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BR7879CBS1 - あなたは、ブッダが言ったことを、言っていませんか。
仏教学者たちとの議論 第1回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1978年6月22日



0:14 ギドゥー・ナラヤン: ご紹介を通じて、私は、 一つ、二つのことを、申し上げましょう。 そちらのシュレーゲル博士は、禅仏教の有名な学者です。 彼女は日本に、十二年間、生活しました。 今は、ロンドンで、禅仏教を教えています。 彼女はまた、ごく最近まで、 (ロンドンの)仏教協会の司書でした。 多くの人々が、彼女を知っています。 多くの人々が、彼女の学生であったからです。

K: 少し大きな声で。

N: 私たちは、クリシュナジとのこの対話を 手配したいと、昨年以来、ずっと望んでいました。 が、それは可能ではなかったのです。 (ワールポラ・)ラーフラ博士は、セイロン、スリランカからです。 彼は、上座部においても、大乗においても、 きわめて偉大な仏教学者です。 彼は、スリランカ、オックスフォードで講義をされますし、合衆国、日本にも行かれます。 彼はすっかり有名ですし、かなり多くの本を書かれています。 私たちが今日、クリシュナジとのこの対話を行うことが、 可能であることに、私は喜んでおります。 クリシュナムルティ: たぶん、みなさんは、ボーム博士と私自身を、ご存じです。
1:48 ですから、私たちに紹介は要りません。 ワールポラ・ラーフラ博士: ええ。私たちは、あなたを、よくよく存じ上げています。
1:59 私は、あなたの教えを、ずっと追ってまいりました - (教えという)その言葉を使うのを、許してくださるなら、ですが。 あなたがその言葉をお好きでないことは、存じています。
2:09 K: よろしいですよ。
2:12 R: ・・・私の若い頃からです。 私は、あなたの本のほとんどを、読んでいます- 大きな興味、深い関心をもって、です。 私は長い間、あなたとこの議論を行いたいと思っておりました。 私たちが今日、この機会を得ていることに、 私はとても幸せで、とても喜んでいます - これらの手配をしてくださった、ナラヤンさんのおかげです。 私は、言わなければなりません - 私は長年、あなたの教え、あなたの本を、追ってまいりましたので、 これを、言わなければなりません - すなわち、ブッダの教えを充分によく知っている人物にとって、 あなたの教えは、まったく親しみぶかいです。 そのような人物にとって、それは、新しいことではありません。 それは、まったく親しみぶかい。 ブッダが 2500年前に教えたことを、 あなたは今日、新しい熟語、新しいスタイルで、教えます。 あなたは、彼の教えに新しい衣服を、まとわせます。 それが、私があなたの本を読むとき、いつも感じることです。 私は、しょっちゅう書いてきました- 私はここに、それらの本を持っておりません。 実質的に、あなたの書物のほとんどが、私のところにございます - 私は、あなたの本を読むとき、ブッダのしかじかの教えと比較して、 しょっちゅう余白に書きこみます。 時々、私は詩頌を、引用すらします。 または、章と詩頌や、本文を、です。 ブッダの教え、いにしえの元来の教えだけではなく、 後の仏教哲学者の観念すらも、です。 後で私は、あなたと議論するでしょうが、 それらのことですら、あなたは、実質的にまさしく同じことを、仰ります。 私は、いかにあなたが、これらのことを、こんなに良く、みごとに得ることに、驚きました。 始めにあたって、私は、ごく短く、二、三の点に、触れたいと思います - それらは、ブッダの教えとあなたの教えとの間に、共通することです。 例えば、ブッダは、神を受け入れませんでした - 世界を創造し、この世界を統治し、 人々の行為に対して、彼らに賞罰を行う神を、です。 あなたもまた、この観念を受け入れないと、私は思います。 それからブッダは、古いヴェーダの、バラモン的な観念を、受け入れませんでした - 久遠で、恒常的で、 永続的で、変化しない霊魂、アートマン(我)を、です。ブッダはそれを否定しました。 あなたもまた、その霊魂、その種の魂を、受け入れないと、私は思います。 それから、ブッダは、人間の生が、 苦境 - すなわち、苦しみ、葛藤、悲しみ - にあるとの立場で、 教えを始めます。 あなたは本で、いつもそれを強調なさるのが、見られます。 それからブッダは、この葛藤、苦しみの原因、 そのすべては、利己性のせいである、と言います。それは、自己についての 間違った観念により、創り出されます - 私の自己、私のアートマン(我)、です。 あなたも同じことを仰る、と思います。 それからブッダは、言います - 自らがその欲望、執着、自己より自由であるとき、 彼は、苦しみより自由である、葛藤より自由である、と。 事実、あなたはどこかで、仰りました。 私は憶えています - 自由とは、すべての執着からの自由、という意味である。 あなたはどこかで、仰りました。 それはまさしく、ブッダが教えたことです。 すなわち、執着すべては - そこには何も区別がありません。 良い執着も悪い執着も、ありません。 もちろん、相対的に、私たちの普通の実用的な生には、ありますが、 究極的に、そういう分割はありません。 それから、真理を見ること、真理を悟ること。 それは、物事をありのままに、見ることです。 ブッダが、仏教用語で、「如実に」と言ったように、です。 それは、物事のあるように、という意味です。

K: ええ、如実、です。
6:55 R: それを見るとき、真実が見えます。真理が見えます。 あなたは、その葛藤より自由です。 これは、しばしばあなたが仰ることだ、と思います - あなたとボーム博士との間の議論において、と思います。 それは『実在と真理』(という本)かと思います・・・D.ボーム: 『真理と現実』です。

R: あの議論の中で、あなたたちは、この問いについて、議論されました。 私は近頃、あれを読んだとき、 これは、仏教思想において、全く有名である、と思いました - 世俗諦と、勝義諦として、です。 世俗諦は、通常の真理です。 勝義諦は、絶対的か、究極的な真理です。 で、相対的か、通常の真理を見ることなしには、 究極的な真理や、 絶対的な真理は、見えません。 それはまた、仏教者の態度でもあります。 あなたは同じことを仰ると、思います。
8:04 K: そうです。

R: それから、あなたの一つの・・・ もちろん、これは、より通俗的な水準において、ですが、 それはとても重要です。 あなたはいつも、権威に依存してはならない、と仰ります - 誰の権威にも、誰の教えにも、です。 あなた自身が、それを悟らなければならない。 あなた自身で、それを見なければならない、と。 これは、仏教できわめて有名な教えです。 ブッダは、カーラマたちに、「何も受け入れるな」と語りました - ただ、それが、宗教や聖典により、または、教師により、 導師により与えられているから、といって、です。 あなたが自分自身で、それが正しいと分かってこそ、それを受け入れなさい。 それが間違っているとか、悪いとか分かるなら、それを拒否しなさい、と。 私は、あなたが、(ヒンドゥーの)スワミ・ヴェンカテーサーナンダと行われた とても興味深い議論を、憶えています。
8:58 K: そうですね。

R: 彼の論点は、大いに、 導師の観念全体、導師の重要性ということでしたが、 あなたはいつも、仰りました - 彼は何ができますか。それをするのは、 あなたの仕事、あなたの用事です。 導師は、あなたを救えない、と。 これはまさしく、仏教的な態度です - すなわち、あなたは権威を受け入れるべきではない、と。 読んだ後、私はそれをもまた聞きました。 私の友人が、その(録音)テープを掛けてくれました。 後で私は、全体を読みました - あなたの本・・・『智恵の目覚め』において、です。 読んだ後、終わりに、私は経文より書きました - ブッダもまた、これらのことを言ってきた。 これらの議論は、ブッダにより、 『ダンマパダ(法句)』の二行に、要約される - あなたが努力をすべきである。 ブッダは教えるだけである。
10:02 K: 全くです。

