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BR84CMZ1 - 私たちのいう条件づけとは、どういう意味なのか。
メアリー・ジンバリストとの会話、第1回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年10月5日



0:16 メアリー・ジンバリスト: 条件づけという基本的な問いに、 入っていただけるでしょうか - 私たちの頭脳に対するその効果と、 私たちはそれについて何をできるのか、です。
0:34 K(クリシュナムルティ): 私たちのいう、条件づけとは、どういう意味かと思われます。 それは伝統でしょうか - 現在、今日の伝統だけではなく、 世代から世代へ 手渡されてきた 幾世紀に幾世紀もの伝統です。 この条件づけは、 文明、文化の背景、 社会的影響、 自らが持つ、きわめて多くの 経験の背景全体でしょうか。 このすべてが、頭脳の条件づけに、寄与するのでしょうか。 これらだけではなく、また様々な印象、 宣伝、文学、テレビ、 このすべてが、あらゆる人間の背景に、 条件づけに、付け加えるように、見えます。 彼が、きわめてきわめて貧しく、 無教育で、 大変原始的であっても、 最も高度に教育されて洗練された人間まで、です。 この条件づけは、回避不可能だと見えます。 それは、たぶん百万年か、 五万年以上の間、 続いてきた要因でした。 そのすべてが、 あらゆる人間の 条件づけや背景であるなら - それは明白に、私たちが考えるのを形作り、 私たちの反応と応答を、制御します - 私たちの振るまい方、行い方と、 私たちの食べ方、考え方、感じ方、 反応の仕方、それらを、です。 それは、人間たちの 通常の条件づけである と、見えます。
3:37 それが、私たちが生きる社会を、形作ってきたのです。 社会は、私たちがそれから作ってきたのものです。 各個人が、百万年か 五万年をとおしてずっと、持っているものです - 自分たちの欲望、野心、条件づけに応じて、 自分たち当人の傾向、 自分たちの攻撃などに応じて、です。 このすべてが実際に、 私たちが生きる社会に、寄与してきました。 で、社会は、私たちより異なっていません。 それは、私たちが社会について話をするとき、忘れるように見える事実です。 社会は、何か次第に 生じてきたものです。 私たちは、それに対して、自分たちの努力すべて、 格闘すべて、痕跡と傾向すべてを、注いできました。 これが社会ですし、社会は私たちです。 それは、二つの分離した実体ではない。 これは明らかに理解されなければならないと、私は思います。 社会主義者、 おそらく資本主義者の幾らかと、 確かに共産主義者は、 社会構造を、法律により、 様々な布告などにより、 変化させようとしました。 彼らは、人間の性質、人間の条件づけを 忘れて、外的構造を 形作ろうとしたように、見えます - 人間の性格、人間の振るまい、 人間の構造、 数千年の間、 プログラムされてきた 彼の頭脳の条件を、 深く考慮に入れずに、です。 人間の条件づけは、 はるかに徹底的に検討されるべき、 きわめて深く入られるべきであると、 私たちには見えます - 人間の条件づけが、いったい根本的に 変化させられるのかどうかを、見出すように、です。 それで、人間の条件づけから 生まれる社会構造もまた、 変化させられるのです。 それが本当の問題です - プログラムされてきた人間たちの 自由だけではない。 私たちは、「プログラムされた」という言葉を、 専門家、熟達者などによりコンピューターが プログラムされつつある、という意味で、使っています。 で、私たち人間は、 最も原始的な残忍な状態や、 最高に教育された科学的な共同体に、生きていても、 私たちは、この心理的な構造、 主観的な実体を、無視する、 または忘れるとさえ、見えます - この本当にかなり狂気の世界をもたらしてきた者を、です。 その人間の条件は、いったい 根本的に変化させられるのかどうか。 それが確かに、あなたの問いにおける主な関心事です。
8:44 で、私たちはそれに、入らなければなりません - 表面的に、その外的な しるしに、だけではなく、 また、数千年に数千年をもかけて 進化してきた人間の頭脳にも、です。 その頭脳自体は、 伝統をとおし、 宗教的な宣伝をとおし、 政治家と指導者の宣伝をとおして(進化したの)です - 宗教的な位階制度の指導者、 インドとアジアの哲学者をとおして、です。 そのすべてが、斟酌されなくてはいけません。 それは基本的に、人間たちの頭脳が 経験により、知識により、 宣伝などにより 形作られてきたことを、 意味しています。 私たちは、それについて明らかであるなら、 必然的に、自然に問わざるをえません - 頭脳は いったい、時の過程すべてを 浄化できるのかどうかです。 その言葉を使っていいなら、です。
