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BR7879CBS5 - 死後の生があるのか。
仏教学者たちとの議論 第5回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1979年6月28日



0:14 クリシュナムルティ: あなたの問いは、死後の生があるのかどうか、でした。
0:21 ワールポラ・ラーフラ: ええ。それについて、私が二、三、言葉を、言ってもいいですか。
0:26 K: もちろんです。
0:28 R: そうね、私はこの問いを、あなたに出したいと思います。なぜなら、すべての宗教は、 私が知るかぎり、死後の生に同意し、受け入れるからです。 もちろん仏教とヒンドゥー教は、一つの生だけではなく、 多くの生を、受け入れます - この生の前とこの死の後に、です。 それが、ヒンドゥーと仏教の教えです。 ですが、私が知るかぎり、 キリスト教は、少なくとも、死の後、一つの生を受け入れます - 地獄か、天国において、です。
1:05 K: ええ。イスラム教徒も、です。

R: イスラム教徒も、です。 私は、他については、あまり存じませんが、 これら二、三の宗教は、死後の生を受け入れます。 私は知りませんが、ゾロアスター教は、それを受け入れると、思います。 もちろん仏教以外、それらすべての宗教には、 霊魂、自己、アートマン(我)があります- 輪廻転生する人の中の、 変化せず、永続的、恒常的な実体です。 仏教は、自己、アートマン(我)や霊魂や自我を、受け入れません - すなわち、恒常的で、永遠で、永続的であり、変化しないものを、です。 ですが、仏教は、人は、五蘊より構成されていると、受け入れます - 物理的なのと・・・ 手短に表すと、仏教用語が言うように、名と形態(名色)です。
2:08 K: 名と形態。 

R: あなたは、それをしょっちゅう、使われます。
2:11 K: ええ。

R: 名と形態(名色)。 すなわち、名は、精神的な性質を意味します。 形態(色)は、物理的な身体です。 ですが、これらは、仏教によれば、すべてエネルギー、力です。 仏教によれば、死と呼ばれるものは、身体が機能しないことです。
2:28 K: ええ。
2:29 R: ですが、身体が機能しないことは、 他の性質と力すべてが、機能しないことを、意味していません。 欲望、意志 - なろう、もっともっとなろうとする。それらのように、です。 で、人が不完璧であるかぎり - それは、彼が真理を見たことがない、という意味です。 ひとたび真理を見ると、彼は完璧であり、なろうとの欲望は、ない。 なぜなら、彼にとって、なるものは、何もないからです。 人は、不完璧であるとき、いつも欲望、意志を、持っています - あなたが今朝、提起なさったように、もっとなり、より完璧になるための時と、そのようなことです。 で、彼にとっては、再生がある。 彼は完璧ではないからです。 ですが、それが何であろうと、仏教によれば、 それは、一つの、変化しない、つづいていく実体ではない。 それは、因と果です - ちょうど今日、私たちが生きるように・・・ ブッダは、瞬間ごとに私たちは、死んで、生まれ変わっている、と言います。 それで、仏教において、転生を言うことは、間違っています。 なぜなら、転生するものは、何もないからです。 そのとき、移動(という翻訳語)もまた、良い用語ではない。 私たちは今、「再生」を使いますが、それは、すっかり正確でもない。 なぜなら、仏教語でそれは、「後の有(プナル・バーヴァ)、 パーリ語の「プナッバーヴァ」です。それは、再びなること、またなることを、意味しています。 それは、またなることと呼ばれます。 すなわち、またなることの継続、 途絶えぬ継続です。 それが、仏教の態度です。 その問いは、仏教において、しょっちゅう、訊ねられます - 『ミリンダ王所問経』と多くの経文に、ですが、それは、同じ人物ですか、別の者ですか、と。 答えは、仏教の伝統的で、古典的な答えは、 「ナチャ・ソ、ナチャ・アニャ」彼でもないし、別でもない。 それが答えです - 「彼でもないし、別でもない」。 それは、継続過程です。 それが示されます。 子どもは成長し、五十歳の人になる。 彼は、同じ子どもなのか、別の者なのか。 それは、同じ子どもでも、別の者でもない。 同じように、「ナチャ・ソ、ナチャ・アニャ」。 彼でもないし、別でもない。 それが、再生に対する仏教の態度です。 今、私は、あなたの態度が何なのかと、あなたの解釈が何なのかを、知りたいと思います。
5:18 K: 私たちはともに、少し旅を行えるのでしょうか。
5:23 R: ええ。 あなたは、私に答えてほしい、ということなのか・・・
5:27 K: いえ、いえ、ともに旅をし、このことを、究明します。
5:30 R: ええ。
5:38 K: あなたは、人類すべては、 人間は、アメリカ、ロシアやインドやヨーロッパに、生きていても、 悲しみ、葛藤、闘争、罪悪、 大きな悲惨、さびしさ、不幸せ、混乱の感覚に、捕らわれています。 それは、世界中で、すべての人の共通の定めなのか。 

R: ええ。

K: すなわち、人の意識は - 超意識や、他の或る種の意識ではない - 人の普通の意識は、これらの内容です。 あなたは、同意されるのでしょうか。

R: ええ。
6:46 K: すなわち、人、人間は - 私は人(マン)と言わないでしょう。 ここには、たくさん女の子も、いるからです。 

R: ええ。
6:55 K: ですが、人間たちは、世界中で、
7:00 同じ心理的な現象を、持っています。 外的に彼らは、違っているかもしれません -背が高い、低い、色黒などですが、 心理的に、彼らは大いに類似しています。 それで、あなたは世界である、と言えるのです。 あなたは・・・フェローズ・メータ: 全面的に、です。
7:37 K: あなたは、それに同意されるのでしょうか。 あなたは、世界です。 そして、世界は、あなたです。 よろしいですか。 それについて、話しましょう。

R: ええ、或る意味で。
7:59 K: 或る意味で、ではない。 私は、入って行きたいです。 それは、部分的にではない。 そうなのです。 あなたは、セイロンで生まれた。 彼は、インドで生まれた。 もう一人は、アメリカやヨーロッパで生まれた- この島、イングランドを含めて、です。 外的に、自らの文化、自らの伝統、自らの気候、食べ物、それらは、異なるかもしれません。 ですが、内的に私たちは、同じ罪悪感を、持っています。 罪悪 - 何かについて、ではなく、罪悪の感じ、心配の感じです。 ですね?
8:50 R: ええ。罪悪ではなく、むしろ、心配に、私は同意するでしょう。 私は、罪悪ではなく、心配に同意するでしょう -一定の形の社会における罪悪感ではなく。
9:00 K: それは罪悪だ、ということです。あなたは、鈍感で残忍でないなら、罪悪を感じます。 ですが、放っておきます。それは小さな点です。 

R: ええ、ええ。
9:12 ステファン・スミス: たぶん、西洋の伝統では、より罪悪でしょうね。
9:16 R: ええ。
9:18 X: 東洋では、おそらく、何か恥のようなものでしょう。
9:20 K: 東洋では、それは違ったように、翻訳されるでしょう。
9:23 SS: ですが、感じは同じです。

K: 業とか、それは自分の定めだ、など、と。
9:28 ・・・いいですよ。私は罪悪を、取り上げないでしょう。 心配、です。

R: ええ。心配が良い。
9:34 K: さびしさ、絶望、様々な形の憂鬱、 悲しみと恐れ。 これらは、人の共通の定めです。 つまり、それは明白ですよ。 で、心理的な・・・私たちの、人間たちの意識は、その内容です。 よろしいですか。 内容は、このすべてです。 で、世界中の人間たちは、多かれ少なかれ、類似しています - 彼らの物理的な、名と形態を別にすれば、です。 同意なさるでしょうか。

R: ええ。
10:26 K: で、言語的な声明ではなく、事実として、 私たち人間は似通っていると、言えるのです。 で、深く、あなたは私です。
10:51 R: 類似性では、ね。

K: それが、私が言っていることです。 私はあなたです。

R: ええ。類似性では、ええ。
10:57 K: なぜなら、各人物が、様々な形の地獄、悲劇、不運を経ていくからです。 それで、世界、人類は、一つです。 いいですか? あなたは、同意されるでしょうか。 FM: 完全に、です。 人類は一つです。

K: 一つです。 あなたはそれが見えるなら、それを受け入れるなら、そのとき、死は何ですか。 死ぬのは、誰ですか。 名、形態ですか。 また、心配、痛み、悲しみ、悲惨 - それもまた、死にますか。 私の論点に、付いてきておられますか。 

R: ええ。 私たちは、これについて、少し議論できますか。 すなわち、私にとって、世界は実際に、「私」です。それは言葉だけではない。 私は世界です - 私は、違った物理的な輪郭、身体的な、顔の違いなど、 背丈と色などを、持っているかもしれませんが、 私たちは、それを考慮していません。 心理的に、私たちは、とてつもない悲惨、悲劇と 醜さ、傷を、経ていきます。 で、それが、人の共通的な意識です。 よろしいですか。 それが、その中に人が生きる流れです- 心理的に、です。 いいですか? そのとき、死ぬとは、どういうことですか。 あなたが本当に、それを受け入れるか、本当だと見るなら - 想像したり、理想主義的なのではなく、それは事実です。 あなたが、その事実を受け入れるなら、そのとき、死は何ですか。死ぬのは、何ですか。 身体ですか。 形態、名ですか。 形態と名は、あなたより違っているかもしれません。 あなたは、男、女、その他すべてです。 で、それが、その中に人類が生きる、共通の流れです - 時折、幸せのほとばしり、 大いなる喜びの稀な瞬間、大いなる美しさの感覚の稀な瞬間を、伴います。 ですが、それが、私たちの共通の生の部分です。 この広大な流れが、いつの時も、つづいています。 いいですか? それは、大いなる河です。 いいですか?あなたは、それに・・・いや。 というか、議論しましょう。あなたは、完全に不同意するかもしれません。 M.ジンバリスト: あなたは、こう仰っていますか - その流れの中で、ほとんどの人々が分かち合っている、 何か個人的意識の概念全体は、完全な幻影である、と。

K: 私はそう思います。
15:08 メアリー・ジンバリスト: すると、なぜ人類は、必然的に、それを持っていますか。
15:12 K: なぜなら、これは、私たちの教育の一部、私たちの文化の一部であるからです - 宗教的にも、世間的にも、です。すなわち、あなたがいる。あなたは個人である、と。 あなたは・・・そうね、その観念全体、です。 また、「個」という言葉もまた、本当に、誤用されています。 なぜなら、個(インディヴィジュアル)は、(語源的に)明白に、分割不可能なものを、意味しているからです。 ですが、私たちはみんな、砕けてしまっています。 で、私たちはほとんど、自分自身を、個人と呼べません。
15:46 FM: 私たちは断片的です。
15:49 K: 私たちは、断片化しています。 断片化し、砕けてしまっています。 で、私たちは、人の意識が、世界のそれであることが、見えるなら、世界は・・・ FM: 人類すべての、です。

K: ・・・人類すべての、です。
16:08 その巨大な河は、始まりを持たなくて、いまだに進んでいますが、 あなたと他の一人は、その流れの一部です。 私と他の一人は、死にます。 私の欲望すべてに、何が起きますか。 私の心配、恐れ、あこがれ、切望のすべて、甚大な悲しみの重荷には、何が起きますか。 すなわち、私が長年、持ち運んできたもの- そのすべてに、何が起きますか。
16:56 F・メータ: 身体が死ぬときに、ですか?

