Krishnamurti Subtitles home


BR83CPJ1 - 何が頭脳に、変化をもたらすのだろうか。
ププル・ジャヤカルとの会話 第1回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1983年6月24日



0:38 P: クリシュナジ、今日、世界で起きつつある ふしぎな現象が、あります - そこでは、東洋は、滋養を見つけるために、西洋へ手を伸ばすし、 西洋は、東洋へ、括弧つきですが、「英知」のために 手を伸ばします - 何か存在する真空を、充たすために、です。 あなたは、インドの精神が、あると、仰るのでしょうか - 同じ方向を持っていたり、同じ、悲しみ、貪欲、怒り等の 要素を、収容したりしているかもしれないもの、 そこで、これらが発する地盤が、異なっているものが、です。

K: あなたは、訊ねておられますか - 遮ってすみませんが、よろしければ - あなたは、こう訊ねておられますか 東洋の思考、東洋の文化、 東洋の生き方は、西洋より違っているのかどうか、と。
2:03 P: まあ、明白に、インドの生き方は、西洋のとは、違っています。
2:08 K: 違っています。
2:10 P: なぜなら、両者の条件づけは、異なっているからです。 しかし、それらは、或る意味で、互いに補完し合います。
2:21 K: どのように、ですか。
2:23 P: 東洋や、さらに特にインドは、 おそらく、抽象概念を、具体的行為へ持っていく精密さを、 欠いている、という意味で、です。
2:44 K: あなたは、彼らは、もっと抽象概念の中に、生きると、仰っていますか。
2:47 P: はい。彼らは、さほど行為に、関心を持っていません - 環境において、行為そのものに、です。
2:57 K: 彼らは何に、関心を持っていると、あなたは、仰るのでしょうか。
3:01 P: 今日、もちろん、大きな変化が、起きつつあります。 インドの精神が何であるかを、言うことは、とても困難です。 なぜなら、インド精神は、今日、一つの水準で、 同じ物質的な快適さを、探しているからです。
3:19 K: ・・・テクノロジーの世界での前進と・・・
3:21 P: はい、テクノロジーの世界での前進、です。
3:23 K: それを日常生活に、応用することなどを、です。
3:25 P: そして、消費主義です。

K: 消費主義、ええ。
3:28 P: それは、インド精神に、きわめて深く浸透してきました。
3:34 K: で、インド精神、インド文化と、西洋文化との 間の違いとは、究極的に、何ですか。
3:44 P: おそらくそれでも、この物質主義的な上音にもかかわらず、 そう表していいなら、その掘り下げる過程には、一定の刃が、あります、 それが、その分野に入るとき・・・
4:10 K: 超心理学の? 

P: いいえ、超心理学ではありません。 超心理学は、西洋できわめて発達しています。 

K: 知っています。

P: が、私は、この、自己を掘り下げることについて、話しています - 内を掘り下げること、 物事への洞察について、です。 幾世紀にもわたって、インド精神は、 この感情の地盤の上に、培われてきました。 ところが、西洋では、一定の時から、 離れた動きが、ありました。 そして、いつも、離れた動きが、あったのです - ギリシャ人の時からずっと、 外へ、環境へ向かって、です。
5:05 K: 理解できますが、先日、私はテレビで、聞きました - きわめて有名なインド人が、インタビューされていました。 彼は、こう言いました - インドでは今、テクノロジーの世界は、 インド精神を、人間化しつつある、と、
5:21 P: それは理解します。

K: 彼がいうそれは、
5:25 どういう意味だったのかと思われます - 人間化するとは。 抽象概念と理論と、観念作用の複雑さなどの中に、生きる代わりに、 テクノロジーの世界が、彼らを、実地に引き戻しつつあります。
5:42 P: おそらく、それは、或る程度は、必要です。
5:46 K: 明白に、それは必要です。
5:48 P: で、これら二つの精神が、違った本質を、持っているなら・・・
5:56 K: 私はそれを、大いに問います- インドの思考が・・・ すみません。私は、そういうつもりではありません。 思考はいったい、東洋なのか、西洋なのかを、です。 思考だけが、あります。 それは、東洋の思考でも、 西洋の思考でもありません。 思考の表現は、インドでは、違っているかもしれません。 そして、ここでは、それは、違っているかもしれませんが、 それはやはり、思考の過程です。
6:28 P: ですが、これもまた、真実ではないですか - 西洋で脳細胞が収容しているものと、 東洋で、おそらく幾世紀の知識と、 いわゆる英知が、脳細胞に、内容を与えてきたもの - すなわち、それらをして、違ったように知覚させるものが、です。
6:52 K: あなたが仰っていることが、どれほど正確なのかと、思われます。 私は、できるなら、仰っていることを、問いたいと思います。 私は、そこへ行くとき、かつてあったのより、今や、はるかに多くの物質主義が、 あることを、見つけます。

P: ええ。
7:11 K: 金銭、地位、権力とそれらに、もっと関心を持っています。 もちろん、過剰な人口と、 現代文明の複雑さすべてが、あります。 あなたは、こう仰っていますか- インドの精神は、 内的な探求への傾向を、持っている。 西洋よりはるかに、そうだ、と。 そういうことですか・・・
7:48 P: そうでしょうね。 こう言えるでしょう - ちょうど、西洋の精神が、より・・・
7:52 K: 技術的な・・・
7:54 P: 技術、テクノロジーだけではなく、環境的な・・・
7:57 K: ええ。環境的、経済的など、エコロジー的な・・・
8:01 P: ・・・外の動きです。 内の環境と、外の環境が、あります。 思うのですが、そのように捉えるなら、 外の環境が、西洋の関心事である、 そして、内的な環境は、東洋の、インドの 関心事であったと、言えるのでしょう。
8:22 K: ・・・関心事でしたが、それは、ごくごくわずかな人々の 関心事であったのです。
8:27 P: ですが、文化を創造するのは、わずかな人々だけです。 文化は、どのように生じてきますか。
8:35 K: それが、むしろ、私たちが議論すべき疑問です。 私たちがそれへ行く前に、東洋の思考と、 西洋の思考との間に、本当に、区別が、ありますか。 私は、それを確立したいと、思います。 または、このとてつもない現象だけが、あります - 世界が東洋と西洋に分割されていることの、です。
9:02 P: ですが、何が、それを分割してきましたか。
9:05 K: 初めに、地理的に、です。 政治的に、経済的に、 西洋より、はるかに古代の文明として、です - 私がその言葉を使えるとして、ですが。 そのすべてが、インドの精神です。 それらに関して、私たちが、 その言葉「精神」を使えるなら、です。 西洋世界は、はるかに - 私に見えるかぎり、です。 私は誤っているかもしれませんが - 世間的な事柄に、関心を持っています。

