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BR83T2 - 平和においてのみ、人間精神は自由でありうる
第2回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1983年8月28日



1:15 私たちが昨日、止めたところから、進んでもいいですか。 私たちは、葛藤について話していました- 私たち自身の中だけではなく 私たちが生きる社会においても、です。 民族、国家の間の葛藤、抗争、 集団の間、様々な導師の間、イデオロギーの間、 共産主義のイデオロギーと、いわゆる民主主義のイデオロギーの間で、です。 見たところ、人は、これらの世紀をとおして、 常なる葛藤、闘争の状態に、生きてきました - 互いに闘い、互いに殺し合い、自らが創り出してきたものを破壊し、 それから、再びそれを、築きなおしています。 これが、ここ五千年か六千年以上の間、歴史的な過程であったのです。 諸宗教もまた、おそらく仏教とヒンドゥー教以外は、戦争を創り出してきました - 異端者を狩り、彼らを焼き殺し、彼らを破滅させてきました。 それで、人はこの地上に、何の平和もなく、生きてきました。 平和に生きることは、ほとんど不可能だと、見えます - 葛藤なく、攻撃なく生きることは、です。 個人的な関係においてだけではなく、 また、私たちが同意しない人たちや、 同じ信念、同じ概念、同じ文化を持っていない人たちと、です。 この常なる、終わりなき闘争、葛藤が、あるのです。 そして、この世界に、全く平和に生きることは、可能なのかどうかを、訊ねます。 なぜなら、自らが花開けるのは、平和の中だけであるからです。 人間の精神、人間の頭脳が本当に自由でありうるのは、平和の中だけです。 なぜ、人は、こんなに多くを学んできて、 こんなにとてつもない知識、経験を取得してきて、 最善を尽くしていますが、なぜ人は、平和に生きられないのですか。
5:02 私たちが昨日言いましたように、これは、講話、講義ではありません - 特定の主題について、情報を与え、教示するためのものではない。 私たちはともに、この問いを探検しています。 語り手が探検し、あなたが聞くのではなく、 ともに、あなたと語り手が、究明します。健全に、何の偏見もなく、 どんな明確な結論もなく、見出すように、です - なぜ私たち人間は、 この美しい地上に、平和をもって、葛藤なく、生きられないのかを、です。 それが、私たちが昨日、止めたところです。
6:17 人を平和にするための、様々な形の化学的な注射が、あります。 彼らは今、それをしています。全体主義の国家では、人々は病院へ送られます - そこで薬物を与えられ、平和に保たれる心理療法の病院へ、です。 信念もまた、私たちを、ものすごく薬物づけにしてきました - 平和であるように、です。 私たちはみんな、何らかの形の救い主を、 信じています - あなたがキリスト教徒であるなら、です。 その信念は、私たちを幾らか大人しく、しつけてきました。
7:10 世界中で、あらゆる種類の試みが、ありました - 平和に生きるよう、人を助けるために、です。 彼らは、言ってきました - 冥想しなさい、従いなさい、服従しなさい、順応しなさい、 傷つけるな、互いに愛し合いなさい、と。 世界中の宗教的な教示全体が、です。 けれども、それらにもかかわらず、そして、おそらく、それらのせいで、 人は、自分自身とともに、平和に生きてきませんでした。 または、平和な社会を、創り出してきませんでした。 なぜですか。 私たちは、訊ねています。あなたもまたその質問をしています。私だけではない。
8:24 私たちは、私たちの一人一人が、外側の世界より、異なっていますか。 あなたは、イギリス人、フランス人やアメリカ人、ロシア人として、でも、 どんな民族、集団に、自分が所属していても、インド人でも、 私たちは、残りの人類ですか。 または、分離した個々人が、格闘し、 分離した魂、一人一人が、自分の充足、自分の幸せ、自分の救いを、 探し求めていますか -自分自身を、何か尊いもの、 幻影の想像上のものなどと同一視して、です。 私たちは、この地上に孤立の中で、生きていますか - 私たちの一人一人が、孤立し、残りの人類より、分離していますか。 この分離、このいわゆる個人主義は、 なぜ人間たちが平和に生きないかの原因の一つなのかもしれません - 自らの関係においても、あるいは、 隣にいたり、千マイル離れているかもしれない隣人とも、です。