K: 身体が死ぬときに、です。
16:59 FM: それは、世界の流れと混合します。
17:01 K: それは、あの流れの一部です。 FM: そのとおり。
17:03 MZ: それはまったく、あなたのではなかった。
17:05 K: それは、私のではない。 それは、あの流れの一部です - それが、Kとして、顕現したものです。 その形態をともなって、です。 いえ、これは、とても徹底的です - すべての宗教に対比して、私が言っていることは、です。
17:23 R: 今、私は、その問いとともに、います。 今、その流れの中に、Kがいます。
17:29 K: ああ、ちょっと待ってください。 ああ、いいえ!Kは、ありません。 それが、論点全体です。 あの流れが、あるだけです - そこには・・・あの流れは、欲望、心配、絶望、さびしさ、 人類の苦労すべてから、できあがっています。 それが、河です。
17:55 FM: それらの対極、痛みと悲しみの対極とともに、です。
18:00 K: それは、あの河の一部です。 FM: あの河の一部です。
18:03 K: 私の楽しみ - それは、二、三日間、続きます。 そのとき私は、それを追求します。 そのとき、私は、それを得られないなら、泣きます。 私は、報賞で酬われるなら、うぬぼれます。 で、それは、あの巨大な河の一部です。
18:18 FM: あなたは、こう仰るのでしょうか - 私たちが個人と呼ぶものは、誤称である、と。
18:25 K: 誤称だけではなく・・・F: 私たちの無知ゆえ、です。
18:28 K: それは、誤称だけではない。 私は、それが存在するとは、思いません。 なぜなら、あなたは、別々の名前と、銀行口座を持っていても、 あなたの意識は、他の誰かに、他のあらゆる人に、似ているからです。
18:41 F: ですが、それがまったく存在しない、と言うなら、 私たちは、人類もまた存在しない、と言わなくてはいけないでしょう。
18:51 K: いえ、いえ。私は、それに入ろうとしています。 で、私たちはそれが見えるなら - それが論理的に、合理的に見えるだけではなく、 事実として、そうです。あなたは、インドに生まれます。 私は、ヨーロッパやアメリカに、生まれました。 私たちは、同じ地獄を、同じ、くだらない競い合いを、経てゆきます。
19:23 MZ: ここまで、明らかであることを、確かめるためだけですが、 人間には、それを離れて、何もないのですか・・・
19:33 K: 待って。私は、それを言おうとしています。 私は、それに来ようとしています。 あの流れの中で、人は、神々、儀式、救い主を、創案してきました - 聖母マリア、クリシュナ、そのすべてを、です。 それらはすべて、あの流れの一部です。 彼らは、これらを考案してきました。
19:53 MZ: ですが、創案、幻影は別にして、何か他のものは、ありますか。
19:59 K: ええ。何か霊的なものが、ありますか。何か・・・
20:04 M: それを別にして、それより他に、です。
20:06 K: ええ。理解できます。 時のでないものが、何かありますか。
20:11 FM: 流れの、でない。
20:12 K: 流れの中に、ありますか - あなたは、訊ねていますね? 何か、人が作っていないものが、です。 当面の間、そう呼びましょう。 それが、あなたが訊ねていることですか。
20:27 MZ: あなたが仰る意味が、こうなのか、私は確かではありません - それを何と呼びたいとしても、人間の精神、意識には、 何か、その流れのではないものが、ありますか。
20:40 K: 人は、何かがあると、創案してきました。
20:43 MZ: いえ。創案ではない。 何か実在のもの、です。
20:47 K: あの流れの中には、ない。 あの河の中には、ない。

MZ: ええ。私は、河の中に、他の何かがあるのかどうかを、訊ねていません。
20:58 私は訊ねています - 人の中には、河以外に何かありますか。
21:02 K: 何もない。
21:04 M: なぜなら・・・ 

K: アートマンはない。 霊魂はない。神はない - 何もない!
21:13 それを受け入れないでください。
21:15 M: そこには、ものすごい含意が、あります。
21:17 K: ものすごい含意があります。
21:20 M: なぜなら、もしもそうであったなら、流れに終わりは、無いだろうからです。
21:24 K: それが・・・ですが、いいえ!踏み出す人は・・・ 私はここで、さらに行きたくありません。 私は一歩一歩、ゆっくり行きたいと思います。 そうであるなら - 私たちはみんな、人間たちすべては、ですが、 彼らの共通意識は、これです。 この巨大な河より、できあがっているのです。 よろしいですか。あなたは、これを受け入れないかもしれません。
21:57 R: ええ。私は、受け入れも、拒絶もしていません。 私は、それについて考えています。熟慮しています。 メアリーが言うことは、とても重要な点でした。
22:06 K: ええ。

R: すると・・・
22:08 K: 私たちは今すぐ、それに答えるでしょう。

R: ええ。それよりの逃避は、ありません。
22:14 K: 私は今すぐ、それに答えようとしています - 逃避ではない。
22:17 R: または、それが何であっても、です。

K: ですが、私たちは、死について考慮していますね。
22:23 で、あの流れは、私たちのみんなに共通しています。 私たちの意識は、あの流れからです。
22:40 ギドゥー・シャクンタラ: 思考は、私たちのみんなに共通していると、仰っていますか - なぜなら、これらは、思考の創造物と顕現であるから、と。
22:49 K: ええ、思考の。 思考の創造物だけではなく、 幻影を創り出してきた思考の創造物も、です。
23:01 ステファン・スミス: それら幻影の作動も、です。
23:04 K: それら幻影の作動 - キリスト教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教の、 イギリス人、フランス人、ロシア人の、様々なイデオロギー。そのすべてが、流れの一部です。
23:26 FM: お訊きしてもいいですか - それは、今ここで私たちにあり、 今のように機能するような、思考の実情ですか。 それが、これら幻影を、創り出してきましたか。 または、それは、普遍的な構成要素として、普遍的な要因としての精神が、 共通的に特定人物と呼ばれるものをとおして、考える過程の中で、 これら観念を放出する、ということですか。

K: 私が思うに - 少しゆっくり行きましょう。
24:01 私はこれを、はっきりさせたいと、思います - 私たちは、あの流れの部分であることを、です。
24:06 FM: ええ、そのとおりです。
24:10 K: そして、身体が死ぬとき、 欲望、心配、悲劇、悲惨は、つづいていく。
24:24 FM: 一部分は・・・

K: 私は死ぬ。 F: ええ。
24:27 K: あの流れ、あの河は、つづいていく。 F: ええ。
24:31 K: よろしいですか。
24:32 または、あなたは、これを拒絶されますか。 どうして、それを拒絶できるのか、私には、分かりません。

R: 拒絶もなく、受け入れもない。
24:40 K: いえ。待ってください。 いいですか?
24:42 R: 結論を待っているだけです。

K: 全くそうです。 で、あの河は、Kとして顕現します。
24:56 R: 河全体が、ではない。
24:58 K: 河が、です - それは欲望です。 河はそれです。
25:05 FM: その顕現の一つが、Kです。
25:09 K: 河が顕現する - 顕現の一つが、ではない。
25:14 FM: すると、どうして・・・

K: いえ、すみません。
25:16 私はそれを、ちょっとはっきりさせましょう。 河は、Kとして顕現する。 FM: ええ。
25:22 K: それは同意です。
25:26 R: そのとき、河はまた、Rとしても顕現する。
25:32 K: また顕現・・・いいえ!河は、Kとして顕現する。 Kは、一定の能力を持っている -伝統により、 教育などにより、絵を描いたり、すばらしい大聖堂を建てたりできる能力を、です。 ですが、私たちは、心理的に話しています。 見てください。 それへ戻っていきましょう。 河はそれです。私たちは同意します。
26:07 R: 私は知りません。
26:12 K: それは、どういう意味ですか - あなたが仰る、知らない、とは。
26:15 R: 私は、十分に同意します - すなわち、人類全体は、例外なく・・・
26:21 K: ・・・一つである、と。
26:23 R: これらすべて、あなたが苦しみと叙述されるものと、それらは、共通です。
26:27 K: ええ。すなわち・・・

R: 人類すべてに、です。

R: その意味では、みんなが平等です。 みんなが一つ、ではない。
26:35 K: 平等性や何でもない。 私たちは、あの流れの、です。

R: ええ。それはだいじょうぶです。
26:41 K: 私は、人類すべての代表です。 私は、です。 なぜなら、私は、あの流れのであるからです。
26:54 R: まあ、私はそれを知りません。
26:56 ギドゥー・ナラヤン: それは、質的なことです。質的に、です。
26:59 K: 質的、というのは、どういう意味ですか。
27:01 N: 「私はあの流れのです」と仰るとき、流れの性質すべてが、私にある。
27:06 K: ええ。
27:07 N: それは、質的なことです。