10:42 ジンバリスト: あなたが仰るこの条件づけは、 人間の誕生より前に、 人間の意識に入ると 私が理解するのは、正確でしょうか。 言い換えるなら、彼は、自らのまさしく頭脳に、一定の条件づけを積み込み、 一定の内容をもって、生まれます - それは、条件づけと呼ばれるでしょう。 それは、彼が成長するにつれて、 現実生活で彼に起きることだけではない。
11:16 K: それだけではない。 私たちは、意識という言葉を、使ってきました。 すなわち、 私たちは、しばしの間、それを検討できるなら、 その意識は、 私たちの反応、応答のすべて、 私たちの体質と傾向のすべてです - 生物学的なのも、心理的なのも、です。 すべての信念、信仰、 人が考案してきた 神々、儀式、 日々のお決まりの仕事 - そこには退屈、 機械的な応答が伴います。 また、恐れ、心配、 痛み、憂鬱、昂揚、 激しい悲しみ、さびしさ、 未来の不確実さ、それらも、です。 死の恐れと、継続と、そのすべてが、 私たちの意識です。 その意識は、 その内容とともに、条件づけです。 その条件づけは、幾世紀もの古さです。
13:16 で、頭脳自体が、このすべての中心です。 語り手は、頭脳とそれらの 専門家ではないけれども - 彼はそれを、主張さえしないでしょう。 それは不条理でしょう。 しかし、彼は、よく気をつけて見守ってきました - 自分の振るまい方と、他の人々の それなどだけではなく、 鋭く観察してきました。 頭脳は、すべての行為、すべての思考、 私たちのすべての恐れ、 すべての傾向の中心であることは、自分自身で見えるのです - 宣伝、無数で微妙な印象、そのすべての、です。 頭脳はそれです。 その頭脳は、幾千年に 幾千年をかけて、進化してきましたが、 その頭脳はいったい、時の束縛する性質すべてを、 浄化できるでしょうか。 それが本当に、深い問いなのです。
14:43 たぶんこの問いを訊ねたことは、一度もないでしょう。 なぜなら、生物学者と他の人たちは、 本当に調査に、興味を持っていますが - 頭脳の性質に、頭脳がどう働くのか、 電気的応答などがどうかに、です。 しかし、彼らはけっして訊ねないからです。 彼らが、訊ねたことがないわけではない。 幾人かは、訊ねたかもしれません。 しかし、私たち、人間は- 職業的な専門家ではなく、 本当に素人であり、 普通の、智恵ある人間です - この頭脳は、長い時の継続をとおして進化してきたが、 その頭脳はいったい、その内容から自由でありうるのかどうかを、 私たちは、けっして言ったり、訊ねなかった。 深く探究しなかったのです。 それが、私たちが今、訊ねている問いなのです。 頭脳は、プログラムされ、 条件づけられてきましたが、 それ自体は、いったいその問いをできるでしょうか。 または、本当に、とても勤勉に、 鋭く見守ります - いかに頭脳が日常生活で働くのか、 いかにそれが反応するのか、その応答が、 その背景に沿って、その知識に沿って、 その伝統に沿って、 いかに速いのかを、です。 これら速い応答を見守る中で、それら応答が いかに条件づけられているかを、発見します。
16:49 ジンバリスト: この領域には、本能をも、含められるのでしょうか。 それは条件づけですか。
17:00 K: 本能は、私たちの条件づけの一部です。 プログラムされてきた 私たちの頭脳の一部です。 私の本能、自分の本能 - 例えば、 あなたは危険な動物に会います。 それは、逃げろとか、殺せとか、 それについて何かをしろ、とか言います。 あなたが殺していないことを、願っています - 虎のような、あの美しい動物を殺すこと、 または、野原のコブラを、です。 荒野で相当に近くで、これら動物を見守ってきました。 彼らは、最もとてつもないものです。 殺されるべきではなく、 彼らとの関係が、確立されるべきです - それで、彼らを見る中で、恐れがないように、です。 それは別の事案です。
18:11 本能は、本当に速い応答ですが、 私たちの過去の知識により、 当然、彩られます。 その知識は、きわめて隠れていて、微妙なのかもしれません。 ですが、その知識なしには、 本能は確かに、ありえません。 直観が、頻繁に使われるもう一つの言葉であるように、です。 またもや、その直観は、私たちの欲望、あこがれ、 私たちの隠れた 深い奥底の、自らの頭脳の、背景なのかもしれません。 それは、隠れた恐れ、隠れたあこがれ、 隠れたさびしさなどを、持っています。
19:13 で、本当に、私たちが今朝の対話の間、 関心を持つべきなのは、頭脳は時をとおして 果てしなく進化してきましたが、 その時はいったい、頭脳を 自由にできるのかどうかを、見ることです。 または、頭脳は、知識をとおして自由へ 向上しようとして、知識の分野で 果てしなく、格闘しなければならないのでしょうか。 もちろん、知識がけっして自由をもたらせないことは、明白です。
