Krishnamurti Subtitles home


BR83T1 - 頭脳はどうやって、それ自体を変容させられるのか
第1回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1983年8月27日



0:53 クリシュナムルティ: 私は話をしなければならない、と思います。 こういう良いお天気に恵まれていることが、うれしいです。 それが、丸一週間、継続することを、望んでいます。 まず第一に、ご注意を申し上げていいなら、 これは、娯楽ではありません。 これは、知的なお楽しみや、知的な刺激や、 或る種のロマンチックな、感傷的な戯言ではないのです。 私たちは、この世界にともに生きることの、 きわめて複雑な問題を、取り扱おうとしています - ほとんど狂ってしまった、この世界に、です。 こんなに混沌と悲惨、戦争の脅威が、あります。 諸宗教は、これらの中、私たちの日常生活の中で、 ほとんど役割を、果たしてきませんでした。 私たちは、ともに行くべきだと、思います - ともに、です。語り手が様々なことについて、話すだろう、ということではない。 私たちは、ともにこれらの事柄に、入るべきです - あなたは聞く、語り手が話す、のではなく、 ともに、です。 それで、私たちは、ともに働こう、ともに考えよう、 ともに知覚し、ともに行為しようとしているなら、 よく気をつけて、聞かなければならないように、見えます。 言われつつあることを、だけではなく、 また、言われつつあることへの私たち自身の反応をも、聞くのです - 私たちの是認や否認の反応、 私たちの制約の感覚、 私たちの抵抗、私たちの恐れ、 どの形の刺激に対しても、 私たちの反応の複雑性すべてを、です。 それで、聞く行為が、とても重要です - 私たちが、自分たちの現在の存在の問題全体の中へ、 ともに、探検しよう、 ともに考えようとしているなら、です。
4:30 私たちは、きわめて周囲を囲い込まれ、制限されています。 私たちの頭脳は、プログラムされ、条件づけられ、制限されてきたので、 私たちのほとんどは、これに気づいていないのです。 私たちは、言語的に条件づけられています。 私たちがそうであるのか、そうでないのか - それは、とても深刻な主題です。 私たちは、時間があるなら、それに入るでしょう。 私たちは、条件づけられ、形づけられ、枠に入れられています - 環境により、伝統により、宗教により、 私たち自身の幻影、 私たち自身の想像の孤独により、 私たち自身の切望の孤独によって、です。 周囲を囲い込まれ、制限されています。 で、私たちの頭脳は - 語り手は、その専門家である、ということではなく、 大変多くの人々が、頭脳について話してきたのを、聞いてきました - 専門家と他の人たちに、ですが、 この長い進化の過程をとおして、私たちの頭脳が、 きわめて制限されていることが、知覚されます。 見たところ、そのごく小さな部分のみが、 行為するか、考えるか、生きるのです。 残りは、休止中です。 それが、専門家の幾人かが 頭脳の性質と頭脳の働きを研究してきた人たちが、 言ってきたことです。
6:24 また私たちは、私たちの生は、きわめて小さいことが、 熟達者に頼らずに、 自分自身で、見られます。 私たちは、自分自身に、関心を持っています - 自分の成功に 自分の悲惨と、 自分の制限された生の騒動すべて、 悲しみ、痛み、心配、 様々な形の反応に、関心を、持っています。 それらは、私たちの先入観、私たちの偏見、 私たちの傾向より、生じます。 このすべてが、私たちの頭脳を、条件づけるのです。 で、私たちはけっして、生の全体、存在の全体への 気づきを、持っていません - その全体は、広大で、測量不可能で、ものすごく有力です。