10:25 どうぞ、あなたと語り手が、これらの質問をしています。 語り手は、あなたが答えるために、質問をしていません。 これは、私たちのみんなが向き合わなくてはいけない疑問です。 私たちは、智恵をもち、理性的に健全に、それに向き合うのか、 あるいは、何かの形の幻影の平和へ、逃避するか、です。
11:01 私たちが、完全な安全を持つときだけ、平和は、存在できます - 外的にも、内的にも、心理的にも、環境的にも、です。 私たちはみんな、安全がほしいのです - 最大の科学者と、 最も貧しく、きわめて無教育の村人すらも、私たちのみんなが、安全がほしいのです。 あらゆる動物、あらゆる生き物が、安全が必要であるように、です。 見たところ、私たちは、安全を持っていません。 私たちはそれを、宗教に、信念に、イデオロギーに、何かの形の権威に、 探し求めてきました - それらに従ってきました。 けれども、私たちは、分離したままに留まっています。 私たちは、訊ねています - それが、基本的な原因の一つですか。 なぜ人間たちが、自分は分離した、孤立した実体であると、考えて、 一人一人が、自分の特定の形の安全を、探し求めて、 必然的に、他の人たちと葛藤になるにちがいないのか、です。 また自分の特定の形の安全を探し求めている他の人と、です。
12:58 それで、私たちは、質問をしています - すなわち、 私たちは、残りの人類より分離していますか。 質問を理解されますか。 あなたは、分離していますか。 あなたは、個人ですか。 それで、あなたは個人として、 自分の幸せ、自分の楽しみを、探し求めているのですか - 自分の幻影の中、自分の特定の形の想像力豊かな望みの中で、孤独に、ですか。 で、これが、問いです - 私たちがどちらも、よく気をつけて入り、答えなければならないことです。 なぜなら、それがその原因であるなら、 それは - 原因が、合理的で、実在で、現実的であるなら、私たちは、それを 取り扱わなければなりません。 あるいは、それは本当は幻影です。 私たちの一人一人が、自分は個人である、分離している、と 考えるよう、育てられてきました。 それは事実ですか。 私たちの意識は、私たちの振るまい、私たちの反応、 私たちの楽しみ、恐れ、心配、悲しみと、すべての経験、知識を、収容しています - そのすべてが、私たちの意識です。 あなたなるものです。 私たちの一人一人なるものです。 その意識は、残りの人類より、異なっていますか。質問を理解されますか。
15:44 あなたが、旅行してまわるとき - たとえ旅行してまわらなくても、観察するとき、 あなたが世界を観察するとき、すべての人類は、多かれ少なかれ、 同じ形の苦しみ、心配、不安全を、経て行きます。 彼らは、或る種の幻影の戯言を、信じています。 迷信、恐れ、その他すべてに満ちています。 あらゆるところで、あらゆる人間が、これらを経て行きます。いいですか? 不安全で、不安定で、恐れをもち、常に葛藤の中にいて、 大きな悲しみの重荷を負っています。 この国に生きる人たちのように、です。 いいですか?これは事実です。 で、あなたの意識は、残りの人類より異なっていますか。
17:14 私は、アラブ人かもしれません - 私の特有のイスラムの伝統をともなって、です。 そして、アラブ人としてのラベルは別として、人間として、 私は、生の騒動すべてを、経て行きます- あなたが経て行くように、です - 痛み、悲しみ、嫉妬、憎しみを、です。 で、ラベルは別として、文化は別として、 あなたと、アラブ人としての私の間に、違いがありますか。 どうぞ、これらを考慮してください。 私たちが昨日、言いましたように、 私たちは、あなたに、何をも納得させようとしていません。 どんな種類の宣伝も、どんな種類の説得や刺激をも、していません。 なぜなら、あなたは、説得させられることが可能であるなら、 他の人が来て、あなたを違ったように説得するであろうからです。 あなたが宣伝に依存するなら、同じことです。 