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BR84T1 - 関係における葛藤の原因
第1回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年8月25日



2:01 クリシュナムルティ: 何とまあ、多くの人々が、いるではないですか。
2:24 これら十日間に、四回の講話と、 二回の質疑応答会合が、 あることになっています。 もしよろしければ、ご注意を申し上げたいと思うのですが、 これは、娯楽ではないのです。 それは、何かあなたが一日間、来たり、一時間を過ごし、 何かの話や、講話と質疑を聞く、ということではないのです。 むしろこれは、きわめて深刻な事柄です。 もしあなたが、好奇心からここに来られたのなら、 または、テレビで何かをご覧になったし、 こいつの話を聞いてみたいから、ならば、 それは、十分ではありません。 私たちは、ここに、きわめて真剣な人々の集会に、います - 少なくとも、そう望んでいます。 私たちは、どの形でも、あなたに、何をも、説得しようとしていません - どの新しい理論、新しい結論、 新しい概念や理想についても、です。 語り手にとって、それらすべてのことは、本当に、忌まわしいものです。 それらは、日常生活において、何の意味もありません。 これは、何か人気のことではありません。 人気は、最も願望されないことです。 私たちには思われますが、重要なのは、 私たちがともに考慮することです - 客観的にも、主観的にも、 すべての問題、すべての葛藤、 格闘、痛み、悲しみ、恐れなどを、 私たちが、これらの講話と質疑応答の間、ここにいるうちに、です。 どうぞ、ご注意を申し上げていいなら、それに留意してください。 私たちはあなたに、ご注意を申し上げつづけるでしょう - すなわち、語り手は、人物として何の権威をも、持っていないのです。 これは、個人崇拝ではありません。 または、何かあなたが、同意や不同意をすることではありません。 なぜなら、私たちは、自らの頭脳を、行使しなくてはいけないからです - 理性、論理、健全さを、です。 「私はあなたが好きです。ゆえに、私はあなたに同意します」とか、「あなたは 何か変な人物だ。ゆえに私はあなたに不同意する」とか、言うのではない。 むしろ、私たちはともに、よく考えようとしているのです。 同意したり、不同意したりするのではなく、 存在の現象全体を、ともに観察するのです - 私たちの日々の生、私たちの生き方、 私たちの思考、私たちの情動、私たちの反応を、です。
7:09 生きることの過程全体を、深く探究するには - 外的に世界で、客観的に起きつつあることと、 内的に、主観的に、すなわち、心理的に、 起きつつあることを、です。 または、あなたが、その言葉「主観的」や心理的状態を、 好きでないなら、肌の内側で、です - 骨と血と筋肉などではなく、 未探検の全体を、 私たちの一人一人が、です。 専門家たちは、それを表面的に、探検したかもしれませんが。 ともに - 語り手は、本気で、ともに、と言っています。 彼が話をしよう、 一定の観念を差し出そうとしているのではなく、 むしろ、ともに、私たちは、自らの生の、これら、 とてつもない出来事を、観察しようとしています - 葛藤、抗争、 きわめて多くの人間的な問題、 関係の問題、 なぜ人間たちは、傷つくのか、 心理的に負傷するのかを、です。 私たちはまた、ともに恐れの問題全体をも、 話し合おうとしています。 恐れより自由であることは、いったい可能なのかどうか、です - 初めに、外的に、客観的に、ではなく、 主観的に、内的に、全面的に恐れより自由であることが可能か、です。 そして、私たちは、楽しみの問題について、 ともに、話し合おうとしています - 人間たちは、それを色々な形で、追求します。 また、悲しみの、甚大な重荷についても、です - 自分のだけではなく、人類の悲しみも、です。
9:49 また、私たちはともに、宗教の問いについても、話し合おうとしています。 組織されているものではなく、 あなたが信じていたり、信じていなかったりするものではなく、 宗教とは何であるかの問いです - 自由であって、神聖で真実なものを知覚できる 頭脳の状態は、何なのか。 また、私たちはともに、死についても話し合おうとしています - それは、世界のあらゆる人間の定めです。 それは、絶対的に確実な、一つのことです。 また、私たちはともに、冥想などについても、話し合おうとしています。
