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BR84Q2 - 第2回質疑応答会合
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年8月30日



1:54 残念ながら、お天気は、崩れようとしています。
2:06 私たちは、質問、疑問を探究しはじめる前に、 平和とは何かと、智恵へのその関係について、ともに話し合うべきです。 私が話をしても、構いませんか。
2:38 崩壊しつつある世界の中で - 戦争と民族主義と派閥主義、 理想主義、観念論と、あらゆる形の分割でもって、 意見に対する意見、データに対するデータ、 判定に対する判定でもって、などです。 私たちは、初めに世界に平和を、持てますか。 または、私たちは、平和に生きられますか。
3:25 ともに生きるとは、どういう意味ですか - 男、女など、 または、集団の人々。 どの信念や派閥や信条などにも、 参与していなくて、ですが、私たちはともに、平和に生きられますか。 見たところ、これは、世界で最も困難なことの一つです。 ここでもまた、大変多くの騒動が、進みつつあります - イングランドには、 ストライキに次ぐストライキと、人間たちの苦労すべて。 そして、平和への探求の中で、自らは修道院、僧院へ行ってしまいます。 頭を剃り、或る種の衣を着て、誓いを立てます。 これは、世代に次ぐ世代の間、試されてきました。インドにおいても、 西洋においても、極東においても、人々の集団が参与して、 平和に生きようとし、自分の意見すべてを、従属させようとし、 一定の様式の理想主義、観念論、一定の教義、 僧院生活の道などに、順応して、です。 先日、かなり、とてつもない事実、ことを、聞きました。 とても上手い物書きの人が、いました - 文筆家で・・・ 彼は全く上手くやっていました - 新聞、雑誌と、その他すべてです・・・ 彼は、或る日、そのすべてをあきらめて、或る種の静養、アシュラムに、 行ってしまい・・・導師が自分のまわりに、集めます。 そこで彼は何をしていると、お考えですか。 古い木材から、古い釘を引き抜いています。彼は、完璧に幸せです。 これらを理解されますか。 自分は平和に生きている、と彼は言います。 それは平和ですか。 世の中を、完全に忘れてしまう - 世の中で起きつつあることを、です。 どの種の責任をも忘れ、他の一人とのどの種の関係をも、片付けて、 コミューンの中、共同体の中へ消えてしまう。 または、僧院に入ってしまう - そこは、高度に組織されています。 僧院長がいて、彼には全く服従するなどしなければなりません。
7:15 世の中に、自分自身の中に、どうすれば、平和は見つかりますか。 自らがこの質問を、自分自身にしたことが、きっとあると、私は思います。 他の人たちとの関係において、完全に平和に生きる。自分自身を孤立させない - それは、相当に単純ですし、またそれは、自体の危険をも、持っています。 危険は、あなたがますます自己中心的になる、とか、 何か象徴や人物像へ、または、教義上の概念へ参与して、 自分の全エネルギーを、それに献上することです。 それを自分自身に秘めておき、庭園やブドウ園で働く。 シャンパンと、フランスの良いワインは修道士たちにより、生産されました。 修道士たちはまた、闘い、人々を殺しました。 これは、幾世紀もの間、進んできました。 そして、自らは、本当に奇怪に破壊的で分割的な世の中に、 生きています - あらゆる形の残忍さ、などです。 どこに、平和を見つけますか。 集団の人々は、一緒に平和に生きられますか。 彼らが、教師、教育者であっても、男や女などであっても、です。 自らは、平和を探しますか。 または、平和を、もたらしますか。 理解されますか。 平和は、外的にありますか - いわば、肌の外側に、です。 または、自らは、本当に平和がほしいのですか。 欲望、意志、思考により平和であると構想された物事すべてを、 脇に置くなら - 平和をほしがり、何かの形の規制に参与しての、です。 それが、いわゆる霊的であっても、その他であっても、です。 たくさんの人々が、軍隊へ消えてゆきました。なぜなら、彼らは、 そこで、何の責任もないからです。 政府が、あなたの世話をしてくれます。 僧院のように、ですが、あなたは、働き、行進し、進んで殺すなど、です。
11:04 で、自分自身の中に、平和をもたらせますか。 そして、この世界に生き、世界がますますどうなろうとしているかを、知って - 科学的にも、いわゆる民族的、国家的にも、です - 自らは、平和に生きられますか。または、平和をもたせるか、創り出せますか。 質問を理解されますか。 私たちは、二、三分間、あれを待てますか。(航空機の音) 平和の中に生きることは、分割性の行為がないことを、含意しています。ですね? 分離の行為がない。「私が先、あなたは次」の感覚が、ない・・・ 列においても(笑)、家においても、です。 それはそもそも、可能ですか- 自分自身で、だけではなく、 人々の集団と生きていて、です。 語り手は、きわめて多くの年、60年以上の間・・・ 語り手は、60年以上の間、人々の集団とともに、生きてきました - インドで、アメリカで、ここで、世界中で、というか、世界の各地で、です。 そこには、いつも諍い、いつも不和が、あります - 意見対意見、です。 なぜ私はこのように考えるべきでないのか。 あなたは、あなたなりに考える、などと。 この過程は、進んできました - 今だけではない。