別の種類の宣伝が、あなたに示すでしょう。 で、この事柄について、自分自身で、絶対的に、明らかでなければなりません。 それは、あなたの精神です。 精神は、自らの意識の内容です。 その意識は、すべての人間により分かち合われています。 外的にあなたは、違った文化、違った環境、違った食べ物、 違った衣服を持っていて、もっと裕福なのかもしれませんが、 本質的に、深く、大変深遠に、私たちは、残りの世界です。そして、 世界は私たちです。いいですか? この点はすっかり明らかであってください。 あなたは、それが好きでないかもしれません。なぜなら、私たちは子どもの頃より、 育てられてきたからです - おそらく、子ども以前の頃より、 まさに遺伝子において、私たちは、分離した個人である、と。 私たちは、まさにそのことを、問うています - 主観的に、だけではなく、客観的にも、です。
20:52 あなたは、何の偏見もなく、何の伝統もなく、検討するなら - あなたの頭脳が、熱心に見出そうとするなら、ですが、 この世界に、完全な自由と平和をもち、ゆえに、 秩序をもって、生きることは、可能であるのかどうか、です。 この質問をしなくてはいけません。 あなたは、偉大な科学者、偉大な画家、すばらしい詩人なのかもしれません。 キーツのように、です。 しかし、科学者、詩人、画家は、 自分の悲しみ、痛み、心配を、持っています- 残りの私たちのように、です。 私たちが、自分は分離していると考えるかぎり、葛藤は、存在するにちがいありません - アラブ人とユダヤ人の間に、ベイルートで起きつつあるように、 黒人と白人の間、イスラム教徒と、残りの世界の間のように、です。 で、どうぞ、この問いを真剣に考慮してください。 受け入れないで、私たちの頭脳を、行使してください。
22:51 それが、戦争の原因の一つであり、 人間たちの間の葛藤、抗争の原因の一つであるなら - 私たちの一人一人が、全面的に異なっているとのこの誤謬が、です。 私たちは、まさにそのことを、問うています。 私たちは、そうでないのなら、私たちは、残りの人類です。 あなたは、残りの人類です。 それには、ものすごい責任が、伴います - あなたは、それを 持ちたくないかもしれません。 私たちは、責任を回避したいのです。
23:49 自らが暴力的で、攻撃的であるかぎり、 あなたは、残りの世界に、寄与します - 残りの人類の攻撃、暴力に、です。 これらは、自然です。 で、問いは、こうです。 あなたは、残りの人類であるなら - あなたは、人類です。人類の一部ではなく、あなたは、全世界です。 あなたは、その感じを、それの真理を持っているなら、 そのとき、あなたの見通し全体が、全然違っています。 そのとき、あなたは、分割すべてを、全的に廃棄したのです。 いいですか? これの真理が、お分かりになるのかどうかと、思われます。 それの感傷性ではなく、ロマンチックな、ユートピア的な概念ではなく、 それの現実性、それの事実が、です。
25:32 で、それを、はるかに間近に検討しましょう。 私たちが言いましたように、分離があるかぎり、葛藤は存在します。 私とあなた、我らと彼らの間に、葛藤が、存在するにちがいないのです - 私たちの関係に、男と女の間に、です。 それについて、私たちはみんな、知っています。いいですか? あなたとあなたの妻、妻と夫の間、 家族、対、共同体、 共同体、対、より大きな共同体、などなどと、です。
26:52 で、私たちの関係には、なぜ葛藤が、ありますか。 どうぞ、これらの問いに、答えてください。 自分は結婚して、子どもをもっている。 または、結婚していない。 そして、人間関係すべて、です。 夫や妻や男が、自分の特定の目標、自分の特定の野心を、 追求しているかぎり、葛藤は、存在します。ですね? 自分の充足感を、性的にも、世間的にも、追求しているかぎり、です。 いいですか。 これは事実でしょう。 妻は、自分の特定の形の楽しみを、追求します。 男は、自分のを追求します。で、実際に彼らは、けっして出会いません - おそらく、ベッドの中以外では、です。それは、事実です。