10:46 で、私たちは、生の全体に、関心を持っています - その一つの様相に、ではない。 また、一つの特定の形に、でもなく、 この地上での、私たちの存在の全体です。 私たちはまた、ともに、美しさとは何かについても、話し合うでしょう。 美しさがないのなら、真理はありません。 外面的に、環境的に、美しさだけではなく、 また、本当に美しいものの感覚も、です。 で、私たちは、ともに、 どの種の説得や誘惑や、 褒賞や処罰もなく、 ともに考え、ともに観察しよう、 私たち自身の中へ、はるかに長い旅を、行おうとしています - 世の中で、客観的に、 また、主観的、内的にも、長い旅を、です。 よく気をつけて、詳細に、精密に、こうするには、 疑い、懐疑、疑問の性質が、 なければなりません。 けっして、何をも受け入れない - 自分の経験も、 他の人のや、どの哲学的、理論的、思想的な概念をも、です。 私たちは、この準備ができているなら - 私たちの一人一人が、です - そのとき、私たちは、それがいかに重要であるか、 それがいかに深刻で真剣であるかが、自分自身で分かります。 何か週末のために来るものではない。 それは、長い休日であると、思います - 公休日です。 むしろ、私たちは、自らのエネルギーを注ぎます。 私たちは、余暇を持ちます - 少なくとも、今朝、一時間か、二時間、です。 そして、ともに、これらの問題について、話し合います。
14:00 それは、こういう意味です - あなたは、そうしようとするなら、 当分の間か、完全に、 自分の先入観、自分の偏見、自分の頑固な意見か、 軽い意見を、脇に置かなければならないのです。 なぜなら、的確な知覚が起きることになるとき、 それらは、歪曲し、阻止し、妨げるからです。 私たちは、ともにこの旅に、出かけられますか。 ものすごい努力でもって、ではなく、 むしろ、ためらいながら、かりそめに、 誰にも従わないで、です。 導師と、それらの戯言は、ありません。 いわゆる心理的、主観的な事柄には、 何も権威は、ありません - 自分の経験の権威も、 自分の知識の権威も、です。 すべての知識は、制限されています。 私たちはみんな、このすべてに入るでしょう。 または、何か概念に服従すること - このすべては、当然、明らかな知覚を、阻止します。 これは、そもそも可能ですか - 自分の結論、概念とイメージより、 自由であることは、です。 すなわち、自らが手引きとして自分自身で築いてきたものや、 現在に対抗してか、現在の黙認でもって、 思考により投影された何かの理想より、です。 それで、頭脳は、きわめて明瞭に、 活動的になります。 それで、私たちは観察でき、考えられ、 外側の世界と、私たち自身の中への この探検を、行えるように、です。
17:19 それが、これらすべての講話と質疑応答の関心事です。 この事柄に、権威はありません。 私たちの一人一人が、責任があります - 自らの行為へ、自らの思考へ、 自らの生き方、などへ、です。 私たちが、他の人たちや環境や社会を、責めたいのなら、 社会は、私たちがそれより作ってきたものです。 社会構造は、 人間たちが、幾世紀をかけて組み立ててきたものです - 彼らの野心をとおし、彼らの競争をとおし、 彼らの攻撃、彼らの恐れ、 彼らの楽しみなどをとおして、です。 で、私たちが生きるところの社会は、 腐敗していて、戦争の準備をしていていますが、 社会は、帰結、結果です - 私たちの生き方の 私たちの考え方と感じ方などのそれらです。
19:12 これらを考慮する中で、 私たちは、自らの生をむだにしていますか。 むだは、葛藤です。 私たちが生きているところの葛藤です - 永続的に、私たちが生まれた瞬間から、死ぬまで、です。 それは事実です。 人間たちはけっして、自分たちの問題を解決することが、できませんでした。 それは、とても複雑な事柄です。 世界中の人間が、 ここの私たちみんなを含めて、 あらゆる種類の葛藤より、いったい自由でありえますか。 または、それは、人間たちにとって、 歴史的に、そして実際に、自然ですか - 私たちが、内的な葛藤の中に生きるだけではなく、 また、外的にも、 永続的な戦争をとおして、 互いに殺し合わなければならないことが、です。 おそらく、昔の日々には、 五千か六千の人々が、殺されましたが、 今、一発の爆弾で、百万の人間を、蒸発させられます。 これが、前進と呼ばれます。 世界のあらゆる国家、民族が、軍備を蓄えています。 それについては、みなさんがご存じです。 この国(イギリス)から提供されます。 その80パーセントが、海外に行きます - 兵器が、です。 アメリカ、ロシア、ドイツなどと同じく、です。
