体を空っぽに保てます。 自らが再プログラムされたり、さらに教示されたりできるように、です。 付いてきていますか。
34:44 それで、頭脳は、 必要なとき、知識を使えるが、 知識すべてより自由でありえますか。 すなわち、 私たちの頭脳は、いつの時も、記録しています。 あなたは、今、言われていることを、記録しています。 その記録は、記憶になります。 その記憶、その記録は、一定の区域では必要です。 その区域は、物理的な活動です。 私はそれに入りません。それは明白です。 頭脳は、自由であって、 違った次元で、全的に機能できるように、なりうるでしょうか。 すなわち、 毎日、あなたは、ベッドへ行くとき、 自らが収集してきた物事すべてを、拭い去るのです。 その日の終わりに、死ぬ。 これらを理解されますか。 あなたは、この種の発言が聞こえるなら - すなわち、生きることは死ぬことである、 それらは、まったく二つの分離したことではない、と。 あなたは、その発言が聞こえます。 耳で聞こえることで、だけではなく、 またあなたは、それが聞こえます。 あなたは、気をつけて聞いているなら、 それが聞こえます。 それの真理、それの実際が、聞こえます。 当面の間、あなたは、その明瞭さが、見えますが、 後であなたは、また戻ってしまいます。 あなたは、執着しています。 あなたは、なりはじめます・・・ そうね、その他すべて、です。 で、私たちの一人一人が、一日の終わりに、 必要でない物事すべてに、死ぬことは、可能でしょうか。 傷のあらゆる記憶、 あなたの信念、あなたの信条、あなたの心配、あなたの悲しみの、あらゆる記憶に対して、 毎日、それらに対して、終わる。 そのときあなたは、自らが、いつの時も死とともに生きていることを、見つけるでしょう。 死とは、終わることです。
38:12 また本当に、終わることの問いにも、入るべきです。 私たちはけっして、何をも完全に終わらせません。 なぜなら、私たちは、そこに利得があるなら、 報賞があるなら、終わらせるからです。 自発的に終わる - より良いものがあるとの 未来の想定なしに、です。 現代世界で、そのように生きることは、可能でしょうか。 すなわち、全包括的な生き方 - その中に、生きることと死ぬことが、あり、 いつの時も起きているのです。
39:17 そのとき、私たちはまた、ともに、愛とは何かについても、話し合うべきです。 愛は、感受ですか。 愛は、欲望ですか。 愛は、楽しみですか。 愛は、思考により組み立てられていますか。 あなたは、自分の妻を、愛していますか。 または、あなたの夫、子どもを、愛していますか。 愛は、嫉妬ですか。 いいえ、と言わないでください。 あなたは嫉妬深い。 愛は、恐れですか。 心配、痛み、その他すべてですか。 で、愛とは何ですか。 あの性質、あの香り、あの炎なしに、 あなたは、とても豊かなのかもしれません。 あなたは、権力、地位、重要性の 感覚すべてを、持っています - それら位階的な、生への見通しです。 愛なしには、あなたは、ただの空っぽの貝殻です。 で、私たちは、この愛の問いへ、入るべきです。 もしもあなたたちが、自分の子どもを愛していたなら、 戦争が、あるのでしょうか。 もしも、あなたたちが、自分の子どもを、愛していたなら、 あなたは、彼らが戦争をとおして、不具になるのを、許すのでしょうか - 他の人たちを殺す、他の人たちを傷つけるのなどを、許すでしょうか。 野心があるところ、愛は存在できますか。 どうぞ、あなたは、これらに向き合わなくてはいけません。 しかし、私たちはそうしません。 なぜなら、私たちは、課業に、反復に 捕らわれているからです - セックスなどとしての感受の反復に、です。 それで、愛は、楽しみとは、感受などとは、 いかなる関わりも、ありません。 愛は、思考により、組み立てられていません。 ゆえに、それは、頭脳の構造の内に、ありません。 それは、何か全面的に、頭脳の外側のものなのです。 なぜなら、頭脳は、まさにその本性と構造からして、 感受、神経の応答などの 道具であるからです。 単なる感受があるところに、愛は存在できません。 記憶は愛ではありません。