28:31 さて、この分離より自由であることは、可能ですか。 そのとき、探究しはじめます - 慈しみと呼ばれるものの本性を、 愛なるものの本性を - あなたがこれらに興味があるなら - です。 それが退屈であるなら、あなたはいつでも立ち上がって、去ってもいい。 ですが、あなたは真剣であるなら - 世界がどうなってしまったか、 狂気、無秩序、腐敗を考慮するなら、私たちは、真剣でなければなりません。 進んでいる醜いことすべてを、誰が知っていますか。 あなたは、そもそも真剣であり、これらを見つめているなら、必然的に 訊ねるにちがいありません - 慈しみ、忍耐、受容の感覚がある、親しい関係に、 なぜ、葛藤、離婚、憎しみが、あるのか- そうね、騒動の分野全体が、です。 他の一人と、完全に平和に生きることは、可能ですか。 あなたたちはたぶん、みんな結婚しているのでしょう。または、彼女を持っています。 あなたは、これらに、何と仰りますか。 それは、あなたの生です - 語り手の生ではない。 それは、あなたの生です。あなたは、これら本当に深刻な問いに、 答えなくてはいけません - それらを回避するのではなくて、です。
31:15 私たちが、この個人性の幻影に捕らわれているかぎり、私たちの、 他の一人との関係が、どれほど親しくても、どれほど親密でも、どれほど個人的でも、 仲間付き合い、さびしさからの逃避でも、この問いは、答えられなければなりません。 なぜなら、生すべては、関係であるからです - 自然との、宇宙・万物との、野の一番小さな花との、 そしてまた、もう一人の人間との関係です。 私たちは、関係なしには、生きられません。 様々な形の誓いを立てた修道士、僧侶さえも、また関係しています。 この関係の中、葛藤が、すべてに浸透しているように、思われます。 ゆえに、私たちは、はるか遠くへ行くには、ごく近くで、始めなければなりません。 私たちは、自らのいるところで、始めなければなりません - 私たちの家族でもって、私たち自身でもって、です。 私たちが、葛藤なく、ゆえに平和をもって、生きられるのかどうか、です。
33:19 ここから、問いが生じます - あなたはどのように、これらを観察しますか。 あなたは、どのように観察しますか - 私が、「あなたは」と言うとき、個人的に言っていません。 あなたはどのように、この葛藤を観察しますか - 現在の世界の状態、 現在の互いとの関係を、です。あなたはどのように、それを観察しますか。 観察者の本性と構造を、理解することは、とても重要です。 いいですか? 私たちは、これを進めていいですか。 私たちはともに、これらにいますか。 または、私は自分自身に話していますか。 私は本当に知りたいと思います。 私たちは、同じ道を、同じ小道を 進んでいますか。 ともに旅を行っていますか。 または、あなたは先にいて、私は、はるか後にいますか。 または私たちは、ともに、おそらく手に手を取り合って、歩んでいますか。 私たちが、同じ歩みで、ともに歩んでいて、 ともに世界を見つめていて、ともに私たちの関係を、見つめているなら、 友として私たちは、互いに問えます。 私たちは、自分たちが言っていることを、 疑えます - 互いを傷つけずに、です。 私たちは、友だちであるからです。 この友情の中から、私たちは、関係の深さと美しさを、理解できます - その中に、何の葛藤もない関係のそれを、です。
35:50 で、関係は、とてつもなく重要です。 それが、私たちの生です。 葛藤があるかぎり、関係は、大変破壊的になるのです。 仮に、私は、 自分は結婚していることを悟る、とします -私はしていませんが。 仮に、私は、或る女性と生活していることを、悟る、とします。 実際に、私たちは、分離した人間です - 平行線を辿っていき、けっして出会いません - 内的に、心理的に、です。 さて、私はどのように、それを観察しますか - 私たち二人が分離しているとの事実を、です。 各々が、自分の野心、自分の貪欲、自分の特定の形の苛立ち、 その他すべてを、もっている。 私はどのように、それを観察しますか。 なぜなら、私は、観察の中で、偏見、先入観を、持っているかもしれないからです。 それで、私が観察者の本性を、見出すことが、とても重要です。ですね? 私が、どう観察するか、どんなさまで見るのかが、明らかでないなら、 私は、全部のことを、歪曲するかもしれません。 で、私は、観察者の本性を、探究しなければなりません。 いいですか?
