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BR84CMZ3 - あなたにとって、宗教は何なのか。
メアリー・ジンバリストとレイ・マッコイとの会話、第3回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年10月14日



0:19 メアリー・ジンバリスト: もしも、よろしければ、 私たちは、お訊ねしたいと思います- あなたにとって、宗教とは何ですか。 あなたは、ほとんどの人々の 宗教についての概念より、根源的に違っています。 もしよろしければ、それに入っていただきたいと思うのです。
0:37 レイ・マッコイ: あなたはしばしば、宗教と 宗教的生活について、語られます。 が、それは、人々が一般的に宗教について 語ったり考えたりするさまで、ではないように、思われます。
0:48 クリシュナムルティ: はい。 まず第一に、 今日は本当に、なかなか美しい一日です。 特に、十月の半ばに、 こういうすばらしい晴れた青空があり、 樹々すべてが、次第に すばらしい色へ、変わっていきます。 本当に、とても美しい一日です。 宗教はそれとも関連している、と私は思います。
1:21 マッコイ: 美しさと、ですか。

K: 美しさと、です。 私たちのいう宗教とは、どういう意味なのかを、私は知りません。 (レリジョンという)その言葉の解釈は、多くあります。 カトリックの宗教があります。 キリスト教徒、プロテスタントと、 プロテスタントの無数の分派。 そして、仏教、ヒンドゥー教、シーク教などが、あります。 世界には、とても多くの宗教です - 組織されていて、幾つかは残忍です。 イスラム世界など。 で、あなたは、宗教とは何であると考えますか - その(レリジョンという)言葉は。 それは、人間たち自身の 日常生活の何か外側のものへ、 彼らの些細な自己中心的な活動より何か他のものへの、探求でしょうか - 彼らの残酷さ、獣性、 卑俗さと、その他すべて、 暴力を越えて、です。 それは、最も古代の時から、人間たちがいつも、 何か自分たち自身を越えたものを、 探し求めてきた、ということでしょうか。 私たちはそれを、 彼ら自身を越え、彼らの日常生活を越えた何かを、考慮するなら、 そのときそれは、逃避の宗教になるのです。 たぶん、ほとんどの宗教は、そうなのです。 それらが今、そうであるように、です。 それは、彼らの日々の存在に、連結していません。 それは、信念に、書物に基づいています。または、 信仰に、何か教義、 儀式に、です- 実質的に世界中でつづいている 日々の儀式の反復、 お香、着飾ること、 風変わりな衣装、それらに、です。 それらが、祈りを含めて、宗教的生活を送ること、と呼ばれています。 或る時にインドで行われたように、 一日三回、寺院へ行くこと。 イスラム世界での五回の祈り。 (キリスト教での)日曜日のミサなど。 で、これが、宗教的だと、またはむしろ、 宗教的な態度だと、考えられています。 私たちは、それを問うています。
4:30 私はむしろ、現在時の宗教の本性全体と構造を、 問いたいように思うのです。 とても多くの宗派が、あります。 彼らは、キリスト教がとても制限されていることを、見つけました。 それで彼らは、仏教へ、または、 或る種の宗派的な導師などへ、行ってしまいます - 日々の退屈、日々のさびしさ、 常なる葛藤などより、他の何かへの、 この探求の増殖です。 これが様式だったのです。 あなたは、それに同意されるでしょうか。
5:18 マッコイ: しかし、宗教の名において つづいているこれの下に潜んでいる、 それは、やはり、何か私たちが必要なもの、欲しいものを、目指している ように、見えます。

K: ええ、私たちはそれを言いました。 人が探し求めていて、 これら本当に戯言に捕らわれる、何かが、あります - 始まりから、神と人との間で、 様々な司祭者により発明された戯言です。 彼ら(司祭者)は、解釈者でした。 或る時に彼らは、学者でした。 彼らは、書き記し、研究し、 言語などを発明した人々でした。 間には、解釈者すべてが、いたのです。 自らがそれらを拒絶するなら - 私が個人的にそうするように、です。 なぜなら、それは私にとって、かなり未熟に見えるからです。 かなり、遊ぼうとしているとか、この世俗的生活より他の何か、 いわゆる霊的な生活への人間の要求を、鎮静させよう、
6:41 満足させようとしている、と。 ジンバリスト: あなたは、根源的探求、何かに向かう
6:48 根源的動きは、本当のものである、
6:52 と仰っていますか。それは・・・

K: 本当のものです。それは自然です。 ジンバリスト: それは、生の困難と 痛みと悲惨からの逃避だけではない。
7:00 それは、人間心理において何か実在のものである、と?

