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BR83T4 - 冥想のために、どんな種類の頭脳が、必要なのか
第4回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1983年9月4日



0:35 こんな天気の中、出てくることは、何かを標示しているにちがいありません - このひどい天気の中で、私たちみんなが、ここに座ることは、です。
0:59 これは、一緒の最後の対話です。 私たちは、この一連の講話を、訊ねることから、始めました - なぜ、この地上に生きている人間たちは・・・ このような雨の日を除外して、こんなに美しい大地ですが、 なぜ私たちは、互いに平和に生きられないのか、 なぜ私たちは、戦争をしなければならないのか。 経済的、社会的、人種的な違い。 そして、なぜ私たちは、互いとともに生きられないのか - 親密にか、その他で、 平静さ、一定の静穏の性質をもって、です。 見たところ、それは可能ではありません。 なぜなら、世界中の大多数の人々は、きわめて暴力的であるからです。 彼らは、平和がほしくない。 政府もまた、そうです。 彼らは、それについて大変多く話をしますが、 彼らはみんな、果てしない戦争の準備を、しています。 そして、宗教もまた、人に平和を与えてきませんでした。 部族的な分割、地域的な神と救い主、宗教的な位階制度、 そのすべてが、阻止してきました。または、私たちが、これらを創り出してきました。 ゆえに地上に、平和はないのです。 (ラテン語で)パーチェム・イン・テリス(地上の平和)です。
3:12 私たちは、ともに話し合ってきました -私たちが、自らの日常生活において、 自分たちの間の葛藤を終わらせられ、どの恐れの影からも、自由でありえ、 苦しみを終わらせられ、自己中心的な活動より、全面的に離れられるか、です。 その活動がおそらく、葛藤の原因の一つか、主要な原因です - 外的に、だけではなく、また内的にも、です。 きわめて、きわめてわずかな人が、これに深く入るほど、真剣であり、 おそらく、全然違った生き方があることを、悟るように、思われます。 今朝、私たちはよろしければ、ともに、この問いに入ります - 平和について、だけではなく、私たちが言いましたように、 存在すべての起源、始まりは、何ですか。 なぜ人は、今あるものに、なったのですか。 なぜ私たちは、幾千年に幾千年もの後で、 私たちは心理的に、きわめて原始的で、野蛮なのですか。 そして、テクノロジー的に、私たちは、ものすごく前進しています。 そのテクノロジーこそはまた、おそらく私たちを、破壊しようとしています。 私たちは今朝、ともに行き、真剣に探究すべきです。 それが、人の定めで、回避不可能ですか- 人がこのように生きることが、ですか。 または、人間の進化全体について、何かが間違ってしまったのですか。 または、人間の度量を越えた何かが、外側にありますか - 自らが理解し、それに深く入るなら、おそらく扉を開きそうな何かが、です。 私たちの目を開き、おそらく私たちの心をもまた開く何かが、です。 それで、私たちが自然に、楽に、幸せな静穏な生を、生きられるように、です。 それが、今朝私たちがともに探究しようとしていることです。
6:57 まず第一に、私たちは、「経験」という言葉を、理解しなければなりません。 経験は、知識を取得する過程、何かに親しくなる過程です。 この知識は、私たちの葛藤、私たちの無知の 根源的な理由の一つなのかもしれません。 外側の知識が、ではない。 テクノロジー的、科学的な知識、 医学的な知識などではなく、人類の蓄積された知識、 すなわち、過去の重荷全体が、です。 それが、葛藤の基礎的な原因の一つなのかもしれません。 私たちは、それについて、ちょっと話してきましたし、 私たちは、さらに、それに入るでしょう。
8:19 私たちはともに、探究すべきです - 外側の機関が、人の度量を越え、 度量としての人自身を越えて、あるのかどうか、です。 私たちが訴えかけられ、祈られて、導きを頼まれる外側の機関、 または、基本的にそれとともにいられて、 それで、私たちはそれであり、それで、外側の機関が、ないのです。 私たちがともにここにいることを、願っています。 これは、私たちが先日言いましたように、そして、これを何回も反復してきましたが、 これは講義ではないし、日曜日の朝のお説教でもありません - とんでもない! また、あなたに教示しよう、説得しようとか、 或る種のばかげた宣伝をしようとか、するのでもない。 もしも私たちが、どちらもともに旅をでき、 ともに歩めて、物事をありのままに見て、越えて行けたなら、 人は、物事すべての度量(尺度)でしょうか。 人とは、自らの意識、反応、自らの記憶ですが、彼は、度量ですか。 