37:58 偉大な科学者は - 彼らはみんな、自分たちはみんな偉大だと、考えます。 科学者は、主観的にも、客観的にも、きわめて明らかでないのなら - 顕微鏡を覗くときや、その他すべてで、ですが、 彼は、何の偏見もなく、何の先入観もなく、観察していると、 自己は、彼の観察に、入ってきません。ですね? さもないと、彼の観察は、歪曲され、事実本位でなく、非真実になるでしょう。 いいですね? で、同様に私たちは、観察の本性についてきわめて明らかでなくてはいけません - 観察者は誰ですか。 私たちはここに、一緒にいますか。 観察者は誰ですか。 あなたは、あれらの樹を、見つめます- 雌牛と羊に満ちた野原を、です。 あなたは、地平線を見ます - 朝の日射しに照らされています。 あなたは、それらをどのように、観察しますか - そもそも観察するとして、ですが。 あなたが、樹や住宅を観察するとき、 あなたの見る知覚こそが、あなたが使う言葉により、妨げられます。 いいですか? 理解されますか。 私は、フランス人を見つめ、「ああ、彼はフランス人だ」と言えます。 それは、フランス人についての私の先入観すべてが、私の知識すべてが、 私と、フランス人を自称する人への観察の間に、入り込んでくる、という意味です。 いいですか。 で、私は、すべての先入観、敵対なしに、彼を見つめられますか。 あなたは、できますか。
40:47 で、観察者は過去です。 いいですか。 付いてきておられますか。 で、観察者は、自らの過去の知識に満ちています - その知識が、不条理で、ばかげていても、現実的でも、 その知識は、私の観察を、妨げています。いいですか? 私たちは、これに付いてきていますか。
41:21 さて、私の妻や夫との関係を観察するには、 私は、以前の蓄積された出来事、知識、それらなしに、観察しなければなりません。 それは、可能ですか。 質問を理解されますか。 さもないと、私はけっして、自分の妻を、初めて見ません。 理解されますか。 私はいつも、千日の記憶すべてをもって、彼女を見つめています。 さて、それは事実ですか - すなわち、私は他の一人を、過去の知識から、見つめている、ということは、です。 生きているものは、けっして、制限された知識でもって、観察できませんが、 知識は、いつも制限されています。 理解されますか。 生きているものは、自由に、観察されなければなりません - すべての蓄積、経験、知識なしに、です。 で、私が、自分の妻や夫や、ガールフレンドや、何でもいいですが、 以前の思い出なしに見つめることは、可能ですか。
43:09 あなたは、試したことがありますか。 あなたは、「樹」という言葉なしに、樹を見つめようとしたこと、 ラベルなしに、花を見つめようとしたことが、ありますか - それで、実際にあるものを、実際に観察しているように、です。 その中には、主観的な反応が、ないのです。 これらに付いてきておられますか。 どうですか。 または、これは、ギリシャ語や中国語(ちんぷんかんぷん)ですか。まだましですか。
44:08 そうですね、私たちの頭脳は、言葉のネットワーク、思い出のネットワークです。 それはけっして、自由に見られません。 なぜなら、それは、同一視をとおして、 条件づけられてきたからです。 私たちにとって、同一性はとても重要です。 私はヒンドゥー教徒です - そのばかげた言葉が、何であっても、ですが、 それは、私に確実さの感覚、安全の感覚を、与えてくれます。 私はそこに根を持っています。 例えば、あなたたちイギリス人のように、 あなたたちフランス人、ドイツ人、残りの世界のように、ですね。 私たちは、何も同一性なしに、見られますか、観察できますか。 理解されますか。 あなたは今、そうしていますか。 または、あなたは、家に帰ったとき、そうしようとしていますか。 あなたが今、これを聞いていて、そうしているとき、おそらくあなたは、 妻や夫の横に、座っているのでしょう。 あなたが今、そうするなら、 知覚の行為こそが、その分割を破壊することなのです。 いいですか?あなたが今、そうするなら、です。 それは、行為は時のでない、という意味です。 これに、付いてきておられますか。 ご覧ください。私はこれを、聞いてきました。 私は、聞こえていることに、注意を払ってきました。 私は、妻の横に座っています。 私は、真剣な人物ですし、彼女もそうだと願っています。 私は、自分が彼女を自由に見つめていないことが、分かります - 何も過去の出来事や、その他すべてなしに、です。 私にとって、彼女や彼と関係を持つことは、重要です - そこに何も葛藤がない関係を、です。 なぜなら、私は、そのように生きられるなら、心と頭脳に、平和を持つからです。 で、私はこれが聞こえる瞬間、実際の知覚が - 私は葛藤の中にいるし、私は、蓄積された記憶すべてをもって、 彼女や彼を見つめているとの知覚ですが、 記憶はともかく、すべて死んでいます。 それで、私は彼女を見つめています。
