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BR83T3 - 自己からの自由
第3回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1983年9月3日



1:05 残念ながら、こんなに悪いお天気になっています。 私たちがもう二日間、待っていたなら、と思います。
1:42 私たちが先の日曜日に止めたところから、継続してもいいですか。 まず第一に、ご注意を申し上げていいなら、これは、講義ではありません - 特定の主題について、情報を与えられ、教示される意図をもったもの、 講義ではありません。 私たちはともに、自分たち人間の問題について、話し合っています。 存在の苦労すべてをともなった、私たちの生の、日常的な問題だけではなく、 また私たちは、はるかに深く行くべきです。 おそらく、ともに探究へ入るのです - 何が、時すべてを越えているのか、何が、創造物すべての起源、本源なのか、です。 それらの区域に入るには、確かに、私たちの意識の内容すべてでもって、 私たちなるものでもって、始めなければなりません - 私たちの反応、私たちの心配、さびしさ、 憂鬱、昂揚、恐れ、楽しみの継続でもって、です。 また、悲しみすべてを終わらせることが、可能なのかどうかをも、探究するのです。
4:20 また、私たちは今朝と、おそらく明日の朝、探究すべきです - 死ぬことの本性、宗教、冥想とは何かと、 時の制限全体を、です。 私たちは、これら二回の講話で、大変多くに、及ばなくてはいけません。 で、私たちは、この事柄に、きわめて深く入らなければなりません。 なぜなら、私たちは、いつも表面を、引っ掻きうるからです - 私たちが、一般的にそうして、ほとんど何も見つけないように、です。 ですが、私たちがもしも、きわめて、きわめて深く、その問い全体に入れたなら - 私たちの意識の内容が、そもそも終わりになりうるのかどうか、 すなわち、私たちの負傷、心理的な傷、恐れすべてが、終わることに、です。 私たちが縋りつくすべての記憶と、痛みと楽しみ、 大変多くの嘆きと悲しみを越えて、です。 そのすべてが、私たちの意識を、作り上げます - それが、私たちなるものです。
6:21 私たちのほとんどは、自分自身に、自分の達成に、自分の成功、失敗に、関心を 持っています。小さなことをする中で、自分自身に重要性を与えていますが、 そのすべてが、終わりうるのかどうか、です。 そして、全的に新たな何かを発見するのです。 発見するだけではなく、経験するのです。 その「経験」という言葉の使用には、よく気をつけなければなりません。 本当は、経験すべきことは、何もありません。 あなたが、時を越えるなら- それが可能だとして、ですが - そして、恐れなどを越えるなら、何か経験することが、ありますか。 私たちは、今朝と明日の朝、ともにこれらに、入ろうとしています。 あなたは単に、語り手に、たくさんの言葉を、聞いているだけではありません。 文章に組み立てられた、たくさんの言葉と、観念を、ではなく、 私たちはともに、これらを探究しよう、そして、見ようとしています - 私たちの頭脳は、重く条件づけられ、プログラムされてきましたが、 それらのプログラムが、終わりになりえて、 もはやこれ以上、プログラムされえないのかどうか、です。
8:26 このすべては、大変多くの真剣な意図と、相当の注意を、必要とします。 私たちは今朝と明日、進んで、自らの興味を、注ごうとしているなら - 表面的に、だけではなく、深く、自らの注意をそれに注ぐなら、 おそらく私たちは、ともにこれらに入り、 時すべてを越えた無際限な何かが、あるのかどうかを、見られます。 私たちは、今朝と明日、それをできますか。
9:18 まず第一に、私たちは、思考が、物質的な過程であり、 ゆえに制限されていることを、悟りますか。 そして、その制限に基づいたどの行為も、必然的に、 葛藤を創り出すにちがいないのです。 それで、思考は、物質的な過程です。 物質は、制限されたエネルギーです。 私たちの意識の内容全体は、思考の物質的な過程の結果です。 いいですか。 私たちは、過去、数多くの年の間、繰り返し繰り返し、 思考は物質的な過程であることを、言ってきました。 そして、私たちの意識の内容は、反応と応答などすべてとともに、 制限されている思考の物質的過程により、組み立てられているのです。 それで、私たちの意識は- それが、私たちなるものですが - 私たちが、自らが何であると考えようとも、いつも制限されています。