または、人の外側に、何かが、ありますか - 私たちが接触できるのなら、 私たちを助けてくれるかもしれないものが、です。いいですか? これが、宗教の活動だったのです。 世界中で、古代の日々より、 人は、自分自身の外側の何かを、探し求めました。 または人は、自分の中、人間の中に、何か神聖なものがある、と言ってきました - だが、それは、自分の貪欲でもって、妬みでもって、 自分の野心、残酷さ、獣性でもって覆い隠されている。それらは、剥ぎ取ってしまえる。 そのとき、それが、正義の振るまいの長続きする要因だろう、と。いいですか? 理解されますか。私たちは、ここに一緒にいて、互いに付いてきていますか。 私たちの醜く、残忍で、心配で、野心的で、攻撃的な生の表層すべてを、 剥ぎ取ってしまうために、きわめて多くの体系が、あったのです - すみません。この天気です。 きわめて多くの体系、多くの呪文、 多くの形の儀式、魔術、です。 彼らは、あらゆる形の物理的苦行を、試してきました - 断食し、あらゆる感覚的応答を拒否しました。この点に来るため、です。 人が、違った生の道を、理解できて生きられる地点に、です。
13:33 科学者もまた、試しています - 遺伝子工学をとおし、 化学、他の形の薬物をとおして、人を変化させるように、です。 人は、外的に、あらゆる方向を見てきたが、 おそらく内的に、けっして見なかったのです。 人は、自らの存在の表面を、皮相的に引っ掻いてきたかもしれませんが、 おそらく、わずかな人を除いて、自らはけっして、深い関心をもち、 自分自身に入ったことが、ないのです。 というのは、人は物質でもあり、 思考の動きでもあるからです- 思考もまた物質ですが。 人自身に入るための、究明の道具は、思考だったのです - 思考は、正しい道具ではない。なぜなら、思考自体が、制限されているからです。 いいですか。 で、世界中の宗教は、組織されたのも、組織されていないのも、 個別の分離した集団も、 覚りを開くためにあらゆる形の試みを、してきました - 導師たちにより腐敗させられてきたその言葉を、私が使っていいなら、です。 私たちは、すべての宗教的な教義、信仰、象徴、人物像、儀式と、 それらすべての呪術を、脇に置けるなら - それらは今、ほとんど意味がありません。 それらはおそらく、一度もなかったのです。 もしも私たちは、それらを 完全に脇に置けたなら - どの集団にも、どの霊的な権威にも、所属しないのです - それら二つの言葉、「霊的な」「権威」は、霊性の否定です。 で、もしも私たちが、そのすべてを立ち去れたなら - それは、完全に自由に、恐れず、 立つことができる、という意味です。 それで私たちは、現実を探究できるのです - 思考の創案でない次元が、あるのかどうかを、です。 そのとき、宗教とは何ですか。 いいですか? 私たちは、これらに入ろうとしています。
17:29 存在すべての起源と始まりは、何ですか - 最も微少な細胞から、最も複雑な頭脳まで、です。 そもそも始まりが、あったのかどうか。 そしてこのすべてに、終わりがありますか。 また私たちはともに、探究しようとしています - 創造とは何ですか。 さて、これらを見出すには、これらを明るみに出すには、 どんな種類の頭脳が、必要ですか。 理解されますか。 どんな種類の能力、どんな種類のエネルギー、どんな種類の熱情が、 このすべてを探究し、本当に探査するには、必要とされますか。 理解されますか。 全然知られていない何かを、探査するには - 予め構想されていなくて、 どの感傷的、ロマンチックな幻影にも、捕らわれていない何かを、です - 完全に自由である頭脳の性質が、なければなりません。いいですか? 自らの条件づけすべて、プログラムすべてから、あらゆる種類の影響から、自由であり、 ゆえに、大いに敏感で、ものすごく活動的であるのです。いいですか? それは可能ですか。 あなたは、対話に加わっていて、そういう頭脳を、持っていますか。 またはそれは、すごくだらしなく、怠けて、自分の自惚れの中に、生きていますか。 どちらですか。 なぜなら、私たちは、 とてつもなく生きている精神、頭脳を、要求する何かを、 探究しようとしているからです - とてつもなく、どの形の課業、機械的なことにも、捕らわれていない頭脳を、です。 それは可能ですか。 私たちは、そういう頭脳を、持っていますか - その中に、恐れがなく、 自己利益がなく、自己中心的な活動がないものを、です。 さもないと、それは、いつの時も自らの影の中に、生きています。 いいですか。 それは、自らの部族的な、制限された環境、平野に、生きています。 それは、杭に繋がれた動物に、似ています。 綱は、とても長いのかも、とても短いのかもしれませんが、 それは、柱に繋がれています。ゆえに、その動きは、制限されています。 あなたはそれに、きわめて、きわめて長いロープを、与えてやるかもしれませんが、 その長さこそが、制限の標示です。 ですね?