ああ、おそらく、いつもです。 そして、平和を創り出すことは、いったい可能なのかどうかと、思われます。 「創り出す」という言葉を、その言葉の普通の意味で、用いています。 「創造」ではない。 それは、別の事柄です。 自らは、人々の集団の中で、平和を創り出せますか - あなたの家に、おそらく、家族の中で、あなたたち四人か、あなたたち二人が、です。 私たちは、平和をもたらせますか。 または、それは不可能ですか。 質問を理解されますか。 自らは本当に、平和の中で生きたいと思いますか。 そう思うなら、あなたはそのために、どれほどを支払いますか - 硬貨で、ではない。 紙幣などで、ではない。あなたは、何を進んで・・・願望したり、言っていますか。 私たちは、平和の中に生きなければならないし、自らが本当に花開けるのは、 平和の中だけであるので、あなたは、何をするのでしょうか。 あなたは、何を片付けるでしょうか。 どんな身振りを、するでしょうか。 理解されますか。 表面的に言うことは、とても簡単です - 「はい、私は進んで平和に生きようとしています。 私は、あなたのひどく小さな共同体や、あなたのコミューンに加わりましょう」 とか、「私は導師に従おう。あの共同体へ行って、生活しよう」と。 それは、とても安易で、かなり弛んでいます。 その言葉を許してください。 残りの世の中へ、起きつつあることに、かなり無頓着です。 それは、一つの形の排他性です - 自らは、エリートに反対しているわけではないが、 生への排他的な見つめ方です。 理解されますか。
17:22 さて、私たちは進んで、自分の特定の意見、特定の判断を、あきらめよう、 片付けようとしていますか。 異議、議論を持ってはならない、 自分が思うことを述べてはならない、ということではない。 そして、自分が考えることが、正確でないと分かるなら、 譲ります。変化します。 それらは、可能ですか。 または、私たちはみんな、頑固であり- 質問を理解されますか - 私たちは、どの境遇のもとでも、 けっして譲らないのですか - 無理強いされないなら、です。 で、私たちは、或る点に来ます - 自らが本当に平和を、自分自身に、 自分の家族に、自分の集団の人々に、ほしいのかどうか、です。 大いに敏感であること - 自分の特定の欲望に、だけではない。 それは、相当に単純です。 自分の自己中心的なイメージに、 だけではなく、自然に対し、他の人々の観念に、 他の人々の見方に、彼らの困難に対して、敏感である。 ともに生きることの過程全体、です。 それは、ものすごい、譲る、見守る、 観察する感覚を、必要とします。 大いに・・・解釈的ではなく、 他者が何であるかを、見る 。 彼は残忍かもしれない、 彼は鈍感かもしれないが、敏感であるよう、彼を助ける。 そうでないよう、彼を助ける・・・よろしいですか。 それは、常なる動きの感覚です - どの時にも、立場を持たないのです。 それは、いったい可能ですか。 家族において、集団の人々において、だけではない - 学校のように、です。 私たちはここに、学校のすぐ近くにいますが、 私たちはそこでも、たくさん紛糾を、抱えています。 で、これは、大きな問題です - ここ、ブロックウッドの学校に、 責任がある私たち、だけではなく、また、私たち自身にも、責任をもつ。 私たちの環境と、私たちの生き方にも、です。 なぜなら、平和は、大変多くの智恵を、必要とするからです。 ただ、「私は平和に生きなければならない。私は、葛藤がある所を、 去らなければならない」と言って、他のどこかへ行くだけではない - どこか内的に・・・葛藤がない所を見つけたいと、望んで、です。 自らが完全に鈍くなるのでなければ、そういう所は、存在しません - 完全に鈍感になり、起きつつあることは、知ったこっちゃない、 などでなければ、です。すみません。 気にされますか。(笑)
21:34 で、また、智恵とは何であるかをも、探究しなくてはいけません。 なぜなら、平和は、ものすごい智恵を、必要とするからです。 それは、マーケットで、または書物で買えるものではありません - または、 何か詠唱や何か言葉を反復したり、平和を祈ったりすることでも、です。何とまあ! 人類は、日々の始まりから、平和を祈ってきました。 世界には、または、自分自身には、何も平和が、なかったのです。 揺るぎない平和の性質を、持つには- その中に動揺の影をも、 持たないものを、です - 大きな智恵が、必要とされます。 で、私たちは、自分自身に訊ねなければなりません - その智恵は、何ですか。 その智恵は、書物から生まれますか。 その智恵は、錯綜した微妙な思考から出てきたものですか。 または、それは、理想の投影と、その様式への順応ですか。 制限をともった思考は、智恵の一定の性質を、持っています。 さもないと、私たちは、ここに座っていられないでしょう。 あなたは、旅行するには、月へ行くには、智恵が必要です - 月へ行くには、何千の人々が、いなければなりませんでした・・・ そこへ昇っていくロケットを、製造するために、一緒に協働して、です。 それは、一つの形の智恵です。 科学者が作業をし、外科医が手術をすることは、 大きな技能を、必要とします。 何らかの形の智恵を、必要とします。 で、それらは、知識より、生まれますか。 経験より、生まれますか - 高度な訓練をともなって蓄積された技能・・・ すべて、思考の結果と産物と動きですか。 思考は、制限されているので - 私たちが先日、それについて話したように、です - 思考は、平和をもたらせますか。 