P: ですが、何がそれを、その方向へ向けましたか。
9:46 K: 気候。
9:49 気候 - はるかに、きわめてはるかに、それは、寒い気候です。 そして、すべての発明、創案と、すべての現代のテクノロジーは、 世界の北の地方、北の人々から、来ます。
10:10 P: ええ。ですが、もしもそれが気候だけであったなら・・・
10:12 K: いいえ。それは、気候だけではありません。
10:15 P: ・・・メキシコ、アフリカ、赤道アフリカは・・・

K: もちろんそうではない。 もちろんそうではない。
10:18 P: ・・・同じ精神を、持っているでしょうが・・・ 

K: いえ、いえ・・・
10:21 P: そうではありません。

K: それは、気候だけではありません。
10:24 P: では、それが、答えではありません。

K: それは、気候ですし、 西洋での、いわゆる宗教的な生き方全体が、 東洋より、きわめて異なっています。
10:37 P: それが、私が言っていることです。 どこか、その線沿いに、 一系統の人種の人々は、見かけ上、分割されています。
10:52 K: ええ、分割されています -シュメールなどから、です。
10:55 P: 分割されています。そして、西洋が向かった方向は、 自然との対話の発見でした - その中から、テクノロジーが、生じました。 その中から、すべての大きな科学的な発見、真理が、生じました。 インドもまた、自然と、自己との対話を、行いました・・・
11:23 K: が、違った本性の、です。

P: ・・・違った本性の、です。

K: 全くです。 

P: 対話は、それら自体において、違った種類のでした。
11:33 K: で、こう仰ろうとしていますか- 東洋の精神、インドの精神は、 西洋より、宗教的な事柄に、関心を持っている、と。 ここ、西洋では、それはすべて、かなり表面的です - 彼らは、それが、かなり深いと考えるけれども、です。 そこ、インドでは、伝統、文献、文学とあらゆる物事が、こう言います - 世間は、さほど重要ではない。 自己の理解や、万物、宇宙の理解、 最高原理、ブラフマンの理解ほどには、と。
12:18 P: 精神が探究を始められる、このすばやさは、 おそらく、西洋とは違っています- そこでは、探究、洞察、 大きな洞察は、違った方向に、あったのです。

K: もちろんです。が、ここでは、そうね、宗教的な事柄に、
12:51 疑い、懐疑、問うことは、絶対的に、拒否されます。 ここでは、信仰が、最も重要です。 インドの宗教では、仏教などでは、 疑い、問うこと、探究することばかりが、重要になります。

P: この中から、今日、どうやら、どちらの文化も、危機にあります。
13:23 K: ええ、もちろんです。 あなたは、文化だけではなく、
13:28 人間意識全体が、危機にあると、仰るのでしょうか。

P: あなたは、人間意識を、文化より、区別なさるのでしょうか。
13:37 K: いいえ。

P: 或る意味で、それらは同じです。
13:39 K: いいえ。基本的に、そうではない。
13:42 P: で、まさに根本での危機が、彼らをして、
13:49 彼ら自身より離れた、何かの道を、探求させています。 彼らは、不適切さを感じます。それで、彼らは、他方の文化へ、向かいます。 それは、どちらの文化でも、起きつつあります。

K: ええ。ですが、そうね、ププルジ、私は、問うています。
14:09 私がその言葉を使っていいなら、 彼らの物質主義的な見通しからの、探求において、 彼らは、あらゆる種類の迷信的な、ロマンチックな、オカルト的な観念に、 捕らわれつつあります - そして、ここに渡ってくる、これらの導師と、 その他すべてに、です。 私が見出したいのは、 今そうであるような、人間意識が、危機にあるのなら、 その危機を解消することが、可能なのかどうか、だけではなく - 戦争なく、人類を破壊することなしに、です - 人間たちは、いったい、 自らの制限を、乗り越えられるのかどうか、です。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。

P: 申し上げていいですか・・・

K: もちろんです。これは、議論です。
15:10 P: 外と内は、物質的なものと、中の探求に、似ています。
15:18 それは、人が動いてきた、これら二つの方向の 二つの鏡のイメージです。 本当に問題は、こうです - 人が生存しなくてはいけないなら、 二つが・・・ 

K: それらは、一緒に生きなければなりません。
15:41 P: 一緒に生きるのではなく、両方を収容するだろう人間文化が、 生じてくる。

K: では、あなたが仰る「文化」という言葉は、どういう意味ですか。
15:54 文化とは、どういう意味ですか。
15:57 P: 文化は、頭脳が所有している、あらゆる物事ではないですか。
16:02 K: すなわち、頭脳を訓練することと、 頭脳を精錬することと、仰るのでしょうか。

P: 頭脳の訓練と、頭脳の精錬。
16:14 K: そして、その精錬の表現です- 行為の中、
16:19 振るまいの中、関係の中で、です。 また、探究の過程- すなわち、 思考により全然触れられていない何かへ、 つながることも、です。 私は、これが文化であると、言うでしょう。

P: あなたは、探究を、文化の分野へ含められるのでしょうか。
16:50 K: もちろんです。 

P: 文化は、閉じた回路ではないですか。
16:55 K: それをそのように、できます。または、それを壊して、乗り越えられます。
17:02 P: ですが、今日、文化は、閉じた回路です
17:06 - 今日、存在しているような文化は、です。

K: そういうわけで、私は、理解したいのです -
17:11 あなたが仰る言葉「文化」(カルチャー)が、どういう意味なのかを、です。
17:14 P: 私たちが今日、それを理解するように、クリシュナジ、それは、私たちの知覚です。 私たちの物事の見方、私たちの思考、私たちの感情、 私たちの態度、私たちの感覚の作動です - これには、加えつづけられるでしょう。

K: すなわち、宗教、信仰、信念、迷信、です。
17:35 P: 外と内 - それは、成長しつづけます。
17:39 成長しているかもしれませんが、それはすべて、その輪郭の中で、成長しています。 それは、輪郭に留まります。そして、あなたが、探求について話すとき - それは、どのようにも、これに関連していませんが、そこに含められるのでしょうか。

K: 探求を?
17:59 P: まあ、探究、調査、観察を、です。 

K: 理解できます。
18:02 P: ・・・どの言葉を使ってもいい。

K: もちろんです。もちろんです。
18:04 P: が、あなたはそれを、文化の平野へ入れられるのでしょうか。
18:08 そうなさるでしょう。

K: もちろんです。
18:11 こう仰るのでしょうか - 私は、事柄を明瞭にしようとしているだけです。 こう仰るのでしょうか - 文化の動き全体は、 潮が引いてゆき、満ちてくるのに、似ていますね。 海のように、出てゆき、入ってきます。 人間の尽力は、出てゆき、入ってくる、この過程です。 そして、その過程がいったい、止まりうるのかどうかを、けっして探究しません。 理解されますか。私がいう意味は、こうです - 私たちは、行為し、反応します。 それが、人間の本性です。行為し、反応する - 満ち引きのように、です。 私は反応します。その反応の中から、行為します。その行為より、反応します。 それは、行ったり来たりです。 ですね? 

