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BR7879CBS3 - 自由意志は、存在するだろうか。
仏教学者たちとの議論 第3回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1979年6月23日



0:17 ギドゥー・ナラヤン: 私は、ラーフラ博士が、自らが書き留めておいた質問すべてを、 出していただくことを、提案しています - それで、議論の途中に、 私たちが、地盤のほとんどに及べるように、です。 私もまた、一つ、二つ言うべきことを、持っています。 私もまた、それを表したいと思います - 議論が、それら問いのまわりに、集中できるように、です。 ワールポラ・ラーフラ: ええ。初めに、あなたの問いを、出されてはどうですか。
0:47 N: ええ。私の問いは、大乗の哲学において・・・
0:53 クリシュナムルティ: 仏教哲学における 大乗とは何かを、説明していただけるでしょうか。
0:59 N: 1世紀の、たぶん最大の思想家、 ナーガールジュナから来ています。

R: 2世紀ね。

N: 彼は、空性について、大変多く 話しました - 空虚です。 それは、洞察と、とても近い連係を、持っています。 

R: ええ。

N: 後の仏教思想全体は、その強さを、 このナーガールジュナの空性の観念に、負っていると、私は思います - 何か純粋で、清浄であるものとして(空性に)、です。 空性なしに、洞察はありません。 私はそのように、表しましょう。 それから、彼はまた、外を理解することなしに、 内へ行く可能性はない、と言いました。 それから、彼はまた、誤謬だと思われる発言を、しました - 輪廻は涅槃である。涅槃は輪廻である、と。

B: 輪廻(サムサーラ)とは何ですか。
2:08 K: あなたは、サンスクリットの言葉を使っておられます。 おそらく私たちの数人は、理解しそうですが、 あなたは、よく気をつけて、それを、説明しなくてはいけません。
2:16 N: 輪廻は、世間的な生です - その苦労、苦しみ、苦すべてとともに、 その悲しみすべてとともに、です。 輪廻は、です。 涅槃(ニルヴァーナ)は、自由、至福、解放の状態です。 彼は、輪廻は涅槃である。 涅槃は輪廻である、と言いました。 これは、仏教の学者たちにより、 縁起をとおして、説明されました - 全部のことが、相互に関係しあい、条件づけられた生起です。 で、私が理解するところ、これは今日、 仏教思想に対して、とても強力な影響力を、持っています。 私はこれを、私たちが話していたことの脈絡において、 検討したいと思います。
3:02 K: 私は、その発言を理解していません。
3:05 N: 一番目のことは、空性の重要性です。
3:12 K: 空性というその言葉は、どういう意味ですか。

R: 説明してもいいですか。 仏教の視点より、私は説明しましょう。
3:22 空性は、文字通りには、空虚、空虚だ、空っぽを、意味しています。
3:30 K: 何もないこと。空性。 私はその意味を知っています。
3:33 R: それが、文字通りの意味ですが、 意義は、それが、西洋の仏教学者たちにより、 ほぼ、ナーガールジュナへ帰せられていることです。 それは不正確です。 初めにこれを言ったのは、ブッダです。 偉大な思想家、哲学者としてのナーガールジュナは、 それを体系へ発展させました。 ところが、ブッダはそれを、ごく単純な形で言いました。 アーナンダは、ブッダの一番親しい側近、仲間、弟子でしたが、 彼は或る日、訊ねました - 「世間は空、空っぽだと言われます。 それは、どういう意味ですか。 どんな程度に、それは空、空っぽですか」と。 彼は、「アーナンダよ、それは我が無い」と言いました。 彼は、アッタ、アートマン(我)というその言葉を、使いました。 「我と、我に所属するものが、無い。 ゆえに、それは空である」と。 それは、きわめてはっきりと説明されています。 多くの他の所で、彼は或る人に、語りました - 「世間を空と見なさい。 すると、あなたは解脱する」と。 これらが、元来の発言です。 ナーガールジュナは、これらの観念を取って、 自らの『中論(中の詩頌)』により、発達させました - 縁起に基づいて、です。 それは、依存した発生です。 私はむしろ、それを、条件づけられた生成と、呼ぶでしょうね。 その哲学において、 すなわち、あらゆる物事は、相互依存していて、相対的である。 何も絶対的ではない。 あらゆる物事が、因と果であり、 因は果より分離できない、というものです。 例外は、それは消失しうるなら、継続であることです。 それは、時でもあります。 この哲学において、ナーガールジュナは、きわめて高度に体系として、 空虚、空っぽとしてのこの空の教えを、発達させました。 それはまさしく、クリシュナジもまた、仰ることです。 自己は無い。それを見ると、あらゆる問題が解決される。 紛糾はない。問題はない。 それが、私が、彼の説明との関係において、それをどのように、見るのか、です。 それから、あなたが仰った二番目のこと。 二番目の問いは、何でしたか。
6:01 N: 外と内との間の関係です。
6:06 R: それがまさしく、クリシュナジとボーム博士が、 「現実と真理」か、「実在と真理」として議論されたことです。 それは、あの新刊において公表されています。 それは、世俗諦と勝義諦です。 これらもまた、認められた仏教哲学の主張です。 世俗諦は、慣習的な真理です。 それは、私たちがすること、話す、食べる。これらすべての物事です。 二元性の中、相対性の内での、世俗諦です。 これは偽りであるとは、言えません- このテーブルは、です。 しかし、一定のもう一つの意味では、そうではない。 ですが、世俗諦は、その慣習的な真理です。 勝義諦は、究極的、絶対的な真理です。 これら二つはまた、分離できません。
7:01 N: そのとおりです。
7:03 R: さて、ナーガールジュナは、『中論』の一個所で、はっきりと言います - 慣習的な真理を見られない者、見ない者は、 究極的な真理に到ることが、不可能であると、彼は言います。 あなたが出された三番目の立場、問いは、涅槃と輪廻だったと、思います。 それもまたですね、ナーガールジュナは『中論』において、言います。 はっきりと私は、言葉を暗記すらしています - 涅槃は輪廻より、いかなる違いもない。 輪廻は涅槃より、いかなる違いもないと、彼は言います。 輪廻(サムサーラ)という言葉を、明瞭にすると、 厳密な定義において、輪廻は、私たちの存在の継続です。 私は、かつてパリで、自分がこの問いをクリシュナジにしたのを、憶えています。 個人的に、です。彼と私自身以外に、誰もいませんでした。
8:08 K: 二人の賢者か!
8:12 R: 私は知りません。 ですが、私は、クリシュナジに、それを出しました - 偉大なナーガールジュナの、このような発言が、ある、と。 今日、それを言うことは、とても興味深いです。 私は彼に、どうお考えになるかを、訊きました。 そのとき、私が驚いたことに、彼は、「ナーガールジュナとは誰ですか」と仰った。 私は、「それはあなたの同胞です」と言いました。 なぜなら、彼は(インド南部)アーンドラの人であるからです。
8:36 アーンドラからだと思われています。

K: ああ!
8:40 R: それから私は彼に、ナーガールジュナが歴史的に、思想家と哲学者として、 誰であるかを、説明しました。 私は、仏教の歴史において、彼は、おそらく最も大胆な思想家である、と言いました。 そのとき彼は、私に訊ねました - 彼の到達は何でしたか、と。 私は、私たちは言えない、と言いました - すなわち、私たちは知らない。 私たちは、彼の著作を知っているだけで、著作をとおして彼について、です、と。 だが、彼の到達、霊的な悟りについて、 私たちは何も言えません、と。 そのときクリシュナジは、一分間止まって、 私に、「ブッダはこれらについて、何を言いましたか」と訊きました。 私は何も言いませんでした。 「それは正確です」と、 そのときあなたは、その指で言われました。 私はこれを、よくよく憶えています - シュアレスのところか、誰の住宅でしたか?

K: シュアレスです。
9:30 R: 「そのとおりです」と。 なぜなら、私はいつも疑いを持っていて、 ナーガールジュナの、涅槃と輪廻は同じであるとの発言を、 さほど明らかに、明確に受け入れなかったからです。
9:44 K: 私たちが、みんなが理解するのか、私はあまり確かではありません。
9:48 R: ええ、あなたが、この立場を、説明してくださるでしょうか。
9:50 K: いえ。少し説明するために、私はこれを、お訊きしてもいいですか。 

R: ええ。

K: サムスカーラ(諸行)は、実際に何を意味しますか。

R: サムサーラ(輪廻)です。
9:58 K: サンスクリットでサムスカーラ(諸行)。
10:00 R: サムサーラ(輪廻)。サンスクリットでも、パーリでも、サムサーラです。 サムスカーラ(諸行)は別のことです。
10:06 N: サムスカーラ(諸行)は、別の言葉です。
10:15 R: 輪廻(サムサーラ)は、文字通りには、さまよう、つづいていく、巡っていく、という意味です。
10:21 K: サムスカーラの意味は?

R: サムスカーラ(諸行)は、構成を意味します。 それは、私たちの思考する過程すべてです。

K: 過去です。
10:30 R: それは、過去に所属しています。

K: そのとおりです。
10:32 R: それは、過去に所属しています。

K: ええ。それは理解しました。
10:35 R: ええ。それは、過去に所属しています。 私たちの諸行(サムスカーラ)すべては、 記憶、知識、学習とそれらの働きです。
10:43 K: 老人が遡って、過去に生きるように、です。 それです。

R: 諸行はそれです。
10:48 ですが、輪廻(サムサーラ)は継続です。

K: 継続。理解できます。
10:53 R: 涅槃(ニルヴァーナ)を、私たちは定義できません。

K: ええ。それが何であっても、です。
10:58 R: それが何であっても、 それはけっして、ブッダにより、肯定的な用語で、定義されません。 彼はいつでも訊ねられたとき、いつも言いました- 「いいえ、それは涅槃ではない」と。
11:08 K: 全くです。 で、あなたは、質問をしましたか。

N: ええ、しました。
11:12 K: さて、あなたもまた、彼が言ったこととの関係で、 ご自分の質問を、なさったほうがいい。

R: ああ、いえ。その問いは、彼から、あなたからではない。
11:25 私は、自分の問いを、あなたから訊ねています。 

K: 何ですか。
11:28 R: 多くの問いが、ありますが、私たちは、さほど時間がありません。
11:32 K: 私たちは、たっぷり時間がありますよ。
11:34 R: 一つの問いは、こうです - どちらも、私は、すぐに申し上げるでしょうから、あなたはそれらを受けられます。 一つの問いは、 西洋哲学、西洋思想において、 自由意志が、きわめて重要な役割を、果たしてきたことです。
11:52 K: 自由意志ね。

R: 自由意志、絶対的な自由意志です。
11:55 K: 自由意志。

R: ええ、自由意志です。 ナラヤンさんが言った同じ哲学によれば、 条件つきの関係、 すなわち因果、縁起ですが、 その哲学、仏教によれば、 そういうものは、ありえない。 なぜなら、私たちの思考すべて、 私たちの構成すべて、私たちの働きすべて、私たちの知識すべては、条件づけられているからです。
12:21 K: ええ。
12:22 R: ゆえに、もし自由意志があるのなら、 それは、相対的な意味においてのみ、自由である。 それは、絶対的な自由ではない。 それが、仏教の立場です。 それが、私が出した一つの問いです。

