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BR84Q1 - 第1回質疑応答会合
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年8月28日



1:09 たくさんの質問が、されています。 それらの束、全部です。 それらの幾つかは、手紙です。 幾つかは、きわめて短い質問です。 それらのすべてには、答えられません。 それは、不可能になるでしょう。 それは、きわめて多くの日々が、掛かるでしょう。 幾つかの質問が、あの分の中から、選ばれました。
1:48 これらの問いに、入る前に、 私たちは、ともに話し合うべきです - 私たちは、全包括的な精神や頭脳の状態から、 質問をできるのかどうか、です。 人間の問題全体を見るか、了解する状態や、 または、知覚から、です。 一つの特定の問題だけではない。 すべての問題は、互いに関係し合っています。
2:38 他より隔絶した、一つの分離した問題は、ありません。 そうであるなら、 質問をすることや、 問題に向き合うこと - 統合された見通しから、ですが、 私がいう意味を、理解されますか。 私たちのほとんどは、断片化し、砕けてしまっています - ビジネス、宗教的に、 家庭生活、性的な生活、宗教生活などなど、ですが、 私たちは、みんな、全包括的な、健全な人間ではありません - それは、事実です。 私たちは、特定の視点から、生を見つめます - 結論から、または、何か理想主義的な概念から、です。 これらは、すべて断片化・・・ - 生に対する断片化した見通しです。ですね? 私たちは、ともに、いろいろと話し合っています。 私たちは、質問できますか・・・問題に向き合えますか - まったく断片化していない、 全的に違った見通しから、です。 理解されますか。私たちは、ここで、互いに出会っていますか。 私たちは、芝生を越えて、ここに来るとき、 ちょうど、それについて考えました - 私たちは、全包括的に、質問をできるか、問題に向き合えますか。 その言葉を使うのを、あなたが気にされないことを、願っています。 それは、いわゆる科学的な言葉ではあるけれども、 私たちがその言葉を使っても、 科学者たちが許してくださることを、願っています。 全的な統合、誠実さの視点から、 そして、質問をする。 私たちがそれに入るなら、それは、かなり興味深いのです。
5:52 それは、可能ですか。 私たちが断片化していて、砕けてしまっていることを、認識して - 私たち自身が分割されて、矛盾し、 一つの欲望を、別の欲望に対立させているなど、です。 それらを知り、それらに気づき、 私たちは問題に、向き合えるのでしょうか- すなわち、異なった焦点からです。 なぜ私たちは、問題を持っていますか。 私たちは、多くの問題を持っています - 政治的、宗教的、性的、など、 私たちは、生の中で多数の問題を、持っています。 問題は、増大しつつあります - こうも洗練されて、複雑である社会の中で、です。 人口過剰、 悪い政治、などです。 一つの問題を解消する中で、私たちは、 多くの他の問題を、増大させるように、思われます。ですね? なぜですか。 この問いに答える中で、それが生じさせようとしている・・・ 答えは、同様な問題を、目覚めさせようとしています。 なぜ私たちは、問題を持っていますか。 問題に出会うことは、可能ですか - すでに、問題を解決するよう、条件づけられている頭脳なしに、です。 質問を理解されますか。 あなたは、それを理解しません。 私も当面、そうです!
8:19 で、それを見つめましょう。 私たちは、幼くして、学校へ行きます - ほぼ五つか、七つか、などです。 子どもたちは、問題に向き合います - 数学的な問題、書き方、 読み方、数学の・・・学び方、 そうね、それは、問題になります。 で、子ども時代から、私たちの頭脳は、問題解決に、条件づけられています。 ですね?これは、事実です。 それは、語り手の何か突飛な理論ではありません。 で、専門校へ行きますが、またもや、問題があります。 そして、大学、職、 様々な業務、天職など、 問題に次ぐ問題、です。 私たちの頭脳は、問題で満ちています。ですね? 私たちは、いつも探し求めています - 問題を解決するよう、条件づけられた頭脳から、です。 私たちは、いつも、問題への解決を探し求めています。ですね? これは、明らかですか。 私たちは、ここに一緒にいますか。 さて、頭脳は、どうやって問題を解決できますか - もしそれが、問題より自由でないなら、です。 いいですか? 私たちは、ここでちょっとは、一緒にいますか。 これは、かなり、興味深い問いです。 どうぞ、これに入ってください。
10:12 私たちの頭脳は、問題の解消へ、問題の解決へ、 条件づけられています - 子どもの頃からです。 頭脳は、問題を解決するよう条件づけられているので、 それは、いつも解決を探し求めています。 それは、問題自体を理解していなくて、 問題の解決を、です。ですね? 私たちはここで、少し一緒にいますか。 はい? よし! そして、それは、可能ですか - そういう頭脳を持たない・・・ 問題に条件づけられていない頭脳を持つことは、です。 質問を理解されますか。 みなさま、私は、あなたに訊ねています。 あなたの頭脳は、今、問題の解決に、 条件づけられています。 そして、私たちは、問題をけっして解決したことが、ありません。 それらは、もっともっと増大しつつあります。なぜですか。 それは、条件づけられた頭脳は、 問題の中に埋め込まれていて、 それは、けっして問題を解決できないから、ですか。 いいですか?これを理解されましたか。 私は、問いを出しましたか。 さあ、みなさん! 問題の解決に条件づけられていなくて、 問題の理解に向かう頭脳を、 持つことは、可能ですか。 問題の解決と、問題の理解との間には、 違いが、ないですか。 問題を理解する中で、 解決は、問題に潜んでいるかもしれません。 問題より離れて、でなくて、ですね?