R: これは、『ダンマパダ』にあります。 あなたは、はるか昔に、若かったとき、読まれました。 なぜなら、私はそれを、メアリー・ラッチェンス(による伝記)の本に、見つけたからです。 あなたはどこかで、それを引用されました。 この行ではなく、他のを、です。 それから、もう一つ、とても重要なことですが、 あなたが仰るとき、多くの人々は理解しません - 私はこれを、あからさまに申し上げなければなりません。 彼らが理解しないのなら、彼らに知ってもらいましょう - 気づき、注意深さ(マインドフルネス)への、あなたの強調です。 これは、ブッダの教えの中の、 きわめて重要な、極度に重要なことです。 それは、『念住経』に示されています。 気づくこと、注意深いことが、です。 私自身は、『大般涅槃経』において読んだとき、驚きました - それは、彼の最後の数ヶ月についての教説、経典です。 彼は、止まって、弟子たちに話をしたあらゆる地点で、 物事に気づきなさい、気づき、注意深さを養成しなさいと、いつも言いました。 それは、念住と呼ばれます。 それは本当は、気づきの存在、注意深さの存在、 という意味です。 これもまた、あなたの教えの中で、とても強い論点の一つです - 私はそれを大いに評価しまして、従っています。 それから、もう一つの興味深いことですが、 あなたがいつも、無常を強調されることです - 苦しみ、無常を、です。 これは、ブッダの教えにおいて、根源的なことの一つです - あらゆる物事は、無常である。 恒常的なものは、何もない、と。 或る個所で、あなたは、まさしく仰っています - それは、『知られたものからの自由』という本の中にあると、私は思います。 何も恒常的ではないと発見することが、ものすごく重要である。 そのときにのみ、精神は自由であるから、と。 それはまさしく、ブッダの四聖諦にあります - すなわち、あなたがそれを見るとき、です。 それから、もう一つの興味深い小さな点に、私は触れたいと思います - あなたの教えと、ブッダの教えが、 いかに何の葛藤なく、相伴うのか、です。 あの本、『知られたものからの自由』の 或る個所において、あなたは、仰ります - 制御と外的な修練は、道ではないし、 修練されていない生もまた、何の価値をも持たない、と。 これを読んだとき、私はそこにもまた、余白に書きました。 ブッダは、バラモンに語った。 バラモンはブッダに訊ねた - 「あなたはいかに、これら高みに、 霊的で知的な高みに、到達しましたのか。 どんな教誡により、 どんな修練により、 どんな知識により、あなたは到達しましたか」と。 ブッダは言った - 「知識によってではなく、修練によってではなく、 教誡によってではなく、言葉によってではなく、また、それらなしに、でもない」と。 それは、重要なことです。 彼は、これらのことによって、ではなく、それらなしにでもない、と言いました。 まさしく、あなたが仰ることです。あなたは、この修練への隷属を、非難されますが、 修練なしでは、生は何の価値もない。 それはまさしく、禅にあります - それは結局、仏教です。 禅仏教と呼ばれるものは、何もありません。 禅は仏教です。 禅において、修練は執着であり、 それへの隷属は、きわめて大いに非難されますが、 世界において、修練が さほど強調される仏教宗派は、ありません。 シュレーゲル博士は後で、これについて話をされるだろう、と思います。 ゆえに、これらすべてのことは - 私たちは、話をすべきことを、他に多く持っていますが、 始めるには、私は、これらのこと、これら根源的なことが、 全く一致していることと、あなたとブッダとの間には、 何の葛藤もないことを、申し上げたいと思います。 もちろんあなたは、自らが仰るように、仏教者ではない。
14:21 K: そうです。
14:22 R: ええ。私自身は、自分が何なのかを知りません。それは大事なことではない。 ですが、あなたの教えと、ブッダの教えにおいて、 ほぼ何も葛藤がありません。 あなたは、今日の人にとって、明日の人にとって、 魅力的な形で、同じことを仰るだけです。 今、私は、あなたがこれらについて、何とお考えになるかを、知りたいと思います。
14:49 K: しかるべき尊敬を込めて、申し上げていいですか - なぜあなたは、比較されますか。
14:59 R: いえ、これは、私があなたの本を読むとき、 仏教学者として、 仏教の経文を研究してきた者として、 私はいつも、それは同じことである、と見るからです。
15:15 K: ええ。ですが、私がお訊きしてもいいなら、 比較の必要性とは、何ですか。
15:24 R: まったく必要性は、ありません。
15:28 K: もしもあなたが・・・ あなたが、仏教の学者でないなら、 すべての経典とブッダの言葉の(学者)ですが・・・ もしも、あなたが学術的でなくて、 仏教に、とても深く入ってきていなかったなら、 これを読んで、あなたはどのように、打たれるのでしょうか - それらの背景なしに、です。
15:56 R: それは、私は申し上げられません。 なぜなら、私は、けっしてその背景なしではなかったからです。 それは、条件づけられた状況です。 それは条件です。 私たちはみんな、条件づけられています。

K: そのとおりです。
16:09 R: ええ。ゆえに、私はその問いに、答えられません。 なぜなら、その地位が何であろうかを、私は知らないからです。
16:17 K: で、私が指摘してもよろしいなら - あなたが気になさらないことを、願っています。

R: ええ、まったく構いません。
16:31 K: 知識は、人間たちを条件づけますか - 聖典の知識、 聖者たちが言ってきたことなどなどの知識、 いわゆる聖なる書物の全範囲 - それはそもそも、人を助けますか。
16:57 R: それは確かに・・・聖典と、私たちの知識すべては、人を条件づけます。 それについて、疑いはありません。 それは条件づけます。それは条件づけです。 ですが、私は、知識は絶対的に不必要ではない、と言うべきでしょう。

K: 絶対的に・・・ 

R: 不必要ではない、と。 それは、ちょうどこのように、です - ブッダは、きわめて明らかに、これを指し示してきました - あなたは、河を渡りたい。橋はない。 あなたは、自分自身で舟を作る。 その舟の助けでもって、渡る。 向こう岸へ着いて、 あなたが、「この舟は、私にとって、とても役立ってきた。 私にとって、とても助けになってきた。 私はここに、それを置いていけない。 それを運んで行こう」と考えて、 あなたがそれを担ぐなら、と。 彼は、比丘たちに訊ねます - 「その人は、正しく行為していますか」と。 彼らは、「いいえ」と言いました。 そのとき、あなたがすべきことは、こう言うことです - 「もちろん、この舟は、私にとってとても助けになった。 だが、私は河を渡ってしまった。 今、それは私にとって、もはや役立たない。 私はそれを、ここに置いていこう。 他の誰かが使うために」と。 それが、知識や学習への態度です。 ブッダは、言います - 教えさえも、それだけではなく、美徳、 いわゆる美徳、道徳的な美徳さえもまた、舟に似ている。 それらは、相対的な価値と、条件づけられた価値を、持っている、と。
18:44 K: 私は質問をしたいと思います。 私は、あなたが仰っていることを、疑っておりません。 ですが、私は質問したいと思います - 知識は、その実際の意味において、 精神を解放する性質を、持っているのかどうか、です。
19:10 R: 私は、知識が解放できるとは、思いません。
19:13 K: その性質を持っていますか。 知識はできない。ですが、あなたが知識より招来する性質、です - 強さ、能力の感覚、価値の感覚、 自分は知っているとの感じ、知識の重さ。 それは、自己を強めませんか。
19:49 R: 確かに、確かに。

K: で、知識は実際に、人を条件づけますか。
20:04 そのように表しましょう。
20:06 R: 知識が、ですか。 ええ、確かにそうです。
20:10 K: で、「知識」という言葉は、確かに、私たちが二人とも、 確かに、私たちのみんなが、情報の蓄積、経験の蓄積、 という意味で、言います - 様々な事実と理論と原理の蓄積、過去と未来、です。 そのすべての束を、私たちは知識と呼びます。 そのとき、過去は、助けてくれますか。 なぜなら、知識は、過去であるからです。
20:49 R: そのすべての過去、そのすべての知識は、 真理が見えた瞬間、消え去ります。
21:02 K: いえ。知識の重荷を負った精神は、真理が見えますか。
21:11 R: もちろん、精神が知識の重荷を負い、混雑し、 それで覆われているなら、その条件づけは・・・
21:19 K: で、そうです。一般的に、そうです。 ほとんどの精神は、知識で満たされて、不具になっています。 私は、「不具になった」という言葉を、押しつぶされた、という意味で、使っています。

R: ええ、ええ。 

K: そういう精神は、何が真理なのかを、知覚できますか。 または、それは、知識より自由でなければなりませんか。
21:50 R: 真理を見るには、精神は、知識すべてより自由でなければなりません。
21:57 K: ええ。で、なぜ、知識を蓄積し、それから、それを放棄し、それから、 真理を探し求めるべきなのでしょうか。 私が言っていることに、付いてきておられますか。 

R: ええ、ええ。 私たちが生において、通常の生活を取り上げるときさえ、 私たちが回避する物事のほとんどは、始まりには、役立つ、と思うんです。 例えば、 私たちは、子どものとき、学校での学習では、 罫線なしでは、書けません。
22:34 K: もちろんです。もちろんです。
22:35 R: でも、今日、私は、罫線つきの紙には、書けません。
22:38 K: ええ。
22:39 R: でも、私はその段階では・・・
22:42 K: ちょっと待ってください。 同意いたします。 学校、専門校と大学にいるとき、線は、必要です - 書くための線、その他すべてが、です。 しかし、始まりは、尋常でなく大事ではないですか - 彼が成長するにつれて、それは、未来を条件づけるかもしれないでしょう。 私が言おうとしていることを、理解されますか。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。 自由は、終わりにありますか。 始まりにありますか。
23:36 R: それは、始まりも、終わりもありません。 自由には、始まりも、終わりもありません。
23:49 K: ええ。ゆえに、自由は知識により制限されると、仰るのでしょうか。
23:58 R: 自由は、知識により制限されません。 おそらく、間違って適用されたり、取得された知識は、 自由を、妨害するかもしれません。
24:10 K: いいえ。知識の蓄積には、間違ったとか、正しいとかは、ありません。 知識、です。 私は、一定の醜いことをして、悔い改めるか、または、 それら醜いことを、続けていくかもしれません。 それはまたもや、私の知識の一部です。 で、私は、知識は自由につながるのかどうかを、訊ねています。 あなたが仰るように、修練、規律は、始まりには、必要です。

