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BR84CMZ2 - 恐れの事実とは、何なのか。
メアリー・ジンバリストとの会話、第2回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年10月5日



0:18 メアリー・ジンバリスト: あなたが何度も何度も話してこられた 主題がありますが、 それは、人々の問いと没頭において、 戻ってきつづけます。 それは、恐れの主題です。 あなたは、それについて話をしたいですか。
0:38 クリシュナムルティ: それはなかなか錯綜した主題です。 それは本当に、大変多くの探究を、必要とします。 なぜなら、それはとても微妙で、 種々で、抽象的であるからです。 またそれは、現実的でもある - 私たちはそれを、抽象にしてしまうのですが。 恐れの現実、そして恐れの観念 - そちらは、恐れの、観念への抽象化です。 で、私たちは、自らが話していることについて、とても明らかでなければなりません。 恐れの観念としての抽象化か、 または、恐れの現実か。 あなたと私と、私たちのみんなは、ここに 座っていて、この現在の瞬間に、私たちは恐れていません。 憂慮とか危険とかの感覚はない。 この瞬間に、恐れはありません。
2:10 で、恐れは、観念として、言葉としての 抽象化でもあり、 また事実でもある。 まず最初に、これら二つを扱いましょう。 なぜ私たちは一般的に、物事を抽象化するのですか。 なぜ私たちは、何か現実的なものを見て、 それからそれを、観念に変えるのですか。 それは、観念のほうが、追求しやすいからですか。 または、理想が、私たちの条件づけですか。 または、私たちは、観念へ、または観念での教育をされるのですか - 事実を扱うよう、教育されるのではなくて、です。 なぜこうなのでしょうか。 世界中の人間たちが、抽象を取り扱うのは、 なぜでしょうか - あるべきことと、なければならないこと、 起きるだろうことなど、 観念化とイデオロギーの 世界全体です - それが、マルクスとレーニンに基づいた 共産主義のイデオロギーでも、 いわゆる自由企業の 資本主義の観念などでも、です。 または、宗教的な概念、信念、観念の世界全体と、 神学者たちがこれら観念を考え出すのでも、です。 観念、理想が、とてつもなく 重要になったのは、なぜでしょうか。 古代ギリシャ人から、ギリシャ人などの前さえも、 観念が優勢でした。 今でさえ、 観念、理想は、 人を分離します。 それらは、戦争をもたらします - あらゆる種類のを、です。 人間たちはなぜ、 人間たちの頭脳は、なぜこのように作動するのでしょうか。 それは、それらが事実を直接的に取り扱えない、 それで、微妙に観念化へ逃避するからでしょうか。 観念が本当に、 とても分割的な要因であることが、分かるなら - それらは軋轢をもたらします。 それらは、共同体、国家、民族、派閥、 宗教などを、分割します。 すなわち、観念、信念、信条。 それらは、思考に基づいています。 そして、事実 - 事実とは何でしょうか。 事実とは、正しくは何でしょうか - 事実についての意見ではなく、 意見が事実にされたのでもなくて、です。
6:06 ジンバリスト: 恐れの事実とは、何でしょうか。
6:08 K: 私はそれへ、来ようとしています。初めに私たちは、区別を確立しなければなりません - 恐れの観念、 恐れという言葉としての抽象化と、 現実の恐れとの間の(区別)、です。 現実の恐れは、事実です。 その抽象は、そうではない。 動いて、抽象より離れられるなら、 私たちは事実を扱えます。 しかし、それらがどちらも、いつの時も平行に走っているなら、 二つの間に葛藤があります。 すなわち、観念、イデオロギーが、事実を支配していて、 時には事実が、観念を支配しています。
7:04 ジンバリスト: ほとんどの人々は、恐れの事実は、 恐れのとても痛い情動である、と言うでしょう。
7:10 K: さて、それを見つめましょう。 恐れの観念ではなくて、です。 で、事実を見つめましょう- それが、私が行こうとしていることです - 実際の恐れの事実、です。 そして、その事実とともに留まる。 それは、大変多くの内的修練を、必要とします。
