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BR83CB2 - 意識の進化とは存在するのか?
デービッドボームと談話 第二回
ブロックウッドパーク イギリス 
1983年6月20日



0:10 クリシュナムルティ: 前回は人類の未来について 議論をしました 私が理解する限り心理学者達は皆 人類の未来を本当に懸念しているでしょうか? または人間の 現代社会への順応を懸念するのでしょうか またはその先でしょうか?
0:58 デイビッドボーム: 殆どの心理学者は 明らかに社会への順応を望むでしょうが ある心理学者達は - 私達の議論を聞いている方々は - それを超え人間の意識を 変えると考えていると思います
1:13 K: 人類の意識は時間の経過で変えられるでしょうか? 今夜の議題の一つとしてそれを議論すべきです
1:22 DB: はい実に前回議論しました 明らかになった事は: 意識において時間は関連がなく それはある種の錯覚である事です 何かになる事の錯覚について議論しました
1:44 K: 議論しました- 明確にしましょう - 意識の進化とは 間違った推論です
1:57 DB: 時間を通してですね? しかし物理的進化はそうではありません
2:03 K: はい もっと単純にこう言えますか: 心理的進化はないと もしくは精神の進化はないと
2:16 DB: はい人類の未来は精神に左右されますから 人類の未来は時間の経過を通して 決まるのではないようです そこで質問が残ります:私達はどうするか?
2:32 K: ではそこから始めましょう
2:37 K: まず脳と心理を識別するべきでしょうか?
2:45 DB: その識別はされて来たがはっきりしません 勿論です様々な見解があります 一つの見解は意識とは脳の単なる一機能だと - それが物質主義者の見解です 他の見解がありそれは 心と脳は二つの異なるものです
3:01 K: はい私は二つ異なるものと考えます
3:05 DB: しかしそこには...
3:07 K: 二つの間の接点二者間の関係性
3:11 DB: 必ずしもこの二つの分離を暗示しません
3:16 K: まず脳をみてましょう 私は脳の構造など そういった事の専門家ではありません しかし自分の脳の活動を観察する事はできます それはまさにプログラムされ 記憶するコンピューターのようです
3:43 DB: 確かに大部分の活動はそうです しかし全てそうなのかは不明です K: ええ そして条件づいていますDB: はい
3:54 K: 過去の世代によって条件づいています 社会や新聞雑誌によって 外部からのあらゆる活動と圧力によってです 脳は条件づいています
4:10 DB: この条件とはどういう意味でしょう
4:12 K: 脳はプログラムされおりある種のパターンに順応します それは全て過去に存続し 現在に自ら修正して進み続けます
4:32 DB: ある程度この条件とは便利で必要だと 同意してきました
4:36 K: 勿論ですそれは前回議論しました
4:38 DB: しかし自己を決定付ける 条件とは
4:45 K: 精神DB: 精神としましょう
4:48 K: 一旦これを精神と呼びましょう 自我
4:51 DB: 自我 精神 その条件付けについてを議論しています それは不必要なだけでなく有害でもあるでしょう
4:58 K: はいそれについても議論しました 精神について強調 - いま議論する通り - 自我に重要性を付与しています これが非常に大きな損害を世界につくり出しています それは分離的ですから よって常に対立します それ自体の中だけでなく社会とも 家族などともです
5:34 DB: はいそして自然界ともです
5:37 K: 森羅万象にもと言えるでしょう
5:40 DB: 前回の議論では対立が起る理由は
5:44 K: 分離であると
5:46 DB: 分離が起るのは思考がこの条件付けに 基づいて限定的だからです この知識と記憶は限定的です
5:54 K: そして経験は限定的すなわち知識は限定的で 記憶と思考 思考は限定的です そしてその構造と精神の本質は 時間の中の思考の動作です
6:11 DB: 質問をしたいのですが: 思考の動きについて議論する際 何が動いているのか私にははっきりしません 私の手の動作は実際の動きだと議論しました それは意味が明確です しかし思考の動きの議論となると私には ある種の錯覚か何かを議論しているようです なぜなら何かになる事が思考の動きだと
6:35 K: 何かになる事の動きという意味です
6:38 DB: でもその動きはある意味錯覚なのですよね?
6:41 K: はい 勿論です
6:42 DB: しかし寧ろそれは画面上の動作のように プロジェクターから投影され そして画面からは何の物体も動いておらず しかし唯一実際の動作とはプロジェクターの起動です そこで脳の中には実際の動作があると言えますか これら全てを写しだしそれが条件づく事であると?
7:02 K: それは私が知りたい事です少し議論を進めましょう
7:06 K: 脳は条件付いている事に私達は互いに同意 理解します
7:10 DB: それはつまり 実際に物理的に化学的に 影響をされて来ました
7:17 K: 遺伝子学的にも心理学的にもです
7:20 DB: では物理的と心理的の違いは何でしょうか
7:24 K: 心理的 それは自己の中心にあり 継続的な自我の主張で それが動作であり条件付けです
7:51 DB: はいしかし経験するにあたり それは錯覚なのですよね?
7:56 K: 錯覚であると言いました
7:57 DB: しかし中では実際何か動きが起きています 脳を例えにすると何か機能しています 脳は物理的に化学的に条件付いており 自己を考える際に物理的に化学的にも 何かが起きています
8:15 K: 仰っている事はむしろご質問は: 脳と自我は二つ異なるものであると?
8:25 DB: いいえ自我とは脳を条件づけた結果です
8:30 K: はい自我が脳を条件付けています
8:34 DB: はいしかし自我とは存在しますか?
8:38 K: いいえ
8:39 DB: しかし脳の条件付けとは私の見解は 自我と呼ぶ錯覚を伴うと考えます
8:45 K: その通りです その脳の条件付けは消散されますか?