21:38 私たちはこれを、自然な生の道として受け入れてきました - 葛藤、抗争、殺害、 互いに不具にしあうこと、テロと、世界で起きつつあるすべて、です。 見たところ、私たちは、気に掛けるように思われません。 私たちは、あらゆる物事は格闘中だと、言います - 自然は、です。 自然の中に、格闘がある - 葛藤、殺すこと。 虎、鹿など、です。 で、人間たちが互いに殺し合うことは、自然である、と。 彼らの宗教、 彼らのいわゆる宗教、彼らの信念は、「平和に生きなさい。 「互いに愛し合いなさい」と言いますが。 それは、何千年に何千年も前に、 言われてきました - キリスト教だけではない。 キリスト教は、たぶん、他のどの宗教組織より、 多くの人々を殺してきました。
23:06 で、私たちは、葛藤を、自然だ、回避不可能だと、受け入れてきました。 お互いとの間、男、女の間の葛藤。 そして、自らは訊ねます - これらの長い五万年の進化をとおして、 私たちは今、いわゆる洗練された人間たちの頂点に、います。 これは、自然ですか。 これは、回避不可能ですか - 私たちは、葛藤の中に、生きなければならない、ということが、です。 いいですか?
24:08 私たちはともに、これに入られますか。 そして、私たちが、本当に深くそれを理解できるかを、見られますか - 言語的にとか、知的にとか、ではなく、 事実を、見る。 自分が葛藤の中にいるとの事実を、です。 そして、それが、はたして終わりうるのかどうか、です。 葛藤とは何ですか。 理想は、葛藤をもたらしますか。 あらゆる形の未来と現在 - それらは、私たちの葛藤に、責任がありますか。 未来を、自分は知りません。 そして、現在は過去です。 過去は、現在と葛藤になっています - そして、未来とも、です。 これらに付いてきておられることを、願います。 葛藤は、二元性ですか- 好きと嫌い、 善と悪、 あるべきものと、あるものの、それですか。 葛藤は、これらの要因より、生じますか。 それは、明白な事実です - 自らが、そもそも真剣であり、 自らが葛藤の中に生きることに、気づいているなら、です。 子どもの頃から、 自分の存在の長い年か、短い年か、 葛藤は、生の主な要因の一つであるように、思われます。 自らが、この葛藤の因果を、自分自身で発見しないのなら、 単に、葛藤の外的表現を刈り取るだけでは、 ほとんど意義が、ないでしょう。 葛藤の原因は、何ですか。 どこであれ、原因が、その結果とともに、あるところ、 原因が深く理解されるとき- 単に言語的に、理論的にとか、 知的にだけ、ではなく、 自らの生の中の事実として、それを深遠に理解する。 そのとき、原因は、終わりになりえます。 ゆえに、葛藤は、終わりになりえます。
27:55 で、私たちは、ともに見出そうとしています - 葛藤の原因は、何なのか。 それの核心、根本、です。 もちろん、あなたが、 葛藤は回避不可能である、それは自然であると、認めるなら - 人間たちは、ここ幾千年もの間、葛藤の中に、生きてきたからです。 で、なぜ私たちもまた、そうあるべきでないか、と。 その種の議論は、かなり- 私に言わせていただけるなら - かなり、ばかげて、不適格です。 ですが、もしも、それに入られたなら - 葛藤の因果を、検討し、知覚し、 洞察を得られたなら、 そのとき、おそらくそれは、終わるでしょう。 原因を発見すること - それは、分析の過程ではありません。 分析は、分析者と、分析されるものとを、 含意するのでしょう。 ですね? 「私は、この葛藤の原因を 見つけなければならない」と言う者、です。 そのとき、彼は究明しはじめます - まるで、それが、自分の外側の何かであるかのように、です - そのとき、彼はそれを、分析します。 分析者は、分析されるものではないですか。 どうぞ、少しこれに、入ってください- もし、よろしければ、です。
29:54 私たちは、訊ねています。 分析者は - または、違ったように表すと - 分析者は、彼が分析するものより、異なっていますか。 分析者は、誰ですか。 専門職の心理学者、精神科医などは、別として、 ここにおいて、私たちが今、していることは、 葛藤の因果を理解することです。 その葛藤、原因 - それは、分析されるべきものですか。 そのとき、あなたが、原因を分析しているなら、 そのとき、分析者は、何ですか。 いいですか? 分析者は、彼が分析するものより、異なっていますか。 私の問いを、理解されますか。 私は、自分自身に話していますか。 あなたは本当に、これらに興味がありますか。