K: それについて話しましょう。 意志とは何ですか。意志とは何ですか。 あなたは、意志とは何かを、どのように説明しますか。
12:55 R: 意志は、あなたが決断する、あなたが欲する、ということです。
13:02 K: いえ。意志の起源、始まりは、何ですか - 私はこれをしよう、私はあれをすまい、と。 さて、意志の意味は、何ですか。
13:33 R: 意志の意味は、したいということです。
13:36 K: いえ、いえ。 いいですよ。では、つづけましょう。 それは、欲望ではないですか。
13:44 R: 確かに、それは欲望です。
13:47 K: 際立った、高まった、強まった欲望。 私たちはそれを、意志と呼びます。
13:55 D.ボーム: 私たちは、それを決定させるように、私には思われます。 私たちは、欲望の対象を決定します。 私たちは、「私は決心した」と言います。
14:02 K: そこには、決定があります。

B: そこで固定します。
14:05 K: 私はあれを欲望する。 それを達成するために、私は努力します。 その努力、その努力の動機が、欲望です。

R: ええ、確かに。

K: で、意志は欲望です。 ですね?
14:24 R: それは、一つの形の欲望です。
14:28 K: それは、一つの形の欲望です。 さて、欲望は、いったい自由でありえますか。

R: 絶対にです。それが、私があなたから、聞きたかったことです。

R: いえ。なぜなら、あなたは、そう仰りたくないからですが、私はそれを言いたいと思います。
14:50 K: 欲望はけっして、自由でない。 それは、欲望の対象を、変更するかもしれません。 私は或る年、これを買いに行きたいと、欲望します。 翌年、あれを、です。変化します。 ですが、欲望は常です。 対象物は変わります。 そして、欲望の強まり - 私はあれをしよう、と。 意志が作動中です。 意志は欲望です。 さて、欲望は、いったい自由でありえますか。
15:27 R: いいえ。
15:29 K: しかし、私たちは、自由意志が存在すると、言います。 なぜなら、私は、これとあれとの間で、この職とあの職との間で、 選択できる、私は行けるからです - 全体主義国家以外では、 私は、イングランドからフランスへ、自由に行けます。 で、自由意志の観念は、 人間たちは自由に選択できるとの感覚でもって、養成されます。 それは何を意味しているのか - 選択するとは。 私は、ブルージーンズと他の何かの間、この車とあの車の間、 あの住宅となどの間で、選択できます。 しかし、私はなぜ、そもそも選択すべきでしょうか。 物質的なものは別として、 一定の書物などは別として、 なぜ選択がありますか。 私は、カトリックです。 私は、カトリックをあきらめて、 禅仏教者になります。 私は、禅仏教者であるなら、他の何かになります。 私は選択します。なぜですか。 なぜそもそも、選択がありますか - それが、私は自由に選択できるとの印象を、与えてくれます。 よろしいですか。 で、私は、なぜそもそも、選択の必要性があるのかと、訊ねています。 私がカトリックであり、 カトリックの意義全体が、見えた。 その抽象とともに、その儀式、教義とともに - そうね、 そこでのサーカス全体が、です。 そして私は、それを放棄するなら、 なぜ私は、他の何かへ、加わるべきですか。 なぜなら、私は、これを究明してきたとき、 私は、宗教すべてを、究明してきたからです。 どうですか・・・ で、選択は、精神が混乱しているときだけ、存在するにちがいないのです。 ちがいますか。 それが明らかであるとき、選択はありません。 それはいいですか。
18:21 R: いいです。あなたは、その問いに答えられた、と思います。 私にとって、あなたは、その問いに答えられました。
18:26 K: 私はそれに、十分に答えていません。
18:28 B: 西洋の哲学者たちは、 それらに同意しないかもしれない、と私は思います。私は、確かではありません。
18:32 K: もちろん、同意しないでしょう。
18:34 B: 彼らは、選択は欲望ではない。 意志は欲望ではない。 意志は他の何かである、と言います。 それが私の印象だと、思います。

K: ええ。意志は他の何かである、と。
18:41 B: 意志は、自由な行為、健全な行為である、と。

K: 意志は、継承された何かである。 または、それは、遺伝子的な過程の一部である、と。 あろうと、意志することは。
18:56 B: ですが、私は例えば思います - 私は、自分がそれについて多くを知っているとは、言えませんが、 カトリックの哲学者たちは、アダムが罪を犯したとき、彼が、間違って意志した、と言うかもしれません - そうね、彼が間違った選択をした。 そして、彼が、私たちを、この道へ逸れさせた、と。
19:12 K: それは、とても便利な、 あらゆる物事を説明してしまうやり方ですね。
19:17 B: 私はそれを理解できます。

K: 初めにアダムとイヴ、 蛇とリンゴと神を、考案する。 それから、あらゆる物事を、原罪として表す。
19:30 R: ええ。そこには、たくさんの創造、精神的な創作です。
19:36 B: 自らが観察するなら、意志は欲望の結果であることが、 見られると、思いますが、 人々は、意志は、何か全然違ったものであるとの印象を、 持っていると、私は思います。
19:44 K: ええ。 意志は、何か神聖なものの一部である、と。
19:50 B: ええ。それが、多くの人々が考えることです。
19:52 K: ええ。神聖な存在に由来した何かだ、と。
20:02 R: 西洋の考え方によれば、ね。
20:04 K: 多かれ少なかれ、ね。 私は、西洋哲学について、あまり多くを知りませんが、 私が話をしてきた人々から - 彼らは、充分な情報を、持っていないかもしれませんが、 彼らは、私にその印象を、与えてきました - 意志は、何か全くは人間的でないもの、 全くは欲望ではなく、 全くは養成されるものではないとの印象を、です。 それは、原罪の中より、生まれます - 元来の神などなどなどより、ね。 しかし、それらを脇に置くなら - それらは、すべて理論的で、 問題を含み、かなり迷信的です。 あなたがそれらを脇に置くなら、 意志とは何ですか。 選択とは何ですか。 選択と意志なき行為とは、何ですか。 よろしいですか。それが問題です。 意志と混合していない 行為が、ありますか。 理解されますか。私は、ブッダが何を言ったのかは、知りません。
21:34 N: あなたは、洞察は意志の結果ではない。 それは意志とは何の関わりもない、と仰るのでしょうか。
21:43 K: ああ、意志とは、いかなる関わりもない。 または、欲望や記憶とも、ね。 

R: ええ。
21:50 N: で、洞察は、意志より自由である何かです。また、分析よりも、です。
21:58 R: ええ、洞察は見ることです。 その見る中に、選択はありません。 区別はありません。判定はありません。 道徳的とか非道徳的な価値、価値判断は、ありません。 あなたは見ます。
22:17 N: で、洞察は、意志の結果ではない。 またそれは、分析の結果でもない。
22:23 K: ええ。

R: ええ。
22:25 K: そうね、これは、理論的になりつつあります。 あなたはそれを、理論的にしつつある。
22:30 N: なぜなら、分析をとおして・・・

K: すみません。 あなたは、それを理論的にしつつある。 あなたは、それを定義してしまった。 それはこれではない、あれではない、あれではない、と。 そしてあなたは、自分が洞察を持っていると、考えます。持っていますか。
22:43 N: いいえ。私が洞察を持っているとは、考えません。
22:45 K: それなら、なぜそれについて議論しますか。
22:47 N: いえ。私たちはこれまで洞察について議論してきたか、 または、私たちは見てきているからです。
22:52 K: いや、今、ナラヤン、私が指摘してもいいなら、 私たちはともに、行為について話し合っています - そこでは、何も選択がなく、そこには、意志としての努力が、ない。 そういう行為が、ありますか。 私は知りません。どうぞ。
23:20 R: あります。 そういう行為が、あります。
23:25 K: あなたはそれをご存じですか。それは理論ですか。 お許しください - 私ははっきりしなければ・・・ そうね、許してください。 私は動いて離れたいと思います。 許してくださるなら - 私は不遜になっていません。 理論から、観念から、結論から、動いて離れるべきです。 自分自身で、その事態の真理を、見出すべきです。 すなわち、そこに意志の努力がまったくない、 ゆえに選択がない 行為が、ありますか。 で、その中に、意志がなく、選択がなく、欲望がない、 正確な行為とは、何ですか。 なぜなら、意志は、欲望の一部などであるからです。 それを見出すには、欲望の本性について、 とてもはっきりしていなければなりません。 そうではないですか。 欲望は、感受の一部です。 欲望は、感受の一部であり、 思考は自体を、その感受と同一視します。 同一視をとおして、「私」が、自我が、築き上げられます。 そのとき自我は、「私はしなければならない」、「私はすまい」と言います。 で、私たちは、理想の原理に、欲望に、意志に基づかない 行為が、あるのかどうかを、 見出そうとしています。 自発的な(行為)、ではない - その言葉は、かなり危険な言葉です。 なぜなら、誰も自発的ではないからです。 自らは自発的でありうると、考えますが、 そういったものは、ありません。 なぜなら、自発的であるには、全的に自由でなければならないからです。 よろしいですか。 で、そういう行為が、ありますか。 なぜなら、私たちの行為のほとんどは、動機を持っているからです。 ですね? 動機は、動きを意味しています。 私は、住宅を建てたい。 私は、あの女や、あの男がほしい。 心理的にか、生物学的に私は傷ついているが、 私の動機は、傷つけ返すことです。 それで、行為には、いつも或る種の動機が、あるのです。 私たちは日常生活で、そうします。 で、そのとき、行為は動機により、条件づけられます。 動機は、同一視過程の一部です。 で、私は理解するなら - 理解する、ではない。 同一視が、自己の本性全体と構造を 築くとの真理へ、 知覚があるなら、 そのとき、思考より発しない行為が、ありますか。 私は知りません。私は正しいですか。
27:28 B: ええ、私たちは、なぜかを訊ねてもいいでしょうか。それに入る前に、ですが、 なぜ、同一視があるのか。これがこんなに流布しているのは、なぜなのか。
27:34 K: なぜ思考は、同一視するのか。

B: 感受と他の物事と、です。

K: なぜ思考は・・・なぜ、何かとの同一視が、あるのか。
27:46 B: 特に感受と。

K: ええ、感受と、です。
27:53 さあ、どうぞ。それに答えてください。 私は知らない。あなたたちはみんな、専門家です。
28:02 N: 同一視するのは、思考のまさしく本性ですか。 または、感受と同一視しない思考の形態が、ありますか。
28:18 K: ナラヤン、なぜあなたは - またもや私は、大変礼儀正しく尊敬をこめて、等々ですが、 なぜあなたは、その質問をしますか。 それは、理論的な問いですか。 または、実際の問いですか。 なぜあなた、ナラヤンは、同一視しますか。
28:39 N: このように表させてください・・・
28:42 K: いいえ。私は、違ったように表さないでしょう。
28:45 N: 私が同一視できる一つのものは、感受です。 私は、同一視できるものを、他に持っていません。

K: で、なぜあなたは、感受に重要性を与えますか。
29:00 あなたは、「私は感覚的な存在だ。 他の何ものでもない」と言いますか。
29:05 N: いえ、いえ。

K: ああ、それなんです。
29:10 N: 私は何かと同一視しなくてはいけないのなら、 それはただ、感受とだけになりえます。
29:14 B: 同一視に、二元性はありますか。
29:17 K: もちろんです。 