K: ええ、そのとおりです。 あの流れの性質すべて、です。
27:11 N: 私は河全体である、というのではないが、 

R: ええ。
27:13 N: 滴は、河の性質すべてを、収容しています。
27:15 K: ですが、河はそれです。

N: ええ。
27:19 K: 河はそれです。
27:21 メアリー・ジンバリスト: 波の例えを使うのは、役立つのでしょうか - 波は、海の残りより、全く異なっていない。
27:29 K: ええ。
27:30 M: ですが、それは一つの波として顕現しますが、それは消え去ります。
27:33 K: お好きなら、そのように表してください。 ですが、これは、はっきりしなければなりません。 私たちの一人が、人類すべて代表です。 なぜなら、代表は、あの流れのであり、人類は、あの流れのであるからです。 ゆえに、私たちの一人が、あの流れの全体の代表です。
27:59 R: そのほうが、いい。 そのほうが、いい。

K: ええ、アロンジー。 つまり、ええ、行きましょう。
28:07 あの流れは、Kとして顕現します。 または、Xとして。Kを忘れて、Xです。 Xとして顕現します。 形態、名をもって、です。が、あの流れは、また、この性質をも持っています。 すなわち、あの流れの中には、芸術がある。 そこには・・・あらゆる物事が、そこにある。
28:36 R: Xだけではなく、Yもいる。 Xだけではなく、Yもいるかもしれない。
28:41 K: ああ、何ダースも、です。 X、Y、Zと。
28:43 R: ええ、そのとおりです。それが、私がはっきりさせたいことです。
28:46 K: ああ、はい。A、B、C・・・アルファベットで始めて、終わりはY、Z。

R: ええ。そのとおりです。

K: で、人類が、あの流れの中にあるかぎりは・・・ そして、あの流れの一つの顕現が、流れを去る。 彼にとって・・・彼は完全にあの流れより、自由です。

R: で、あなたは、人類全体ではない。 なぜなら、あなたは河を去るなら、
29:32 そのとき、あなたは去る・・・そのとき、人類全体が解放される。
29:35 K: ちょっとお待ちください。 ちょっとお待ちください。 あの流れは、Xに顕現してきました。 あの顕現の中に・・・ Xが流れより、完全に自由にならないのなら、彼はその中に、戻っています。
29:57 MZ: ですが、これが、その瞬間です - 先の問いが言及するのは。
30:02 K: 私はそれに、来ようとしています。

MZ: そこに、何がありますか。 流れより分離したものは、何もないと、仰りました。
30:07 K: 待って、待って、待って。 私はまだ、それを説明していません。 何もない。 あの流れが、ある。いいですか? それは、Aとして顕現する。 あの顕現において、 そのすべての教育と環境的影響などをともなっていて・・・ あのAが、あの流れの中より踏み出さないなら、人類にとって、救済はありません。
30:36 MZ: 踏み出す何が、そこにありますか。
30:39 K: 自分の心配、悲しみ、その他すべてを、去りなさい、終了させなさい。
30:44 MZ: ですが、あなたは、流れの内容以外に、何もない、と仰いました。
30:49 K: 私が流れに留まるかぎりは、ね。

MZ: 「私」は何ですか。
30:53 K: 「私」は、Aとして顕現してきたものです。 Aは今、自分自身を、個人と呼びますが、
31:01 それは事実ではない。 それは幻影に似ています。 ですが、Aが死ぬとき、彼は、あの流れの一部です。 それは明らかです。 T

P: ええ、でも・・・
31:14 MZ: Aは、流れの水より構成されているなら・・・
31:17 K: ええ。
31:18 MZ: ・・・流れの水は、どうして、流れの中より、踏み出せますか。
31:23 K: ああ、できます。
31:25 T.パーチュリ: 何か論理的な誤りが、あります。私たちのには・・・
31:29 K: たぶん私の説明に。 PT: ええ。 ひとたび、これを言うと - あなたは、人類、人間の代表であると、ですが、 それは・・・
31:41 K: ああ、そうですか。 そうでないですか。
31:45 PT: ええ。

K: 「ええ」と言わないでください。 あなたは、人類の代表ではないですか- 心理的に、です。
31:55 R: ええ。それは、あまりに一般的で、あまりに漠然とした発言だと、私は思います。
32:04 K: いいえ。それは漠然としていません。 私はそれを、きわめてはっきりさせてきました。 あの流れは、私たちの意識のこの内容です - すなわち、苦悶、痛み、欲望、闘争、それらです。
32:19 R: それは、みんなに共通しています。

K: 絶対に、です。
32:22 R: その意味で、人類すべては、平等です。または・・・
32:26 K: いいえ。私は望みません・・・
32:27 R: 言い換えると、人類すべては、一つです。
32:29 K: 私は望みません・・・ あなたは、主張していて・・・

R: ええ。それは言えます。 ですが、私は、あなたの態度、あなたの立場を、受け入れられません - 私は人類である、ということを、です。ええ。
32:42 K: ああ、もちろんです。私があの流れを、受け入れるなら、 私は、あの流れの一部です。ゆえに、私は、残りの人類に、似ています。
32:53 R: 残りに似ています。

K: 私はそれを言いました。 ゆえに、あの流れのすべての代表です。
33:00 R: それもまた、私は受け入れます。

K: それが、私が言っているすべてです。
33:03 R: ですが、「私はあの流れ、流れ全体である」とは言えません。
33:06 K: いえ、いえ。私はあの流れです。
33:09 MZ: ですが、たぶん私たちは、逐語的になっているのでしょうが、 ここにはどこかに、流れを収容する、或る種の容器、コンテナの概念が、あります。
33:17 K: いえ、容器ではない。コンテナを運んでいく船とそれらではない。 いえ、いえ、容器、コンテナを、持ち込まないでください。
33:24 MZ: それ自体を、流れより分離できるのは、何ですか - それがただ、流れの水より作り上げられているだけなら、です。
33:31 K: あの流れの部分は、この自我本位の概念です。 それだけです。
33:39 MZ: いえ。何が、分離できますか。 水は、どのように自体を、海より分割できますか。
33:50 K: あなたは、私の論点全体を、見逃しています。
33:52 R: いえ、彼女の論点は、こうです - 河より踏み出すのは、どれですか。
33:56 MZ: ええ。
33:57 K: 待って、待って。

R: それが問いです。

K: それが問いであるなら、私は今すぐ、それに答えるでしょう。 私はそれに答えるでしょう。 私は、これがかなり上手です。 私は、冗談を言っているだけです。

R: ええ。理解します。
34:16 ええ、冗談として。 それが冗談でないだろうことを、願っています。
34:23 K: いいえ。これは、あまりに深刻です。

R: ええ。
34:31 K: そうね、このすべてが含意するのは- あなたがその質問をするとき、ですが - 踏み出すのは、何なのか、です。 あなたは、他なることを、設定しつつあります - 何か、流れのではないものを、です。 いいですか?
34:57 R: または、むしろ、あなたが、これを設定しています。

K: ああ、私はしていません!私はまったく何をも、設定してきませんでした。 私は、実際に起きつつあることを、述べてきただけです。 私は、何をも設定しないでしょう。 私は言いました - 人があの流れより、踏み出さないかぎり、人類にとって、救済はないのです。 それだけです。
35:26 FM: ここで私は、一言を付け加えてもいいですか。 そのご婦人が訊ねられた問いは、 同一視可能な恒常的な実体を、含意している、と思います。
35:39 K: いいえ。 恒常的な実体は、何もない。
35:42 FM: ええ。私が提言していることは・・・
35:44 MZ: 何か、私がそれほど明確にしていないことです。
35:47 K: あなたが何を言おうとしているかは、知っています。

MZ: Xがいなくてはいけません。または、私はそれを、何と呼ぶべきかを、知りません。
35:52 N: それは、智恵の何らかの様相ですか。

MZ: 何かが・・・
35:54 N: 智恵の或る様相が・・・

K: ええ、それが、彼が言っていることです。
35:57 MZ: ・・・踏み出す・・・

K: 彼は、同じことを言っています。

N: 智恵の何かの様相です。
36:01 K: ええ。流れの中に、智恵の何かの様相が、ありますか。
36:04 MZ: それを何と呼ぶにせよ、ええ。
36:06 N: 見るものが・・・

K: 見る・・・ええ、ゆえに、踏み出すものが、です。
36:10 N: 流れの無益さを見るものが、です。

K: ええ。
36:12 MZ: 私たちは言っています。あなたは言っています - それは、流れの一部である、と。
36:18 あの性質が、他の人間的な物事すべてとともに、そこにある・・・何かが・・・

K: ちょっと待って、ちょっと待って。
36:28 MZ: それ自体を、残りの流れより、分離できるのです。
36:32 K: Aは、あの流れの一部です。 構わなければ、一歩一歩、行きましょう。 すると私たちは、互いに誤解させないでしょう。 Aは、あの流れの一部です。 あの流れは、Aとして顕現してきました。 で、Aは、自らが苦しんでいることを、知覚します。 明白です。いいですか?ちがいますか?