11:24 自分自身に、関心を持っているとき- 自分の問題に、 自分の関係に、社会での自分の地位などに、です - この自分自身への関心は、きわめて小さな事柄、制限された事柄です。 いいですか?私たちは実際に、これが見えますか。 または、それは、観念だけですか - 追求、探究されるためであり、それから、結論に到り、 その結論を受け入れて、「私はそれだ」と言うのですか。 または、私たちは、自己中心的な活動すべてが、 きわめて、きわめて制限されていることが、即時に、無媒介に見えますか - それが、宗教の名、平和の名において、でも良き生を送るとの名などにおいて、でも、 この自己中心的な活動は、いつも制限されています。 ゆえに、葛藤の原因です。 私たちは、実際にそれを、悟りますか。 またはそれは、単に観念だけですか。 私たちは、現実と観念の間の違いが、分かりますか。
13:31 観念を追求するなら、あなたは、或る種の幻影を、追っています。 ですが、実際に悟るなら - 自己中心的な、自我本位の活動が、 きわめて、きわめて小さく、分離していること、 ゆえに、葛藤の基本的な原因は、自己であることを、です。 私たちのどれほどが、これを聞いて、実際にそれを悟るのかと、思われます。 自己、心理(サイキ)、ペルソナは、私たちの意識の内容全体です - それは、私たちの条件づけです。 それは、私たちが、幾千年に幾千年もの間、プログラムされていることです。 それは、知識の構造全体です。
15:02 私たちは、このすべてに、一緒にいますか。 または、私は、(理解できない)ロシア語や中国語を、話していますか。 語り手が、中国語や特有の言語に耽溺していないなら - ゆえに、私たちの間に、何も意思疎通がないのでなければ、 私たちがどちらも、これら甚大で複雑な存在の問題を、見つめているとき - 私たちの日常生活の存在の、です -明瞭さと意思疎通が、あるべきです。 単調で、退屈で、興奮し、耽溺し、様々な形の楽しみを追求する。 究極的に、自らが、とても良い生活をしても、悲惨な生活をしても、 究極的に、死に終わる。 いいですか?
16:23 で、私たちの生は、一般的に、かなり浅い。 私たちは、その浅さに、意味を与えようとしますが、 その意味、その意義も、やはり浅いのです。 で、私たちは今朝、これらを悟って、私たち自身で進み、見出せるのでしょうか - 語り手から情報を与えられるのではなく、語り手から教示されるのではなく、 私たちが実際に何であるかを、ともに探検し、 この制限を壊してしまい、可能なら、さらに行けるでしょうか。 これは、明らかですか - 私たちが今朝と明日、ともに何をしようとしているのか、です。
17:55 私たちの意識の内容は、恐れです- 要因の一つです。 私たちのほとんどは、恐れが何かを、知っています - それが、表面的であっても、 または、私たちの頭脳の自らの奥底に、深く埋め込まれていても、です。 私たちはみんな、何かを恐れています。 いいですか? で、その恐れは、心理的に終わりえますか。 それで始めてください。 そのとき私たちは、訊ねられます - 物理的な恐れも、あるのかどうか、 そして、それらの、心理へ、心理的な恐れへの関係です。いいですか? で、私たちはともに、恐れの本性を、探究しています - 恐れの様々な形を、ではない。 自らは、死を恐れているかもしれません。 妻や夫を、恐れているかもしれません。 様々な物事を、恐れているかもしれませんが、 私たちは、恐れ自体に、関心を持っています - 何かへの恐れや、過去や未来への恐れではなく、 恐れと呼ばれる、実際の反応に、です。
19:49 私たちは、少なくともここに、一緒にいますか。
