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BR82T3 - 秩序と平和をもたらす智恵 home
公開講話 第3回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1982年9月4日


1:23 私たちは、さらに二回の 講話を、行います。 今日と、明日の朝です。 私たちはともに、じっくりと 話し合うべきだと、思います - この世界において、平和に生きることが そもそも可能であるのかどうか、です。 人が生きている大地において、 何が起きつつあるかを 考慮して、です。 人は、大変多くの混沌を もたらしてきました - 戦争と、 世界で進んでいく ひどいことです。 これは、悲観的や 楽観的な視点ではありません。 事実を、ありのままに 見つめるだけです。 見たところ、この地上に平和を 持つことは、可能ではありません - 私たちの生において お互いに友情をもち、慈しみを もって生きることが、です。 そして、平和に生きるには、 自分自身において、そして 世界とに、何か平和を持つには、 大変多くの智恵を持つことが 必要です。 2:50 「平和」という言葉と、平和な生を 生きるよう格闘することだけではない - そのときそれは、単に、 かなり植物的な生になります。 この世界に生きることは可能 であるかどうかを、探究する - こうも無秩序、こうも 不正義があるところに、です。 その古風な言葉が 使えるなら、です。 そもそも生きられるのか - それ自体と平和である 一定の精神と心の 性質をもって、です。 果てしなく格闘し、 格闘しつづけ、 葛藤の中、 競争の中、 模倣と順応の中に ではなく、生きる。 満足した生を、ではなく、 充足した生を、ではなく、 この生において何か結果を 達成してきた生を、ではない。 何か名声や何か悪名や 何か富(を達成した生)を、 ではない。 平和の性質を持つのです。 4:26 私たちはともに、それに ついて、話をすべきです。 私たちは協働して、見出す ように、それに入るべきです - 私たちがそういう平和を持つことがそも そも可能であるのかどうかを、です。 精神の平和ではない。 それはただ、一切れ、 小さな一部分だけに なるでしょう。 この妙な性質を 持つことです - 動揺していなくて、 ものすごく活きていて、 動揺していなくて、 平穏で、静かで、 威厳の感覚をもち、 どの卑俗の感覚もない ものを、です。 そういう生を 生きられるのかどうか。
5:25 自らがそういう質問をするのか どうか、私は知りません - 全的な無秩序に 取り囲まれていながら、です。 それについて、きわめて明らかで なければならないと、私は思います - 外的に、全的な 無秩序が、あります。 毎朝、あなたは 新聞を読みます。 それは、何か ひどいことです。 こうも驚異的な速度で 移動できる航空機 - 大地の片隅から反対へ、 燃料補給をする ことなく、 大変な重さの爆弾を 運んで、です。 数秒で人を 破壊できる毒ガス、 このすべてを 観察することと、 人が到ったことを悟ること。 この質問をする中で、あなたはそれは 不可能であると言うかもしれません - この世界に、全く内的に 動揺しないで生きることは まったく可能ではない、と。 6:54 何も問題を持たないこと、 全く自己中心的でない生を生きる ことは(可能でないと)、です。 私たちは、これについて どう話しましょうか。 話すこと、言葉を使うことは、 ほとんど意味がありませんが、 言葉をとおし、互いに 意思疎通するのをとおして 見出すこと、 全く静かである状態を 見出すか、 発見するか、それに 出くわすこと。 それは、智恵を 必要とします。 夢想ではなく、 冥想と呼ばれる何か 妙な白昼夢、ではなく、 何かの形の自己催眠ではなく、 それに出くわすことは、 私たちが言いましたように、 智恵を必要とします。