7:50 もしも、私たちは今朝、ともに、 楽に、幸せに行けて、 私たち自身の生の性質を、探究できたなら - もしあなたが、その気があるなら、です - 私たちの振るまいの本性を、 私たちの思考の過程全体を、 もしも私たちが、ともにこのすべてを探究できたなら、です。 そして、探究するだけではなく、 まさに探究こそをとおして、専注する。 探究は、自体ではほとんど意味が、ありません。 私たち自身を、私たちの環境を、 世界の状態を、探究する。 単なる探究は、知的でも、 あるいは、詮索好きの、情報などの探究も、 私たちの生に対して、ほとんど効果を、持ちません。 ですが、私たちは、自分自身を、探究するなら - 私たちの考え方を、 なぜ私たちがこのように考えるのか、 なぜ、人間たち、 この美しい大地に、何千何万年も生きてきた者たちは、 やはり、私たちなるものであるのかを、探究する。 不幸せで、暴力的であり、 何か白痴的な理由のために、すぐに互いに殺し合おうとしています。 もしも私たちが、ともにこれらに、入れたなら - そして、ともに、 終わりもなく、始まりもないこの道、 この道路を行く過程において、です - そのときおそらく、私たちがここで会う甲斐が、あるでしょう。 ですが、年々、単に聞いたり、 読むだけで、専注しないのは、 ほとんど意味が、ありません。 それは、時とエネルギーのむだです。
10:30 で、私たちは、今朝、 少なくとも一時間、真剣であり、 私たちがそこに生きるこの世界全体を、見つめられるでしょうか - 私たちが創り出してきた世界を、です。 この社会は、私たち自身の複雑な生の結果です。 あなたは、条件づけられています- 健康により、環境により、 私たちの文化により、 民族主義などによって、です。 私たちは、このすべての条件づけを、突き破るのでなければ、 つづけるでしょう - 私たちが、何千年もの間、つづけてきたように、です。 それで、暴力は、つづくでしょう。 腐敗、 一人一人が自分の充足を探し求め、 自分の野心を追求し、孤立して、です。 そして、孤立があるところ、葛藤があるにちがいない。 それで、私たちは今朝、これらに、入られるでしょうか。 これを真剣に、訊ねています - なぜなら、あなたたちは、わざわざ労をとって、ここに来たからです。 単に観念、表現、反応について、 話すだけでは、何にもなりません。 ものすごいエネルギー、活力をもって、これへ入り、 この条件づけを壊してしまうことが、可能なのかどうかを、見る - それで、頭脳が、無量の能力を持つだろうように、です。
12:59 それは今、能力を持っています - テクノロジーの世界でのとてつもない能力、です。 コンピューター、 生化学、 遺伝子工学と、 外側から、頭脳に影響しようとする、 様々な形の他の活動です。 あなたが、これらに気づいているのかどうか、私は知りません。 様々な専門分野の科学者たちは、 必死に、人に変化をもたらそうとしています。 そういう変化は、ずっと外側からでした。 私たちが、互いに理解しあっていることを、願っています。 彼らは、遺伝子工学をとおして、 まさに遺伝子自体を、変化させようとしています - それで、人間が、何か全然違ったものであるように、です。 そして、コンピューターが、引き継ごうとしています - おそらく、私たちの活動の大変多くを、 またもや、外側からです。 共産主義者は、それを試してきました。 環境を制御しようとし、変化させてきました - 権威をとおし、規律をとおし、 完全な服従をとおして、 人が変化するだろうと、望んで、です。 彼らは、成功したことが、ありません。 反対に、 彼らは世界に、大きな悲惨を創り出しています。 で、私たちは、大変根源的な質問をしています - 外側から影響されないことは、 可能なのかどうか、です。 私が、「外側」という言葉を使うとき、私たちが理解することを、願っています - 外側が、神でも、音楽でも、芸術でも、 政府により成立した、 外面的な法律などであっても、です。 様々な形と専門分野でのこれらすべての外側の機関、媒体は、 むりやりに人を順応させよう、 彼らの振るまいに、根本的な変化をもたらそうとしています - それで、人が、戦争などなしに、生きるだろうように、です。
16:44 また他方で、彼らは、戦争の準備をしています。 世界中のあらゆる政府が、武装していて、 すぐに殺そう、殺されようとしています。 で、これが、いつの時も私たちのまわりで、進んでいます。 私たちのほとんどは、きっとこれらに気づいていると、思います。