48:01 行為は、その事実の知覚の瞬間です。 そして、時が行為に介入するのを許さないことです。 言っていることを、理解されますか。 私は、何かを伝えていますか。 で、私たちのほとんどにとって、行為は、葛藤を含意しています。 私は、何かをしなくてはなりません。 私は今日、9時から5時まで事務所に行きたくない - あなたがなぜ、ともかく行くのか、誰も知りませんが。 私たちが何をしているのかを、見てください。 私たちがいかに、とてつもない生を、あきらめつつあるのか - 無量であり、とてつもなく美しくて、 大きな深み、底知れぬ深みを持つ生を、です。 私たちは、9時から5時まで自らの生を使います。 私たちの社会は、それを要求します。 政府は、それを要求します。 私たちの妻は、それを要求します。 なぜなら、家にいるのは、なかなか退屈であるからです。 で、社会の構造全体は、私たちの気風は、働くことです。 そして私たちは、生の大きな広さと深さを、見失ってしまいます。
50:12 で、私は、過去の思い出なしに、彼女や彼を、見つめられますか。 あなたは今、そうするのでしょうか。 それに何が付随するかを、見てください。そうしてください。 するとあなたは、私たちがいかにものすごく過去に縛られているかを、見出すでしょう。 私たちの生は、過去です。 すなわち、過去の記憶です。 見たところ、それらは、私たちの頭脳を、こんなに強く捉えています。 私たちは、「昨日の知識なしに見ることは、不可能だ」と言います。 それで私たちは、あきらめて、古い道を追求します - けんかし、 小言をいい、闘います。みじめで、不幸せです。そうね、その事柄全体です。 ところが、事実を実際に見るなら- この「個人」の概念が、 自分の特定の記憶をもってあるかぎり、葛藤が、二人の人間の間に、 存在するにちがいない。ゆえに、残りの人類ともそうだ、ということを、です。 それを見ることが、行為することです- 行為を延期することではない。 あなたが、行為を延期するとき、時が関与しています。 ですね? その延期の間、他のことが起きます。 他の複雑なことが、生じます。 これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。 で、行為は、知覚と、即座の行為です - それで、あなたの頭脳は、諸々の問題で取り散らかっていないのです。
52:58 あなたが、問題という問いに、入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 なぜ人間たちは、そもそも問題を持っていますか。 「問題(プロブレム)」という言葉は、何か投げつけられたものを、意味しています。 それが、実際の意味です - その言葉の語源的な意味です。 何か投げつけられたもの、すなわち、挑戦です。 私たちの頭脳は、子ども時代より、問題を解決するよう、訓練されます。いいですか? かわいそうな子ども。 今や二歳で、赤ちゃんに、 数を数えること、言語の学び方を、教えています。 あなたがそれらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 子ども時代から、学校、専門校、大学、ビジネス、家庭をとおして、 あらゆる物事が、解決されなければならない問題に、なっています。 で、私たちは、生を広大な問題として、取り扱います。 なぜなら、私たちの頭脳は、そのように訓練されるからです。 これらをお分かりになるのかどうか、私は知りません。 私たちは、けっして何にも、楽に、幸せに出会いません。 それは、解決されるべき、怖ろしい問題になるのです。 で、関係は、問題になったのです。 理解されますか。 私たちは一緒に、これらにいますか。 後生です。私に、はい、と言ってください。 私たちは、問題を解決しようとするとき - なぜなら、私たちの頭脳は、そのように、問題を解決するよう、 訓練されるからです。 その問題の解決の中で、私たちは、 他の諸問題を持つのです - まさにその解決からです。 あなたがこれらに注目なさったのかどうか、私は知りません。 政治的に、それが、起きつつあることです。 あなたたちは、フォークランド戦争と、それより生ずる無数の問題を、持っています。