19:58 で、恐れの原因、根は、何ですか。 それは、思考ですか。 それは、時ですか。 私たちは、大変多くを扱わなければならないから、 それで、私たちは、手短でなければなりません。 それは、思考ですか - 未来について考えることや、過去について考えることですか。 それで、思考が、恐れの原因の一つですか。 時もまた原因ですか。時 - 老いるように、です。私たちのほとんどが、そうですが。 私たちは、生まれた瞬間、すでに、老いつつあります。 そして、未来としての時 - 時計によって、日によってや、年によって、ではなく、 「あるもの」から、「あるべきもの」への動きとしての時。 「あるかもしれないもの」、「ずっとあったもの」。理解されますか。 時の動き全体、心理的な時の過程 - それが、恐れの原因の一つですか。 物理的にも、心理的にも、何かの痛みの記憶 - それは、二週間前に起きたかもしれないが、 それを憶えていて、それが再び起きるかもしれないと、恐れている - それは、時と思考の動きです。
22:28 で、時と思考 - それらが、恐れの原因ですか。 いいですか? この時は、思考です - なぜなら、私たちが言いましたように、 思考は、記憶の応答であるからです。 すなわち、知識と経験の、です。 で、知識は、時のです。そして知識は、恐れの原因の一つなのかもしれません。 あなたが付いてきておられるのかどうかと、思われます。いいですか? で、私たちは、こう言っています - 時、思考、知識は、分離していなくて、
23:32 それは、実際に単一の動きですが、それが、恐れの原因なのかもしれません。 それが、恐れの原因です。 いいですか? そのとき、それを悟るとき- たとえ知的に、言語的にも、ですが - その恐れを終わらせることは、可能ですか。いいですか? それは、思考は終わりうるか、と・・・ あなたの答えは、何ですか。 あなたは、私が教示するのを、待っています。 ゆえに、私たちはともに、働いて、考えて、究明していません。いいですか? あなたは、語り手が、その問いに答えるのを、待っています。 それは、私たちの頭脳が、条件づけられ、訓練され、 教育されてきた、という意味です - 他の誰かより学び、他の一人により教示されるように、です。 ここで、私たちは、あなたに、教示したり、 何をすべきかを語ったりするのを、拒絶します。 私たちは、あなたに、何をすべきかを語る権威を、何も持っていません - これら醜く、獣みたいな導師たちのようではありません。
25:22 で、私たちは、ともにいます。 どうぞ、これを理解することが、重要です- 「ともに」が何を意味するかを、です。 あなたと私が個別に働いているのではなく、ともにそれを見つめます。 ともに、恐れの動き全体を、そこに何が関与しているかを、見ます。 なぜ人類は、この恐れを、何千年もの間、抱えてきて、 彼らは、それを解決したことがないのか、です。 彼らは、それを伝達し、それを、生の規準として、 生きる道として、受け入れてきましたが、 あなたが問いはじめるなら- 私たちが今しているように、です - 恐れがいったい心理的に、まったく終わりうるのかどうかを、問う。 ゆえに、私たちは、原因を理解しなければなりません。 原因があるところ、終わりがあります。 自分が、或る種の病気を持っているなら、 そして、診断の後、原因を見つけるなら、それは終わりにできます。 同様に、私たちは原因を見つけられるなら - 基本的な原因、根源的な原因を、です - そのとき、恐れは終わりえます。 いいですか?
27:33 で、ともに私たちは、時と思考が、または、二つの分離したものではなく、 時・思考が、恐れの根であると、言っています。 いいですか。

聴衆: 恐れには、いつも欲望が先行しますか。
28:00 K: 私たちはその問いに、入りました。 どうぞ、今、質問をなさらないでください。
28:08 それは、一昨日(木曜日)と、火曜日でした。 欲望もまた、恐れの一部です。 私たちは先日、よく気をつけて、それに入りました - 欲望の本性に、です。 あなたは、私に、もう一回それに入ってほしいのですか。

聴衆: いいえ。