B: 私たちはそれを、明らかにできるのでしょうか。
29:20 K: 同一視には、あなたが指摘なさったように、 二元性があります - 同一視するものと同一視されるもの、です。
29:27 B: あなたが、同一視により、「私は異なっていない」と言うことにより、 二元性を乗り越えようとしていることは、可能ですか - あなたが現にそうであるときや、あなたが、自分はそうであると感じるときに、です。
29:39 K: そうね・・・私は・・・ 私は、イデオロギー、理論の分野へ、入りたくないんです。 私にとって・・・私はそれに何の興味もありません。 ですが、私は本当に、究明する中で、見出したいのです。 おそらく私は見出したのですが、ともに話し合っていて、 そこに自己がない行為が、ありますか。 日常生活において、です。 涅槃において、とか、 私が自由に到ったとき、その他すべて、ではない。 私は、この生において、自らが生きていながら、それをしたいのです。 それは、私は見出さなくてはいけない、という意味です。 精神は、原因を持たない行為を、見出さなくてはいけません - それは、動機がない、という意味です。 結果や効果ではない行為、 一連の因果のではない行為を、です。 因果が存在するのなら、行為は、いつも縛られ、鎖に繋がれます。 私の話は、明らかになっていますか。

R: ええ。進めてください。
31:03 K: で、そういう行為がありますか。
31:09 B: まあ、私たちが同一視しているかぎり、 それを見つけられないと、私には思われます。

K: ええ。 そういうわけで、私は言ったのです - 同一視が存在するかぎり、私は答えを見つけられない、と。
31:21 B: ですが、思考はなぜ同一視しますか。
31:24 K: なぜ思考は、感受と同一視しますか。
31:28 B: それは、抵抗不可能ですか。または、それは、何か脇に置けるものだけですか。
31:33 K: それが抵抗不可能なのか、または、 それは感受の一部であるのか、私は知りません。
31:41 B: それは、どのようにですか。

K: 究明しましょう。 私がやりたくない・・・
31:45 B: 感受がその裏にあると、お考えですか。
31:48 K: おそらく、ね。 私が、おそらくと言うとき、 その言葉は、究明の目的のために、使われます。 「私は知らない」ではなく、究明しましょう。 だが、そうかもしれません。 で、なぜ感受は、生において、こんなに重要になったのですか。 性的な感受、力の感受 - それが、オカルト的な力や、政治的な力、経済的な力や、 男に対する女や、女に対する男の力、 環境の力、 環境の影響力、圧力であっても、なぜですか。 なぜ思考は、この圧力に、屈してきましたか。よろしいですか。
32:41 B: 感受は必ず、圧力を生みますか。
32:47 K: それは同一視されるとき、生みます。
32:49 B: ええ。ですが、そのとき、それは二つが一緒に、です。
32:51 K: 知っていますよ。ですが、少しさらに検討しましょう。 私たちがいう感受とは、どういう意味ですか。

B: 私たちは感覚の観念を持ち・・・感覚は・・・まあ、
33:11 私たちは、楽しみの憶えた感受を、持つかもしれないと、私には思われます。
33:16 K: 感覚。感覚の作動。 触れる、味わう、見る、匂う、聞こえる。
33:23 B: そのとき起きる経験。 また、それの記憶も、です。
33:30 K: いえ。記憶は、それとの同一視があるときだけです。
33:37 B: ええ、同意します。
33:38 K: 同一視がないとき、感覚は感覚です。 ですが、思考はなぜ、自体を感覚と同一視しますか。
33:52 B: ええ。それはまだ、明らかではありません。
33:54 K: 分かります。私たちは、それを明らかにしようとしています。
33:58 B: 物事、感受が憶えられるとき、私たちは同一視を持つと、 仰っていますか。

K: ええ。
34:08 B: それをもっと明らかにできますか。
34:11 K: もう少し明らかにしましょう。 それに取り組みましょう。 気持ちいい湖を、知覚することがある。 美しい湖が、見える。 その見える中に、何が起きますか。 視覚神経、眼で見えることが、あるだけではなく、 また、諸感覚が目覚めます。 水の匂い、湖畔の樹々。
34:59 B: 一瞬間、止まってもいいでしょうか。 見える、と仰るとき、もちろん視覚をとおして見えます。
35:05 K: 私は、純粋な視覚を、使っています。
35:07 B: ええ。今、ゆえにあなたは、単に見るために、 すでに視覚を目覚めさせている。 それが、あなたが仰る意味ですか。
35:13 K: ええ。私はただ見ています。
35:16 B: 視覚的に。

K: 視覚的に、視力的に、 私はただ見ています。 そのとき、何が起きますか。
35:22 B: 他の感覚が、作動しはじめます。
35:24 K: 他の感覚が、作動しはじめます。 なぜそれは、そこで止まりませんか。
35:29 B: 次の歩みは、何ですか。
35:31 K: 次の歩みは、思考が入ってくることです - 「あれは、何と美しいのか。 私はここに留まれたらいいのにな」と。
35:39 B: で、思考がそれを同一視します。

K: ええ。
35:41 B: それは、「それはこれだ」と言います。

K: ええ。なぜなら、そこには、楽しみがあるからです。
35:46 B: どこにですか。
35:48 K: 見ることと、見ることの喜び。 そのとき、思考が作動を始めて、「私はもっと持たなければならない」、 「私はここに住宅を建てなければならない。 それは私のだ」と、言います。
35:57 B: でも、なぜ思考は、そうしますか。
36:00 K: なぜ思考は、感覚に介入しますか。 そうですか。 さて、ちょっとお待ちください。 感覚が楽しみを得た瞬間、 「なんと喜ばしい」と言って、 そこに止まる。 思考は、入ってきません。
36:27 いいですか?

B: そのとおりです。
36:31 K: さて、なぜ思考は入ってくるのか。 それが痛いのなら、思考はそれを回避します。
36:42 B: そうです。
36:45 K: それは、自体をそれと同一視しません。
36:47 B: それは、それに抗して、同一視します。 それは、「私はそれをほしくない」と言います。
36:50 K: いえ、それを放っておくか、それより去ってしまうのか。 それを拒否するか、それより動いて離れるのか。 ですが、それが楽しめるなら、感覚が楽しみはじめ、 「何とすてきだ」と言うとき、 思考が自体をそれと同一視しはじめます。
37:09 B: でも、なぜか、ということです。
37:12 K: なぜか。楽しみのためです。
37:16 B: でも、これがどんなに無益なのかが分かるとき、なぜ思考は、それをあきらめませんか。
37:21 K: ああ、それははるかに後です。

B: それは、長い道のりを行って、です。
37:24 K: それが痛くなるとき、 それは、同一視が、楽しみをも恐れをも、生み育てることに、気づくとき、 それは問いはじめます。
37:35 B: まあ、あなたは、思考が始まりに単純な間違いをしたと、 仰っていますか - 一種の無邪気な間違いを。
37:40 K: ええ、そのとおりです。 思考は、自らに楽しみをもたらす何かと 同一視する中で、間違いをしました。 または、何かに楽しみが、あるんです。
37:53 B: そして、思考は、引き継ごうとする。

K: 引き継ごう、と。
37:56 B: それを、おそらく、恒常的にするために。
38:00 K: 恒常的に。そのとおりです。 それは、記憶という意味です。 水仙と樹々と水と日射し、その他すべてを ともなった湖の思い出、です。
38:13 B: 今、思考が間違いをしてしまい、 後でこの間違いを発見することは、理解できます。 ですが、それはあまりに遅すぎると、思われます。 なぜなら、それはどう止まるのかを、知らないからです。
38:21 K: それは今、すでに条件づけられていて、強いからです。
38:24 B: で、私たちは、なぜそれがそれをあきらめられないのかを、明らかにできますかね。
38:27 K: なぜそれは、それをあきらめられないのか。 それが、私たちの問題全体です。 

B: 私たちは、それをもっと明らかにしようとしますか。
38:33 K: なぜ思考は、 何か自分が、痛い、破壊的であると 知っているか、気づいているものを、
38:41 あきらめないのか。

B: ええ。

K: なぜか。 進んでください。なぜですか。 単純な例を、取ってみましょう。 心理的に、自分は傷ついています。
39:06 B: まあ、それは後で、です。
39:08 K: 私はそれを、例として取り上げています。 後ででも、構いません。 自らは傷ついています。 なぜ即時に、その傷をあきらめられませんか。 なぜなら、傷が、大変多くの損害を創り出そうとしているのを、知っているからです。 すなわち、私は傷ついているとき、もっと傷つかないために、 自分自身のまわりに、壁を築きます。 恐れが、あります。そして、孤立、神経症的な行為。それらが、続いてきます。 思考は、私自身について、イメージを創り出しました。 そのイメージが、傷つきます。 なぜ思考は、「ええ、何とまあ。 私はこれが見えた」と言って、即時にそれを落とさないのか。 いいですか?それは同じ問いです。

B: ええ。
40:01 K: なぜなら、それがイメージを落とすとき、何も残されていないからです。
40:05 B: そのとき、あなたは、別の素材を持っています。 なぜなら、思考は、そのイメージの記憶に、取りすがりたいからです。
40:12 K: イメージを創り出してきた記憶に、取りすがる。
40:16 B: それは再び、それを創り出すかもしれません。 思考は、それらがとても貴重だ、と感じます。
40:21 K: ええ。それらはとても貴重だ、懐かしい、その他すべて、です。
40:26 B: ええ。で、どうにか、思考はそれらに、きわめて高い価値を、与えます。 それは、どうして、そうすることになったのか。
40:34 K: なぜそれは、イメージを、そんなに価値づけてきたのか。
40:38 B: ええ。

K: 思考が創り出してきたイメージは、 なぜそんなに重要になったのか。
40:47 B: 私は、始まりに、 それは単純な間違いだった。 思考は楽しみのイメージを作ったと、言っていいのなら、 それは、とても重要に、貴重になると思われたし、 それをあきらめることは、できなかった。 

K: ええ。
41:02 K: なぜそうしないのか。 私が楽しみをあきらめるなら、 思考が楽しみをあきらめるなら、そこには、何が残されていますか。
41:13 B: それは、何も無かったときの始まりの状態に、 戻るとは、思われません。
41:17 K: ああ、それが純真な状態です。 それが、そのものです。
41:20 B: それは、その状態に戻ることができません。
41:22 K: 戻れません。なぜなら、思考、そうね、その他すべてのためです。
41:25 B: ええ、私が思うに、起きることは、 思考が、とても貴重になった楽しみを あきらめるのを考えるとき、 それについての単なる思考も、痛い、ということです。
41:35 K: ええ。あきらめることは、痛い。
41:37 B: ゆえに、思考は、それより逃げ去ります。
41:40 K: ええ。で、それは、楽しみに縋りつきます。
41:44 B: それは、痛みに向き合いたいと願いません。
41:46 K: 楽しみに代わる、より良い報賞があるまで、です。 それは、より良い楽しみに、なるでしょう。
41:51 B: それは、変化ではないでしょうね。

K: もちろんです。
41:54 B: ですが、思考は、自らが作ってきた罠に、 陥ったように、思われます。 なぜなら、それは、無邪気に楽しみを憶えていて、 それから、次第にそれを、重要にしてきて、 それから、それをあきらめることが、 あまりに痛くなったからです。

K: それを、あきらめることは。
42:10 B: なぜなら、楽しみを即時に取り去るのより、 どの変化も、とても痛いからです。
42:14 K: なぜなら、それはそのとき、後で、他に何も持っていないからです。そのとき、それは怯えています。
42:17 B: でも、そうね、始まりに、 それは、他に何も持たないことに、怯えていませんでしたね。
42:22 K: ええ。