31:24 聴衆: はい。
31:25 K: いいえ、どうぞ・・・ 語り手を、励まさないでください。 彼は、それに値しません。 あなたは本当に、これらに興味がありますか。
31:34 聴衆: ええ。
31:35 K: いいえ。どうぞ、これは、きわめて深刻です。理解されますか。 それは、何か一時間だけのことだけではありません。それは、あなたの生です。 それは、あなたの生きる道です。 愛、優しさ、気づかい、慈しみの問い全体 - そのすべてが、ここに関与しています。 それは、語り手との同意だけではありません - それは、かなり不条理になります。 あなたが本当に、深くこれに、興味を持っているなら - それは、自分自身で見出す、ということです。 語り手からではなく、 自分自身で、葛藤の原因を見出すのです。 そして、原因の発見があるとき、 結果は、消え去ります。 なぜなら、すべて・・・どの原因も、変化させられるからです。 歯が痛かったり、頭が痛かったりするなら、 それは、原因を持っています。 原因が見つかるとき、その病気は、消え去ります。 同様に、私たちは、なぜ自分たちが永続的な葛藤の中に生きるかの 原因か、諸原因を、見出せて、 そして、それを深く掘り下げるなら - それは、分析の過程ではありません なぜなら、分析は、分析者と分析されるものとの間の 分割を、含意しているからです。 ゆえに、その分析の過程には、やはり葛藤が、あります。 これらを理解されることを、願っています。 ですが、もしも私たちは、事実を観察できたなら、 または、原因の事実に出くわせたなら - それは、注意、気づかいを要求します。 見出そうとの深い衝動、 この葛藤の中より踏み出そうとの熱情を、です。 それは、エネルギーを必要とします。 そして、分析は、エネルギーのむだの過程です。 で、葛藤の因果を、明らかに観察し、知覚し、
34:20 洞察を持つことは、可能ですか。 私たちは、その因果作用を見出せるなら、 このものは、すっかり消え去ります - 結果、すなわち葛藤は、です。
34:40 で、私たちは、しようとしています。 しようとするのでなく、訊ねています。 私たちは、訊ねています - 原因は、思考ですか。 思考自体ですか。 初めに、させてください・・・語り手はこれらのことを、表しています。 同意や不同意をしないでください。 私たちは、検討しようとしています。 原因は、私たちが持っている、この二元性の感覚ですか。 私のあるがままと、私があるべきものとの間の分割ですか。 「あるべきもの」は、思考の投影です。 すなわち、自分は、自分が生きているさまが、好きでない。 または、それは、痛みに満ちている。 ゆえに、自分は、より良い生き方の概念を、 投影します - 理想を、です。 そして、その理想に、順応しています。 ゆえに、葛藤です。 現実と理想。 それが、葛藤の原因ですか -原因の一つですか。 それは、私たちが実際に、有るものに、けっして向き合わない、という意味です。 いいですか? いつも、動いて離れているか、逃避しています - 現実を、私たちの生の些細さ、 体質などを、実際に 観察することから、です。
36:43 観察する - どの先入観、意見もなく、 自分の文化、条件づけの背景なしに、です。 それは、可能ですか。 または、それは、わずかな人に、エリートにだけ、与えられていますか。 ゆえに、それは、何か各人が自由でありうることではないのですか。 これらすべての問いを、理解されますか。 で、葛藤の原因の一つ- それは、時ですか。
37:34 すなわち、未来、 現在と過去です。 理解されますか。 いいですか。 私たちは、少なくとも、少し一緒にいようとしていますか。 すなわち、過去、 私たちの経験、知識、伝統すべて、 私たちが学んできたことすべて - それは知識です - 背景すべて- それは、過去、伝統です。 それは、今、活動しています。 それが、現在です。 そして、未来は、 今の私たちなるものであるでしょう。 いいですか? 明日は、今日の私なるものです。 おそらく、へりが、ひだ飾りが、わずかに修正されていますが、 明日は、現実に今の私なるものであるでしょう。 もちろん、根本的な変化が、あるのでなければ、です。 あるなら、明日は、全然違っています。 すなわち、すべての時は、現在に収容されています。 過去、現在と未来。 そのすべてが、今です。 