28:33 K: なぜ、「いいえ」と仰るのですか。 私たちは、欲望の本性と動き全体を、理解しましたか。 そうね、どうぞ、私たちは聞きません - 語り手に、ではなく、私たち自身に、です。 私たちはけっして「欲望とは何なのか。なぜ私たちは欲望の奴隷なのか」と言いません。 私たちは、欲望は感受である、と言いました。 その感受 - 見る、接触、感受。 そのとき、欲望が入ってきます。 すなわち、思考が、その感受の中から、イメージを創り出す。 そのとき、その瞬間、一秒に、欲望が生まれます。 明らかですか。いいえ。 私はそのすべてに、入らないでしょう。なぜなら、私たちは先日、それに入ったからです - きわめてよく気をつけて、深く、欲望の本性全体に、です。 欲望もまた、恐れの要因の一つです。
30:08 欲望は、そのイメージをともなった思考です。 あなたが欲望を持っているなら - イメージなしに、欲望はありません。 ショーウインドゥに、青いシャツや、スカートや、何であれ、見る - ウインドゥに入る、それに触れる、感受。 そのとき思考は、あなたがそのシャツを着ているイメージを、創り出す。 そのとき、その瞬間に、欲望が生まれるのです。 私たちは、それに入りました。 私は、それに入らないでしょう。 で、思考は、本質的に欲望の動きです。 そして、時・思考は、恐れの根です。
31:05 さて、自らは、この実際の事実を、悟りますか。 そのとき、あなたは、どのようにその事実を、観察しますか。 付いてきておられるのかどうか、分かりません。 仮に、私は、思考が恐れの根であることを、悟る、とします - その複雑さすべてとともに、です - そして時も、またそうである、と。 そのとき、私はどのように、それを悟り、それを感じ、それに気づきますか。 質問を理解されますか。 私はそれを、何か私より分離したものと、見ますか - 時・思考を、何か私より分離したもの、と。または、私はそれですか。 それはすべて、かなり複雑になりつつありますか。
32:30 私は怒りです。 そうでないですか。 怒りは、何か私より分離したものではありません。 私は、貪欲、妬み、心配です。 いいですか? 私は、何か分離したものが、すなわち、 私が制御しているものが、あると、考えたいのですが、 実際の事実は、私はそれらである、ということです。 制御者さえも、私です。 いいですか? で、貪欲、怒り、嫉妬などとの間に、分割はありません。 それは、私です。 それは、観察者です。 いいですか? さて、では、私は、どのように観察しますか。 時・思考が恐れであるとの、この事実を、どのように観察しますか。 あなたは、それをどのように観察しますか。 理解されますか。 あなたは、それをどのように、見つめますか。 何かあなたより、分離したものとして、ですか。または、あなたはそれですか。 あなたはそれであり、それは、あなたより分離していないなら - いいですか? 行為すべてが、停止します。 そうでないですか。 前に、私は制御しました。 私は抑圧しました。 私は恐れを、合理化しようとしました。いいですか? 今、自分はそれらであることが、分かります。 ゆえに、時と思考の動き全体が、止まります。 私は、進まなければなりません。 さもないと・・・ 私たちは、一緒にいますか - 私たちの幾人か、私たち二人は?
35:08 あなたたちはみんな、熱心に行為しようとします。 行為しなければなりませんが、 ここで、あなたは、全部のことを、見守らなくてはなりません - 何かをするとの感覚なしに、です。 いいですか? ただ観察する。 観察されるものへの何の反応や応答もなく、です。いいですね?
35:54 そのときまた、私たちは、なぜ人が苦しんできたのかと、そして、 苦しみに終わりが、あるのかどうかの問いにも、入るべきです - 個人的な悲しみだけではなく、広大な人類の悲しみも、です。ですね? これについて、感傷的にならないでください。 実際に、私たちのみんなが、何らかの形で苦しみます。 鈍い人も、苦しみます。 最も知的な、学識ある人、芸術家、 地上のあらゆる人間が - (ソヴィエト・)ロシアの指導者を含めて、 あらゆる人間が、苦しみます。 私たちは、とても深刻な質問をしています - その苦しみは、終わりうるのかどうか、です。 または、私たちの幾人かは、苦しみを楽しみます - それは、神経症的になります。 で、どうぞ、苦しみを楽しむ人々について、思い悩まないでおきましょう - 何らかの形で苦しみが、私たちがこの宇宙・万物を理解するのを、 生を理解するのを、助けるだろうなどと考える人たち、です。いいですか?