N: ええ。
37:02 K: 彼の心配。彼は生きていて、 「私はなぜ苦しんでいるのか。 これは何なのか」と言います。 で、彼は、推理しはじめます。 見はじめます。 なぜあなたは、何か他の要因を、導入しますか。
37:16 MZ: するとあなたは、何か知覚は、やはり流れの一部であると、言えますか。
37:24 K: いいえ。
37:25 MZ: または、何か分子か、何かが・・・

K: いえ、いえ。 あなたは、聞いていません - 私が指摘しても構わないなら、です。
37:32 R: 一言を、付け加えてもいいですか。

K: どうぞ。
37:34 R: ブッダの教えによれば、 あの流れの中には、見る英知もあります。
37:42 K: いいえ。私は、何かを知りません・・・お許しください。
37:46 R: いえ、私は知っています。なぜなら、あの流れの中に - それは、他の言葉で呼ばれます。 仏教哲学では、それは、よくよく説明されています。 メアリーが問いを出したように、全部のことを見る英知が、ある。 それなんです。
38:05 N: それは、何を見ますか。

R: 全部のことを、です。 全体の眺め、全部のことです。 実在 - 実在を見るもの・・・ そのあるがままに見るもの - 今朝、私たちが議論したように、です。 それから、踏み出すことがある。 その見ることが、踏み出すことです。
38:23 MZ: 行為者なしの踏み出す行為が、ある、と仰っていますか。
38:29 K: ええ。一緒に進んでください。 私はそれを、説明するでしょう。 私は説明するでしょうが、あなたは、それを受け入れなくていい。 それは論理的で、合理的で、相当に健全であるだろうと、私は思います - 自らが完全に、たわけているのでなければ、私たちはそれを検討できます。 Aは、あの流れのです - 名と形態をもって、です。 彼は生きていると、自らが何を経て行くかを、悟ります。 いいですか? その悟る中で、彼は、「私は苦しんでいる」と言います。 そのとき、彼は、苦しみの本性全体を、探究しはじめ、 その苦しみを、終わらせます - 私は、この流れの一様相を、取り上げています - その苦しみを、終わらせます。 彼は、その流れから、外に出ています。 あの実体は、本当に独特です - あの流れの外にいる者は。 スコット・フォーブス: で、すると、それは、かつてなかった何かですか。

K: Aは、自らが苦しんでいることを、悟った瞬間
40:04 - その苦しみより逃避しなくて、 どんな動機などなどもなく、苦しみの本性を、探究し、探検する。 そして、苦しみの構造全体へ、洞察を持つ - まさにその洞察こそが、その苦しみを、終わらせます。
40:28 R: その洞察もまた、流れにある。

K: ああ、いいえ。 そうね、あなたは何かを設定していますが、私はしていません。
40:36 R: どこから、洞察を持ってきていますか。
40:39 K: いいえ。私は言いました・・・私は、よく気をつけて、洞察を持ち込みました。 Aは、自分が苦しんでいることを、悟ります。 苦しみは、あの流れの一部です。

R: Aもまた、その流れの一部です。
40:51 K: ええ。あの流れは、Aにおいて、顕現してきました。 Aは生きていて、自分が苦しんでいるのを、悟ります。彼は、それより逃避しません。 なぜなら、彼は、それの本性全体を、知りたいからです - 本性と、構造と、苦しみの裏に何があるのかを、です。 で、彼は、それを検討します - 論理的にも、健全にも、また、非言語的にも、です。 それをのぞき見ます。 それをのぞき見ることこそが、洞察です。 それは、流れのではない - 苦しみをのぞき見ることは。
41:39 R: その、のぞき見ることは、どこから来ますか。
41:42 K: 彼は、関心を持っています - 私はそれを言いました- 彼は研究しています。彼は探検しています。 彼は、おぞましい全部のことを、問うています。彼は知りたいのです。
41:50 R: それは、それが河の一部ではなかった、という意味です。
41:54 K: いえ。あなたは・・・
41:56 SF: クリシュナジ、なぜなら、私たちは、何かが河より踏み出すと、言ってきたからです。
42:01 K: 待って。私はその言葉「踏み出す」を、使わないでしょう。
42:04 SF: ええ。今、私たちが言っていることは、何かが生ずるということであると、思われます - けっして、あの河の一部でなかったものが、です。
42:11 MZ: 洞察、です。

K: ええ。私は、いいえ、と言いました。 私たちは解釈しています。 私にさせてください・・・ あなたは、私に付いてきて、私が間違っているのかどうかを、見てください。それなら、訂正してください。 Aは、あの流れのです。Aは苦しんでいる。 Aは、「なぜか」と言う。 彼は、教師が何を言ったのかには、関心がない。 彼は、「私はそれらを知っている」と言いました。 彼はそれらを、脇に押しやります。 なぜ苦しみが、あるのか。 それへのまさに探究の中で - 探究は、あなたの能力に、依存します。 解釈を押しのけられる、逃避しない、その他すべてに、です。 苦しみの本性へのまさに探究の中 - その原因とその結果などへ、 まさにその探究の中に、洞察がある。洞察が来ます。 洞察は、流れの中にはない。

SS: そうです。
43:18 R: 私は、それは流れの中にある、と言います。

K: なぜですか。
43:24 R: そうね、それは自体に、生成させ止滅させる能力を、持っていますよ。
43:37 K: 流れ自体は、能力を持っています。
43:40 R: それを持続させ、生成させ、止滅させる。 それを止めるのです。
43:46 その洞察もまた、流れの一部です。 ちょうどその悲惨すべてが・・・

K: いいえ、いいえ。私は・・・
43:55 R: ・・・その洞察は、どこから来ましたか。

K: 私は申し上げていますよ。
44:00 R: あなたは、Aは河の一部である、と仰る。

K: ええ。
44:05 R: それから、Aは・・・

K: Aは苦しんでいます。
44:08 R: 苦しんでいる。

K: Aは探究しはじめます。
44:11 Aは・・・待ってください。 探究の中で、彼は悟ります -
44:15 すべての逃避、抑圧、その他すべてからの完全な自由があるときだけ、
44:20 探究が存在できることを、です。

R: ええ。
44:23 K: で、その探究の瞬間に、洞察がある - 彼が逃避しないとき、 彼が抑圧しないとき、彼が合理化しないとか、 苦しみの原因を探し求めないとき、です。 検討のまさにその瞬間に、洞察がある。
44:41 N: あなたは、洞察が生まれる、それは流れのではないと、仄めかしておられます。
44:46 K: 「生まれる。流れのではない」を、導入しないでください。

N: すると・・・

K: そうね、あなたは、誤解させています。 あなたはそれを、あの流れの一部にしたい。
44:56 N: すると、それは、どこから来ますか - 洞察は。
44:59 K: 私は言っています。

N: 探究からです。
45:03 K: 探究できる自由からです。
45:05 N: その探究できる自由は、どこから来ますか。
45:08 K: 彼自身の検討からです。
45:10 R: ですが、彼は、河の一部です。

K: いいえ。あなたは、論点を見逃しています。
45:15 SF: クリシュナジ、私たちは、こう言っていますか - Aは、形態と名だけです。 通常、名と形態にすぎない - 河にあるすべてを、加えて、です。 自由な探究でもって・・・

K: Aは探究しはじめます。
45:30 SF: そうです。Aは、探究しはじめます。 そのときAは、この洞察を持つなら・・・
45:34 K: いいえ、いいえ。 彼は、洞察を持っていません。
45:37 SF: そう、彼は、もはやあの河だけの一部ではない。

K: スコット、一歩一歩、付いてきてもらえるでしょうか。
45:44 Aは、あの流れの一部です。 Aは、あの流れの顕現、 あの流れの波です - それを、どう呼びたいとしても、です。 今、Aは、苦悶を経てゆきます。 Aは、それを検討します。 検討が、とても重要です。 なぜなら、彼が逃避するなら、それは検討ではなく、探検ではない。 彼が抑圧するなら、そうではない。 で、彼は悟ります - どうぞ、一歩一歩、これに付いてきてください - 彼が、探検を阻止する妨げより、自由でないかぎり・・・ 自由ゆえに、彼はそれらを脇に置く。 彼は、自由に探究できる。 その自由の中に、洞察がある。
46:44 T.パーチュリ: ここには、繋がりが一個、欠けています。 

K: 十個、あるかもしれません。
46:49 TP: それは、このように見えます - ナラヤンが言っていることですが、
46:53 その人物が、流れの部分、流れの代表であるなら、 そして、探究が始まる、検討が始まるとき、自由が来る。

K: 気をつけてください。 いいえ。そうね、あなたは、あまりに多くを、仮定しすぎています。
47:13 TP: いえ。私は、あなたが仰っていることを、反復しています。繋がりを、私は知りたいのです。

K: ええ。いいですよ。あなたは、私が言ったことを、反復している。いいです。
47:20 TP: これの始まり、探究の始まり、 流れの物事のどれもなく、探検できる能力の始まり - それらもまた、流れの中にありますか。
47:33 K: いいえ。 T

P: それらは、どこから来ましたか。

K: ですが、それは、とても単純ですよ。 みなさんは、何について、騒ぎ立てていますか。
47:40 TP: 探究のこの始まりは、このことです。
47:43 K: いえ、いえ。聞いてください。 ドクター、お許しください。 あなたは、聞いていません。 私は言いました - Aは、あの流れの顕現です。 一歩一歩、それに付いていきましょう。 あの流れは、あの流れの一部は、苦しみです。 Aは、苦しんでいます。で、Aは、言います- 「なぜか。私はなぜ苦しむべきか」と。
48:18 TP: この点で、私は割り込みましょう。

K: どの点でも。
48:22 TP: 流れの中の人間たちの数 -
48:29 「私はなぜ苦しむべきか」についての問い、 これが、全部のことの始まりです。
48:35 K: ああ、いいえ。人は、「なぜ私は苦しむべきか」と訊ねてきました。1ダースもの説明が、あります - 仏教の、ヒンドゥー教の、キリスト教の、などなどなど。 苦しんでいる人は、言います - 「私は、これらが見える - 仏教の、ヒンドゥー教の、キリスト教の、イスラム教のだ。 私は、それらを拒絶する。なぜなら、それは、私に、探究できる自由を、残してくれないから。 私は、伝統と権威を受け入れつつある。 私はそうすまい!」と。
49:08 TP: さて、これらが見えて・・・
49:11 F.メータ: おそらく、このように表せるのでしょうか - すなわち、条件づけられた探究は・・・
49:20 K: 流れの一部である。 FM: 流れの一部である、と。
49:22 K: それが、論点全体です。 FM: ですが、自由な探究は・・・