8:52 DB: はいK: それが全質問です
8:54 DB: そして消散されるべきですか 物理的に化学的そして神経生理学の趣旨から まずどんな科学者でも最初の反応は: 私達の行う事では消散できそうに 無いと言うでしょう ある科学者は新薬を発見したり 新たな遺伝子の変化や 脳の構造の深い知識を発見すると考えるでしょう それにより何かできるとの希望を持つでしょう ある人達の中ではそれが流れかと思います
9:23 K: それが人間の行動を変えるでしょうか?
9:26 DB: 変わりませんか? そう信じる人はいるでしょう
9:32 K: 待ってくださいこれは問題の核心です かもしれない- とは未来を意味します
9:38 DB: はい全容を見るには時間を要します
9:42 K: その間人は自分達を破壊していきます
9:45 DB: 何とかなると希望はあるかもしれません 我々の議論の批判も出来ますから 同様にどんな良い事が出来るのか? 誰にも影響を与えないようですし 大きな違いができるには間に合いません これが生じる質問です
10:09 K: 私達は二人には明確ですDB: はい
10:13 K: 人類にどう影響を及ぼすのか?
10:15 DB: 影響を及ぼすのに間に合うのか...
10:19 K: 確実にありません明らかにありません
10:21 DB: ではなぜ私達はそう行うべきですか?
10:24 K: それが正しい行いだからです
10:26 DB: 独立的に
10:28 K: それは報酬や罰とは無関係です
10:31 DB: もしくは目標K: はい
10:35 DB: 正しい事をする結果がどうなのか 解らなくともですK: その通りです
10:39 DB: 他に方法はないと仰っていますね?
10:42 K: 他に方法はありませんそうです
10:45 DB: それは明確にすべきです 例えばある心理学者はこの種の問題を 調査する事で意識の革新的な変化を もたらす事ができると考えるでしょう
10:59 K: その論点に戻りました 時間を通して意識の変革を望むという
11:07 DB: はいK: それを問います
11:10 DB: 質疑しましたそして私達はみな 何かになるという錯覚に捕われており 自分達が何をしているか解らないでしょう 物理的に化学的または構造的に変えようとする その科学者達に同じ事が 言えるでしょう 彼らもまた渦中に捕われており 時を経て良くなると捕われます 本当に何をしているのか分からないでしょう
11:38 K: 実験主義者も心理学者も私達自身も皆 何かになろうとしています
11:47 K: はい最初は明らかでないかもしれませんが 単に本当に関心がないように または先入観の無い観察者が問題に取り組むようですが 表面下には行うその人の一部に 良くなろうとする欲望を感じますが それから自由ではありません
12:06 K: そうなのです彼らはそれから自由ではありません
12:08 DB: そしてその欲望が 自己欺瞞や錯覚などを起こします
12:17 K: 議論は今どこですか? どのような形でも何かになるとは錯覚で 何かになるとは時間を意味する 精神が変わる時間です - 時間は必要ないと言っていますよ
12:38 DB: はい するとそれは他の議題である 心理と脳に連結します 脳は明らかに時間における活動として解明されます 身体的 化学的複雑なプロセスとして
12:52 K: 私は心理は脳と別だと考えます
12:56 DB: 別とはどういう意味ですか接点があるのですか?
12:59 K: 脳は条件付けられており心理は違うという意味で別です
13:04 DB: 脳から特定の独立性が心理にあると そう仰っていますか脳は条件づいているに関わらず...
13:10 K: 他方はそうではありませんDB: 条件づく必要はありません
13:13 DB: では何を基準にそう仰るのですか?
13:21 K: いいえ何が基準かではなく議論しましょう
13:25 DB: では何がそう言わせるのか?
13:27 K: 脳に関しては 脳は条件づいておりそれは自由ではありません
13:35 DB: はい
13:37 K: そして心理は自由です
13:39 DB: はい そう仰います では脳が自由ではないとは 偏見の無い方法で自由に問えないという意味です
13:46 K: それについて話します自由とは何かを問いましょう
13:49 DB: はい
13:50 K: ご指摘の通り問う自由 調査する自由 深い洞察力があってこそ自由なのです
14:00 DB: はいそれは明らかにもし自由でなければ もし偏見があればそこであなたは限定的です 恣意的です
14:10 K: ですから脳が条件づいている間は 脳と心理の相関は限定されます
14:20 DB: 脳の心理との関係性があり その逆もあります
14:26 K: しかし心が自由である事は脳に関係があります
14:31 DB: はい 心は自由であるとある意味言いますが 脳が条件づいた観点ではありません では質問ですが:心理の本質とは何ですか? 例えば心理とは体内に位置するのですか それとも脳の中ですか?
14:46 K: いいえ体や脳とは一切関係ありません
14:48 DB: 空間や時間と関係が?
14:52 K: 空間- 待ってください - 空間と静粛に関係があります
15:07 DB: でも時間ではないと?K: 時間ではありません 時間は脳に属します
15:14 DB: 空間と静粛どういう空間なのですか? 光の動きにみる空間ではありません
15:24 K: 別の方向から見てみましょう 思考は空間を発明できます
15:34 DB: 加えて我々が見るこの空間もあります 思考は様々な空間を発明できます
15:40 K: ここからそこへの空間
15:42 DB: はい私達が物理的に動くこの空間
15:45 K: 二つの音の間の空間もあります
15:48 DB: 二つの音の間
15:51 DB: それが間隔です それは二つの音の間隔と言えます
15:57 K: はい二つの音の間の間隔 二つの思考 二つの音
16:07 K: 二人の間の空間
16:09 DB: はい壁との空間
16:12 K: などです しかしその種の空間は心の空間ではありません
16:18 DB: 限定的ではないと
16:20 K: 限定という単語を使いたくありませんでした
16:22 DB: しかしそう示唆します 何かに固定される本質の中にありません
16:27 K: ええ精神に縛られません
16:31 DB: しかし何かには拘束されますか?K: いいえ
16:36 DB: 精神は縛られると仰いました それは限定的だからなどと言いました
16:41 K: 脳は - それについてを寧ろ議論したいと思います - 脳はその条件づいた細胞も全て それは根本的に変わるでしょうか?
