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BR7879CBS4 - 真理とは何なのか。
仏教学者たちとの議論 第4回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1979年6月28日



0:15 ギドゥー・ナラヤン: フェローズ・メータさんは、科学者であり、 二年前に、書物『宗教の核心』を著しましたが、 それは大変好評でした。 彼は昨年、一回ここにいらっしゃったが、彼はまた、ラーフラ博士をご存じです。 博士は、昨年の議論のために、ここにおられました。
0:42 クリシュナムルティ: 始めてください。
0:47 ワールポラ・ラーフラ: あなたが初めに、一言、仰ったらどうですか。
0:51 K: 私は、何を言うべきですか。 私は知りません。 みんなが加わりますか。
0:56 R: 私は、今日、あなたに一つのことを、お訊きしたいと思います。 そうね、私たちはみんな、真理について、話をします - 絶対的な真理、究極的な真理、 それを見ることと、それを悟ることについて、です。 私たちはいつも、それについて話をします。 もちろん仏教では、ブッダの教えによれば、 これらは、きわめて重要な中心的な点です。 それが、本当は本質です。 ブッダは、「唯一つの真理がある。 第二のものはない」と、言います。 「エカーム・ヒ・サッチャム・ナ・ディティヤマヴァティ」。それは明言されています。 ですが、これはけっして、肯定的な用語では定義されません。 すなわち、この真理はまた、涅槃とも同等視されます。 

K: 何と?

R: 涅槃(ニルヴァーナ)と。 

K: 涅槃と。

R: ええ。それは同等視されます。 時々、「真理」という言葉が、涅槃の代わりに、用いられます - 究極的な真理、絶対的な真理、です。 それから、涅槃は、ほぼ、否定的な用語以外では、けっして定義されません。 それが肯定的な用語で叙述されるなら、 それはほぼ、隠喩的に、象徴として、象徴的なやり方で、です。 とても美しい大乗経典が、あります。 もちろん、私が「大乗」という言葉を用いるとき、 みなさんは理解されると、私は思いますが、 元来の真正なブッダの教えが、ありました - 上座部として知られています。 それは、長老たちの伝統です。 それから、紀元前1世紀頃、その時期あたりに、 大乗が、成長しはじめました - それは、後の発展です。 ブッダの教えの自由な解釈です。 とても美しい経典が、書かれています。 もちろんそれは、後の作品であり、すべての研究者、信奉者が受け入れますが、 『維摩詰所説経』と呼ばれる、維摩詰(ヴィマラキールティ)菩薩の教えです。 彼の邸宅で、菩薩、弟子たちの集会が、あります - この大きな集会のように、です。 そこで、その集会の中で、問いが出されます - 「無二とは何か」と。 すなわち、無二(非二元性)は、絶対的な真理や、涅槃の別名です。 それはサンスクリットで、アドヴァヤ(無二)と呼ばれます。
4:01 K: サンスクリットで、アドヴァイタ(不二)。ええ。
4:04 R: いいえ。アドヴァイタ(不二)は、アドヴァヤ(無二)とは、違っています。 ええ。これら・・・ ヴェーダーンタの「アドヴァイタ(不二)」は、 あなたは世界である。何も違いはない、です。 「アハム・ブラフマスミ」、それが観念です。 仏教では、仏教の用語では、アドヴァヤ(無二)は、 有でもなく、無でもないことを、意味しています。 ブッダは「世間は二である」と言います。それはこういう意味です - 有るのか、あるいは、無いのか。 存在するのか、あるいは、存在しないのか。 正しいのか、あるいは、間違っているのか。 それが、ブッダの教えによるドヴァヤ(二)です。 ドヴァヤ(二)、それは二です。 ブッダは、世間はこのドヴァヤ(二)に依存する、と言います。 ですが、ブッダは、このドヴァヤ(二)に陥らずに、教えます。 それが、アドヴァヤ(無二)です。 そして、問いが出されました - 無二(アドヴァヤ)とは何ですか、と。 菩薩たち、弟子たちによる、 三十二の定義が、あります。 様々な、長い項目の一覧です。 そのとき、維摩詰(ヴィマラキールティ)が、この物語の主人公ですが、 彼らは、「それは、私たちの意見ではない。 私たちは、あなたの意見を知りたい」と言いました。 そのとき、経典は言います - それはとても興味深い。 維摩詰は、その問いに、雷鳴のような沈黙で答えました。
5:23 K: 全くです。

R: それなんです。
5:25 あなたが語るなら、それは二元性ではない。 私は、オックスフォードで、連続講義を行ったとき、 或る教授から、訊かれました - 「この非二元性、または真理を、定式化できますか」と。 私は言いました - 定式化した瞬間、それは非二元性ではない。 定式化した瞬間、それは二元性になる、と。 で、ちょうど彼らが、維摩詰に訊ねたように、今日、私はあなたに、お訊きします - 真理とは、何ですか。 絶対的な真理とは、何ですか。 究極的な真理とは、何ですか。 そして、あなたがご覧になる非二元性とは、何ですか。教えてください。 これは挑戦です。
6:18 K: 彼らはみんな、私たちを見ています。

R: ええ、ええ。そのとおりです。 みんな、見ています。むしろ、あなたを見ています。 

K: 私たちを、です。 あなたは、 実在と真理との間に、違いがあると、お考えですか。 そして、真理は、言葉により測量可能ですか。 もしも私たちは、実在とは何かと、 真理とは何かの間を、区別できたなら、 おそらくもっと深く、この問いへ透徹できるかもしれません。 実在(リアリティ)とは何ですか。 (ラテン語の語源の)レスという言葉こそが、物事、物を、意味しています。 物とは何ですか。 私たちは、思考が創り出してきた物事すべては、実在である、と言えるのでしょうか - 幻影、神々、様々なマントラ、儀式を含めて、です。 思考の動き全体、 それが世界に、もたらしてきたもの、 大聖堂、寺院、モスクと、それらの内容。 それは、実在です - マイクロフォンのように、です。 それは、思考により作られています。 それは、そこにある。現実的です。 ですが、自然は、思考により創り出されていません。 それは存在します。 ですが、私たち人間は、物を生産するために、自然を使ってきました - 私たちの住宅、椅子などなどのように、です。
8:45 R: 物事の本性(ネイチャー)、ということですね。 物事の本性。
8:50 K: 自然(ネイチャー)です。

R: ええ、自然(ネイチャー)です。
8:54 大地の美しさ、河、 水、海、樹々、 天空、星と吹く風と、それらです。
9:07 R: この物の美しさは、ないんですか。
9:10 K: ああ、これには美しさがあります。

R: そのとおりです。
9:12 K: ですが、私たちは言っていました - つまり、 美しい大聖堂、美しい詩歌、 麗しい絵画はすべて、思考の結果です。 で、私たちはそのとき、 何でも思考が創り出したもの、もたらしたもの、 組み立てたものは、実在である、と 言えるのでしょうか。 メアリー・ジンバリスト: あなたは、対象物の美しさについて、語られるとき、 それらの美しさの性質を、実在として含めておられますか。 または、対象物自体と、 美しさは、何か他の性質なのかもしれません。
9:54 K: 対象物自体が、美しいのかもしれないし、 それ自体では美しくないかもしれないものへ、 自らが、美しさを帰属させることも、ありえます。
10:02 Z: では、あなたが、この範疇に含めておられるのは、 その対象物の美しさの観念です。
10:07 K: ええ、どちらもです。ええ。 で、私たちは、そうできるのでしょうか。 その実在は、それがテクノロジーの知識などなどをとおして 創り出してきた物質的な物とともに、 それが創り出してきた幻影を含めて、 そのすべてが、実在です。
10:29 R: ええ。私はそれに、少し付け加えてもいいですか。 すなわち、実在(リアリティ)は- 私は言うべきでしょう。 私はあなたへ、この問題についての仏教的な態度を、説明しています。 仏教思想、ブッダの教えによれば、 相対的な真理や実在が、あります。
11:05 K: 真理と実在(という言葉)を、使わないようにしましょう。ただ・・・
11:08 R: ええ、実在と言いましょう。 実在は相対的ですし・・・
11:12 K: もちろんです。

R: ・・・絶対的です。 あなたが仰ることは、十分に受け入れられます。それが実在です。
11:19 K: すなわち、思考が創り出してきた物事すべてが、実在です。
11:24 R: 実在です。実在は・・・
11:29 K: 夢・・・