17:16 私たちは、全的に違った質問を、しています。 諸宗教は、人を変化させよう、おとなしくしつけようと、してきました - 恐れ、天国と地獄と、その他すべてをとおして、です。 彼らもまた、成功したことがありません。 これらはすべて、事実です。 それは、語り手の想像や偏見ではありません。 これが、私たちのまわりの世界で、進んでいることです - 宣伝をとおし、 様々な形の化学工学などをとおして、 人に強いるように、影響しています。 彼らは、けっして成功したことがないし、 彼らは、けっして成功しないでしょう。 なぜなら、精神(サイキ)は、はるかに強く、 はるかにずるがしこく、 とてつもなく能力があるからです。 それで、私たちは訊ねています。 あなたと語り手は、訊ねています。 私が、あなたに訊ねていません。 あなたが、この問いを、訊ねています - 外側の影響力すべてが、 神の観念と、イデオロギー、 様々な形の歴史的、弁証法的な結論を、含めて、 人を変化させてこなかった上は、 人間が、まったく外面的な影響力なしに、 根本的、根源的に変化することは、 可能であるのかどうか、です。 理解されますか。 世界中の導師たちは、成功したことが、ありません。 彼らはみんな、自惚れていて、お金を求めています。 彼らは、完全に脇に置けます。 彼らは、重要ではありません。 ですが、訊ねることが重要で本質的なことは、こうです - 何が、私たちの一人一人をして、知識人を、 私たちが科学者であっても、 私たちが芸術家であっても、 様々な形の活動でも、 私たちが根源的に、深く、 まさに脳細胞自体に、変異を もたらす能力が、あるのかどうか、です。 私は、この問いを明らかにしましたか。
20:21 私たちは先日、ニューヨークで、数人の科学者に、話していました。 大変多くの議論の後 - それは、ほぼ二時間、続きましたが - 私は彼に、訊ねました。 何が、まさに脳細胞自体に変異を、もたらすのでしょうか。 外側からではない。 遺伝子工学、生化学、 よろしいですか? それらではなくて、 何が、脳細胞自体を、変化させるのでしょうか - 何千年もの間、条件づけられてきたそれらを、です。 あなたたちが、この問いを、自分自身にしていることを、願っています。 あなたの答えは、何となるのでしょうか。 あなたが真剣で、熱心であり、 この質問をするほど熱情的であるなら、 あなたの答えは、何となるのでしょうか。 あなたは、これらについて、大変多く考えてきたなら、 それは可能でないと、言い、 それで、さらなる探究への扉を閉ざしてしまうのか、 あるいは、「私は本当に知らない。 それは可能なのか」と言うのでしょう。ですね? 私たちは、その立場にいます。 私たちは、扉を閉じようとしていません - 「それは可能でない。それは不可能だ」と言うことによって、です。 どうして人は、何千年に何千年もの間、 広大な知識、経験をとおして 条件づけられてきたのに、 どうして、その頭脳が、自体を変容させられるのか。 それは不可能だ!と。 あなたが真剣であり、そのように、「それは可能でない」と答えるなら、 あなたは、探究の通路を完全に閉ざしてしまったのです。 ですが、あなたが、それを探究しているなら - すなわち、頭脳は、 一方向に、とてつもない能力を、持っているのに、 全く制限され、 周囲を囲い込まれ、条件づけられ、プログラムされています - カトリック、プロテスタンであるよう、イギリス人、フランス人、 そうね、その他であるように、です。 その頭脳は、全的に自由でありうるのかどうか - 自分が好きなことを、自由にするのではない。 私たちはみんな、ともかくそうしています。 自分の楽しみ、自分の孤独な野心を、追求しています - あなたがそもそも、宗教的精神を持っているなら、自分の救済を、 自分の孤立した楽しみと幻影を、です。 それを、私たちは人生の毎日、します。 それが、人類すべてにとって、共通の出来事です - 自分の孤立した、孤独な幻影、刺激、切望と イデオロギーを、追求しています。 それが、彼らが自由と呼ぶものです。 確かに、それは自由ではありません。 自由は、大変多くの規律・修練を、必要とします。 どうぞ、私たちがいうその言葉が、どういう意味かを、理解してください。 私たちは、まもなくそれに入るでしょう。 自由は、大変多くの謙虚さ、 生来の内的な規律・修練と仕事を、 含意しています。 私たちは、これら三つに入るでしょう。