16:56 DB: これは頻繁に議論しました 全ての細胞が条件づいているかは不明です 例えばある人は ごく一部の小さな細胞のみが使われており そして他は非活性休止状態だと言います
17:10 K: または時折少々接触がある
17:13 DB: しかしそれらの細胞は何であろうと条件づいており 明らかに今意識を支配します
17:19 K: はいそれらの細胞は変えられますか?
17:24 K: 洞察する事で変えられると言っています 時間から離れた洞察 記憶の結果ではなく 直感ではなく 欲望や希望ではなく 時間と思考と一切の関係はありません
17:54 DB: 洞察とは- 心のという事ですか? 心の本質心の活動ですか?
18:00 K: はい
18:02 DB: 従って心が脳に関して作動できるという事ですか?
18:07 K: はい前途の通りです
18:08 DB: はいしかしこれは難しい要点です - どうやって心が作用するのか
18:18 K: 脳に働きかける事が出来ます 例えば ある危機もしくは問題を例にしましょう 問題とは - 意味の根本はあなたに何かが投げられている すると問題を全ての過去の記憶と合わせます 私達の偏見を元になどと ですから問題が乗じるのです 一つの問題についてその特定の解決法で解決するでしょうが その問題からまた他の問題が起こります まさに政治などで行われているようにです 問題に取り組むには もしくは問題の認識を持つには 過去の記憶や思考の干渉ないまたは問題の認識に 予想を持た無い事です
19:22 DB: はい つまりその認識は心理のものとも意味します
19:27 K: そうです
19:28 DB: 事実上脳は心理の 機器のようだと仰るのですか
19:37 K: 心理の機器 脳が自己中心的でない場合にです
19:44 DB: はい全てのこの条件についてを考えると 脳がそれ自体を刺激しそのプログラムだけから 継続するという条件かもしれません それが能力すべてを占領します
20:00 K: 私達の毎日がほぼそうです
20:01 DB: 脳の全ての能力 それは自分の雑音を生み出すラジオ受信機のようです 信号を拾いません比喩になっているでしょうか
20:12 K: そうではありませんDB: 全く良くありませんか
20:20 K: これについて更に議論をしませんか 経験は常に限定されます その経験を何か素晴らしい事に膨らませるかもしれません そしてその経験を売るお店を設るかもしれません しかし経験は限定的です ですから知識は常に限定的です そしてこの知識が脳の中で稼働しています この知識が脳です そして思考もまた脳の一部であり 思考は限定的です すなわち脳は非常に小さな領域で稼働しています
21:13 DB: はい広領域の稼働を妨げるものは何でしょうか? 何が無限の領域での稼働を妨げているのですか?
21:23 K: 思考です
21:25 DB: 脳はそれ自身のプログラムから独自で 動いているようですが
21:30 K: はいコンピューターのプログラム自体のようです
21:34 DB: そこであなたが仰っている事は原則的に 脳が本来は心に反応すべきであると
21:43 K: それは限定的な思考から 解放され反応できます
21:51 DB: はいするとそのプログラムが占領しません そのプログラムは未だ必要ではあります
21:55 K: 勿論です...DB: 様々な事にはい
22:06 DB: では知性とは心からくるのですか?
22:09 K: はい知性は心です
22:12 K: では他の議論に向かいましょう 慈悲心は知性と相関していますから 慈悲心なしに知性は存在しません そして慈悲心とは全ての記憶や 個人の嫉妬など全てから 完全に自由な愛があり成立します
22:45 DB: その慈悲や愛は心のものですか?
22:49 K: 心のものです もしある特異の経験 もしくは特定の理想に執着していると 慈悲的になれません
22:59 DB: はいそれがまた私達を縛るプログラムです
23:03 K: はい 例えば 様々な貧しい国々に行く人達は 奉仕をする事でそれを慈悲心と呼びます しかし彼らはある特定の 宗教の信念に捕われており故に 非常に哀れみ同情するがそれは慈悲ではありません
23:31 DB: はい わかります 二つあります ある意味独立的です: 脳と心がありその二つは接触します 知性と慈悲は脳を超えて存在します どうその二つが接触しているのかを問いましょう
23:59 K: 心と脳の接触は脳が静かな時にのみ 存在します
24:05 DB: はいそれが条件です それが前提条件です 脳が静かである必要があります
24:13 K: 静かとは訓練した静けさではありません 自己意識や静粛を望む瞑想的静けさではなく 自身の条件付けについての理解からくる 自然な結果です
24:33 DB: はい脳が静かであれば 更に深く聞く事ができるとほぼ言えるでしょう
24:42 K: そして脳が静かであれば心と相関します すると心が脳を通して機能できます
24:54 DB: 脳に関して思考を超える活動が あるかについて 理解できればいいのですが 例えば 覚醒とは脳の機能の一部ですか?
25:11 K: 覚醒がある限り選択がありません 私は覚醒しその覚醒の中で自分が選択をします
25:26 DB: はい 難題なようです 選択とは何が問題でしょうか?