K: 人間心理には、何かがある、と私は思います。 それは常に葛藤になっていて、 常に問題とそれらの解決に、向き合っています - 圧迫、 貧困、失業、 人間の現代の存在全体に、です。 それらにもかかわらず、どの思慮深い人物も、 もっと何かがあるかどうかを、見出したいのです。 彼は、超心理学、奇跡に、向かいます - そうですね、私が関連しているかぎり、 そのすべては、外部的になります。 で、これらを棄てるなら - それが可能であるとして、 儀式を棄て、信仰、信念を全的に棄てて、
8:12 霊的な位階制度を、すっかり脇に置くのです。 マッコイ: どの権威も、です。

K: 権威は、私にとって犯罪行為です。 いわゆる霊の世界において、権威を持つということ、 それは私にとって、忌まわしいことだと、見えます。 で、私たちがそれらを脇に置けるなら - それが可能であるなら、です。 私はそれは、可能であると思います。 可能なだけではなく、それは現実です - そのとき私たちは、探究しなくてはいけません- 宗教とは何でしょうか。 宗教的な精神、または、 人間の宗教的活動とは、何でしょうか - 日常生活を離れてでなく、 朝から夜までの、私たちの活動の 何か外側のものではなくて、です。 それは生に関連しているなら、 私たちは、探究しなくてはいけません - つづいている騒音すべて、 戦争への準備、暴力などをともなった、 この現代世界に生きていて - 私たちはみんな、それを知っています - この世界に、この状態に 生きていて、見出すことは、可能でしょうか。 あなたがどこにいても、です。 他の人たちをとおして、ではなく、 何か書物をとおして、ではない - それがコーランでも、バイブルでも、 何か古代のヒンドゥーの文献、 神聖な文献でも、です。 自分自身で、それは可能でしょうか。 それへの探究は、利己的な活動ではありません。 探究や探検、または、 あなたがその言葉を使いたいなら、調査。 人の思考の過程を越えた何かが あるのかどうかを、見出すこと。 なぜなら、結局のところ、 思考がこのすべてを、組み立ててきたからです - 衣、儀式、 信仰への要求、教義、 全部のことが、気をつけて、大きな熟慮をもって、 築き上げられてきました - いわゆる宗教的な道の構造全体が、です。 あなたは、それに同意されるでしょうか。
11:11 マッコイ: ええ。しかし、宗教は、普通に認められた意味において、 思考は使われなければならない、 と言うように見えます - 何でも、見つけようとしているものへ接近するために、です。
11:23 K: それが、私たちが訊ねていることです。 それを私たちは言っていますし、また問うています - 思考は、 このいわゆる宗教的な構造全体を、築いてきましたし、 また思考は、とてつもないテクノロジーの 世界をも、築いてきました。 それは同じ思考です。 一方向、テクノロジー的な方向への思考。 そして、存在の日々の退屈や 存在のさびしさや 存在の苦しみより 他の何かを、探し出す思考。 思考が道具でしょうか。 なぜなら、思考は - おそらくあなたは、これに不同意でしょうが - 思考は本質的に、制限されているからです。 なぜなら、思考は、知識、記憶、 経験に、基づいているからです。 で、経験は、制限されています。 知識は、制限されています- 今も、未来にも、です。 科学的世界に見られるように、 それはいつも、もっともっと多くを、集めています。 ゆえに、もっと多くがあるとき、それは制限されています。 私はこの点で、話を明らかにしつつあることを、願っています。
12:53 マッコイ: ええ。何であれ、もっと多くがあるものは・・・
12:55 K: 明白です。 で、思考は制限されています。 思考は、無制限のものを、見出そうとしています。 それは創案できます。それは想像できるし、 その想像の上に築けます。 または、何かがあると言い、それについて信を持てます。
13:22 ジンバリスト: で、多くの人々は、自らがおそらく 啓示と考えるであろうものへ、向かうとか、それを考えつくのです。
13:28 K: 啓示、です。 ジンバリスト: それは、あなたの見解では何ですか。
13:32 K: これらは、よく気をつけて考慮されなくてはならない言葉です。 私たちのいう啓示とは、どういう意味でしょうか。 何を啓示しますか。 条件づけられた経験、 ゆえに制限された経験か。 私は、熱心なカトリック信者であり、 彼らが言うこと、 教義とそれら、救い主を信じているなら、 私の思考は、カトリックであって、宗教に関して制限されています。 または、プロテスタントとか、何であろうとも、です。 その制限された思考、 制限された探究は、けっして、 無量であり測量不可能であるものの無量の意義を、 理解したり、掴んだりできません。
14:28 ジンバリスト: それでは、このとても根源的探究を 行いたい人物は、何をでき、 何をすべきでしょうか。
14:38 K: それが、私が議論したいと思うことです。 仮に、私が、すべての宗教的構造と位階制度、権威と 霊的権威すべてを、完全に脇に置いた 人たちの一人である、とします。 それらは、私個人にとって、何の意味もありません。 それで、私のような人が言うのなら- 今、私は見出したい。 思考が、組み立てていないものが、何かあるのかどうかを、 私は本当に見出したいのです。 思考は、コンピューターを組み立ててきました。 思考は、教会全体、書物、 儀式を、組み立ててきました。 それらは、すべて制限されています。 で、私のような人は、言うのです - 初めに、言葉により測量されないものが、何かあるのでしょうか。 ですね? なぜなら、言葉は、思考の表現であるからです。