P: ええ。

K: さて、私は訊ねています - 褒賞と処罰のこの反応は、 止まり、全然違った方へ、向かうことが、できますか。 私たちは、機能します。 私たちは、生きます。 私たちの反応は、褒賞と処罰に、基づいています。 ですね?

P: はい。

K: 物理的にも、心理的にも、そして、あらゆる形で、です。
19:51 それが、深く、私たちが知っているすべてです。 さて、私は訊ねています - この褒賞の反応と、 処罰の回避などが、あります。 潮のように、ですが、 もう一つの行為の感覚が、ありますか - この行為・反応(作用・反作用)に基づいていないものが、です。 私が何について話しているかを、理解されますか。

P: この行為・反応は、脳細胞の衝動なので、それはけっして・・・
20:36 K: それは、私たちの条件づけです。

P: それは、脳細胞の衝動です。

K: ええ、もちろんです。
20:41 P: それは、脳細胞の応答するさまと、
20:43 感覚をとおして受け取るさまと、それらが・・・
20:47 さて、あなたが訊ねる問いは・・・

K: 私たちの問いは、本当はこうです -
20:58 私たちは、文化とは何かを、探究しています。

P: 文化とは何ですか。 私たちは、それに入りました。
21:04 K: 少し。

P: 少し。
21:05 それは、さらにはるかに拡大できますが、 やはり、それは、同じ分野の中に、留まります。

K: ええ、同じ分野に。が、あなたはその分野を、拡げられます。
21:14 P: すると、あなたは、こう仰るのでしょうか - 文化は、
21:17 脳細胞に収容されているものである、と。

K: もちろんです。

P: 他に何か?
21:24 K: 他の何か? 私たちの過去の記憶すべて、です。
21:28 P: ええ。で、あなたが、それらを取るなら、他に何が、ありますか。
21:34 K: 理解できます。さて、これは、困難な問いです。
21:38 なぜなら、自らが、気をつけなければならないからです - よく気をつける。 もし、他に何かが、あるなら、そのとき、その他の何かは、 条件づけられている脳細胞に対して、作動できます。ですね? 頭脳の中に、何かがあるなら、そのとき、 その他の何かの活動が、この狭い、制限された 文化からの自由を、もたらせます。 ですが、他に何かが、ありますか- 頭脳の中に、です。

P: ですが、クリシュナジ、生理学的にさえ、こう言われています
22:19 - 今日、脳細胞の作動は、 その能力の、きわめて、きわめて微細な部分である、と。

K: それは知っています。 その能力の、ね。なぜですか。
22:30 P: 条件づけが、それを制限するからです。
22:33 それは、それらの過程より、けっして自由ではなかったのです。

K: 自らを制限するものから、ね。
22:40 それは、思考が制限されている、という意味です。

P: はい。それは、玉子すべてを、一つの籠に、容れてきたのです。
22:48 K: それが、私が表したいことです。 思考は、制限されています。
22:52 私たちはみんな、その制限の中で、機能しています。 なぜなら、思考、経験は、制限されているからです - 知識は、永久に制限されています。 記憶と、思考も、です。 だから、思考は、制限されています。

P: この中で、感覚と、知覚過程はどんな所を、持っていますか。
23:16 K: いえ。それは、もう一つの問いを、もたらします。すなわち、
23:21 感覚は、思考の介入なく、作動できますか。 質問を理解されますか。

P: それらが今日、作動するところ、
23:33 クリシュナジ、それらは、一つの根を持っているように、思われます。 それらが作動するような感覚の動きは、思考の動きです。

K: それが、すべてです。ゆえにそれは、制限されています。
23:49 P: で、あなたが発問されるとき、それらにとって、それは可能か、ですが・・・
23:57 自らは、その種の疑問を、どうしますか。

K: 私は探究しています。私は、たくさんのためらいと、
24:07 一定量の疑いをもって、探究しています。 頭脳は、何千年をとおして、進化してきました。 言い表されぬ悲しみ、さびしさ、絶望、その他すべてを、 経験してきました。 そして、自分の恐れから、 あらゆる形の宗教的な尽力をとおして、逃避しようとする探求。 それら脳細胞は、それら自体において、いったい変化でき、 それら自体に、変異をもたらせるのかどうか、です。 さもないと、全然違った「新しい文化」は・・・

P: が、それらが、それら自体に変異を、もたらさないし、
24:56 他に何もないのなら・・・

K: ええ。あなたの疑問は、理解できます。
25:03 P: そうね、これは、逆説です。
25:06 K: ええ、これはまた、果てしなくつづく疑問です。
25:10 つまり、ヒンドゥーはそれを、はるか昔、幾世紀も幾世紀も前に、立てました - あなたのほうが、たぶん私より、それについて、はるかに多くご存知ですが、 彼らは、この問いを立てました。 すなわち、外側の機関が、ありますか - 神、 最高原理、などなど、上の自己が、です。 それは、間違った道です- 「上の自己」は。 当面の間、それを使いましょう。

P: たぶん、最高原理です。
25:42 K: それが、条件づけられた頭脳へ作動できるのかどうか。
25:49 P: または、こういうことでしょうか - それは、頭脳の中に、目覚められるのか。
25:55 二つのことが、あります - 一つは、外側の・・・

K: ・・・機関が作動している。 

P: ・・・機関か、エネルギーが作動しているか、
26:05 または、脳細胞の中から、です。 脳細胞の、未開封の部分、 変容させる目覚めです。

K: この問いは、理解できます。はい。 この問いは、理解できます。 それを探究しましょう。 それについて、議論しましょう。 外側の機関が、ありますか - 外側のエネルギー。 当面、そう呼びましょう。 条件づけられている脳細胞に、 変異をもたらすだろうもの、です。 いいですね?