25:32 K: 選択とは混乱を意味します
25:34 DB: 語彙だけでは明確ではありません
25:37 K: 勿論です二つの中から選ぶ事
25:39 DB: はいそれを買うか買わないという選択ができます
25:43 K: はいそのテーブルこのテーブルから選ぶ事ができます
25:44 DB: もしくはテーブルを買うときに色を選びます
25:46 K: こちらが良いテーブルですと
25:49 DB: それは明らかに混乱する必要性はありません どの色がよいかを選ぶとしたら なぜ混乱する必要があるか分かりません
25:55 K: 問題はありませんそこに混乱はありません
25:58 DB: しかし精神における選択は そこに混乱があるようなのです 言葉が持ち去るようです
26:08 K: 選択する精神について話をしています
26:11 DB: はい何かになるという選択です
26:14 K: 何かになることを選択する そして選択が混乱がある所にも存在します
26:19 DB: 混乱の中で精神がある何かになるか他方かの 取捨選択をすると仰るのですか 混乱するという事何か良くなろうとします
26:31 K: そして選択は二重性を示唆します
26:36 DB: はい しかし初見では 前述された他の二重性があります それが心と脳です
26:42 K: いいえ それは二重ではありませんDB: それは明確にすべきです 違いは何ですか?
26:50 K: いいでしょう簡単な例を取りましょう 人間は暴力的です そして思考によって非暴力が提案されてきました それが二重性なのです- 事実と事実でない二重性
27:11 DB: ええ事実と心が作る単なる 投影に二重性があると言うのですね
27:18 K: 理想と事実
27:19 DB: はい 理想は非現実で事実は現実
27:23 K: 理想は実際ではありません
27:31 DB: その二つの分離を二重性と仰っている しかしなぜそう呼ぶのですか?
27:35 K: なぜならそれは分離されているからです
27:37 DB: 少なくとも分離されているようです
27:42 K: 例えば 全体共産主義者の理想や民主主義の理想は 限定された思考による結果です そしてそれが世界に大惨事をもたらしています
27:55 DB: はい分離が持ち込まれました しかし分離する事の出来ない何かについて 議論していると思うのです 精神を分離しようとしています
28:09 K: 暴力は非暴力と分離できません
28:14 DB: そして精神は暴力と非暴力に分離できません
28:18 K: そういうものですDB: もし暴力的であれば 暴力的と非暴力的に分離できません
28:24 K: 素晴らしい ですから 'それ自体' に留まります こうあるべきこうあるはずではなく 理想の考案などではありません
28:39 DB: はい しかし 心と脳の質問について戻りませんか 心と脳は接触しており分離は無いと話しました
28:51 K: 心と脳の間に接触があるのは 脳が静かで空間を持つ時のみにです
28:58 DB: はい二つは 接触しており全く分離されていないが 心は脳の条件付けからある種の独立性を 持つ事ができると仰るのですね
29:13 K: ご注意ください 私の脳がヒンドゥー教徒としてプログラムされているとします すると私は生涯ヒンドゥー教徒として条件づいた考えの元 機能し行動します 心はその条件とは明らかに関与しません
29:42 DB: '心' という単語ですが私の心という意味ではありませんね
29:46 K: 心 - 私の心ではありません
29:47 DB: 普遍的な一般的な意味での心理ですね
29:49 K: はい私の脳でもありません
29:51 DB: ええしかし独特な脳があります この脳やあの脳といった 独特な心があると言いますか?
29:59 K: いいえ
30:00 DB: それは重要な違いです 心は実に普遍的であると仰っています
30:04 K: 心は普遍的ですその醜い単語を使えばそうです
30:07 DB: 無限または一体K: はい
30:11 K: 思考によって汚染されていません
30:17 DB: しかし大多数にとってはどうこの心について どう知るかが言い難いでしょう? 私の心が最初の感情としか分かりません
30:27 K: それをあなたの心とは呼べません 条件付いた脳しか持ちません 私の心だとは呼べません
30:37 DB: 中で何が起きていようとそれは自分のものと感じます 他人の中に起きている事とは大変異なります
30:45 DB: 少なくとも初見では違うようです
30:47 K: お聞きしますが 人間として自分の中に起きている事は 他の人間とは違いますか 私達は皆様々な問題や苦しみ 恐れや不安寂しさを経験します 皆それぞれ教義や信念迷信があり 皆それを持ちます
31:10 DB: 非常に似ていますがそれでも 個々人はお互に孤立しているようです
31:14 K: 思考によってです 私の思考が私はあなたとは違うと生み出してきました 私の体はあなたとは違いますから 私の顔はあなたとは違います ですから我々は同様に心理的にそれを延長します
31:34 DB: はい それについては議論しました しかし仮に その分離が錯覚だとしたら
31:44 K: いいえ仮にはありませんDB: それは錯覚であると しかし最初はそれがそう明確に見えません
31:51 K: 勿論です
31:56 DB: 実際には脳も分離されていません 私達は基本的に似ているだけではなく 実に関係しています その全てを超え心だと言います 全く分離の無い心です
32:08 K: 無条件です
32:11 DB: はいそれはつまり 人として個別だと感じると言う事はほぼ 心との接触が殆どないと示唆しているようです
32:18 K: その通りです
32:20 DB: 心が無いといいましょうか
32:25 K: ですから心だけでなく自分の条件付けについての 理解が非常に重要なのです 私の条件であろうと人間の条件であろうと 溶解できません それが本当の問題なのです
32:42 DB: はい 心は- 心とは呼びません - 人間は常に意味が何かを考慮します 言われた事の意味を理解したいと思います 私達は普遍的な心を持ち それはある空間にあるといいましょうか または独自の空間にあると?
33:05 K: 自分の中でもなく脳の中でもありません
33:07 DB: しかし空間を持ちます
33:11 K: それは空間と静粛の中にあります
33:15 DB: しかし心の空間なのですよね? このスペースという空間ではなくK: そうです ですからその空間とは思考によって考案されないと言いました
33:28 DB: ではその空間を把握する事は可能ですか 心が静かな時に? または接触をもつと?