15:45 マッコイ: そして制限されています。
15:47 K: それで言葉は、それら自体、とても制限されます。 で、思考の制限に、言葉の制限に、 大いに気づかなくてはいけません。 頭脳は、これらから自由でしょうか。 または、それはやはり、伝統により、過去、背景により 条件づけられるでしょうか - キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、イスラム教徒などとして、です。 自らは、それらから自由でしょうか。 自らが、それらから自由でないなら、あなたの探究は、何の意味もありません。 あなたは、円周をぐるぐる回っています。
16:38 ジンバリスト: それはどうやって、その人物により決定できますか。
16:44 K: それは、もう一つの探究を、必要とします。 すなわち、動機をもってではなく、 何かを、それ自体のため、そのもののために、することです。 私は、他の何かを得るために、何かをします。 それは、とても制限された態度や活動です。 で、これらを脇に置いた探究者の頭脳は - 賞や罰のためではなく、 これらの無益さ、 これらのまったくの無意味さが、見えるから、 彼が深く、それを脇に置くなら - 言語的とか、知的にとか、だけでない。 または、信念に、情動的に捕らわれたり、 いわゆる引っ掛っていて、自らが 自由であるふりを、するのではない。 それは、何の意味もありません。
17:45 ジンバリスト: しかし、それは、探究者にとって、とても危険な瞬間であると、私には見えます。 なぜなら、彼は見たところ、確実なことと信念等を、あきらめつつあるからです。 けれども、やはりその範疇にある他の何かが 入ってくる微妙な危険は、とても大きい。
18:03 K: いえ。あなたは、何か彼があきらめたもの、すなわち 確実なことを、言っています。 しかし、信念は確実なことではありません。
18:11 ジンバリスト: 人々は、それをそのように考えます。
18:14 K: 見てください。あなたがイスラム教、ヒンドゥー教、チベット、 キリスト教などの宗教に向き合うなら、 それは今、打ち砕かれつつあります。 人々はこれらから、逃げ去りつつあります。 これらには、何の確実性もありません。 これらには、何の安全もありません。 人は、ふりをするかもしれません。 人は、望むかもしれません。 しかし、実際には、何も安全、確実性はないのです。 で、心霊的に、主観的に、 安全への欲求は、 最も危険なものの一つです。 なぜなら、人は、安全を欲しがり、 確実でありたいと思うからです。 それが落とし穴です。 なぜなら、あなたは、何かを見つけられ、それに拘り、 「私は、確実だ。 私はすばらしい経験をしてきたが、 私は全く、そのとおりだと確かに思う」と言えるからです。
19:31 で、この疑いの性質を、持たなくてはいけません。 あらゆることを、疑うのです - あなた自身の経験、 あなた自身の考えることと、 抑制すべて、 切望すべて、 想像すべてを、です。 そのすべてを、疑うのです。 なぜなら、それは、仏教とヒンドゥー教のような、 一定の宗教の、ふしぎな要因の一つであるからです。 疑いが、奨励されます。疑う - あなたは疑わなければならない、 問わなければならない、と言われます。 キリスト教では、それはまったくタブーです。 もしも疑ったなら、全部のことが崩壊するでしょう。 異端者、疑う人たちは、焼かれたり、破壊されるなどしました。
20:35 私たちは、それらへ入らないでしょう。 で、人間は、これらの中で養われ、 これらの中で教育され、 条件づけられてきましたが、 それらを脇に置けるでしょうか。 それが、第一の問いです。 何の問題をも持たない頭脳を、持つ。 なぜなら、全的に解消されていない問題は、 他の諸問題を、創り出すからです。 それで頭脳は、常に諸問題と、向き合っています。 それで、それは苦労しています。 それは葛藤の中にあり、 永続的にそれ自体と闘っています。 それで、葛藤を持たないこと。 そのとき頭脳は、自由になりはじめます。 そのとき、探究しはじめます。 さもなければ、探究できません。 あなたは、研究者や、 調査する教授や、 物質的なものへの探究者であるなら、 あなたは、探究します。調査します。 何にも縋りつきません。 あなたは、前の知識や 前の経験に、縋りつきません。 それは制限されていると、あなたは言います。
22:05 あなたは先へ動きます。 しかし、私たちはそうしません。 で、そのとき、 宗教は探究です。 その探究は、何の道、何の方向をも 持ちません。付いてきていますか。 それは、とてつもなく微妙になるのです。 どんな動機も、あってはなりません。
22:36 あなたは、動機を持つなら、すでに進路を定めています。 ジンバリスト: あなたはまた、探究は継続しなければならない、 探究を止める点や、いわゆる答えを持つ点に 到着しない、と言われていますか
22:51 - 探究を継続するその精神以外には、です。