43:10 また、私たちは、 ともに、宗教的な生とは何かと、 宗教とは何かについて、 話し合うべきです。 またもや、これは、とても複雑な問いです。 人、人間は、はるか昔に、 物理的なものを越え、 痛み、悲しみ、楽しみの毎日の存在を越えた何かを、 探し求め、 探究してきました。 人はいつも、何か越えたものを、探し求めてきました。 初めに、雲の中に - 雷鳴は、神の声でした。 それから彼は、樹々、石を、崇拝しました。 未開人たちは、いまだにそうします。 これら醜い、おぞましい街を、遠く離れた村々 - 彼らは、いまだに石、樹々、 小さな像を、崇拝します。 人は、何か神聖なものが、あるのかどうかを、見出したいのです。 そして、司祭者がやってきて、言います - 「私があなたに指し示そう。 私があなたに見せよう」と。 導師たちが、そうするように、です。 そして、西洋の司祭者たちの 儀式、派手な衣装。 彼らの儀式、彼らの反復、 彼らの特定のイメージ、像への崇拝、 そして、あなたたちは、自分のイメージ、像を、持っています。 または、あなたは、そのどれをも、信じていません。 あなたは、「私は無神論者だ。 私は神を信じていない。 私は人道主義者だ」と言います。 しかし、人は、あなたと語り手は、いつも、 何か、時を越え、思考すべてを 越えているかもしれないものを、 見出したいのです。
46:12 それで、私たちは、ともに、探究しようとしています - 私たちの頭脳、理性、論理を、行使して、 宗教とは何なのか、 宗教的な生とは、何なのかを、です。 この現代世界において、それは、可能でしょうか - 僧侶、修道士になるのではなく、 彼らの組織化された集団ではなくて、です。 で、私たちは、それを探究しましょう。 私たちは、本当に、真に、宗教的な生が何なのかを、 私たち自身で見出すことが、できるとき - 宗教とは実際に何であるかを、私たちが理解し、それらを脇に置くとき、 それは、私たち自身で見出しうるだけなのです。 どの宗教にも、所属しない。 どの組織化された宗教にも、どの導師にも、 どの心理的な、いわゆる霊的権威にも、です。 いかなる霊的な権威も、ないのです。 それは、私たちが犯してきた犯罪の一つです。 私たちは、真理と私たちとの間に、 仲介者を、創案してきました。 で、宗教とは何かを、探究しはじめるとき、 その探究の過程において、あなたは、 宗教的な生を生きています -その終わりに、ではない。 見つめる、見守る、議論する、疑う、問う、 信念、信条を持たない過程こそ - その究明の過程において、 あなたはすでに、宗教的な生を、生きています。 私たちは今、それをしようとしています。
48:58 宗教的な事柄となるとき、私たちは、すべての理性、 すべての論理と正気を、失うように思われます。 で、私たちは、論理的、理性的でなくてはいけません - 神について、人が組み立ててきた物事すべて、 救い主、導師と彼らの権威を、 疑い、問うて、 あらゆる物事を、完全に脇に置く。 それは宗教ではないのです。 それは単に、わずかな人たちによる権威の想定です。 または、あなたが彼らに、権威を与えます。 あなたが彼らに、権威を与えます。 あなたは、注目したことがありますか - 無秩序があるところ - 社会的に、政治的に、人間関係において、です - それが解消されないのなら、無秩序の中から、 独裁者、統治者が、出てきます。 あなたたちは近頃、この実例を、持っています。 イタリアには、ムッソリーニとして、 そして、ヒットラー、あの狂人など、です。 無秩序があるところ - 政治的に、宗教的に、私たちの生において、です - あなたは、権威を創り出すでしょう。 あなたは権威に、責任があるのです。 そして、あまりに進んで、その権威を受け入れようとする、人々が、います。 で、ともに私たちは、宗教とは何かを、見つめようとしています。
51:06 恐れがあるところ、 人は必然的に、探し求めます - 何か自分を保護し、自分を護衛してくれるだろうものを、です。 自分を、確実性、完全な安全の感覚に 保ってくれるだろうものを、です。 なぜなら、人は、基本的に怯えているからです。 その恐れの中から、私たちは、神々を、創案します。 その恐れの中から、私たちは、すべての儀式、すべてのサーカスを、創案します - 宗教の名において、つづいているものを、です。 この国の寺院すべて、 教会とモスクすべては、 思考により、組み立てられています。 あなたは、直接的な啓示がある、と言うかもしれません。 しかし、あなたはけっして、その啓示を、疑いません。問いません。 あなたはそれを、受け入れます。 そして、論理、理性、健全さを用いるなら、 自らが蓄積してきた迷信すべて、 それらは、宗教ではありません。 明白です。 あなたはそれらを、脇に置けますか - 宗教の本性とは何なのか、 宗教的な生活の性質を保つ精神、頭脳とは何なのかを、 見出すように、です。 あなたは、怯えた人間として、 創案しないで、幻影を創り出さないで、 恐れに向き合えますか - 私たちは、それについて、先日、話しました。 