B: 今はそうです。
42:24 K: ええ。始まりに - それは、始まりとは、人の始まりだ、という意味です。
42:31 B: ええ。
42:32 K: 人の始まりに - 私たちはそれさえも、問えますか。
42:37 B: おそらく、できないかな。
42:38 K: 類人猿の始まり、です。
42:41 B: 十分に遡るなら、です。 あなたは、こう仰りたい - それは長い時間、つづいてきたが、 思考が、この罠を築いてきた。それが次第に、もっと悪くなってきた、と。
42:53 K: 私たちは、頭脳はとても古いと、言えるでしょうか - 私たちの頭脳すべては、とても古い。 単にそれをさらに、さらに、さらに辿って遡るだけでは、 けっして見出せません。 ですが、私は、自分の頭脳は、今あるとおりである、と言えます - それは、とても古い。楽しみと痛みということに立って、条件づけられている、と。
43:22 B: ええ。古い頭脳はまた、 頭脳の情動的な部分であるとも、言われています。
43:27 K: もちろん、情動的、その他すべて、感覚的です。 それで今、私たちはどこにいますか。
43:35 B: まあ、私たちは、こう言います - この頭脳は、 楽しみのイメージの持続的な記憶、それをあきらめることの不快さと、恐れとにより、 自体を条件づけてきた、と。
43:46 K: で、それは、自らが知っている何かへ、縋りつく。
43:48 B: 自らが知っていて、自らにとって、とても貴重なものへ。
43:51 K: でも、頭脳は、それが恐れを生み育てようとしていることを、知りません。
43:54 B: それは、知っているときさえ、やはり縋りつく。
43:56 K: ですが、それは、はるかにむしろ、恐れより逃げ去るでしょう - 楽しみが継続するだろうと望んで、です。
44:01 B: しかし、それは結局、非理性的になりはじめる、と思います。 なぜなら、それは、頭脳を非理性的にし、 これをまっすぐ捉えられなくする圧力を、創り出すからです。
44:12 K: ええ。 これの終わりに、私たちは今、どこにいますか。 私たちは出発しましたね - 私たち、ボーム博士は、 そこに動機、原因がなく、自己がそこにまったく入らない 行為が、あるのか、と。 もちろん、あります。 自己がないとき、あります。 それは、同一視する過程が起きない、という意味です。 美しい湖を知覚することが、ある - そのすべての色と輝きと美しさとともに、です。 それで十分です。 記憶を養成するのではない - それは、同一視の過程をとおして発達させられます。 いいですか。
45:25 B: これはいつも、問いを生じさせます - 私たちはどうやって、この同一視を止めようとするのか、と。
45:29 K: 私は、「どうやって」があるとは、思いません。
45:32 B: そうです。でも、そのとき、私たちは何をしますか。
45:34 K: それは、冥想、制御、実践、実践、実践、実践、という意味です。 その道は、精神を機械的に、鈍くします。 お許しください。 文字通り、新しいものを何も受け取ることが、不可能です。
46:00 シュレーゲル: それが模倣するなら、それがただ、それを模倣するなら、 これは正確に、起きることです。 これら実践が、模倣、模倣、模倣でもって、なされるなら。
46:13 R: それは、その実践が模倣になるなら、という意味であり・・・
46:18 S: そのとき、これはひどい条件づけです。
46:20 R: そのとき、精神は機械的です。
46:22 K: あなたがいわれる「模倣」とは、どういう意味ですか。
46:24 S: あなたが私に語るなら - 私はそれをとても単純にすると - 一日ちょうど三回、手を床に置く。 すると、何かが起きるでしょう。

K: そして、そうします。
46:35 S: 私はそうします。私は、それについて考えません。 私は、それについて探求しません。 私は、「なぜか」と言いません。 さて、何が起きますか。なぜ私は?と、 私がそれを問わないなら、 私がただ機械的にそれをするなら、何も起きないでしょう。 私は、ますます曖昧になるだけでしょう。 ですが、私がそれを探究し、なぜか、何のためか、私の反応は何なのか、と・・・
46:56 K: いえ、私の問いはこうです - 私は、誰かに聞いてきました - 彼は、「手をそこに置きなさい」と言います。 そのとき私は、探究しはじめます。 ですが、誰かが私に、「私は手をそこに置かなければならない」と 語るのを、私は受け入れません - そのとき、私は探究しなくていい。 或る導師のあの有名な物語を、憶えていますか。 彼は、(アシュラムで)お気に入りの猫を、飼っていた。彼は、多くの弟子を、持っていた。 毎朝、彼らがみんな冥想を始める前に、 彼は、猫を捕まえて、それを膝の上に載せ、冥想した。 師が死んだとき、弟子たちは、(儀式として)猫を、探し回らなくてはいけなかった。

R: 私はそれを、違うように聞いてきました。
47:44 その猫は、来て、(みんなの冥想の)じゃまをしないように、どこかにつながれた、と。
47:48 K: 同じことです。 いえ、そうね、 私たちの精神はとにかく、機械的です。 機械的にされてきました。 私たちはむしろ、 なぜ自分たちが、機械的になったのかを、究明できませんか - 非機械的なことを、実践するよりは、です。 そちらも、機械的なのかもしれません。
48:27 S: それはできます。 私たちの前に、全体的になった人々が、ずっといたからです・・・
48:42 K: 私は知りません。

S: または、そう思われます。 私が、自分の探究を貫きとおすなら・・・

K: 私は、誰をも知りません。
48:49 S: ・・・そうなりそうに、思われます。

K: そうね、あなたは、それを受け入れます。
48:52 S: 私はそれを、可能な提言として、見つめています。
48:56 K: 私は知りません。私は、自分自身でもって、始めます。 私は、覚りを開いた誰をも、頼りにしません。 私は知りません。彼らは、自分自身を、欺瞞するかもしれません。
49:06 S: こういうわけで、私は見つけようとしているんです・・・

K: で、自分自身でもって、始めなければなりません。
49:15 自分自身はすでに、受け売りです。 他の人たちの陰に、生きています。 で、なぜ他の人たちに、頼りますか。 で、私はここにいます。 そこから、私は始めます。 それはとても単純です。 ところが、他は、とても多くの錯綜へ、つながります。
49:38 S: 私は、必ずしもそれを、錯綜とは見ません。 もし私は、観念を持っていて - そこに自分がいて、自分が向き合わなくてはいけない 自分の幻影、自分の苦しみ、私の全般的な不満の状態以上の 何かがあるとの観念を、持っているなら - 私は、可能性があると考えないなら、 私はやってみようとすらしないかもしれません。 もし私が、可能性があるかもしれないと見るなら、 私はそれを、真理と受け取らなくていい。 が、それは私に、私自身の実験主題として、 自分自身でもって働こうとすることは、甲斐があるとの感覚を、 与えてくれます - それを何とかやってみよう、と。
50:17 K: なぜあなたは、動機がほしいのですか。
50:21 S: その動機をもって始めないことは、ほぼ不可能であると、思います。 なぜなら、それは自己より始まるからです。
50:28 K: いえ、マダム。 私たちは、同じことについて、話しているのでしょう。 私はただ、自分自身を知りたいのです - 私は苦しむ、そうね、私は経てゆくから、ではない。 私はただ、自分が何なのかを、知りたいのです - 誰に沿ってでもなく、ただ自分自身について知るんです。 で、私は探究しはじめます。 私は、鏡を見はじめます - それは私自身です。 鏡は言います - あなたの反応は、これらである。 これらの反応を持つかぎり、 あなたは、重い支払いをするだろう。 苦しむだろう、と。 で、それがすべてです。 で、今、私、普通の人間は、 すべての自分の反応、醜いもの、気持ちいいもの、 憎いもの、自らが持つ反応すべてを、知って、 どのように、観察をもたらすべきですか - その中に、反応を抑制したり、拡大したりする動機がない観察を、です。 私の話は明らかになっているのかと、思われます。
51:45 S: ええ。
51:46 K: 私はどのように、原因なく、自分自身を観察すべきですか。 原因は一般的に、処罰と報賞です - それは明白に、あまりに不条理です。 調教されている犬のようです。 で、私は、何の動機もなく、自分自身を見つめられますか。 進んでください。
52:19 S: 探究のこの段階において、そういう探究の状態において、 私は、そうしようとしはじめていますが、 まず初めに、私は、それをできません。 私は、あまりに条件づけられています。
52:32 K: いいえ、いいえ。 私は、それを認めないでしょう。 あなたはいつも、助けを求めています。
52:38 S: いえ。でも、私は、身体的な鍛錬をできるのと同じように、できます。 私は、ゆっくりと、できます- 即時にではない - 通常私が自分自身において見たくない、それらの物事を 見つめ、近接していることが、できます。
52:58 K: マダム、それは理解できます。 それは、このようにです - 私は、一定の運動をする筋肉を、持っていません。 体操をすることにより、一週間後に私は、それら筋肉を持ちます。 その同じ精神性が、持ち越されます - 私は自分自身を知らない。 だが、私は次第に、自分自身について、学ぶだろう、と。
53:20 S: それは、私が次第に学ばなくてはいけない、ということではない。 私たちはここで、よく気をつけなくてはいけません。 それは、私が自分自身について、次第に学ばなくてはいけない、ということではない。 それはただ、私が、己に耐える勇気を、強さを 発達させなくてはならない、ということだけです。
53:37 K: それは同じことです。 それは同じことです。 私は、一定の運動をする強さ、 身体的な強さを、持っていない。 同じ精神的作動が、心理的に進みます - 私は、弱いが、強くならなければならない、と。
53:54 S: それは、私は強くならなければならない、ということではない。 私が思うに、これは、自分自身が入ってしまうところで・・・
54:00 K: 袋小路です。

S: ええ。 それは、動機のためではない。 それは、まさに実在の苦しみと見つめることです。 そして、苦しみと見つめること、苦しみと見つめること。 そして、そこには、変化する要因が、ある - すなわち、終わりに、それを可能にするものが、です。
54:19 K: それは、またもや次第であって、進化です。 私は、それは全的に、と言います - 指摘してもよろしければ、私は、あなたを訂正していません。 それは、どこにも、つながらないでしょう。それは幻影です。
54:34 S: それは、どこにも、つながらなくていい。 でも、それは、あの精神で、あの態度をもって、継続されるなら - 私がそれから何かを得る、のではない - そのとき、突然の可能な変化があるし、それは起きるのです。 私たちがそれを、してきたのかどうか。 それについて、もう一点を申し述べたいと思います - 私たちは、その動機をもって出発し、それをしてきて、 変化し、ゆっくりと別の道を始めたのか。 あるいは、私たちは、自分自身に知られぬまま、それをしてきて、 そのため、それは、私たちが生きてきた生の基礎に則って、 突然起こりうるのかは、 本当に何も違いが、出ません。
55:11 K: マダム、あなたは即時に洞察を持つのか、または、それを持たないのか、です。
55:15 S: ええ。それは真実です。 でも、何がそれへ、つながってきたのか- それが、論点です。
55:19 K: ああ、それは準備を意味しています。 - それは、時を意味しています。 それは、養成、同一視、「私」を、意味しています。
55:28 S: いいえ。

K: もちろんです。 あなたが、時を認めた瞬間、それは、自己の養成です。
55:35 S: 必ずしもそうではない。
55:37 K: なぜあなたは、必ずしもそうでないと、仰るのですか。
55:42 S: 私が、その中から自分が獲得したい何かのために、そうするなら、 それは確かに、自己の養成です。
55:54 K: マダム、あなたが仰るとき- 私たちがちょうど今、言ったように、 洞察は、時と記憶を欠如しています。 洞察は、時がない。 それは、起きなければなりません。 あなたは次第に、それへ来られません。 それは、思考により養成されるものではない。 で、自分自身へ、段階的にではなく、即座に洞察を持つこと。 それは可能ですか。

S: ええ。
56:30 K: いいえ。「ええ」と言わないでください。 私たちは、探究しています。
56:32 S: すると私は、自分の確信と経験をもって言うでしょう - 私は、ええ、と言うでしょう。
56:39 K: 何ですか?何に対して、ええ、ですか。

S: それは可能です。
56:45 K: それは、あなたが洞察を持つなら、 その洞察は、自己を拭い去る、という意味です - 瞬間的に、ではない。 瞬間的に、ではない。 で、あなたは、そのとき行為は 動機なしであると、仰るのでしょうか。 あなたは、そういう行為を知っていますか - 時折に、ではなく、毎日の生を生きていて、です。 私は、時折、食べ物をもらうのではなく、毎日、食べ物をもらいたいのです。 私は、時折、幸せでありたくなくて、 私は・・・その他すべてを、ご存じです。 で、洞察は、時を欠如し、記憶、思考より離別しているので、 ゆえに、洞察より生まれた行為が、ありますか。 理解されますか。

K: 次は何?