8:24 で、私たちは訊ねなくては いけません - 智恵とは何ですか。 私たちが先日 言いましたように、 幻影のようなもの、 偽りであり、 現実的でないものを 知覚すること、 そして、それを捨て去ること - 単に、それが偽りであると主張し、 同じように 継続するだけではない。 それを完全に捨て去る。 それが、智恵の一部です。 例えば、民族主義は、 そのすべての特有の愛国心、 孤立、狭さとともに、 この世界においてきわめて 破壊的であるのを、見る。 それは、世界の毒なのです。 そして、それの真理を見ることは、 偽りであるものを、捨て去ることです。 9:35 それが智恵です。 それともにやっていくこと、 それは愚かだと認知しながら、 続けていく - それは本質的に、愚かさと 無秩序の一部です。 それは、無秩序を 創り出します。 で、智恵は、こうではないでしょうか - 私たちはともに話し合っています - 私は、そうであるとか、そうで ないとか、言っていません。 私たちはこの問いを、きわめて 真剣に究明しています。 智恵とは何ですか - それのみが、自分の生に 完全な秩序と平和をもたらし うるものは(何か)、です。 そして私たちは 言いました - このとてつもない智恵の 性質があるときだけ、 それは訪れられる、と いうことを、です。 10:39 そして、智恵は、論議の 利巧な追求ではありません - 対立する知識、 矛盾した意見の (追求ではないし)、 意見をとおして真理を見つけること ではありません - それは不可能です。 が、思考の活動が その能力すべてを もってしても、 その微妙さすべて、 思考のとてつもない幅を もってしても、 智恵ではないと、 悟ることです。 智恵は、思考を 越えています。 どうぞ、語り手に 同意しないでください。 私たちは、それを見つめて います。それに入っていきます。
11:50 で、平和に 生きるためには、 見出さなくては いけません - 無秩序とは何ですか。 私たち、人間は、 とてつもなく進化してきたと 思われていますが、 私はそれを疑います。 一定の方向では、とてつも なく能力がありますが、 なぜ彼らは、日々の生で 無秩序を生きて、忍耐しますか。 私たちが、この無秩序の根、 原因を発見でき、 よく気をつけて、 それを観察できるなら、 原因であるものへの その観察こそが、 その観察の中に、智恵の 目覚めが、あるのです。 秩序があるべきであり、秩序を もたらすために奮闘するのではない。 12:54 すなわち、混乱した 無秩序な精神や頭脳や、 自分の生の活動、 その無秩序、 矛盾し、対立し合った その精神の状態 - 秩序を探し求めるそういう精神は やはり無秩序であるでしょう。 私たちがこれを了解するのか どうか、私は知りません。 私は混乱し、不確実です。 一つのものから 別のものへ行き、 多くの問題の重荷を 負っています。 そういう生、そういう精神、 そういう生き方 - そこから、私は 秩序がほしいのですが - そのとき私の秩序は、私の 混乱の中から生まれています。 ゆえに、それはやはり 混乱しています。 これをご覧になるのか どうか、私は知りません。 いいですか?
14:04 私が、無秩序の中から 秩序を選択するとき、 選択はやはり、無秩序に 基づいています。 これが明らかであるとき、 無秩序とは何ですか。 それの原因とは? 私たちが言いましたように、 それは多くの原因を持っています - 充足したいとの欲望、 充足しないことの心配、 自らが生きる 矛盾した生。 一つのことを言って、 全然違ったことをする。 抑圧しようとし、 何かを達成しようとする。 これらはすべて、 自分自身の中の矛盾です。 自らは、多くの原因を 見出せますが、 原因を探求する追求は 終わりがありません。 ところが、もしも私たちは 自分自身に、訊ねられたなら - これらすべての 多くの原因の中から、 一つの原因があるのか。 一つの根本原因が あるのか、と - 15:31 明白に、あるに ちがいありません。 そして私たちは、これの 根本原因は自己、「私」、 自我、人格であると、 言っています。 それ自体は、思考により 組み立てられています - 記憶により 様々な経験により、 一定の言葉、一定の性質 などによって、です。 分離、孤立のその感じ - それが、この無秩序の 根本原因です。 その自己が、どんなに 自己でないようにしても、 それはやはり、 自己の追求です。 いいですか? 自己は、民族と同一視する かもしれません。 