33:36 K: 把握ではありません あなたの質問は: 心が脳により把握される事が出来るか
33:48 DB: または少なくとも何らかの形で認識また感知するかです
33:54 K: 瞑想を通してはい可能です その単語は相応しくないかもしれないDB: いいえ気にしません
34:03 K: 可能だと考えます - いいですかそれが難題なのです '瞑想'という単語を使う場合一般的には常に 瞑想者が瞑想すると理解されます 瞑想とは本来無意識のプロセスです 意識的プロセスではありません
34:27 DB: ではどうして仮に無意識で瞑想が 行われると言えますか?
34:32 K: 瞑想とは脳が静かな時に行われます
34:37 DB: 意識とは思考の全ての動き 感情 欲望 意思などにまつわる全てを意味しますか しかしそこにはある種の覚醒があるのでは?
34:47 K: はい 所謂覚醒によります 何の覚醒ですか?
34:55 DB: 恐らく何かの深い覚醒わかりません
35:06 K: '深い'という単語を使う場合それは計測です
35:16 DB: では止めましょうしかしそこには ある種の無意識があると言えるでしょう 単に全く気付きの無いという無意識です ある自分の問題や葛藤に無意識かもしれません
35:30 K: 更にもう少し議論しましょう 意識的に何かをしたらそれは思考の活動です
35:41 DB: はい はい思考が自身を反映します
35:47 K: それが思考の活動です では私がもし意識的に瞑想 鍛錬すると 私が言う無意義な事です あなたは脳にまた別のパターンの連続を 従わせています
36:05 DB: はい 何かになる良くなろうと試みています
36:12 K: 何かになる事で啓発は存在しません 啓発を達成すると- その単語を使えるとすれば - 言う事によって啓発はされません
36:23 DB: 意識の無い事のコミュケーションを図るのは 非常に困難な様です
36:30 K: それが難題です
36:31 DB: 単に気を失うのではなく 気を失ったら無意識ではありますが そういう意味ではありませんねK: 勿論違います!
36:39 DB: または麻酔下の状態でもなく
36:46 K: こう言いましょう意識的な瞑想 自身を条件から解放する為思考を管理する 意識的な活動とは自由ではありません
37:01 DB: はいそれは明らかですが 他にどうコミュニケーションを図るかとても不明瞭になります
37:07 K: 待ってください 思考の先に何があるのか 教えてください
37:20 DB: もしくは思考が静かなときにK: 静か 静粛 どの単語を使いましょうか
37:27 DB: 私の提案は'覚醒' でした '注意' という単語はどうですか?
37:32 K: 私は注意の方が良いですDB: はい
37:39 K: 注意の中には '自己'としての中心は在りませんか?
37:46 DB: その種の注意についてを議論している場合 種類があり通常でいう 自分たちが興味がある故に注意を向ける種類です
37:54 K: 注意は集中ではありませんDB: はいそれは集中です しかし私達はある特定の注意を議論しています '自己'が存在しない状態の注意です それは条件付ける活動ではありません
38:07 K: 思考の活動ではありませんDB: はい
38:11 K: 注意において思考に存在余地はありません
38:16 DB: はいしかし更にこう言えます- 注意とはどういう意味か - ここで単語の語源は何か役に立ちますか? 何かに向け心を伸ばすという意味はどうでしょう?
38:27 K: いいえ 例えば仮に 集中とは注意でなく 努力は注意ではありません 何かに注力する時それは注意ではありません 注意は自己がない場合にのみ成立します
38:59 DB: はいしかしそれでは堂々巡りです 自己があり私達は始まります 誰かが瞑想は必要だと言います 彼は自己から始めます'私はここにいる'と
39:11 K: いいえ注意深くその単語を使いました瞑想とは計測です
39:16 DB: はい
39:17 K: そこに計測がある限りそれは何かになるという事で そこに瞑想は存在しませんそう言いましょう
39:23 DB: 瞑想が存在しない場合議論できます
39:26 K: その通りです対極を通して他方が存在します
39:31 DB: もし瞑想ではない全活動に対極できれば そこで瞑想が存在するでしょう
39:38 K: その通りです
39:40 DB: それは瞑想ではないが私達はそれが瞑想だと考えます
39:43 K: はいその通りです非常に明確ですね 計測が存在する以上何かになる事であり それは思考の過程であり 瞑想や静粛であり得ません
39:59 DB: そこにはこの宛てのない注意があり この注意とは心のですか?K: 注意は心のものです
40:09 DB: しかし脳と接触しますよね?K: はいそう議論しました 脳が静かな限り他方が接触します
40:19 DB: つまりこの本当の注意とは脳が静かな状態に 脳と接触をします
40:23 K: そして空間があります
40:26 DB: 空間とは何ですか?
40:29 K: 脳に今は空間がありません なぜならそれ自体を懸念し プログラムされており自己を中心とし そして限定的です
40:42 DB: 心は空間を持ち脳も空間を持つのですか?
40:47 K: 限定的な空間です 勿論です思考が限定的な空間を持ちますから
40:52 DB: 思考が不在の場合脳は空間を持つのですか?
40:55 K: そうですDB: そうなのですか?
40:56 K: 脳が空間をもつ はいDB: 無限に?
41:01 K: いいえ心だけが無限の空間を持ちます
41:09 K: 私の脳は私が考えたある問題について 静粛を持てますそして急に それについてはもう考えないと言い そこにある一定の空間があります その空間の中で問題を解決します
41:22 DB: 仮に心が静かで問題について考えなければ それでも空間は限定的ですが
41:28 DB: 心は注意に開かれますK: その他方へです 心にです
41:32 DB: 注意を通してもしくは注意の中で 心が脳に接触していると言う事でしょうか?