いいですか? で、未来は、今です。 明日は、今です。 思考は、葛藤の要因の一つですか。 いいですか? 私たちは、検討しています。 私たちは、それを覗きみています。 私たちは、教義的な言説を、述べていません。 私たちは、訊ねています。 思考、 考える過程全体 - それが、葛藤の基本的な原因の一つですか - それはまた、究極的には、戦争です。 いいですか?ゆえに、探究しなくてはいけません - 私たちがそうしたように、時とは何かを、です。 時は、過去、現在と未来です。 それは、一連の、提携しあった継続的な動きです。 それで、時は、過去、現在と未来です。 その時は、今に収容されています。 それが、時が、葛藤の要因の一つですか。
41:22 また、私たちは訊ねています - 思考は、 考える過程全体は、 客観的にも、主観的にも、 考えること - それもまた、葛藤の主な原因の一つですか。 それに入るには、私たちは、訊ねなくてはなりません - 考えるとは、何ですか。 私たちは、自らの日々、昼夜と年々を考えることに、費やします。 私たちの行為すべてが、考えることに、基づいています。 私たちの、互いとの関係において、考えることが、無量の役割を果たします。 考えることは、認識、知識の一部です。 考えることは、客観的に、とてつもないことを、してきました - 最新の爆弾、原子爆弾から、 最も複雑なセラミック構造、 大きな軍艦、潜水艦、コンピューターまで、です。 また考えることは、人類に、すぐれた医療、 外科手術などをも、与えてきました。
43:14 で、私たちは、探究しなくてはいけません- 考えることとは、何ですか。 その問いが、訊ねられるとき- 考えることは何なのか - あなたは、考えていますか。 または、問いを聞いていますか - 考えるとは、何なのか。 そして、考えているのを、観察しますか。 ヴザヴェ・コンプリ?理解されましたか。 いいえ、どうぞ、同意しないでください。これは・・・ 誰かが、あなたに訊ねています- 考えるとは、何ですか。 あなたは即時に、考えることが何であるかを、見つけますか。 それに取り組むか、探究し、調査しますか。 または、あなたは、問いを聞きますか。 理解されますか。 聞く。それは、静寂の性質がなければならない、という意味です - あなたが聞いているときに、です。 いいですか?
44:40 私たちは、訊ねています - 考えるとは、何ですか。 たぶん、あなたはけっして、自分自身にこの質問をしたことが、ありません。 または、おそらく専門職の人たちも、それについて、書いてこなかったのです。 おそらくあなたは、専門職の人たちに言ってもらうことに、慣れています - 考えるとは、何なのか、と。 そのとき、あなたは、反復するでしょうが、 それは・・・ それは、考えるとは何であるかへの探究を、阻止します。 あなたは単に、反復しているだけです。 それは、考えることではありません。 で、考えるとは、何ですか。 思考の起源とは、何ですか。 人を、月に立たせた思考、 世界を、民族、国籍に分割してきた思考、 戦争を起こしてきた思考、 あなたと、あなたの妻や夫と、 彼女、彼氏などの間の思考、 思考のこの甚大なエネルギーは、何ですか。 考えることは、記憶の過程ではないですか。 いいですか? 記憶の過程。 記憶は、頭脳に蓄えられています。 その記憶は、知識とともに、来ます。 知識は、経験に基づいています。 いいですか? 科学的な知識すべては、実験、理論、仮説、 知識に、基づいています。 いつも、もっともっと多くを、付け加えています。 どの分野においても、 それが、数学的な世界であれ、生物学でも、 航空力学などでも、 あらゆる分野において、知識は、経験に基づいています。 知識があるところ、それは、いつの時も、付け加えられつつあります。 蓄積されます。ゆえに、経験は、制限されています。 で、知識は、制限されています- ですね? - 今も、未来においても、です。 なぜなら、知識は、いつも制限されているからです。 それで、記憶は制限されています。 かくして、思考は、制限されています。 何でも制限されているものは、葛藤を引き起こすにちがいありません。 いいですか? 自らが、朝から晩まで、自分自身について、考えているなら - ほとんどの人々は、そうです。 自分の悩み事、自分の問題、自分の好き嫌い。 彼らは、永続的に、自分の自己に、関心を持っています。 それは、きわめて、きわめて制限された生き方です。 ゆえに、制限されているものは、必然的に葛藤を、引き起こすにちがいありません。 