25:28 私たちのほとんどは、傲慢です。 なぜなら、私たちは、大いに自分の知識に、頼っているからです。 私たちは、確信しています - 私たちの信念、私たちの結論、私たちの願望は、とても強いので、 私たちは、深い自然な謙虚さの感覚すべてを、失ってしまったのです。 それは、またもや事実です。 いかに強いのか - フランス人が、「私はフランス人だ」と言うときや、 あなたたちが、「私はイギリス人だ」と言うとき、です。 注目なさったことがあるのかどうか、私は知りません - 神が与えたもうた人種、です。 そして、あらゆる人が、あらゆる国で、これを感じます。 先日、或るインド人が、私たちに話していました。 彼は、「私たちは世界で、最も偉大な文化を、持っている」と言いました。 「私たちは、最高に文明開化した国民だ」と。 私は、言いました - 「ええ、あなたたちは、腐敗しています。 あなたたちは、迷信深い。 あなたたちの信念は、まったく価値がない。 あなたたちの理想、あなたたちの宗教は、言葉の積み重ねだけです」と。 彼は、「いえ。でも、私たちは、やはり最高の文化です」と言いました。 私は、「いいですよ」と言いました。 いえ、いえ。どうぞ、笑わないでください。 これは、あなたにもまた、該当します。
27:26 で、私たちが自分自身を、国と同一視し、 一定のイデオロギーと、 結論、概念と同一視するとき、 私たちは、謙虚である能力が、ありません。 なぜなら、そのときだけ、謙虚さの中、探究しているとき、 あなたは、学ぶし、見出すからです。 謙虚さは、必要です。 そのとき、あなたは、物事が、ありのままに見えます - 身の回りと、自分自身の中で、です。 規律、修練は、常に見守ることです - 自分の反応を見守ること、 持続的な観察、 自分の思考の起源が、何であるか、 自分が、なぜ一定の形で反応するのか、 自分の偏見、自分の先入観、 自分の傷などが、何であるかを、見ること。 常に見守ることが、それ自体の自然な規律・修練、秩序を、もたらします。 それが、私たちがいう規律・修練が、意味するところです。 順応ではなく、一定の様式に従うことではない - 社会によってか、または、自分自身により、確立されたものに、でも、です。 世界とあなた自身を、 永遠に見守ることなのです。 そのとき、世界とあなた自身の間に、何も違いがないことが、分かります。 それは自然に、秩序の感覚を、もたらします。 ゆえに、秩序が、規律、修練です。 逆ではありません。 そして、仕事です - 物理的な仕事だけではありません。 不幸にも、私たちのほとんどは、それを、しなくてはいけません - あなたが、この国で失業していないなら、ですが。 また、こういう意味の仕事も、です - 自分が真実だと見ることを、適用する。専注する。 知覚と行為の間に、時の間隔を、与えない。 語り手が、はるか昔、 少年のとき、見てきたように、 民族主義が毒であることが、見えるなら - あなたたちが、私がこれらを言うのを、気になさらないことを、願っています - 彼はもはや、ヒンドゥーではないのです。 彼はただ、歩み去りました。彼はもはや、ヒンドゥーではありません。 終了させました- 彼らの迷信すべてを、そして、 そうね、あらゆる民族性でもって進んでいく、ごみのすべてを、です。
31:31 で、この地上に、諸政府にもかかわらず、 平和に生きることは、 大変多くの探究を、必要とします。 平和に生きることは、大きな智恵を、要求します。 よろしいですか。私たちは、このように進めますか。 語り手が、これらの物事について話をすることは、簡単です。 なぜなら、それが彼の生であるからです。 ですが、言われつつあることを、単に聞くことは、 無益に思われます。 ですが、あなたは専注した瞬間、 あなたは、何かを真実だと、見るなら - 即座の適用、専注です。 そのとき、それは、葛藤をすっかり取り除きます。
32:45 隔たり、分割が、あるときだけ、葛藤は存在します - あなたが、現実だ、真実だと見ることと、 あなたの行為の恐れの含意すべてとの間に、です。 それで、間隔、隔たり、隙間があり、 それが、葛藤をもたらします。 これらを理解されることを、願っています。 私は進んでもいいですか。 または、私は、自分自身で進んでいくのでしょうか。 私たちは、互いに少し、付いてきていますか。 私たちは、どの種の宣伝をも、していません。 私たちは、あなたに、何をも納得させようとしていません。 反対に、 疑い、懐疑、問いを持たなければなりません - 語り手が言っていること、だけではなく、 あなた自身の生を、問う。 自分の信念を問う、疑うのです。 あなたが疑いはじめるなら、それは、一定の明瞭さを、与えます。 それは、自分自身に、大した重要性の感じを、与えません。 で、疑いは、私たちの探検の中、探究の中で、必要です - 存在のこの問題全体への、それらの中で、です。 問いは、人間たちにとってそれが、可能なのかどうかです - 人間たちは、おそらく幾らか神経症的ですが、 その神経症が拭い去られ、 健全に、理性的になれ、 そういう頭脳でもって、探究できるのかどうか、です。