より大きなものとのその同一視 こそが、やはり栄達した自己です。 私たちの一人一人が、様々な 形で、それをしています。 で、思考により組み立てられて いる自己が、あります。 それが、私たちが生きるところの この全的無秩序の根本原因です。 17:16 もし私たちが、自己を取り除く ことは不可能であると、言うなら、 それは、間違った問いです。 しかし、私たちが、何が無秩序を 引き起こすかを、観察するとき、 自らは、無秩序が慣習に なっているのでなければ・ ・・ で、自らは、そういう無秩序の 中に、生きてきたのです。 私たちは、それを自然だと 受け入れますが、 私たちが、それを 問いはじめ、それに入り、 それがその根である ことを、見るとき - それを観察する。 それについて何を するのでもない - そのとき、その観察こそが、 無秩序の原因である中心を 解消しはじめます。 私たちはともに、これらに 付いてきていますか。
18:15 私たちは言いました - 智恵は、真実であることの 知覚である、と。 偽りであることを 全的に脇に置くことと、 偽りの中に 真理を見ること、 そして、思考の活動すべては、智恵 ではないことを悟ることです。 なぜなら、思考自体は、知識から 出てきたものであるからです - それ(知識)は、 記憶としての経験の結果です。 そして、その記憶の 応答が、思考です。 それで、知識はいつも 制限されています。 それは明白です。 完璧な知識は ありません。 で、思考は、 そのすべての活動をもち、 そのすべての知識を もってしても、 智恵ではありません。 いいですね? で、私たちが訊ねている ことは、ですね、 知識は、生において、どんな 所を、持っていますか。 19:49 なぜなら、私たちの生すべては 思考に基づいているからです。 何でも私たちがすることは、 思考に基づいています。 いいですか? それは明らかです。 私たちの活動すべては 思考に基づいています。 私たちの関係は 思考に基づいています。 私たちの発明、 テクノロジー的なものと 非テクノロジー的なものは、 やはり思考の活動です。 私たちが創り出してきた 神々、そして儀式 - ミサと、そのすべてのサーカス 全体が、思考の産物です。 で、人の退廃において、知識は どんな所を、持っていますか どうぞ、あなたは、これに 入らなければなりません。 あなたは、この質問を しなければなりません。 私たちは進行できますか。
21:01 私たちは、無量の知識を 蓄積してきました 科学の世界において - 心理学、生物学、数学など、 大変多くの知識を、です。 そして私たちは、 知識をとおして私たちは 向上するだろうと、考えます - 私たちは解放されるだろう、 私たちは変容するだろう、と。 そして私たちは、 問うています - 生において、知識は どんな所を持っていますか。 知識は、私たちを 変容させてきましたか。 私たちを善くしましたか。 またもや、 古風な言葉です。 それは、私たちに誠実さを 与えてくれましたか。 それは、正義の 一部ですか。 22:07 それは、私たちに自由を 与えてくれましたか。 もちろんそれは、私たちに、 一つの国から別へ旅行できる、 通信できる、という意味で、 自由を与えてきました。 で、すべて、知識と思考に 基づいています。 より良い通信、 より良い学びの体系 などです。 コンピューターと 原子爆弾 - そのすべてが、蓄積された 大変多くの知識の結果です。 そして、この知識は、 私たちに自由を 与えてきましたか。 正しき生を、 本質的に善い生を、 (与えてきたの)ですか。
23:24 で、私たちはまたもや、それら 三つの言葉を、検討します - 自由、