イギリス人が、「私たちはイギリス人だ」と言うとき、 それは、とても制限されています。 ゆえに、彼らは、永続的に戦争をしています。 彼らは、帝国を失ってしまいました。 それらの事柄は、ご存じですね。 フランスは、制限されています。 で、あらゆる国が、安全をほしがり、 思考、文化、言語の境界を、創り出します。 ゆえに、それは、制限されています。 で、あらゆる形の制限は、必然的に葛藤を、引き起こすにちがいありません。 自らは、この制限に、安全を見つけます。 ですね? なぜなら、頭脳は、いつの時も、 何らかの形の安全を、探し求めているからです - その安全が、幻影であろうが、現実的であろうが、です。 私たちのほとんどは、何らかの形の幻影に、安全をほしがります。 これらは、事実です。 それで、思考は、いつも制限されていますが、 それは、広汎に考えられます。 それは、無限の地平線、無限の宇宙を、 想像できますが - なぜなら、それは考えるし、それは想像するからです。 ゆえに、それは制限されています。
50:30 で、どこでも、制限があるところ、戦争があるにちがいない。 葛藤があるにちがいない。 なぜなら、その制限は、分割し、分離するからです。 私たちは、ここに一緒にいますか- 少なくとも、少しは。 で、それを見るとき、あなたは、イギリス人であるのを、止めるでしょうか。 あなたは、ドイツ人、フランス人、インド人、 それらの戯言であるのを、止めるでしょうか。 なぜなら、そのとき、あなたの頭脳は、 制限より、とてつもなく自由であるし、 そのときそれは、ものすごいエネルギーを、持っているからです。 で、制限は、生のむだです。 これを理解されますか。 自分自身について、考えているとき、 すなわち、いかに冥想すべきか、いかに宗教的になるべきか、 いかに幸せであるべきか、いかに・・・お分かりですね。 いかに、問題より自由であるべきか - それはすべて、自分自身について考えることです。 その、自分自身について考えることは、きわめて制限されています。 ゆえに、私たちの関係には、いつも、葛藤があります。 ゆえに、思考と時は、 葛藤の因果・・・主な理由の一つであると、私たちは言いました。 それを深く理解するなら - 言語的に、ではなく、 単に、誰かが言ってきた何かを、反復するだけではなく、 実際に、あなた自身の知覚、それの真理を見るのです - その知覚こそが、葛藤より頭脳を、自由にします。
52:58 そのとき、そこから疑問が、生じます 私たちの、互いとの関係において、それは、可能ですか - 男、女、彼氏と彼女、その他すべて、ですが - 私たちは、その中に葛藤の影もない関係に、生きられますか。 あなたは、疲れつつありますか。 私たちは、つづけられますか。
53:42 それを理解するには、私たちは、 自分たちの関係が何であるかを、実際に、検討しなくてはいけません - 私たちが、あるべきだと考えるものではなく、実際にです。 私たちの、もう一人との関係の実際の事実を、です - それが、男や女であれ、男と男などであれ、 私たちの関係は、何ですか。 私たちは、自分自身だけでは、とうてい存在できません。 自分は、修道院へ行くかもしれません。 または、どこかアジアの国へ行ってしまい - インドを含めて、です。 何か真理や、誰か導師を探求して、 山々の中に、消え去るかもしれません。 それらの事柄、戯言です。 自分は、関係なしには、地上に生きられません。 関係は、生において、最も重要なものです。 その関係には葛藤が、あります - 結婚や無結婚、離婚や無離婚、全部です。 その関係の中、 実際に、何が起きつつありますか。 お互いの性的な欲求を別にして、 私たちは、互いを使っていますか。 互いに利用し合っていますか。 互いにおいて、自分の欲望、自分の衝動を、充足させようとしていますか。 この葛藤の、愛との関係は、何ですか。 関係において、 二つは、共存できますか - 嫉妬、敵対、 各々が自分の道を追求すること、 各々が、自分の野心、自分の充足、自分の衝動を、追求することが、です。 そして、性的に出会って、子どもを持つが、 葛藤は、進んでゆきます。 関係において、これらに終わりが、ありえますか。 で、またもや、関係におけるこの葛藤の原因は、何ですか。
57:08 それは、欲望ですか。 それは、互いを所有しあう、 互いに依存しあう強迫観念ですか - 「私は、彼や彼女なしには、生きられない」と。 で、この依存は、所有、所有欲を、含意しています。 所有欲があるところ、弱さが、あります。 いいですか?