35:16 私たちは、探究しています- 脳細胞は、 外側からのどんな影響力も、 政府、環境、宗教、その他すべての影響もなく、 脳細胞に、変異をもたらしうるのかどうか、です。 この問いは、明らかですか。 私たちは、自分自身にこの質問をしていますか。 これは、深刻な問題です。 これは、「はい」や「いいえ」、 肯定や否定で、答えられません。 この問い全体を、見つめなければなりません - 全体として、です。 イギリス人、フランス人や、或る種の宗教的、迷信的な戯言としてではなく、 自分の特定の修練や専門職に沿って、ではなく、 あなたは、この生の全体を、一つの単一の動きとして、見つめなければなりません。 これらを理解されますか。 理解するなら、私たちは、訊ねはじめます - それは可能ですか。 私たちは、その質問をするのなら、 それで、どんな違いが出ますか。 もし、私たちの数人が、おそらく変異をもたらすなら、 それは世界に、どんな効果がありますか。 そうね、それは、普通の問いです。 いいですか? 私は、変化するかもしれないし、あなたは、変化するかもしれない。 私たちの数人が、変異をもたらすかもしれないが、 それは、多数の人々に、諸政府に、 どんな効果が、ありますか。 彼らは、戦争などを止めるのでしょうか、
37:36 私は、それは、出すには間違った問いであると、思います - それは、他の人たちに、どんな効果があるのか。 それは、間違った問いです。 なぜなら、そのときあなたは、そのことを、自体のためではなく、 それが、他の人たちにどう影響するだろうかのために、しているからです。 結局のところ、美しさは、原因を持ちません。いいですか? 私は、今、それに入らないでしょう。 何かを、それ自体のために、する - それ自体の愛のために、です。 そのとき、それは、とてつもない効果を持ちます。 持つかもしれないし、持たないかもしれない。 例えば、私たちは、ここ六十年の間、話してきました - 幸か不幸か、です。 私は、その質問に、さらに答えなければなりませんか。 あなたは、「それはどう、世界に影響してきましたか」と、訊ねていいかもしれません - 「あなたは、世界の様々な地方へ、行きますが、 それは、そもそも、誰かを変化させてきましたか」と。 それは、かなり愚かな問いであると、私は思います。 私たちは、「なぜ花は咲くのか」と訊ねていいかもしれません - 「なぜ、晩の天空に、孤独な星が、ありますか」と。 自らの条件づけより自由になった人は、 けっして、その質問をしません。 というのは、そこには、慈悲があるからです。それは、大きな智恵です。
40:01 で、進行しましょう。 進行してもいいですか。 あなたたちは、あまりに疲れていませんか。
40:22 まず第一に、私たちは、自らが条件づけられていることを、悟りますか - どんな選択もなく、気づき、 私の頭脳が条件づけられていることに、気づきますか。 または、あなたは、他の一人が言うことを、受け入れて、 ゆえに、「私の頭脳は条件づけられている」と言いますか。 違いが分かりますか。 もし私が、自分の頭脳が条件づけられていることに、気づくなら、 それは、全然違った性質を、持っています。 ですが、あなたが私に、私は条件づけられていると語り、 それから、私は、自分は条件づけられていると、悟るなら、 そのとき、それは、きわめて表面的になります。 これらに付いてきておられることを、願っています。 で、私たちは、自らが条件づけられていることに、気づいていますか - イギリス人として、自らの経験によって、です。 私たちは、それが正しいとか、間違っているとか、言っていません。 私たちは、見出そうとしています。 私たちの文化により、伝統により、環境により、 宗教的宣伝すべてにより、二千年の間、キリスト教としてか、 仏教として、二千五百年前や、ヒンドゥー教として、おそらくもっと長く、です。 私たちは、気づいていますか。 気づいているなら、あなたは、訊ねます - なぜですか?