55:37 で、あなたは、生を見つめられますか- 問題として、ではなく、 諸問題は存在するけれども、諸問題より自由な精神を、持つのです。 違いを理解されますか。 問題は存在します。 私は、歯痛を持っています。私は医師へ、行かなくてはいけません。 税金の問題 - よろしいですか。 諸問題は存在しますが、 私の頭脳は、問題から自由であるなら、私は、それらの問題を、楽に取り扱えます。 ですが、私の頭脳は、問題を取り扱うよう、訓練され、 条件づけられているなら、私は問題を、増大させます。 いいですか? これがお分かりになるのかどうかと、思われます。
56:38 例えば、神についての問題が、あります。 それは問題です - 神が存在するのか、しないのか、です。 ほとんどのキリスト教徒は、神がいることを、信じています。 仏教徒は、神の観念を持っていません。 彼らの宗教哲学と、その他すべてに、神は存在していませんが、 彼らはブッダを、神にします。 それは、違った事柄です。 さて、それは問題です。 あなたは信じています。仮に、私は信じていない、とします。 あなたは、なぜ神が存在するかを、進んで見ようとしていますか - 神が存在する、としてですが。 なぜなら、私は信念を持っていないからです - 何らかの形で、です。 仮に、私は実際に、それについて、何の信念をも持っていない、とします。 あなたは、その問いを見つめて、なぜかを見出せますか - 幾つもの時代をとおしてずっと、人は、神を考案してきました。 考案した - 私は、意図的にその言葉を、使っています。 あなたが傷つかないことを、願っています。 人はそれを考案してきました。 なぜなら、人は怯えているからです。 人は、誰かが、外側の何か機関が、ほしい - 自分を保護し、安全を与えてほしい。 あちらの誰かが、自分を見守っていてくれると、感じたいのです。 その概念は、あなたに、大きな慰めを、与えてくれます。 それが幻影であっても、現実であっても、それは、大事なことではないが、 あなたが、その種の信念を持っているかぎり、それは、大きな慰めを与えてくれます。 さて、あなたが、それらを強く信じているなら、 あなたは、それを疑い、それを問い、見出すのでしょうか。 または、あなたは、怯えていて、 それについて、考えもしないのでしょうか。理解されますか。 で、人の度量を越えた何かがあるのかどうかを、見出すには、
59:28 自由に探究できなければなりません。 私たちが関係を探究したように、自由に探究でき、観察できなければなりません。 観察者、探究者が、先入観を持っていて、深く確信しているなら、 彼は外的に、検討するふりをするかもしれませんが、 そのとき、彼の検討は、彼の確信に沿って、になるでしょう。 で、頭脳は、自由に見つめられますか- 自分の妻、夫を見つめ、 すべての政府を、自分の導師を、まわりの世界全体を、見つめられますか。 気をつけて、自分の伝統、価値、判断の背景なしに、です。 そのとき頭脳は、全体的に活動的です- 諸断片において、ではない。 理解されますか。
1:00:58 科学者たちは、言っています - たぶんあなたは、これらをご存じです。 もしご存じなら、私がそれを反復するのを、許してください。 ほとんどの人々においては、頭脳のごく小さな部分のみが、機能しています。 ゆえに、生へのこの見通しは、断片的なのです。 理解されますか。私の頭脳の一部分だけが、能動的に分かち合っています。 または、能動的に作用しています - 私の生をとおしてずっと、一部分だけが、です。 ゆえに、頭脳は、全体的に機能していません。 いいですか?問いを理解されますか。 それに興味があるなら、あなたは、見出したいのです - 頭脳は、一部分だけではなく、全包括的に、完全に作動できるのかどうか、です。 あなたは、その種の問いに、興味がありますか。 なぜですか。 それは、好奇心ですか。または、ただ、それについて議論するためだけですか。 または、あなたは真剣であり、 「私は、頭脳がどうかを、見出したい」と言いますか。 それは今、とても制限されています。 なぜなら、すべての知識は、制限されているからです。ですね? あなたは、それについて、すっかり確かでなければなりません - すべての知識が、です。 過去についての知識でも、 未来についての知識でも、知識は、いつまでも、制限されています。 ですね? ますます多くが、発見されつつあります - 科学の世界では、ね。 どの科学者も、「私の知識は完全である」とは、けっして言えません。ですね?