23:30 正義(正しさ)と 善さです。 これが、問題の一つであったのです - これら三つの言葉が、 自らが、正しき生を 生きられるのかどうかを 見出そうといつも格闘してきた 古代の人々において、です。 その言葉「正しい」は、 正義である、 正義を持つ、 善意の行為をする、 寛大さをもって行為する、 という意味です。 憎しみ、敵意を 取り扱うのではない。 正しき、正しい種類の生を送るとは どういう意味かを、ご存じですか。 様式に沿って、ではなく、 思考による何か空想的な、投影 された理想に沿って、ではなく、 大いなる慈しみを 持っている生、 正しく、真実で、 正確な生です。 25:00 そして、この世界には、 正義がありません。 あなたは利巧です。 私はそうではありません。 あなたは権力を持っています。 私は持っていません。 あなたは、世界中を 旅行できます。 著名人みんなと 会えます。 私は、小さな町に生きて、 来る日も来る日も働きます。 小さな部屋で生きます。 そこには、どこに 正義がありますか。 そして正義は、外的な活動に 見つけられることになりますか。 すなわち、あなたは、総理大臣、 大統領になるかもしれません。 大陸をまたぐ大企業、 大会社の トップになるかもしれません。 私は永遠に、ずっと下の 事務員であるかもしれません。 兵士かもしれません。 で、私たちは、正義を あそこに探し求めますか。 すなわち、私たちは、平等主義の 国家を、もたらそうとしています。 26:29 世界中で、彼らは それを試しています - それが正義をもたらす だろうと、考えて、です。 または、正義は、それらを離れて 見つけられることになりますか。 どうぞ、私がこれを 訊ねているとき、 あなたが、この質問をして います。 語り手が、ではない。 語り手は、私たちが 探究していることを、 言葉に表しているだけです。 正義には、一定の誠実さが 関与しています (誠実、インテグリティ) - 全体的であり、 統合的である。 砕けてしまっていない。 断片化していない。 それは、比較がないときだけ、 起こりえます。 しかし、私たちは いつも比較しています - より良い車、 より良い住宅、 より良い地位、 より良い権力、 などです。 28:04 それは、測量です。 測量があるところ、 正義はありえません。 よろしいですか。 ご覧ください。 模倣、順応があるところ、 正義はありえません - 誰かに 従っていては、です。 私たちは、これらの言葉を 聞きます。 私たちは、 これらの物事の美しさ、 性質、深さを、見ません。 そして私たちは、表面的に同意し、 それから歩み去るかもしれません。 しかし、言葉、 それの深さの了解は、 しるしを残すに ちがいありません - 種子を、です。 正義は、その中に、私たちに なければなりません。
29:17 そしてまた、「善さ」と いう言葉も、です。 それは、きわめて 古風な言葉です。 自分はもはや、めったに その言葉を使いません。 先日、私たちは、幾人かの 心理学者へ話していました - 相当に有名な人です。 自分はその言葉を使いましたが、 彼は恐怖しました。 彼は、「それは 古風な言葉です。 その言葉を使わないで ください」と言いました。 しかし、自分は あの古風な言葉が好きです。 で、善さとは何ですか。 それは、悪いものの 対極ではありません。 もしそれが、悪いものの 対極であるなら、 そのとき善さは、 悪さに根付いています。 30:27 自らがこれを悟るのか どうか、私は知りません。 何でも対極を持つものは、 それ自体の対極に、根付いて いるにちがいありません。 いいですか? で、善さは、私たちが悪いと 考えるものに、関係していません。 それは全的に、他方より 離別しています。 で、私たちはそれを、ありのままに 見つめなければなりません - 対極への反応として ではない。 いいですか。 善さは、深い誠実さの性質を 含蓄しています。 誠実さ(インテグリティ. 統合性)は 全体的であることです。 砕けていない。 内的に断片化していない。 そして善さはまた、正しき 生の道を、含意しています - (正統的な)教会という ことに立って、ではない。 または、道徳や、 正義の倫理的概念(という ことに立って)でもない。 真実であることと 虚偽であることを 見て、 あの敏感さの性質を 維持する人物です - それを即時に見て、 行為する(性質を)、です。 32:13 そして、「自由」という言葉は きわめて複雑な言葉です。 自由があるとき、 正義があります。 善さがあります。 で、私たちは、ともに探究 しなくてはいけません - 自由とは何ですか。