それは、自らの制限された智恵を、持っています。 いいですか? または、智恵は、思考の活動とは、いかなる関わりをも、持っていませんか。 これらに、付いてきておられますか。 言語的に、だけではなく、それの論理を、道理を見る。 制限をともなった思考は、最もとてつもない物事を、創り出してきました - 現代世界において、です。 急速な通信、あなたが戦艦や潜水艦に、 乗ったことがあるのかどうか、知りませんが、その複雑さ・・・ それらのものを築くために注がれた、とてつもないエネルギー。 そして、発電機、モーターなど。 無量のエネルギー、大変多くの思考、知識が、これらに注がれてきました。 ゆえに、制限された智恵のあの性質が、あります。 なぜなら、それは本質的に、思考や知識に、基づいているからです。 制限されていない智恵は、ありますか。 自らが平和をほしいなら、これらの質問を、しなければなりません。 これらの本質的な質問を、しなければなりません - 平和だけではなく、大きな深みをもち、大きな美しさをもった生き方を、です。 これをもたらしうるのは、その智恵の性質だけです。
27:28 すなわち、愛なしに、平和が、ありえますか。 質問を理解されますか。 慈悲の感覚なしに、平和が、ありえますか。 自らが、一定の派閥、宗教、集団などに、所属しているなら、 慈悲が、ありえますか。 質問を理解されますか。 私が、自分の特定の条件づけに、執着しているなら - ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒や仏教徒として、です - 私は、慈悲について本質的だと話す書物を、読めます。 書物の設え(しつらえ)には、終わりが、ありません。ですね? 私たちはみんな、一緒にいますか。 または、私は自分自身に・・・ で、私はどこに、これを見つけますか- どこに、この智恵は、見つかりますか。 または、それに出くわしますか。 その智恵は、とうてい養成できません。 制限された智恵は、養成できます- 科学、生物学、数学、芸術 などの世界において、です。それは、気をつけて、養成できます - 来る日も来る日も、あなたが、あのとてつもない技能を、持つまで、です。 ですが、慈悲は、そのとてつもない智恵とともに、それは、養成可能ですか。
29:41 そのとき、そうでないので、 あなたは、来る日も来る日も、愛を養成できません。ですね? で、あなたは、何をするのでしょうか。 あなたが、平和に、深く生きたいと思うなら- 互いの間に、 唯一つの葛藤の影もなく、です - 私たちは、何をするのでしょうか。 または、しないのでしょうか。
30:30 自らは、欲望、意志と愛の問いに、本当にきわめて深く、入らなくてはいけません。 私たちは、三十分間、話してきました。 私は、問いに答えていません。 で、おそらく私たちは、土曜日と日曜日に、これをできるでしょう。 なぜなら、私たちは、話すべきことをたくさん持っているからです。 その智恵と愛だけではなく、痛みと悲しみと死と冥想、宗教と、 それらの、私たちが話さなくてはいけない問題全体も、です。 で、語り手は、質問を取り上げたほうが、いいでしょう!
31:29 第一の質問: あなたは、火曜日に、善について、語りましたが、 私はまだ、あまりはっきりしていません- 善や悪の性質が、外側に・・・ 外側の機関や、世界に存在している力なのか、 私たち自身の思考の投影だけなのかについて、です。
32:00 あなたは、火曜日に善について、語りましたが、 私はまだ、あまりはっきりしていません - 善や悪の性質が、 外側の機関や、世界に存在している力なのか、 私たち自身の思考の投影だけなのかについて、です。
32:30 いいですか?問いは、明らかですか。 質問者は、私たちが理解するところでは、知りたいと思います - 善と悪は、何か外側のものであり、私たち自身と、何の関わりもないのか。 自分自身を脇に置いて、この善は、いわば空気中に、存在するのか。 悪は、外側にあるのか。それは、全的に私たち人間より、独立しているのか。 それを理解できますか。これが、質問者が訊ねていることです - 私たちがそれを、正しく理解するなら、です。
33:25 ずっと戦争が、あったのです - 戦争について話して、すみません。 何千年に何千年の間、戦争が、あったのです。 百万人ずつ、人間を殺すことが、あったのです。 その殺しは、無量の悲しみを、創り出してきました。 その悲しみは、外側に、私たちより分離して、ありますか。 私たちは、自分の悲しみ、自分の痛み、自分の心配、 自分の善と悪の感覚を、持っています。 または、あなたが、「邪悪」という言葉を、使いたいなら、です。 それを別として、邪悪と善は、存在しますか。 存在する - 理解されますか。 あなたは、何とお考えですか。 質問者が訊ねるようにそれは、私たちの投影、 私たちの先入観、私たちの善と悪の感覚ですか。 または、邪悪が、ありますか - 人間の尽力、人間の存在よりすっかり分離した何かが、ですか。
35:11 これは、とても深刻な問いです。それは軽々しい問いだけではありません。