K: これはむしろ、答えるのが困難な問いです。 あなたは、空間を持たず、 時を持たない何かに到るなら、 さらに探究しますか。 理解されますか。 私たちが探究について話すとき、 誰が探究者でしょうか。 私たちは、あの古いことへ、戻ってきます。 探究者は、探究されるものです。 私はその点で、話を明らかにしているのかどうか、分かりません。 すなわち、私は物質を探究します - 望遠鏡をとおして、 あらゆる種類の実験をとおして、私は探究します。 しかし、探究する人物は、 彼が探究しているものより、異なっています。 ですね?それは明らかです。 しかし、ここ、主観的な世界では、 心理の世界では、 探究者は、心理の一部です。 彼は、心理より分離していません。 それが明らかであるなら、 そのとき探究者は、 全く違った意味を、持っています。
24:34 ジンバリスト: あなたは、そのとき探究だけがある、 探究されるものや探究する者はない、と言われていますか。
24:40 K: いいえ。 私は、無際限の見守りだけがある、 と言うでしょう。 見守る中に、見守る者はなくて、 見守る中での とてつもない活力とエネルギーです。 なぜなら、あなたは、その点に来る前に、心理的世界、 主観的世界全体を 見守ってきたからです。 今、あなたは見守っているとき、 見守っている背景が、ありません。 「あるがままに」見守ることが、あるだけです。 私の話が明らかになっているのかどうか、分かりません。 なぜなら、そうですね、それは、大きな注意の中、その注意の中に、 注意している実体がないことを、意味しています。 空間を持っている注意だけが、ある - 全的に静かで静寂である注意、 エネルギーのものすごい集まりを持っている注意、です。 ゆえに、利己の全的な不在が、ある。 人間にとって、その点に到ることは、可能でしょうか。 人間たちは、これはひどく困難であると、見ます。 ゆえに、あなたがやってきて、 「いいかい、友よ。これをしなさい。これをしなさい。 これをしなさい。すると、あれを得る。 私はあなたの導師です」と言う。 あなたは、私の霊的権威です。 私は迷っています。私は再び捕らわれています。 これが、過程であったのです。 どこでも聖者がいるところ、聖者を認識する 霊的な位階制度があるところ、それが見られます。 この過程は、いつの時も、つづいています。 で、人は、自らの脚で立つ能力が、なかったのです。 人は、何かに頼りたいのです - それが妻であっても、職や信念においても、 彼がしたかもしれない何かとてつもない経験にも、です。
27:19 で、私たちは言っています。私は言っています- 完全な自由が、なければなりません。 その自由は、さほど錯綜していません。 利己がまったくないとき、その自由があるのです。 なぜなら、利己はきわめて小さく、きわめて些細で、 きわめて狭いからです。 それの完全な自由が、あるのでなければ、 真理は不可能になるのです。 真理は、どの道をとおしても、ありえません。 それは、道なき土地なのです。 あなたは、それに到るために、どの体系をとおしても、 どの方法をとおしても、 どの形の冥想をとおしても、行けません。 本当に、何も到ることがない。 それは、あるのです。