P: 何かを言ってもいいですか。

K: どうぞ。
26:46 P: 問題は、エネルギーが、本当にけっして、脳細胞に触れないことです。
26:55 自らが築いてきた障害が、こうも多く、あるので、 自然からのエネルギーの流れは・・・

K: エネルギー。
27:04 P: エネルギーはけっして、触れて、創造するように、思われません。創造です。
27:15 K: ププルジ、私たち二人は、何について、議論していますか。
27:18 P: 私たちは、人間文化の可能性について、議論しています。
27:23 K: 文化ですが・・・
27:25 P: ・・・インドのでも、西洋のでもない。 

K: ええ。
27:29 P: 私がそう言っていいなら、人類すべてを、収容するもの、です。

K: 人類すべてを、です。それは、西洋のでも、東洋のでもなく・・・
27:40 P: そして、洞察を持っています。
27:43 外と内の間の分割が、終わります。 洞察は、洞察です - 外への洞察や、内への洞察ではありません。

K: ええ。 で、問いは、何ですか。
27:58 P: で、そのために、道具は、脳細胞です。
28:02 K: ええ。

P: 作動する用具は、脳細胞です。

K: 頭脳です。

P: 頭脳です。
28:08 さて、何かが、頭脳の中に、起きなくてはいけません!

K: ええ。私は、それは起きうると、言います。
28:17 外側の機関があるとの観念なしに、です - 条件づけられてきた頭脳を、どうやら浄化するであろうものが、です。 または、外側の機関を創案しないで、です - ほとんどの宗教が、そうしてきたように、です。ですね? または、条件づけられている頭脳は、 自分の条件づけに、目覚められ、 それで、自分の制限を知覚できますか。 そして、しばしの間、そこに留まれますか。 論点が明らかになるのかどうか、私は知りません。 そうね、私たちは、いつの時も、 何かをしようとしているのではないですか。 すなわち、する者は、されつつあることより、違っています。ですね? 私は、例えば - 仮に、私は、自分の頭脳が、 条件づけられているのを、悟る、とします。 それで、すべての私の活動、私の感情と、 他の人たちとの私の関係は、制限されています。私は、それを悟ります。 そのとき私は、言います - その制限は崩されなければならない、と。 で、私は、制限に対して、作動しています。 が、「私」もまた、制限されています。 「私」は、他方より、分離していません。で、すなわち、 私たちが、それに橋を架けられるなら - すなわち、「私」は、 自らが崩してしまおうとしている制限より、分離していないのです。 ですね?自己の制限も、 条件づけの制限も、同様です。 それらは、分離していません。 「私」は、それ自体の諸性質より、分離していません。

P: そして、自らが観察するものより、です。
30:54 K: そして、一部分が、他の部分を観察します。ですね?
31:04 P: あなたが、私たちは、いつの時も
31:07 何かをしようとしていると、仰るとき・・・

K: 他方へ作動しよう、と。

P: ・・・他方へ作動しようとしている。
31:17 K: 結局のところ、私たちの生全体は、それです -
31:21 テクノロジー的な世界などを別にすれば、です。 私は、これである。私は、あれを変化させなければならない、と。 で、頭脳は今、この分割において、条件づけられています - 行為者は、行為より、違っている、と。

P: それは、もちろんです。はい。
31:49 K: それで、その条件づけは、進んでいきます。
31:52 が、自らが、行為者は行為であることを、悟るとき、 そのとき、見通し全体が、すっかり変化します。 さて、当面、戻ってきましょう。 ププルジ、私たちは訊ねているのでしょう - 人間の頭脳に、何が変化を、もたらしますか。

P: それが、本当に、決定的な点です。
32:26 それを終わらせるのは、何ですか。

K: ええ。それにもう少し、入りましょう。
32:42 人は、この地上に、多かれ少なかれ、百万年の間、生きてきました。 私たちは、前にそうであったように、原始的です - 心理的に、です。 私たちは、基本的に、あまり変化してきていません。 私たちは、互いに殺し合っています。 私たちは、権力、地位を、探し求めています。 私たちは、腐敗しています。 今日、世の中で、 人間たちが、していることすべて - 心理的に、です。 そして、何が、人間たち、人類をして、それらを、変化させるのでしょうか。

P: 大いなる洞察です。

K: 待って。洞察ね。
33:25 さて、いわゆる文化は、これらを、阻止していますか。 質問を理解されますか。 インド文化 - インド文化を取ってみてください。 わずかな人々 - インドの偉大な思想家が、 この問いへ、入ってきたように、ですね? そして、大多数の人々は、ただ反復し、反復し、 反復し、反復する。 ただの伝統、死んだものです。 彼らは、死んだものとともに、生きています。ですね? さて、ここでもまた、伝統は、ものすごい役割を、果たします。

P: ええ。なぜなら、それは、別の道であるからです - わずかな者が、
34:14 科学へ大いなる洞察を、持つ。 そのとき、残りの者は・・・

K: で、これらを見つめて、何が、人間たちをして、根本的に
34:26 自分自身に、変異をもたらさせるのでしょうか。 文化は、人間の振るまいに、一定の変化を もたらそうとしてきました。 ですね? 

P: ええ。

K: そして、宗教は、「このように振るまいなさい。これをするな。 殺すな」と言ってきましたが、彼らは、殺しつづけます。 「同胞愛を持て」、ですが、彼らは、同胞愛を持ちません。 「互いに愛し合いなさい」、ですが、愛し合いません。よろしいですか。 命令、裁可がありますが、 私たちは、正反対のことすべてを、しています。

P: ですが、諸々の文化は本当に、崩壊してしまいました。
35:10 K: それが、私が見出したいことです。
35:12 それが崩壊してしまったのか、それがもはや、まったく価値を持っていなくて、 それで、人は今や、困りはてているのかどうか、です。 あなたが、例えば、アメリカへ行くなら、彼らは、伝統を持っていませんね? 彼らは、一人一人が、自分の好きなことを、しています。やりたいように、やっています。 ここで人々は、違った形で、同じことを、しています。 で、何が、脳細胞に、変異をもたらすのでしょうか。 そのとき、それは・・・

P: で、仰っていることは、本当は、
35:53 インドの母胎が異なっているとか、西洋の母胎が異なっているとかは、 大事ではない、ということであり・・・ 

K: まったく、です。

P: ・・・問題は、同一です。

K: ええ、そうなんです。
36:02 P: 人間の頭脳での変異です。

K: ええ。それに拘りましょう。 つまり、結局のところ、インド人は、
36:11 一番貧しい者も、苦しみます。ここの人たちが、苦しむように、です。 さびしい。絶望、悲惨、それらです。 ここと全く同じです。 で、東洋と西洋を忘れましょう。 そして、何が、この変異が起きるのを阻止するのかを、見ましょう。