R: 実在です。夢さえも、です。
11:33 K: ええ。夢、感覚的な感覚に訴える応答すべて。
11:41 R: ええ。
11:42 K: テクノロジー的な知識の世界すべて、 文学、詩歌、絵画、幻影、神々、象徴として、 思考が組み立ててきた物事すべて - そのすべてが、実在です。 あなたはそれを、受け入れるでしょうか。
12:12 フェローズ・メータ: ええ。ですが、この「実在」という言葉は、指示的な意味を持っています - その第一の意味を、同じく含蓄とともに、です。
12:29 K: ええ。
12:30 FM: 幾世紀にもわたって、 人々は、実在(リアリティ)について、究極的な実在という含蓄の一つに立って、 より多く話す傾向が、ありました。
12:44 K: 知っています。知っていますが、私は、二つを、 区別、分離したいと思うのです - 真理と実在を、です。 さもないと、私たちは、いつの時も用語を、混ぜてしまいます。
12:56 FM: それは本当です。 スコット・フォーブス: あなたはまた - すみません -
13:01 あなたはまた、自然をも、実在に含めておられますか。
13:04 K: いいえ。 SF: いいえ。いいです。
13:06 K: ええ。あの樹は、思考により創り出されていません。 ですが、あの樹から、人は椅子などを、生産できます。
13:16 SF: ええ。すると、物事の第三の範疇が、ありますか。 すなわち、真理でも、実在でもないもの、です。 あなたは、自然をそう呼んで・・・
13:25 K: 自然は、思考により創り出されていません。 

SF: ええ。
13:29 K: 虎、象、鹿。 跳んでいくガゼル。それは明白に、思考により、創り出されていません。
13:40 R: それは、あなたが、樹を実在と取らない、という意味です。
13:46 K: 私はそれを、実在と取ります。 もちろんそれは実在です。 ですが、それは、思考により創り出されていません。

R: それは本当です。 するとあなたは、思考により創り出された物事だけを、 実在に含める、と仰るつもりですね。

K: ええ。
14:01 R: もちろん、それは、あなた自身の定義です。
14:04 K: いえ、いえ。私は、私たちが理解することを、はっきりさせようとしています。 これら二つの用語 - 真理と実在 - に、巻き込まれないように、です。

R: ええ、理解できます。 「真理」という言葉を、別の目的のために取っておいて、私たちは・・・
14:22 K: いえ。別の目的ではない。 実在を見つめましょう。 実在とは何ですか。 その壁は、実在です。

R: ええ。
14:36 K: これらランプは、実在です。 あなたがそこに座っている、この人物がそこに座っているのは、実在です。 自らが持っている幻影は、現実の実在です。
14:50 メアリー・ジンバリスト: ですが、そこに座っている人々は、思考により創り出されていません。
14:54 K: ええ、ええ。
14:55 MZ: では、私たちは、多かれ少なかれ、 生き物、自然、樹々、動物、人々のために、 もう一つの範疇を、定義できるのでしょうか。
15:04 K: 人間は、思考により、創り出されていません。
15:07 MZ: ええ。ですが・・・
15:08 K: ですが、彼が創り出すものは・・・MZ: ええ。 で、あなたが語っておられる実在の範疇は、 或る意味で、人が作ったものです。

K: 人が作ったものです。 戦争が実在であるように、です。 私たちは・・・あなたは、これについてちょっと躊躇っていますね。

R: ええ、ちょっと躊躇っています。 FM: ええ。私たちは、感覚をとおして把握され、
15:36 それから、頭脳により解釈されるすべては、実在と見做せるのでしょうか。
15:41 K: ええ、そのとおりです。
15:44 SF: 或る時に私たちは、話す中で、 実在と現実との間に、区別を付けました。 実在(リアリティ)は、何でも精神により創り出されたもの、 現実(アクチュアリティ)は、 何でも精神により、捕捉できるだろうもの、 何でも時と空間の中に、存在したもの、です。
16:00 K: ええ。
16:01 SF: それから、真理がありました。 さて、実在(リアリティ)は、現実(アクチュアリティ)の一部でした。 言い換えると、樹は、現実でしたが、実在ではなかった。
16:14 K: なぜあなたは、区別したいのですか・・・
16:16 SF: さもないと、たいへん混乱するからです。 なぜなら、私たちが、そうね、あなたと私は、人々として、 私たちは、思考により創り出されていない。 それで、私たちは実在ではない。
16:25 K: あなたは、現実、実在、真理を、分離したいと思う。そういうことですか。
16:31 SF: まあ、私はそれを、前に私たちが使った便利な言葉の定義として、 提示するだけです - それで、間の区別ができるように、です・・・
16:39 K: 私たちは、現実は、今起きつつあることである、と言うのでしょうか。
16:49 FM: ええ。それは、その良い表し方です。 そこに生ずる点は、こうです - 私たちは、今起きつつあることの総体を、 把握可能なのか、です。 私たちは、それの一部分のみを、把握します。
17:09 K: ええ。ですが、それは、違った点です。 それは違った・・・ 私たちは、それに入られますが、 実際に起きつつあること、 起きつつあることは、現実的です。 それだけです。 私たちがその全体か、その部分を 理解するのか、了解するのか、などではない。 起きつつあることは、現実的なことです。 FM: ええ。 それは事実です。
17:35 K: それは事実です。 FM: ええ。
17:37 K: それで、あなたたちは、これらに、何と仰りますか。
17:42 R: 私はまだ、躊躇っています。 私は、もっと見ようと待っています。
17:52 K: で、精神は、現実的なものを見られますか - 不完全にか、完全にか、それは当分の間、論点ではありません。 そして、実在から真理へ行けないことを、 精神は、把握か、知覚か、観察できるのか、見えるのかどうか、です。
18:28 ステファン・スミス: それはたぶん、すっかり大きな飛躍ですね。
18:38 K: 私たちは、このようにもまた、表せるのでしょうか - あなたが指摘なさったように、すべての感覚的な応答は、 思考の始まりである、と。 FM: ええ。
18:59 K: 思考は、その複雑な動きすべてとともに、 起きつつあることです - 今、私たちが話しているときに、です。
19:12 FM: ええ。 

K: いいですか。 FM: ええ。

K: そして、起きつつあることは、現実的なことです。
19:21 起きつつあることの解釈や理解は、 思考に依存します。 FM: ええ。

K: そのすべては、幻影とその事柄全体を含めて、 実在です。
19:35 FM: ええ、ええ。そのとおりです。

K: すると、私たちが、当分の間、それに同意するか、受け入れるなら、
19:51 問いが生じます - 精神は、 すべての感覚、現実などのネットワークですが、 それは、真理とは何かを、把握できますか。 見られますか。観察できますか。
20:14 FM: 精神が、その条件づけすべてより自由でありうるという条件を付けて、です。
20:19 K: 私は少し後で、そこに来るでしょう。 ですが、それが問題です。 絶対的な真理が何であるかを、見出すには、思考が、理解されなければなりません。 思考の動き全体と本性が、入られ、 観察されなければなりません。 それは、自らの相対的な所を、持つ。 すると、そのとき、精神は、絶対的に静まります。 おそらく、その中から、その静けさの中、 真理が知覚されます - それは、言葉により、測量されることになりません。
21:10 FM: ええ。そこで私は同意します。 完全に、です。
21:13 R: ええ、十分に。 ええ、私はそれに同意します。
21:15 K: さて、これらが、二つなのでしょう。

R: ええ。

K: 人間は、思考の動きに、捕らわれています。そして彼は、投影します・・・ この動きは、真理が何であるかを、投影します。
21:37 FM: これが、人がやる間違いです。
21:39 K: もちろんです。 私は来ようとしています・・・ 彼は、ここより、投影します。 真理とは何かを見つけたいと望んで、です。 または、自らが真理であると考えることを、投影します。 そして、真理は、違った言葉に表せます - 神。 インドでそれは、ブラフマン(梵)と呼ばれます。 または、涅槃とか、解脱とか。そうね、それらの事柄です。 FM: ええ。

K: すると、私たちの問いは、こうです - 精神は、測量するのを止められますか。
22:26 FM: それは、こう言うことです - 現在、個人としての私たちの一人一人において、機能するような精神が、です。
22:34 K: ええ、人間として、です。 FM: 人間として、です。
22:37 K: 測量は、私たちの教育的、環境的、社会的な条件づけ全体です。 FM: ええ。
22:48 K: 同意なさるでしょうか。

R: ええ。
22:55 K: すると、測量とは何ですか。 FM: 制限です。
23:01 K: いえ。測量とは何ですか - 測量するとは。 私は、一枚の布を測量します。 または、住宅の高さを測量します。 ここから一定の所への距離などを、測量します。 測量は、比較を意味しています。 よろしいですか。 

R: ええ。

K: 私は話しつづけています。なぜみなさんが、加わらないのか、私には分かりません。
23:32 S・スミス: これらにはまた、心理的な測量も、ありますね。
23:34 R: ええ、ええ。

K: 物理的な測量と 心理的な測量が、あります。 自分自身を、心理的に誰かと比べて測量します。
23:48 R: ええ。 FM: ええ。
23:51 K: それで、この常なる比較の測量が、ある - 外的にも、内的にも、です。 よろしいですか。 私が、講義を行っています。 その観念は何ですか。
24:11 R: まあ、私があなたに質問をしました。