12:45 ごく普通の事例を、取ってみてください。 私たちは、けっして戦争を止めたことが、ありません。 この地上の人間たちは、 この地上に来てから、 戦争を行ってきました。 私たちは、けっして戦争の問題を、解決したことが、ありません。 が、私たちは、より良い、人の殺し方を再組織しようとしてきました。 この再組織、より良い、人の殺し方が、 前進と呼ばれています。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 これは、冗談ではありません。 で、私たちは、組織から組織へ、動きます。 私たちは初めに、国際連盟を持っていました。 私たちは今、国際連合(連合国)を持っていますが、 戦争は、進んでいきます。 彼らは、違った組織を、持っています。理解されますか。 で、私たちは、一つの組織から別のへ、動きます - それにより、問題を解決したいと望んで、ですが、 問題を増殖させます。 で、私たちは、けっして戦争を止めません。 戦争の原因は、民族主義、経済的な分割、 地域的な分割、などなどなど、です。 分割 - 言語的、人種的、宗教的、 経済的、文化的、などです。 これらが、人を分割します。 私たちは、みんな人間です。 私たちは、みんな苦しみます。 私たちは、みんな、痛みと心配、退屈、さびしさ、絶望を、持ちます。 私たちは、それに取り組みません。 が、私たちは、問題を、解決したいと思います - 外的な原因を持っているように思われるものを、です。いいですね?
14:59 で、私たちは、訊ねています - 頭脳は、自らが、子どもの頃より、 問題の解決に条件づけられていることを、 認識して、見て、 それより自由であり、それから問題に向き合えますか。 いいですね? よろしいですか。 あなたは、そうするのでしょうか。 それが問いです。 意識すること、気づくこと - すなわち、私たちの頭脳は、人間として私たちは、 生の始まりから、 私たちがいつも、問題と格闘していて、 それらに正しい答えを見つけようとしていることを、です。 正しい答えは、私たちが 頭脳は条件づけられているのを認識するとき、ありうるだけです。 その頭脳が、問題の解決に条件づけられているかぎり、 私たちはけっして、正しい答えを見つけないでしょう。明らかですか?
16:22 で、私は、その事実を、認識しますか- 観念ではなく、事実を、です。 観念と事実の間には、違いがあります。ですね? 私は、この発言が聞こえます。 その発言から、私は結論を導きます - まったくそうだ。 そのとおりだ、と。 その発言から、私は、その観念を、抽出します。 それから、観念を追求します。 事実を、すなわち、 私の頭脳は、問題を解決するよう、条件づけられていることを、ではない。 それは、事実です。 私はこの条件づけより自由であるべきだ、ではない。 それは、非事実です。 理解されますか。 で、頭脳は、条件づけられています。 その条件づけが、存在するかぎり、 問題の増殖は、進むでしょう。 問題の再組織は、進むでしょう。 一つの資本主義社会から、 全体主義社会や、あれやこれやへ変化することは、 いつも、甚大な問題をもたらすでしょう - ですね? あなたと私は、条件づけられている頭脳から、自由でありえますか。 それは、それに気づいて、それの深さを、見ることです - それの真理、論理、健全さ、それの道理を、です。 そして、それより動いて離れないこと、 何か抽象的な説明を、見つけないことです。 よし。
18:31 これは、だいじょうぶですか。 だいじょうぶなのかどうかを、私は訊ねています。 おそらくすべて、間違っているのでしょう! いいえ。それはすべて間違っていません。 これは、事実です。 自らが自分の妻とやってゆけないのなら - けんか、諍い、そうね、その他すべて、です。 私は、離婚します。 自らは、離婚します。 そのとき、行って、別の人物を選択します。 そして、これを反復しつづけます。ですね? 自分がお金を持っているなら、です! 自分が、たくさんの時間とエネルギーを、持っているなら、です。 これが、世の中で進んでいるゲームです - 小規模にか、大規模に、ですが、問題は、離婚とか、 関係の錯綜すべてではない。 関係の深さ、関係の意味を、 理解することなのです。 関係は、私たちが指摘しましたように、 生において、最も重要なことの一つです。 それの情動的な表現ではない。 関係の癇癪、神経症ではない。 重要であり、意義深いのは・・・ 関係に深さを持つことです。 私たちは、けっしてその質問を、しません。 私たちは、関係の問題を解決したいと思います。 理解されますか。 で、私たちは、けっしてそれらを解決しません。 精神科医、心理療法士などは、 世界で増殖しています- まるでキノコみたいです。 彼らは、問題を解決していません。 彼らは、これらの深みを、解決していません。
21:03 で、私たちは、ともに考慮すべきです- 生きることの芸術とは、何ですか。 理解されますか。 さあ、みなさん。 すてきな朝です。
21:21 質問者: 私たちは、問題を解決するための体系を、持っているなら、 毎回、問題に接近するたびに、私たちは、 理解の代わりに、自分の体系を使うと、仰っていますか。
21:30 K: そのとおりです。 そのご婦人は、こう仰っています - 私たちは、問題を解決する体系、 様式を、持っているなら、 体系が、作動している。 問題の理解と深みが、ではない、と。ですね? それは、同じことです。 私たちは、生きることの芸術について、話していました。 すみません。これらが質問ですが、こうなんです。 構いませんか。 私たちは、それらへ行くでしょう。 それらは、多くあります。で、私たちはそれらの六つを、選んだのです。 それで、今朝は十分でしょうが、 私たちは、訊ねています - 生きることの芸術とは、何ですか。 私たちは、詩歌、絵画の 芸術を、持っています。 多くの芸術・・・ 料理の芸術- 特に、今は、です。 などですが、 私たちは、けっして自分自身に訊ねたことが、ありません。 おそらくそれは、最も偉大な芸術です。 生きることの芸術は、何ですか。 芸術が、ありますか。 または、それはすべて、偶然だけですか。 または、それはすべて、何か、遺伝子ですか - 生物学的な偶然など、ですか。 生きることの真の芸術とは、何ですか。 私がそれに答えるのを、待っておられますか。 もし答えるとして、それを、問題にしないでください。 すると、芸術は、窓から放り出されてしまいます。