P: 現実を知覚するのより、他に何か道が、ありますか。
36:54 K: 現実を。
36:57 それが、私たちが六十年間、主張してきたことです。 すなわち、「有るもの」、現実のほうが、 現実についての観念より、重要である、と。 観念、様々な概念と結論は、 まったく価値を、持ちません。 なぜなら、あなたは、事実より、 起きつつあることより、離れているからです。 見たところ、これは、ものすごく困難です。 なぜなら、私たちは、観念で捕らわれてしまっているからです。 観念に捕らわれてしまっている。

P: が、現実を知覚する中で、
37:44 頭脳の動きが、何もありません。
37:46 K: それが、私が言っているすべてです。
37:48 事実は - よく気をつけて観察するなら - それら自体で、変化を、もたらします。 話が明らかになっているのかどうか・・・ 人間の悲しみは、西洋の悲しみや、東洋の悲しみではありません。 ですね? それは、人間の悲しみです。 私たちはいつも、悲しみより動いて、離れようとしています。 さて、私たちは、悲しみの深さと意味を、 理解できるのでしょうか - 知的に理解するのではなく、実際に、 悲しみの本性を掘り下げる。 そして、悲しみは、あなたのや私のではありません。 で、人間の頭脳が、それ自体の中で、深く探究するのを、 何が、妨害したり、妨げたりしていますか。

P: 一つのことを、お訊きしたいと思います。
39:09 あなたは、「掘り下げる」という言葉を、使われました。 「自分自身を探究する」という言葉を、使われました。 どちらも、動きに関連した言葉です。 

K: 動きに。

P: けれども、あなたは、こう仰います- 動きが終わることは・・・

K: もちろんです。もちろんです。 動きは、時です。
39:30 動きは、思考です。 動きが終わること - それは、本当に、終わりえますか。 または私たちは、それが終わりうると、考えますか。 質問を理解されますか。 結局のところ、この種類のことに、幾らか入ってきた人々は - 過去においても、現在においても、です - いつも、分割してきました- 探究する実体と、 探究されることになるものを、です。 それが、私の異論です。 それが、主要な妨げであると、私は思います。

P: で、あなたは、「探究」という言葉を、使われるとき、
40:29 それを、知覚として、使われます。

K: 知覚、観察する、見守る。 さて、私たちは一分後、それに入るでしょう - 時間があるなら、ですが、 よろしければ、私は、これに戻ってきたいと思います。 何が、人間たちをして- ごく単純に表すと - 自らの振るまい方を、変更させるのでしょうか。 ごく単純に表すと、です。 このおぞましい残忍さ - 何が、これらを、変化させるのでしょうか。 誰が、それを変化させるのでしょうか。 政治家ではなく、司祭者ではなく、 環境について話している人々と、 環境運動家などなど、ではない。 彼らは、人間存在を、変化させつつありません。 誰がそれを、変化させるのでしょうか。 人自身が、変化しないのなら、 誰が、それを変化させるのでしょうか。 教会は、人を変化させようとしてきました。 ですね? それは、成功してきませんでした。 宗教は、世界中で、人を、人間化しようとか、 もっと智恵をもち、もっと配慮し、愛情深くなど しようとしてきました。彼らは、成功してきませんでした。 文化は、成功してきませんでした。

P: ですが、クリシュナジ、あなたは、これらを仰いますが、
42:06 それは自体では、人を、事実のその知覚を、導きません。

K: ええ。で、何が、人を、そうさせるのでしょうか。
42:18 あなたは、おそらく、例えば、 あなたと、他の一人がこの知覚を、持つ、としましょう。 私はそれを持たないかもしれません。 で、あなたの知覚は、私に対して、どんな効果を、持ちますか。 またもや、あなたが知覚と、権力、地位を持っているなら、 私は、あなたを崇拝するか、あなたを殺します。 ですね? で、私は、はるかに深い問いを、訊ねています。 私は本当に、見出したいのです- なぜ人間たちは、 幾千に幾千年の後、このようであるのかを、です。 一つの集団は、もう一つの集団に、対立し、 一つの部族は、もう一つの部族に、対立し、 一つの民族は、もう一つの民族に、対立する。 進んでいく恐怖です。 新しい文化 - それが、変化をもたらすのでしょうか。 人は、変化したいのですか。 または人は、こう言います -「物事はだいじょうぶだ。進んでいこう。 私たちは、最終的に、一定の段階へ、進化するだろう」と。

P: ほとんどの人々は、そう感じます。
43:34 K: ええ。それが、それについてこうも、おぞましいことです。
43:39 「最終的に、と。私に、もう千年を、与えてくれ。 私たちはみんな、すばらしい人間になるだろう」と。 それは、こうも不条理です。 その間に、私たちは互いに、破壊し合っています。

P: 何か、お訊きしてもいいですか。
44:00 事実に向き合う実際の瞬間とは、何ですか。 それは実際に、何ですか- それの実際は?

K: 事実(ファクト)とは何ですか、ププル。
44:18 私たちは先日、ここで、一団の人々と、議論していました。 事実(ファクト)は(語源的に)なされてきたことです - 憶えられています。 そして、今、なされつつあることです。

P: 今、なされつつある。 

K: 今、なされつつある。今、行為している。
44:37 そして、昨日、起きたことです。 その事実を憶えている。 憶えていること。

P: または、恐れ、恐怖、何の波が、立つことも、です。
44:55 さて、自らは実際にどのように・・・

K: 私は、言っています - いえ、ちょっと待ってください。
45:01 で、「有るもの」、事実と仰るとき、明らかにしましょう。 いいですね? 昨日や先週の出来事の事実は、去っていますが、 私はそれを、憶えています。ですね? 何かを、憶えていることが、あります - 愉快でも、不愉快でも、起きたことを、です。 それは、事実でしたが、頭脳に、蓄えられています。 今、されつつあることもまた、事実です - 過去に色づけられ、 過去により制御され、過去により形作られています。 で、私は、この動き全体を、事実として、見られますか。

P: それを、事実と見ることは・・・
45:51 K: 動き全体 - 未来、現在、過去を、です。
45:55 P: それを事実と見ることは、それを決まり文句なしに見ることです。
46:01 K: 決まり文句なしに、先入観なしに、偏見なしに。
46:06 P: または、それを取り巻く何もなしに、です。
46:09 K: そのとおりです。 それは、どういう意味ですか。
46:16 P: 否定する - まず最初に、生じて、取り巻く応答
46:22 すべてを、否定する。