37:54 で、自分は苦しみます。 私の息子は、死にました。去りました。 ですが、その記憶は、残っています - 彼の交友、私の愛情、彼への愛などについて、です。 記憶は残っています。 いいですね? その記憶は、悲しみですか。 どうぞ、ともに探究してください。 私は、妻を失ってしまいました。または私は、あなたほど、利巧ではない。 私は、あなたほど鋭敏、敏感ではない。 私は、それをとおして、苦しみます。 または、私は、十の異なったさまで、苦しみます。 そして、苦しみ、涙を流すこと- それは、失ったことですか。 実際に失ったことや、様々な記憶、思い出をもたらす喪失ですか。 これらに付いてきておられますか。
39:54 それは、苦しみの原因の一つか、おそらく主要な原因ですか。 人(マン)は、女を含めて、人の始まりから、 人は、戦争を行ってきました。 人々を殺してきました。ですね? それが、私たちの存在の様式だったのです - 戦争に次ぐ戦争、何千何万の人々を殺すこと。 人類は、苦しんできました。 私たちは、いまだに、その戦争の道を、追求しています。 それが、人類にとって、ものすごい悲しみを、もたらしてきました。 いいですか? 私たちは、自分の個人的な悲しみを、持っています。 悲しみは、同じです - それが、あなたのでも、私のでも、です。 私たちは、自分自身を、自分の悲しみと、同一視したいのです。 あなたは、自分自身を、自分の悲しみと、同一視したいのですが、 あなたの悲しみと私の悲しみは、同じです。 悲しみの対象は、異なるかもしれませんが、悲しみは悲しみです。 ゆえに、それは個人的ではありません。 これを悟られるのかどうかと、思われます。 いいですか? いいえ。自らが、これの真理を見ることは、きわめて困難です。
42:08 あなたが苦しみ、私が苦しむなら - あなたは、一つの理由で苦しみます。 私は、別の理由で苦しみます。 私たちは、自分自身を同一視します - 私は、自分の特定のものと、あなたは、自分のものと。 そのとき、私たちは、自分たち自身を、分割します。 そのとき、それを抑圧するため、合理化するための道と手段などを、見つけます。 ですが、私たちは、悲しみが. 人類すべて、人間すべての悲しみであることを、悟るなら - そして、私たちは、残りの人類です。 なぜなら、私たちは、恐れ、悲しみ、 楽しみ、心配を、持っているからです- 残りの人類のように、です。 もし私たちが、悲しみは私の悲しみではないと、悟るなら、 それは、こんなに小さな事柄になる。 すなわち、私たちは、人類の全体です。 私たちは、残りの人類です。 そして、苦しみがあるとき、苦しみは、人の苦しみです。 そのとき、あなたは、問題へ全然違った接近を、持つのです。 理解されますか。 私の苦しみではない - 「どうぞ、神様、私がそれをどう乗り切るのか、それをどう理解するのか、 助けてください。私は祈ります」ではない。 そのすべては、個人的、まやかしの些事になります。いいですか? ですが、苦しんできたのが、残りの人類であるとき、 苦しみは、自らがよく気をつけて見つめなくてはいけない、 とてつもないことに、なる。 そして、一人の人間が、苦しみの本性を理解し、それを乗り越えるなら、 そのとき彼は、残りの人類を、助けます。いいですか? さて、苦しみは、思い出ですか。
45:02 息子が殺されてしまった母親や父親 - あなたたちの特定の小さな戦争、最近の戦争、フォークランド、そこで殺されて、 母親と父親は、彼がしたことすべてを、憶えています - 死亡、誕生、映像、写真、すべての出来事と事故と、 笑い、涙、叱ったこと。 よろしいですか。 それで私たちは、訊ねています - どうぞ、あなた自身で、見出してください。 悲しみは、この記憶の継続の一部であるのかどうか、です。 もしそれが記憶であるなら、記憶を、二言、三言だけに、還元しないでください。 それは、ものすごい内容です。 それが記憶であるなら、その記憶は、 私の特定の息子の、だけではなく、 人類の悲しみの記憶、悲しみである記憶ですが - その記憶は、終わりになりえますか。理解されますか。
46:51 ゆえに、探究しなくてはいけません - 特定の記憶だけではなく、記憶の動き全体を、です。いいですか? 私たちは、記憶に頼って生きます。 私たちは、記憶です。 私たちは、言葉です。 その言葉への反応、その言葉に由来する楽しみです。 かつてあった物事すべての思い出、その象徴、 その出来事、事故が、頭脳に、蓄えられています。 それは、出来事が起きるとき、目覚めます。いいですか? そして、記憶は過去です。 いいですか? で、私たちは過去です。 この過去の動き全体は、時であり、思考ですが、それは終わりえますか。 私たちの日常生活での思考が、ではない。 私たちは、それについて、話していません。 私たちは、車を運転するため、手紙を書くため、詩歌を書いたり、 あれこれを書くために、思考が用いられるときについて、話していません。 そこで、思考、知識は、絶対的に必要です。 私たちは、記憶に基づいている、この心理的な動き全体について、話しています。