あなたが、それを保ち、それとともに留まり、それより逃避しないとき、 それに、自らの注意全体を注ぐとき、 恐れは、心理的に、完全に消え去りうるのです。 それは、恐れに光が投げかけられているようです - 大きな閃光です。 そのとき、その恐れは、完全に消え去ります。 恐れがないとき、神はありません。 そのとき、儀式はありません。 あらゆる物事が、不必要に、愚かになります。 それが、非宗教的なのです - 思考が創案してきた物事は、非宗教的になる。 なぜなら、思考は単に、物質的な過程であるからです - 経験、知識、記憶に基づいています。 それは、物理的な過程です。 思考が、長々しい手続き全体を、 組織的な宗教の構造全体を、創案するとき - それは、完全に意味を失っています。 まったく無意味です。 あなたはそれらを、脇に置けますか - その終わりに報賞を探し求めず、自発的に、です。 あなたはそうするのでしょうか。
55:19 あなたがそうするとき、 私たちは、訊ねはじます - 宗教とは何ですか。 時と思考すべてを越えた何かが、ありますか。 あなたは、その質問をするかもしれませんが、 思考が、その問いを越えた何かを、創案するなら、 それはやはり、物質的な過程です。 私たちは、思考は物質的な過程であると、言ってきました。 なぜなら、それは、脳細胞の中で、維持され、養育されるからです。 語り手は、科学者ではありませんが、あなたは、自分自身において、それを見守れ、 あなた自身の頭脳の活動を、見守れます。 すなわち、思考の活動を、です。 で、私たちがそれらを、自発的に、楽に、 何の抵抗もなく、脇に置けるなら、 あなたは必然的に、訊ねるでしょう - 時と空間すべてを越えた何かが、ありますか。 どの人によっても、かつて見られたことがない、何かが、ありますか。 無量に神聖な何かが、ありますか。 頭脳がけっして、触れたことがない何かが、ありますか。 で、私たちは、見出そうとしています。 あなたが初めの一歩を歩んだなら、です - それは、宗教と呼ばれるこれらゴミを、拭い去るのです。 それは、あなたが自らの頭脳、自らの論理、 自らの疑い、自らの疑問を、使ってきたからです。
57:51 そのとき、冥想とは何ですか。 なぜなら、それは、いわゆる宗教の一部であるからです。 冥想とは、何ですか。 世の中の喧噪から逃避することですか。 静寂な精神、静かな精神、平和な精神を、持つことですか。 あなたは、気づくために、体系、方法を、実践します。 体系、方法、 あなたの思考を制御下に置くための型枠、です - 脚を組んで座る、何かマントラ(真言)を反復する。 私は、聞かされました - その言葉の意味は、 語源的に、熟慮する、なりゆかない、という意味です。 それが、意味の一つです。 そして、自己中心的な活動すべてを、 吸収する、脇に置く。 それが、マントラの、本当の、根本の意味の一つです。 しかし、私たちは、反復し、反復し、反復し、 続けていきます - 私たちの自己利益の道、 私たちの自我本位の道を、です。 で、マントラは、その意味を、失ってしまいました。 で、冥想とは何ですか。 冥想は、意識的な努力ですか。 あなたは、意識的に、冥想します。実践します - 何かを達成するために、です。 静かな精神、頭脳を達成するため、 頭脳の止まった感覚を、達成するため、です。 その冥想者と、「私はお金がほしい。 だから、そのために働く」と言う人との 間の違いは、何ですか。 二人の間の違いは、何ですか。 どちらも、達成を探し求めています。ですね? 一つは、霊的な達成と呼ばれます。 もう一つは、世俗的な達成と呼ばれます。 それらはどちらも、達成の路線にいます。
1:00:47 で、語り手にとって、それはまったく冥想ではありません。 どの意識的、意図的、 能動的な欲望は、その意志とともに、 冥想ではありません。 で、訊ねなくてはなりません - 思考により、もたらされていない冥想が、ありますか。 語り手は言おうとしていましたが、 あなたが気づいていない冥想が、ありますか。 これらを理解されますか。 どの意図的な冥想の過程も、 冥想ではありません。それは明白です。 あなたは、脚を組んで、余生の間、座り、冥想し、 呼吸、その他すべての事柄を、できますが、 あなたは、他のもののどこにも、近づかないでしょう。 なぜなら、それは、結果を達成するための意図的な行為であるからです。 原因と結果です。 しかし、結果は、原因になる。 で、それは、あなたが捕らわれている循環です。