41:41 K: はい脳が散漫でない時にです
41:46 DB: すると脳はどうなるのですか?
41:50 K: 反応する脳に何が起きるかと? 明確にしましょう 知性は 慈悲と愛から生まれると言いました その知性とは脳が静かな時に作動します
42:17 DB: それは注意を通して作動しますか?
42:21 K: 勿論です
42:24 DB: では注意が接点のようです
42:28 K: 議論の通り注意とは自己が無い場合のみ存在します
42:32 DB: はい 愛と慈悲が基盤と言いましたが それに注意を通した 知性がくるとK: はい脳を通して機能します
42:52 DB: 二つ質問があります:一つはこの知性の本質 二つ目はそれが脳と何の関係かと言う事です
42:59 K: はい ええ 再度ネガティブな方向からアプローチしなければなりません 愛は嫉妬などではありません 愛は私的ではありません しかし私的にもなり得ます
43:15 DB: しかしそれを意味していませんね K: はい 愛とは私の国あなたの国私の神を愛するなどでなく - そうではありません
43:26 DB: では普遍的な心の型であれば....
43:30 K: ですから愛は思考と何も関係がないと言うのです
43:39 DB: はいそれは特定の脳から その特定の脳が起源で始まるものではありません
43:43 K: はい私有の愛ではありません その愛がある場合にそこから慈悲の心が存在します そして知性が存在します
43:56 DB: この知性の本質とは この知性は - もし深く'理解する'という言葉を使えるならば
44:09 K: いいえ理解ではありません議論しましょう
44:12 DB: 何をするのですか?把握しますか?
44:16 K: 知覚を通して活動しますDB: はい 何の知覚ですか?
44:28 K: では知覚について議論しましょう 思考によって色合いが つかない場合にのみ知覚が存在します 思考の動きによる妨げが無い場合 知覚が存在します それが問題への率直な洞察 または複雑な人間への洞察です
45:02 DB: この知覚とは心の中に起源しますか?
45:08 K: 知覚は心の中に起源するかと? 見てみましょう はい脳が静かな時にです
45:21 DB: はいしかし知覚と知性という単語を使いました - どう関係していますかもしくは何が違いでしょうか
45:29 K: 知覚と知性の違いですか?
45:32 DB: はい K: ありません
45:33 DB: では知性は知覚であるといいます 知性は知覚であると そして注意を通して接点がある
45:45 K: 問題をあげてみましょう わかり易いかと思います
45:57 K: 苦痛の問題を見てみましょう 人間は延々と苦しんできました戦争を通して あらゆる病気や身体的な病 そして互いの誤った人間関係を通して 人間は非常に苦しんできました ではそれを終えられますか?DB: はい 苦難の終結が困難なのはそれがプログラムにあるのです 私達はこの全ての事に条件づいており それは物理的に化学的に記録されています
46:34 K: 私達は条件付いています それは何世紀にもわたり続いています
46:38 DB: はいある意味非常に根深いです
46:41 K: とてもとても根深いです ではその苦痛は終えられますか?
46:48 DB: はい 脳の活動で終えることはできません なぜなら脳はこの苦痛に捕われるからです そして自身の苦痛にアクションを起こせません
46:58 K: 勿論出来ませんですから思考では終えられません 思考がつくり出したのです
47:04 DB: 何れにせよ捉える事はできません
47:07 K: はい思考が戦争悲惨や混乱をうみ そして思考が人間関係において突出してきました
47:18 DB: 人々は同意するかもしれませんが 思考は悪事を招くが善行も可能だとも言うでしょう
47:26 K: いいえ思考は善行も悪事もできません それは思考です
47:31 DB: 思考はこの苦痛を把握はできません 物理的 化学的に条件づいた脳のこの苦痛は 思考はそれが何であるか知りもしません 考える事で自分の中で何が起きているか知りません 中の苦痛を変える事はできません 考える事でそれが何かを示しませんから そこで知性があると仰っています
47:54 K: しかし結局は 苦痛を終結できるかと聞きますそれが問題なのです
47:59 DB: はい考える事で解決できないのは明らかです
48:02 K: 思考は解決できませんDB: ええ
48:05 K: そこが要点ですもし洞察力があれば...
48:09 DB: はいその洞察力とは知性と注意を通した 心の活動です その洞察が存在する時知性が苦痛を払拭します
48:20 DB: はいつまり 心から事柄への接触により 苦痛が続く元であるあらゆる物質的 化学的な構造 を取り除くと言うのですか
48:29 K: その通りです その終点には脳の細胞に変異があります 数年前この事については議論しました
48:39 DB: はい その変異があなたを苦悩させる全ての 構造を払拭します
48:43 K: はい例えばある伝統に添い続けて 私がその伝統を急に変えると 脳全体にその変化がおき 北に向かっていたのが- 今は東に向うという具合に
48:58 DB: はい伝統的な科学の 見解からするとこれは合理的な概念です なぜなら仮に心は事象とは異なると受入れると 人々は実際に心が...
49:16 K: 心理とは純粋なエネルギーと例えますか?