35:23 人々は、長年の間、善について、話してきました。 アリストテレスは、それについて、話をしたと、思います。プラトンと・・・ アリストテレス、プラトンの前、古代ヒンドゥー教徒が、いました。 彼らの前には、他の誰かがいて、 それについて話をし、探究していました。 私たちが今、しているのと、同じことです。 人が創り出してきた邪悪、人が追求してきた善、 理想と順応と、何か私たちの外側に存在するもの、です。 世界には、テロリストのような、帝国主義者のような人々が、います - 世界の偉大な征服者。 チンギス・ハーンから、ナポレオン、 ヒトラー・・・その他のすべてを、ご存じですね。 彼らは権力がほしかった。ヨーロッパを統合したいと望んで、力を、です。 教会、カトリック教会は、全ヨーロッパを統合したいと望んできました - 教義により、儀式により、信念により、 拷問と、その他すべて、戦争によって、です。 そして、それらは、あの感じは、まだ存在しています。ですね? または、あなたは、それに反論しますか。 そして、善を追求する人々が、大変多く、いたのです。 人々は、彼らを知らなかった。 彼らは、有名人ではなかった。 彼らは、「私は、善い生活をしよう」と言う人々でした。 現代世界での、良い食事と良い飲み物と、その他すべてがついた、 良い生活ではなくて、きびしさの善い生です。 ただ腰布や、一枚の衣をまとうだけではない。 きびしさは、何か全然違ったことです。 彼らは、それと、その善の建設を、追求してきました。 それらの人々は、死んで、去ってしまいましたが、存在するにちがいありません。 あなたは、家に入るとき、見つけたことが、ないですか - 見知らぬ家に、ですが、その雰囲気を、です。ないですか。 家の中で、けんかが、あったことが、感じられます - その家の中で、暴力があった、永続的な抗争が、あったのだ、と。 それが感じられます。 で、それは、外側です。 いいですか? あなたは、それに反論しますか。 で、善があるし、邪悪とか悪と呼ばれるものが、世の中に存在しています。 それへの私たち自身の寄与を別として、です。 自らは、それらに大いに敏感になりえて、 私たち自身の葛藤、分割を、終わりにできますか - 意見へ取りすがり、「私の意見は事実だ」と言うこと、そうね、通常の過程 - 何かへ取りすがり、そのために闘うことのそれを、です。
39:58 このすべては、よく気をつけた観察を、必要とします - 自分自身の知覚、自分自身の活動、振るまいへの知覚を、です。 自らは、善に寄与するのか、あるいは、いわゆる悪いことに、です。
40:34 これは、かなり際どい問いです骨の間近です!
40:41 第二の質問: ここや余所での、あなたの学校は、 学生たちに、全的な人間の問題、人生の無量性と、 その可能性への理解を、与えますか。
41:06 ここや余所での、あなたの学校は- 傍線つきです - (笑) 学生たちに、全的な人間の問題、 人生の無量性と、その可能性への理解を、与えますか。
41:39 その問いは、語り手に出されています。 だから、一休みしてください。(笑) まず第一に、語り手は、様々な国で、手助けしてきました。 インドには、五つの学校があり、他の学校が、できようとしています。 ここ、ブロックウッドに一つ、カリフォルニアに、オーハイに一つ、あります。 それらは、語り手の学校ではありません。 それらは、語り手だけではなく、他の人たちが それをもたらすように、手助けしてきたところの学校です。 で、それは、あなたの学校とは、呼べません。 Kの名前が使われているのは、知っていますが、それは、 彼の個人的な学校ではありません。 それは、正確とか真実ではないでしょう。 それは、学校であって・・・世界の異なった地方の学校すべては、 何百の人々がそのために働いて、建設されたり、まとまってきました。 理解されますか。それは、たった一人の人物だけではありません。 それは、ひどいでしょう。 それは、できないでしょう。 インドには、六十年以上、存在してきた学校が、あります。 それを、私たちは手助けして・・・ 語り手は、他の人たちの助けでもって、それをもたらすように、 助けてきました。 北には、ベナレス近くに一つ、 もう一つは、南に、マドラスの近くに、などです。 そして、ここに、一つ、カリフォルニアに、一つあります。
43:55 教師、教育者たちは、あなたと私に似ています。彼らは人間です。 彼らは、自分の個人的な問題、自分の困難を、持っています。 学生たちは、すでに条件づけられて、来ます - 親により、隣人により、 他の子どもたちによって、です。 そして、これら様々な学校へ来ます。 教師たちもまた、不幸にも、条件づけられています。 あなたは、生への、全的な人間的理解について、質問をなさっています - 人間存在の無量性と、その広大な可能性へのそれについて、です。 まず第一に、親たちは、これを望みますか。質問を理解されますか。 一般的に親たちは、自分の子どもに、或る種の学位を、持ってほしいと思います。 テクノロジーの学位か、人間の・・・そうね、人文学の学位、 様々な学位を、です。それで、彼らが良い就職をできて、 生の中で落ち着き、結婚し、子どもと、続けてゆけるように、です。 一般的に、それが、親たちが望むことです。 子どもたちは、自分の親に対して、一定の責任を、感じます。 それで彼らは、多かれ少なかれ、特にアジア世界では、インドでは、順応します。 あなたは、これらに入りたいですか。