K: 憶えていることを、否定する。 当面、それで通してください。

P: その中から生ずる、憶えていること。
46:31 K: 先週の楽しみや痛みの事実、褒賞と処罰の中から、です。
46:37 さて、それは、可能ですか。

P: ええ。それは、可能です。

K: 可能です。なぜですか。
46:47 P: なぜなら、まさに注意自体が・・・
46:53 K: ・・・憶えているのを、消散させます。
46:56 さて、それは、こういう意味です- 頭脳は、注意深くて、 先週、起きた出来事、それが起きたとの事実ですが、 事実を終わせられますか。 それを終わらせる。 記憶の中で、持ち運んでいかずに、です。 私の息子は、死にました。 そして、私は、苦しんできました。 しかし、あの息子の記憶は、こうも強く・・・ 私の頭脳において、こうも強い強さを、持っているので、 私は常に、それを憶えています。

P: 生じます。

K: 生じて、消えて、生じます。
47:49 で、頭脳は、こう言えますか - 「ええ、私の息子は、死にました。 それで、それは終わりです」と。

P: 自分はそう言いますか。または、生ずることが、あるとき・・・
48:04 K: そのとき、終わることが・・・
48:06 それは、果てしなく生ずることと終わること、という意味です。

P: いいえ。ですが、生ずることが、ある。
48:14 K: それは、憶えていることです。 目下、その言葉で通しましょう。

P: すなわち、憶えていること。
48:18 その中から、痛みの動きが、あります。 

K: 痛みが。
48:23 P: その痛みの否定は、痛みだけを終わらせるのではなく、
48:29 生ずることをも、です。

K: それは、どういう意味ですか。 もう少し、それに入ってください。 それは、どういう意味ですか。 私の息子は、死にました。 私は、すべてのことを、憶えています- 彼が・・・等々、と。 ピアノの上には、彼の写真が、あります。 または、(暖炉の)マントルピースの上に、です。 そして、この常に憶えていることが、ありますね。 流れ込み、流れ出る。 それは、事実です。

P: ですが、その痛みを否定することと、それを解消すること -
49:12 それは、頭脳に対して、直接的な作用を、持ちませんか。

K: それが、私が来ようとしていることです。それは、どういう意味ですか。
49:20 私の息子は、死にました。 それは、事実です。 ですね? 私は、その事実を変化させられません。 彼は、去ってしまいました。 それを言うことは、 残酷に聞こえますが、彼は去ってしまいました。 が、私は、彼を、いつの時も、持ち運んでいます。ですね? 頭脳は彼を、記憶として持ち運んでいます。 そして、思い起こさせるものが、いつもそこにあります。私は、続けてゆきます。 私はけっして、「彼は去ってしまった。 それは事実だ」と、言いません。 私は、記憶の上に生きます - それは、死んだものです! 記憶は、現実的ではありません。

P: ええ。

K: そして私は、訊ねています。 事実を終わらせること - 私の息子は、去ってしまいました。それは、 私が愛を失ってしまった、とか何とか、という意味ではありません。 私の息子は、去ってしまった。 それは、事実です。

P: ですが、事実が、知覚されるとき、何が、残っていますか。
50:34 K: 衝撃的にならずに、何かを言ってもいいですか。何もない。
50:44 私の息子は、去ってしまいました。 または、私の弟、私の妻か、何でも、です。去ってしまいました。 それは、残酷さの主張とか、 私の慈しみ、私の愛を拒否することとかではありません。 私の息子への愛を、(拒否するの)ではなく、 私の息子との愛の同一視を、です。 明らかになっているのかどうか・・・

P: あなたは、区別を引いておられます- 私の息子への愛と・・・
51:27 K: ・・・愛。

P: ・・・愛の間に、です。
51:30 K: その言葉の最も深い意味で、私は息子を愛しているなら、
51:35 私は、人を、人類を愛しています。 それは、私は息子を愛している、だけではない。 私は、人間世界全体を愛しています - 大地を、樹々を、全宇宙を、です。 ですが、それは、違った事柄です。 で、あなたは、本当に良い質問をしています。すなわち、 知覚があるとき、何が起きるのか。 事実への清浄な知覚 - 何の偏見もなく、どの種の逃避などもなしに、です。 事実を完全に見ること- それは、可能ですか。 私は、自分の息子の死の悲しみの中に、いるとき - 私は迷っている、ということですが - それは、大きな衝撃です。 起きてしまったのは、何か、ひどいことです。 その瞬間に、あなたは、その人物へ何をも言えません。ですね? 彼が、この混乱とさびしさと絶望と悲しみから、出てくるとき、 おそらく、彼は、この事実を知覚するほど、敏感であるでしょう。

P: さて、私はいつも、この一つのことへ、戻ってきます
53:06 - 事実の知覚、です。それには、必要でないでしょうか・・・

K: ・・・ものすごい注意が。

P: ・・・大変多く見守ることが、です。
53:18 K: 見守ることが、もちろんです。もちろんです。
53:21 P: 失ったばかりの人物へは、言えませんが・・・

K: ええ。それは、残酷でしょう。
53:28 が、「私の息子は、死んでしまった。
53:31 それは、どういうことなのか」と言う人には、ですね - 「死は、人類すべてに、共通している。私たちはなぜ、存在するのか」と。 敏感であり、訊ね、探究している人には、です。 彼は、目覚めています。彼は、これらへの答えを、見つけたいと思います。

P: 一つの水準において、それは、こうも単純に思われます。
53:56 K: 知っています。私たちはそれを、単純に保たなければならないと、私は思います
54:00 - たくさんの知的な理論と観念を、それへ持ち込むのではなくて、です。

P: すると、それはなぜですか - 精神は、単純なことを、恐れていますか。
54:13 K: いいえ。私たちはこうも高度に知的であると、私は思います。
54:17 それは、私たちの教育の一部、私たちの文化の一部であったのです。 観念は、ものすごく重要です。 概念は、本質的です。 それは、私たちの文化の一部です。 「どうぞ、観念は、あまり重要ではない。 事実が、重要です」と言う人 - 彼は、とてつもなく単純であるにちがいありません。

P: そうですね、あなたが、仰っていることは -
54:47 インド文化の全分野において、最高のものは、自己の解消です。 そして、あなたは、事実の解消を、仰います。話されます - それは、本質的に、自己の解消です。 

K: ええ。
55:09 ですが、自己の解消は、概念になったのです。 私たちは、概念を崇拝しています - 世界中で、みんながしているように、です。 概念は、思考により創案されます。 または、分析などをとおして、概念に到るし、 その概念を、大変とてつもなく重要なものとして、保ちます。 で、その点に戻ってきます- 何が、人間たちをして、 世界中で、きちんと振るまわせるのでしょうか。 私の形や、あなたの形で、振るまうのではなく、振るまう。殺すな。 恐れるな。 そうね、愛・・・ 大きな慈しみを持て、などと。何がそれを、もたらすのでしょうか。 何も、成功してきませんでした。 知識は人を、助けてきませんでした。ですね?