22:32 頭脳は、空間を持たなければなりません。 それで、空間とは何ですか。 こことそこの間の空間だけではない。 空間は、「中心なし」を、標示します。いいですか? あなたが中心を持っていて、その中心から動いて、周囲へ去るなら、 周囲がどれほど長く、広くても、それは、やはり制限されています。 いいですか? 私たちは、互いにこれに付いてきていますか。 で、空間は、中心がないところを、標示するのでしょう - そして、周辺がなく、境界がないところ、です。 私たちは、そういう頭脳を、持っていますか - それで、自らは、何にも所属していない、何にも執着していないのです。 自分の経験、結論、希望、理想などへ執着していない - それで、頭脳は、本当に、完全に自由であるのです。 いいですか?それが重荷を負っているなら、 あなたは、あまり遠くへ歩めません。 あまり遠くへ行けません。 それは、粗野で、卑俗で、自己中心的であるなら、無量の空間を、持てません。 空間は、空っぽを標示します - その言葉はよくよく気をつけて、用いています。 付いてきておられますか。 これらに、興味はありますか。 あなたは、ひどい雨と風にもかかわらず、ここに来ていますが、 確かに、私たちは互いに意思疎通していると、思いますか。
25:32 私たちは、見出そうとしているのでしょう - この世界に、何の恐れもなく、何の葛藤もなく、 ものすごい慈悲の感覚をもって生きることは、可能なのかどうかを、です - それは、大変多くの智恵を、要求します。 あなたは、智恵なしには、慈悲を持てません。 その智恵は、思考の活動ではありません。 特定のイデオロギーに、特定の狭い部族主義や、どの宗教的な概念にも、 執着しているなら、慈悲深くありえません- それは、制限するからです。 慈悲は、悲しみの終わりがあるとき、来られるか、ありうるだけなのです - すなわち、自己中心的な動きが終わるとき、です。いいですか?