K: はい。
24:15 R: 彼らが維摩詰に質問をしたように、 私はあなたに質問をしました。
24:20 K: 質問は何ですか。

R: 非二元性(無二)とは何ですか。 真理とは何ですか。

K: ああ、いえ、いえ。
24:26 R: あなたは、説明なさっています。
24:27 K: 思考が測量をしているかぎり、二元性があるにちがいない。
24:34 R: 絶対的に、です。 それは事実です。そのとおりです。
24:39 K: さて、この条件づけは、どのように訪れたのですか。 理解されますか。 さもないと、私たちは、これを離れて、あれへ動けません。 この常なる測量、比較、模倣、順応は、どのように - そうですね、測量の動き全体は、どのように・・・ なぜ人は、これに捕らわれてきましたか。
25:11 R: 測量全体が、自己に基づいています - 測量の使用がなされて・・・
25:24 K: ええ。ですが、それは、どのように訪れたのですか。 人間たちは、どこに生きていても、 なぜ、この測量に、この条件づけをとおして、条件づけられていますか。 私は、自らは、この測量の本源を見出したいと思います。 よろしいですか。 FM: ええ、ええ。
25:47 ステファン・スミス: その一部は、観察の果実だと思われます。 なぜなら、生の二元性を、夜と昼、男と女、季節の変化と、 この種の物事ということに立って、観察するからです。 それは、一定の種類の対比です。 見かけの一定の対比が、あります。
26:07 K: で、あなたが言っている・・・

SS: で、ゆえに一種の対比や比較があると 言うことは、自然な歩みに、思われるかもしれません - 人自身の生において、適用可能であるものが、です。
26:15 K: 闇、光、雷鳴と静寂が、ある。

SS: ええ。
26:22 T.K.パーチュリ: 思考は、測量するには、静止点が必要だと、思われますが、 それ自体は、常に動いています。 継続的な流動や動きの状態において、それは測量できません。 だから、それは、動かしえない静止点を、創り出す - それが、自己の中心と取られます。 そこからのみ、測量できます。

K: ええ。そうです。 つまり、英語での「より良い」、「より大きい」という 言葉こそが、測量です。
26:59 R: ええ、確かに測量です。 確かに測量です。
27:03 K: で、言語自体が、測量に関与しています。 さて、自らは見出すべきではないのでしょうか - 私はただ訊ねています - この測量の本源は、何ですか。 なぜ人は、これを採用してきましたか - または、生活の手段として、です。 私の問いに、付いてきておられますか。 FM: ええ、ええ。
27:35 K: 夜と昼、高い山、低い谷、 背の高い人、低い人、女、男、子ども、老齢は、分かります。 物理的に、これらすべての測量の状態が、あります。 また、心理的な測量も、あります。 それが、私が話していることです。 距離などの単なる物理的な動きより、はるかに、です。 なぜ人は、この測量の中に、保たれてきたのですか。
28:17 ステファン・スミス: たぶん人は、或る程度、それが前向きの道である、と考えるのでしょう。 なぜなら、あなたが農民であり、一定の形で収穫するよう植え付けるし、 この種の結果が得られるのなら、 来年は違った形で、それを植え付けて、 そのより良い結果を、得ます。
28:32 K: ええ。で、それは時です。

SS: それは時です。
28:35 K: もうちょっと、つづけてください。時。

SS: それは一種・・・それは、反省する能力、
28:47 経験をしたり、経験について反省したり、 その経験の中から、何か、より良いものを産出する能力を、含んでいます - たぶん、何が、そうね、持つには何が良いのか、 何がより良いのかとか、物事の正しい状況が何かについて、 確立された概念、ということに立って、です。
29:05 K: それはもちろんですが、私はそれより、もう少し進みたいと思います。 すなわち、人はなぜ、前進の手段として、時を使ってきたのか。 私は心理的に話しています - 言語を学ぶために必要な時、ではありません。 一定のテクノロジーを発達させることなどなどには、時が必要です。 T.パーチュリ: おそらく、それ自体のための、思考の安全の必要です。
29:37 K: いえ、時 - それは測量です。
29:43 FM: あなたは、こうお考えですか - 私たちの傾向は・・・ それは、事実でもって始まる - 大きさで、分量などでの違いの物理的な事実でもって、と。
29:58 K: それが、私が取りかかりたいことです。
30:00 FM: ええ。私たちは、またそれを、類推的に心理的過程にも、適用します。
30:05 K: ええ、ええ。 または、測量なしには、テクノロジーは、何もなかったでしょう。
30:16 FM: それは本当です。
30:19 K: よろしいですか。 みなさんはどうなのか・・・
30:21 G.ナラヤン: 科学と数学において、それが前進するにつれて、 測量は、ますます精妙になります。 測量での各々の精妙化、改良は、 さらなる前進の歩みに、コンピューターなどに、つながります。
30:34 K: 私たちは、それを言っていません・・・私たちは、それを否定していません。
30:39 N: ええ、或る意味で、測量と、測量の改良は、 科学とテクノロジーにおいて、一定の種類の前進に、つながります。

K: もちろんです。 私たちは、それを言いました。
30:49 R: ですが、私たちは、さほど物理的な測量について、話していません。 むしろ、心理的な測量について、です。
30:54 K: ええ。 人はなぜ、心理的な時を、 自己成長、自己拡大の手段として、使ってきましたか。 人はそれを、「より良くなること」と呼びます - より尊くなる、啓明、覚りを達成すること、と。 そのすべてが、時を含意しています。
31:19 N: メータが言うように、それは、持ち越されていますか - 測量の印の、日々の生活から、 心理的な分野へ。 それは持ち越されていますか。またはそれは、これへの関連なく、 心理的な分野に、存在していますか。
31:37 K: それが、私たちが議論していることです。 心理的な進化が、そもそもあるのかどうか、です。 スコット・フォーブス: 私たちは習慣の中から、心理的な分野に
31:52 測量を適用しはじめた、と言えるのでしょうか。 なぜなら、それは、私たちが物理的な分野に使ってきたことであるからです。 だが、私たちはまた、この移行を行ってこられた。 こう考えるのは、とても快適であるからです -
32:03 K: もちろんです。

SS: 私は今、めちゃくちゃかもしれないが、
32:05 後で私は、だいじょうぶになるだろう、と。
32:07 K: これについて、はっきりさせましょう。 テクノロジーの、物理的な水準において、私たちは、時が必要です。 私たちは、言語を習得するために、時が必要です。 住宅を建てるために時が、ここからそこに行くために時が、 または、テクノロジー、科学の発達としての時が、です。私たちはそこで、時が必要です。 で、それについて、はっきりさせましょう。 で、私は、他の何かを訊ねています。 私たちは、他の何かを訊ねています。 すなわち、 私たちは、心理的にそもそも時が、必要ですか。
32:48 シャクンタラ・ナラヤン: 時を創り出すのは、何ですか。
32:52 K: 思考です。思考が時です。
32:55 SN: 思考は、それと何か関わりが、ないですか。
32:58 K: すなわち、私たちは言っています - 時は、動きなのでしょう。 で、思考は動きです。 思考は動きです。時は動きです - ここからそこへ。 自分は貪欲で、妬んでいる。 私は、それより自由になるために、時が必要です。 物理的な距離と、心理的な距離。 私は、問うています。自らは、問うています -それが幻影でないのかどうかを、です。 物理的な距離が、ではなく、 心理的な距離が、です。 それを、とても簡潔に表すなら、 心理的に、明日はありますか。
33:55 FM: 予期ということに立ってだけです。
33:58 K: ああ、それに立って・・・なぜなら、思考が、「私はしたいと望む」と言うからです。
34:04 FM: 思考に付け加えて、 私たちの物理的な経験の事実が、あります - 昼と夜の、です。 ゆえに、「明日」、「今日」という言葉、です。
34:12 K: 私たちは、きわめてはっきりと、それを言いました。 昨日、今日、明日があります。 それは実在です。それはまた、測量です。 ですが、私たちは訊ねています - そもそも、心理的な時が、ありますか。 または、思考が、時を、心理的な時を、創案してきましたか - 自らは、或る種の安全を達成できるとか、 それに生きられるとか、感じるために、です。
34:52 R: 時とは何ですか。
34:54 K: 時ね。時は動きです。

R: ええ。 時は、途切れない因と果の継続に、他なりません。 それは動きです。

K: 動きです。私たちは言いました。 因、果。果は因になる・・・因は果に、などなどなどなど、です。
35:13 R: そうです。それが時です。 私たちは、その動きへ「時」と呼ばれる言葉を、付けます。
35:21 K: ええ。それは動きです。 今、12時5分です。 それは動きであり、ついに1時になる。
35:28 R: ええ、それは動きです。