K: ・・・始まりです。
49:28 N: ・・・流れより、離れて行くことです。
49:30 FM: いいえ。

K: いいえ。
49:32 忘れてください。いいですか、ナラヤン。 今、流れを放っておいてください。 後生ですから。 Aは、あの流れの顕現です。 Aは、苦しんでいる。 Aは、「なぜ私は苦しんでいるのか」と、言う。 仏教を研究し、ヒンドゥー教を研究し、キリスト教を研究し、 「後生だから。それは言葉だ。 おしまい。 私は、自分自身で見出そう」と言います。 彼は、探究しはじめます。 彼は、自らが自由に見つめられるなら、探検できるだけだと、悟ります。 いいですか? 恐れから自由で、報賞と処罰から自由で、 どの種の動機からも自由である。 さもないと、彼は探究できません。 彼が、検討のその状態に入った瞬間、洞察がある。 これは、きわめて明らかです。
50:44 FM: もちろん、するのは困難です。
50:46 K: ああ、いいえ。 私は、そう言おうともしない・・・ いいえ、私は、「困難だ」という言葉を、受け入れないでしょう。
50:51 FM: 初めには。なぜなら、さもないと、私たちは、探究していないでしょう。
50:54 K: いいえ。 なぜなら、私たちは、 自らのエネルギーを、これに注いだことが、ないからです。 FM: ええ。 私たちは、気づかわない。私たちは、とても多くの物事を、堪えます! で、Aを放っておきなさい。 ですが、Bは、あの流れの一部です。 彼は苦しみます。彼は、言います - 「ええ。それは、私の本性だ。 それは、人間の本性だ。 抜け出す道はない。イエスもない。 誰も、私を救おうとしていない」と。 彼は、「いいよ。私はこれを堪えよう」と言います。 で、彼は・・・流れに寄与しています。
51:58 ステファン・スミス: で、流れは、より強烈になる。
52:02 K: ええ。水かさが増える。
52:07 FM: 駆り立てる力も、です。
52:09 K: もちろんです。増えた水かさは、ものすごい水の圧力です。 で、私たちは、その点に来ます -死とは何ですか。
52:20 R: 今、私は、もう一つの問いを、出したいと思います。 今、Aは、河の外に出ています。
52:25 K: ああ、いいえ。

R: 洞察のせいです。
52:28 K: Aは、河の外に出ていません。
52:30 R: ですが、彼は見てきた - 洞察です。
52:33 K: 彼は洞察を持つ。

R: 洞察を。 で、みんなが一つの人類であるなら、Aが人類であるなら、人類がそれを見てきた。
52:43 K: いいえ。いいえ。
52:45 MZ: で、彼は、人類を去った。
52:47 FM: あなたは、おそらく、純粋に論理的に、それを見ておられます
52:51 K: いいえ。論理的にさえ、です。
52:54 FM: 私がいう意味は、こうです - 論理的にだが、条件づけられた状態を、受け入れている。
53:00 K: Aが、自らの条件づけられた状態に、気づいて、それを探究しはじめた瞬間、 彼は、脇に置くエネルギーを、持っています。
53:17 FM: 私はちょっと・・・いいですか。 さて、ブッダ自身は、「正しい智慧でもって脇に置きなさい」と言いました。 ブッダのあの言葉を、憶えていますか。
53:27 R: それは何ですか。
53:28 FM: 「脇に置きなさい - 形と形態すべて、感受すべて、知覚すべて、 判別する認識自体を・・・

R: それが、私が言うことです。
53:39 FM: それを、正しい智慧でもって、脇に置きなさい、と。
53:42 R: それが、私があなたに語ることです。 それが、私が言ったことです - それを、彼は錯綜させつつある。
53:48 K: 誰が?FM: いえ、いえ。
53:52 K: みなさんは、それを錯綜させつつあります。 私のは、とても単純です。しかたないんでしょうが・・・
53:57 R: それが、私が申し上げることです。 それが発言です。それが観念ですが、私はまた・・・
54:06 K: ここで、割り込んでもいいですか。 自分は、どの宗教にも所属していない。 自分は、どの権威をも受け入れない、とします。それが探究です。 もしも私が、キリストやX、Y、Zが言ったことを、受け入れたなら、それはまったく探究ではない。 で、Aは、悲しみへの自らの探究の中で、誰かが言ってきたすべてを、拒絶します。 あなたは、そうするでしょうか。 なぜなら、さもないと、彼は、受け売りの人間であり、 受け売りの色眼鏡をとおして、検討しているからです。
55:06 R: または、それを見てきた誰かから、聞けますが・・・
55:15 K: 私は、ブッダが言ってきたことが、聞こえます。
55:17 R: ええ、それが言われたのを、聞かれます。

K: 誰が言ってきたことをも、です。
55:21 R: そしてまた、彼が見てきたことを、独自に見られます。
55:26 K: ええ。ですが、ええ、ブッダは、言いました - 彼が何を言ったにしても、悲しみが、始まりです。
55:31 R: ええ。
55:33 K: いいですよ。ですが、彼が言ったことは、私の食事ではない。
55:37 R: 絶対です。そのとおり。

K: いいえ。
55:41 R: それが、私が申し上げていることです。 が、あなたもまた、 彼が見たのと、同じことを見られます。

K: ええ。
55:47 R: でも、あなたはまた、彼が言ってきたことをも、知ります。
55:50 K: 何を、ですか。
55:51 印刷された言葉や、伝え聞きは、空腹な人にとって、何の意味もありません。
56:00 R: そのとおりです。
56:02 K: メニューを読むことでは、私は食べられません。
56:08 R: それが、私があなたに申し上げていることです。 それは、メニューではなくて、食べ物です。
56:12 K: 食べ物。 食べ物は、誰によっても、料理されません。 私がそれを料理し、食べなくてはいけません。
56:20 R: ふつう、そうではない。
56:25 K: 待ってください。私は、その人は、悲しみの構造全体を検討している、と言いました。
56:35 R: 私は、逆に言うべきでしょう - あなたは、空腹をなくすために、食べなくてはいけない、と。 ただ、あなたが食べたからといって、私の空腹は、消えないでしょう。
56:44 K: ええ。
56:45 R: あなたは、食べ物を準備してきた。 あなたは、食べてきた。食べ物がある。 私もまた、それを食べられます。 それは、私の食べ物です。 あなたはそれを、否認されますか。

K: いいえ、もちろん、しませんよ。 この午後、あなたは昼食を食べました。 誰かがそれを、料理しました。私はそれを食べました。私たちは、それを食べました。
57:02 R: ええ。 

K: ですが、私たちは、食べ物の水準で話していません。
57:07 私たちは、こう言っています - 私は、どの権威をも受け入れるかぎり - それが、誰であっても、です -洞察はない、と。
57:19 R: いいえ、それは、権威を受け入れることではありません。 

K: 待ってください。 叙述を受け入れること、結論を受け入れること - ブッダが言ったこと、クリシュナが言ったこと、Aが言ったことと、すべてを、です。 私にとって自由は、知られたことからです。 さもないと、私は永続的に、流れの中に、生きています。 そうね、そういうわけで、私たちはこれを、事実として議論して、 「ごらん。私は、自分が持つ権威すべてを、落とそう」と言うのです。 それは、知識、伝統を、という意味です。 あなたは、それをできますか。 なぜなら、それが探究であるからです - あなたは、私は、伝統へ縛られているなら、それはできません。 私は、円周をぐるぐる回ります。 私は、杭と、私を杭につなぐ縄より、自由でなければなりません。 で、Bは、苦しみを受け入れます。 よろしいですか。 Bは、自分が何であるかを、受け入れます - 条件づけられ、悲惨で、不幸せです。 あなたは、人間が何であるかを、ご存じです。 で、彼はいつの時も、流れに寄与しています。 で、霊魂はなく、アートマン(我)はなく、自我はなく、恒常的な私 - 進化するものは、ない。 そのとき、探究となるものは、洞察を持ってきた人、人間の精神の状態が 何であるかに、なるでしょう - 苦しみの本性全体へ、ゆえに、流れ全体への洞察を、です。 いいですか。 その精神の本性は、何ですか。 その性質は、何ですか。 よろしいですか。 ええ。それを探究してください。 それは、思弁的になるのでしょうか。 なるでしょう。
1:00:28 ステファン・スミス: 何らかの洞察か、部分的な洞察を持っている 人物の地位とは、何ですか。 彼はまだ、そこにいませんか。
1:00:40 K: 科学者のように、部分的な洞察です。 彼は科学では、優秀なのかもしれませんが、 混乱し、悲惨で、不幸せで、野心的ですね。
1:00:59 FM: 「部分的な洞察」という用語こそが、条件づけられた洞察を、 意味していると、思われませんか。

K: もちろんです。
1:01:05 FM: ゆえにそれは、あの流れの一部ですし、一般的に分類するのは、真実です。
1:01:09 K: 私たちはこれが見えるのかと、思われます。 または、私たちが見ているのは、イメージです。 なぜなら、今私たちは、河のイメージを、創り出してきたからです。
1:01:20 FM: ええ。それは、不幸なことです。

K: ええ。
1:01:25 MZ: 「洞察」という言葉を、智恵と同じ意味で、使えるでしょうか。
1:01:30 違いはありますか。
1:01:33 K: そうね・・・今、ちょっと待ってください。 それに入りましょう。 流れは、Bとして顕現します。 彼は、自らの活動において、とてもずるく、利巧になります。 智恵は、ずるさ、利巧さと、言い抜け、それらと、何の関係をも、持っていませんね。 それは本質的に、愛と慈悲の一部です。 あなたは、何と仰いますか。 流れの中の愛は、愛ではない。 そうね、私たちは、誰も受け入れないだろうことを、言っていますよ。 Bは流れの中にいて、彼が、自分の妻やガールフレンドや、ボーイフレンドに、 「私はあなたを愛している」と告げるなら、それは愛ですか。
1:03:05 R: 「私」があるかぎり、愛はない。
1:03:09 K: いえ、いえ。それを、「私」に還元しないでください。 Bは、あの流れのです。 Bは、自分のガールフレンドやボーイフレンドに、「私はあなたを愛している」と言います。愛 - それは愛ですか。
1:03:25 R: どの意味で、ですか。