32:41 どうぞ、私たちはともに これに入りつつあります。 あなたが語り手に聞いて いるだけではない。 もしあなたが単に、語り手に 聞いていて、その中から 幾つか観念を得ているだけなら - そうでないことを私は望みます - あなたが単にそれを聞いているだけ なら、それは、もう一つの講義、 もう一つの説教になります。 そして自分は、それらの種類の ものに、うんざりしています。 ただ教会へ行ったほうが いいかもしれません。 しかし、その言葉が ぴんと来るなら、 その言葉が 目覚めさせるなら - その言葉の深さが、です - その言葉が扉を開くなら、 それをとおして、あなたは その言葉の甚大さを、見ます。 「私は自分の怒りから 自由でありたい」ではない。 それはすべて なかなか・ ・・ または、「私は 頭痛がしている。 私はそれから自由に ならなければならない」とか、 「私は、なかなかやっかいで 退屈な関係を、持っているし、 私は離婚したい」 とかではない。 34:08 私たちにとって自由は、選択 できる能力であったのです。 自分は選択するから、 自由であると考えます。 いいですか。 そうなのです。 なぜなら、あなたは 海外へ行くのを選択できる、 あなたは自分の仕事を 選択できる、 あなたは、自分がしたい ことを選択できるからです。 しかし、全体主義の世界では あなたは、それらをできません。 そこでは彼らが、それを すべて踏みつぶします。 彼らはあなたに、順応、 服従させ、従わせたいのです。 いわゆる民主主義の 世界では、 やはり、いわゆる自由の 選択が、あります。 選択があるところ、 自由がありますか。 どうぞ、それに 入ってください。 誰が選択しますか。 そしてなぜ、選択しなくては いけませんか。 自分がきわめて 明らかであるとき - 客観的に、 非個人的に、非感傷的に、 きわめて精確に考えられる自分の 能力において(明らか)です - (そのとき、)選択の 必要は、ありません。 35:54 自由があるとき、すなわち、 混乱がないとき、 選択はありません。 選択するのは、 混乱した精神だけです。 そうなのです。 あなたは あなた自身を見つめます。 あなたが、二人の国会議員の 間で、選択するとき、 あなたは、誰に投票 すべきかを、知りません。 で、あなたは、自分が好きな人、 言葉の上でかなり良く聞こえる人を 選択しますが、それらの ゲームはご存じです。
36:33 で、自由とは何ですか。 自由は、投獄の対極 ではありません。 そのときまたもや、それは全然 違った種類の逃避になります。 で、自由は、何からの 逃避でもありません。 (何かからの逃避) それは、 知識により条件づけられて きた頭脳を、意味しています。 知識はいつも 制限されています。 ゆえにいつも、無知の 平野の中で生きています。 そういう頭脳は、 思考の機構なのですが、 思考をとおして、 自由はありえません。 私たちがこれらを理解するのか どうかと、思われます。 すなわち、 私たちはみな、一定の種類の 恐れの中に、生きます - 明日への恐れ、 多くの昨日に起きてきた ことへの恐れ(の中に)です。 私たちは、その恐れからの 自由を、探し求めます。 38:14 で、(そのとき)自由は 原因を持っています。 すなわち、私は恐れています。 私は その恐れの原因を見つけたのです。 そして今、私は、 その恐れを免れたのです。 ゆえに、私は自由です。 原因があるところ、 結果は終わりえます。 病気のように、です - それに罹っているなら、ですが、 その病気と、その病気の 原因への探究です。 そのとき、その病気は 治せます。 で、私たちが、因果と自由と いうことに立って考えるなら、 そのとき、その自由は まったく自由ではありません。 自由は、生の一定の期間に おいてだけではなく、 - 自分の生をとおしてずっと 自由を、含蓄しています。 ゆえに、自由は 原因を持っていません。 これらに付いてきて おられますか。