R: あなたは洞察を持つなら、
58:25 私は「持った」とは言いません。なぜなら、「持った」はまたもや記憶を、過去を、意味しているからです。
58:30 K: 洞察を持つ。

R: あなたは洞察を持つなら、 例外はない。あなたの行為すべては、動機なしです。
58:42 K: またもや、お許しください。 私たちは、理論的に話していますか。 または実際に、ですか。
58:48 R: 実際に、です。
58:50 K: それは、行為が正確である、精密である、生涯をとおしてずっと、という意味です。
59:03 R: ええ。 あなたは、技術的には、間違いをするかもしれません。
59:10 K: いいえ、私は、技術的について、話していません。
59:13 R: ですが、あなたはその洞察を持つなら、自己がない。動機がない。 あらゆる行為は・・・
59:21 K: あなたは、その洞察を持っていますか。 あなたが、ではない。自らは洞察を持っていますか - 自己の本性全体へのあの洞察を、です。 論争ではなく、帰納ではなく、演繹ではなく、結論ではなく、 自己の本性へ洞察を持つ。 ゆえに、自己は - 自己への洞察が、あるなら、 そのとき行為は、必然的に、その洞察より、つづくでしょう。
59:59 S: 私が強く感じる一点を、明らかにしてもいいですか。 それは、私が洞察を持っている、ということではない - それは、可能ではない。 あの洞察が、ある。
1:00:12 K: 何?そういう洞察が、ありますか。

S: 洞察があります。 それは、私が持っているかのようではない。
1:00:19 N: それは、私が洞察を持っている、ということではない。洞察がある。

K: 洞察がある。私はそれを言いました。私は、何も洞察を持っていません。私は、ただ盲目です。
1:00:27 私は、「私はあれへの洞察を持っている」と言うなら、 私は少し、精神的に錯乱しています。 で、私たちは、何について話していますか。 あなたは、質問をされました。
1:00:43 R: もちろん、私たちは、当初の質問より、はるか遠くに、来てしまっています。
1:00:47 K: 分かります。
1:00:49 R: さて、その問いをすっかり忘れましょう。それは答えられました。
1:00:52 K: あなたのへ戻りましょう。
1:00:55 R: いいえ。その問いに、あなたは答えられました - 以前の問いに、です。 それから、もう一つの問いが、あり、また、関係しています。 

K: どうぞ。

R: そうね、おそらく あなたは、この理論に気づいておられるでしょう。 多くの人々が、です - すなわち、私たちは、言語において考えます。信念があります。 多くの人々が、そう言います。

K: 何ですか。
1:01:17 R: あなたは言語において、考えます。 しょっちゅう彼らは、私に訊ねます - あなたはどの言語で考えますか、と。 私は知らないと、私は言います。 考える中に、言語はありません。 思考は言語を持ちません。 思考は即時に、 人々が用いる一番近い言語へ解釈されます。
1:01:41 K: あなたは、ご自分の思考を、言葉なく私に、伝えられるでしょうか。
1:01:45 R: それが、私が言うことです。 思考を伝えるとき、それは不明確です。
1:01:49 K: いいえ。あなたは、自分の思考を言葉なく、私に伝えられますか。
1:01:57 R: それは、その水準に依存します。

K: それは、どういう意味ですか。
1:02:04 R: あなたが、それを受け入れるのか、または、 その経験をお持ちなのかどうか、私は知りません。 話すことなく、言葉なく、疎通が、あります。
1:02:16 K: すなわち、あなたと私が、同じ水準に、 同じ強烈さをもって、同じ時に、いるとき、 疎通、親交が、ありえるだけです。 いいですか?

R: ええ。

K: それは、どういう意味ですか。 あなたと私が、同じ水準に、 同じ強烈さをもって、同じ時にいるとき、 そのことは、何ですか。 そのとき、言葉は必要ではありません。
1:03:04 R: ええ。

K: そのことは、何ですか。
1:03:10 R: あなたがお好きなら、それは思考である、と言えます。
1:03:16 K: いいえ、いいえ。 私たちのどちらもが、そのようであるとき、その状態の性質は、何ですか。 思考の不在ではない。 その性質、その香り、そのもの、です。 あなたはそれを、愛と呼ばないのでしょうか。
1:03:53 R: ええ。

K: いえ、いけません。
1:03:55 R: ですが、あなたは、私にお訊きになったのか、ただ、あなたが問いに、答えようとしています。 あなたがそれを、私に出されて、 人々は、私がそれに答えるのを期待しているとき、私は混乱します。

K: いえ。二人の人々が、
1:04:12 この状態の、このとてつもない性質を、持っているとき、 言葉は、必要でありません。 あの愛の性質が、あります。 存在します。 ゆえに、言葉は不必要になります。 即座の疎通が、あります。 さて、私たちのほとんどにとって、言語は、私たちを駆り立てます。 ですね? よろしいですか。 言語は、私たちを駆り立て、私たちを推し進め、私たちを形作ります。 私たちの精神は、言語により条件づけられています。 すなわち、言語、言葉は、私たちを駆り立て、無理強いします。 「私はイギリス人です」 - 言語、その言語の内容、です。 いいですか? 言語が、私たちを方向づけずに、私たちが、言葉を使うなら、 そのとき言葉は、全然違った意味を、持っています。

N: 言語が、あなたを駆り立てません。 あなたが、言語を駆り立てます。
1:05:55 K: そのとおりです。
1:05:57 B: 普通、私たちは、自らの言語と同一視されている。
1:06:01 ゆえに、それが私たちを駆り立てていると、私は思います。 しかし、私たちが、同一視より自由であるなら・・・
1:06:07 K: そういうわけで・・・ 言語がいかに、私たちを作ってきたかは、とてつもないのです - 「私は共産主義者です。 私はカトリックです」と。
1:06:14 B: ええ、それは同一視です。

K: そうなんです。そうなんです。
1:06:17 B: でも、あなたは、言語は 同一視の主要な起源である、と思われますか。
1:06:21 K: それらの一つです。
1:06:23 B: 大きなものの一つです。

K: ええ。
1:06:26 R: それが役立つだろうか、私は知りませんが、 私はここで、とても重要な大乗仏教の哲学的態度に、 注意をしたいです。

K: それは・・・

R: すなわち、世界は言語に捕らわれている、と言われます。 名の集積体、句の集積体、音節の集積体 - それが、使われる言葉です。
1:06:44 K: これらも、サンスクリットの言葉です。

R: ええ。これらは、もちろんサンスクリットの言葉です。 普通の人は、言葉の中に填まり込んでいると、言われます - ちょうど泥の中の象のように、です。 で、言葉 - 名、句、音節 - を見るためには、 それらを越えなければなりません。

K: いえ、ですが・・・

R: なぜなら、あなたが仰るように、言語により駆り立てられているかぎり・・・
1:07:17 K: あなたはそうですか。
1:07:23 R: あなたは、個人的に訊ねていますか。
1:07:25 K: ええ。あなたはどうですか。 私はどうですか。 ボーム博士、彼は、言語により駆られていますか。
1:07:41 R: それは、私には言えません。 あなたが、それに答えてください。
1:07:46 K: 私は、自分自身で答えられますが、私は、あなたに訊ねています。
1:07:51 R: ええ。あなたは、あなた自身で答えます。

K: ああ、絶対的に、です。

R: ええ、それで十分です。
1:07:57 K: いえ、いえ。 それで十分ではありません。
1:08:03 N: しかし、思うのですが、言語について、熟達するとか
1:08:07 学術的になればなるほど、 言語に捕らわれる可能性が、 より大きくなる、と思います。
1:08:15 R: ええ、確かに。
1:08:20 N: ところが、田舎の人たちはただ、単純な疎通のために、それを使うだけかもしれません。
1:08:26 K: それが、あなたの問いでした - 思考は、言葉を持っているのか、 思考は、言葉の一部なのか、です。 言葉が、思考を創り出しますか。 または、思考が、言葉を創り出しますか- 卵・・・ 

R: ええ。
1:08:57 B: あなたはかつて、その質問をされました - 言葉なしに思考があるのか、と。
1:09:01 K: それが、私がしたいことです。 それは、とても興味深いですよ。 私たちは少し、それに入りましょうか。 あなたは、それに入りたいでしょうか。
1:09:10 R: ええ。言葉なしに、思考はありますか。
1:09:12 B: それが問いです。
1:09:16 R: 思考は何も言葉を持たない、と私は思います。 思考は、言葉を持ちません。 思考はイメージです。
1:09:25 K: いえ、いえ。私たちはその意味で、言葉を使っています・・・ 象徴、イメージ、映像、言葉を、含めるために、です。 それらです。
1:09:38 B: 言葉は、容易にイメージへ、変えられますね - 例えば、芸術家によって、です。 叙述は、芸術家によって、イメージへ変えられます。 または、その逆に、イメージが叙述されて、言葉へ変えられるかもしれません。 で、それらは、等価の内容を持っています。
1:09:58 K: 思考の起源とは、何ですか。 もしもあなたが、見出さなくてはいけなかったなら - ブッダが言ったことではなく、 あなたが、人間として、何かを見出さなくてはいけなかったなら・・・ あなたが、見出さなければなりません。 さもないと、あなたの頭は、叩き切られるでしょう。 それは、あなたが見出さなければならないものすごく重要な何かです - あなたは、何をするのでしょうか。 思考の起源は、何ですか。 神が世界を作った。言葉が受肉した- それは何ですか。 バイブルの始まり、「創世記」ですか。

K: 私は、それを忘れてしまっています。

B: 私は、それを忘れてしまっています。 私は、「創世記」を思い出せません。

R: あなたのほうが、みんなより読んでいます。
1:10:56 K: いえ、いえ、すみません。これは、ありふれています。それは、どこかで聞かれます・・・
1:11:02 K: どうぞ、その問いに、答えてください。
1:11:07 R: 起源が、ありますか。
1:11:10 K: ありますか。