42:26 なぜ頭脳は、条件づけられていますか。 この条件づけの本性は、何ですか。 それは、本質的に、経験と知識ですか。 どうぞ、ゆっくりこれを進めてください。 経験は、頭脳を条件づけます。 いいですか?明白です。 私たちは、そこで、互いに出会いますか。 経験は、知識を、意味しています- いいですか? 車の運転を学ぶには、経験が必要です。 あなたは、車に乗り込み、それを運転します。 その経験をとおして、知識を集めます- 車をどう運転するかを、です。 どうぞ、気をつけて聞いてください - もしよろしければ、です。 知識は、私たちの条件づけの基本的な要因ですか。 知識は、一定の伝統の反復などです。 いいですか? 知識は必要です。 さもないと、あなたは、家に帰られないでしょう。車を運転できないでしょう。 職に戻られないでしょう - あなたが職を持っているなら、です。 で、一つの区域での知識、物理的な知識は、必要です。 ですが、知識はまた、私たちの頭脳を、条件づけます。 知識は、伝統であり、 私たちがそうであるように、プログラムされることです - 新聞により、雑誌により、「あなたはイギリス人だ、 イギリス人だ、イギリス人だ」との常なる反復によって、です。 または、フランスへ行くとき、それは同じ古いことです - 「フランス人だ、フランス人だ」と。 インドへ行くとき、またもや、「インド人」と。この常なる反復です。 それで、頭脳は、鈍く、反復的で、機械的になります。 おそらく、それは、安心な生き方ですが、 それには、ものすごい危険が、あります。 様々な文化、国々のこの反復は、孤立させる過程です。 ゆえに、分割です。 ゆえに、戦争です。 それが、戦争の唯一つの理由です。 で、私たちは、自らの頭脳がプログラムされつつあることに、気づいていますか。
46:28 どうぞ、他の人たちを見ないで、あなた自身を、見てください。 自らがプログラムされ、条件づけられていることに、気づくなら、 そのとき、訊ねます - それは知識ですか。 見たところ、それは知識です。ですね? そのとき、私たちはなぜ、心理的に生きますか - 心理の構造は、なぜ本質的に知識に基づいていますか。 理解されますか。 私は、問いを明らかにしましたか。 心理、「私」、自己は、 本質的に、知識の中の動き、 一連の知識です - それは、一連の記憶です。 いいですか? で、私たちは、一連の記憶です。 いいですか? で、私たちは記憶です。 あなたは、それを認知するのでしょうか。 その事実が、見えますか。 私たちは神聖であるとか、そうね、 宗教により持ち出される何とか、ではないのです。 現実の事実は、私たちが、記憶に他ならない、ということです。 大変不愉快な発見でしょう。 または、あなたは、「いいえ。記憶でない私の部分がある」と言いますか。 あなたがそう言った瞬間、それはすでに、記憶です。 それがお分かりになるのかどうか、私は知りません。 私が、私は全面的に記憶の結果ではない、と言うなら、 まさにその発言が、 そうでない私の部分がある、という含意です。 その私の部分もまた、私がそれを見つめるとき、記憶です。 で、記憶は過去です。 おそらく未来へ投影されますが、それはやはり、記憶です。 それら記憶は、現在により修正されて、 未来へ継続します。 ですが、やはり一連の記憶です。
49:37 どうぞ、これらについて、感傷的にならないでください。 なぜなら、それは、無意味であったり、ロマンチックであるからです。 これらは事実です。 記憶なしで、あなたは何ですか - あなたの達成の、あなたの妻の、息子の、兄弟、家族の 思い出すべてなしで、 あなたの旅行の記憶、 あなたがしてきたこと、あなたが達成してきたことの記憶なしで、です。 いいですか。 それらは、すべて過去にある。 で、記憶は、死んだものです。 それら死んだものによって、私たちは生きます。 いいですか。 ぜひ、これらを見てください。 どうぞ、私たちは、それを見るよう、あなたを説得しようとしていません。 私たちは、あなたに、何をも、説得しよう、納得させようとしていません。 語り手は、あなたの導師ではありません。 で、誰にも従わないでください - 語り手を含めて、です。 これら事実を、見てください。