K: それは動きです。
35:30 R: 因と果の動きで、継続的です。
35:33 K: ええ。それが、時の一つの様相です。 また、物理的距離である、時の様相です - ここから、 私は、ロンドンへ行かなくてはいけない。 そこに着くには、時が掛かります。
35:48 R: ええ。それは、時のもう一つの概念です。
35:52 K: もう一つの時です。私たちは、時の様々な局面を、見つめています。
35:56 R: ええ。もう一つの時です。
35:57 メアリー・ジンバリスト: 思考自体は、時を含意する、と仰るのでしょうか。 なぜなら、精神の行為が・・・

K: もちろんです。

MZ: ・・・思考を参照して、思考過程を経て行くのは、 たとえそれは、きわめてすばやくて、少量の時間だとしても、掛かるからです。 それはやはり時です。
36:13 K: 確かに。なぜなら、思考は記憶の応答であり、記憶は時であるからです。
36:21 MZ: すると、自らは・・・

K: ええ。記憶は時です。 よろしいですか。 FM: ええ。
36:30 K: で、どうぞ、行ったり来たりをしないでください。 一つのことで通しましょう。すなわち、 物理的な時が、ある - 昨日、今日、明日。 動きとしての時です。
36:43 FM: 年代順の時と呼ばれるものです。

K: 年代順の時です。 いいです。それを年代順の時と呼びましょう。 また、距離から、としての時も、です。 また、因、果のための時 - ドングリと(オークの)樹。 山に登る - 時です。 で、私たちは、時は物理的に存在する、と言っています。
37:14 FM: ええ。

K: よろしいですか。 物理的に、です。 赤ちゃんが人に成長する、など。 で、時は必要です。時は存在します。 それは現実です。それは実在です。 私は問うています。 私たちは、問うています - 心理的に、そもそも時があるのかどうか、 または、思考がそれを、創案してきたのか - 安全を達成する手段としての時か、 あるいは、それは、自体を完全に変容させるのを、怠けています。
37:59 FM: 即時に、です。

K: 即時に、です。 で、それは、「私に時をくれ」と言う。 「心理的に強くなるための時を、私にくれ」と。
38:11 FM: 精神が強くなる。

K: 強い。心理的に強い。 心理的に、私に時をくれ - それで私は自分の怒り、自分の嫉妬を取り除くだろう、と。 それが何であっても、です。 私は、それより自由になるだろう、と。 で、彼は時を、心理的に何かを達成する手段として、使っています。

MZ: ですが、そのとき、この場合に、
38:38 「心理的に」という言葉の使用について、お訊きしなければなりません。 なぜなら、思考過程が関与しているなら、 私たちはちょうど、時は思考の中に暗黙裡にある、と言いましたし、 どうしてあなたは、心理的に思考なしでいられますか。
38:54 K: 私たちは、それに来ようとしています。
38:56 MZ: または、この議論の中での心理的な領域は、 思考の外側にありますか。 思考の一部ですか。 または、どちらか一つでありうるのでしょうか。
39:05 K: 心理全体が、思考により組み立てられていませんか。
39:15 ステファン・スミス: ここに問いがあるように思われます - そうであるのか、そうでないのか。
39:19 K: 私は訊ねています - ゆっくり行ってください。 心理全体が、「私」でないですか。
39:25 SS: それが心理ですか。

K: それが、その一部が、「私」ではないですか - 私が考えること、私が欲しいこと、私が欲しくないこと、私が願うこと、 私は願う・・・など、「私」の動き全体、 自己中心的な動きは、思考により、組み立てられています。
39:42 MZ: そうであるなら、では、どの心理的な動きにも、 関与した時がないことは、可能でしょうか。
39:50 K: 私たちは、それへ入ろうとしています。 私は初めに、私たちの問いが理解されるよう、はっきりとしたいと思います。
39:59 N: あなたは、望みと切望との間に、区別をされるのでしょうか。 なぜなら、多くの人々は、切望することは、何か尊いことであると、言うが、 望むことは・・・
40:11 K: 切望することは、時です。
40:13 N: ええ。時がある。ですが・・・

K: 望みもそうです。ええ、私は望みます。
40:17 N: ええ。ですが、切望には、何かとても正しいことの観念があるように、思われます。
40:24 K: 私は、神になりたいと切望します。 それは、バカげています。
40:29 N: 宗教的な尽力全体には、切望がある - あなたは、そう仰るのでしょうか。
40:35 R: もちろん、宗教的伝統には、いつも切望があります。 私たちが議論することは、こうです - 私は、論点は、 考えることや時なく、真理を見られるのか、 真理を見ることは今、この瞬間であるのか、または、 あなたが、より良くなるまで、それを先送りするのかである、と思います。
40:57 K: ああ、いえ。分かりますね!

R: それが問いです。
41:00 K: それが全部の・・・あなたが、「より良く」という言葉を導入した瞬間・・・
41:05 R: それが、私が言うことです。

K: ええ、もちろんです。
41:07 R: それが、私が言うことです。 それが、別の問いが生ずるところです。 さて、問いはこうです - それは真実です。 あなたはそれを今、見ます。
41:20 K: ああ、いえ、いえ。私たちはまだ、真理へ来ていません。 私はよく気をつけています。私はまだ、真理の世界に、入りたくありません。 自らが考えるのが、論理的で、 健全で、理性的であることを、はっきりしたいのです。 あるいは、それは、結論に到るのか、です- すなわち、幻影上のものに、です。 それで、時のこの本性全体を、 心理的に、検討したいのです。 それが、私が話しているすべてです。 心理的に、明日がないのなら、 私たちの行為全体が、違っています。 ですが、心理的に私たちは、明日は重要である、と言います - 明日、私はこれをするだろう、 明日、心理的に、私は変化したいと望む、と。 私はそれを、問うています。 なぜなら、私たちの切望、望みすべて、 あらゆる物事が、未来に、基づいているからです。すなわち、時に、です。
42:50 FM: ええ。
42:54 N: すると、あなたは仰るでしょう - どの切望も、どれほど尊くても、 実在の分野にある、と。

K: 思考の分野にある。ええ。
43:04 FM: ええ。なぜなら、それは定式化であるからです。
43:07 K: 思考による定式化です。 FM: そのとおり。 で、私はこう言うのは、正しいのでしょうか- あなたは、心理的ということに立って、 時の要因より、全的に自由であることに、関心を持っている、と。
43:25 K: そうです。 さもないと、私は、捕らわれています。 私たちの精神はいつも、円周の中で生きています。
43:32 M: ええ。それは真実です。 私たちは、過去へ、繋がれています - 化石化したものへ、です。
43:40 K: ええ。で、過去が現在を修正して、進んで行く。 この過去が自体を修正して、未来になるのが、時です。 で、「私は、より良くなるだろう」、「私は理解するだろう」、 「私はやってみるだろう」と言うとき、 これらすべてが、時に関与しています。 で、私はそれを問います - それは単に、自らのための・・・思考の創案なのかどうか、です - 理由が何であっても、私たちは入ってゆけます。 で、それは幻影のようですし、 で、明日はないのです。
44:40 FM: 心理的なことに立って、です。
44:43 K: もちろんです。私たちはそれを、きわめてはっきりと言いました。 で、自らが妬んでいるなら - それは、感覚的な応答です。 ゆえに、思考が、この妬みを、創り出してきたのです。 さて、私たちは言います。 一般的に、私たちは言います - その妬みより自由になるために、私に時をください、と。
45:13 FM: ええ。私たちが、これは妬みであるのを知覚する、という条件つきで、です。
45:17 K: ああ、そうです。私は妬んでいます。 あなたのほうが、大きな住宅を持っている。 より良い衣服を着ている。より多くお金を持っている、その他すべてです。 あらゆる人が、この妬み、この嫉妬、この敵対を、知覚します。 で、妬んでいて、 即座にそれから自由であることは、可能でしょうか - 時に介入させずに、です。 それが、論点全体です。
45:54 FM: 妬みとは、感覚をとおして知覚されるものへの、 心霊的な反応ではないですか。
46:05 K: ええ、そのとおりです。
46:06 FM: 感覚の機能は・・・
46:11 K: ・・・現実的です。 FM: ええ。それらは・・・ 現実の、物理的な条件により、決定されます。
46:30 K: ええ、明白です。
46:32 FM: で、感覚的活動に、心霊的な反応が、つづきます。 そこには、私たちの中での、楽しみ、痛みの駆り立てが、関与しています。
46:45 K: 明白です。 あなたが、大きなすてきな車を、運転しているのが、見えます。 私は小さな車を運転しています。 それで、比較があります。
46:57 FM: ええ。 比較は確かに・・・すみません、どうぞ。 比較は、部分的には、他の人たちが私たちの前に置いたものをとおして、生じます - これは、あれより良い、と。