57:52 語り手は、おとぎ話を、語っていますか。 または、彼は、事実を叙述しているか、述べていますか。 それら事実は、こうです - 深い・・・何も愛が、ない。 私たちは、愛について、話すかもしれません - 「ああ、私は、彼女を大いに愛している」と。 それらの事柄は、よくよくご存じです。 そこには、依存があります - 執着、恐れ、敵対があり、 次第に、嫉妬がある。 - よろしいですか。 人間関係の機構全体、です。 そのすべての苦悩、恐れ、損失、利得、絶望、 憂鬱とともに、です。 これらは、ご存じでしょう。 これらを、ご存じないですか。 あなたたちが、いかに、とてつもなく静寂なのか - 実際の事実となるとき、です。 これらは、どうやって終わりえますか。 それで、私たちが、互いに本当の関係を持つように、です - 男と女の間に、です。 それは、互いについての知識ですか。 それを見てください。 どうぞ、考慮してください。 「私は、妻を知っている」 - それは、どういうことですか。 あなたが、「私は、彼女を知っている。 彼女は、私の妻だ」と言うとき、 それは、どういう意味ですか。 または、「それは、私のガールフレンドだ」とか、 それが何であっても、実際に、です。 それは、すべての楽しみ、痛み、 心配、嫉妬、格闘ですか - 時折の、優しさの閃きを、ともなって。 それらが、愛の一部ですか。 執着は、愛ですか。 私は、これらの質問をしています。 それに入り、見出してください。 自らは、自分の妻に執着しています。 ものすごい執着、です。 その執着には、何が含意されていますか。 自らは、自分一人で立てません。 ゆえに、私は、誰かに依存しなければなりません - それが、夫でも、誰か精神科医でも、 そうね、誰か導師と、それらの寝言でも、です。 執着があるところ、失う恐れが、あります。 執着があるところ、深い所有欲の感覚が、あります。 ゆえにそれは、恐れを生み育てます。 これらは、ご存じです。
1:01:50 で、私たちは、自らの関係の事実を、見つめられ、 関係における思考の所を、 自分自身で発見できますか。 私たちが言いましたように、思考は、制限されています - それは、事実です。 私たちの関係において、思考が、顕著な要因を、果たすなら、 その関係において、その要因が、制限しています。 で、私たちの、互いとの関係は、制限されています。 ゆえに、必然的に、葛藤を生み育てるにちがいありません。 アラブ人とイスラエル人の間に、葛藤、抗争が、あります。 なぜなら、各々が、自分の条件づけに縋りついているからです。 すなわち、彼は、プログラムされつつあります。ですね? 各々の人間は、プログラムされつつあります - コンピューターのように。 それが残酷に聞こえるのは、存じていますが、それは、事実です。 子ども時代より、「あなたはインド人だ」と聞かされているとき - 社会的に、宗教的に、一定の種類や 一定の範疇に、所属している、といって、です - あなたは、条件づけられるし、 余生の間、自分はインド人や、イギリス人や、 フランス人や、ドイツ人です- 何であっても、です。 あなたはここに、ロシアを含めてほしいでしょうか。ええ。 で、そういうことです。
1:04:00 で、私たちの関係は、生において、最もとてつもないものであるはずですが、 それは、私たちの生のむだの原因の一つです。 私たちは、自分たちの関係において自らの生を、むだにしています。 あなたが本当に、それの事実を、見る、 それに、注意を注ぐとき - すなわち、 思考と時の本性を、きわめて深く理解する - それは、愛といかなる関わりも、ありません。 思考と時は、頭脳の中の動きです。 愛は、頭脳の外側にあります。 どうぞ、よく気をつけて、これに入ってください。 なぜなら、頭蓋骨の内側にあるものはとても重要であるからです - それは、いかに機能するのか、その妨げは、何なのか、 なぜそれは、制限されているのか、 なぜ、この永続的な、おしゃべりの感覚が、あるのか、 思考に次ぐ思考、 一連の連想、反応、応答、 記憶の倉庫全体、 そして、記憶は、明白に愛ではありません。 ゆえに、愛は、頭脳の内側、頭蓋骨の内側に、ありません。 私たちが単に、頭蓋骨の内側で、生きているだけのとき - すべての時、私たちの生のすべての日々ですが、 考え、考え、考えていて、 問題に次ぐ問題 - それが、頭蓋骨の内側、制限の中に、生きることですが、 それは、必然的に、葛藤と悲惨を生み育てるにちがいないのです。