46:19 親たちは - 語り手は、彼らみんなに、会ってきました。 いや、彼らのほとんどに、カリフォルニアと、ここで、です。 彼らの幾人かは、ちっとも気に掛けません。 彼らが試験に通るのか、通らないのか、 親たちは、自らの子どもたちより解放されるかぎり、です。 彼らは、子どもを寄宿舎へ、送ってしまいます。 それらは、ご存じです。 イングランドでも、そうです。 彼らは、自らの子どもたちと、ほとんど何の関係をも、持っていません - 夏休みや冬休み以外は、です。 教育者の責任は、無量になります。 彼らに教えること、人生の無量性、存在の広大さを、 彼らが理解するよう、助けること- 自分の個人的存在だけではなく、 存在、です。自然、動物、宇宙・万物の全体、です。 それは、有能な精神、頭脳と、それを探究することだけではなく、 また、特定の学科を教えることをも、必要とします。理解されますか。 なぜなら、社会は今、こうなので、 あなたは、良い技術者であるなら、より良い職、良い職を、得るからです。 で、学生もまた、良い職が、ほしい。 彼らは、お店の販売員になりたくありません。 で、彼らは、良い職がほしいのです。 で、彼らの集中全体は- その言葉を使えるとして、ですが - 良い学歴を得るためです。〔大学入試の〕Aレベル、Oレベルと、その他すべてです。 そして、社会の圧迫 - あなたたちみんなが創り出してきたもの - が、 あります。そして、親の圧迫などが、あります。 これらの困難を、理解されますか。 あなたはそれを、きわめて明らかに深く理解するなら、 私たちに加わるでしょうか。 いいえ、気をつけて。 あなたは、ただ加わりたいからといって、加われません。 あなたは、何かをしなくてはなりません。 あなたは、良い料理人、良い庭師でなくてはいけません。 ああ、そうです - 良い教師、良い親でなくてはいけません。 あなたは、これをほしいのです。 それを、私たちに任せておかないでください。 親が、教育が必要であるように、教育者は教育が必要です。学生も、そうです。 で、それは、生きる、働く、協働する、ともに感じる過程です 意見を戦わせるのではなくて、です。 これは、大変多くのエネルギーを、必要とします。 そして、どの親が・・・ブロックウッド学校には、多くの親たちが、います。 15から、19カ国の国籍が、あると、思います。 この学校は、あるべきものではなくて、あるだろうものです。 私たちは、そのために、働いています。 私たちを、助けてください。 理解されますか。 私はあなたに、お金をお願いしていません。 それは、簡単なものです!(笑) ですが、ともに何かを創り出すよう、一緒に加わってください。
50:42 第三の質問: 未来は今だと言われるのは、どういう意味なのかについて、 詳しく述べてもらえるでしょうか。 それは、未来の種子が- 「種子」に傍線が付いています - 未来の種子が、現在に収容されている、ということですか。 または、未来が、違った時間の尺度で、 すでに十分に存在している、ということですか。
51:14 未来は今だと言われるのは、どういう意味なのかについて、 詳しく述べてもらえるでしょうか。 それは、未来の種子が - 傍線付きです - 種子が現在に収容されている、ということですか。 または、未来が、違った時間の尺度で、 すでに十分に存在している、ということですか。
51:47 私たちは確かに、自分の疑問が違っていますね! これは、とても錯綜しています - すべての人間の問題、問いと同じく、です。 SF小説と、科学者たちが時について持っている理論 - 一連の動きとして、です - などは別として、 未来は快適であり、安全で、幸せ、その他すべてであるべきだ との要求は、別として、時とは、何ですか。
52:46 私たちはともに、これに入られますか。 ともに、です。 私が話すだけではなく・・・ 語り手が何かを言い、あなたが同意して、それを放り出す、だけではない。 これは本当に、きわめて真剣な探究を、必要とします。 時とは、何ですか。 時は、点から点への動きとして、見られます。ですね? ここから、あなたの家へ、あなたの自宅へ行く・・・ 行くべき距離が、あり、それには、時が掛かるでしょう。それは明白です。 また、時は、過去の動き全体です。ですね? その中に、伝統すべてが、含意されています - 蓄積された伝統・・・ 一世代から別世代へ手渡されてきた・・・ 彼らの知識、彼らの書物、ヴァイオリンの弾き方、など、 この甚大な過去の動き全体が、そこにある。 私たちは、それに依っている。 ですね? 私たちは、過去です。 過去は、記憶です。あなたは、今の、記憶の動き全体です。 いいですか? それは事実です。 で、あなたは、記憶の束です - あなたがそれを好きでも、好きでなくても、それは事実です。 それら記憶なしには・・・快くても、快くなくても、 著しくて、満足でき、充実しても、それらすべての記憶が、現在にある。 それら記憶なしには、あなたは、存在しないでしょう。 あなたは、植物状態として、存在するかもしれません。 いや、たぶん、樹々は、自らの応答の仕方を、持っています。 私たちは、それに入らないでしょう。 で、あなたは、私たちは、私たちの一人一人は、記憶です。 すなわち、知識の蓄積の過程全体です - 応答、反応、 判定、非難、受け入れなど・・・この過程全体は、 生物学的にだけではなく、主観的にも、今の私たちなるものです。 私たちは、四万、五万年、それらすべての世紀の後で・・・ あの広大な時の感覚は、今なのです。 なぜなら、あなたは、それであるからです。それは、明らかですね? 途絶えることが、ないなら、それが、未来です。 それは確かに、単純です。