K: 確かに。あれより良い。
47:17 FM: こちらのほうが、快いとか、こちらのほうが、快くないとか。
47:20 K: ですが、それは子どもの頃から、始まります。
47:23 FM: で、私たちは、心理的な習慣に入ります。
47:26 K: ええ。それは、子どもの頃とともに、始まります。 FM: ええ。
47:29 K: おまえは、試験で 兄さんほど良くない、と。 そして、教育体制全体が、自分の能力への、 この比較的な評価に、基づいています。 FM: ええ。

K: 今、私たちは進んでいます。 そうね、私たちは動いて、離れていきます・・・
47:48 R: ええ、主なことから、ね。
47:50 スコット・フォーブス: ええ。私たちは、 何でも測量と思考に関与しているものは、測量と思考を取り除けないとの 事実へ、来ませんでしたか。
48:06 K: 初めにそれは、それの現実性を、悟らなければなりません - 「ええ、私はそれを、知的に理解した」と言わずに、です。
48:15 SS: それを、思考でもって悟るのですか。
48:19 K: いいえ。
48:20 SS: すると、何が・・・
48:21 K: 待ってください。私たちはそれへ、ゆっくりと来ようとしています。待ってください。 私たちは、自らが心理的に時を使ってきたこと、 それで、時の心理的な使用が幻影であることが、見えますか。 それが、初めに私が見たいことです。 私たちは、その点について、はっきりしなければなりません - 私は天国に到るだろう。 私は覚りを開くだろう。 私は結局、様々な生の連続をとおしてか、 または一生にか、 涅槃、解脱、これらを達成するだろう、と。 そのすべてが、心理的な時です。 私たちは、そのものが幻影であるのかどうかを、問うています。 それが、幻影であるのなら、それは、思考の一部です。
49:18 SS: そうです。今、私たちは、思考を使えません - これらを見るために、私たちは、使いません。
49:23 K: いえ。待ってください。 私たちは、言語的にすら理解しますか。
49:27 SS: たとえ思考でもって、でも?

K: 思考でもって。 今の伝達は、私たちの間で、言葉をとおして、です。 それら言葉は、蓄積されてきた、などなどです。 私たちはどちらも - 見たところ、当分の間、私たちはどちらも、英語で話します。 私たちは、その意味を理解します。 さて、私たちは、見ますか - 論争をとおし、説明をとおし、 合理化をとおして、ではなく、見ますか。 すなわち、思考が、何かを達成する手段として、 この心理的な時を創り出してきたことを、です。 メアリー・ジンバリスト: で、私たちは、それは、やはり思考過程の内だ、
50:16 やはり思考の領域の内だと、見られます。

K: さて、待って。そうですか?
50:20 MZ: それが、あなたが話しておられる、見ることですか。
50:22 K: いえ。私はそれに、来ようとしています。 私はそれに、ゆっくりと来ようとしています。 私は、そこへ導いていきたいと思います。 さもないと、それははっきりとしないでしょう。 私は、だいじょうぶですか。私たちは、互いに付いてきていますか、どうですか。
50:33 R: ええ、私は付いていっています。
50:34 K: これは正確ですか。
50:37 R: 私はまだ、それを言えません。 私はまだ、あなたに言えません。 なぜなら、私たちがどこへ行っているかを、私は知らないからです。
50:45 K: ああ、私も、自分がどこに行っているかを、知りませんが、これは事実です。
50:49 R: ええ、ええ。そのとおりです。 すなわち、私は見守っています。
50:53 N: また、あなたが仰っていることを把握するには、 何か困難があるとも、私は思います。 なぜなら、自然には、成熟と成長があるからです - 時をかけて、です。
51:03 K: 私たちは、それを通ってきました。 ナラヤン、それに戻らないでください。

N: ええ、私はそれへ戻って行っていません。 ですが、無意識的に、それと同一視がされます。 人間たちには、時をとおして成熟と成長が、ありますか。 時をとおして、或る種の成熟は、あります。
51:18 K: 私たちは、それを言いました。
51:19 N: ええ。それで、そこに填まり込んでしまいます。
51:22 K: 自らは、自己改善としてのこの時の観念に、 取りすがり、執着しています - 物理的に、だけではなく、心理的にも、です。
51:36 N: 私は、自己改善と言うことさえもしません - 成熟です。
51:40 K: いいえ。
51:41 N: 一種の自然な・・・FM: ・・・成長。

N: 自然であり、自分自身を自然と比較する - 至るところに見られるように、です。
51:48 K: ええ。ゆえに - 待ってください。 あなたのいう成熟とは、どういう意味ですか。 私たちは、その言葉「成熟する」に、違った意味を、持っているかもしれません。 樹は、一定の年齢で、成熟しています。 人間は、身体的に一定の年齢で、成熟しています。 そして、成熟したチーズ!
52:14 N: ええ。全体です。蕾から果実。
52:19 K: ええ。果実は、摘み取られるべく成熟している、などなどなど、と。 ですが、心理的な成熟が、そもそもありますか。 それが、私の論点全体です。 T.パーチュリ: おそらく、生の要因が、あります - 精神的な水準である、知的な成熟と、・・・
52:39 K: ええ。同意です。あなたは今・・・
52:43 MZ: 幻影のような世界の内に、 心理的に、一定の成熟がある。 が、それはやはり思考と時に、基盤を置いています。
52:53 K: ええ。ですが、私は訊ねているだけです。マリア、 私たちは、言語的にすら、ゆえに知的にも、はっきりと理解しますか - 私たちが、変化をもたらすための心理的な触媒として、 時を使ってきたことを、です。 いいですか?
53:17 R: それは・・・
53:18 K: 私は、その触媒を問うています。
53:21 FM: 探究してもよろしいですか。 あなたが、「私たちは、心理的な時が幻影であることが、見えますか」と仰るとき、 それは正確には、どういう意味ですか。 あなたのいわれる「見る」とは、どういう意味ですか。
53:34 K: 私は来ようとしています・・・見る - 私がいう、「見る」というその言葉は、 思考の介入なく観察する、という意味です。
53:45 FM: それは、心理的な時が幻影であることを、 事実として、完全に意識する、 完全に気づく、という意味です。
53:53 K: ええ。これを見るのは・・・私が蛇を見るように、です FM: ええ。

K: 私はそれを、縄と間違えません。
54:02 FM: ええ。で、あなたは、同意されるのでしょうか - それには・・・ それには、あなたの気づき、あなたの意識の様態の 完全な変容が、関与していることに、 同意されるのでしょうか。 あなたは、本当に何かを意識するとき、なくていい・・・
54:17 K: 今、ちょっと待ってください。 またもや、「意識」と「意識する」という言葉は・・・
54:22 FM: それらは、難しい言葉です。

K: それらは、難しい言葉です。 私はこれが見えます。 私はこれが見えて、それをマイクロフォンと呼ばないことが、できますか。
54:40 M: ええ。

K: そう呼ばないで、形を見る。 何の省察もなく、ただ観察する。
54:48 M: 全くです。それに名づけることなく・・・

K: それに名づけること、その他すべてなく。
54:51 M: 分析することなく。

K: 分析することなく。
54:53 FM: 言い換えると、見ることは、見ること全体であって・・・
54:56 K: 見ること。
54:58 FM: ・・・ほぼ、あなたは、見えるものであるとの意味で。
55:01 K: いえ、いえ。 そのとき、それは二元性になります。 あなたはそれになる - いいえ。
55:06 FM: いえ、あなたは、それにならない - あなたがそれに溶け込む、という意味では、です。 ですが、あなたは、統一的な全体ということに立って、目覚めている。
55:19 K: ちょっとお待ちください。 これらはまたもや、かなり難しい言葉です。
55:22 R: いえ。私は、それが、彼のいう意味であるとは、思いません。ええ。
55:27 K: 観察する、というのは - 初めに、それを、一般的に理解されているように、見つめましょう。 樹を観察する。私はそれに名づけます。 FM: ええ。
55:40 K: 私はそれが好きか、好きでないか、などなどです。 ですが、私たちがいう観察、見ることとは、 初めに聞くことです。 そして、それを抽象化して、観念にし、 それから観念が見る、のではない。 FM: 全くです。

K: お分かりになるのかどうか・・・

R: ええ、ええ、ええ。
56:12 K: 例えば、 私は少し前に、 心理的に、時はない、と言いました - 心理的な時は、思考の創案である。 幻影なのかもしれない、と。 さて、それを解釈することなく、聞く - 「仰るそれは、どういう意味ですか」とか、それを合理化したり、 「私は理解できない」「私は理解できる」と言うことなく、 ただ、その発言を聞く。 そこから観念を作らないで、 ただ聞く。 そのように聞きながら、同じように、観察し、見る。 あなたは何と仰りますか。
57:22 R: 私は、あなたにお訊きしたい - あなたは私たちに、何を語ろうとしていますか。
57:26 K: 私は、こう言おうとしています - 真理は、時をとおして、とうてい知覚できない、見られない、と。
57:43 R: そうです。
57:45 K: ああ、ちょっと待ってください。 あなたは同意できません。
57:48 R: 同意ではない。私はそれを見ます。 そういうわけで、私は、あなたにお訊きしようと待っていたのです - あなたは何を仰ろうとしていますか、と。