1:02:24 で、欲望により、意志により、 努力により、 組み立てられていない 冥想が、ありますか。 語り手は、ある、と言います。 あなたは、それを信じなくてもいい。 反対に、あなたは、それを疑わなければなりません。 あなたは、それを問わなければなりません - 語り手が、それを問い、それを疑い、 それを引き裂いてきたように、です。 考案されたり、組織されたりしていない 冥想が、ありますか。 それに入るには、 条件づけられている頭脳、制限されている頭脳を、 理解しなければなりません。 その頭脳が、無制限のもの、測量不可能なもの、 時のないものを、了解しようとしています - 時のないもの、といったものが、あるなら、です。 そのためには、 響きを理解することが、重要です。 響きと静寂は、伴います。 あなたは、響きを理解しないなら - 響きの深さを、です。 しかし、私たちは、響きを静寂より、分離してきました。 響きは、言葉です。 響きは、あなたの心臓の鼓動です。 宇宙・万物は、響きでもって満たされています。 宇宙・万物とは、大地全体、すべての天空、 百万の星々、 という意味で、です。 空全体は、響きでもって満たされています。 明白です。 あなたは、それについて、科学者たちに聞かなくてもいい。 私たちは、その響きを、何か許容できないものに、してきました。 で、私たちは、静かな平和な頭脳が、ほしいのです。 しかし、あなたが、響きを聞くとき、まさに聞くことこそが、静寂です。 静寂と響きは、分離していません。
1:05:55 で、冥想は、何か考案され、 組織されていないものです。 冥想は、 それは、初めの一歩に、始まります - それは、あなたのすべての傷、心理的な傷より、 自由であること、 あなたのすべての蓄積された恐れ、心配 さびしさ、絶望、 悲しみより、自由であることです。 それが基礎です。それが、初めの一歩です。 初めの一歩が、終わりの一歩です。 あなたが、その初めの一歩を歩むなら、それは済んでいます。 しかし、私たちは進んで、その初めの一歩を、歩もうとしません。 なぜなら、私たちは、自由になりたくない、 私たちは、依存したいからです。 権力、他の人々に依存し、 環境に依存し、 自分の経験、知識に依存します。 私たちはいつも、依存し、依存していて、 すべての依存、すべての恐れより、けっして自由ではない。 ゆえに、悲しみが終わることが、愛です。 その愛があるところ、 慈悲がある。 その慈悲は、自らの不可欠な智恵を、持っています。 その智恵が行為するとき、それはいつも・・・ 行為は、真実です。 その智恵があるところ、何の葛藤もありません。
1:08:20 あなたは、これらを聞いてきました。 あなたは、恐れが終わること、悲しみが終わること、 美しさと愛が、聞こえてきました。 しかし、聞こえるのは、一つのことですし、行為は別のことです。 あなたは、これらすべてのことが、聞こえます - 真実であり、論理的で、健全で、理性的であることが、です。 しかし、あなたは、それに沿って行為しないでしょう。 あなたは、家に帰って、もう一度、一から、やり直すでしょう - あなたの悩み、あなたの葛藤、あなたの悲惨を、です。 それで、訊ねます - それらは、何の役に立ちますか。 この語り手に聞いて、それを生きないことは、何の役に立ちますか。 聞いて、行わないことには、あなたの生のむだが、あります。 何か真実であることを、聞いて、行為しないなら、 あなたは、自らの生を、むだにしつつあります。 生は、あまりに貴重すぎるのです。 それは、私たちが持っている唯一つのものです。 私たちはまた、自然との触れあいをも、失ってしまいました。 それは、私たちが、自分たち自身との触れあいを、失ってしまった、という意味です。 私たちは、自然の一部です。 あなたは、樹々、鳥たち、水、山を、愛していません。 あなたは、大地を、破壊しつつあります。 私たちは、互いを、破壊しつつあります。 そのすべてが、生のむだなのです。 これらを悟るとき - 単に知的にや、言語的にだけではない - 宗教的な生を、生きるのです。 腰布をつけたり、物乞いに回って行ったり、 僧院に加わったりではない。 それは、宗教的な生ではない。 葛藤がないとき、この愛の感覚があるとき、 宗教的な生は、始まります - あなたが他の一人を、妻や夫を、愛せるとき、です。 ですが、その愛は、すべての人間が、分かち合います。 それは、一人の人物に与えられ、ゆえに、制約されるのではない。 それで、あります - あなたが、自らの心と精神、頭脳を注ぐなら、 何か、すべての時を越えているものが、ある。 それの祝福が、ある - 寺院にではなく、教会にではなく、モスクにではない。 あなたがいるところに、あの祝福があるのです。