56:54 とても単純な例ですが、部族主義は、時の始まりより、存在してきました。 私はあの部族に所属している、と。 それはまだ、アフリカに存在しています。 それは、あらゆる国に存在しています- 栄達して、民族主義として、です。 それはやはり、部族主義です。 いいですか? その部族主義は、人々を分割しています。 自分の信念に取りすがる、その他すべて、です。 で、それは、集団や部族や民族、共同体の蓄積全体です。過去です。 いいですか? あなたが考慮なさるなら、このすばらしい地上での、 五万年の人間存在の後で、私たちは、ほぼ同じです。ですね? 心理的に、主観的に、内的に、 私たちはまだ、きわめて、きわめて原始的です。 あなたは、電話を取り上げて、世界の真反対側へ、話をするかもしれませんが、 あなたが言うことは、やはり、かなり原始的です。(笑) それは、ビジネスなのか、誰かを罵るのか、 または、誰かに話をして、「ダーリン、いかがですか」と言うのか。 それは、進んできた同じ過程です。 過去の世紀には、はるかに困難だったが、それは今、一秒で、できます。 で、過去は、今です。 私たちなるものです - 四万年の後の、私たちなるものです。 理解されますか。 何ととてつもなく、時は、私たちを変化させてこなかったのか。ですね? 自分自身に正直であってください。 私たちは、テクノロジーでは、いわゆる前進を、遂げてきました。 無量の前進、信じがたいですが、内的に私たちは幾らか、きわめて小さく・・・ おそらく、へりの飾りで、です。 核心では、私たちは、野蛮で原始的です。ですね? 互いに殺し合う、その他すべて、です。 で、時は - どうぞ、聞いてください
1:00:08 時は私たちを、変化させてきませんでした。 いいですか?私たちは、これが見えますか。 で、進化は、心理を変化させてきませんでした。 反対に、それは、心理をますます強くしています。 心理とは、記憶の蓄積全体です - 人種的、民族的、部族的、宗教的な分割です。 古代のシュメール人、古代のヒンドゥー- 彼らはけっして、自分を ヒンドゥーと呼ばなかったが、それは、大事なことではない。 そして、エジプト人。 それら四万か、五万年より、 私たちは、いまだに・・・進化した後、私たちはいまだに、原始的です。 時は、進んでいきます。 時は、動きです。 で、未来は、今の私たちなるものです。ですね? 私たちは、戦争を起こすでしょう。 今、私たちは、一発で数百万の人々を殺すすべを、知っています。 私たちは、互いに憎み合います。 私たちは、互いに競争し合います。 私たちは、互いに怒っています。 性的な充足や違った種類の充足を、 探し求めています。 彼らは、こうしてきました - 理解されますか。私たちはいまだに、やっています。 未来は、やはり、今の私たちなるものです。 で、未来は今です。その種子、ではない。その現実です。 で、そのすべてを根本的に変化させることは、可能ですか - 時をまったく許さないで、です。 理解されますか。 質問を理解されますか。時は、私たちを変化させてきませんでした。 進化は、私たちを変化させてきませんでした。 異なった組織は、私たちを変化させてきませんでした。 違った宗教は、私たちを変化させてきませんでした。 苦しみは、私たちを変化させてきませんでした。 私たちは、時が、変化するよう、私たちを助けてくれるだろう、と言いました。 私は、そこに来ようとしています。 私に少し、時をください!(笑) 少しの時を!
1:03:27 で、私たちは、こう言っています- 自らが変化をもたらすために、 時を、すなわち明日を、頼みにするなら、それは、無益な望みです。 ですね?それは明らかです。 ゆえに、あなたは探究しなくてはいけません - 変化とは、何ですか。 変化は、未来ということに立って、ですか。 変化は、何か、有るものから、他の何かへのことですか。 どうぞ、それに入ってください。 「私はこれである」、「私はあれになるだろう」、 「私はなるだろう」は、未来を意味しています- 欲望により、もたらされたのです。 それは、(未来への)意志の本質です。 欲望は、意志の本質です。 で、あなたは、「私は後で何かをするだろう」と、言います - 「私は次第に変化するだろう」と。 ですね?「私は、尊くなりたいと望む」、 「私は自分の意見を取り除くだろう」と。よろしいですか。 そのすべては、あなたが変化するために、時を頼みにしている、という含意です。 で、私たちは、訊ねています - その中に時がない変化とは、何ですか。 理解されますか。 私が自分自身に、「私は変化するだろう」と言った瞬間・・・ あなたは、すでに未来を、認めたのです。 いいですか? 「私はなるだろう」、「私は変化するだろう」、 「私は花開くだろう」、「私は愛するだろう」。 そのすべては、時を認めますが、時はそれを、変化させてきませんでした。 ですね? なぜなら、私たちは、五万年の間、進化してきましたが、 その広大な空間と経験は、私たちに、 まったく深い効果が、なかったからです。
1:06:03 で、全的に・・・どうぞ、これを理解してください。 ありつづけた何かが、今、全的に終わることが、ありますか。 私が言っていることを、理解されますか。 待ってください!仮に、私は貪欲だ、とします。 それがどういう意味かを、ご存じです。 もちろん、誰もがみな、知っています。 貪欲で、妬んでいる - おそらく、妬みのほうが、良い言葉です。 私は、妬んでいます。 私はそれを合理化できます。それは自然だ、それは文化的だ、と言えます。 それは、損得の商業的な過程の一部だ、と - 生産と、それらのことです。 で、私は、「私は貪欲です」と言えます。 人は、時の始まりから、貪欲であったのです。ですね? 時はまったく、私を変化させてきませんでした。 なぜなら、貪欲をとおして、私たちはこのおぞましい社会を、 創り出してきたからです- 商業的にも、です。 そして、妬みをとおして、すなわち、比較をとおして、 私たちは、互いに、破壊し合ってきました。これは、事実です。 その妬みは、即座に終わりえますか - 「私は段階的に、そうなるだろう」ではない。質問を理解されますか。 私は、問いを明らかにしましたか。 終わることが、ありますか - 継続ではなく、終わる。 継続は、時を含意しています。ですね?ああ、さあ、みなさま! で、自らは、時が変化の世界へ入るのを、まったく許さないでいられますか。