27:10 で、空間は、空っぽなこと、何物でもないことを、標示します。 その空間は、そこに、思考により置かれたものが、何もないから、 その空間は、ものすごいエネルギーを、持っています。 これは、科学者たちも言っていることです- ただ、それは、彼らの結論です。 それは、科学者の現実生活ではありません。 なぜなら、科学者は、他のあらゆる人、 他のあらゆる人間と同じく、貪欲であり、自分自身のために頑張っているからです。 または、彼は、政府を代表しています。 または、彼は野心的である、などです。 彼は、他の誰とも、よく似ていますが、彼は、とてつもない能力を、持っています。 一定の区域で知識を集積するために、です。
28:28 それで、頭脳は、完全な自由と空間の性質を、持たなければなりません。 すなわち、自らは、何物でもないのでなければなりません。 ところが、私たちはみんな、何物かです - 分析者、心理療法者、医師です。 それは結構ですが、 私たちは、療法者であるとき、私たちは、生物学者、技術者であるとき、 まさにその同一視こそが、頭脳の全体性を、制限します。 いいですか? 私たちは、そこから進行できますか。 そのとき私たちは、訊ねます。
29:48 そのときだけ、私たちは本当に訊ねられます - 冥想とは何ですか。 なぜなら、あなたが、冥想とは何かを訊ねたり、冥想しようとし、 すべての体系に従うのなら、それが、禅、仏教の形の冥想、 チベットの形の冥想、ヒンドゥーのものでも、 キリスト教の形でも - それは、かなり制限されています。 そして、神秘的な冥想への特有の招待をもった、最新の導師すべて - あなたがそれに、たくさんのお金を支払うという条件つきで、だけですが。 これらすべての形の冥想が、あります。 それらはすべて、思考を静寂にすることに、基づいています - 見境の無い思考ではなく、思考を静かにすることに、です。いいですか? すなわち、制御しようとしている制御者が、あるのです - 体系をとおし、実践をとおし、静けさのために 日々の割り当てられた時間などなどをとおした、制御です。 見守っている制御者が、いつも、あるのです。 そして、制御者自身が、思考の活動です。ですね? で、それらは、ぐるぐる円周を、回っています - 自分のしっぽを追いかける猫のように、です。 それが、冥想と呼ばれます。
31:57 さて、冥想は、全然違った何かです。 私たちの生に、秩序の基礎を、敷いてきていないのなら - 理解されますか。 秩序です - 恐れがあるなら、秩序は、ありえません。 どの種でも葛藤などが、あるなら、秩序は、ありえません。 私たちの家が - 外の家ではなく、私たちの家、内の家が、完全な秩序にあり、 それで、大きな安定がある。 まぜこぜにすることがなく、 まさにその安定こそに、ゆえに、その秩序の中に、大きな強さが、ある。 そのときにだけ、真の冥想とは何かを、訊ねられるのです。
33:30 家が秩序立っていないのなら、あなたの冥想は、ほとんど意味がありません。 いいですね? あなたは、どの種の幻影、どの種の覚り、どの種の日々の修練をも、創案できます。 それは、やはり制限されて、幻影でしょう。 なぜなら、それは、無秩序より生まれているからです。いいですね? これはすべて論理的です。 どうぞ、健全で、理性的です。 それは、何かあなたが受け入れるために、語り手が考案したことではありません。 この種の - 私はこの言葉を使っていいですか - 「修練されていない秩序」が、ないのなら、 それは、良い言葉です。私は、ちょうど今それを思いついたのが、うれしいです! 修練されていない秩序が、ないのなら、 冥想は、きわめて浅く、無意味になるのです。
34:58 では、そのとき、秩序とは何ですか。 思考は、秩序を創り出せません。なぜなら思考自体が、無秩序であるからです。 あなたは、それを受け入れるのでしょうか。 あなたは、それが分かりますか。 なぜなら、思考は、知識に基づいていて、 知識は、経験に基づいていて、知識すべては、制限されているからです。 いいですか。 これは事実です。 それで、思考もまた制限されています。 思考が、秩序を創り出そうとするとき、それは、無秩序をもたらします。 ですね? 私たちは、この現実の事実が、見えますか - 理論として、ではない。
36:05 思考は、無秩序を創り出してきました。すなわち、 それは、「あるもの」と「あるべきもの」との葛藤をとおして、 無秩序を創り出してきました- いいですか? - 現実的なことと理論的なことをとおして、です。 理論的なことではなく、現実的なことだけが、ある。 思考は、制限された視点より、現実的なことを、見つめます。ですね? ゆえに、その行為は、必然的に無秩序を、創り出すにちがいないのです。 私たちは、これが真理として、法として見えますか。または、観念だけですか。 理解されますか。 私は貪欲です。仮に、私は貪欲である、妬んでいる、とします。 それが、「あるもの」です。 対極はない。 ですが、対極が、人間たちにより、思考により、創り出されてきました - 「あるもの」を理解する手段として、 そしてまた、「あるもの」より逃避する手段として、です。いいですか? 私たちは、ともに歩んでいますか。 互いに意思疎通していますか。 で、「あるもの」だけが、ある。 あなたが、「あるもの」を、その対極なしに、知覚するとき、 まさにその知覚こそが、秩序をもたらします。 私たちは、一緒にいますか。