23:48 で、ともに、それを見つめて、 生きることの芸術が、何であるかを、見出しましょう。 (アートという)その言葉の最も広い、深みでの芸術です - 美術館の内容すべてだけではない。 もし、あなたが、その質問、「生きることの芸術とは何か」を、したなら、 あなたの答えは、何になるでしょうか。 計算された答え、個人的な答えや、 情動的、ロマンチックな答えではない。 それらは、無意味です。 ですね? 私がその問いに、情動的に答えるなら - ああ、それは一番・・・ 生きることの芸術は、最高の切望である、と。 それは、全くの戯言です。 生きることの芸術は、最も昂揚した、知的な活動である、と。 ですね? それは、ごく部分的です。 または、生きることの芸術は、生に対して全包括的な見通しを、持つことである。 秀逸に聞こえますが、実際のところ、そうではない。 で、生きることの芸術とは、何ですか。 明白に、いかなる葛藤もない。 ですね? いつの時も葛藤の中にあり、 いつの時も問題を持っている頭脳。 このものすごい自己関心 - そういう頭脳は、必然的に、制限されているにちがいありません。ですね? 自分自身について、考えているなら - どう冥想するのか、自分はできるのかどうか・・・ その他すべてを、です。 あなたの冥想こそが、自己中心性です。 で、生きることの芸術は、見たところ - あなたはそれに、もっと多く付け加えられます - それは、葛藤なく生きることです。 それは、いったい可能ですか。 すなわち、自らの生の、対立しあう要素を、理解すること、です。 いいですか? 一つのことを欲望し、 その欲望に対立して、別のことをも、です。 そうね、この二元性の回廊です。 そして、自己中心性 - その自己中心性が、存在するかぎり、 葛藤が、あるにちがいありません。 なぜなら、自己中心性は、制限され、小さく、些細であるからです。 あなたは、これらを聞きますが、続けてゆきます。ですね? そしてあなたは、現代社会において、自己中心性なしに生きることは、 可能でないと、言います - 少なくとも、その少しは、と。 あなたは、かつて試したことが、ありますか。 あなたは、かつてそうしたことが、ありますか - 一日の間、自己中心性なしに、生きましたか。 自分自身について考えないのです。 たとえ、一時間の間だけでも、です! そして、何が起きるかを、見る。 あなたは、何にも参与していません! あなたは、自分の利己性、自己中心性へ、戻ってゆけます。 誰も、それがいかに間違っているのかとか、正しいのかとか、言おうとしていません。 それが、見たところ、人間たちの通常の状態です。 で、自らが本当に、一時間、試すなら - 実際にそうします。 試すのではなく、そうします。 そして、何が起きるのかを、見ます。 あなたは、一時間、そうするなら、それを拡大できます。 あなたは本当に悟らない・・・ それは、あなたに、ものすごいエネルギーを、与えてくれます。 それは、あなたに、大きな熱情の感覚を、与えてくれます - 欲情とそれらの事柄ではなく、何かを深遠に、 物事のまさに最後まで追求する熱情を、です。 よし。今朝は、これで十分ですか。 私たちは、戻ってきたほうが、いい。
29:36 私は、初めに、これらの質問を、読んでいません。 まだ読んでいません。私がそれらを見ているのは、これが初めてです。 で、あなたたちもまた、それらを初めて見ています。
29:51 第一の質問: 注意が、思考とは何の関わりもないのなら、 それは何ですか。 それは、頭脳の活動ですか。 それは、物理的な過程ですか。 それは、どのように生じますか。 あなたは、注意は意志の行為によりもたらされないと、仰います。 注意が存在するようにするためには、 何をしてはいけないのですか。
30:23 何もしないでください! すみません。私は、それに答えなければなりません。
30:37 注意が、思考とは何の関わりもないのなら、 それは何ですか。 それは、頭脳の活動ですか。 それは、物理的な過程ですか。 それは、どのように生じますか。 あなたは、注意は意志の行為によりもたらされないと、仰います。 注意が存在するようにするためには、 何をしてはいけないのですか。 いいですか?質問は、分かりましたか。
31:11 彼は、注意とは何かを、訊ねています。 それは、物理的な作用ですか。 それは、思考の動きですか。 それは、欲望の行為ですか - それは、意志の本質ですが。 欲望は、意志の本質です。 ですね? この注意は、どのように訪れますか。 すなわち、それは、自然に、楽に、 ものすごい努力をしないで、来ますか - 専門校へ行くとか、 何か導師へ随行する、訓練を受けるとか、なしに、 それはすべて、訪れますか - この注意が、自然に、です。 私たちは、ともに話し合おうとしています - いいですね? 私たちは、問いを見つめようとしています - 答えを、ではない。 問いは、こうです - 注意とは、何ですか。 その中には、 耳で聞こえるだけではなく、耳なしで聞こえることも、 含意されています。 理解されますか。 また、注意は、見ること、 知覚することをも、含意しています - ですね? 視覚的に見る。 また、いわば、内の眼でもって、見ることも、ですね? 注意はまた、学ぶことをも、意味しています。ですね? 同意ですか。 見る、聞こえる、学ぶ。 それら三つのことが、含意されています。 それは、こういう意味です - 学びとは、何ですか。 それは、記憶することですか。 付いてきておられますか。 誰かが、「はい」と言いますか。 私は、自分自身に、話しつづけたいとは、思いません。 で、それは、記憶することですか- 私たちが、学校、 専門校、大学へ行くとき、するように、です。 記憶する。 知識を蓄える - 書物から、教授から、教師から、 寮長から、などなど、 すなわち、いつも、知識として蓄積していて、 その知識を、上手にか、下手に使っています。 いいですか? 大工は - 見習いか、銘工は、 木材の本性を学んでいます - どんな種類の木材か、木目、 木材の美しさ、木目細やかさ、 そして、彼が使用している道具、などを、です。 彼は学んでいます。 その学びは、経験をとおして、です。 来る日も来る日も、来る月も来る月も、 大工仕事について知識を蓄積していて、 戸棚の銘品を作る人になっていきます。ですね? それが、学びと呼ばれるものです。 その種の学びは、制限されています - 明白です。 なぜなら、すべての知識は、制限されているからです - 今も、過去においても、未来においても、ですね。 なぜなら、すべての科学者、生物学者等、などは、 蓄積しているからです。 時の始まりに彼らは、弓矢か棍棒で、一人の人を殺しました。 今、あなたは、何百万、何千万の人間全部を、 一撃で、吹き飛ばせます。 そうすることは、ものすごい知識の蓄積です。 良くも悪くも、です。