K: 私は、こう言おうとしています -
57:59 私は、言おうとしていません。 私は、言っています。
58:02 R: そのとおりです。もちろんです。 あなたが仰りたいことです。
58:07 K: すみません。 私は、こう言っています - 人は、外の世界との比較をとおして、 心理的な時を、創り出してきた。 欲望した報われる目的を達成する手段として、と。
58:33 R: 同意します。
58:35 K: ああ、いいえ!あなたは、それが事実として、見えますか - そうであるとの意味で、事実として、です。
58:49 スコット・フォーブス: それが見える精神の器用さは、 真理が見える同じ器用さですか。
58:58 K: いいですか、スコット。初めにあなたは、その発言を聞く。そうでしょう?
59:04 SS: ええ。
59:05 K: あなたは、その発言をどのように聞きますか。
59:12 SS: まあ、初めに、私はただ聞きます。

K: あなたは聞く。 あなたはそこから、観念を作りますか。

SS: しばしば、後で、ええ。
59:20 K: いえ。それは、同時的な過程が、つづいているのです。 あなたは聞く。その観念を得る。 観念は、実際の観察ではない。 それが、私が言っていることです。
59:40 SS: ですが、それがあるなら・・・
59:43 K: いいえ。これは、ギリシャ人とヒンドゥーからです。 私たちのすべての構造全体が、観念に基づいています。 私たちは、観念は実際の出来事ではないと、言っています - すなわち、実際の聞くことではない、と。
1:00:11 FM: 観念は、実際に聞くことの映像だけです。
1:00:14 K: ええ。それは、 実際の観察の回避、忌避です。
1:00:21 FM: 無媒介の事実から、です。

K: ええ、見つめるのや聞くのから、です。
1:00:26 ステファン・スミス: そのとき、私たちが常に回避していることが、何かあるかもしれません。
1:00:32 K: ええ。

SS: 私は提案したいと思います - 私たちは、思考について話し、
1:00:40 そして、或る種の自由や解放や 救済や贖罪を創り出すために、 思考が案出してきた様々な物事について、話してきたので、 思考の一部である駆動要因が、何かあるかもしれない、 または、これを説明する駆動要因が、あるかもしれない、ということです。 それは、悲しみなのかもしれません。
1:01:02 K: ええ。痛みより、報賞をとおして逃避する。
1:01:10 SS: これは、最も洗練された文明と、 より原始的な文明、それらのすべてに、 適合するように、思われます。

K: 明白です。 なぜなら、私たちが考えるすべては、 これら二つの原理に、基づいているからです - 報賞と処罰、です。 私たちの報賞は、覚り、神、 涅槃です- それを何と呼びたくても - 心配、罪悪、すべての存在の痛み、 そうね、すべてのそれらの悲惨を離れて、です。
1:01:42 FM: 報賞や処罰の観念より 自由であることは、可能ではないですか。
1:01:47 K: それが、私が言っていることです。 私たちの精神が、報賞と処罰ということに立って、考えているかぎり、 それは時です。
1:02:01 FM: 私たちの精神がそのように考えるのは、どうしてですか。
1:02:05 K: なぜなら、私たちはそのように教育されるからです。 FM: ええ、本当です。
1:02:08 K: 私たちは、子どもの頃より、条件づけられています - 西洋では、ギリシャ人の時からですが、 なぜなら、そこでは、測量が重要であったからです。 FM: ええ。 さもないと、これらのテクノロジーの知識は、得られなかったでしょう。
1:02:24 FM: ええ。あなたは、これは、私たちがその観念に繋がれている、 という事実のせいだ、と仰るのでしょうか - 分離した「私」という観念に、です。 仮に、すべて全体性ということに立って、見る、聞く、触れる等をすると、します - 全体性の気づき、です。
1:02:48 K: あなたは、思考の動きを理解していなかったなら - あなたが、ではない - 自らが、その動きを理解していなかったなら、 全体性に気づけません。
1:03:01 FM: 思考の動きを、ね。
1:03:03 K: なぜなら、思考は、それ自体が制限されているからです。
1:03:07 M: ええ、もちろんです。 それは、何か分離したものとしての、 自意識の侵入を、意味しています。
1:03:16 K: ええ。 FM: さもないと、それはそこにないでしょう。
1:03:20 K: この自己分離的な意識は、どのように、生じたのでしょうか。
1:03:26 FM: まず第一に、条件づけです。
1:03:29 K: それは明白です。
1:03:31 FM: 私、あなた、私。

K: もちろんです。測量です。
1:03:33 FM: 測量。そのとおり。 それは類推的に、必然的に、 心理の領域へ、精神の領域へ、 移転されます。

K: もちろんです。
1:03:47 M: ・・・または、何にでも、です。
1:03:49 K: で、私たちは、この点に来ます。 あなたは、発言をします - 心理的な時は、人により、自らの報賞を達成する手段として、 使われてきた、ということを、です。 FM: ええ。

K: それは明白です。 その報賞は、人が受けてきた痛みから、離れています。 で、私たちは言っています - 報賞へのこの探求や、報賞の達成は、 時の動きである。 そういうものがそもそも、ありますか、と。 私たちは、それを創案してきました。 それは、幻影なのかもしれません。 この幻影より、私は、実在へ行けません - というか、真理へ、です。 で、精神は、測量のこの動きより、全的に、完全に 自由でなければなりません。 それは、可能ですか。
1:05:21 FM: 短い答えとして、私は単純に「ええ」と言うでしょう。
1:05:27 K: ええ。あなたは、論理的な帰結や、 思索的な主張や、願望した概念として、 「ええ」と言うのか、 あるいは、そのとおりなのか。
1:05:53 FM: ええ、「もちろん」ということが、そこにある。 「もちろん」という感覚があるなら - 「もちろん、そのとおりだ」と - そこには・・・ 

K: そのとき私は、そのとおりだと想定しますが、 私は余生の間、別の方向に、動きつづけます。
1:06:09 FM: 自らが本当に見るなら・・・

K: ああ、それが、私たちが言っていることです。
1:06:14 FM: そのとき、別の方向に行きません。
1:06:17 K: で、それが、私たちが言っていることです- 私たちは、それが見えるのか。 または、私たちはそれが見えると考える、ということなのか。
1:06:26 FM: 全くです。 メアリー・ジンバリスト: 私たちは、一瞬の間、戻られるでしょうか。
1:06:32 あなたは、観察する、その発言が聞こえる、と仰りました - それを観察します。 実際に、精神は、その観察の中で、何をしますか。
1:06:47 K: どうぞ、私がこのように表されるなら - どうぞ、言われていることを、受け入れないで、 見出しましょう。 観察は、名づけることなく、測量することなく、 動機なく、終わりなく、 見ることを、含意しています。 明白です。 それが、実際に見ることです。 ギリシャ語からの「観念(アイディア)」という言葉、その言葉自体は、観察することを、意味します。
1:07:30 MZ: ですが、私たちは、たぶんみんな、それに同意するでしょう。 その瞬間に、何が作用していますか。 それは、ほとんどの人々において、一種の論理であると、思います。
1:07:40 K: いいえ。
1:07:41 MZ: あなたが仰ったことは、きわめて明瞭だと、思われます。
1:07:43 K: 観察は、静寂を含意します。 そして、 何も結論を形成しないこと、 何も心理的、感覚的な応答なく、 ただ静寂に観察する - 例外は、記憶の応答なしの 視覚的、あるいは内的な洞察、です。
1:08:13 R: 価値判断なしに。

K: ええ。
1:08:19 FM: こう仰るのでしょうか - それは、頭脳や感覚からの、何の反応もなく・・・

K: ええ、そうです。 待ってください。頭脳を持ち込むのは、危険なことです。 なぜなら、そのとき私たちは、その問題全体に、 入らなくてはいけないからです。 そうね、私は、当面、頭脳の問題に、入りたくありません。 それは、含意しています。 それは、観察の中、思考が絶対的に静かであることを、意味しています。
1:09:00 FM: 例えば、科学者たちは、 本当に新しい際立った霊感を、持つとか、 またもや、偉大な芸術家たちは、すばらしいものを創り出すとき、 これが、起こります - 内側で、あらゆる物事が静かであるとき、です。 それにより、この新しいものが、出現するのを、許されます - 新しいもの、真に新しいこと、創造の波動が、です。
1:09:31 K: ええ。ですが、その洞察は、部分的です。 科学者の洞察や知覚は、部分的です。
1:09:45 FM: ええ、部分的です。 それは言うならば、その洞察の定式化が、です。