20:09 ジンバリスト: なぜこれがそんなに必要なのかを、 少なくとも短く、言っていただけるでしょうか。 知識と条件づけは、何がそんなにひどく、いけないのでしょうか。 なぜ人間は、その面で自分自身を変化させるようと、すべきなのでしょうか。
20:27 K: 私たちは今朝、この知識の問いへ 入る時間があるのかどうか、分かりません。 知識は、結局のところ、手短に表すと、 知識は、経験の結果です。 とても制限された経験でも、 そこからもっともっと多くの知識を集める ところの経験でも、です - 科学の世界におけるように、です。 その知識は、いつも制限されています。 何でも、もっと多いとか、もっと良いものは、 いつも制限されています。なぜなら、それは測量可能であるからです - 心理的にも、客観的にも、です。 何でも測量可能であるものは、制限されています。 知識はいつも、制限されるにちがいない。 これは明白であると、思います。 何についても、完全な知識はけっしてありえません。 何か死んだものについては、完全な知識があるかもしませんが、 生きているものは - それは生きていて、動いていて、変化しています。 常に変化し、動いているものについて、 完全な知識を持つことはできません。 知識は制限されています。
22:10 ジンバリスト: しかし、その知識とその条件づけは・・・
22:14 K: 知識が、条件づけです。
22:16 ジンバリスト: ええ。しかしそれでも、それらは、みんなの生活において、きわめて重要な役割を果たします。
22:20 K: もちろんです。もちろんです。理解できます。 テクノロジーとその他で、 それはものすごく重要なものです。 あなたが測量、比較を持たなければならないのは、そこなのです - 一定の事実を進化させ、 動く。常に動く。 テクノロジーの世界で何が起きつつあるかは、見られます。 あなたは、或る日、何かを創案、発明します。 二、三ヶ月後、誰かがそれを変化させ、 もっと付け加える、などです。 それは常に、付け加えられつつあります。 そこに、創案、発明などなどがあります。 それはまったく明らかです。 おそらく、その同じ動きが、 心理的な領域へ、持ち越されます - そこにおいて、私たちは知識が必要であると考えます。 すなわち、主観的な世界において、 私たちは、自分自身を知るには、 知識が本質的である、と考えます。 自分自身を知ることは本当に、とても制限された了解です。 なぜなら、知識は制限されているからです。 しかし、知りつつあることは、動きです。 知っていることは、そうではない。 知りつつあることと、何か私たちが知っていることとの間に、 違いがあるのかどうか、私は知りません。
24:05 ジンバリスト: どうか、それについて、少し詳しくしていただけるでしょうか。
24:09 K: 何かあなたが知っていることは、静的です。 あなたはそれへ、付け加えているかもしれません。 すでにあるものへ、あなたが付け加えるもの - それは、静的、機械的になります。 しかし、学びである常に知ること - 知識を蓄積するのではなく、 常に学び、動き、探究し、 探検し、進み、進み、進むこと。 それは、知識に基づいていません。 それは動きです。 生が動きであるように、です。 それが、樹や小さな草の葉における(動きや)、 最も驚くべき動物における 動きでも、です - 虎やライオンやキリンのように、 または小さな虫でも、です。 それは、私たちの中と同じ生なのです。 ゆえに、生命を殺すのではなくて、 生を尊重しなくてはいけません。
25:22 で、私たちは、始まりに 戻ってこなければなりません - すなわち、頭脳は、私たちが受け取ってきた プログラムすべてから、いったい自由でありうるでしょうか。 語り手、Kは、それは可能であると、言います。 それは、見守ることをとおしてのみ、可能です。 非難したり、受け入れたりするのではなく、 あなたの思考の動き全体を、ただ見守る。 思考のまさしく活動を、見守る。 思考の起源、始まりを見守るのです。 それで、この見守る中で、 頭脳はそのとき、はるかに敏感になります。 自らの応答へ、だけではない。 自然へ、まわりのあらゆる物事へ、 敏感です - ますます危険になりつつある世界へ、 そして、自分の心理の世界へ、です。 そのため、常に客体と主観の 関係、交換があるのです。 けっして最終的判断に到らない。 すなわち、けっして、そこから動きはじめる地位を、持たない。 これは、大変多くの余暇を 必要とするだけではない - それを趣味として、やるのではない、という意味です。 それは、生の一部です。 生を見るには、余暇を持たなければなりません。 実際に何が起きつつあるかが、見えるには、この時を、持たなければなりません - あなたが起きてほしいと願ったり願望したりすることではなく、 私たちの日々の生で実際につづいていることが(見えるには)、です。 その見守りは、頭脳をとてつもなく 鋭く、冴えて、明晰にするのです。 この明晰さは本当に、 私たちがこれへきわめて、きわめて深く入れるなら、 全的な自由です。