36:02 それで、その知識は、いつも制限されています。ですね? では、制限されていない学びが、ありますか。 面白い。進んでください。 私は自分自身、ちょうど、何かを発見しつつあります。 蓄積的な知識の過程でない学びが、 ありますか - 学びが、です。 その中には、聞こえることが、含意されています - ただ言葉、言葉の意義だけではなく、 言葉へのあなたの反応、 一定のお気に入りの言葉へのあなたの応答。 たとえば、愛と憎しみ、そうね、その他すべてのように、です。 また、どの先入観もなく、見る。 言葉なしに見る。 理解されますか。 あなたは、言葉なしに、樹を、見つめられますか。 理解されますか。 あなたはかつて、これらをしたことが、ありますか。 それは、方向づけなく、動機なく、見る、という意味です - 思考のネットワークや、見るのを妨げることなしに、です。 そして、学び。 それは、無限の過程です。 で、注意は、そのすべてに加えて、 または、それの始まりを含意して、 気づくことなのです。 ですね? 私たちは、気づいていますか- ここに座っていながら、 このテントの規模、 ここに参集した多数の人々と、 そこに並ぶ柱の数、 そして、唯一つの言葉もなく、それらを、見つめる。 気づく。 ですが、その気づきの中で、あなたは、選択しはじめます。 私は、自分が着ているのより、あの青いシャツのほうが、好きだ。 いいですか? 私は、自分のより、あなたの髪の仕上がり具合が、好きだ、と。 いいですか? あなたは、いつも比較し、判定し、評価しています - それは、選択です。 そして、選択なく、気づくこと。 理解されますか。 私たちが話しているとき、あなたは、これらをするのでしょうか。 または、あなたは、ただ言葉を、聞いているだけですか。 私たちは、こうしているなら、あなたは、発見しはじめます - 気づきは、集中より全然、違っているのです。 集中は、思考すべての焦点を 特定の主題に、合わせることを、含意しています - 特定のページに、特定の言葉に、です。 それは、他の思考すべてを、切り捨てることを、含意しています - 他のあらゆる思考へ、抵抗を築くことを、です。 そのとき、それは、狭くなり、制限されます。ですね? で、集中は、制限されています。 ですが、あなたは、何かをしているとき、集中しなくてはいけません - 皿を洗っているとき、です。 あなたは、よく気をつけて、皿を洗わなくてはいけません - 正しい種類の石鹸、正しい種類の水。 これらは、ご存じです。 そして、選択なき気づき - それは、集中なし、という意味です - 判定、評価、非難、比較をすることなく、 これらに気づくこと、 そして、そこから、動く。 それが、注意です。ですね?それは、自然です。 すなわち、私は、あなたが語ってくれている物語を、 聞きたいと思います -すごく、わくわくするスリラーです。 私は、よく気をつけて、あなたに聞きます。 または、あなたは私に、何かきわめて真剣な、深刻なことを、語っています。 そして、私は注意を・・・私は、とても熱心で、注意深い - あなたが言っていることを、理解しようとしています。 私は、自分がそれについて、何を考えているかを、理解します - それは、不適切ですが、 私は、あなたが言っていることに、ものすごく関心を、持っています。 ゆえに、私は、まるごと注意です。 私の神経すべて、私の全存在が、言います - あなたは、何について話していますか。 私は理解したいです、と。 その注意の中、「私」は、ありません。ですね? 分かりますか。 このものすごい注意が、あるとき - それは、自分のエネルギーすべてが、注がれている、という意味です。 あなたが言っていることを、理解するように、です。 私は、自分自身について、考えていません。 ゆえに、私に中心が、ありません - 「私は注意しなければならない」と言うものが、ですね? これらをお分かりになるのかどうかと、思われます。
42:34 質問者: それは、正しい問いですか。
42:40 K: 何ですか。
42:42 質問者: それは、正しい問いですか。
42:44 K: ここで、正しい問いは、何ですかと、そのお方は、訊ねます - 私が正しく理解するなら、です。 すみません。あなたが、聴衆から質問をなさると、 私たちは、けっして、これをやり通せません。 私たちは、それをやり通さなければならない、ということではないが、 あまりに多くの人々が、いすぎます -もし、お気になさらないなら、ですが。 ここで、正しい問いは、何ですか。 正しい答えは、何ですか。 それが正しい問いであるなら、あなたはけっして、それを訊ねないでしょう! これは、利巧さだけではありません。 正しい問いは、あなたがそれを出すなら、あなたは答えを得ます。 ですが、正しい問いは出されません。 なぜなら、あなたは、答えがほしいからです。あなたは関心をもち、 あなたは、悩み、あなたは、偏見を持っています。よろしいですか。 正しい問いは、あなたがそれを出すとき、 正しい問いは、正しい答えです。 次の質問へ進んでもいいですか。
44:05 第二の質問: もし生の全体が、 自らの秩序をもった、一つの動きであるなら、 なぜ人は、こんなに無秩序なのですか。
44:16 もし、生の全体が、自らの秩序をもった、一つの動きであるなら、 なぜ人は、こんなに無秩序なのですか。
44:26 なぜ私たちは、生の全体が、 自らの秩序をもった一つの動きであることを、 想定しますか。 あなたは初めに、事実を述べます- 事実だと思われることを、です。 それから、なぜ無秩序があるのかと、言おうとします。 理解されますか。 初めに、あなたは、想定します。 自らは、想定します - すなわち、生は、広大な動きであり、 その広大な動きの中で、その動きこそが、秩序である、と。 あなたは初めに、それを述べます - もし、と。 それから、あなたは、なぜ人はこんなに無秩序なのかと、言います。 いいですか。 理解されますか。 こう訊ねるのが、正しい問いではないのでしょうか - なぜ人は、無秩序なのですか。 生は完璧な秩序であることを、想定しない。いいですか? 事実は、私たちが無秩序に生きる、ということです。 なぜですか。 それが、問いです。 なぜ私たちは、無秩序に生きますか。 無秩序とは、何ですか。 あなたにとって、無秩序は、何ですか。 無秩序は、 自体が制限された思考の活動です。 いいですか? 制限された思考の活動が何をしようとも、 それは、無秩序をもたらすでしょう。 なぜなら、思考は、自体が制限されているから、 なぜなら、思考は知識より生まれているし、 知識は、制限されているからです。いいですか? ああ、神様! これは、警句的な発言ではありません。 秩序とは・・・私は言ってはいけない。 私は速すぎました。 秩序とは、何ですか。そして、無秩序とは、何ですか。 あなたは、どのように秩序を、見つけるのでしょうか。 秩序は、明確な様式ですか - すなわち、あなたが定めたもの、思考が定めたものですか。 あなたは、「私は朝6時に、起きて、これとこれとこれをして、 事務所へ行かなければならない」と言います。または、工場へ、です。 来る日も来る日も、決定され、計画されたもの - それが、秩序ですか。 で、私たちは初めに、訊ねなければなりません - 秩序は何なのか、ではなく、 無秩序の原因は、何であるかを、です。同意しますか。