R: そのとおりです。

K: あなたが年を取り、成熟し、 能力などなどを取得するにつれて、 その修練は、精神を条件づけてきていませんか - それで、その言葉のふつうの意味で、修練を けっして放棄できないように、です。
25:15 R: ええ。十分に、全く理解できます。 あなたは、修練が始まりに、一定の水準において、 必要であることに、同意されます。
25:25 K: 私はそれを問うのです。 私が、自分はそれを問う、と言うとき、 私は、それを疑うとか、それは必要でない、という意味ではありません。 私は、探究するために、それを問うのです。
25:37 R: ええ。一定の水準では、それは必要だと、言うべきでしょう。 それをけっして放棄できないのなら - 例えば、今、私は、仏教者の視点より、話しています。 道に関して、仏教には、二つの言葉があります - 有学と無学、です。 有学は、道の途中にいて、 まだ到着していない人々すべてです。 それは、それらすべての修練、教誡と、 善し悪し、正しい、間違いのそれらすべてのこと、という意味です。 真理を悟った阿羅漢は、無学と呼ばれます。
26:21 K: ええ。無学、ね。

R: 彼は、何も修練を持ちません。
26:24 K: ええ。ですが・・・
26:25 R: 彼はそれを越えているからです。
26:27 K: ええ。これは理解します。
26:29 R: ですが、それは、生における事実です。
26:32 K: 私はそれを問うのですよ。
26:35 R: 私は、それについて心に、疑いを持ちません。
26:40 K: すると、私たちは、探究を止めてしまいました。
26:43 R: いいえ、そうではありません。
26:45 K: いえ。私がいうのは、私たちは知識について、話していますね。 知識は、役立つとか、必要だとか、です。 河を渡る舟のように、です。 私は、その事実を、探究したいのです。 または、その直喩を、です。 それが真理であるのかどうか、 それが、真理の性質を、持っているのかどうかを、です。 そのように表しましょう。 当分の間、私は、そのように表しています。
27:31 R: 仰るのは、その直喩ですか。 または、その教えですか。
27:36 K: その全体です。 その意味は・・・ちょっとお待ちください。 それは、進化を受け入れる、という意味です。
27:49 R: ええ、進化を受け入れる、と。

K: 進化を。 次第に、一歩一歩、前進する。 そして究極的に、到る、と。 いいですね? 初めに、私は修練します。 制御、努力です。 私は、もっと能力を、もっとエネルギー、もっと強さを、得るにつれて、 それを放棄して、先へ進みます。
28:30 R: そのような計画は、何もありません。 そのような計画、プログラムは、何もありません。
28:36 K: いえ、私は、計画があるとは、言っていません。 私は、探究のために、訊ねています - そういう動き、そういう前進がそもそも、あるのかどうか、です。
29:00 R: あなたは、どうお考えですか。
29:03 K: 私はどう考えるか、ですか。 ないですね。
29:05 イルムガルト・シュレーゲル博士: 私は、あなたに大いに同意します。私は、それを信じられません。
29:11 R: ええ。前進はありません。
29:14 K: いえ、私たちは、よく気をつけて、それに入らなければなりません。 なぜなら、伝統全体が、 仏教のでも、ヒンドゥー教のでも、キリスト教のでも、 すべての宗教的と、非宗教的な態度が、時に、進化に、捕らわれてしまっているからです - 「私は、もっと良くなるだろう。 私は、善くなるだろう。 私は最後に、善に花開くだろう」と。 いいですか。 私は、そこには、非真理の根がある、と言っています。 そこには、非真理があります。 そのように表して、すみません。
30:05 S: 私が入っても、よろしいでしょうか。 私は全面的に、それに同意いたします。

K: 不同意ですか。
30:12 S: 全面的に同意です。

K: 同意ね。
30:14 S: 十分な理由のために、です - すなわち、私たちが知るかぎり、人間たちが存在してきて以来、 私たちはいつも、自らの様々な脈絡において、 自分たちは良くあるべきであると、知ってきました。 もしも、何かこのようなことにより、前進することが、可能であったなら、 私たちは、今日そうであるような人間ではないでしょう。 私たちはみんな、充分に進化してきていたでしょう。
30:38 K: 私たちは、そもそも進化したことがありますか。
30:40 S: それが正確に - 私たちは進化したことがありません - あったとしても、ほとんどありません。
30:45 私たちは、テクノロジー的に、科学的に、保健衛生的に、 その他すべてでは、進化したかもしれません。 しかし、心理的に、内的に、私たちは進化していません。 私たちは、一万年か、もっと前の私たちのままなのです。
31:01 S: で、私たちが、良いことをすべきだと知っていて、 それをどうするかの体系を、多く進化させてきたという事実は、 私たちが正確にそうなるのを、どうやら助けてこなかったのです。 私たちが見るところ、私たちのみんなに、特定の障害があるし、 この障害が、必要とする・・・ なぜなら、私たちは、全く正直に、真心からするからですが、 私たちのほとんどは、良くなりたいが、私たちのほとんどが、それをやってのけない。 ですが、私にとって危ういと思われるのは、この切り抜けていくことです。
31:36 K: そうね、私たちは、進化を受け入れてきました。 生物学的には、進化があります。 私たちは、その生物学的な事実を、 心理的な存在へ、移行させてきました - 心理的に自分たちは進化するだろう、と考えて、です。
31:59 R: それがその態度であるとは、私は思いません。いいえ。
32:03 K: ですが、「次第に」と仰るとき、それが、その意味することです。
32:07 R: いいえ。私は、次第に、とは言いません。私はそう言いません。 真理を悟ること、真理を達成することや、 真理を見ることは、 計画なしのことです。立案なしです。
32:24 K: 時の外にある。
32:26 R: 時の外です。そのとおり。 時の外です。
32:31 K: すると、それは、こういう意味です - 私の精神は、幾世紀、幾千年をかけて進化してきました。 それは、時により条件づけられています。 それが、進化です。 それは、知識を取得することです - 知識を、もっともっと多く、です。 それが、とてつもない真理を、開示するでしょうか。
32:57 R: 開示するのは、その知識ではないでしょう。
33:00 K: では、私はなぜ、知識を蓄積すべきでしょうか。
33:02 R: でも、それはどうやって、回避できますか。
33:05 K: 心理的に回避する。 テクノロジー的には、そうではない。
33:09 R: ええ、心理的にさえ、私は どのように、それができますか。

K: ああ、それは、違った事柄です。
33:14 R: ええ。どのようにできますか。なぜなら、あなたは、条件づけられているからです。 私たちはみんな、条件づけられています。
33:19 K: ちょっと待ってください。 もう少し、それに入りましょう。 私はだいじょうぶでしょうか。

B: いいですよ。
33:33 K: 生物的、身体的に、 子どもの頃より、一定の年齢、成熟、 思春期などまで、 それは事実です。 小さなオークの木は、成長して、巨大なオークの木になる。それは事実です。 それは、事実ですか。 または、私たちが創り出したのか、そうだと想定したのですか - 心理的に私たちは成長しなければならない、と。 すなわち、心理的に、最終的に私は、真理を達成するだろう、とか、 私が地盤を準備するなら、真理が起きるだろう、とか、いうのは。
34:22 R: いえ、いえ。 それは、あなたが到ったのは、間違った結論です。 それは、間違った結論です。 真理を悟ることは、 進化(エヴォルーション)ではなくて、革命(レヴォルーション)である、ということです。
34:39 K: ええ。ゆえに、なぜ- 理解されますか - 精神は、この前進という観念より、 自由でありえますか - 心理的に、です。

R: もう一度、お願いします。

K: 精神は、この前進の観念より、心理的に、自由でありえますか。 

R: それはありえます。
35:04 K: いいえ、ありうる、ではない。そうでなければなりません。さもないと、ありえません・・・
35:08 R: それが、私が申し上げたこと、革命(反逆)です -
35:10 革命は、進化、次第の前進ではない、と。
35:19 K: で、心理的に、革命はありえますか。
35:24 R: ええ、ええ。確かに。
35:27 K: それは、どういう意味ですか。 時がない。
35:30 R: 時が、ありません。
35:32 K: ですが、宗教すべて、聖典すべては、 それがイスラムであっても、または、何であっても、 あなたは、一定の体系を経て行かなければならない、と主張してきました。
35:47 R: でも、仏教はそうではない。
35:49 K: いいえ。ちょっと待ってください。 私は仏教と呼びさえしないでしょう。 私は知りません。私は、少年だったとき以外、 読んだことがありません。それも、私の精神から、出て行ってしまいました。 最終的に、と言うとき、 初めに修練してから、その修練を手放さなければなりません。
36:09 R: いいえ、私はそうは言いません。 私は、そのように想定しません。 ブッダもまた、しませんでした。
36:16 K: では、どうぞ、私は間違っているかもしれませんが、あなたはどうお考えですか。
36:21 R: お訊ねしますが、あなたはどのように進行しますか。
36:25 K: 何の進行ですか。
36:27 R: それを、真理の悟りを、あなたはそれを、どのようにしますか。教えてください。
36:30 K: ああ、それは、違った事柄です。