P: それは、恐れが彼の影であるからではないですか。
56:22 K: 恐れ。そしてまた、私たちは、未来が何であるかを、知りたいと思います。
56:30 P: それは、恐れの一部です。

K: ええ。 私たちは、知りたい。なぜなら、私たちは・・・それは単純です。
56:37 私たちは、こうも多くの物事に、安全を、探し求めてきたし、 それらはすべて、失敗してきたからです。 そして今、私たちは、どこかに安全がなければならない、と言います。 私は、そもそもどこかに、安全があるのかどうかを、問います - 神においても、です。それは、自分の恐れの投影です。

P: この解消の作用は、何ですか
57:08 - 脳細胞に対し、頭脳自体に対して、です。

K: 私は、「洞察」という言葉を、使うでしょう。
57:20 洞察は、記憶の事柄ではありません。 知識と時の事柄ではありません- それらは、すべて思考です。 で、私は、こう言うでしょう- 洞察は、 思考の動き全体の不在、 時と憶えていることと思考としての、全的な不在である、と。 で、直接的な知覚が、あります。 それは、このように、です - 私は、ここ一万年の間、 北へ進んできました。 私の頭脳は、北へ向かうのが、慣習になっています。 そして、誰かが、やって来て、こう言います - 「それは、どこにも繋がらないだろう。東へ行きなさい」と。 私が、振り向いて、東へ行くとき、 脳細胞が、変化したのです。 なぜなら、私は、北はどこにも繋がらないとの洞察を、持つからです。 待ってください。私は、それを、違ったように表しましょう。 思考の動き全体が、制限されているし、 今、世界中で行為していますが、 それは、最も重要な行為です - 思考により駆り立てられて、です。 思考は、私たちの問題のどれをも、解決しないでしょう - テクノロジー的なの以外は、です。 ですね? 私は、それが見えるなら、北へ行くのを、止めたのです。 そして私は、こう思います - 一定方向が終わること、 何千年もの間、進んできた動きが、終わること、 その瞬間に、洞察が、あります。 それが、脳細胞に、変化、変異を、もたらします。 これは、きわめて明らかに、見えます。 が、自らは訊ねます - 何が、人類を、変化させるのでしょうか。 何が、私の息子を、娘を、変化させるのでしょうか。 彼らは、これらを聞きます。彼らは、これらについて、何かを読みます - 生物学者などから、心理学者から、ですが、 彼らは、古いわが道を、継続します。 過去の伝統が、こうも強いのですか。 私は、ここ千年の間、自分自身について、考えてきました。 私はまだ、自分自身について、考えています - 「私は、自分自身を充足しなければならない。 私は、偉大でなければならない。私は何かにならなければならない」と。 これが、私の条件づけです。 これが、私の伝統です。 過去が、こうもものすごく強いのですか。 そして、過去が、いつの時も、具現化している。そうですか? それが、私たちの文化の一部ですか- 自分の条件を継続することが。

P: それは、私たちの文化の一部であると、言えるんでしょうね。
1:01:49 K: それを見つめてください。私は、これをきわめて真剣に見守ってきたんです。
1:01:56 - いかに伝統が、ものすごく強く握っているかを、です。 迷信の伝統ではありません。私は、それについて、話していません。 過去が動き、動いている何物かの継続です。 よろしいですか。過去が、自らの運動を、続けていく。 私たちは、それなのです。 文化は、私たちの妨げの一部であるかもしれません。 宗教的な概念は、私たちの妨げであるかもしれません。 で、頭脳は、何をすることに、なりますか。 頭脳の一部分は、古いものであり、頭脳の別の一部分は、 何か全然新しいものであることが、言われています。 そして、私たちが、新しいものへ、扉を開かれるなら、 変化が、ありうるかもしれない、と。 なぜなら、これらの専門家によれば、私たちは、 自分の頭脳の、きわめて小さい部分を、使っているからです。

P: 明白に、注意があるとき、断片は、終わったのです。
1:03:32 K: ええ、そうなんです。私たちは、それについて、このように話せます
1:03:39 - 注意とは何なのか。私たちは、叙述でき、それに入られます。 その終わりに、聞き手は、こう言います - 「いいですよ。私は、これらを理解しますが、私は、今の私なるものです! 私はこれを、知的に、言語的に、理解しますが、 それは、私の存在の深みに、触れたことが、ありません!」と。

P: ですが、それは、精神の中での思考との
1:04:03 あの最初の接触の問いではないですか。

K: 私はそれに、よく付いていっていません。

P: 私は、感じを持っています -
1:04:11 私たちは、思考を観察することについて、話すのだ、と。 それは、注意の実態とは、全然違ったものです。

K: すなわち、思考はそれ自体に気づいている。
1:04:25 P: ええ。あの一瞬です。
1:04:32 K: それは、理解できます。
1:04:42 私たちは、離れ去ろうとしています・・・残念ながら、私たちは、 まさに中心の主題より、離れ去ろうとしていると、思います。 世界は、ますます表面的に、ますます金銭優先に、 なりつつあります - そう言っていいなら、です。 金銭、権力、地位、充足、 同一視、私、私、私、私。 このすべては、あなたのまわりのあらゆる物事により、助長されつつありますね? さて、あなたは、旅行してきて、これらをも見てこられたのですが、 あなたは、これらの事柄を、どう思いますか。 これらのとてつもない智恵ある人々、利巧な人々が、いますね。 そして、最も愚かな人々、神経症の人、 結論へ至ってしまい、その結論より、 けっして動かない人々も、です。 共産主義者のように、です。 全体主義世界は、それです。 彼らは、一定の結論へ到ってしまい、 それは、最終的です。

P: が、それらはすべて、あなたが触れられない参与です。
1:06:10 あなたは、参与していない人々に、触れられるだけです。

K: そして、参与していない人々とは、誰ですか。
1:06:18 P: 私は今日、こう言うでしょう - それは、健康の一つの印である、と。
1:06:24 K: 彼らは、若い人々ですか。

P: 今日、ここ二十年か、三十年で、かつてないほど、
1:06:34 何にも参与していない人々が、います。
1:06:39 K: 私は問います - 私は、本当に、そうしたいと思います・・・