K: 愛です。
1:03:28 R: 愛は、何百もの意味を持っています。

K: で、それが、私が探究していることです。 書物の愛、あなたの特定のスープの愛、詩歌の愛、 美しいものの愛、理想の愛、 自分の国の愛、嫉妬の愛 - そこには、憎しみ、妬み、傷が含まれています。 そのすべては - 私は問い、探検しています - そのすべては、愛ですか。 顕現である人、Bは、「ええ。それが愛です」と言います - 「少なくとも、それは愛の一部です」と。 または彼は、「嫉妬なしに、愛はない」と言います。 私は、これらの発言を、前に十数回、聞いてきました。
1:04:31 R: それだけでなく、多くの人々は、私に訊ねてきました - 自己の観念なしには、どうして愛がありえますか、と。
1:04:37 K: ええ、ええ。
1:04:39 R: また、その問いを出す人々も、います。
1:04:43 K: そうね、私たちは、これらについて、言語的に議論していますか。 または、流れがあなたであるのを悟り、見て、「見なさい。それを検討し、終わらせなさい」と言う。 で、それを終わらせることができなくて、私たちは、時を考案します - 私は、いつの日か、あの流れより踏み出すだろう、と。 で、思考は、進化を創案します- 心理的な進化を。
1:05:40 PM: 私たちはまた、それをこのように、表せるのでしょうか - 思考は、時をとおした心理的な発達を、創案します。
1:05:48 K: ええ。それが、私がいう意味です。
1:05:50 PM: 心理的な範囲に本当に所属するもの - 言うならば、即時性ですが - その代わりに・・・

K: そういうわけで・・・洞察があるとき、即時性が起きるだけです。 そこには、後悔がなく、「私はそれをしなかったら、よかったのに」と言うことがない。 で、私たちの行為は、いつも、時の水準にある。 そうね、不滅、不死とは、何ですか。 永遠とは何ですか。 測量不可能なものとは、何ですか。 彼らはみんな、話します。 すべての宗教は、多かれ少なかれ、これに触れます。 形而上学者と論理学者と、僧侶、修道士さえ、これに入ってきました - 不滅とは、何ですか。 すなわち、作家は、良い本を書くし、彼は不滅になる。 彼の名前は、不滅になる。 または、政治家です。不幸にも、政治家は、長続き、長持ちします。 私たちは不滅を、死を越えた何かとして、関係させてきました - 滅すべきものと、不滅のもの。 滅すべきことを越え、死を越えて、です。 ちがいますか。 PM: それが、ふつうの概念です。

K: もちろんです。
1:08:15 そうね、あなたは、これらに、どんな言うべきことを、お持ちですか。
1:08:18 R: 私たちの問いには、何が起きましたか。

K: 死、再生ですか。
1:08:22 R: ええ。そこには何が起きましたか。

K: 私はあなたに、語ってきました。 再生は、この常なる流れです - A、B、Cへ顕現しています。 アルファベット順に、です。 私は、これが大変失望させ、憂鬱であることを、知ります。 私は、「神様、これはあまりに怖ろしい。 私はそれを聞くまい」と言います。
1:08:55 ステファン・スミス: あなたはまた、ゆえに、死はあの流れの一部である、と提言なさっていますか。
1:09:02 K: ええ。身体は死にます。 使用と間違った生き方により、それは死にます。 必然的に死にます。
1:09:20 SS: ですが、私が言ったのは、もっと・・・
1:09:22 K: そうね、死とは何かを見出すには、死とともにいなくてはいけません。 それは、終わる、という意味です。 私の執着を終わらせる。 自分の執着、自分の信念を終わらせる。 自分が収集してきた物事すべてへの終わりです。 誰もそうしたくない。
1:09:50 MZ: ですが、それは、死のその定義は、流れの中に、ないでしょう。
1:09:54 K: 何ですか。

MZ: その死の作用は、その流れの部分ではないでしょう。
1:09:59 K: ええ。
1:10:00 そうね、去った人、これを理解した人には - 彼は、流れの中ですら考えません。 それは、何か全面的に違ったものです。 それは、流れの中の人にとっての報賞ではない。
1:10:18 MZ: ええ。それは、洞察の作用です。 そうではないですか。
1:10:22 K: ええ。洞察の作用、 洞察の行為です。 愛、慈悲、智恵がないなら、 洞察を持てません - それは、それらの一部です。 そのとき - 真理への関係があるのは、そのときだけなのです。
1:10:50 SS: あなたは、何らかの面で、そのとき死が鍵であると、提言なさっているように、思われます。
1:10:58 K: そうです。 自由な究明 - 科学的な究明ではない。 そうね、(考える)シンクタンクではなく、この私自身全体への究明です。 すなわち、私、あの流れへ、です。 私自身は、あの流れです。 それを探究してください - そのために、流れの陰も、残されていないように、です。 私たちはこれをしません。なぜなら、私たちは、あまりに学識があり、私たちは、時間を持っていないからです - 私たちは、自分の楽しみ、自分の悩みに、あまりに占有されています。 で、私たちは、「どうぞ、それは、司祭者たちに任せておこう。私には向いていない。」と言います。 で、私たちは、問いに答えたのでしょうか。 転生は、違った形態での「私」の継続は、ありますか。 私は、ない!と言います。
1:12:20 R: もちろんない。もちろんない。 ええ、あなたが仰るように、私もまた、それはないと、言います。 まず第一に、再生すべき、転生すべき「私」が、ない。
1:12:32 K: いいえ。流れが顕現します。 Bは、「私は私だ」と言います。 ゆえに、私は死ぬことに、怯えています。
1:12:42 R: ええ。
1:12:44 K: ゆえに彼は、様々な慰めの理論を、考案します。 彼は言います、祈ります - 「どうぞ、私を救ってください」、その他すべてを、です。 ですが、あの流れは、Bがあの流れに生きているかぎり、 彼の意識は、あの流れの一部です。 そこには何も・・・彼は、あの水のかさに、もっともっと寄与しているだけです。 明白です。あなたはそれが見えるなら、です。 で、継続する「私」は、ありません。 私がいうのは、これは・・・ 誰もこれを、受け入れないでしょう。 ですが、それが真理です。
1:13:38 FM: すると、こう同意されるのでしょうか - 必要なのは、この深遠なことにおいて、見ることであり・・・
1:13:44 K: ええ。見ることが、それです。 FM: 真に見る。その真に見ることが、本当の行為、創造的な行為です。
1:13:52 K: 行為です。 私は見た瞬間、心配を落とします。 私は、自分が些細な精神をしていると見た瞬間、それは終了しています。
1:14:01 FM: それは、普通の心霊過程の完全な変容です。
1:14:07 K: ええ、ええ。
1:14:09 MZ: それは、本当に、これらにおける要所であり、いわば、人々が間違える所ではないですか。 彼らは、あなたが話している意味では、見ない。 彼らは、言語的に、知的に、様々な水準で見ますが、 彼らは、本当に見ません。
1:14:25 K: いえ、いえ。ほぼ彼らは、悲しみに充ちているのを、気に掛けないと、私は思います - 彼らは、「まあ、いいじゃないか」と、言います。 彼らは見ません。自分の些細な反応を見ません。 あなたは、「ええ、いいじゃないか」と言います。
1:14:42 MZ: または、彼らは、自分たちが見ないことが、見えません - おそらく子どもっぽく表すと、ですが。 彼らは、自らが理解であると考えることが、そうでないことを、悟りません。
1:14:55 K: いえ、マリア。私がいうのは- あなた個人、というのではなく、 自らが持っているどの意見をも、落としたのでしょうか - 自らの先入観を、完全に、です。 または、自らの経験を、です。 けっしてない! これが・・・あなたは訊ねています。 そうね、彼らは、「どうぞ」と言います。 彼らは、あなたに聞こうともしないでしょう。 あなたは、政治家があなたに聞くだろう、と仰るつもりですか。 または、司祭者や、自分の結論に絶対的に捕らわれている誰もが、です。 なぜなら、そこで彼は、完全に安全で、完全に安心であるからです。 あなたが来て、彼を動揺させる。 彼は、あなたを崇拝するのか、あるいは、殺すのか - それは同じです。
1:16:00 MZ: または彼は、その安全は、完全な捏造であることが、見えます。
1:16:05 K: ええ。見えるなら、彼は、これら先入観を、落とします - 自らの結論や、自らの知識すらをも、です。
1:16:20 スコット・フォーブス: 流れより踏み出してしまい、もはや流れの顕現ではない人にとって、 作動している他の何かが、あります。 私たちは、あのものの本性について、何かを言えるのでしょうか。
1:16:39 K: それは智恵です。
1:16:41 SF: それは智恵ですし、そこには・・・

K: 智恵は愛です。
1:16:47 智恵は慈悲です。
1:16:50 SF: あなたが過去に言われてきた多くのことより、 それは、独立した存在を持っているように、思われます。
1:16:59 K: 明白です。
1:17:00 SF: その前ですら、または、それが彼に顕現することなし、でも。
1:17:05 K: Aが自由になるなら - 彼が自分でではない。 もしAが、彼の意識がもはや、 流れのではないなら、彼の意識は、全面的に違っています。 それは、すっかり違った次元です。
1:17:29 SF: その意識は、いわば、彼が流れより踏み出す前に、存在していましたか。
1:17:38 K: 今、あなたは、推測しています。

SF: ええ、そうです。
1:17:44 K: 私は、あなたと戯れないでしょう。
1:17:50 ステファン・スミス: おそらく、もう一つの言い方は、こうでしょう - 智恵ある人物なしに、智恵はあるのか。
1:18:00 K: あなたが何を言っているかを、私は知っています。 それは、こういう意味・・・それを、逆の方で表しましょう。 戦争は、大変多くの悲惨を、創り出してきました。 ですね? その悲惨は、空気に残っています。 そうにちがいない。 善もまた、人の一部であったのです - 善くなろうとする。 また、両者のあの甚大な貯水池も、あります。 ちがいますか?