R: それをどうするかを、教えてください。
36:33 K: それは、全く違った事柄です。
36:35 R: ええ。私がいうのは、ちょうど・・・そのようではない。 私が言うのは、私たちが条件づけられている、ということです。 誰も、それを回避できません- どれほどやってみても、です。 革命(反逆)は、あなたが条件づけられていることを、見ることです。
36:55 K: いいですよ。始めましょう。
36:57 R: それは時を持たないことが、見えた瞬間、 それは、全面的な革命です。 それが、真理です。
37:04 K: 仮に、自らが、進化の様式に条件づけられている、とします - 進化の様式、です。 私はそうだった。私はそうである。 私はそうなるだろう。それが進化です。 ちがいますか。 ナラヤン: ええ。
37:26 K: 理解されますか。 私は昨日、醜かった。 しかし今日、私はその醜さについて学んでいて、自由になりつつある。 明日、私はそれより自由になるだろう。 いいですね? それが、私たちの態度全体、 私たちの存在の心理的な構造です。 これは、毎日の事実ですよ!
37:58 R: 私たちは、それが見えますか。
38:01 K: 待って。私たちは、それが見えます。 いいですか?
38:05 R: いいえ。そうね、理解は、知的に、言語的に、一つのことです。
38:11 K: いいえ。私は、知的にとか、言語的にとか、話していません。 それは事実です - 「私は良くなろうとしよう」。
38:21 R: 良くなろうとするとの疑問は、ありません。
38:23 K: いえ、いえ。ブッダによって、ではなく、 聖典によって、ではなく、 毎日の生活の、平均的な人間 - 彼は、「私は、自分があるべきほどに、良くない」と、言います。 ですが、「私に二週間か、二年間を与えてくれ。 最終的に、私は、怖ろしく良くなるだろう」と。
38:46 R: 確かに、それが、人々の態度です。
38:49 K: 実質的に、あらゆる人の、です。
38:50 R: 実質的に、あらゆる人の、です。 全く同意します。
38:53 K: さて、ちょっと待ってください。 それが、私たちの条件づけです。 キリスト教徒、仏教徒 - 全世界が、この観念により条件づけられています。 それは、生物学的な前進より、動いて来て、 心理的な分野へ、入ったのかもしれません。
39:16 R: ええ。それが、あなたとの論点です。
39:19 K: さて、人は - 女も、ですが - 人間は、どのように 時なく、この様式を破るべきでしょうか。 質問を理解されますか。

R: ええ、ええ。 それはただ、見ることによって、です。
39:45 K: いえ、いえ。私は、このいまいましい前進の醜さに、捕らわれているなら、見えません。 あなたは、ただ、見ることによって、だ、と仰るが、私は、「私には見えない」と言います。
39:57 R: すると、できませんね。
39:58 K: いえ。でも、私は、それを探究したいのです。 すなわち、なぜ私たちは、括弧付きの「前進」へ、心理的に、 こんなに重要性を、与えてきたのでしょうか。
40:16 I.シュレーゲル: 私は、学者ではありません。 それで、私は実践的な面から、参ります。 ちょっとの間、私が入ってきてもよろしいですか。 私は実践者ですが、 私は、自らの実践を、仏教の分野で行ってきました。 西洋人で、かつての科学者としての私にとって個人的に、 私は、最も満足できる答えを、仏教の教えに、見つけてきました - すなわち、私は自分自身を盲目にする。 私が自分の障害である。 私が、自分の条件づけの束すべてとともに、ここにいるかぎり、 私は見えない、行為できない、と。 それが、可能性だと思われます。
40:58 K: それは助けになりません。 それは助けになりません。 あなたは、「私はそれを学んできた」と、仰っています。

S: 私はそれを学んできましたが、
41:06 私は、むしろ、ピアノ演奏を学ぶのと同じように、それを学んできました - 教科を学習するように、というよりは、です。 それが、私が寄与したいと思う点です。
41:23 K: いえ。またもや、あなたは、ピアノの演奏に、戻ろうとしています。 それは、実践という意味です。 すみません。実践ではない。良いピアニストは実践しないと、私は聞かされてきました。
41:35 S: 私は、それになるために、実践してきたにちがいありません。
41:41 K: で、私たちは、この終わりに、何について、話していますか。
41:45 ナラヤン: ここには、一つの困難があるように、思われます。 知識は、一定の魅惑、一定の力を、持っています。 自らは知識を蓄積します - それが仏教的でも、科学的でも、です。 それはあなたに、独特の自由の感覚を、与えてくれます - それは自由ではないけれども。 それは、もっと、通常の自由の領域に、あるんです。 何年もの研究の後、これから抜け出すことは、とても困難だと、見ます。 なぜなら、長年をとおして、 二十年、二十五年をとおして、あなたは、これに到着するし、 あなたは、それを評価します。 それは、真理と呼んでもよさそうなものの性質を、持っていません。

R: 確かに。 

N: すべての実践に関する困難は、あなたが実践するとき、 何かを達成する、ということである、と思われます。 達成は、通常の真実の種類のです。 それは、一定の力、一定の魅惑、一定の能力を、 持っています - たぶん一定の明晰さを、です。
42:47 R: それにより、それへ執着します。

N: ええ。それから離れ去ることは、初心者にとってより、はるかに困難です。 これらのものを持っていない初心者は、 取得した英知を、多く持っている人より、 何かを、直接的に見るかもしれません。
43:09 R: たぶんね。
43:11 N: そうですか。
43:14 R: それは、個人に依存します。 一般化はできません。
43:20 N: ええ。一般化はできません。
43:23 K: できますよ。私が指摘してもよろしいなら、原理として一般化できます。
43:28 R: 原理として、どのようにですか。
43:33 K: つまり - それへ戻りましょう。 私たちはみんな、この前進の観念に、捕らわれています - いいですか? - 到達の(観念に)、です。
43:49 R: その点で、合意に到りましょう - すなわち、前進が、次第の進化的な事柄であることを、 人類は、事実として受け入れる、ということです。 

K: ええ。

R: あなたが仰ったように、生物学的に、彼らは受け入れたし、証明してきました。 だから、彼らは、同じ理論を心理的なことへ、応用します。 私たちは、それが人類の地位であることに、十分に同意します。
44:13 K: で、私は、それは真理ですか、と言います。 私は、生物学的な前進を、生物学的な進化を、受け入れてきたかもしれません - それを、私は次第に、心理的な存在へ、移行させてきたのです。 今、私は、それは真理ですか、と言います。

R: 今、私は、あなたの問いが、分かります。 私は、それが真実だとは、思いません。
44:41 K: ゆえに - ちょっと待って - ゆえに、私は、修練の観念全体を、放棄します。
44:49 R: それが見えるとき、

K: いえ、いえ。
44:52 R: 放棄するという疑問はない、と私は言うべきでしょう。 意識的にそれを放棄するなら・・・
45:00 K: いいえ。ちょっとお待ちください。 私は、人間たちがしてきたことが、見えます - それは、生物学的なことより、心理的なことへ、動くことです。 そこに彼らは、この観念を、創案してきました - すなわち、 最終的にあなたは、神性に到るだろう、とか、 または、進化、覚り、です。 ブラフマンに到る、 何であれ、それに到る - 涅槃や天国に、また地獄にも、です。 人間が、それの偽りを見るとき - 理論的にでなく、実際に、です - そのとき、それは終了しています。
45:52 R: 絶対的に、です。それが、私が今回ずっと、申し上げることです。
45:55 K: ゆえに、それなら、なぜ私は、聖典や、あれやこれの 知識を、心理的に取得すべきですか。
46:04 R: それは必要ではありません。
46:05 K: すると、私は、なぜブッダを読むのですか。
46:08 R: それが、私が申し上げたことです。 私たちはみんな、条件づけられています。
46:12 D.ボーム: 私があなたに言ってよろしければ、私は質問をできるでしょうか。

K: 口出ししてください。

B: すなわち、あなたは、私たちがみんな条件づけられていることを、受け入れますか。
46:20 K: ボーム博士は、訊ねます - 私たちはみんな、自分たちが条件づけられていることを、受け入れますか。
46:25 R: あなたがそれを受け入れるか、受け入れないかを、私は知りません。私はそれを受け入れます。

K: いいえ。 

R: 時の中に・・・(いない人は、)誰もいません。
46:36 時の中にいることが、条件づけられることです。
46:42 K: いえ。ボーム博士は訊ねています。 彼の問いの意味合いは、こうです - あなたが訊ねていることを、私が翻訳しなくてはいけませんか。 進んでください。今、あなたの出番です。
46:59 B: まあ、私は単に、こう言っています- 私はそれを、どう表されるのか。 クリシュナジは、少なくとも、私たちの議論の幾つかにおいて、こう仰っていたと、思います - 自分は始まりに、深く条件づけられていなかった。 ゆえに、彼は、普通にならない一定の洞察を、持った、と。 それは、公正ですか。

R: 私はそれは・・・
47:24 K: 彼は、私に言及しています。 私を放っておいてください。 私は、生物学的な変種なのかもしれません。 だから、私を、その外に放っておいてください。 それは全然、重要ではありません。 私たちが議論しようとしていることは、こうです - 心理的に私たちは、 前への動きはないという真理を、認められますか - それの観念ではなく、それの真理を、です。 私が言ったことを、理解されますか。

R: ええ。理解します。
48:15 K: それの真理を、です。 私はそれの観念を受け入れる、のではない。 観念は真理ではありません!