49:07 で、私たちは、はるかに深い質問を、しています - すなわち、 自己、「私」、自我、これら自己中心的な活動は、 記憶の動きですが、その自己は、終わりえますか。 修練によって、制御によって、抑圧や、 より大きな何かとの同一視によって、ではない - それはやはり、自己の動きです。 その自己は、終わりえますか。 そのときあなたは、こう訊ねていいかもしれません - 自己が終わるなら、 社会の中で、私にとって、どんな所がありますか。 私は何をするのでしょうか、と。 いいですか?よろしいですか? 初めにそれを終わらせなさい。それから、見出しなさい。逆に、ではない。
50:29 これは、きわめて、きわめて深刻な問いです。 世界の中で、または世界を越えて、誰もあなたに、語れません。 おそらく、私たちのほとんどは、世界を越えた教示を、得ようとします。 地上の誰も、あなたに、それをどう終わらせるのかを、語れません。 ですが、これらすべての事実を、何の反応もなく、観察するなら - 私は、自分が傷ついているという事実を観察します - 心理的に、です。 なぜなら、私の娘、私の息子、私の父は、何か私を傷つけることを、してきたからです。 私は、唯一つの抵抗もなく、その傷を観察できるなら - 私は傷つくべきでないとか、傷を保つとかの、行為もなしに、です。 ほとんどの人々は、そうします。 彼らは、人生をとおしてずっと、傷を運んで行きますが、 この傷、心理的な負傷を、それへの反応なしに、観察する。 そのとき、傷がすっかり消え去ることが、分かります。いいですか? で、同じように、ただ観察する。 記憶を、生ずるままに、観察する。 その本性、その進化を、見る。 私たちの日常生活の活動の本性全体が、これに基づいています。 そして、記憶は、きわめて制限されています。 思考は、無際限なものを創案するかもしれませんが、 思考はそれ自体、制限されていて、その無際限もまた制限され、有際限ですが、 無際限があるふりを、するかもしれません。 で、これらは、完全な自由を、含意しています。
53:27 いいですか? 何かからの自由だけではなく、 どの反応やどの賞罰にも基づいていない自由の性質です。 それを探究するには、また、死、死ぬことの本性を、理解しなければなりません。 あなたは、これらに興味がありますか。 それは、あなたにとって、面白くさえありますか。 とても静かに探究しなければならないことが、分かりますね - ヒステリックに、ではなく、このきわめて複雑な問題を、です。 死ぬことや、終わりになることが、私たちが関心を持っていて、 話をしていることです。なぜなら、それは私たちの生の一部であるからです。 私たちは、生まれて、教育すべてと、紛糾すべて、 心配すべてなどだけではなく、死もまた、私たちの生の一部です。 それはある - あなたが、それを好きでも、好きでなくても、 あなたがイギリス人でも、フランス人でも、それはある。 あなたが、若くても、中年でも、老いていても、 病気、事故。 それはある。 それが何であるかを、理解しなければなりません。 死の前に、生を理解しなければならないからです。 私たちはともに、死の前に何があるかを、理解しようとしています - 恐れ、傷、悲しみ、痛み、心配、労働、 朝から晩まで、事務所へ行くこと。 そのすべてが、私たちの生、生きることの一部です。 また、そのすべての終わりも、です。 このハエが、そちらへ行くことを、私は願っています。これは、私が大好きなようです。
57:03 自分は、とても良い生活を、してきたかもしれません - 快く、成功を収め、 世の中でひとかどの者で、権力、地位、金銭ですが、そのものが、終わりにある。 私たちは、それを可能なだけ、延期したい、はるか遠くに置いておきたいのです。
57:34 で、私たちは、ともに探究しようとしています。 有機体は死にます。自然です。 私たちがそれを適切に扱うなら、それは、可能なかぎり、生きるでしょう。 私たちは、健康の問いには、入らないでしょう。みなさんが、健康に興味があるのは、 存じていますが、私たちは今、それに入らないでしょう。
58:03 死ぬとは、どういうことですか。 橋から飛び降りるのでもなく、自殺するために、何かをするのでもなく、 私たちが今、そうであるように、生きていて、 ここに、テントの中、この天幕の中に、座っていて、死とは何ですか。 物理的な有機組織全体は別として、 頭脳は酸素を欠いて、萎れてしまう。 そして、死があります。 ですが、私たちは訊ねています -死は、終わることですか。いいですか? 私が持ってきた物事すべてに対して、終わること - 私の妻、子ども、私の書物、私の地位、権力、立場。 そうね、そのすべてが、終わりになろうとしています。 また私たちは、問いを、探究しなければなりません - それは、東洋の問いです。すなわち、輪廻転生、来世、生まれ変わることです。 それで、何であれ、あなたが到るものに、到るまで、生の連続です - そうね、最高の原理などに到るまで、です。 彼らは、とても強く、それを信じ込んでいますが、 彼らは、継続するのが何であるかを、深く探究しません。いいですね?