47:46 私たちの生において無秩序の原因は、何ですか。 まず第一に、私たちは、好きでも好きでなくても、認めなければなりません - すなわち、私たちは、きわめて無秩序な生を、生きることを、です。 それは、事実なのでしょう。 あなたは、少なくとも、その一つのことに、同意されるでしょうか。
48:10 質問者: いいえ。

K: いいえ? 無秩序とは、何ですか。 そのときあなたは、訊ねなくてはいけません - もしそれが、秩序の欠如であるなら、秩序とは何ですか。 こうも無秩序な精神、頭脳は、どうやって、 秩序とは何かを、見出せますか。 なぜ私たちは、少し論理的、理性的でないのですか - 理性、論理は制限されているけれども - 私たちは、それで始めて、それからそれを越えていかなければなりません。 ですが、あなたが、「秩序はこれだ」と言うなら、 それは、軍隊式になります。 ですね? それは、ものすごい規律になります。 同意しますか。 これは、すべて単純です。 よろしいです。
49:27 で、私たちは、気をつけてこれに、入らなくてはいけません。 初めに、規律とは何かを、探究しましょう。 兵士たちは、来る日も来る日も、来る月も来る月も、訓練されます。 彼らを見たことが、ないですか。 太鼓を叩く、軍曹と、それら、 命令、秩序、規律、修練、服従、 そして、修道院長へ、教皇などへの服従が、 秩序と呼ばれます。 警察官によるところの、秩序があります。 ヨーロッパ(大陸)では、右側を走行します。 この国(イギリス)では、左側を走行します。 それは、秩序です。 左側走行に慣れている人は、 あちらへ行って、それは無秩序だと、言います。 どうぞ、これらに付いてきてください。 で、無秩序の原因は、何ですか。 もし私は、それを理解でき、その原因より自由でありうるなら、 自然に、秩序があります。 私は、秩序が何であるかを、見出さなくていい。 で、私は、初めに探究しなくてはなりません - なぜ、この甚大な重要性が、規律へ、与えられているのか。 学校において、私たちの生の道全体において、です。 規律(修練)とは、何ですか。 規律(ディシプリン)という言葉は、語源の「学徒(ディサイプル)」から 来ています。学徒は、師匠より学んでいる人です。 学んでいる。いいですか? あなたは、私たちが話している意味で、学んでいるなら - 知識を蓄積しているのではない。 蓄積なく、学んでいる。 そのとき、規律・修練(ディシプリン) - 学ぶことこそが、それ自体の規律・修練です。理解されますか。 あなたがこれらを理解されるのかどうかと、思われます。
51:56 質問者: 私はまだ、あなたの用語で、学びが何であるかが、理解できません。
52:02 K: 何ですか。
52:03 質問者: 私はまだ、学びが何かであるかを、理解できません。 なぜなら、自分の思考を見守るなら - 確かに、自分の思考を見守っています。 で、私は、あなたがどう、学びを用いるのかが、よく理解できません。
52:22 K: 私はそれを、説明しようとしてきました。 私は再び、それに入らなければなりませんか。 まず第一に、私たちは、気づいていますか。または、事実が見えますか - 私たちの生涯すべて、知識を蓄積することは、とても制限されているのです。 それは、事実です。なぜなら、知識は、制限されているからです。 今も、永久の未来においても、 それは、やはり制限されています。 ゆえに、私たちが、その知識に則って行為するなら、 私たちの行為は、いつも制限されるでしょう。 ゆえに、それは、無秩序の原因の一つです。 いいですか? もし、私がいつも、以前の知識でもって、行為するなら - すなわち、私が蓄積してきたものでもって、です - そして、私は、知識が制限されていることを、知っています。 私がすることは何でも、制限されています。 どの制限も、無秩序を、生み出すにちがいありません。 すなわち、アラブ人とユダヤ人、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒、 仏教徒とカトリック- よろしいですか。 それらはすべて、制限されています。 それらはすべて、知識の分野の中で、機能しています - そこは、制限されています。 または、伝統の中で、です。 いいですね? 私たちは、これらに付いてきていますか。 で、制限された活動の、彼らの活動は、 必ず、無秩序を創り出すことになります。 もし、妻や夫や、彼女や彼氏が、 自分自身について考えていて - 自分の野心、自分の前進、自分の充足について、です - そして、相手の男や女もまた、自分の前進について、考えているなら、 彼らは、明白に葛藤の中に、います。 彼らは、愛について話すかもしれません。 彼らは、あらゆる種類のことについて、話すかもしれませんが、 各々の女と男は、自分の特定の方向、自分の野心を、 追求しています - それは、すべてきわめて自己中心的で、制限されています。 いいですか? それで、関係において、その制限が、無秩序を生み出します。 当然です。 私たちは、これに出会っていますか。
54:45 で、私たちは、発見しはじめています - 制限があるところ、無秩序が来ることを、です。 いいですか? 私が、私自身について考えていて、 あなたが、あなた自身について、考えているところ、 私たちは、麗しい関係を持っています! 私たちは、手を取り合います。 私たちは、一緒に眠ります。 私たちは、一緒に歩き、見つめますが、 私たちはどちらも、違った方向へ、行っています。 いいですか? ゆえに、それら方向は、思考により、欲望により、設計されています。 今、ここで、欲望に入る時間が、ありますか。 いえ、それは、あまりに錯綜しています。 私たちは別の時に、そうするでしょう。
55:37 で、私たちは、学びはじめ、見はじめ、洞察を得はじめます - 私たちは、「洞察」という言葉を、使っています。 それは、 何かを、時なく、動機なく、観察することです。 洞察を持つことは、憶えていること、計算することなどではありません。 それは、無秩序の中へ即座の洞察を、持つことです - すなわち、究極的に、どの制限された行為の中へも、です。 私たちは、これについて、少しは一緒になりつつありますか。 破片ですか。 それが破片であるなら、それを保ち、それとともに動いてください。 そのとき、あなたは分かるでしょう - そのことが、この自己中心的な生活過程を、壊しはじめることが、です。