51:26 そのとき、問いが生じます - 心理的に、唯一つの記憶もなく、 生きることは、可能ですか。 理解されますか。 この質問を、どうぞ、あなた自身にしてください。 私の兄弟、息子、妻、夫は、死にました。 私は、すべての出来事、幸せを、憶えています - そうね、その他すべて、親密な関係を、です。 それは、過去、記憶の広大な残滓です。 私は、それによって生きます。 私は、映像、写真を、持っています。 そして、写真から、この常なる刺激が、あります。 で、「私」、自己、自我は、 記憶との同一視の動きです。 いいですか? 私はキリスト教徒だ、私はヒンドゥー教徒だ、仏教徒だ - あなたが、それを何と呼ぼうとも -アメリカ人だ、などと、です。 私たちが、自らの同一視に、いかにものすごく執着しているのか。 それが、私たちの条件づけです。 あなたは、それが分かるとき - 言語的に、ではなく、観念として、ではなく、 実際に、その事実を見るとき、 行為があるのです。 猛烈な歯痛があるとき、 行為があるように、です。 なぜなら、それがあるからです。 ですが、あなたが、歯痛があると想像するなら、 それは、全く違った過程です。
54:03 で、私たちは、説得されずに、明らかに見られますか。 隅っこへ押し込まれずに、 私たちは、自分自身で、きわめて明らかに、 私たちが何であるかが、見えますか - すなわち、私たちの条件づけが、です。 すなわち、私たちの意識が、です。 それが見えると、何をすることになりますか。 明らかですか。 私たちは、そこから進めますか。 私たちは、もう十分間を、持っています。 私たちは、その点に到りましたか。 どうぞ、私たちは - 私たちのみんなか、少なくとも、私たちの幾らかは、 その点に、到りましたか - 私たちは条件づけられていることと、 その条件づけは、広大な一連の記憶の動きであることを、 私たちが完全に悟る時点に、です。 そして、記憶はいつも、過去です。 過去の物事の思い出です。 そのとき、それらは、未来へ投影されます - 現在により修正されますが、 やはり、それは、記憶の動きです。いいですか? これら記憶を、私たちは知識と呼びます。 いいですか?
55:55 すると、これら記憶をどのように、見つめますか。 質問を理解されますか。 これら記憶を、どのように観察しますか。 私たちは、幾千の記憶を持っています。ですね? 子どもの頃より、私たちはそれらを、集めてきました - 快いのと、快くないもの、 私たちの切望についての記憶、 達成の記憶、 痛み、恐れ、大きな悲しみの記憶。 これらは、すべて記憶です。
57:05 あなたは、これら記憶が、観察者より異なっていると、見ますか。 質問を理解されますか。 私たちは、観察しています。 私は、自分が長い一連の記憶であることを、観察しています。 私はそれを述べてきました - 私は記憶である、と。 ですが、私の中には、私はそれらでないとの感じが、あります - 観察している、他の何かが、ある、と。 いいですか?付いてきておられますか。 私たちは、ここに一緒にいますか。 で、観察者は、観察されるものより、異なっていますか。 これは、古い主題です。 あなたたちの多くは、たぶん、それについて、聞いてきました。 「ああ、言いますね。あなたは、それを持ち出している」と。 ですが、あなたは、この事実を悟るとき、何かとてつもないことが、起きます - 何か神秘的なことではない。 超心理学的なことなど、ではない。 葛藤を終わらせる何か、 他の何よりも、はるかに重要である何かが、です。
58:51 記憶と観察者との間に、 分割があるかぎり、 この分割は、葛藤を創り出します。 いいですか? アラブ人とユダヤ人の間の分割、 イギリス人と、フォークランド諸島の人との間 - フォークランド諸島に触れてもいいですか。よし。 ヒンドゥー教徒と、イスラム世界との間。 どこでも分割があるところ、葛藤があるにちがいない。 いいですか? いえ、いえ。どうぞ、それを追求してください。 どこでも、孤立した行為が、あり、 孤立した孤独な楽しみ、 孤独な切望が、あるところ、 その孤独こそが、分離の行為です。付いてきておられるのかどうか、分かりません。 ゆえに、自分の特定の野心、自分の特定の充足、切望などを 追求する人物こそが、 必然的に、葛藤を創り出すにちがいないのです - 自分自身のためだけではなく、他の人たちのためにも、です。