R: ええ。

K: で、私たちは人間として、 自分たちがしてきたことの真理や偽りを、見ますか。
48:36 R: 人間たちが一般的に、ということですか。
48:39 K: 全世界が、です!
48:41 R: いいえ、彼らは見ません。 彼らは、確かに見ません。
48:45 K: それで、あなたが彼らに、語っているとき- もっと知識を得なさい。 これを読みなさい。あれを読みなさい - 聖典を、ブッダが言ったことを、 キリストが言ったことを - 彼がそもそも存在したとして、です - などなど、と。 彼らは、この蓄積的な本能に、満ちています - それが、彼らを助けて、天国へ跳び込ませるのか、彼らを推進して、突っ込ませるのでしょう。
49:15 R: ええ。あなたは、何かを仰りたいですか。
49:21 B: 私たちが、自分たちはみんな条件づけられている、と言うとき、 私たちはそれを、どのように確立しますか。 私たちは、自分たちがみんな条件づけられていることを、どのように知りますか。 それが本当に、私が言いたかったことです。
49:31 K: ええ。彼の問いはこうです - すべての人間は、条件づけられていますか。
49:42 R: それは、とても錯綜した問いです。 私たちの社会が、関連しているかぎり、すべてが、条件づけられています。 条件づけられていない人は、誰もありえません。 なぜなら、彼は、類型の内にあるからです。 しかし、私たちが話していることは、 時を持たない、条件づけられていない 真理の悟りです。 ですが、あなたが人類を取るように、それは、一人の人間であるとは、言えません。
50:19 B: ですが、私は本当に、これを強調したいと思いました - 私たちはみんな条件づけられている、と言うなら、 二つの道が、ありうるでしょうね。 一つの道は、私たちの条件づけについて 知識を蓄積しつつ、見ること、 私たちは、普通の人間的経験を観察する、と言うことでしょう - 私たちは人々を見つめられ、 彼らは全般的に、条件づけられていることが、見える、とね。 そして、他の道は、こう言うことでしょう - より直接的なさまで、私たちがすべて条件づけられていることが、直接的に見えますか、と。 それが本当に、私が目指そうとしていたことです。
50:48 R: それはもちろん、それが見える人々がいると、私は言うべきでしょう。
51:00 K: でも、それは、この事柄で助けになりますか。 それは、いるかもしれないし、いないかもしれない、ということです。誰に分かりますか?

B: そうね、私が示そうとしていた唯一つの点は、こうでした -
51:18 私たちが、自分たちはみんな条件づけられている、と言うなら、 或る種の修練をしたり、段階的なアプローチより他に、 何もすることはない、と思う、ということでした。 すなわち、あなたは、自分の条件づけでもって、始めるんです。
51:29 K: 必ずしもそうではない。 私は、それが分かりません。
51:31 B: まあ、それを追求しようとしましょう。 それが、私があなたの問い、彼の問いの意味合い、ラーフラ博士の問いを、受け取るさまです - すなわち、私たちはみんな、条件づけられて始めるなら・・・
51:42 K: ・・・私たちはそうです。

B: 私たちはそうです。 そのとき、私たちは次の一歩に、何をできますか。
51:47 R: 「次の歩み」と呼ばれるものは、何もありません。

B: 私たちは、どのように確かめられますか。
51:55 私たちは条件づけから、どのように自由でありえますか - 何であれ、私たちがすることを、しながら、です。
52:02 R: 条件づけからの自由は、見ることです。
52:08 B: まあ、同じ問いです - 私たちはどのように見ますか。
52:12 R: それはもちろん、多くの人々が、様々な道を試してきました。
52:19 K: いえ、いえ。 様々な道は、ありません。 あなたは、道と言った瞬間、すでに彼を、条件づけています。
52:28 R: それが、私の言うことです。 それらは、終了してしまいます。 それが、私の言うことです。 あなたもまた、自らの講話により、条件づけつつあります。

K: 何ですか。よく分からない・・・

R: ですが、私が言うのは、 あなたの講話、講義と教えもまた、条件づけています。 精神の条件づけを解こうとすることもまた、それを条件づけています。
52:56 K: いえ、いえ。私はその発言を、問います - 私たちが話していることが、精神を条件づけるのかどうか、です。

R: ええ、それが論点です。

K: 精神とは、頭脳、思考、感情、 人間の心理的な存在全体です。

R: ええ。

K: Kが話していることが、精神を条件づけるのかどうか、です。 私はそれを疑います。私はそれを問います。
53:34 R: 私が思うに・・・
53:36 K: 申し上げていいなら、私たちは中心的な主題より、逸れていきつつあります。
53:40 R: ええ。 問いは、どのようにそれを見るのか、です - こうですか。
53:53 K: いいえ。いいえ。 「どのように」ではない。 「どのように」は、ない。 初めに、この単純な事実を見ましょう。 私は、一人の人間として、 ゆえに、人類すべての代表として - 私は人間です。いいですか? ゆえに、私は、人類すべてを代表します。 いいですか?
54:29 S: 個人的なさまで、です。
54:32 K: いいえ。人間として、です。私は、あなたたちを、全世界を、代表します。 なぜなら、私は苦しむし、私は苦悩を経てゆく、 精神的に・・・等々々であるからです。 あらゆる人間もまた、そうなのです。 で、私は、一人の人間として、偽りが、見えますか - 人間たちが進んできた歩み、 生物学的なものから、心理的なものへ、 同じ精神性をもって、動いたことが、です。 そこでは、前進 - 小さなものより大きなものへ、などなど、 車輪からジェットへ、です。 一人の人間として、私は、人間たちが創り出してきた悪さが、見えますか - そこからここに動いて、です。 理解されますか。

R: ええ、ええ。付いていっています。
55:45 K: 私はそれが見えますか。 そのテーブルが見えるように、です。 または、私は、「ええ、私は、それの理論、それの観念を、受け入れます」と言うのですか。 そのとき、私たちは迷っています。 話が明らかになっているのかどうか・・・ゆえに、観念、理論は、知識です。
56:14 S: 私はそれが、このテーブルのように見えるなら、それはもはや理論ではありません。
56:19 K: それは事実です。 しかし、あなたが、事実より動いて離れた瞬間、 それは、観念、知識、その追求に、なります。
56:27 S: それは、それ自体を創り出す絵図を、さらにさらに、持っています。
56:30 K: さらに事実を離れて、です。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。
56:35 R: ええ、全くそうです。 そのとおりかと思います。
56:40 K: 何が、ですか。 人間たちは動いて、離れると?
56:46 R: 人間たちは、そこに追い込まれています。
56:51 K: いえ、いえ、いえ。 それは、事実です。 そうではないですか - すなわち、生物学的な前進は、あるのです。 小さな木が、巨大な木になる。 赤ちゃん、その他すべてより、少年期、思春期と。 さて、私たちは、その精神性とともに、その観念とともに、その事実とともに 動いて、心理的な分野へ入り込み、 自分たちは前進するとの事実を、そこで創り出してきたのでしょうか - それは、偽りの動きですが。 私の話が明らかになっているのかと、思われます。
57:39 B: あなたは、それは条件づけの一部であると、仰っていますか。
57:42 K: いえ、そうせず・・・当分の間、条件づけは、放っておいてください。 私はそれに、入りたくありません。 あなたは、こう仰るのでしょうか - なぜ私たちは、生物学的な成長より心理的な成長へ動き、 持ち越してきたのでしょうか。 なぜですか。 それは事実です。なぜ私たちは、これをしてきましたか。
58:08 S: 私は、何かになりたいと思いました。
58:11 K: すなわち、あなたは、満足がほしい。 あなたは、安全が、確実性が、 達成感が、ほしいのです。
58:19 S: 推し進めるのは、そのほしがる中に、あります・・・
58:23 K: で、なぜ私は、人間は、自らが何をしてきたのかを、見えませんか - 理論的に、ではなく、実際に、です。
58:32 S: 普通の人間として。

K: あなた、私、X、Y、あなたが、です。
58:36 S: 私は、それを見たくありません。 私は、それを恐れるのです。 私はそれを、極端に遠ざけようとします。
58:43 K: ゆえに、あなたは、幻影の中に生きています。
58:46 S: 当然です。
58:48 K: なぜですか。
58:52 S: 私は何かになりたい・・・

K: いえ、いえ。
58:54 S: 私は、同時に、それが見えないことを、恐れます。 これが、分割があるところです。

K: あなたは、偽りの恐れを、持っています。 何も恐れは、ないのです。いえ、実際に、マダム。
59:07 あなたは、自らが何をしてきたのかが、見えるとき、何も恐れは、ないのです。
59:12 S: ですが、事実は、私がふつうそれを見ない、ということです。
59:16 K: なぜあなたは、それを見ないのですか。
59:19 S: 私は、恐れのために、疑ってみます。 私は、なぜかを知りません。 私は、そうしたくないのです。
59:29 K: あなたは、全く違った恐れの分野へ、入りつつあります。 が、私は、探究として知りたいと思うのです - なぜ人間たちは、こうしてきたのか。 幾千年もの間、このゲームをしてきたのか、です。 理解されますか。 なぜ、この偽り・・・この偽りの構造の中に、生きること。 それから、人々がやってきて、 「利己的になるな。これであれ」、その他すべてを、言います。
1:00:05 R: なぜですか。
1:00:09 S: 私たち、人間すべて、私たちは、自らの中に、とても強い非理性的な側面を、 持っています。非理性的な側面 - それはすっかりは拒否できないと、私は思います。
1:00:19 K: 私は、これらを問います。