56:59 私が質問をしてもいいですか。 あなたは、ここの私たちのみんなが、ですが、 私たちは、語り手が注いでいるのと等しいエネルギーを、注いでいますか。 または、あなたはただ、座って、聞いているだけですか - 航空機の音を聞いている。 そして、あなた自身の思考が進んでいるのを、聞いている。 理解されますか。 または、あなたは、熱情的であり、見出したいのです。
57:39 第3の質問: 私たちが聞くのは、どうすれば、 あなたが言っていることの深さに、相応しいのですか。 あなたが言っていることの充実を、 私たちの中に作用させるであろう 精神の質とは、何ですか。
57:56 残念ながら、それは間違った問いであると、思いますが、 私は、それを読みましょう。
58:01 第3の質問:私たちが聞くのは、どうすれば、 あなたが言っていることの深さに、相応しいのですか。 あなたが言っていることの充実を、 私たちの中に作用させるであろう 精神の質とは、何ですか。
58:29 語り手は、何かを言っていますが、 あなたはそれを・・・あなた自身は、発見したことが、ありません。 彼は、自分が発見したことについて、話していません - それは、全面的に不適当です。 ですが、言葉、 電話が言っていること、 言葉、言葉の内容 - それらを、あなたは聞いています。 聞くことは、あなた自身の思考、あなた自身の感情、 あなた自身の反応を、見守ることです。ですね? 語り手は単に、鏡として作用しているだけです - その中に、あなたは・・・ 聞くことにより、あなたは、自分自身を発見しています。 私が言っていることを、理解されますか。 語り手は、人物として - 彼がたびたび、反復してきたように - いかなる重要性をも、持っていません。 彼は本気で、こう言っています。 彼が言っていることは、何か無縁のこと、 あなたが理解すべきこと、あなたに作用すべきことではありません。 そのとき、そうであるなら - すなわち、何か無縁のことであり、 あなたに作用しなければならないことなら - あなたは、薬物を摂ってもいいのかもしれません。 ですが、あなたが、彼が言っていることを、聞いていて、 「彼が言っていることへ、私は何を感じるのか。 彼が言っていることへ、私の反応は何なのか」と、言っているなら、 彼が言っていることと、あなた自身の間に、疎通があります。 ですね? あなたが単に、彼が言っていることを、聞いているとき、 意思疎通は、止まってしまいます。 ですが、彼が言っていることと、 言われていることへのあなたの関係と、 言われていることへの、あなたの反応、 そして、彼の微妙さや愚かさや智恵への、あなたの反応を、 発見する。 そのとき、あなたは、一緒に動いています。 そのとき、それは、あなたのです。 彼のではありません。 理解されるのかどうかと、思われます。
1:01:15 質問者: いいえ、あなたは・・・
1:01:16 K: どうぞ、マダム。 私は理解します。 私が言っていることに、少し時間を掛けてください。 即時に・・・私が大変礼儀正しくお願いできるなら、 即時に、お答えにならないで、 彼が何を言っているかを、見てください。
1:01:34 まず第一に、彼は、 自分はあなたの導師ではない、と言います - 絶対的に、そうです。 それは、彼にとって、忌むべきことです。 そして、あなたは、彼に従う人ではありません。ですね? あなたは、彼が話していることを、生きなくていい。 彼が言っていることは、 あなた自身の深い未発見の生は、何ですか、ということです。 それで、すべてです。 いいですか? 彼は、彼自身ではなく、あなたについて、話しています。 彼は、あなたの生について、話しています - あなたの日常的で、 単調で、退屈で、くたびれる、恐ろしい、悲しい、さびしい生、 - 暴力、言い抜け、不正直、 誠実さの欠如について、です。 (統合された)誠実さが、あるところ、強さが、あります。 ですが、それは、別の事柄です。 そのとき、あなたは、自分一人で立てます。 そのとき、何もあなたに影響しません。 そのとき、あなたは、誰にも感化されません。 なぜなら、そのときあなたは、何が真実であるかを、自分自身で 発見しつつあるからです。 何かによって・・・ あなたによってとか、他の誰かによっての、真理ではない。 真理です。それは、彼のとか、あなたのとかではない。 それは、何か全然、頭脳の活動の外側のものです。 私は、当面、それに入らないでしょう。
1:03:44 で、私たちはともに、真理が何であるのかを、見出そうとしています。 私たちはともに、見出そうとしています- 生きることの芸術が、何であるのか、 聞く道は何であるのか、学ぶ道は、見る道は、何であるのかを、です。 あなたは見るなら、それは、あなたのです。 そのとき、あなたに、導師は要りません。 指導者、書物は、要りません。 理解されますか。 私たちは、他の人々の知識に則って、生きています。 私たちは、自分自身へ、自分の存在へ、洞察を、持ちません いいですか? 私は、次の問いへ、進んでいいですか。
1:04:34 第4の質問: 世の中には、 善と悪といったものが、ありますか・・・ すみません。私はもう一度、読まなければなりません。
1:04:52 世の中には、善と悪といったものが、ありますか。 または、これらは、人間的な概念、価値、投影物ですか。
1:05:04 世の中には、善と悪といったものが、ありますか。 または、これらは、人間的な概念、価値と 仮説と投影物ですか。