38:08 私たちが言っていましたように、私たちの家は、秩序立っていなければなりません。 この秩序は、思考によりもたらされません。 思考は、自らの規律を創り出します - 「これをしろ。あれをするな。これに従え。 あれに従うな。伝統的であれ。 伝統的であるな」などと、です。 思考は導きです。 自分は、秩序をもたらしたいと、願いますが、思考自体が、制限されています。 ゆえに、それは必ず、無秩序を創り出すことになる。 私は、余生の間、「私はイギリス人だ。 イギリス人だ。イギリス人だ」と 反復しつづけるなら - または、「フランス人だ。フランス人だ」と。 または、あなたは、他の国籍がお好きでしょうか。ヒンドゥーだと、仏教徒だとか、 何であっても、です。その部族主義は、きわめて制限されています。 その部族主義は、世界に、大きな荒廃を、引き起こしています。ですね? 私たちは、その根に行きません。すなわち部族主義を終わらせるように、です。 より良い戦争を、いかに創り出すのか、ではない。
39:39 で、同様に、私たちは言っています - 思考は、一定の区域では必要ですが、 心理的な世界では、何の所をも持たないとき、秩序は、生じうるだけです。 ゆえに、その世界には - 思考が不在であるとき、その世界自体が、秩序立っています。 言っていることを、お分かりですか。 私たちは、互いに出会っていますか。
40:19 で、冥想は - 冥想(メディテーション)という言葉こそが、 測量することを、意味しています。 「あるもの」と「あるべきもの」との間を、測量する。 「今の私なるもの」と、冥想をとおして「私がなるだろうもの」との間、です。 で、冥想(メディテーション)は、サンスクリットでも、ラテン語などでも、 測量の性質です - いいですか? - それは、比較です そして、比較は無秩序です。 いいですか。 その説明が必要ですか。私が自分自身を、あなたと比較しているとき、 すなわち、私があなたと競争しているとき、私は、あなたより 良くなろうとしています。そのとき、これは、常なる葛藤なのでしょう。 で、どんな比較もなく、生きることは、可能ですか - 生物学的に、物理的に、だけではなく、はるかに心理的に、内的に、 けっして自分自身を、何とも、誰とも、比較しないのです。 そのため、精神、頭脳は、この傲慢の葛藤より、自由です。ですね? で、そのとき、私たちは訊ねられます - 冥想とは何ですか。
42:32 なぜなら、絶対的に静かな頭脳を持つことは、必要であるからです。 頭脳は、自らのリズムを持っています。どうぞ、私は科学者、 脳の専門家ではありませんが、これらを自分自身において、見守ってきました。 それは、語り手がとてつもない、という意味ではありません。 感傷的で個人的にならないようにしましょう。
43:18 頭脳は、果てしなく活動的であり、 おしゃべりしていますね - 一つの主題から、別のへ、 一つの思考から別のへ、一つの連想から別のへ、 一つの状態から別のへと、それは常に、占有されています。 一般的に自らは、それに気づいていません。 ですが、何の選択もなく、気づくとき- この動きへの選択なき気づき、です - そのとき、その気づき、その注意こそがそのおしゃべりを、終わらせます。 どうぞ、そうしてください。それらがどんなに単純なのかが、分かるでしょう。
44:25 で、頭脳の性質は、それが自由でなければならない、ということです - 空間と、静寂です。 心理的に、静寂です。理解されますか。 今、自らは、話しています。 あなたと私は、互いに聞き合っています。 互いに話し合っています。そこで、思考が、使用されつつあります。 なぜなら、私たちはみんな、英語を話しているからです。 ですが、この静寂の中から、話すこと - 私が言っていることを、理解されますか。 どうぞ、或る種のたわいもない想像へ、入ってしまわないでください。
45:40 これは、言語の問いを、もたらします。 言語は、頭脳を条件づけますか。 あなたは、これらについて、考えたことがありますか。 または、それはすべて、何か全然新しいことですか。 英語やフランス語や何でも、ロシア語や中国語は、 それらの言葉の使用こそが、頭脳を形作り、 それで、それは条件づけられるのですか。 言語は、頭脳を条件づけるのです。 いいですね? あなたが、ロシア人やフランス人に話をするなら、 もちろん、英語を使うイギリス人やアメリカ人に、話をするなら、 あなたが見守るなら、彼らの見通し全体が、彼らが使う言語により、制限されています。 いいですか? これらに注目したことが、ありますか。 で、言葉のネットワークより自由であってください! よろしいですか。 言語を使うこと - 英語のように、です。そして、 それが、存在の全体への私たちの見通しを形作るのを、許さないのです。ですね?