39:31 さて、このすべてを 述べておいて、 悲しみの原因を 見つめましょう - そして、その原因がいったい 終わりうるのかどうかを、です。 なぜなら、人は、私たちのみんなは 何らかの形で苦しんできたからです - 死をとおし、 愛の欠如をとおし、 または、他の一人への愛を 持っていても、 お返しを 受け取らないことで、です。 悲しみは、きわめて多くの 顔を、持っています。 人は、悲しみから逃避 しようとしてきました - 古代の時からです。 そして私たちは、これら数百万 年の後、やはり生きます。 私たちはやはり、悲しみと ともに生きます。 40:48 人(マン)は涙を - または、 女(ウーマン)もですが - 人は、語られぬ涙を、 流してきました。 人間たちにこんなに苦悶、 大きな心配を もたらしてきた戦争が、 あったのです。 そして見たところ、 私たちは、その悲しみから自由 であることができませんでした。 これは、美辞麗句の 問いではありません。 それは可能ですか - 人間の頭脳、人間の精神、 人間の存在が、 悲しみの心配と、それに 関する人間の苦労すべてから、 全的に自由であることが (可能か)、です。
42:02 ともに行きましょう。見出す ように同じ小道を歩みましょう。 同じ道路を、です。 できるなら、ともに歩みましょう - 私たちの日々の生の中で、 私たちがこのひどい重荷 - 人が生きてきた時から 今まで運んできたもの - を 終わらされるのか どうかを見るように、です。 そのような問いへ、あなたは どう接近しますか。 私たちは訊ねています。 問いは、 悲しみが終わることですが、 あなたはそれにどう 接近しますか。 その問いへのあなたの 反応は、何ですか。 あなたの精神の状態、 あなたの性質は、 何ですか - その種類の問いが、私たちに 出されるときに、です。 43:14 「私の息子は死にました」、 「私の夫は去りました」、 「私には、私を裏切ってきた 友だちが、います」、 「私は従ってきたが、 二十年後、それは 何の成果もなかった」と。 悲しみは、こうも大きな 美しさと痛みを、含んでいます。 今、私たちの一人一人は その問いへ、どう反応しますか。 私たちは、「私はそれを 見たくもない」と言いますか - 「私は苦しんできた。 それは、人の定めである」と。 私はそれを合理化して、それを 受け入れて、進んでいきます。 それは、それを取り扱う 一通りのやり方ですが、 あなたは、問題を 解決してきませんでした。 またはあなたは、 その悲しみを象徴へ送付し、 その象徴を崇拝します - キリスト教でやられて いるように、です。 44:50 または、古代ヒンドゥー教徒が してきたように、 それは、あなたの定め、 あなたの業である、と。 または、現代の世界では、 あなたは、自分の親がそれに 責任があると、言います。 または、自分の社会が (責任がある)、とか、 自分は遺伝的に或る種の 遺伝子を継承したし、 自分はそのために 苦しまなくてはいけない、 などなどとです。 千もの説明が あったのですが、 これらの説明は、 悲しみの苦痛と辛さを 解消してきませんでした。
45:41 で、私はこの問いへ どう接近しますか。 私たちは、面と向かって それを見つめたいですか。 または、気軽に、ですか。 または、おののきを もって、ですか、 私は、そういう問題に どう接近しますか。 接近は、問題へ近づく ことを、意味しています。 きわめて近く、です。 すなわち、悲しみは 観察者より異なっていますか - 「私は悲しみの中にいる」 と言う者より、です。 彼が、「私は悲しみの中に いる」と言うとき、 彼は、あの感じより 自分自身を、分離したのです。 で、彼はまったく、それに 接近しなかったのです。 彼は、それに近づかなかった。 それに触れていないのです。 で、私たちは、それを忌避 しないで、それを送付しないで、 それより逃避しないで、 そういう親しさをもって それに来られますか。 それは、私は悲しみである、 という意味です。 47:23 そうですか。 私は怒りである、 私は嫉妬である ように、です。 しかし、私はまた、妬まないとの 観念をも、考案してきました。 その考案は、それを遅延させ、 先送りしてきました。 しかし、事実はこうです - 私は妬みです。 私は悲しみです。 それが何を意味するかを 悟られますか。 誰かが私に悲しみを 引き起こしたのではない。 私の息子は死んだ、ゆえに 私は涙を流すのではない。 私は、自分の息子のため、 妻のために、涙を流すでしょう - それが誰であっても、 ですが、 それは、あの喪失の 痛みの外的な表現です。 