1:05:22 善とは何ですか。 そして、いわゆる不善とは、何ですか。 私たちが、「邪悪」という言葉を、使うなら、 それは、その言葉の裏に、こんなに含蓄を、秘めています。 「邪悪」という言葉は、当分の間、忘れましょう。 善と悪。 悪玉と善玉 - 映画によって、です。 善とは何ですか。 さて、どうぞ、それを一分間、見つめてみてください。 語り手は、その質問をしています - 善とは何ですか。 あなたは、どのようにその言葉を、聞きますか。 あなたは、どのようにその言葉を、受け取りますか。 誰がそれを言うかは、大事ではない。 あなたはどのように、それを聞き、 それを受け取りますか。その言葉のあなたの味わいは、何ですか。 その言葉への、あなたの感情、本能的な感情は、何ですか。 本能 - 私は一般的にそういうつもりでなく、その言葉への、あなたの即時の感情、です。 あなたが、「悪」と言うとき、 それへの、あなたの応答は、何ですか。反感ですか。 何か悪いことが、されつつあるのを、見るのですか。 で、これら二つの言葉への反応を、自分自身で発見する。 哲学者が何を言うのか、ではない。 他の人々が、 司教、司祭者、教皇が何を言うのか、ではない - 私は単に、ローマ教皇だけを、言っていません。 世界中の、色々な宗教組織の教主も、 彼らの頭、彼らの尻尾とともに、その他すべてとともに、です 自らが、これら二つの言葉を、聞くとき - それらは、人類に、ものすごい効果を、持ってきました。 歴史的に、まさに始まりから、です。 キリスト教徒たちは、「これが善い。 あなたは、それに逆らうのなら、 私たちは、あなたを焼き殺そう」と言ってきました。 彼らは、そうしてきました。 異端者たちを、です。 彼らを、拷問してきました。 彼らを、焼き殺してきました。 彼らがしてきたことのために、です。 それは、善いと考えられています。 そして、インドへ行くと、 自分の信念のために、焼き殺されることは、恐怖だと考えられます。 理解されますか。 で、何が善ですか。 これらは別として、何が善で、何が悪ですか。
1:08:40 さて、私は進みましょう。 いいですか。 善は、悪に関係していますか。 善は、悪と抗争していますか。 小説は、それについて、書かれています。 善はいつも、最後に勝利します! スリラーの中でさえも、です! 悪は、いつも、破壊されつつありますが、 悪は、いつも、出てきつつあります。 闘いは、進んできています。 それは、フランス南部のラスコーと他の洞窟に、見られます。 そして、世界の他の地方に、です。 この闘い - いいですか?善と悪。 邪悪な者 - 私は、その「邪悪」という言葉が、好きではありません。 それは、嫌な匂いがします! 私がその言葉を使うなら、許してください。 すみません! で、何が善ですか。 何が悪ですか。 それらは、互いに関係し合っていますか。 善は、悪いものの中から、生まれていますか。 なぜなら、私は、悪いものを、知っているからです - 伝統、条件づけ、 人々が言ったり、書いたりしてきたこと、 その邪悪、その悪、その悪いものは、 善いものと、闘っています。 善いものは、悪いものと闘っています。ですね? で、私は、訊ねています - 善いものは、悪いものの中から、生まれていますか。 質問を理解されますか。 それは、単純な問いです。 善が、悪いものの中から、生まれているなら、それは善くない。 いいですか? そのとき、それらは、互いに関係し合っています。 ゆえに、それは善くない。 付いてきていますか。 で、それらは、二つの全然違ったことです。 一方は、他方になりえません。 それが、他方になりうるなら、 それはすでに、他方により認識されています。 これらを理解されますか。 ゆえに、それは善くない。 善は、悪いものより、全然、離別した何かです。ですね? ですが、私たちは、その二つを混ぜ合わせてきました。 私たちは、「自分たちは闘わなければならない」と、言います - 「互いに闘わなければならない。 あなたは、邪悪、悪に抵抗し、闘い、片付けなければならない。 善くあるために」と。 理解されますか。 で、善は、いつも、悪いものということに立って、です。 私たちは、何か全然違ったことを、言っています。 善は、悪いものと、いかなる関係をも、持ちません。 善が存在するには、悪いものは、止まなければなりません。 それがすべてです。 二つの間の闘いではない。 これは単純に、論理、健全さです。
1:12:51 さて、きわめて内側に入って来ると、 私たちには、これら二つの対立し合う要素が、あります - この二元性、です。 ほしがる、切望する二元性。 私はそれが好きではない・・・すみません。 「切望」は、間違った言葉です。 切望は、何かロマンチックで、理想主義的で、かなり愚かなことです。 私がその言葉を使っても、許してください。 私たちはみんな、何かを切望しています。 あなたは、経営者になりたいと、切望しています - 良い会社とか、何のでも、です。 あなたはまた、神を切望しています。 それは、同じことです。 理解されますか。 神は、別の形の良い会社です! 私は、冒涜的になっていません。 これはすべて、明白です。 で、悪いものがあるところ、善は、存在できません。 悪いものより、あなたはとうてい、善いものへ、行けません。 それは、これからあれへの動きではありません。 それは、時の過程ではありません - 悪いものから、 善いものを達成するように、です。ですね?
1:14:32 さて、そこから、問いが生じます- 何が、悪いのですか。 理解されますか。 悪いものが、ないときだけ、私は、何が善いかを、知るでしょう。 で、善いものを、片付けましょう。 「それが何であるかを、秘密裏に言ってくれ」とか 「大っぴらに言ってくれ。 それなら、私はそれに従おう」とか 言わないで、 悪いものを、理解しましょう。 民族主義的であることは、悪いですか。 さあ、みなさん。答えてください。 私は、フランス人である、と言う。 私はイギリス人である、とか、 私はヒンドゥー教徒であるとか、シーク教徒であるとか、 イスラム教徒である、と。 そうね、それは、悪いですか。

聴衆: 或る人たちにとっては、そうでないかもしれませんが、
1:15:38 私たちにとっては、そうです。

K: もちろん、他の人々にとって、です。
1:15:41 私たちは、私たちのみんなを含めています。 私にとって、それは悪い。 あなたにとって、それは悪くない、と 私は言っていません。 それは、むしろ・・・ 私たちは、訊ねています。 何が悪いのですか - 私によって、とか他の誰かによって、ではない。 分割があるかぎり - いいですか? 人種的な分割、階級の分割、宗教的な分割。ですね? 政治的、経済的など、分割です。 それら分割は、葛藤を創り出します- 究極的には、戦争を、です。 互いに殺し合う。理解されますか。 それは、悪くないですか。 いいえ?

聴衆: ええ、ええ。
1:16:35 K: ああ、よかった。 うれしいです。 けれども、宗教は、それを支持してきました。 あなたは、それを支持します。 理解されますか。 でも、そうね、その他すべてです。 私たちは、初めに、それらより自由でありえますか。 どの国にも、所属しない。 どの集団にも、 どの導師にも、どの宗教組織にも、です。 なぜなら、それらは、すべて分割的であるからです。 それは、別の問いを、もたらします - 権威、です。 政治的な権威、宗教的な権威、 全体主義の権威。理解されますか。 権威は、邪悪ですか。 賢者の手にある権威は、善い、ということではない。 理解されますか。 私たちは、そう言ってきました - 賢者の権威は、愚者の救済である、と!