S: あなたは、それを問いますか。
1:00:22 K: なぜなら、私たちは、事実とともに、ではなく、 観念と知識とともに、生きているからです。
1:00:33 R: 確かに、確かに。
1:00:35 K: 事実とともに、ではない。 事実は、こうです - 生物学的には、ある。 心理的には、ない。 それで、私たちは、知識、観念、理論、哲学、 その他すべてへ、重要性を与えます。
1:00:57 R: あなたは、心理的にすら、一定の発達、進化に、 まったく同意されない。 まったくそれを、見ないのですか。
1:01:11 K: ええ。
1:01:15 K: きわめて望ましくなかった人、犯罪的で、嘘をつく、盗む、 これらすべてのことですが、 あなたは彼に、一定のきわめて根源的な、きわめて初歩的なことを、説明します。 彼は - 通常の意味で - より良い人に、変化します。 今、彼は盗まない。 今、彼は、嘘をつかない。 今、彼は、他人を殺そうとしない。

K: 彼は、テロリストです。
1:01:46 R: そのように変化した人、です。
1:01:49 K: ええ。 あなたは、こう仰っていますか。 邪悪な人 - 括弧付きの「邪悪」です。 世界に出回っているテロリストたち。 彼らの未来は、何ですか、と。 あなたは、それを訊ねていますか。
1:02:14 R: いいえ。 あなたは、認められた意味での犯罪者が・・・というのに、同意されませんか。
1:02:27 K: 認められた、「犯罪者」という言葉ね、ええ。
1:02:31 R: あなたは、そのような犯罪者に出会います。 あなたは彼に、彼の間違った生き方を、説明します。 彼は、あなたが言ってきたことを、悟ります。 彼が悟った観念のためか、 あなたの人格的な影響力のためか、それが何であろうとも、 彼は変容します。彼は変化します。
1:02:53 K: 私は、確かではありません。 私は、確かではありません。 その言葉の正統的な意味での犯罪者ですが、 あなたは彼に、そもそも話をできるのかどうか、です。
1:03:07 R: それは、私は知りません。
1:03:09 K: つまり、あなたは彼を宥和できる。 「してはいけない」とか・・・ 彼に、褒美とあれとこれを、与えられますね。 ですが、実際の犯罪的な精神の人 - 彼は、いったいどの正気にも、聞くのでしょうか。 テロリストは、そうね、テロリスト - 彼は、あなたに、あなたの正気に、聞くのでしょうか。もちろん聞きません。
1:03:32 R: それは言えません。私は知りません。 私はそれについて、さほど肯定的ではありません。
1:03:35 K: それが、起きつつあることですよ。
1:03:40 R: しかし、私は何も証明を持っていません。私はそう言えません。
1:03:43 K: 私もまた、証明を持っていません。 ですが、何が起きつつあるかを、見られます。
1:03:48 R: 起きつつあることは、です - テロリストたちが、いる。 私たちは、テロリストが変容して、善人に転向したのかどうかを、知りません。 私たちは、何も証明を持っていません。
1:04:00 K: そうね、それが、私の全部のことです。 悪人が進化して、善人になる。
1:04:12 R: 通俗的な意味と通常の意味において、 それは、確かにあります。 私は、それを否認できません。
1:04:21 K: 私はよく付いていけません。
1:04:24 R: 悪人が・・・

K: 括弧付きの「悪人」ね。
1:04:27 R: ええ、そのとおりです。 括弧の中の、です。 悪人、または犯罪者が、自らの生の道を、変化させて、 善人になる。 善もまた、括弧の中の、です。
1:04:43 K: ええ。私たちは、それを知っています。 私たちは、何十もの実例を、持っています。
1:04:48 R: 私たちは、それをまったく、受け入れませんか。
1:04:51 K: ですが、いえ、いえ。ちょっと待って。 ちょっと待ってください。 悪人 - 嘘をつく人 残酷なことなどをする人は、 たぶん或る日、それが醜い事柄であることを、悟って、 「私は変化して、良くなろう」と言います。 ですが、それは善さではない。 善さは、悪さより生まれない。
1:05:25 R: ええ。確かに、悪さより、ではない。
1:05:29 K: ゆえに、括弧付きの「悪人」は、 けっして、括弧なしの善人に、なりえません。
1:05:39 R: いや、私はきっと、善さを括弧に入れるでしょう。
1:05:43 K: ああ、善さは、悪いことの対極ではありません。
1:05:48 R: その水準では、そうです。

K: どの水準でも、です。
1:05:52 R: 私はそれを受け入れません。
1:05:58 N: 私たちはそれを、このように表してもいいかもしれません。 実在の水準、通常の水準において、 悪人は善人になる。 私たちは、その言い回し、その態度を、心理的に 前進へ運んで行く、と思います。 それが、私たちがする一つのこと、人間精神がすることです。
1:06:24 R: それが、私たちが話していたことです。 すなわち、この観念の、心理的な領域への移行です。
1:06:31 K: いいえ。私はむしろ・・・ あなたは、何かを言おうとしていましたか。
1:06:37 N: 他のことは、こうです - 私たちは、心理的な前進が、相対的な水準で悪人が善人になる、 ただ一つの道であると、感じるように、思われます。
1:06:49 K: 私はそうしたくもないのですが・・・ そうね、ナラヤン、あなたは再び、それを、相対的なことにしつつありますよ。 私はそれを、このように表してもいいですか - 対極は、ありますか。
1:07:09 N: 相対的な水準には。

K: いいえ。どの水準においても、です。 心理的な、です。もちろんです。 あなたは、黄色の服を着ているし、私は、ブラウンのを着ている。 対極 - 夜と昼。男と女などなど、です。 ですが、恐れの対極は、ありますか。 善さの対極は、ありますか。 愛は、憎しみの対極ですか。
1:07:53 R: ええ。あなたが私に、お訊きになるなら・・・
1:07:55 K: 対極。それは、二元性を意味しています。
1:07:57 R: ええ、確かに。 私はこう言うでしょう - 私たちは、二元的な用語で、話をしている、と。
1:08:07 K: 言語すべては - 言語は、今あるように、二元的です。
1:08:11 R: 二元的なアプローチなしに、あなたは話せません。私は話せません。
1:08:14 K: ええ。比較し、判定して、です。が、私は、それについて、話していません。
1:08:17 R: この瞬間にあなたは、絶対について、究極について、語られます。 

K: いえ・・・

R: 私たちは、善と悪について話すとき、 二元的な水準で話しています。
1:08:31 K: いいえ。そういうわけで、私は動いて、離れたいと思うのです。
1:08:34 R: あなたは、善と悪ということに立って、絶対について、話せません。 絶対的な善や悪と呼ばれるものは、ありません。
1:08:40 K: いいえ、いいえ。 勇気は・・・勇気の対極は何ですか。

B: 恐れです。

K: 恐れ。 勇気は、恐れの対極ですか。 すなわち、恐れが不在であるなら、それは勇気ですか。 または、それは、何か全然違ったものですか。
1:09:10 S: それは、何か全然違ったものです。
1:09:13 K: ゆえに、それは対極ではありません。 善は、けっして悪の対極ではない。 で、私たちは、何を話しているのか - 私たちが、「私は自分の条件づけより、 動こう、変化しよう」と言うとき、すなわち、悪いものより、 条件づけからの自由、すなわち善へ、です。 ゆえに、自由は、私の条件づけの対極です。 ゆえに、それは、まったく自由ではないのです! その自由は、私の条件づけより、生まれています。 なぜなら、私はこの牢獄に、捕らわれているし、私は自由になりたいからです。 それは、牢獄への反応です- それは、自由ではありません。
1:10:22 R: 私はよく付いていけません。
1:10:33 K: 私たちは一分間、考慮できるでしょうか。 愛は、憎しみの対極ですか。
1:10:51 R: ただ一つ、言えることは、 愛があるところ、憎しみはない、ということです。
1:10:57 K: ああ、いえ、いえ。私は、全く違った質問をしています。 私は訊ねています - 憎しみは、慈しみ、愛の対極ですか。 そうであるなら、その慈しみの中、その愛の中には、憎しみがある。 なぜなら、それは、憎しみの中より、対極の中より、生まれているからです。 すべての対極は、それら自らの対極の中より生まれています。ちがいますか。
1:11:30 R: 私は知りません。 それは、あなたが仰ることです。
1:11:35 K: ですが、それは事実です。 ごらんください。私は恐れています。 私は、恐れをなくしてしまうために、勇気を養成します。 私は、恐れを取り除くために、 そうね、酒を飲むとか、その他すべてをします。 その終わりに、私は、「私はとても勇敢だ」と言います。 戦争の英雄すべてと、残りの彼らすべてが、 このために勲章をもらいます。 なぜなら、彼らは怯えているし、 彼らは、「私たちは行って殺さなければならない」と言うか、何かをするからです。 そして、彼らは、とても勇敢です。英雄です。
1:12:15 R: それは勇気ではない。
1:12:17 K: ゆえに私は、言っています - その対極の中より生まれたものは、 どれも、それ自らの対極を収容している、と。
1:12:29 R: どのように?
1:12:33 K: 誰かが憎んで、それから、 「私は愛さなければならない」と言うなら、 その愛は、憎しみの中より生まれています。 なぜなら、彼は、憎しみが何かを知っているし、 彼は、「私はそうであってはならない。私はそうでなければならない」と、言うからです。 で、それは、これの対極です。 ゆえに、その対極は、これを収容しています。
1:13:05 R: それが対極なのかどうか、私は知りません。
1:13:08 K: それが、私たちの生き方ですよ! これが、私たちがすることなのです! 私は性的ですが、私は性的であってはならない。 私は純潔の誓いを立てる。 私が、ではなく、 人々は、純潔の誓いを立てる- よろしいですか - それは、対極です。 で、私たちはいつも、この対極の回廊に、捕らわれています。 私は、回廊全体を問うのです。 私は、それが存在するとは、思いません。 私たちは、それを創案してきました。 ですが、実際に、それは存在していません。 つまり、どうぞ、これは説明です。 何をも、受け入れないでください。
1:14:04 S: 個人的に、私は、 この瞬間の自分のさま、立場より、それを見ます。 私は、それの真理、あるいは 何かへの可能性を、主張しません。 それは、作業仮説です。