R: 起源が、ありますか。
1:11:13 K: あるにちがいありません。

R: なぜ、ちがいないのですか。
1:11:16 K: さもないと・・・あなたにおいて、起源は何ですか。
1:11:23 R: 起源はない。
1:11:26 K: もちろん、思考の始まりは、あるにちがいないですよ。
1:11:32 R: それは、またもや誤謬です。 それへの間違った見方です。
1:11:39 K: いえ、いえ、いえ。
1:11:41 R: あらゆる物事に、始まりがあるにちがいないと、訊ねることによって、です。
1:11:44 K: いえ。私は、あらゆる物事に始まりがあるとは、訊ねていません。 私はただ、見出すために、訊ねています - 思考の始まりは、何ですか。 思考は、どのように始まりましたか。 犬については - よろしいですか - 動物、生きものすべてについて、 彼らはみんな、様々な形で考えます。 または、感じるなどです。 それの始まりが、あるにちがいありません。 人間たちにおけるそれは、何ですか。

S: 私たちは、もしもまったく欲望を持たなかったなら、思考を持たないでしょう。
1:12:42 K: いいえ、いいえ。それは、それについての問いではない。
1:12:44 B: あなたは、同一視なしの、または同一視つきの
1:12:47 思考について、議論していますか。
1:12:48 K: いいえ。 思考は、私自身においてどのように、始まりましたか。 それは、私の父により、手渡されましたか - 私の両親により、教育により、 環境により、過去によって、ですか。 私は知りたいのです。 どのように・・・何が私に、考えさせましたか。 進んでください。 何があなたに、考えさせましたか。
1:13:27 R: 問いは、こうです - あなたは、この裏に何か原因を、置いています。 しかし、私は言うでしょう - 何も、私に考えさせなかった。 それは、考えることは、あなた自身の本性にある、と。
1:13:40 K: いいえ。
1:13:41 R: 他の起源、原因はありません。

K: ああ、いえ。あります。

R: それは何ですか。
1:13:46 K: 私は、一分後に、あなたに言いましょう。
1:13:49 いえ。私は、最終的な権威ではないですよ。 私はそれについて、話し合いたいのです。 もしも私は、記憶を持っていなかったなら、考えることが、あるのでしょうか。
1:14:03 R: もう一回、伺います - 記憶の起源は何ですか。
1:14:07 K: それに答えるのは、相当に簡単です。 私は、パリであなたに会ったのを、憶えています。私は憶えていませんが、 仮に、私がパリであなたに会ったのを憶えている、とします。 それは、記録されているでしょう。 よろしいですか。

R: もちろん、それが頭脳に記録されていることは、一般的に受け入れられています。
1:14:35 K: いえ、それは普通の事実です。

R: いえ。それを、私は受け入れません。
1:14:40 それは、古い19世紀、20世紀の理論です - あらゆる物事が、どこか頭脳に記録されている、というもの、です。
1:14:48 K: いいえ。見てください。 私は今週、あなたに会いましたね。 あなたは一年後に、戻ってきます。 - そうなさることを、私は願っています - そのとき私は、「はい」と言います。 私はあなたを認識します。いいですか? その認識は、どのように起きますか。
1:15:08 R: あなたが進められたのは、とても良い。 なぜなら、これは、私があなたにお訊きしたい問いであるからです。

K: 私は訊ねています。

R: 記憶はどのように、生じますか。 私はそれを、訊ねませんでしたが、 これは、私が大いに、あなたに訊ねたかった問いなんです。
1:15:23 K: 私はそうしております。 私は今、あなたに会います。 一年後に、あなたは、戻ってきます。 - 私は、あなたがそうされることを、願っています - 議論のために、です。 そのとき私は、「はい、ラーフラさん。 私たちは昨年会いました」と言います。 それは、どのように起きますか。 とても単純です。記憶です。 頭脳は、その記憶を、記録していました - あなたに会い、あなたの名前を学んだことを、です。 で、それが記憶です。 私は、次回あなたに会うとき、あなたを認識します。 ですね? 非論理的なことは、何もなくて・・・
1:16:06 R: それは、どう起きますか。 それが疑問です。

K: それはとても単純です。 あなたは、私へ紹介されました。 私たちは、二回の午後、一回の午前の間、ここに座っていました。 それが憶えられています。 来年あなたが戻ってくるとき、私は、「はい」と言います。 もしも、憶えていないなら、私は、あなたを認識しないでしょう。 ですね? で、記録することが、つづいています。 それは、19世紀や、1世紀や、20世紀ではありません。 記録することは、つづかなければなりません。 技術を学ぶ精緻な教育の過程、 車をどう運転するのかとか、月へ行くとか、何であってもですが、 それは、気をつけた記憶の蓄積です - それが、そのとき作用します。 そこには、何も間違ったことは、ないでしょう。
1:17:17 R: それは、どのように起きますか。
1:17:20 K: 私は、車の運転の仕方を、知りません。 それで私は、運転の仕方を教えてくれる人のところへ、行きます。 私は、二十四時間の教習を受けます。 その終わりに、私は試験を受けて、 その人は、「あなたは、なかなかよろしい」と、言ってくれます。 あなたは、「私は、彼と運転することにより、それを学んだ」と、言います。 彼は私に、語っています - 「気をつけなさい。左へ曲がりなさい」と。 彼はいつの時も、私を指導しています。 それで、二十四時間の教習の終わりに、私は良い運転者です。そう願います。 それですべてです。 そこには、何も正しいとか間違ったことは、ありません。 同じように、今日、私はあなたに会います。 来年、私は思い出すでしょう。 すなわち、思い出がある。 それは、記録する過程です。 ちがいますか?それはとても単純です。
1:18:14 R: まだそれは、私にとって、完全に明らかではありません。 それが記録されることは、認めましょう。 私たちが来年会うとき、その記録は、どのように浮かんできますか。
1:18:28 K: ああ、私があなたに会うとき、です。 その記憶が、跳ね上がって、「ああ、彼はラーフラさんだ」と言います。 記録は、イメージです - 快くても、快くなくても、です。
1:18:44 R: それが快いであろうことを、私は願っています!

K: 快くても、快くなくても、それが記録されます。
1:18:53 次回、私があなたに会うとき - 私はあなたに会いますが、 それは快くなかったなら、私は、「うーん、何て退屈なんだ」と言います。 私は、そっぽを向いて、他の何かについて、話をします。 で、この過程全体が、記録です - 私がどう、車を運転するかを、学んだのか、 私がどう、英語、フランス語、ドイツ語を話すかを、学んだのか - それが何でも、です - 記録が、なければなりません。 ちがいますか?
1:19:23 R: 確かにそうです。 

K: ですが、あなたは、19世紀のと仰った・・・
1:19:29 R: ええ。私が言いたいのは、それは頭脳にはない、ということです。 それが、そのことです。

K: ああ、分かります。
1:19:35 それは、どこにありますか。
1:19:37 R: それは、一般的に精神的能力(意根)と呼ばれるものの本性に、あります。 ちょうど眼、耳、鼻等のように、 精神能力、精神的能力もまた、能力です。
1:19:51 K: ええ。
1:19:52 R: それは、潜在的能力の一つです。
1:19:58 K: 記録するのは、頭脳の能力です。
1:20:05 R: それは、物理的な頭脳ではない。 それが私の論点です。
1:20:11 K: ああ、あなたは、他の何かへ逸れて行ってしまいました。
1:20:14 R: ええ。それが、私が言うことです。
1:20:16 N: あなたは、精神的な能力は、身体全体に 拡がっている、と仰っていますか - 必ずしも頭の中ではない、と。 それが、あなたが、それは頭脳にはない、と仰るとき・・・
1:20:24 R: 私たちの精神的な能力は、感覚器官の一つです。 身体的な感覚器官が、五つあります。 そうね、眼は、見たり検討する力を、持つ。 耳は、それをできない。 それは、聞けるだけです。 そして、精神的な能力が、ある。 ちょうど、眼、耳、鼻、舌、身といった、 身体的な能力のように、(意の)精神的な能力が、ある。 その眼、耳、鼻、舌、身は、 外的な世界、物質的な世界を、取り扱う。 しかし、世界は、それで終了していません。 世界の、より大きな部分は、それにより触れられません。
1:21:05 K: 世界の、より大きな部分は、何ですか。
1:21:07 R: 世界の、より大きな部分 - それは、私たちが話していたこと、これら感受と、 これらすべての物事です。それらは、身体や、そのようなものにより、触れられません。 それから、精神能力、精神的な能力は、 きわめて多くの様相、多くの潜在能力を、持つものです。 一つが、この記憶です。 私があなたより明瞭にしたいことは、それはどのように起きるのか、です。 もちろんあなたは、頭脳の観念でもって、始められます。
1:21:42 K: いいえ。
1:21:43 R: 頭脳の中の記録、と。 私はそれに、異議を唱えます。
1:21:47 K: 当面の間、頭脳は切り離しましょう。 今日、私はあなたに会います。 一週間後、私はあなたを見ます。 認識の過程があります。 いいですよ。 それは、その能力の一部です。 その能力の他の部分は、考えることです - 論理的にか、 非論理的にか、です。 で、幾つもの様相、 作り上げられた能力が、精神にある。

R: ええ。 頭脳なしに、精神は持てません。
1:22:32 R: いえ。 確かに、頭脳だけではなく、 身体なし、胃腸なし、心臓なしでも・・・

K: 何ですか。
1:22:41 N: 彼は、身体的なものすべてを、含めます。
1:22:43 R: 身体的な存在なしには、精神を持てません。
1:22:46 K: それがすべてです。

R: なぜ頭脳だけですか。
1:22:49 K: ゆえに、精神は、諸感覚の部分です。 ですね? 精神は、思考、情動、 考えるなどなどの一定の能力の部分です。 それは、外側にありますか。 または、有機的組織の構造全体、 頭脳全体、身体、眼、耳、 そのすべてが、考える過程であるこの精神の部分ですか。 ちがいますか。
1:23:34 B: あなたは、精神は思考である、と仰っていますか。 または、それは思考以上でもある、と。
1:23:40 K: 私は知りませんが・・・

B: それは思考を含む、と。
1:23:43 K: 私はそう言いたくありません。

B: 思考と言うだけです。 私はただ、こう言いたいだけです - 精神は、思考の分野の中で機能しているかぎり、 制限されている、と。
1:23:56 B: で、意識、という意味です。 精神はそれだ、と。
1:23:59 K: ええ、意識は制限されています。
1:24:03 B: 私たちは、それは、これら能力により制限される、と言います - それらがどこにあっても、です。
1:24:06 K: ええ。そのとおりです。 それらが何であっても、です。
1:24:14 B: しかし、認識が及ぶかぎり、 人々は、認識の過程を模倣できる機械を、 作ってすらいます。
1:24:20 K: もちろんです。
1:24:22 B: すでに、コンピューターの手段により、 単純な物事を認識できるんですね。
1:24:26 S: けれども、私が一瞬の間だけ、あなたに会ったことがあり、 あなたの、その出会いの充分な衝撃が、私になかったなら、 来週、私はあなたを通り過ぎて、あなたを認識しないでしょう。
1:24:44 K: もちろんです。

B: それが論点です。 それは、何らかのエネルギーをもって、記録されなくてはならないですね。
1:24:48 S: それが、私が言った意味です - 充分な衝撃のエネルギーが、なければなりません。
1:24:51 K: もちろんです。すべての記録は、エネルギーを持たなければなりません。
1:24:54 B: マイクロフォンをオンにしなかったなら、何も記録されません。