1:08:33 その変化は、終わることを、意味しています。 終わる - 何が起きるだろうかを、知らないで、です。 なぜなら、起きるかもしれないことは、やはり、望み、時などであるからです。 妬みを即座に、完全に終わらせることは、可能ですか - それがもはや、けっして存在しないように、です。そうです! そういうわけで、時の本性を理解することが、とても重要であるのです。 時は、動きです - 思考のように。 時は、言語を学ぶには、技能を習得するには、必要です。 時は、月へ行くには、必要です。 時は、軍艦や発電機やモーターを組み立てるには、必要です。 ですが、心理的に、主観的に、 私たちが、時と変化ということに立って考えるなら、けっして変化は、ないでしょう。 何が起きつつあるかを、見てください。 かつて、国際連合が、ありました- いいえ、国際連盟、です。 今、国際連合(連合国)が、あります。 別の引き伸ばしが、別の種類の・・・別の国際連合(連合国)になるでしょうが、 同じ過程です。理解されますか。 同じ悲惨を、違った形で、組織しなおすことです。
1:10:34 で、明日を持たないことは、可能ですか - 生を見つめること、明日をまったく持たない生とともに、生きることは、です。
1:11:14 私は、次の質問へ進んでいいですか。 それが、甚大なことを、含意しているのは、お分かりですね。 あなたは本当に、このこと、時を、理解しつつありません。 太鼓は、気をつけて調律されます。 それは調律されているから、 それは内的に、内側が空っぽであるから、それを叩くとき、正しい音色を立てます。 何物でもないとの、その内的な性質を持つが、大いに敏感であること・・・ そのとき、あなたは、何かとてつもないものを、持っています。 語り手は、あなたを何かへ、誘い込んでいません。 彼は、あなたを説得していません。 褒賞していません。 何も褒賞や処罰は、ありません。
1:12:43 第4の質問: なぜ、あなたは祈りに、価値を見つけないのですか。
1:12:50 なぜあなたは、祈りに価値を見つけないのですか。 あなたは、祈りに価値を、見つけますか。 あなたは、どうぞ・・・どうぞ・・・ なぜあなたが、祈りに価値を持たないことで私を責めるのか、私は知りません。
1:13:18 なぜ私たちは、祈りますか。 そうね、共同体や、修道士たちの集団全体が、ありますね - 永続的に祈っている人たち、です。 一つの集団が、祈るのを終了し、別の集団が、それを引き継ぎます。 私たちはまた、困難の中にいるときも、祈ります。 自らの生に、大きな危機があるとき、私たちは、祈りたいとか、 「どうか、誰か、私を助けてください」と言いたいと思います。 そうね、崖にぶら下がっている男の冗談を、ご存じですか。 彼は、「神様、どうぞ、私を救ってください」と、言います。 神は、「信仰を持って、飛び降りなさい!」と言います。(笑) 崖にぶら下がっている男、彼は、言います - 「もっと上に誰か、いませんか」と。 (笑) すみません!
1:14:44 なぜ、私たちはそもそも、祈りますか。 この、祈ることは、進んでいます -キリスト教世界で、イスラム教世界で、 そして、仏教とヒンドゥー教の世界で違った形で、祈ることが、です。 あなたは、誰に祈っていますか。 外側の機関に、ですか。 外側の機関とは、神や主です。 異なった国々と文化と伝統に応じた主、です。 違った概念の全能の者に、ですか。 私たちは、誰に祈っていますか。 なぜ私たちは、祈りますか。 祈りは、私たちの困難に、答えてくれますか。 幾つかの事例で、あなたが祈っているとき、単に一定の言葉を使っている、 詠唱している、などだけではなく、言葉なく静寂に祈っているとき - 私が何を言っているかを、理解されますか - おそらくあなたは、答えを得るかもしれません。 なぜなら、あなたの頭脳全体が、静かになったからです。 その静けさの中、思考の動きなく、 頭脳のその静止の中で、あなたは、答えを見つけます。 そのときあなたは、「私はもっともっと祈らなければならない」と、言います。 すなわち、あなたは、達成しました。 あなたは、何か経験を集めてきました。 その経験は、一定の結果を、もたらしてきました。 あなたは、それらの結果が、好きです。 で、あなたは、これをつづけます! そのとき、それは習慣になります。 そして、あなたは、あらゆる物事を失ってしまったのです。 なぜ、私たちはそもそも、祈りますか。 私たちは、非難したり、「それはだいじょうぶだ」と言ったりしていません。 私たちは、全部のことを、問うています - 一定の懐疑でもって、一定の頭脳の性質でもって、です。 情動的な反応だけではなく、「私に道理を示してください」と言う頭脳の、です。 そして、自分は、大いなる困難の中に、います。 大いなる危機、痛み、悲しみが、あります - 解決不可能です。 その瞬間に私たちは、誰かが助けてくれるのを、頼みにします。 その誰かは、私の夫、妻、子どもと私の隣人とか、通りの向こうの誰か ではありません。なぜなら、私は彼らを、知りすぎているからです。 彼らもまた、私自身と同じ地位に、います。 