47:47 あなたたちが、これらのことのどれをも、したことがないのが、分かります。 で、それはすべて、何か空想的なことだけです。 で、言葉のネットワークに、捕らわれない。 それもまた、全く複雑です。 あなたが、「私は共産主義者だ」と言うとき、あなたの反応全体が、違っています。 あなたたちは、最近、フォークランドで戦争を行ったので、 あなたたちが、アルゼンチン人について話をするとき、 そのラベルのほうが、その人物より重要です。 で、言葉からの自由が、なければなりません。 そのとき、頭脳は全く静かです - それは、自らのリズムを、持っていますが。いいですか? さて、そのとき、創造とは何ですか。
49:09 このすべての始まりは、何ですか。 いいですか? 私たちは、それを、探究しています - 生すべての始まりの本源、です。 あなたの生だけではなく、あらゆる生き物の生、です。 深い底のクジラ、イルカ、小さな魚、 微細な細胞、広大な自然、虎の美しさ。 あなたは、林の中で虎を見たことがありますか。 いいえ、もちろんありません。 あなたはそれを、見ないでしょう。 それは本当に、最もとてつもない動物です。 私はそれに入らないでしょう- すなわち、今回は、です。 私はほとんど、それに触れました - 野生です。 人の生活は、最小の細胞より、最も複雑な人まで、 彼の創案すべてとともに、彼の幻影すべてとともに、彼の迷信とともに、 彼のけんかとともに、彼の戦争とともに、彼の傲慢、卑俗さとともに、 彼のものすごい切望と、彼の大きな憂鬱とともに、 このすべての起源は、何ですか。 いいですか?
51:13 さて、冥想は、これに出くわすことです。 あなたが、それに出くわすのではない。 あの静寂の中、あの静けさの中、あの絶対的な平静さの中で、です。 始まりは - 始まりが、ありますか。 始まりがあるなら、終わりがあるにちがいない。 ですね? あなたがお分かりになるのかどうか・・・ 原因を持つものは、終わるにちがいありません。ですね? もし私が癌を持っているなら、原因は、何であれ、その病気です。 私は手術を受けなければなりません。すると、それが、その終わりになるでしょう。 または、それで、私は死ぬでしょう。ですね? どこでも原因があるところ、終わりがあるにちがいない。 それは法則です。それは自然です。 で、人の創造にとって、そもそも、因果がありますか - この生の道すべての、創造にとって、です。 質問を理解されますか。 このすべての始まりが、ありますか。 私たちは、どのように見出そうとしていますか。
52:57 諸宗教は、「神がある」と言ってきました- 「神が、すべての物事の 始まりと終わりである」と。それは、その問題のきわめて簡単な解決の仕方です。 ヒンドゥー教徒は、それを一通りに、言ってきました。 おそらく仏教徒も、そうです。 キリスト教は、「神」と言いました。 ただ、原理主義の信念ですが、人は四千五百年前に創造された、と。ですね? それは、かなり不条理に思われます。 なぜなら、四千五百年前、エジプト人は、暦を発明したからです。 それは、彼らが、とてつもなく進歩していたことなどを、意味しています。 あなたは、原理主義者であるなら、言われつつあることに、怒るでしょう。 私たちの誰一人として、どの種の原理主義者でもないことを、私は願います。
54:16 で、創造とは何ですか。 絵画を創造する画家ではない。 詩人でもない。大理石より何かを作り出す人でもない。 それらはすべて、顕現したものです。 いいですか? 顕現していないものが、何かありますか。 何かが、ありますか - それは顕現していないから、 そのものは、始まりもなく、終わりもない。 顕現しているものは、始まりがあり、終わりがある。 いいですか?私たちは、顕現なのでしょう。 何らかの神聖なものの、ではなく、私たちは、結果です。 私たちは、何千年もの、いわゆる進化、成長、発展の結果です。 私たちはまた、終わりになります。 顕現しているものは、いつも破壊されえますが、 そうでないものは、時を持ちません。いいですか?