7:42 ジンバリスト: 恐れの事実とともに留まることが実際に何であるかを、叙述できますか。
7:52 K: それは、宝石を保っているのに似ています - このとてつもない宝石をもたらした 芸術家による、入り組んだ様式です。 あなたは、それを見つめます。 それを非難しません。 あなたは、「何と美しい」と言い、言葉をもって逃げ去りません。 あなたは、このとてつもないものを、見つめています - これをもたらした手により、巧みな指と頭脳により、 組み立てられたものを、です。 あなたは、それを見守っています。 あなたは、それを見つめています。 それを裏返し、様々な側を見つめます - 裏と表と脇を、です。 あなたはけっして、それを手放しません。
8:37 ジンバリスト: あなたがいわれるのは、それをとても鋭く感じるだけ、 という意味ですか - とても敏感に、大きな気づかいをもって、と。

K: 気づかいをもって - それが起きることです。 ジンバリスト: あなたはそれを感じます。
8:47 それは情動であるからです。

K: もちろんです。あなたは、美しさの感じ、 入り組んだ様式、きらめきの感じを、 持ちます - 宝石の輝きときらめきなどを、です。 で、私たちは、恐れの事実を扱い、それをそのように見つめられるでしょうか。 逃避するのではない。 「私は恐れが好きではないな」と言い、神経質になり、憂慮し、 それを抑圧したり、制御したり、否認したり、 それを別の分野へ移すのではない。 私たちは、それらをできるなら、 ただその恐れとともに留まってください。 で、そのとき恐れは、実際の事実になる。 それはそこにある - あなたがそれを意識していても、いなくても、です。 あなたがそれを、きわめて深く隠してきていても、 それはやはり、そこにある。
9:51 そのとき私たちは、よく気をつけてためらいながら、訊ねられます - この恐れは何でしょうか。 人間たちは、このものすごい進化の後で、なぜ いまだに恐れとともに、生きるのでしょうか。 それは、何か、外科医のように、 手術し除去できるものなのでしょうか - 病気のように、癌や、他のどの怖ろしい痛い病気のようにも、 それは、何か手術できるものなのでしょうか。 それは、それに対して手術できる実体がある、という意味です。 しかし、まさにその実体こそが、恐れについて 何かをしようとする抽象です。 その実体は実在しません。 現実的なものは、恐れです。 これは、よく気をつけた注意を、必要とします - 「私は恐れを観察している」と言う者や、 「私は恐れを片付けるか、恐れを制御しなければならない」 などと言う者のこの抽象に、 捕らわれないように、です。 それは、私たちは恐れを見守っている、ということです。 誰が見守っているか、ではない。 見守る者もまた、恐れから出てきたものです。 これが明らかであるなら - 私たちの古い言い方に戻ると、 観察者は観察されるものである、 思考者は思考である、 行う者は、行っている実体である。 何も分割はないのです。 それで、分割がないのなら - それは、悟るにはとてつもない事実です。 事実です。 私が悟らなければならない観念ではない。 観察者と観察されるものとの間に分割がないことは、 とてつもない事実です。 ゆえに、葛藤がないのです。 観察されるものより、異なった観察者があるとき、 葛藤が存在します - それは、私たちのほとんどが、やることです。 ゆえに、永続的な葛藤とともに生きるのです。 それは別の事柄です。
12:38 で、私たちは、その恐れを見つめられますか。 恐れを見つめ、見守る行為こそにおいて、 恐れの起源、始まりを、発見しはじめます - 恐れの因果が何であるのか、です。 なぜなら、それを見つめる行為こそが、 それがどう訪れたかが、見えることであるからです。 恐れを分析するのではない。 なぜなら、分析者は、分析されるものであるからです。 恐れを分析、解剖するのではない。 そのきわめて間近な繊細な見守りが、 恐れの内容を、開示します - 内容は、起源、 始まり、 因果です。 なぜなら、原因があるところ、終わりがあるからです。 ですね? 原因はけっして、結果より異なっているわけがない。 で、発見・・・ または観察の中、見守る中で、 因果が開示されます。