SS: ええ。
1:18:56 K: で、何ですか。 自分は、あの善に寄与しないが、 自分はいつも、他方へ寄与しています。
1:19:13 MZ: あなたは、人間心理にのみ、他方が存在するが、 善は、人類とは別に存在すると、仰っていますか。
1:19:21 K: それを、こちらの方から表しましょう - Aの苦しみが、あるだけではない。 人類の、この苦しみ全体がある。
1:19:35 MZ: または、人類以上に、苦しみがある。
1:19:38 K: 苦しみがある。もちろんです。
1:19:47 SS: 苦しみは、普遍的な現象です。
1:20:00 K: 仏教の冥想とは何かを、どうぞ、説明してくださるでしょうか。
1:20:12 R: 仏教の冥想、仏教冥想の最も純粋な形 - それは、多くの形を取ってきて、多種多様です。 仏教冥想の最も純粋な形は、「有るもの」へのこの洞察です。

K: ああ、あなたは、私の言葉を使っておられます。それらを置いて・・・
1:20:43 R: いえ。あなたの言葉を、ではない。
1:20:45 あなたが、それらの言葉を使っておられます! あなたのはるか前、二千五百年前に、これらの言葉は、使われました。 私はそれらを、使っています。
1:20:57 K: いいですよ。すると、私たちはどちらも、二千歳です。
1:21:00 R: ・・・年。そのとおりです。

K: ですが、私はただ、お訊きしています。
1:21:07 R: それは、ヴィダルシャナ(見)とか、ヴィパサナ(勝観)と呼ばれます。
1:21:12 パーリで、ヴィパサナ、サンスクリットで、ヴィダルシャナです。
1:21:16 K: ええ、ダルシャン(見)。
1:21:18 R: それは、洞察の見、物事の本性を見ぬくことです。それが、本当の見です。
1:21:26 K: 彼らは、体系を持っていますか。

R: 体系は、もちろん発達しました。
1:21:32 K: それが、私が取りかかりたいことです。
1:21:35 R: ええ。ブッダの元来の教えを、取り上げるとき・・・

K: ・・・体系はない。
1:21:42 R: ええ。それは、「念住(サティ・パッターナ)」です。 それは「念住」と呼ばれます。
1:21:46 それは、この洞察冥想について、ブッダによる最善の教説です。
1:21:52 K: いえ。私が望んだのは・・・

R: 待ってください。私は言いましょう。
1:21:55 K: ええ。私は聞いています。

R: そこに、体系はありません。
1:21:59 そこでの要点は、気づきです。 気づき - それは「サティ」と呼ばれます。または、サンスクリットでは、「スムリティ」(憶念)です。
1:22:08 K: ええ、スムリティ。
1:22:09 R: ええ。起きることすべてに、注意深くて(マインドフルで)、気づくために、 あなたは、生より逃げ去り、洞窟や森に住んで、 彫像のように座ること、それらは、期待されていません。 それではない。 この念住において、それは・・・ それを翻訳するなら、 それは、注意深さ(マインドフルネス)の確立として、翻訳されますが、 むしろそれは、気づきの存在です- その言葉の意味は。
1:22:42 K: この気づきは・・・

R: ええ。あらゆる動き、あらゆる行為、あらゆる物事への気づきです。
1:22:52 K: ええ。この気づきは、養成されるべきものですか。
1:22:56 R: 養成するという疑問は、ありません。
1:22:59 何の疑問もありません。
1:23:01 K: で、それが、私が取りかかろうとしていることです。 

R: ええ。
1:23:07 K: なぜなら、現代の導師たち、現代の冥想の体系、現代の禅 - その他すべてをご存じです - それらは、それを、養成しようとしているからです。

R: ええ。私は申し上げますよ。私は、随想を書いたのですが、それはベルギーで、 依頼者、ラモット(教授)を記念して、出版されるでしょう - 仏教冥想の心理学について、です。
1:23:32 K: いえ。私はただ・・・

R: 待って、待って。 そこで私は、言いました - ブッダのこの教えは、幾世紀もの間、誤解されていて、 技巧として誤用されていることを、です。 それらは、技巧へと発展させられてきたので、 精神は、解放できる代わりに、牢獄に入れられうるのです。
1:23:53 K: もちろんです。 冥想すべては、牢獄に入れる過程ですよ。
1:23:57 R: もしそれが、体系にされてしまうなら、です。
1:24:00 K: いえ、それが・・・どうぞ、私はお訊きしています - 気づき - それは、何か養成されるべきものですか。 操作され、見張られ、取り組まれる、という意味において、です。

R: いえ、いえ。

K: 待って、待って。
1:24:16 で、それはどのように、生じますか。
1:24:28 R: それが生ずることは、ありません。 それをするんです。
1:24:31 K: いえ、お待ちください。いえ、私がいう意味を、ただ聞いてください。
1:24:34 R: ええ、あなたは、解釈を示される。

K: 私は、見出したいのです。
1:24:37 私は、批判的ではありません。 私はただ、仏教の冥想が何なのかを、見出したいのです。 なぜなら、今、仏教のがあり、チベットのが、あるからです - 様々な種類の仏教冥想、 様々な種類のチベットの冥想、様々な種類のヒンドゥーの冥想、 スーフィーの冥想が、ある。 後生です。よろしいですか。 それらは、至るところで、マッシュルームのようです。 私はただ、訊ねています - 気づきは、集中をとおして起きる何かであるのかどうかを、です。

R: いえ。その意味で、ではない。
1:25:20 私たちがこの世界でする、どのことにも、一定量の集中が、必要です。 それは理解できます。 その意味で、一定種類の集中は、必要ですが、 それを、ディヤーナ(禅定)とサマーディ(三昧)と、混ぜ合わせないでください。
1:25:42 K: 私個人は、それらの言葉のどれも、好きではありません - ディヤーナ(禅定)は・・・
1:25:45 R: ええ。でも、そこでは集中が、原則です。
1:25:48 K: 知っています。知っています。 今、世界中で宣伝されてきた冥想のほとんどには、 集中が、関与しています。 禅は・・・
1:25:59 R: 禅と、様々な他のもの、サマーディ(三昧)、ディヤーナ(禅定)、 ヒンドゥーの、仏教のすべて - 集中が中心点です。
1:26:08 K: さて、それは戯言です。 私は、集中を受け入れません。
1:26:13 R: 純粋な仏教の、ブッダの教えにおいて、冥想は、その集中ではありません。 その集中はありません。
1:26:21 K: それは、集中ではない。それを、外してしまいましょう。 

R: ええ。

K: そのとき、この気づきは何ですか。 それはどのように、生じますか。
1:26:33 R: 何が起きようと、あなたは、それに気づいています。 そうね、念住において、一つの大きなことは、 現在の瞬間に、行為に生きることです。
1:26:49 K: お持ちください。
1:26:51 R: それが、念住の一つの形です。

K: そうです。
1:26:53 現在の瞬間に、と仰った瞬間、あなたは、現在の瞬間に生きません。
1:26:58 R: それが、そこに言われることです。すなわち、あなたは現在の瞬間に生きない、と。 念住は、現在の瞬間に生きることです。
1:27:06 K: ああ、いえ、いえ、いえ。 あなたは、見逃しています。 どのように、現在に生きることになりますか。 現在に生きる精神とは、何ですか。
1:27:21 R: 現在に生きる精神は、自由な精神であり・・・
1:27:29 K: ええ。進んでください。私は待っています。私は、見出したいのです。
1:27:34 R: ・・・自己の観念より自由です。 自己の観念を持っているとき、あなたは、過去にか、あるいは、未来に生きます。
1:27:45 K: 今とは、私が見るかぎり - 私が、ではなく、一般的に見るかぎり、 過去は、現在において自体を修正して、つづいていきます。
1:28:00 R: それが普通のことです。

K: 待って。それが現在です。
1:28:05 R: いいえ。

K: すると、現在は何ですか -
1:28:10 過去より自由です。

R: ええ。
1:28:16 K: それは、過去より自由です - それは、時より自由だ、という意味です。
1:28:21 で、それが、今である、ただ一つの精神の状態です。 さて、私はお訊きしています - 気づきとは、何ですか。 それは来ますか・・・それはどのように、花開きますか。それはどのように、起きますか。 付いてきておられますか。

R: 技巧はない。
1:28:47 R: そのための技巧は、ない。

K: それは理解します。
1:28:50 R: それはどのように起きるかを、訊ねる中で、あなたは、方法を訊ねています。 

K: 全くそうです。
1:28:54 K: いいですか。切り捨てましょう。
1:28:57 私は、質問をするためだけに、「どのように」を使いました。方法のためではない。 私は逆の方から、それを表しましょう。 どんな様態で、この気づきは生じますか。 私は気づいていない。 仮に、私は気づいていない、とします。 私は、自分の些細な小さな悩みと心配、問題に、閉じこもっているだけです - 私はあなたを愛しているが、あなたは私を愛してくれない。 そのすべてが今、私の精神において、進んでいます。 私はそこに生きます。 あなたがやってきて、私に「それらに気づきなさい」と語ります。 私は、「あなたのいう気づくとは、どういう意味ですか」と言います。
1:29:45 R: あなたが私に、それを頼まれるとき - その些細さに、ただ気づきなさい、と。
1:29:52 K: ええ。で、それは、気づくという意味で・・・
1:29:57 R: あなたは、些細さについて、仰った。

K: ええ、ええ。あなたの些細さに、気づきなさい。
1:30:06 あなたがいうそれは、どういう意味ですか。

R: それに気づきなさい。
1:30:11 K: ええ。私は、どうあるかを、知りません。 私は、それがどういう意味かを、知りません。
1:30:15 R: それがどういう意味かを、知ることは、必要ではありません。
1:30:17 K: あなたが仰る、それは必要ではないとは、どういう意味ですか。
1:30:21 R: それに気づく。

K: そうです。 あなたは私に、それに気づきなさい、と語ります。 私は、盲目です。 私は、あれは象であると、思いますが、 私はどのように・・・質問に付いてきておられますか。 私は盲目です。私は光を見たい。 あなたは、「その盲目さに気づきなさい」と言う。 私は、「ええ、それはどういう意味ですか」と言う。 それは集中ではない。 で、私は、「見なさい。気づきは、そこに選択が存在しない何かです」と言います。 お待ちください。 気づきは、このホールに気づく、という意味です - カーテン、光、ここに座っている人々、 壁、窓の形に、それに気づく。 ちょっと待ってください。 私は、一部に気づくのか - 一部ずつ、一部ずつ、一部ずつか、 あるいは、私は部屋に入りながら、全体のことに気づく - 天井、ランプ、カーテン、窓の形、 床、斑の天井、あらゆる物事に、です。 それが、あなたが仰る意味ですか。
1:31:50 R: それもまた、一種の気づきです。 それもまた、気づきです。

K: それは、気づきです。 さて、違いは何ですか - 私は、範疇に別けていません。 どうぞ、私は不遜になっていません。 探究したがりとか、侮辱的とかではありません。 その気づきの感覚と、注意との間の違いは、何ですか。
1:32:14 R: 気づきの「感覚」と表すのは、間違っています。 気づきの感覚は、ありません。