あの喪失は、あの人物への 私の依存の結果です - 私の執着、私が それへ縋りつくこと、 私は彼なしでは迷っている との私の感じの(結果)です。 48:49 で、いつものように、私たちは 症状に対して行為しようとします。 私たちは、この甚大な問題、 すなわち悲しみの まさしく根へ、 けっして行きません。 で、私たちは、悲しみの外的な 効果について、話していません。 もしあなたが そうであるなら、 薬物を摂って、自分自身を きわめて静かに鎮静させられます。 または、錠剤を飲んで、 余生の間、受け流せます。 余生の間ではなく、あなたは それを終わらせられますが、 私たちはともに、私たち自身で 見つけようとしています。 言われて、それから 受け入れるのではない。 実際に、私たち自身で それの根を、見つけるのです。
49:59 痛みを引き起こすのは、 時ですか。 時計による時や、昼間や日の出、 日の入りによるのではなく、 思考が心理的領域において 創案してきた時です。 質問を理解されますか。
50:29 質問者: 心理的な時というのは どういう意味ですか。
50:32 K: 説明しましょう。 少し辛抱してください。 私たちは、きわめて深刻な 質問をしています。 あなたは私に、心理的な時が 何であるかを、訊ねていません。 あなたは、その問いを あなた自身に、訊ねています。 おそらく語り手が、 あなたに促す、 それを言葉に表すかもしれません が、それはあなた自身の問いです。 私は、息子を持っていました。 兄弟、妻、 父、母を、です。 そして、 私は失ってしまいました。 彼らは 去ってしまいました。 彼らは二度と 戻りえません。 彼らは、地表から 拭い去られてしまいました。 もちろん私は、彼らが別の次元に 生きていると、考案できます。 そうね、それらのことですが、 51:40 私は彼らを 失ってしまいました。 ピアノや(暖炉の)マントル ピースの上に、写真があります。 私が彼らを憶えて いるのは、時です。 彼らがどんなに私を 愛してくれたのか、 私がどんなに彼らを 愛していたのか、 彼らがどんなに 助けであったのか、と。 彼らは、私のさびしさを覆い 隠すのを、助けてくれました。 そして、彼らを憶えている ことは、時の動きです。 昨日、彼らはそこにいましたが、 今日、去りました。 すなわち、記録が、頭脳の 中で、起きてきました。 理解されますか。 憶えておくのは、頭脳のテープ への記録です。 ですね? その記録は、いつの時も 再生されています - 私が森の中で、彼らと どう歩いたのか、 私の性的な思い出、 私の仲間付き合い、 彼らに由来した 私の慰め、 そのすべてが 去りました。 53:26 そして、記録することは 続いていきます。 この記録することが 記憶です。 記憶は時です。 どうぞ、これを 聞いてください。 あなたが興味を持ち、それに きわめて深く入るなら、です。 興味を持っておられるなら、です。 私はそうするよう頼んでいません。 私は、兄弟とともに 生きてきました。 私の息子と、です。 私は彼らと、幸せな日々を 過ごしてきました。 ともに多くのことを 楽しみましたが、 彼らは去りました。 そして、彼らの記憶は 残っています。 痛みを引き起こしているのは その記憶ですか。 そのために、私は自分のさびしさの 中で、涙を流しています。 さて - どうぞ、 見出してください - 記録しないことは 可能ですか。 54:50 これは、きわめて 深刻な問いです。 私は、昨日の朝早く、 太陽を楽しみました。 晴れていて、 木々の中で美しく、 芝生に金の光を投げかけ、 長い影がありました。 それは、気持ちいい 麗しい朝であったし、 それは、記録されて きました。 私はあの朝を 楽しみました。 それがどんなに美しかったのか - 今、反復が始まります。 理解されますか。 私は起きてきたこと、私に 喜びを引き起こしたことを 記録してきました。 その記録は、 レコードプレーヤーや テープレコーダーのように 反復されます。 それが時の本質です。 55:59 そして、まったく記録しない ことは、可能ですか。 昨日のあの日の出 - それを見つめる、 それへあなたの注意 全体を向けるが、 それを記録しない。 それは去りました - あの光の瞬間、 芝生の上の、あの金の光。 長い 影をもったものは、去りました。 しかし、それの記憶は 残っています。 あれを見つめるが、 記録しない。 見つめる注意こそが、 記録するのを 拭い去ります。