K: ああ、彼の洞察は、定式化だけではなく、
1:09:55 彼の洞察のまさしく事実が、です。 なぜなら、洞察は、彼の日常生活の全体的変容を、含意しているからです。 それは、「私は科学者である。 私は、数学へ洞察を持つ - 物質へ、原子へ」というだけではない。 洞察は、全体として人が生きるさまを、含意しています。

R: ええ、そのとおりです。 それは、完璧にそうです。
1:10:25 FM: どの洞察も、
1:10:28 全体の背景に根ざした、特定の顕現です。

K: ああ、いえ。私たちは、何かへ逸れていきます。
1:10:38 すみません。私は、受け入れません - 「私は受け入れない」ではない。 それでは、かなり混乱します。 洞察や、見ることについて、少し話しましょう。 洞察とは、 そこに、過去の物事の思い出がない観察を、含意しています - ゆえに、精神は鋭敏です。 価値判断すべてなどより、自由です。 ただ観察する。 そのときにだけ、洞察を持ちます。 ですが、私たちが話している洞察は、 彼の生全体を、含意しています - 科学者として、芸術家として、ではない。 彼らは、部分的な洞察を持ちます。
1:11:38 R: それは、小さな断片だけです。
1:11:40 K: 断片です。そのとおりですが、それは、私たちが話していることではありません。

R: ええ。

K: で、それはここに来ます。
1:11:46 R: 私たちが話すことは、存在全体です。
1:11:51 K: もちろんです。人の存在です。

R: ええ、存在です。
1:11:59 FM: で、あなたが話しておられるその観察の状態には、 いかなる反応も、ありません。

K: もちろんです。明白です。 それは、因果の反応ではない。 FM: 全くです。 それは、因果関係より自由です。

K: もちろんです。明白です。 さもないと、私たちは、古いことに戻っています - 原因は動機である、などなどです。
1:12:27 R: その見ることは、時を越えています。 それは、時を越えています。 その見ることは、時の中に、制限されたり、捕らわれたりしていません。

K: そのとおりです。その洞察は、時に関与していません。
1:12:45 R: そのとおりです。
1:12:48 当然、それは、因でも果でもありません。
1:12:52 K: ええ。ですが、待ってください。 あなたは - あなたが、ではない - 私たちは、この洞察を持っていますか。 - ちょっと待ってください。 話を終了させてください - 何か結果を達成することとしての、 思考による、心理的な時の創案の中へ、 洞察を持っていますか。 あなたは、それが見えますか。 または、それはただ、言語的、思想的な水準にありますか。
1:13:22 R: または、それは事実であるのか -

K: ああ、いいえ。
1:13:25 R: 心理的な時が、見るために必要だということは。
1:13:29 K: いいえ。私たちは、この問いに入りました。 人は心理的に、時を考案してきました - 願望する終わり、目的、報賞を達成するために、です。 これを、観念として見るのか。 または、そうであるのか。 そうであることは、明白です。 そのとき、人はどのように- これが論点です - 人は、人間はどのように、変容して・・・ 全的に、それより動いて、離れるべきなのか。 全的に、この時の概念全体を、変容させるべきなのか。 私は、こう言います - あなたが、この全体のことへ 洞察を持つとき、それは可能であるだけだ、と。 そこに、努力は関与していません。 そこに、集中は、関与していません。 それらは・・・ これは、本当の冥想です。
1:14:47 FM: 事実、それは起こります。
1:14:49 K: それは、本当の冥想です。

R: 全くです。
1:14:52 スコット・フォーブス: 多くの人々が、それを聞くとき、 陥っているのに気づくと、私が思う二律背反が、あります - それは、この洞察を持つために・・・
1:15:06 K: ああ、あなたはそれを持てません。
1:15:09 SF: まあ、この洞察が起きるためには、 思考への洞察が、なければなりません。 それは幾らか・・・

K: いいえ。
1:15:21 SF: ・・・閉じた円周に似ています。

K: いいえ。私たちは、これに入りましたよ。 私たちが言いましたように、思考は、記憶の応答です。 記憶は、知識、経験です。 それで、過去より、思考は動いています。
1:15:39 SF: ええ。
1:15:40 K: ですが、いつも、過去より、です。 それはけっして、過去から自由ではない。
1:15:45 SF: 私たちは、見えること、観察することが、 なければならないと、言いました。
1:15:49 K: 見ること。それを見る。
1:15:52 SF: そうです。 さて、私たちは思考でもって、 それが見えません。 私たちは、見なければならない・・・
1:15:56 K: 待ってください。 いえ、そう言わないでください。 私はちょうど今、言いました - すみません。忘れてしまいました。
1:16:03 SF: 私たちは、見ること、観察がなければならない、と 言っていました - それは、洞察です・・・
1:16:09 K: 思考へ、です。

SF: ・・・思考へ。
1:16:11 K: 待って。それを保ってください。 さて、思考は、記憶の応答です。 記憶は、経験をとおして、頭脳に蓄えられている。 それが知識になってきた。

SF: ええ。
1:16:29 K: で、知識は、いつも過去です。 そこから、思考が生じます。 これは、反論不可能です。 つまり、これはそうなのです。
1:16:41 SF: ええ。
1:16:45 K: さて、これは、観念ですか。 または、あなた自身が知覚してきた、現実ですか。 すなわち、知識をとおした人の向上は、そうでない、と あなた自身が見るのか。 人は、おそらくテクノロジー的に、向上できるだけです。 ですが、心理的に、 知識の蓄積を継続するなら、 人は、その罠に捕らわれている。 あなたは、それが見えますか。 または、それを観念にして、 「それはどういう意味ですか」などなどと、言いますか。
1:17:40 スコット・フォーブス: ですが、ただそれが見えるには、私は自由でなければなりません。
1:17:44 K: いいえ。観察しなさい。あなたは初めに聞きました。 

SF: ええ。
1:17:48 K: 分析なく、解釈なく、聞く。 好きや嫌いなく、ただ聞く。 あなたは、そう聞くなら、それを吸収したのです。 事実を、吸収したのです - すなわち、思考は記憶の応答であることを、です。 そのときあなたは、進行できます。 そのとき、思考は、いったいその母親より、その根より、 その起源より、自由になりえますか。 明白に、なりえません。
1:18:31 ステファン・スミス: ですが、思考は、自らの活動に気づけます。
1:18:35 K: もちろんです。私たちは、それらを通ってきました。
1:18:38 MZ: こう仰るのでしょうか - その瞬間に、洞察が生ずるなら、 そのとき、その洞察は、もとの思考の機構に、陥ってしまわない、と。
1:18:49 K: ああ、ええ、もちろん陥りません。 例えば、あなたは洞察を持つし、行為します。 さて、はっきりさせましょう。 洞察は、行為を意味しています - 即座に、です。 洞察を持ち、後で行為するのではない。 まさにその洞察こそが、行為を含意しています。 そしてあなたは、行為します。 その行為は、いつも正しい - 正しいとは、正確である、精密であることです - 何も後悔なく、努力なく、 何も報賞や処罰なく、それはそうなのです。
1:19:28 SS: その行為は、必ずしも、何かをすることではないですが。 外的にいろいろとするということに立っては、無行為なのかもしれません。
1:19:35 K: ああ、しなくてはいけないかもしれません - 外的にも、内的にも、です。 私は、執着へ洞察を持つなら - 観念への執着、結論への執着 人物への執着、 私の、そうね、知識、経験への執着です。 あなたは、それへの洞察を持つなら、全部のことが、放棄されます。
1:19:59 R: 私はそれを、別の形で表してもよろしいですか - あなたが同意されるかどうか、私は知りません - この幻影を見ること、 この幻影を見ることが、

K: ええ、ええ。
1:20:13 ですが、それが幻影であることが、確かでなければなりません。
1:20:20 R: それを幻影と呼ぼうと、または、それにどんな名前を付けようと、 見る・・・
1:20:26 K: 「有るもの」を。