49:19 DB: そのような例えもできますが 事象もまたエネルギーです
49:24 K: すなわち事象も限定的で思考は限定的です
49:28 DB: はいしかし心の純粋なエネルギーは 限定的な事象のエネルギーに到達する事が出来ると
49:33 K: はいそうですそして制約を変えます
49:36 DB: はいある制約を取り除きます
49:38 K: 深い課題がある場合 または問題や挑戦に直面する時です
49:52 DB: あらゆる伝統的な試みは 機能しないと加える事ができるでしょう
49:58 K: 機能してきませんでしたDB: 十分でないのです なぜなら人々は希望をもっても実際には機能しません 思考は細胞の物理的化学的な根本に 達する事はできずそれらの細胞に何も出来ません
50:13 K: はい はっきりとそう言いました 思考はそれ自体に変化をもたらせません
50:20 DB: はい しかし人間が試みて来た事は全て 思考に基づいてきました 限定された領域がありそれはよしとし しかし私達は従って - 議論した通り以前議論をしました - 人類の未来について従来のアプローチでは何も出来ません
50:39 K: 世界で非常に活動的な 政治家の話を聞くと 問題から更なる問題を生んでいます そして彼らにとって思考が最も重要です 理想
50:54 DB: 一般的に言って誰も理解すらしていません
50:58 K: その通りです 古い機材すなわち思考は特定の領域を除いては 使い古されています
51:08 DB: その一部を除いては適切ではありませんでした
51:11 K: 勿論です
51:13 DB: そして人間は常に問題を抱えてきました 記憶する限り歴史がある限り
51:18 K: はい人間は常に問題 混乱 恐怖の中にいます これらを知的議論に還元すべきではありません しかし人間として 世界の混乱に直面し この全ての解決法はあるのでしょうか?
51:44 DB: はい私が繰り返す質問に戻ります それについて議論する人は少数いるようですが おそらく瞑想などと しかしそれが 人類の広大な流れにどう影響を与えるでしょうか?
52:02 K: 恐らくごく僅かでしょう しかしなぜ挙げるのですか- 影響があるか - 影響するかも しないかかもしれない しかしある質問が:何の用途があるでしょう?
52:17 DB: はいそれが要点です直感的な感情が 質問を駆り立てます
52:23 K: はいそれは間違った質問です
52:25 DB: つまり最初の直感は 甚大な混乱を止めるに何が出来るかというでしょう
52:31 K: しかし聞いている方それぞれが この真実思考の活動が 内外共にこの甚大な 混乱を苦痛を生んで来たという真理を理解し そして必ず問うでしょう:これに終わりはあるのか? もし思考が終結できなければ何が?DB: はい
52:59 K: この惨劇を終える新たな機器は何でしょうか? 新たな機器とは心理などと 知性です しかしいいですか困難な事は人々は これに耳を傾けない事です 彼らは断然たる結論に至ってきました 科学者もそして私のような素人も 耳を傾けません
53:28 DB: はいその点について私も考えていました 私がある人達はあまり影響ないようだと言った時です
53:35 K: 結局は世界を変えた人は殆どいないと思います ヒットラー - 善し悪しに関わらずそれが要点ではありません
53:43 DB: ヒトラーは根本を変えていません
53:46 K: 世界を表面的に変えたと言えるでしょう ボルシェビキの革命共産主義者は変わりました しかし再度同じパターンに戻っています 物理的な革命は決して変わっていません 心理的な人間の状態です
54:03 DB: この方法で心と接点を持つある一定数の脳は ただ単に即効的で明らかな コミュニケーションの効果を超えて 人類に影響を及ぼす事ができるでしょうか?
54:20 K: はいその通りです
54:22 DB: 当然 通常の方法でコミュニケーションをとる誰でも 小さな影響があります しかしこれは全く異なる事柄の可能性です
54:40 K: 私も頻繁に考えてきました これらをどう伝達するか むしろ繊細で非常に複雑な問題を 伝統の中に染まり 既に条件づいており聞く耳も持たず 考慮すらしない人々にどう伝達するか?
55:01 DB: はいそれは議題です ある点この条件とは絶対的でないと言えますが 確実であろうと無かろうとそこに逃げ道は全くありません しかし条件付けはある種の浸透性を持つと考慮されるでしょう
55:17 K: 結局は人々は我々ではなく 非常に大きな影響力のある教祖的存在に耳を傾けます
55:23 DB: それが見つかれば皆それぞれが聞く事ができる 何かをもつでしょうか?
55:29 K: 少し忍耐があればです 誰が聞くでしょうか 政治家は聞きません理想主義者は聞きません 全体主義者は聞きません 宗教に深く傾向している人たちは聞きません ではそれが全ての要点かもしれません: 所謂無知と呼ばれる人 高い学歴や条件はなく 専門職もキャリアもお金もない その貧しい人が私は苦しいと どうか終えましょうと
56:06 DB: ええしかし彼らも聞く耳を持ちません 彼は仕事が欲しいのです
56:11 K: はい勿論ですまずは食べさせてくれと言います 過去60年そう経験してきました 貧しい人は聞かない富のある人も聞かない 識者も聞かない 非常に独裁的な宗教の信者達も聞きません 世界のある種の波のようでしょうか 波は誰かを捉えるかもしれない 影響があるか?その質問が間違っているようです
56:45 DB: そうですね 時間内にもたらすそれは何かになるという事です それはまた何かになる過程を精神にもたらします
56:54 K: しかし- 影響を与えるべきだと言えば
57:00 DB: 人類に影響を与えると提案しているのですか?
57:03 DB: 直接心を通して...K: はい すぐには活動として現れないかもしれません
57:13 DB: 心とは普遍で通常の私達の空間には所在せず 分離が出来ないという事それを大変真剣に 仰っています
57:23 K: いいですかこれを言うには危険があります - 心は普遍的である - ある人々が言う事です- 心 - それが伝統となりました
57:31 DB: ええ勿論発想に変えられます
57:35 K: 勿論ですそれが正にその危険性です それを私が言っています
57:41 DB: しかし本当に問題は これを現実にする為に直接接触をすべきです
57:46 K: はい勿論そうです 自己が無い場合にのみ接触が 可能です 非常に単純にします つまり自己が無い場合美が存在し そこには静粛があり空間がある そして慈悲の心からうまれるその知性が 脳を通して作用します非常にシンプルです
58:13 DB: はいしかし自己について議論する価値があるかと 自己が広く活動的ですから...