K: いえ。マダム、あなたは・・・
1:14:22 S: 私は、この経路を人間らしくなる要因と、見ます。
1:14:26 K: どれを、ですか。
1:14:28 S: この対極の経路を、です。 私たちは、それに捕らわれています。
1:14:31 K: ああ、いいえ。それは、人間らしくなる要因ではありません! それは、こう言うのに似ています - 「私はずっと部族的な実体だった。 今、私は民族になった。 それから究極的には、国際的になる」と。 それはやはり、部族主義がつづいているんです。
1:14:50 S: いえ。それには、全く同意します。 私はそれを、本当に野蛮な段階、という意味で、見ます。 あなたが、脚を折ったとき、私は、笑っていたかもしれません。 この頃、私はもはや笑いません。 そういう意味で言っています。
1:15:08 B: 私が思うに、私たちは実際に・・・ あなたたちはどちらも、私たちは、何らかの意味で前進をする、と仰っていると、思います - 私たちは、かつてそうだったほど野蛮ではない、という意味で、ですね?
1:15:21 S: それが、私が、人間らしくなる要因として、言っていることです。
1:15:24 B: それが、あなたたちがどちらも仰っていると、思うことです。
1:15:26 K: 私は、それで人間らしくなっているのかどうかを、問います。
1:15:29 R: 私は、事実の極端へ、行きたくありません。
1:15:33 K: いいえ。これは、極端ではありません。これは、ただの事実です。事実は、極端ではありません!
1:15:39 B: あなたは、これは、真正の前進ではないと、仰っていますか。 そうね、過去に、一般的に人々は、今日そうであるより、 はるかに野蛮でしたね。 ゆえにあなたは、それは本当に大した意味がない、と仰るのでしょうか。
1:15:53 K: よく付いていけません。

B: まあ、或る人々は、自分たちの過去を指して、 あのとき、大変多くの野蛮性があったと、言います。
1:16:00 K: 私たちは、いまだに野蛮です。

B: ええ、そうです。 が、或る人々は、私たちはさほど野蛮でない、と言います・・・
1:16:04 K: 「さほど」ではない。
1:16:05 B: 私たちがそれを正せるのかどうかを、見てみましょう。 今、あなたは、それは重要でない、それは意義深くない、と仰るのでしょうか。
1:16:12 K: ええ。私が、「私はかつての私より、良い」と言うとき、 それは、何の意味もありません。
1:16:18 B: それを言うことには、何の意味もないと、あなたは仰る。
1:16:20 K: 絶対的に、それは意味がありません。

B: 私たちはそれを明瞭にすべきだと、思います。
1:16:28 R: 相対的な、二元論的な意味では、私は、それを受け入れません。 私は、それが分かりません。 ですが、絶対的な、究極的な意味では、そのようなものは、ありません。
1:16:44 K: いいえ、究極的に、ではない。私は、「究極的に」というその言葉を、受け入れもしないでしょう。 私は、いかに対極が生まれるのかが、毎日の生活において 見えます - 究極的に、ではない。 私は貪欲です。それは事実です。 私は、無貪欲になろうとします - それは、非事実です。 ですが、私は、自分が貪欲であるとの事実とともに、留まるなら、 私は、それについて実際に、今、何かができます。 ゆえに、何も対極はありません。 そうね、暴力と非暴力です。 非暴力は、暴力の対極です - ですね?理想として、です。 で、非暴力は、非事実です。 暴力が、ただ一つの事実です。 ですね? で、そのとき私は、事実を取り扱えます- 非事実を、ではない。
1:18:16 R: では、あなたの論点は、何ですか。
1:18:18 K: 私の論点はこうです - 日常生活にすら、二元性はない、ということです。 それは、これらすべての哲学者、知識人たちの創案です - 彼らは、「二元性がある。 そのために働きなさい」と言います。 ユートピア論者、理想主義者です。 事実は、私は暴力的である、ということです。それだけです。 私はそれを、取り扱いましょう。 それを取り扱うには、非暴力を、創案しないでください。
1:18:47 S: ゆえに問いは、こうです - 私は、自分が暴力的であるとの事実を、受け入れてきて、 今、それを、どのように取り扱おうとしているのか。
1:18:53 K: いいえ。受け入れて、ではない。それは事実です。

S: ・・・それを見てきて・・・
1:18:56 K: 待って。そのとき私たちは、進行できます。 私はあなたに、示しましょう。
1:18:59 S: 問いは、どう進行するのか、です。
1:19:02 K: 私たちは、それとともに前進するでしょう。 ですが、私は初めに、自らがしてきたことを、見なければなりません。 私は、事実を回避し、非事実へ逃げ去ります。 それが、世の中で起きつつあることです- いたるところで、です。 で、逃げ去らずに、事実とともに留まってください。 あなたは、それをできますか。
1:19:38 S: それは、私たちの訓練の一部です。 それは、私が学んだ訓練の一部です。 それが、正確に論点です。
1:19:46 K: すみません。私は、「訓練」という言葉を、受け入れないでしょう。
1:19:49 S: まあ、それは正確には、この「あなたはそれをできますか」です。
1:19:52 K: 私は、もちろん、あなたはそれをできると、言いました。
1:19:54 S: 自らは、しばしばそうするのが好きではないけれども、そうします。
1:19:58 K: いいえ。それは、何か危険なものを見るのに、似ています。 あなたは、「それは危険だ。私はそれに近づくまい」と言います。 事実より逃げ去ることが、危険です。 終了しました。あなたは逃げません。 それは、あなたが訓練する。逃げないように実践する、という意味ではありません。 あなたは逃げません。 導師たちは、この逃げることを、創案してきたと、私は思います - 哲学者たちは、ね。 すみません。
1:20:36 R: 逃げ去ることは、ありません。 それは、全然違っています。 それは、その間違った表し方です。

K: いいえ。
1:20:45 R: あなたは、逃げ去れません。

K: いいえ。私は、「見なさい」と言っています。
1:20:51 R: あなたはそれが見えるなら、そこに、逃げることは、ありません。
1:20:55 K: 私は、「逃げるな」と言っています。 そのとき、見えます。 ああ、いいえ、逃げるな。 そのとき、見えます。 しかし、私たちは、「私は見えない。私はそれに捕らわれているから」と言います。
1:21:21 R: 今、私は全く、それが見えます- あなたが仰ること、 あなたの論点が、です。私は、よくよく見えます。
1:21:31 K: で、二元性はありません。
1:21:35 R: どこに、ですか。
1:21:37 K: 今、日常生活において、です。 究極的に、ではない。
1:21:42 R: 二元性とは何ですか。
1:21:44 K: それは対極です。 暴力と非暴力。 その全体です。そうね、インドは、非暴力を実践してきましたが、 それは戯言です。 ただ暴力だけがある。私はそれを、取り扱いましょう。 人間たちは、暴力を取り扱いましょう - 非暴力の理想を、ではなくて、です。
1:22:13 R: ええ。それはもちろん、全く違った問いです - あなたが、話しておられることは。

K: いいえ。
1:22:20 R: 私は十分に同意します。 事実が見えるなら、これは事実です。 私たちは、これを扱わなければなりません。
1:22:27 K: ゆえに、前進はありません。
1:22:32 R: それは、どのようにも使える言葉です。
1:22:35 K: いえ、どのようにも、ではない。

R: それは単純に言葉です。
1:22:38 K: いいえ、いいえ。 私たちが理想を持つとき、 その理想を達成するために、私は時が必要です。 ですね?

R: ええ。

K: ゆえに、私はそれへ進化するでしょう。
1:23:10 R: それで?