1:00:13 継続しようとしているのは、「私」ですか。 または、継続しようとしている何かが、「私」を越えてありますか。いいですか? そして、「私」を越えて、私の観念、私の意見、私の結論など - 私たちが前に話をしたものです - を越えて、何かが、あるなら、 その「私」が、その言葉、その名前、思い出であるなら、 それが、継続しようとしていますか。いいですか? または、霊的な実体が、ありますか - キリスト教世界では、魂、仏教世界、ヒンドゥー教世界は、 異なった言葉を、持っていますが、それが、継続するのでしょうか。 そのとき、そのものは、私を越えているか、 私の中にあるが、「私」がそれを覆い隠している。 そのとき、それが霊的な実体であるなら、 それは、時を越え、死を越えているにちがいありません。いいですか? ゆえに、それは、輪廻転生できません。いいですか? で、人々は、それらを信じたいのです。なぜなら、それは、大きな慰めであるからです。 私は、来世、生まれるだろう。 私は、貧しい生活をしてきたが、 来世、私は、もっと良い住宅を持つだろう。 別の生で私は、もっと大きな住宅で生活するだろう。 または、私は、王になるだろうとか、何らかの腐ったものです。
1:02:11 で、私たちは、それらの種類の幻影の追求を、脇に置き、事実に向き合うなら - すなわち、心理的に、終わりがある、ということに、です。完全な終わりです。 「私」は、その記憶すべてとともに、終わりになった。それが、死ぬことです。 私たちは、それが好きではありません。 それで、私たちは、様々な形の慰め、信念、信仰、 復活、そうね、それらを、探し求めます。 さて、生きている間、私たちは、何かを終わらされますか - 何も原因なく、何も未来なく、何かを終わらせる。 質問を理解されますか。 例を取ってみてください。 あなたは、執着すべてを、終わらせるでしょうか。ふーむ。 自分の名前への執着、自分の家具への執着、自分の妻へ、夫へ、庭への執着を、 自分の観念、先入観への執着を、です。 生きている間に、執着すべてを終わらせる。 それが、あなたが実際に死ぬとき、起きようとしていることです。ですね? で、今そうして、それが何を意味するかを、見てください。 その終わりは、ものすごい。 ものすごい性質を、秘めています。 何への執着も、ありません。 それが自由です。 その種の自由があるとき、 死は、何の恐れをも、持ちません。 理解されますか。 なぜなら、あなたはすでに、死とともに、生きているからです。 二つは、相伴います - 生きることと死ぬこと自体は、です。 いいえ、あなたは、お分かりにならない。 それの美しさを、理解できますか - 恐れすべてからの完全な自由の性質、です。 なぜなら、執着があるところ、嫉妬、心配、憎しみが、あるからです。 あなたが、執着すればするほど、痛みがあります。 これらは、ご存じでしょう。 もしもあなたが、行って、妻や夫に、 「私はもう、あなたに執着していない」と告げたなら、何が起きるでしょうか。 それは、愛を否定しますか。 それは、関係を否定しますか。 執着は、愛ですか。 進んで、これらを探究してください。 あなたが深く探究すればするほど、活力と安全と強さを、持つのです。 それは、どの薬物、どの刺激にも由来していません。
1:07:00 私たちは今、止めて、明日の朝、継続したほうが、いい。 どうぞ、私たちは明日の朝、よく気をつけて、議論しようとしています - このすべての起源、このすべての始まりは、何なのか。 なぜ人は、このすべての悲惨、混乱、時折の楽しみと喜びを、 経て行かなくてはいけないのか。 まさに始まりから、創造を理解しないなら - そして、それを理解する中で、 時がなく、始まりもなく、終わりもないこのものすごい感覚、です。 立ち上がってもいいですか。