1:03:20 で、知識はいつも、不完全です。 知識は不完全なので、思考は不完全です。 なぜなら、思考は、記憶としての知識の中より、生まれるし、 思考は、制限されているからです。 いいですか? 記憶なしには、あなたは思考を持ちません。 知識なしには、思考としての存在は、ありません。 私たちは今、制限された思考でもって、機能するだけです。 いいですか?理解されますか。 あなたが、これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。
1:04:14 私の思考とあなたの思考、偉大な科学者の思考、 または、無教育の個人 - 彼が考えるのも、同様です。 考えるのは、同様です。 彼らはそれを、違ったように表現するかもしれませんが、 その思考は、制限されています。 ですね? 私たちが考えるのが、 私たちの行為の基礎、私たちの生の基礎であるかぎり、 頭脳はけっして、全体として機能できません。いいですか? 論理的に、どうぞ、これを見てください。 私たちの生は、断片的です。 私はビジネスマンです。 私は科学者です。 私は画家です、などなどと。 いいですか? 私たちは、みんな範疇に、分けられます。 ゆえに、私たちの生は、断片的です。 なぜなら、私たちが考えるのは、制限されているからです。ですね? ゆえに、それは、必然的に、断片的であるにちがいないのです。 あなたは、これを受け入れるのでしょうか。 受け入れるのではない。それの事実を見るのです。見えるでしょうか。 あなたたちは、みんな疑いを、持っていますね。 なぜなら、私たちは、自らの生のまさしく根、 すなわち、考えることを、断とうとしているからです。 私たちは、すばらしい大聖堂、偉大な建築を、築いてきました - 戦争の大きな道具、コンピューターなどを、です。すべて、思考の産物です。 そして、大聖堂と、教区の教会の中にある物事すべては、 思考の産物です。 ですね? 誰も、これを否定できません。司祭者が着るすべての衣装、すべての衣は、 エジプトから真似されたり、その一部です。 思考が、これらを生産してきました。 思考はまた、神をも考案してきました。 さて、問いは、思考をすっかり消去するのかどうか、です。
1:07:38 そして、思考すべてを消去しようとしている実体は、誰ですか。 それも、やはり思考です。 ですね? それをお分かりになるのかどうかと、思われます。 あなたの冥想は- あなたたちの誰かが、 その種のことに、耽溺なさるのなら -それは、考えるのを消去することです。 ですが、あなたは、誰が消去者であるか、 誰が「私は考えてはならない」と言っているかを、けっして検討しません。 「やれまあ、私は考えないなら、何かを得るかもしれない」 と言うのは、やはり思考です。 けれども、思考は必要です。知識は必要です- 一定の区域においては、です。 さもないと、あなたは、家に帰れません。 あなたは、手紙を書けません。 あなたは、英語を話せないでしょう。 などなど、です。
1:08:41 で、思考は、私たちの断片化の手段であったのです。 それを観察する - 「どうやって思考を取り除くのか」と言わずに、 思考は一定の区域で必要であるが、 心理的な世界では、思考はまったく 必要でないかもしれない、との事実を、観察する。 私たちの互いとの関係において、思考が道具であるなら - それは今そうです - そのとき、その思考こそが、分割性の要因です。 それを見る - それについて、何をすべきか、ではない。 これの危険を見る。そのとき、あなたは動いて、危険より離れます。 断崖絶壁のように、危険な動物のように、あなたは、逃げ去ります。 同様に、思考は、心理的な世界において、危険です。 これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 それは、一定の区域において必要ですが。 そのとき、あなたは、よく気をつけて、何の偏見もなく、これを観察するなら、 そのとき、思考は自らの所を、悟りはじめます。 すみません。私は、十分間、長く話してしまいました。 私たちは、次の土曜日と日曜日に、講話のために、会うでしょう。 火曜日と木曜日に、無数の質問です。 私たちは、明後日(火曜日)の朝、それらの質問を、取り扱うでしょう。