56:23 さて、私たちは訊ねています - すべての時を越えた何か、といったものが、ありますか。 これが、哲学者、科学者と、宗教的な人々の探究であったのです - 人の度量を越えていて、時を越えているものを、見出すように、です。 なぜなら、それを見つけ、出くわし、発見できるか、それが見えるなら、 それは、不滅、不死です。いいですか?それは、死を越えています。 これらを理解されるのかどうかと、思われます。 これらに、付いてきておられますか- 少なくとも、少しは? どうぞ、私を励まそうとしてください。 私は、あなたの励ましをほしくないのですが、 あなたは、これが見えます - 人は本当に、探し求めてきました。 様々な道で、世界の異なった地方で、異なった信念をとおして、です。 なぜなら、それを発見したり、それを悟ったりしたとき、 生は、始まりもなく、終わりもないからです。 ゆえに、それは、すべての概念、すべての望みを、越えています。 付いてきていますか。 それは、何か無量なものです。
58:38 さて、実地に戻ってきますと、 そうね、私たちは、けっして生を、ものすごい動きとして、見つめないのです - 私たち自身の生を、ものすごく幅広くて、大きな深み、広大さをもっている、と。 私たちは、自らの生を、こんなにごまかしの小さな事柄に、縮小してきました。 生は本当に、存在の中で、最も神聖なものなのです。 誰かを殺すことは、最も非宗教的な恐怖です - 誰かに怒ること、暴力的であることは、です。 語り手は、一回だけ、怒ったことがあります。 彼が怒った人物は、彼に思い起こさせてきました。 だから、彼はまだ、怒りを続けています。 理解されますか。 本当に、そうね、私たちはけっして、世界を、全体として見ないのです。
1:00:29 なぜなら、私たちは、こんなに断片化していて、 私たちは、こんなにひどく制限され、些少であるからです。 私たちは、この全体性の感覚をけっして、持ちません。よろしいですか。 そこでは、海の物事、大地の物事、 自然と空は、宇宙です。 私たちの一部です。 想像したのではない。 あなたは、或る種のたわいもない想像に、彷徨い込めるし、 私たちは宇宙であることを、想像できます。 そのとき、あなたは間抜けになります。 ですが、この小さな自己中心的な興味を、壊してしまうこと、 それを何も持たないこと - そのとき、そこから、あなたは無際限に動けます。
1:01:48 冥想は、これなのです。 ただ脚を組んで座ることや、 逆立ちをすることや、何であれ、それをすることだけではない。 完全な全体性と、生の統合のこの感じを、持つことなのです。 愛と慈悲があるとき、それは、来られるだけなのです。
1:02:28 そうね、私たちの困難の一つは、 私たちが、愛を、楽しみと、セックスと、関連させてきたことです。 愛はまた、私たちのほとんどにとって、 嫉妬、心配、所有欲、執着を、意味しています。 それが、私たちが愛と呼ぶものです。 それで、愛は執着ですか。 愛は、楽しみですか。 愛は、欲望ですか。 愛は、憎しみの対極ですか。 それが、憎しみの対極であるなら、それは、愛ではありません。 いいですか? これが、分かりますか。 すべての対極は、自らの対極を収容しています。 いいですか? 私が、勇敢になろうとするとき、その勇気は、恐れから生まれます。 いいですか? これを理解されるのかどうかと、思われます。いいえ? で、愛は、その対極を持ちえません。 嫉妬、野心、攻撃性があるところ、愛はありえません。
1:04:36 あの性質があるところ、そのとき、そこから慈悲が生じます。 あの慈悲があるところ、智恵があります。 利己の智恵ではなく、思考の智恵ではなく、 大変多くの知識の智恵ではない。 慈悲は、知識とは何の関わりもない。 そのときだけ、あの智恵が、ある - 人類に、安全、安定、広大な強さの感覚を、与えるものが、です。 で、私たちは、対話の終わりに、来たのです。
1:05:50 私たちがまた来年、お会いするだろうことを、願っています。