それで私は、何か外側の機関のほうを、向きます。 外側の機関とは、思考により組織されている何かではない、という意味です - 神、キリスト。インドでは、それは別の神などです。 私は跪いて祈ります。なぜなら、私はこの問題を、まったく解決できないからです。 私は、自分の悲しみ、自分の痛み、自分のさびしさを、解消できません。 それで私は、次第に外面的に、何かへ、依存しはじめます。 それは、医師、精神科医、あるいは、神です。 それらは、すべて同じです - 私が助けてほしくなった瞬間、です。 自らは、徳高き祈りと呼ぶかもしれません。 他方を、彼は、「まあ、それは世俗的だ」と言います。 あなたは、10ポンドを支払って、得ます・・・ 何が起きるかは、ご存じです。 私が、これらに入らなくていい。 で、それらはどちらも、同じです。 まったく同じです。 で、なぜ私は、そうしますか。 なぜなら、私は、助けてもらいたいからです。 私は、問題を解決することが、できません。 または私は、自分は問題を解決することができないと、考えます。 それは、きわめて痛くて、壊滅的です。 私の全人生を動揺させます。 私は、誰かに、私の存在を落ち着かせてほしい、 私がこれを乗り切るよう、助けてほしいと思います。 これは、四万年、五万年以上の間、なされてきました。 それはかつて、雷、稲光でした。 それから、それは、樹々の崇拝でした。 それから、それは今、象徴とイメージの崇拝です。大きな違いはない。
1:21:09 で、私は、訊ねなくてはいけません- なぜ私は、助けがほしいのですか。 かなり残酷に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。 いつも助けを求めている人物は、 ますます弱く、弱く、弱く、鈍くならないですか。 そのとき彼は、何かに、全く依存します - 薬物にか、 あるいは、人々にか、理想にか、究極的には、自分の神の概念に、です。 薬物であっても、神であっても、それはやはり、同じ線に沿っています。 なぜなら、あなたは、助けてもらいたいからです。
1:22:06 今、私たちは、自分自身に訊ねています- 私が、自分の問題を、 他の一人から唯一つの援助もなく、解決することは、可能ですか。 それは、大変多くの根気、エネルギーを、必要とします - 進んでいき、「さて、この妬みの問題だが、 妬みとは何なのか」と言うには、です。 それは、いつも比較です。 比較より、もう少し多くです - 渇望する、ほしがる。 それは、時なく、終わりえますか。 そのとき、私は祈らなくてもいい。 そのとき、そのような人物は、思考の汚染すべてより、全的に自由です。 で、それは、恐れの理解を、必要とします - 完全にあなたの足で立つことができるためには、です。 それは今、ゆっくりと拒否されつつあります。 薬物、コカイン、ヘロインとそれらが、世界に拡がりつつあります。 私たちは、生に退屈しています。私たちは生への代替物が、ほしいのです。 それで、祈りは、あなた自身の欲望です - 大変満足できるだろう何かを、達成したいとのそれ、です。 何の理解もない、たやすい生き方です。 それは、単に語り手の発言より、はるかに錯綜しています。 私たちがみんな、些細で小さな精神をしているのが、お分かりですね。 もしも私たちが、それより踏み出せたなら - 明日ではなく、今、です。 そのとき生は、何か終わりなき、無量なものです。
1:25:16 今、1時まで10分です。 ああ、ここに良い質問がある!
1:25:35 第5の質問: あなたがもはや、物理的に私たちとともにいないとき(笑) - タンピ(まあ、いいよ)! - 私たちの中で、たとえ知的にだけでも、 あなたのメッセージを理解する者は、何をすべきですか。 私たちは、自分自身に取り組むのを継続し、残りの世界を忘れるのですか。 または、私たちが分かるところの、あなたの教えを、広めようとしますか。
1:26:05 あなたがもはや、物理的に私たちとともにいないとき - なぜ「物理的に」と加えるの?(笑) -私たちの中で、たとえ知的にだけでも、 あなたのメッセージを理解する者は、何をすべきですか。 私たちは、自分自身に取り組むのを継続し、残りの世界を忘れるのですか。 または、私たちが分かるところの、あなたの教えを、広めようとしますか。(笑) 私がこの問いに、答えなくてはいけませんか。(笑)
1:26:53 それは、あなたのメッセージです。 私のではない。 それは、あなたの書物です。 私のではない。 あなたの生き方が、メッセージであるなら、私たちが話しているように、 あなたが、時なく生きるなら、それが、あなたが生きることこそが、光です。 それは、誰にも依存しません。 Kは - それは、生における一つの事実です- 私たちは、みんな死のうとしています。 それは、絶対的な、取消不可能な事実です。 そして、未来は今です。 死は、今です。理解されますか。 すなわち、終わることは、今です - 十年後の時や、五十年後の時にはない。 自らが、そのように生きるなら、あなたの生き方こそが、メッセージです。 それは、Kのメッセージではない。 それは、あなたのです。 そのとき、あなたの生は、広がりつつあります。 まさに生きること、あなたの生き方 - そのときあなたは、自らが生きていることを、広めます。 他の誰かが言ってきたことを、広めるのではない。 理解されますか。 で、これは、きわめて単純です。 美しさは、あなたのです。 他の誰かのではない。 私たちはもう、止めたほうが、いい。
1:29:02 立ち上がってもいいですか。