R: そうです。もちろんです。私たちは、自らが見聞きする多くの物事を、憶えません。
1:25:04 一定の印象を残す物事だけ、です。
1:25:08 B: ですが、記録が、いかに 認識と次の経験を生じさせられるだろうかは、 相当に明らかだと、思うんですよ。 次回あなたが、その人物に会うとき、記録が比較されます。
1:25:22 R: それは戻ってきます。

B: ええ、それは戻ってきます。
1:25:25 R: それは、まさしく、コンピューターが取り上げるのに、似ています。
1:25:29 K: で、私たちの頭脳は、コンピューターです。
1:25:32 R: 私は、いいえ、と言うべきでしょう。 頭脳ではない。
1:25:36 K: 頭脳とは何ですか。

R: 頭脳は、基礎なのかもしれません - なぜあなたは、頭脳を仰るだけなのか。 なぜ身体全部、心臓全部ではないのか。 心臓なしに、考えられますか。

K: いいえ。 ゆえに、私たちは、それを申しましたよ。 頭脳、精神 - 精神は、頭脳、感じ、心、構造全体を、 収容しています。

B: 神経中枢すべてを、です。
1:25:57 K: 私たちは、精神という言葉を、意識として使っています。 すなわち、心臓が機能しないなら、私は意識を持てません。
1:26:09 R: ええ。そういうわけで、私は、精神とか意識とかの代わりに、 精神的な能力という言葉を、使ったのです。 能力という言葉でもって、それらの部門が、包摂され、関与しています。
1:26:23 K: あなたが仰る、能力という言葉は、どういう意味ですか。 その言葉は、何を意味していますか。 私は忘れています。私は知りません。
1:26:29 B: 何らかの器量と能力を、持つこと。

R: ええ、そのとおりです。

B: 何かをできる能力です。
1:26:36 R: する能力。 視力と言うときのように、です。
1:26:41 K: いいえ。する能力は、知識に依存します。 もしも私が、ピアノの弾き方を知らなかったなら、 すなわち、それを学んで・・・
1:26:56 R: いいえ、すみません。 あなたは、論点より離れて行っています。 私は、精神の能力と言いました。 精神は、それらをするための力、能力、潜在能力を、持っています。 それらは、そのものの異なった様相です。
1:27:09 K: ああ、分かります。
1:27:10 B: その能力は、生まれつきである、と仰っていますか。
1:27:12 R: ええ。生まれつき、生来的で、それは自体で、力を持っています。 なぜかとどこからかを、訊ねられません。
1:27:18 K: いいえ。私は、それを訊ねたいのです。 私は、精神が生まれつきの能力を持っていることを、受け入れないでしょう。
1:27:26 B: 考えるように、です。

R: ええ。
1:27:29 K:生まれつき(を受け入れない)とは、それは、遺伝子的ではない、遺伝ではない、という意味です。
1:27:34 B: いえ。生まれつきは、遺伝子的、という意味です。
1:27:36 R: いえ、いえ。それは正しくない。

K: では、それは何ですか。

R: 例えば、精神は、ちょうど私たちの眼のように、見る能力を持っています。
1:27:47 K: で、精神は力を持っている・・・

R: ・・・それらすべてのごまかしをし、 私たちが話しているそれらすべてのことを、するように、です。 記憶、反応、感受とそれらです。
1:27:58 K: ええ。精神は、これらをする活動的なエネルギーです。
1:28:04 B: また、物理的な構造も、身体中にありますね。 こう言うことは、良い類似であると、私は思います - 眼は、一定の可能性を持っているし、 この全身において、幼児はすでに遺伝のせいで、 考える能力を、すでに自らに組み込まれている、と。 

R: そうです。
1:28:23 K: この「組み込まれた」は、どのように、生じてきましたか。
1:28:27 B: 眼が成長したのと同じように、成長することによって、です。 そうね、眼は、ものすごく持っています・・・

K: それは、進化を意味しています。
1:28:33 B: ええ、進化です。 

K: 待って、待って。ゆっくり行ってください。 それは、まさに始まりから、それは進化してきた、 という意味です - ついに、私たちが今、猿であるまで、です。より大きな猿、です。 すみません!
1:28:48 R: またもや、私はそれを問います。 あなたは、ダーウィンの理論を、当たり前と取られました。
1:28:55 K: 私は、ダーウィンを取りません。 私は、これが世界で起きているのが、見えます。
1:28:59 R: いえ。あなたが、私たちは猿から進化したと、仰ったときです。

K: いいですよ。私たちは、不完全な人から、進化してきました。
1:29:11 または、完全な人から、進化していません。 私たちは、丘を登る代わりに、丘を降ろうとしています。 または、私たちは、坂を登っている。 ゆえに、私たちは、不完全な人です。
1:29:23 B: 私たちは、これらすべてのことについて、議論したいのかどうかと、思われます。 それらは本当に、確実でない詳細です。

R: ええ。
1:29:33 そういうわけで、私は、猿から進化することについてのその発言に、反対するのです。 私たちは、それについて知りません。
1:29:43 K: 私は知りません。私は、私たちがどのように進化してきたのかを、知りません。 ですが、私は、ごく単純なことを知っています - すなわち、 記録することなしに、思考はない、と。
1:30:01 R: それは、思考は記憶であることを、意味しています。
1:30:05 K: もちろんです。

R: ええ、そのとおりです。

K: 思考は記憶です - それは経験です。 それは知識です。蓄えられています - どこにか、私の足の親指にかは、大事なことではない。蓄えられています。 それは、挑戦されるとき、作動します。
1:30:26 B: まあ、私たちはまた、思考は、論理的に、記憶に沿って 推理する能力であるとも、言ってきましたね。 そのすべてをまとめて、です。
1:30:35 K: ええ。論理的にか、非論理的にか、考える、などです。
1:30:38 B: そのすべてが、あなたが能力と呼ばれたものです。 

K: ええ。
1:30:41 R: 私はその言葉を使いました。なぜなら、それは、より大きな分野を使う、包摂するからです。
1:30:48 B: ですが、あなたは、それはやはり記憶に依存すると、仰っています。
1:30:52 K: もちろんです。 その、思考の本質が、記憶です。
1:30:55 B: 記憶なしには、他の能力のどれ一つとして、作動できないでしょう。
1:30:58 K: もちろんです。 私は、あのものが見えます。 それは、樹と呼ばれてきました。 私はそれを、樹と呼びます。 それだけです。 それは、いつの時も、記録されます。 その記録なしには、 思考の始まりは、ありません。 思考はありません。 もしもあなたが、カトリックの世界に生まれて、 カトリックの世界により、条件づけられたなら、 あなたは、カトリック世界に沿って、考えているでしょう - キリスト、そうね、その事柄全体です。 で、あなたは、宣伝により、書物により、 司祭者により、つづくサーカスすべてにより、条件づけられます。 あなたが、インドやセイロンなどで、条件づけられるように、です。 で、この条件づけの起源、始まりは、何ですか。 なぜ人は、自分自身を条件づけるのか。 安全のため、危険を回避するためですか。 明白です。 私は、キリストを信じています。 なぜなら、私は、キリスト教世界で育てられてきたからです。 それが、私の条件づけですし、 この生は、悲惨な生、不幸せな生です。 ですが、私は、キリストを信じています - それは、私に、一定の慰め、強さの感覚を、与えてくれます - このおぞましいもの、世の中に向き合うように、です。 で、それは、私に大きな慰めを、与えてくれます。 それですべてです。 それは私に、この不安全な世界で安全を、与えてくれます。 心理的に、父が、私を見守ってくれている、と。 それですべてです。 ヒンドゥー教徒、仏教徒、イスラム教徒 - 彼らはすべて、同じ範疇にいます。 で、人間の本能的な応答は、安全だと感じることです。 子どものように、です。明白です。 ちがいますか。
1:33:54 R: それはどのように、訪れますか。 その安全の感覚、 安全の感じ - それの起源は、何ですか。
1:34:02 K: 母親と子ども、赤ちゃんは、 小さな安全を、持たなければなりません。さもないと・・・ 赤ちゃんは、安全を、持たなければなりません - 物理的な安全を、です。 食べ物を、とらなければなりません - 正しい時、正しい時刻に、その他すべて、です。
1:34:22 B: 赤ちゃんは、同時に安全の感じを、持ちますか。
1:34:25 K: たぶんね。私は知りません - 赤ちゃんではないので。 私はそれを憶えていませんが、私は、その子は、きっと安心を感じると、思います。
1:34:32 B: その子は、安心を感じます。
1:34:34 K: 安心だ、見守られている、静かだ、と。 その子が泣きはじめた瞬間、母親がそこにいます - おしめを替えるため、お乳をやるため、その他すべてです。 それのどこが、いけませんか。 その物理的な安全から、私たちは心理的な安全へ、向かいます - それをキリストが、私に与えてくれます。 それは、戯言なのかも、 不合理で、あらゆる種類のことなのかもしれません。 ですが、私はそれが好きです。少なくとも、私は、何らかの幻影に、慰めを持っています。 ですが、私はそれを、幻影とは呼びません。 あなたがそれを、幻影と呼ぶなら、私は、あなたを蹴飛ばすでしょう。 で、私たちは、そのようにつづけます。 あなたは、何かに自分の安全を、持っている。 私は、自分の安全を持っている。他の一人は、イスラムに、自分の安全を持っている、などです。 で、私たちの一人一人が、自分の特定の形の安全に、縋りつく - それが合理的で、健全で、理性的であるのかどうか、それは大事なことではない。
1:35:53 B: それは、楽しみの問いに類似しているように、私には思われます。 すなわち、あなたは、楽しみの感じを、登録します。 それから、それを築き上げようとします。
1:36:01 K: ですが、私は、あきらめられません。 私は、「まあ、私はキリストを手放そう」と言えません。 私は、「神様、私はできない」と言います。
1:36:07 B: それは、楽しみと同じです。 あなたは、楽しみをあきらめられません。
1:36:09 K: もちろんです。 もちろんです。同じ問題です。
1:36:12 S: それは、楽しみについてのほうが、きついと思います。 なぜなら、この頃、人々は、 あまり多くの困難なしに、自らの宗教をあきらめたり、 変更したりするかのように、思われるからです。 ですが、それが本当にそこに来るとき、私たちはみんな、 自分の楽しみをあきらめることに、はるかに反対します。
1:36:28 K: ああ、それは、すっかり違った事柄ですね。 身体的な楽しみは・・・
1:36:35 S: または、精神の楽しみは。