58:24 K: しかしそれが我々の非常に長い世紀に渡る長い伝統です
58:29 DB: では自己が活動する際に手助けとなる 瞑想の見地が何かありますか? ある人が自己に捕われていると言ったとします しかしそこから抜け出したい しかしどうしたら良いのかと? -私がどうすべきか- という言葉はつかいません どうですか?
58:52 K: それは非常にシンプルです 傍観者は傍観される側と異なりますか?
58:59 DB: 違うようだと仮定しましょう それで?
59:02 K: それは発想なのですか実際なのですか?
59:06 DB: どういう意味でしょうか?
59:08 K: 現実とはそこに考える側と思考との間に 分離がありません
59:12 DB: はいしかし普通は傍観者は 傍観する側とは違うと感じますここから始めましょう
59:19 K: いいですか あなたはあなたの怒りとは異なりますか? あなたの羨望苦痛と異なりますか? 違いません
59:29 DB: 初見では自分と違うようでコントロール しようとするかもしれません
59:33 K: コントロールでは無くあなたがそれです
59:36 DB: 自分がそうだとどうやって分かるのですか?
59:39 K: あなたはあなたの名前です あなたはその型 体です あなたが全ての反応や行動です あなたが信念であなたが恐怖心です あなたが苦しみ喜びます あなたがその全てです
59:55 DB: はいしかし最初の経験は私がここに在り それが私の性質で 持つ持たざるといった私の資質です 怒らないかも怒らないかもしれない この信念あの信念をもつかもしれない
1:00:07 K: 矛盾です- あなたがその全部です
1:00:08 DB: 私はそれだと言う時 私はそれでありそれ以外ではないのですか?
1:00:15 K: いいえその時点でそれですでなければ完全になりえます
1:00:19 DB: はいでは私はそれ全てだと 言うよりもいつもそうですが その資質について見ています 傍観者である私が私が怒りだと認めます しかし私は傍観者であり怒りではないと感じます しかし怒りを見ている偏見なき傍観者です ではこの偏見の無い傍観者が 彼が見ている怒りと同じだと言うのですか?
1:00:44 K: 勿論です自分を分析するように 分析者は分析されます
1:00:51 DB: はい彼は分析する内容に偏ります K: 勿論です
1:00:54 DB: では仮に怒りをしばし観察すると 私はその怒りにより非常に偏る事が分かります すると私がその怒りだとある段階で言えます
1:01:07 K: いいえ私がそれですあなたです
1:01:09 DB: その怒りと私は同じであると
1:01:11 K: はい観察者が観察されるます その現実性が存在する時 本当に全ての対立を取り除きます 対立は私が自分の資質から分離する時に存在します
1:01:32 DB: はい仮に私が分離されていると信じれば 変えようと試みますが私はそれですから それを変えようとする事とそれに留まる事は 同時です
1:01:42 K: しかし本質が私である時 分離が終わります
1:01:51 DB: その本質が私であるとわかる時 全てに意味がなくなります
1:01:56 K: いいえ前に起きる事: その本質が私ではないとするとそこに対立が存在します 抑圧 逃避などエネルギーの無駄です その本質が私である時 全てその消えた無駄となったエネルギーは 見る 観察する為にあります
1:02:25 DB: なぜそのような自分である本質を持つ事に 違いを作るのでしょうか?
1:02:29 K: お見せしましょうその属性と私との間に 分離がなければ違いがうまれます
1:02:37 DB: はいそこに相違の認識はない場合 すると心理は抗おうとしません 仮にそこに差異の錯覚が存在すれば 心はそれ自体に対抗せざるをえません 脳がそれ自体に対抗しますK: その通りです
1:02:55 DB: 一方 相違の錯覚が存在しない場合は 脳は抵抗を止めます
1:03:00 K: ですから非常に甚大なエネルギーを持ちます
1:03:03 DB: 脳の自然のエネルギーが発散されます
1:03:07 K: エネルギーとは注意です
1:03:10 DB: はい脳のエネルギーが注意を...
1:03:15 K: その事から溶解します
1:03:17 DB: はい待ってください以前に 注意とは心と脳の接触であると言いました しかし脳は接触させる為 高いエネルギーの状態のはずです
1:03:26 K: それは同じ事です
1:03:28 DB: エネルギーの低い脳はその接触を可能にしません
1:03:30 K: その通りです しかし私達多くは活気ないのは 非常に条件付いているからです
1:03:56 DB: 本質的にここがスタート地点という事ですか
1:04:01 K: はい シンプルに始めますDB: はい
1:04:04 K: あるがまま 自分そのものからスタートします ですから自己知識が非常に重要なのです 自己知識とは積み重ねた知識の過程とは違います それは 自分について常に学ぶ事です
1:04:25 DB: はい自己知識と呼ぶならば ではそれは先に話した条件づいた知識とは とは違います
1:04:31 K: そうです知識は条件付けます
1:04:33 DB: しかしそのこの種の自己知識とは 条件付けではないと仰るのですね なぜ知識と呼ぶのですか?違った知識なのですか?
1:04:40 K: はい 知識は条件づけます
1:04:43 DB: はいしかしこの自己知識があります
1:04:45 K: 自己知識とは自分を知り理解する 自己とは非常に繊細で複雑な事を理解する事です それが生きるという事
1:04:57 DB: 本質的にその事が起きている その瞬間の自分を知るという事
1:05:02 K: はい何が起きているのかを理解する事です
1:05:04 DB: 記憶の中に蓄積するのではなく
1:05:06 K: 勿論です 自分の反応を通じて自分自身を発見する などです 議論を終えましょうか そうですね