56:54 で、私たちは訊ねています - 時が、悲しみの根ですか。 思考が 悲しみの根ですか。 もちろんです。 で、思考と時は、 私の生の中心です。 いいですか? 私はその上に生きます。 そして、何かが起きるとき - 徹底的に辛いことが、です - 私は、あの様式へ 戻ります。 それらの記憶へ、です。 そして私は 涙を流します。 「私がそれを見つめていた とき、彼がここにいて、 あの太陽を楽しんで くれたらなあ」と。 これらを ご存じないですか。 私たちの性的な記憶 すべてについても、同じです - 映像を築き、 それについて考える。 そのすべてが 時と思考の部分です。 もしあなたが、時と思考が 内的に止まることが どうして可能であるのか、 と訊ねるなら、 またもや、それは 間違った問いです。 58:42 しかし、これの真理を 悟るとき - 他の一人の真理、 ではありません。 あの真理への あなた自身の観察、 あなた自身の 知覚の明瞭さです - それが、悲しみを 終わらせるのでしょうか。 すなわち、悲しみの一部は 私のさびしさです。 私は結婚しているかも しれません - 子ども、責任、 クラブに所属する、ゴルフを する、その他すべてです - もし自分は 運が良ければ、です。 そこで、私は記録 しなければなりません。 そこで記録することは 知識です。 私は知識を 持たなければなりません。 しかし、あの日の出は、 雲のない青い空の中で、 そして、無数の影。 私は、(詩人)キーツを 引用していません。 あれを記録する、何の 必要がありますか。 それは終わりました。
1:00:31 で、心理的に 記録することなく、 生をどう生きるのかを 見出すこと。 理解されますか。 そういうものすごい 注意を向けることです。 記録することがあるのは、 不注意があるときだけです。 私は、自分の兄弟に 慣れています - 自分の息子に、自分の妻に、 自分の母親に、です。 私は、彼らが何と言う だろうかを、知っています。 彼らは、同じことを、 しょっちゅう言ってきました。 彼らは、反復してきました。 彼らは、叱ってきました。 私は彼らを知っています。 私が、「私は彼らを知っている」 と言うとき、私は不注意です。 私が「私は妻を知っている」 と言うとき、 明白に私は、彼女を 本当は知りません。 なぜなら、生きているものを、あなたは とうてい知りえないからです。 あなたが知りうるのは、 死んだものだけです。 あなたが知っているのは、 死んだ記憶です。
1:01:59 で、大きな注意をもって これに気づいているとき、 悲しみは、全然違った 意味を、持っています。 悲しみから学ぶことは 何もありません。 悲しみが終わること だけが、あります。 そして、悲しみが 終わることがあるとき、 愛があります。 私はどうして、 他の一人を愛せますか。 あの愛の性質を 持てますか - 私の生全体が記憶に 基づいているとき、 私が(暖炉の)マントル ピースに掲げていたり、 ピアノに載せたりしている写真に (基づいているときに)、です。 私が、記憶の広大な構造に捕らわれて いるとき、私はどうして愛せますか。 で、悲しみが終わることは、 愛が始まることです。
1:03:20 明日、私たちはともに、 死の本性と 冥想について、じっくり 話し合うべきだと、思います。 今朝は、それで十分です。
1:03:44 私は物語を 繰り返してもいいですか。 教師、 宗教的な教師が、 幾人もの弟子を 持っていました。 彼は毎朝、彼らに 話をしていました - 善さ、美しさ、愛の 本性について、です。 或る朝、彼は 演壇へ上がりました。 ちょうど彼が話しはじめ ようとしていると、 さえずる鳥が、窓の敷居に 舞い降りて、 歌い、さえずりはじめます。 彼は、しばしの間、 さえずって、消え去ります。 で、教師は、言います - 「今朝の説教は 終わりました」と。
1:04:46 どうぞ、立ち上がっても いいですか。
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