R: 「有るもの」を。
1:20:28 K: それだけです。

R: ええ。「有るもの」を見る。 それに用語を付けないで、です。

K: ええ、「有るもの」を見る。

R: 「有るもの」を見ることが、真理を見ることです。
1:20:38 K: ああ、いえ、いえ。そうね、
1:20:41 あなたは、真理を持ち込んでいますよ。 私はまだ、その準備ができていません。
1:20:44 R: 私は1時前に、それを得たいと思います。 ええ、私はそれを、先送りしたくありません。 ですが、あなたの主な命題は、時を入れるな、です。
1:20:59 K: ええ。私は言ってきました - ちょうど今、1時に、です。
1:21:02 R: いえ、いえ。まだ1時ではない。ええ。 「有るもの」を、ありのままに見ることが、真理を見ることです。 手短に言えば、それが、私が表したいと思うことです。
1:21:23 K: あなたは・・・
1:21:29 R: そして、真理は、離れていなくて・・・
1:21:32 K: 私は、それが何なのかを、知りません。
1:21:36 R: それが、私が申し上げることです- 見る。
1:21:39 K: 私は、見るとはどういう意味かを、知りません。 あなたは私に、見るとはどういう意味かを、語ってきましたが、私は見えないかもしれません。 私は、自分は見えると、考えるかもしれません。
1:21:53 R: ええ。そのとき、あなたは見えていません。
1:21:55 K: 私は、きわめてはっきりしなければなりません - 自分は見えていると、考えていないことを、です。
1:22:01 R: ええ。
1:22:02 K: 私の生全体が、そうなのです。 私は、自分は見えると考えます。
1:22:08 R: それは、見えるのとは、違っています。
1:22:12 K: あなたはそう仰るが、普通の人物は、「ええ、私は見ます」と言います。 すなわち、私は、あなたが言っていることが、見えると考える、と。 ですが、私は実際に、「有るもの」を見ないのかもしれません。 私は、自分は「有るもの」を見ると、考えます。
1:22:29 SF: クリシュナジ、これは単純な問いなのかもしれませんが、 普通の人物は、「私は見る。あなたが言っていることが、見える」と言うと、 あなたは仰ります。 ですが、事実、彼は見ない、と。
1:22:40 K: ええ。

SF: それはただ精神的に、
1:22:41 彼が何かを見る、というだけです- または、知的に、です。 私たちは、こう言えるでしょうか - 何が、普通の人物にとって、この正確な見ること、 思考なきこの見ることを、もたらそうとしているのか、と。
1:22:57 K: 私は説明しましたよ。 私はそれを説明しました。 初めに私は、聞かなければなりません。
1:23:03 SF: ええ。
1:23:04 K: ああ、私たちは聞きますか。 または、私たちは、 自らの精神を、あらゆる種類の結論で満たし、一杯にしていて、 そのため、それは、聞く能力がないのですか。 あなたは、私を見ます。そして、 「彼はインド人だ。何だよ。彼を外せ。 彼は何も知らない」と言います。 または、「まあ、彼はうぬぼれた人物だ」とか、あれやこれやを、言います。 あなたは実際には、聞きません。
1:23:33 SF: まあ、そのとき問いは、こうです- 私は、用語を変えるだけでしょう - 何が、その正確な聞くことを、もたらせるのでしょうか。
1:23:43 K: それは、苦しみをとおしてだ、と言われてきました。 それは戯言です。 努力しなさい、と言われてきました。 それは戯言です。 誰かが、「私はあなたを愛している」と言うとき、あなたは聞きます。 そうでしょう。 で、同じことです。あなたは、 自分が不快だと考えることを、聞けますか。 で、今、この真理の問いに、戻ってきます。 私たちは、この午後、議論を行いますか。
1:24:27 MZ: 3時30分に会うだろう、と言われたと、思います。
1:24:30 K: 3時30分ね。 そのとき私たちは、真理を追求できますか。

R: いいえ。私は、真理を待ちたいと思いません。
1:24:44 K: あなたは、そのすべてを5分間で、お望みですか。
1:24:48 R: 5分間ですら、ない。
1:24:50 K: 1分ですか。

R: 1分です。 それを1分で、できないのなら、5時間でも、できません。
1:24:57 K: 全く同意します。 よろしいですよ。1秒で。 真理は、時をとおして知覚可能ではない。 自己があるとき、真理は存在しない。 思考が、どの方向にでも、動いているなら、 真理は、生じない。 思考は、何か測量できないものです- 測量できない。
1:25:46 R: 真理は、です。

K: 真理は、と言いました。ああ、真理は、です。 愛なく、慈悲なく、 それ自らの智恵なしに、真理は、ありえない。
1:26:08 R: ええ。今、またもや、あなたはそれを、否定的な用語で示されました - ブッダの本当の伝統において、です。ええ。
1:26:20 K: そうね、いえ、いえ。ご自身が何をなさったのか、見てください。 あなたはそれを、伝統ということに立って翻訳しました。 ゆえに - 指摘するのを許してください。 私は、不遜になっていません - あなたは、これを実際に聞くことより、動いて離れてしまったのです。
1:26:41 R: いや、私は聞きました。 私は、よくよく聞きました。
1:26:44 K: それなら、あなたは、それの香りを、捉えたのです。
1:26:49 R: ええ。私は、あなたが仰ったことの香りを、捉えました。 そういうわけで、私は、それを1分間で行いたいと思ったのです。
1:27:01 K: あなたは・・・ そのとき、真理の、実在への関係は、何ですか。 気をつけてください。気をつけてください。 これら二つは、永久に分割されている、ということですか。
1:27:18 R: いいえ。

K: いえ、いえ。
1:27:22 R: いえ。私は躊躇いません。 私は、そのように躊躇っていません。 それらは、分割されていません。
1:27:28 K: どうして分かりますか。

R: 私はそれを分かります。
1:27:31 K: いいえ。 ふーん?それらは分割されていない? では、あなたがいわれるそれは、どういう意味ですか。
1:27:45 R: それが、私が言ったことです - 見る。

K: いいえ、ちょっとお待ちください。 真理と実在 - それらは、分割されていない。 それは、思考と真理が、いつも一緒にある、という意味です。 ちがいますか? それらが分割されていないなら、 何かが、離別、分離していないなら、 それらは、一緒にある。 統合的な動きです。 思考は・・・

R: 思考ではない。
1:28:19 K: 待ってください。実在は - そういうわけで、私はそれに入ったのです。 実在は、思考が組み立ててきた物事すべてです。 私たちはみんな、同意しています- そのとおりです。 私たちは、その言葉、用語、「実在」という言葉を、 他の何かとして、使うかもしれません- 私は気にしません。 ですが、当分の間、私たちは、 実在は、思考が組み立ててきた物事すべてであると、言っています - 幻影を含めて、です。 真理は、これとは、いかなる関わりをも、持ちません。持てません。 ゆえに、その二つは、一緒にいられません。
1:29:01 R: その幻影を見る - または、それが何であろうと、です。 「有るもの」を見ることが、真理を見ることです。 「有るもの」が、真理です。 「有るもの」が、真理です。 それより離れて、真理はありません。 「有るもの」が、真理です。

K: いいえ。
1:29:25 R: そうなのです。そうなのです。 「有るもの」が、真理です。
1:29:30 K: 「有るもの」。

R: 無いものは、非真実です。
1:29:33 K: いいえ。「有るもの」 - 私たちは、実在は思考の動きである、と言いました。 よろしいですか。 そして、真理は、時がない。 真理は、時がない。それは、あなたの真理、私の真理、彼の真理ではない。 それは、何か、時を越えたものです。 思考は、時のです。 二つは、一緒に走れません。 それが、私が言っている・・・
1:30:07 R: 私が言ったことは、二がない、ということです。
1:30:12 K: ああ、あなたは・・・
1:30:15 R: それは、またもや二元性です。 またもや、あなたは分割しています。
1:30:20 K: いいえ、私はそうしていません。 私は指摘しております - 私は間違っているかもしれませんが、私はただ、指摘しています - すなわち、思考は、こんなに幻影を、創り出してきた。 こんなに多く欺瞞を、それは、もたらしてきた、と。 それは、「ええ。私は真理を見た」と言うことにより、自体を欺瞞するかもしれません。 ゆえに、私は、きわめてはっきりしなければなりません。 いかなる欺瞞も、ないように、明瞭さが、なければなりません。 私は、欺瞞が存在する、と言っています - 私が実在の本性を、理解しないのなら、必然的に存在するだろう、と。 私たちは、これを継続できます。 なぜなら、昼食の後、私たちは・・・
1:31:13 R: 私は、この午後、別の疑問を取り上げたいと思います。 なぜなら、この問いには、終わりはないだろうからです。
1:31:20 K: ええ。その問いは何ですか。
1:31:22 R: 私たちが話をしたいと思った別の問いは、 後の存在、継続があるのかどうか、です - 人々が一般的に、生まれ変わりと呼ぶものが、です。
1:31:33 K: 生まれ変わり?

R: ええ。
1:31:34 K: ええ。私たちは、昼食の後、そうしましょうか。
1:31:38 R: そう思います。

K: いいですよ。
1:31:40 R: ここで私たちは真理へ来たと、私は思います。 あなたがどうかは、存じませんが・・・
1:31:49 K: 私は、真理へ来ていません。 私は、真理へ行けません。
1:31:54 R: ええ。あなたは、真理を見ます。

K: ああ、私は、真理を見ません。 ああ、ものすごい違いが、あります。 私は、真理へ行けません。 私は、真理を見られません。 真理は、自己がないときにのみ、存在できる、ありうる。または、あるのです。

R: そのとおりです。そのとおりです。
1:32:20 K: 行って食事をしましょうか。
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