1:00:17 で、ここから問いが、生じます - 私たちのまさに存在こそにおいて、 あらゆる種類の葛藤が、終わりうるのかどうか、です。 なぜなら、私たちは、葛藤とともに生きるからです。 あなたは、こう言うかもしれません -「すべての自然は、葛藤になっているよ。 林の唯一本の樹は、光に到達するために、闘っている。 格闘し、闘い、他の樹を押し出している。 人間たちは、自然から生まれて、同じことをしている」と。 それを受け入れるなら、あなたは、葛藤の帰結すべてを、受け入れます - 戦争、混乱、残忍さ、醜さ、戦争の嫌らしさを、です。 あなたは、イギリス人、フランス人やインド人であるかぎり、 必然的に、戦争を、創り出そうとしています。ですね? しかし、あなたは、これが見えますが、私たちは、それについて何もしません。 で、葛藤を終わらせること
1:01:46 - それは、あの平和とともに、生きることを、意味しています。 ものすごい智恵を、必要とする平和と、です - それは、葛藤の本性を理解することです。 私は今は、止めなければなりません。 私たちは明日の朝、継続するでしょう。いいですか。 この点で止めるのは、すみません。 それは、あなたが明日来るようにとの、誘惑であるわけではありません。
1:02:25 聴衆: 記憶が来るときについて、何かを、言ってもらえますか - それは外側から来て、そのとき自分が反応するように、思われます。 たとえば、自分が困惑しているとき、何かを思い出します。 少なくとも、私はそうです。 理解されますか。
1:02:38 K: そのお方は、訊ねます - 記憶は、外側にある。 外側から来る、と。
1:02:48 聴衆: その記憶に反応する観察者が、あるにちがいないですね。

K: 外側から来て、その記憶にあなたは、反応します。
1:02:56 あなたは、その記憶を強めます。またはその記憶を、脇に置きます。ですね? あなたは、記憶より異なっていますか。 そうね、それが、論点全体です。 私たちは、この動きの結果です - 外から内へ。ですね? 内から外へ。ですね? あなたは、注目したことが、ないですか - 海のように、出て行き、入って来る。 私たちが、この怪物じみた社会を、創り出してきたし、 その社会が、私たちを制御するのです。いいですか? 私たちは、その社会を変化させようとします - 法律をとおし、政府をとおし、 あらゆる種類のストライキ、その他すべてをとおして、です。 それから、それに反応します。 で、それは、外から内へ、内から外への常なる動きです。 ですね?それは、一つの動きです。 それは、分離した動きではありません - 水は水です。 それは、出て行き、入って来る。 それは、塩水です。
1:04:26 さて、そこから、問いが、生じます - この動きは、止まりうるのかどうか、です。 行為と反応(作用と反作用)が、です。よろしいですか。 あなたは、私を殴る、私はあなたを、殴り返す。 あなたは、私を憎む。 私はあなたを、憎み返す。 私は、この特定の一切れの土地を、所有している。あなたは、それを求めて闘う。 私は防衛し、私は攻撃する。 よろしいですか。 これは、何百万年もの間、進んできました - 反応の潮の満ち引き、です。 あなたが、その質問をしてくださるのなら - この動きは、終わりうるのかどうか、です。 あの蜂が、私を刺すなら、私は反応します - 自然に、です。 ですが、あなたが私に、お世辞を言ったり、侮辱したりするなら、 なぜ私は、反応すべきでしょうか。いいですね?
1:05:45 で、この質問をするには - この行為と反応(作用と反作用)の動きが止まりうるのかどうか、です - それへの答えを見つめるには、それへ大変多く、入らなくてはいけません。
1:06:01 今朝は、それで十分ですか。 立ち上がってもいいですか。