K: いいですよ。
1:32:19 R: 気づきがあります。

K: その気づきと注意。 私たちが集中を廃棄したことは、お分かりですね - 私がドリルで壁に、穴を開けなくてはいけないとき以外は、です。 私は、自分がドリルで真っ直ぐ開けているのを、望みます。私は集中します。
1:32:40 R: いえ、いえ。私たちはまだ、それを排除していません。 集中はありますが、それは主なことではありません。
1:32:46 K: ええ、それは気づきではありません。
1:32:49 R: ですが、集中は、役立つか、助けになるかもしれません。
1:32:53 K: ドリルで真っ直ぐ、穴を開けるためには、ね。

R: ええ、ええ、そのように、です。 気づきにとってもまた、 それは助けになるかもしれません。 ですが、それは、中心点で集中ではない。
1:33:03 K: 私が数学を学ぶのなら、一定の集中の感覚が、なければなりません。
1:33:11 R: ええ、何のためにも、です。
1:33:14 K: ゆえに私は、当分の間、それを脇に置いているだけです。 注意とは何ですか。 注意する。
1:33:30 R: あなたは、例えば、気づき、注意深さ(マインドフルネス)、注意を、どのように説明されますか。 これら三つを、どのように判別されますか - 気づき、注意深さ(マインドフルネス)、注意の違いを、です。
1:33:49 K: 私は、気づきは、そこに選択がない、と言うでしょう。 

R: そうです。

K: ただ気づく - 選択が、気づきに入った瞬間、気づきは、ありません。

R: そうです。
1:34:11 K: 選択は、測量、分割などです。 で、気づきは、選択なしです - ただ気づく。 「私はこの部屋が好きでない。好きだ」と言うこと、そのすべてが、終わったのです。
1:34:26 R: ええ、そうです。
1:34:31 K: 注意。注意すること。 その注意の中に、分割はありません。
1:34:47 R: またそれは、選択なし、という意味です。

K: 当分の間、それを放っておきなさい。 注意は、分割なし、という含意です - 私が注意する、と(いうことがない)。 で、それは、分割を持たないし、ゆえに、測量を持たなくて、境界を持ちません。
1:35:11 R: 注意の中には。

K: 完全な注意の中には。
1:35:17 R: その意味で、それは気づきに等しい。

K: いえ、いえ、いえ。
1:35:22 R: なぜですか。
1:35:26 K: 気づきの中には、あなたがそこから気づいている中心が、あるかもしれません。
1:35:35 ステファン・スミス: 選択がないとしても、ですか。

R: いえ、いえ。それは気づきではない。
1:35:40 K: ちょっと待ってください。 私は戻らなければなりません。
1:35:43 N: あなたは、気づきと注意の間に、区別を付けておられます。
1:35:45 K: そうしたいと思います。
1:35:47 シャクンタラ・ナラヤン: あなたは、注意は、より深い過程であると、仰っていますか。
1:35:51 K: はるかに深い。全然違った性質です。 あなたがどんな服装をしているのかに、気づけます。 自分は、「私はそれが好きだ」とか、「私はそれが好きでない」とか、言うかもしれません。 で、選択は存在しません。あなたはそれに、気づいている。それだけです。 ですが、注意は、その中に、注意者、注意する者が、ない。で、分割がない。
1:36:38 R: 気づきの中でもまた、同じことを、言えます。 気づいている者は、ない。 気づきがある。
1:36:44 K: もちろん、そのとおりです。 ですが、それは、注意と同じ性質を、持ちません。
1:36:49 R: もちろん、私たちが議論したとおりですが、私は、これらの言葉に、入りたくありません。 ですが、ブッダの念住の教えは、 冥想の念住の実践において、区別がない、 価値判断がない、好きや嫌いがない、ということです - あなたはただ見る。それだけです。 起きることは、あなたが見るとき、起きるでしょう。
1:37:25 K: その注意の状態において、何が起きますか。
1:37:34 R: それは、もう一つの説明です。
1:37:37 K: いえ、いえ、いえ、説明ではない。 あなたが全的に注意するなら - あなたの耳で、眼で、身体でもって、神経で、精神すべてで、 心でもって - 慈しみ、愛、慈悲という意味で、 全的な注意です。何が起きますか。
1:37:56 R: もちろん、起きることは、絶対的な革命です。 内的で完全な反逆です。
1:38:04 K: いえ、いえ。完全に注意している、そういう精神の状態は、何ですか。
1:38:18 M: それは、流れより自由です。
1:38:22 K: いいえ。私たちはそれを、終了させました。
1:38:24 R: あの流れは今、干上がっています。 それについて、話さないでください! それは今や砂漠です。
1:38:33 K: 私は訊ねています - 最高に注意している精神の性質は、何ですか。
1:38:43 FM: 慈悲深い。
1:38:49 K: そうね、それは、何の性質も、中心も持っていません。中心も、境界も持っていません。 これは現実です。あなたは、これを、ただ想像できないのです。 それは、自らがいったい、そういう完全な注意を悲しみへ注いできたか、という意味です。
1:39:18 ステファン・スミス: その注意には、何か対象がありますか。何か対象がありますか。
1:39:26 K: もちろん、ありません。
1:39:28 R: どんな意味での対象?

K: 主観と対象、です。
1:39:31 R: 主観と対象。ええ、ええ。

K: 明白にない。 なぜなら、そう、分割がないからです。 それを試してみてください。 してください。一回、してください。
1:39:46 SS: 単に、物理的な対象物だけではなく、どの現象的な対象も、ということです - どの対象も、悲しみといったものや、それらすべても、です。
1:39:59 K: ええ、完全な注意を注ぐ - あなたができるなら・・・ 例えば、私はあなたに、語ります - 冥想は冥想者である、と。
1:40:16 R: そのとおりです。 冥想者は、ありません。

K: 待って、待って、待って。

R: そのとおりです。

K: 私は、冥想は冥想者であると、言います。 それへ、完全な注意を注いでください。 何が起きるかを、見てください。 それが、あなたに聞こえる発言です。 あなたは、それを抽象化して観念にしません。 その発言が、聞こえるだけです。 それは、真理の性質を持っています。 それは、大いなる美しさの性質を、持っています。 それは、絶対性の感覚を、帯びています。 今、あなたの注意全体を、それに注いで、何が起きるかを、見てください。
1:41:39 R: 仏教の冥想、念住はそれであると、私は思います。
1:41:48 K: 私は存じません。

R: ええ。私は、念住を知っております。
1:41:51 K: 私は、あなたの言葉を、そのまま受け入れるでしょうが、私は知りません。 

R: ええ。
1:41:55 念住についての私の意見を、受け入れることは、誤解につながらないだろうと、思います。
1:42:03 K: いえ、いえ。私は、それは誤解につながるとか、言っていません。 私は知りません。
1:42:08 R: 念住はそれです。

K: ええ。

R: 本当の念住の冥想は、それです。 さて、それを実践する人々に、訊ねるなら - そして、多くの冥想センターが、ありますが - それらは誤解につながると、 私は、あからさまに言います。

K: 戯言です。もちろん、それらは戯言です。
1:42:27 R: 私はそれを、あからさまに書きました。

K: ええ。それは戯言です。
1:42:31 R: ええ。なぜなら、あなたが、それはどのように起きるかを、お訊きになるとき、
1:42:34 それは方法、技巧を前提とすると、私は言いました。 

K: いえ、いえ。
1:42:38 私は訊ねています - そういう注意を、注ぐことができますか。
1:42:50 R: あなたは、それが可能なのかどうかを、訊ねていますか。
1:42:55 K: ええ。それは可能ですか。 あなたは、そういう注意を注ぐでしょうか。 あなたが、ではない。 私は、その質問をしています。 それは、私たちはいったい注意するのか、という意味です。
1:43:19 FM: 注意できるかと仰るとき・・・

K: 別の言い方をすると、
1:43:26 あなたは、注意するでしょうか。 FM: そうなんです。
1:43:29 K: そうなります。 FM: それにより・・・
1:43:30 K: もちろんです。注意するよう、意志を行使するのではない。
1:43:33 FM: ええ、ええ、ええ。全くです。

K: あなたは・・・そうね、それをどうにか・・・
1:43:37 FM: 自発的に、自然に、です。

K: ええ。してください!
1:43:40 FM: してください。そうです。
1:43:51 K: その注意が、ないなら、真理は、存在できません。
1:44:05 R: むしろ、真理は存在できないと言うことが、適切であるとは、私は思いません。 真理は存在します。真理は見られません。

K: ああ、真理は・・・私は知りません。
1:44:19 あなたは、真理が存在すると仰るが、私は知りません。
1:44:22 R: いえ。それは、真理が存在しないことを、意味しません。
1:44:25 K: ああ、私は知らないと、私は言いました。

R: ええ、それは正確です。
1:44:29 K: つまり、イエスは「天国の父」と言った、という。 私は、その父を知りません。

R: ええ、それはそうです。
1:44:37 K: それは存在するかもしれませんが、私は知りません。それで、私は受け入れません。
1:44:43 R: ええ、受け入れない。 その注意なしに真理は存在しない、と言うことは、正確だとは、思いません。
1:44:50 K: ああ、私は、その注意なしには、真理は生じえないと、言いました。

R: 真理が生ずることは、ありません。
1:45:00 K: ええ、もちろんない。

R: それもまた、正確ではない。
1:45:02 K: 違ったように、表させてください。いいですよ。

R: それは間違っています。
1:45:05 その注意なしには、「真理」という言葉は、何の意味もない。
1:45:19 R: そのほうが、いいでしょう。
1:45:20 K: 私は、それを言ってきましたよ。

R: そのほうがいい。
1:45:32 K: 私たちは、1時間45分、話してきましたね。
1:45:35 あなたのバスか列車がいつ行くのかを、私は知りません。
1:45:38 R: 私たちは今、発とうとしていると、思います。

K: ええ。私たちは、止めたほうがいい。
1:45:42 R: ええ。私は、みなさんに代わって・・・
1:45:46 K: いえ、いえ。

R: いえ、いえ、いえ。あなたに、ではない。
1:45:49 私は、これらすべての人々に、ありがとうと申し上げます。
1:45:52 K: よろしいです。