P: 本当です。そう言えるでしょう。 一方で、あらゆる物事の、
1:06:47 このものすごい衰退が、見られます。
1:06:51 他方で、どこかに、参与を離れた、この動き、です。 彼らは、どちらに向くべきかを、知らないかもしれません。 彼らは、方向を持っていないかもしれません。彼らは・・・

K: 何にも所属していない。

P: 彼らは、何にも所属していません。
1:07:11 K: そのような人々は、います。 存じています。
1:07:16 P: つまり、彼らは・・・
1:07:19 K: そうね、彼らは、むしろ漠然とし、彼らは、むしろ混乱します。
1:07:23 P: ええ、なぜなら、彼らはこれらを概念に、変えるからです。
1:07:27 あなたが仰ることを、概念に変えることは、こうも簡単です。

K: もちろんです。 もちろんです。

P: そして、あなたが仰ることを収容する格言を、持つことは、です。
1:07:38 が、こうも生きている文化は、
1:07:41 なぜなら、それは、洞察の上に、生きているだけだから・・・

K: ええ、私は、「文化」(カルチャー)という言葉を、使わないでしょう。
1:07:48 P: まあ、あなたは、もっと多く収容する何かとして、
1:07:56 「文化」という言葉で、始められたから、ゆえに、私はそれを、使いましたが、 それは、人間文化です- おそらく、 洞察に住する精神の文化であろうもの、です。

K: 文化とは、ええ。
1:08:21 P: そういう状態の中で、お訊きしていいなら、
1:08:24 世界が見て、知ってきて、収容している文明すべてに、何が起きますか。

K: ・・・去ってしまいました。 エジプト文明・・・

P: いえ、それらは、去ってしまいましたが、 それらはまだ、人類の中に、収容されています。

K: もちろんです。もちろんです。 それは、同じです。
1:08:44 P: が、あなたが、拭い去るとき・・・
1:08:48 K: それは実際には、こういう意味です、ププルジ。自由とは、何ですか。
1:08:57 私たちは、自分たちが、囚人であることに、気づいていますか - 自らの夢想、想像と結論、観念の、です。 私たちは、それの囚人です。私たちはそれらに、気づいていますか。

P: 気づいていると、思います。
1:09:15 K: ププル、私たちは、気づいているなら、あなたが、それらに注意深いなら、
1:09:19 そのものは、焼き尽くされます。

P: これはもちろん、或る点で、私たちができない・・・
1:09:28 なぜなら・・・あなたは、合間の状態を、認めません!

K: ああ、それは、不可能です。

P: これが、問題全体です。
1:09:42 K: それは、暴力的であり、非暴力的になろうとしている人に、似ています。
1:09:48 合間の状態において、彼は、暴力的です。

P: いえ、必ずしもそうではありません。
1:09:59 それはまた、この時の動き全体の問いではないですか。

K: 時と思考などの、です。 それは、何ですか。制限します。
1:10:09 私たちは初めに、事実を認知するか、見るなら - すなわち、思考は、どの方向にでも、制限されていることを、です。 どの分野 - 外科医療、テクノロジー、コンピューターなどにおいても、です、 また、思考は、自体を探究していて、思考は、制限されているので、 あなたの探究は、きわめて、きわめて制限されているでしょう。

P: 違いは、ですね、私はそれを見るかもしれませんが、それが生きつづけるために
1:10:47 必要な注意は、私が日中、起きている間に、そこにないんです。

K: ええ。知っています。

P: それは、その注意の
1:11:00 量子、能力、強さですが・・・

K: そうね、あなたは、どうやってその熱情(パッション)を、持ちますか。
1:11:09 あなたは、どうやって、その維持されたエネルギーの動きを、持ちますか - 思考により、どの種の活動によっても、消散されないものを、です。 それは、あなたが、悲しみを(理解し)、悲しみの終わるのを、理解するとき、 それは、来るだけだと、私は思います。 そのとき、慈悲(コンパッション)と愛と、そのすべて、です。 その智恵は、憂鬱を持たないエネルギーです - 人間的な性質を、何一つ、持たないのです。

P: それは、上がりもしないし、下がりもしない、ということですか。

K: ええ。
1:11:59 どうして、そうなりえますか。
1:12:01 上がり、下がるためには、あなたは、それが上がりつつあり、 下がりつつあることに、気づかなければなりません - そして、気づいているのは、誰なのかなど、です。 

P: いえ、そのようでもありません。 が、一日中、それを保つことは、可能ですか。

K: それは、あります。 あなたが、それを保ちません。
1:12:20 それは、そこにある好い香りに、似ています。 そういうわけで、私は思うのですが、自らが、 私たちの意識の条件づけ全体を、理解しなくてはいけないのです。 私が言う意味を、ご存知ですか。 それが、この意識に対する本当の研究、 本当の探究、本当の探検であると、私は思います - その意識は、人類すべての共通の基盤です。 私たちは、けっしてそれを、探究しません。 私たちは、教授や心理学者が、探究するように、探究します。 私たちは、それを研究しますが、私たちは、けっしてこう言いません - 「ほら、私はこの意識を、研究しようとしています - すなわち、私を、です。 私は、それを覗きみようとしています」と。

P: ええ。自らはそれを言います。言わないとは私は言いません。それは言います。
1:13:14 K: ですが、自らはそうしません。

P: そうします。
1:13:18 K: 部分的に、です。 

P: いえ、私はそれを、受け入れないでしょう。
1:13:21 自らは、そうします。 注意します。探究します。
1:13:25 K: そのとき、何ですか。あなたは、その終わりに、到ったのですか。

P: いいえ。突然に、自らが不注意であったことを、見つけます。
1:13:36 K: いえ。私は、不注意が大事であるとは、思いません。
1:13:44 あなたは、疲れているかもしれません。
1:13:47 あなたの頭脳は、十分に探究したかもしれません。 今日は、それで十分です。そこには、何も間違ったことは、ありません。 が、そうね、またもや私は、この注意と不注意の問いへ、異議があります。

P: が、私たちの精神のほとんどにおいて、それは、基本的な問いです。
1:14:16 基本的に、もしあなたが訊ねるなら・・・

K: いえ、私は、そのように表さないでしょう。
1:14:23 私は、こう言うでしょう - 何かのこの全的に終わることが、あるところ、 新しい始まりが、ある、と。 それは、自らの運動を、持っています。 それは、「私」とは、何の関わりをも、持ちません。 それは、自らが完全に、自己より自由でなければならない、という意味です。 そして、自己より自由であることは、最も困難なことの一つです。 なぜなら、それは、色々な岩、色々な樹々、 色々な活動の下に、隠れるからです。 それで十分だと、思います。