K: もちろんです。
1:36:40 R: ですが、私たちは、どこへ行っていますか。
1:36:43 K: 私たちはどこへ、行っているのか。 私はまだ、終了させていません。 私たちはまだ、生の中心的な主題について、議論していません - 動機、反応、後悔、痛み、悲しみの この甚大な複合体なしの行為とは、何ですか。 私は・・・人間は、これら怖ろしい混乱なしの行為に、生きられますか。 それだけです。 あなたは、「ええ、生きられる」と言いますね。 あなたは、私に語ります - あなたはキリスト教徒であるなら、 「神を信じなさい。キリストを信じなさい。 彼があなたを、これらより救ってくださるだろう」と。 私は、とても不幸せなので、「後生ですから、助けて」と言って、それに縋りつきます。 あなたは、Xであるなら、こう言います - 「私は、ブッダが言ってきたことすべてを、信じている。 私にとって、それで十分だ。 私はそれに慰めを得よう」と言います - 「私はブッダに帰依いたします」と。 で、私の行為は、報賞と処罰に、基づいています。 よろしいですか。 私は、これをするなら、涅槃に到るだろう。 私は、そうしないなら、地獄に行くだろう - それは、キリスト教と、その他すべての、です。 で、そのすべてを、船から放り出してしまい、 相当に智恵があり、教育を受けているので、 自らは、「それはすべて戯言だ」と言います。 私は、努力と後悔の陰もない行為が、 あるのかどうかを、見出したいのです。 理解されますか。 見出すことは、重要です - 理論的にとか、何気なくとか、ではない。 それは私にとって、燃えさかる問いです。 私が見出さなければならない、熱情的なことです。 なぜなら、私は籠の中、さもしい競い合いの中に、入りたくないからです。 で、私は、何をするのでしょうか。 すべての境遇のもとで、正しい行為とは、何ですか - 境遇に依存しないもの、です。 境遇 - 私の妻は、「これをしなさい」と言います。 「私は、あなたを愛しているが、あなたは、これをしなければならない」と。または、他の何かを、です。 私は、それらすべての影響力や圧力を、片付けてしまいます。 私は、それ自体で完全である行為が、 あるのかどうかを、見出したいのです。 で、私は、理解しなければなりません - 総体的であり、完全で、全体的であり、 部分的でない行為が、ありますか。 それは、私が自分自身を、断片においてではなく、全体的に観察できるか、という意味です。 または、断片をとおして、即座に全体が、見えますか。 で、全体的な行為が、ありますか。 私は、「ええ、あります」と言います- 明確に、です。 それは何なのかと、私に訊ねないのですか。
1:41:02 R: 私は、訊ねたかったのですが、私は、返事を待っていました。
1:41:05 K: それを訊ねなさい!
1:41:07 R: 私は訊ねたい - それは何ですか。
1:41:16 K: まず最初に、あなたは、自分の眼で樹を、全体として見られますか。 あなたは、自分の妻や夫や、自分のガール・フレンドや ボーイ・フレンドを、全体として、見られますか。 質問を理解されますか。 あなたは何かを、全的に見られますか。 または、あなたは、いつも部分的に見ていますか。
1:42:03 R: あなたが、「全的に」という言葉を、使われるとき、意味は何ですか。
1:42:07 K: 全包括的(ホリスティック)、全体的です。 待って。 何かへ、入らないでください。 私はあなたを、全体のものとして見られますか。 理解されますか。お待ちください。 私は人類を、私自身として、見られますか - すなわち、全体として、です。 それで十分です。 私は人類を、私自身として見られますか。 なぜなら、人類は私と似ているからです- 苦しみ、悲惨で、混乱し、 苦悶、恐怖し、不安全で、悲しみに打ちひしがれ、他の一人に似ています。 いいですね? で、人、人類を見る中で、私は、自分自身を見ます。
1:43:22 R: またはむしろ、逆に、です。 あなた自身を見ることにより、人類が見える。
1:43:28 K: それは私です。 あなたが、私は自分自身を人類として見る、と言うのかどうかは、大事なことではない。 そのとき、人類は私です。 私は、人類より分離していない。 私は、「私はエリートだ。私はこれだ」と言いません。 私は、残りの連中(ギャング)に似ています。 マフィアの一員ではなく、普通の連中です。 で、私は世界が、自分自身として見えます- それは、全体です。 それは単純ですよ。いや、単純ではない。 それは・・・それで、よろしいでしょうか。
1:44:18 B: 私は、思い迷っていました- あなたが仰ったことですが、 私たちは一瞬の間、その樹を考慮できるのかどうか、です。
1:44:23 K: その樹は、あまりに些細です。 私はそうしたくなくて・・・
1:44:26 B: あなたが、その樹が全体として見える、と仰るとき、それは明らかではありません。
1:44:30 K: 全体のもの。何かが、全体的に見えることですよ。
1:44:33 B: そのすべてが見えるだけ、ですか?
1:44:36 S: 私たちは、かすかな言語の困難に、はまっていると、私は思います。 なぜなら、私たちは、他の可能性を持っていないからです。 この、「私は全体として見る」 - 本当にそれは、自己、または自己の誤謬が、はっきりと見抜かれて、 崩されてしまったことを、意味しています。 なぜなら、さもないと、どれほど私が樹を全体として見ても、 それはやはり、私の思考であるからです。
1:45:02 K: それが、究極的なことです。

S: ええ。
1:45:05 K: しかし、あなたは、自分の夫、自分の妻や自分のガール・フレンドを、 全体のものとして、見られますか。 全的に、ですよ。 できるでしょう。 あなたが誰かを、全体的に見られるとき、それは、どのように起きますか。
1:45:32 S: ものすごい - だが、私のではない - 暖かさ、です。
1:45:37 K: いえ、いえ・・・

S: 暖かさが、入ってきます。
1:45:47 K: あなたは、あの樹を愛しているなら、それが、全体的に見えるでしょう。
1:45:53 S: ですが、私たちはまた、自らのいう愛が何を意味するのか、気をつけなくてはいけません。
1:45:57 K: マダム、それをとても単純なままにしておいてください。当面の間、それを知的にしないでください。 私たちは後で、そうするでしょう。 私は誰かを愛しているなら、 愛は、所有したがる、取得したがる、その他すべての戯言ではありません。 私は愛しているなら、全部のことが、そこにある。 その男や女の総体が、そこにある。 で、私は自分自身を、全体的に見られますか - 自分自身とは人類です。 私は、人類より異なっていません。 私は、個人ではありません。 それはすべて、まやかしです。 私は、残りの人類です。 私は、世界です。 私はそれを、全体として見られますか。 私は、共産主義者ではありません。 なぜなら、共産主義者もまたそれを言うからです。 ですが、私は、あの愚かな共産主義者ではない。

R: なぜあなたは、そのように共産主義を、否定したいのですか。
1:47:01 K: いえ、いえ、いえ。
1:47:03 R: あなたが共産主義者であるなら、何がいけませんか。
1:47:06 K: いえ、いえ。 あなたは誤解なさった。
1:47:09 共産主義者は、理論に満ちていて、 それら理論を実践に移し、 理論に沿って、人を形作っています。 私は、それについて話していません。 当面の間、それは放っておいてください。 私がそれを持ち込んで、すみません。 私自身を見つめるには、 私は実際に、残りの人類であるとき、 私自身を、全体として見られるだけなのです。
1:47:33 B: 本質において、ということですね。 本質的に私は、全体と同じである、という意味です。
1:47:39 K: 本質的に、基本的に、です。

B: 基礎的な性質が、です。
1:47:42 K: ええ。私は、長い鼻や短い鼻をし、 歪んだ眼や青い眼をしているかもしれません。 私は、それについて話していません。 基本的に、です。 

S: 人間です。
1:47:49 K: 人間として、です。 そのとき、個人的な努力もなく、 また、集団的な努力もない。 ですね?
1:48:18 自らが自分自身を、全体として見るとき、諸部分は、消え去ります。 しかし、私たちは、諸部分を収集することにより、全体が作られると、考えます。 で、私は自分自身が全体として見えるとき、諸部分は消え去ります。 ゆえに、自己はない。 私は、あのもの、あの樹が、完全に見えるとき・・・ 私は、非難しないなら、私が「それは私の樹だ。 それは私の庭だ」と言わないなら、 それを完全に見られるだけなのです。 いいですか。 私が言っていることを、理解されますか。

R: ええ、ええ。
1:49:15 K: で、私があの樹を愛しているとき、私はそれが、全体として見えます。
1:49:34 B: そのとき、それはすべての樹と類似していると、仰るのでしょうか。 私が自分自身を全体として見るなら、 私は、すべての人類と同じである、と言うように。
1:49:48 K: それで、すべての樹を、私は愛しています。
1:49:50 B: それは同じですか。

K: もちろんです。明白です。
1:49:52 B: それは、あの単一の樹に依存しない。 

K: ええ、ええ。

B: あなたが愛しているのは、この樹だけではない。
1:49:56 K: 私が愛しているのは、あの楡の樹ではない。
1:49:58 B: それはまさに、ここ、この場所において、です。
1:50:00 K: 樹々を、私は愛している - それらが、あなたの庭にあっても、 私の庭にあっても、他のどこかにあっても、野原にでも、です。
1:50:04 B: どこにあっても。
1:50:05 で、それは大事ではない - 特定の樹々は。
1:50:07 K: そうなんです。
1:50:09 S: それがどちら側であるかは、大事でない。 なぜなら、それらは同じであるからです。 私はその樹を愛していて、それが全体だと見える。なぜなら、私はそれを愛しているから。 それは大事ではない - その一つと他は同じである。

K: いえ、いえ。

S: これは同じです。
1:50:26 K: ごらんなさい。私は、全体的に見るという問いを、出しました。 なぜなら、断片化していない行為とは、何ですか - ビジネスマンとして、芸術家として、講演者として、 教授として、司祭者として、砕けてしまっていない、 全的である行為です。 「自己がないなら、あなたは、それを持つだろう」と、言わないでください。 私は自己を持っています。 自らは、自己に捕らわれています。 むしろ、自己はそこにある。

B: 自己を全体だと見る、すると私は変化するだろう。 あなたは、提言なさっています -
1:51:12 自己を全体だと見なさい。そのとき、それはそこにないだろう、と。
1:51:16 K: そのとおりです。
1:51:21 B: ゆえに、あなたはまた、自己を愛さなくてはならない、とも仰るのでしょうか。
1:51:25 K: それは、危険な発言です。 私は、それを言おうとして、 言わない内に、止めました。 なぜなら、それは・・・
1:51:33 B: 或る人々は、言ってきましたね - 知っています。
1:51:35 K: ええ。広告をする人々は、言います - あなた自身を愛しなさい、ご褒美を与えなさい、 あなたの髪を愛しなさい、このシャンプーを使いなさい、と。

B: 代わりに、自分は人類である、自分は人類を愛している、と言えるのでしょうか。
1:51:47 K: ああ、いえ、いえ。

B: それは、真実ではない。
1:51:48 K: さて、気をつけてください。
1:51:50 B: なぜなら、その類推は、制限されているように、思われるからです。
1:51:53 K: 類推は、制限されています。
1:51:56 S: 言葉も、それ自体ではそうです。

B: ええ。
1:51:58 K: さらに質問が、おありですか。 もはや質問をお持ちでないのなら、私たちは、止めるでしょう。
1:52:06 R: これらの問いには、終わりがありません。 ゆえに今日は、そのように終了しましょう - 他の人々、ナラヤンさんと他の誰かがお持ちでないなら・・・ ですが、あなたは、私の問いすべてに、答えてくださりました。 とても啓発的な説明すべてを、ほんとに、ありがとうございました。 また私は、ナラヤンさんに、この手配をしてくださったことに、感謝しなければなりません。
1:52:33 K: そして、ここの、これらすべての人々に、です。
1:52:36 R: もちろん、彼らはみんな一つです。
1:52:38 K: いえ、いえ。

R: 私は、あなたやナラヤンや、他のみなさんに、感謝するとき・・・
1:52:44 K: いえ、私は、ここのすべての人々に、感謝しました。
1:52:46 いえ。あなたは私に感謝し、ゆえにみんなに感謝するのではない。 私たちはみんな、感謝しています。
1:52:51 R: ええ、そのとおりです。

S: 私たちはみんな、互いに感謝します。