1:18:05 で、警察官の権威、法律の権威。 あなたは、税金を払わなくてはいけません - 私自身で、ではないが、あなたは、税金を払わなくてはいけません。 あなたは、それを払わないなら、何らかの形で、処罰されます。 で、外的に、権威があります。 ですね? 道路の左側を走ることの権威、 フランスとヨーロッパでは、右側を走ることの権威。 学校には、専門校には、権威が、なければなりません。 さもないと、あなたは・・・よろしいですか。 ですが、私たちは、権威について、話しています - 権威の感情、 権威の力。 人々を殺戮するための、です。 で、権威、 霊的な権威は、 その言葉の、最も深い意味において、 悪い。邪悪です。
1:19:31 で、そのとき、問いは、悪いもの、です。 私たちは言いました - 悪いものは、どの種でも分割である、と。 誤解しないでください。 宗教的な分割 - いいですか? 「私たちは、閉ざされている。 あなたは、ここに入ってこられない」と言う分割 - 心理的に、ですが - あなたが入ってきたいなら、扉は開いています。 理解されますか。それは、閉ざされていません。 で、これらに入ってください。 それはすべて、 どの形でも、心理的な、個人主義的な分割に、なってきます - アラブ人、ユダヤ人、イスラム教徒、などです。 どの心理的な、組織的な分割も、 その言葉のその意味において、 それは、悪いのです。 ですね? 自らは、それらより自由でありえますか。 「はい、同意します。お話の論点は分かります」と言うだけではない。 「でも、それは結構ですが、私たちは、自分たちの戦争を、 つづけるでしょう。 それは、すてきです。 私たちは、暴力的な人々です。 それは、私たちの暴力の表現の一部です。 暴力の、究極的な表現です - 一撃で百万人を殺すことは」と。 または、私たちは、自分自身の中のそれらを、終わらせますか。 初めに、私たち自身の中で、です。 組織的に、ではありません。 あなたは、語り手が考え出したあの物語を、ご存じですか。 二人の人が、歩いていきました。 そうね、あなたたちの幾人かは、これを聞きましたか。 聞いたのなら、許してください。 それで退屈しないでください。 二人の人が、通りを歩いていきました。 生の様々なことについて、話していました。 彼らの一人が、舗道の上に何かを、見ます。 それを拾い上げます。 彼は、それを見つめた瞬間、顔全体が、変化します。 彼の中で、何かものすごいことが、起きたのです。 彼はよく気をつけて、自分のポケットにそれを入れます。内ポケットに、です。 友は、彼に言います - 「あなたが拾い上げたのは、何ですか。 なぜあなたは、そんなにとてつもなく・・・ あなたの顔は、変化しましたよ」と。 彼は、「私は、真理を拾い上げました」と、言いました。 彼の連れ、友だちは、こう言います - 「なんともはや。本当にそうなんですか。 あなたの見た目で、それが分かります。 で、私たちは、それについて何をしましょうか」と。 友は言います - 「行って、それを組織しましょう」と。 これは、古い物語です - 語り手が、およそ40年、50年前に、考案したものです。
1:22:52 で、私たちは、私たちの一人一人は、 戦争から自由になるよう、私たちを助けるだろう組織に、加わるのではなく - それは、別の形の組織です。 よろしいですか。 私たちは、初めに自分自身で、始めません。 私たちは、私たちの一人一人は、 自分自身の中の、この分割を、終わらされますか。 そのとき、あなたは、組織を使えます - 理解できますか。 ですが、内を変化させるために、組織を使うなら、 あなたは、けっして成功しないでしょう。
1:23:32 で、私たちは、私たちの一人一人は、 私たちを他の一人より分割する、どの物事をも、終わらされますか。 もちろん、あなたは、自分の住宅、自分の庭を、持たなければなりません - 自分の・・・よろしいですか。 心理的に、内的に、主観的に、ではありません。 そのときあなたは、善いことを探求しなくていい。 そのとき、善いことは、繁栄します。 そのとき、善は、花開きます。 それの美しさは、終わりがない。 それは、けっして、何によっても、破壊できません。
1:24:21 聴衆: 動物の王国では・・・
1:24:25 K: すみません。私は今、止めなくてはいけません。
1:24:29 聴衆: 動物の王国では、虎が山羊を食べます。 山羊は、虎を悪玉と見做しませんか。
1:24:39 K: もちろん、見做しません。 虎は、美しい鹿を、殺します。 虎もまた、とても美しい。 あなたは、虎に、すごく近づいたことがありますか - あなたたちの誰かは? いいえ。もちろん、ありません。 あなたは、彼らを動物園で、見てきました。 私は、とても近くに行ったことが、あります。 彼らより10フィート(3メートル)ほど、です。構いません。 私は、行って、彼らに会うよう、あなたを招待していません。 虎は、鹿を食べます。 大きなものが、小さなものを、食べます。 大きなものを、より大きなものが、食べます。 よろしいですか。 上へ、上へ、です。 それは、邪悪ですか。 虎が鹿を殺すのは? もちろん、そうではない。 よろしいですか。 それが、自然です。 なぜ私たちは、虎は残酷であると、言いますか。 猫は、鼠を玩んでいる。 理解されますか。 あなたは、それを知ったことが、ないですか。あれは、なかなか醜いですね。 私たちの文明全体は、こんなに奇怪ですね。 で、私たちは、自分自身でもって始めなければなりません - 虎、象と、鼠と蛇、ではなくて、です。 残念ながら、私たちはみんな、こうすると、思います。 私たちは、自分自身より逃避したいのです。 私たち自身が、最も重要なことです。 そして、この覆いに、この外観、 外的な見せかけ、外的なことに、透徹する。 深く内的に入る - その旅は、終わりがありません。 それは、こうも、とてつもない美しさを、持っています。
1:26:50 私たちは、今、止めましょう。 私たちは、別の時に、それに入るでしょう。