14:11 ジンバリスト: あなたが語っておられる因果は、 想定するに、個別の恐れ、 特定の恐れではない。 あなたは、恐れ自体の因果について、語っています。
14:21 K: ええ、恐れ自体です。恐れの様々な形ではない。 それが、私たちが一般的に やることです。私たちがいかに恐れを砕いてしまうかを、見てください。 ジンバリスト: はい。

K: それは、私たちの伝統の一部です - 恐れの断片化をもたらすこと、 ゆえに、ただ一種類の恐れに関心をもつことが、です。 恐れの樹全体に、ではない。 恐れの特定の枝や、特定の葉ではなく、 恐れの本性全体、構造、性質、です。 それをきわめて近くで観察し、見守る中、 まさに見守る中で、 因果の開示が、あるのです。 原因を見出すために、あなたが分析するのではなく、 まさに見守ることが、因果を示しています - すなわち、時と思考です。 もちろんです。 そのように表すとき、それは単純です。 それが時と思考であることを、誰もがみな、受け入れるでしょう。 もしも時と思考が、なかったなら、恐れはないでしょう。
15:50 ジンバリスト: それについて、少し詳しく言っていただけるでしょうか。 なぜなら、ほとんどの人々は、 何かがあると考えるからです。 - それはどう表せるのでしょうか - 彼らは、未来がないことが、見えません。 彼らは、或る原因から、私は今、恐れている、と考えます。 彼らは、時の要因が関与したのが、見えません。
16:16 K: それは相当に単純であると、思います。 もしも時がなかったなら、 もしも、私は過去に或ることをしたから、 恐れている、と言うことが、なかったなら - または、私は過去に痛みを受けてきた、とか、 誰かが私を傷つけてきた。 私はもはや傷つきたくない。 そのすべてが、過去、 背景です - すなわち、時です。 未来。すなわち、 私は今これである。私は死ぬだろう。 または、私は職を失うかもしれない、とか、 妻が私に怒るだろう、などと。 それで、この過去と未来がある。 私たちは、その二つの間に、捕らわれています。 すなわち、過去は、未来との関係を、持っています。 未来は、何か過去より分離したものではありません。 それは、過去の、未来へ、 明日への修正の動きです。 で、それが時です。 過去のこの動き - それは、私がそうであったような過去、 そして、私がなるであろう、未来です。 それは、この常に、なりゆくことなのです。 それもまた、もう一つの複雑な問題です。 私たちは当面、それに触れないでしょう。 それが、恐れの因果なのかもしれません- なりゆくことが、です。
18:11 で、時は、恐れの要因、 基本的な要因です。 それに疑問はありません。 私は今、職を持っている。 私は今、お金を持っている。 私は、屋根のある住まいを、持っている。 しかし、明日か たぶん百の明日は、 私から、それらを剥奪するかもしれません - 何かの事故、何かの火事、 何か保険の欠如など。 (ブロックウッドの)この邸宅で起きたように、です。 そのすべてが、時の要因です。 時が終わることではない。 その要因、その恐れが時の一部であることが、見えるのです。 「私は時を終わらせられるか」と言うのではない。 それはバカげた問いでしょう。 「バカげた」という言葉を使って、すみません。 また、思考も時の要因です。 思考 - 私はいた。 私はいる。しかし、私はいないかもしれない。 思考の要因 - 思考は制限されています。 それは別の事柄です。 思考は、制限されています。 なぜなら、それは知識に基づいているからです。 知識は、いつも累積的です。 付け加えられつつあるものは、いつも制限されています。 それで、知識は制限されています。 それで、思考は制限されています。 なぜなら、思考は、知識、記憶などに 基づいているからです。