K: それで、理想はない。 事実だけです。
1:23:22 R: それは完璧にそうです。 違いは、論争は、何ですか。 私たちは、ただ事実だけがあることに、同意します。
1:23:30 K: それは、事実を見るには、 時は必要でない、という意味です。
1:23:37 R: 絶対的にそうです。
1:23:40 K: ゆえに、時が必要でないのなら、 私は今、それを見られます。
1:23:46 R: ええ、確かに。

K: あなたは今、それが見えます。 なぜ見ませんか。
1:23:51 R: なぜ見ないのか - それは、別の問いです。
1:23:54 K: いえ、いえ、いえ。

R: いいえ。
1:23:56 K: いえ、いえ。別の問いではありません。

B: それは同じです。 あなたがそれを、真剣に取るならば - 時は必要でないと - そのとき、 ただちに今、おそらく、全部のことを、すっかりきれいにできるでしょう。
1:24:10 R: ええ。それは、すべての人間がそれをできることを、意味しません。 それをできる人々も、います。
1:24:17 K: いいえ。私が、それを見られるなら、あなたも、それを見られます。
1:24:22 R: 私はそう思いません。 率直に言って、私はあなたに同意しません。

K: いえ。それは、同意という問題ではありませんよ。
1:24:30 私は、この事柄について、論争しようとしていません。 で、同意や不同意は、ないのです。 ですが、私たちは、事実より離れて、理想を持っているとき、 そこに着くには、時が必要です。 前進が必要です。 私は、前進するには、知識を持たなければなりません。 そのすべてが、入ってきます。 いいですね? で、あなたは、理想を放棄できますか。
1:25:17 R: それは可能です。

K: ああ、「可能だ」ではない。 あなたは、「可能だ」という言葉を使った瞬間、 時が必要である、と言います。
1:25:26 R: つまり、事実を見る、という意味で・・・
1:25:29 K: 今、そうなさってください。 そうしてください。 お許しください。私は、権威主義的になっていません。 それは可能だと仰るとき、あなたはすでに、動いて離れたのです。
1:25:41 R: 私が言おうとするのは - あらゆる人は、それをできない、と言わなければならない、ということです。
1:25:47 K: どうして分かりますか。
1:25:50 R: それは事実です。それは事実です。
1:25:53 K: いいえ。私は、それを受け入れないでしょう。
1:25:55 S: おそらく私は、具体例をもって、入ってきてもいいですか。 私たちはおそらく、それに関して、まとまれようかと、思うんです。 私が、水泳プールの高い所- 具体的な事実です - 高い飛び込み台に立っていて、私は泳げないのなら、 私は、「ただ跳び込みなさい」と言われます- 「完全にリラックスしなさい。 あなたは水に浮かぶでしょう」と。私がそれをできるということ、これは完璧に真実です。 私を阻止するものは、何もありません - 私がそうすることに怯えている、ということ以外は、ね。 それが、問題の点だと、思います。

K: ええ。溺れかねない、と。

S: ゆえに、これが問いなのだと、思います。 もちろん、私たちはみんな、見られる。 困難は何もない。 ですが、この基本的な恐れが、ある - それは、道理に適っていなくて、私たちを尻込みさせるのです。
1:26:47 K: どうぞ、お許しください。 私たちは、それを話していません。 私たちは、そう言っていません。 自らが貪欲であることを、悟るなら、なぜ私たちは、無貪欲を創案しますか。
1:27:12 S: 私は知らないでしょうね。なぜなら、私は貪欲であるなら、貪欲であることは、 私にとって、明白に思われるからです。
1:27:18 K: さて、なぜ私たちは、対極を持っていますか。なぜですか。 すべての宗教は、「私たちは貪欲であってはいけない」と言います。 すべての哲学者は- 彼らが役立つのなら - 彼らは、「貪欲になるな」とか、他の何かを、言います。 または、「あなたは、貪欲であるなら、天国に行けないだろう」と。 で、彼らはいつも、伝統をとおし、聖者たちをとおして、 その全範囲を、養成してきました。 この観念を、養成してきました - 対極を、です。 いいですか? で、私はそれを、受け入れません。 それは、これからの逃避であると、私は言います。
1:28:06 S: そうです。それは、一番良くても、中間段階です。
1:28:11 K: それは、これからの逃避です。 いいですか? それは、この問題を解決しないでしょう。
1:28:16 S: それは、解決してきませんでした。

K: 解決してきませんでした。 で、問題を取り扱うには、それを取り除いてください。 私は、そこに片足を置き、ここに片足を置けません。 私はここに、両足を置かなければなりません。
1:28:34 S: 両足がここにあるなら?

K: 待ってください。いいえ。直喩、直喩です。 で、私は対極を持ちません。 それは、時、前進、実践、しようとすること、なること、 その全範囲、という意味合いです。
1:28:52 S: で、私は、自分が貪欲であるとか、自分が暴力的であることが、分かります。
1:28:58 K: で、それは今、私たちが何か全然違ったことへ、 入らなくてはいけないことを、要請します。

S: それから、何?
1:29:07 K: 自らは、一人の人間は、どのように- 「どのように」ではない。 一人の人間は、貪欲より今、自由でありえますか。 それが問いです。最終的に、ではない。 そうね、私は、来世、貪欲であることに、興味を持ちません。 誰が気に掛けますか。 または、明後日に - 私はそれに、興味がありません。 私は、悲しみ、痛みより、今、自由でありたいのです。 で、私はまったく、理想を持ちません。 よろしいですか。 そのとき私は、この事実だけを持っています - 私は貪欲です。 さて、私たちは、それに入りますか。 貪欲とは何ですか。 その言葉こそが、非難がましい。 よろしいですか。 その言葉は、幾世紀もの間、私の精神に、あったのです。 「貪欲」というその言葉は、即時に事実を非難します。 「私は貪欲だ」と言うことにより、私はすでに、それを非難したのです。 いいですか? さて、私は、その言葉なしに、その事実を見つめられますか - その暗示すべて、その内容すべてをともない、その伝統をともなった言葉なしに、です。 それを見つめてください。 あなたは、言葉に捕らわれているなら、 貪欲の深さと感じを理解したり、 それから自由であったりできません。 で、私の全存在は、貪欲に関連しているので、それは、 「いいよ。私は、それに捕らわれまい。 私は、貪欲という言葉を、使うまい」と言います。 いいですか? さて、その感情は、その「貪欲」という言葉を、欠如し、 その言葉より、別離していますか。
1:31:30 S: いいえ、そうではありません。
1:31:35 R: それは、言葉を持ちません。

K: いえ、いえ。
1:31:44 S: どうぞ、つづけてください。

K: で、私の精神は、言葉に満ちていて、
1:31:56 言葉に捕らわれていますが、 それは、何かを、貪欲を、その言葉なしに、見つめられますか。
1:32:11 R: それが本当に、事実を見ることです。

K: そのときにのみ、私は事実が見えます。 そのときにのみ、私は事実が見えます。

R: ええ。その言葉なしに、です。
1:32:21 K: ゆえに、それは、何の価値をも持ちません。終了しました! これが、困難のありかです。 私は、貪欲より自由でありたい。 それは、私の血の中にあり、 それは、私の伝統、私の育ち、教育であるから、 あらゆる物事が、「あの醜いものより自由であれ」と、言います。 で、私はいつの時も、あれより自由であろうと、努力をしています。ですね? 私は、ありがたいことに、それらの路線で教育を受けていません。 で、私は言います - いいよ、 私は、事実だけを持っている。 事実は、私が貪欲であることだ、と。 いいですか? 私は、あの言葉の、あの感情の本性と構造を、 理解したいのです。 それは、何ですか。 あの感情の本性は、何ですか。 それは思い出ですか。 理解されますか。 それが思い出であるなら、 私は、それを、現在の貪欲を、過去の思い出でもって、 見つめています。 過去の思い出は、「それを非難しろ」と言ってきました。 私は、過去の思い出なしに、それを見つめられますか。
1:34:05 S: そのとおり。

K: 私はあなたに、お示ししようとしています。 よろしいですか。
1:34:15 R: ええ。それなしで見られるのか。ええ。
1:34:18 K: 私は、あなたに示し、もう少し、それに入るでしょう。 なぜなら、過去の思い出が、これを非難する。 ゆえに、これを強めるからです。 いいですか。 それが、何か新しいものであるなら、私は、それを非難しないでしょう。 ですが、それは新しいが、 思い出により、記憶により、経験により、古くされるから、 私はそれを非難します。 で、私は、その言葉なく、言葉の連想なしに、 それを見つめられますか。 それに、修練は要りません。 それに、実践は要りません。 それに、何か案内は要りません。 ただ、「見なさい。 私はその言葉なしに、それを見つめられますか」と言うだけです。 私は、あの樹を、女、男、空、天、鳥を、 その言葉なしに見つめられ、見出せますか。 ですが、誰かがやってきて、私に、 「私があなたに、それをどうやるのかを、示しましょう」と語る。 そのとき、私は迷っています。 どうなのかな・・・ 「それをどうやるのか」が、聖典全体です。 すみません。 すべての導師、すべての司教、教皇、 連中(ギャング)全体、みんなぐるになって、です。 で、今、私たちは止めますか。

N: ええ。今、止めると、思います。
1:36:14 K: おやまあ。私たちは一時間半、話していました。
1:36:19 R: それはあなた次第です。 私は、大いに興味を持っています。 私は、まったく疲れていません。
1:36:25 K: 私たちはそれを、明日の朝と、明日の午後に、 取っておくほうがいい。 食べ過ぎないようにしましょう!
1:36:33 R: 明日の午前と午後、私があなたにお訊きしたいと思うことが、 他に幾つも、あります。

K: ええ。私たちは、それに入りましょう。