20:09 それで、思考と時が、 恐れの中心的な要因です。 思考は、時より分離していません。 それらは、一つです。 それらは、離別していません。 それらは、分離していません。 で、これらが要因です。 これが、恐れの因果です。 さて、 それは事実です。 思考と時は、恐れの原因であるということは、 観念ではなく、抽象ではない。 (思考と時)それら、ではない。 それは、単数です。
20:55 それで、 そのとき、人は訊ねます - 私はどのように、時と思考を止めるのでしょうか。 なぜなら、彼の意図、彼の願望、 彼のあこがれは、恐れから自由であることであるからです。 それで、人は、自由でありたいとの自身の願望に、捕らわれていて、 彼は見守っていません。 彼は、よく気をつけて、因果を見守っていません。 あなたがよく気をつけて、何の動きもなく 見守っているとき - 見守りは、そこに動きがない頭脳の 状態を、含意しています。 それは、鳥を見守るのに似ています。 あなたは、鳥をごく間近で見守るなら - 今朝私たちが、窓の下枠に止まったあの鳩を、見守ったように、です。 あなたは、すべての羽根、赤い眼、眼のきらめき、 くちばし、頭の形、 翼などを、見守ります。 よく気をつけて、それを見守ります。 あなたがよく気をつけて見守るものは、 見守っているものの、因果だけではなく、 終わることをも、開示します。 で、見守りは、本当に最もとてつもなく重要です - いかに思考を終わらせるのか、とか、 私は恐れから自由になれるのか、とか、 あなたのいう時とはどういう意味かと、その錯綜すべて、ではない - それは複雑です。 しかし、私たちは、何の抽象化もなく、恐れを見守っているとき - それは、実際の今です。 その今の性質の中に、です。 なぜなら、今は、すべての時を収容しているからです。 すなわち、現在は過去、未来、現在を収容しています。 で、私たちは、よく気をつけて、これを聞けるなら - 耳で聞こえることでもって、だけではなく、 言葉を聞き、言葉を越えてゆき、 恐れの実際の本性が、見える。 恐れについて(本を)読むのではない。 見守ることが、いかに、とてつもなく美しく 敏感で、敏くなるのか。
24:08 このすべてには、とてつもない注意の 性質が、必要とされます。 なぜなら、注意の中に、自己の活動はないからです。 恐れの原因であるのは、 私たちの生における利己です。 自己 - 私の感覚と、私の関心、 私の幸せ、私の成功、私の失敗、私の達成。 私はこうだ。私はそうでない - この自己中心的な観察全体は、 その恐れ、苦悩、憂鬱、痛み、 心配、切望、悲しみの 表現すべてとともに、 そのすべてが、利己なのです - 神の名、祈りの名、 信仰の名においてでも、利己なのです。 利己があるところ、恐れが、あるにちがいない。 そして、恐れの帰結すべてが、です。 そのとき再び訊ねます - 利己が支配的であるこの世界に、 生きることは、可能でしょうか。 それが、全体主義の世界においてであり、 その権力への探求と、権力の保持を伴っているのであっても、 資本主義の世界であり、それ自体の権力を伴っているのでも、 利己が支配的です。 それが、宗教的な位階制度のカトリック世界においてでも、 あらゆる宗教的世界においても、利己が支配的です。 ゆえに彼らは、恐れを永続化しつつあります。 彼らは、パーチェム・イン・テリス、すなわち、地上の平和をもって 生きることについて、話をするけれども、彼らは本気でそう言っていないのです。 なぜなら、利己は、権力、地位への欲望、 充足などへの願望を伴っていて、 破壊しつつある要因であるからです- 世界を(破壊する)だけではなく、 それは、私たち自身の頭脳のとてつもない能力をも、破壊しつつあります。 頭脳は、とてつもない能力を持っています。 テクノロジーの世界において示されているように、です。 彼らは、とてつもないことを、しています。 私たちは、その同じ無量の能力を、けっして、内的に傾注しないのです - 恐れから自由であるよう、 悲しみを終わらせるよう、 愛とは、その智恵をともなった慈悲とは、 何かを、知るように、です。 私たちはけっして、その分野を探求、探検しないのです。 私たちは、悲惨すべてをともなった世界により、捕らわれているのです。 よし、終了しました。