1:06:56 自分は、これらが聞こえてきました - あなたが、そもそも聞いてきたなら、です。 私たちは、それについて何を、しようとしていますか。 私たちは、古いやり方を、続けていきますか。 または、私たちの生の現実を、見て- 私たちの日常生活の、です - そして、様々な分類、分割、制限を、見て、 それらを探究し、それらを来る日も来る日も、追求し、 けっして、一つの思考をも、理解せずに、逃さないのか。 または、私たちはあらゆる物事に、慣れてしまい、 自分たちの宗教に、慣れてしまい、 自分たちの生き方に、慣れてしまい、 あらゆる物事を受け入れるのか。 私たちが本当にほしいのは、楽な生き方です! 私たちがほしいものは、快適さ、 或る種の安全です - 外的にも、内的にも、 生物学的にも、客観的にも、です。 私たちは、けっして訊ねません- そもそも安全が、ありますか。 外的に、どの国、民族にも、安全が、ありますか。 共同体に、安全があるとき - 協和的な国家に、 または、独裁制のもと、 全体主義的や、別の種類の独裁者のもとで、ですが、 戦争があるとき、安全が、ありますか。 彼らは、一日おきに、戦争を永続化させつつあります。 外的に、安全がありますか。 脅威が、あります。 内的に、心理的に安全が、ありますか - それを、初めに発見するほうが、はるかに重要です。 内的な、深い安全、安心、 保護が、あるのかどうか。 ありますか。 安全とは何ですか。 外的に、あなたは、保険に入り、抵当権を持っているかもしれません。 そうね、その他すべて、です。 私は、それに入らないでしょう。 自らは外的に、安全を持たなければなりません - 住宅、 (集合住宅の)フラット、テントや、或る種の屋根で、 その下で眠り、生活する。 衣服と、それらです。 それは、持たなければなりません。 世界のあらゆる人間は、それを持たなければなりません。 それは、民族性、国籍をとおして、否定されつつあります。 - 理解されますか - 分割をとおして、です。 イギリス、フランス、インド、ロシア、アメリカ、等です。 で、内的に、安全がありますか。 自らは、幻影を考案できます - 神、 究極的な幻影を、です。 そして、それに縋りつけます。 取りすがれます。 私たちは、歴史的に、生きてきました - 幾千年に幾千年もの間、この幻影の中に、です。 司祭者、儀礼と、それらの事柄、権力とともに、です。 いいですか?権力、地位、身分。 外的に、それは、とても重要です - 権力がほしい人々にとっては、です。 権力は、変に破壊的です。 それが、政治的な権力でも、宗教的な権力でも、 自分の妻や夫に対する権力でも、 導師の権力でも、です - 神様!それを考えてもみてください。 すなわち、司祭者など、です。
1:12:39 で、人間たちにとって、どこに安全が、ありますか。 どうぞ、この質問を、あなた自身に、してください。 どこにあなたは、この地上に生きる人間として - 大地は、すばらしいですが、ゆっくりと破壊されつつあります。 どこに、私たちの安全が、ありますか。 安全は、何か恒常的なもの、 何か変化しないものを、意味しています。 消え去ることがなく、 確固とし、堅牢で、動かしえないもの、です。 そういう安全が、ありますか。 なぜなら、頭脳は、安全が必要であるからです。 さもないと、それは、その最高水準で、機能できません。 ですが、それは、様々な形の安全を、見つけてきました - 幻影、思想、家族、民族、国家、部族主義、 様々な形の外的な安全、ですが、 人間はけっして、深くて長続きし、変化しえない安全の 内的な感覚を、見つけたことが、ないのです。 そういう安全は、ありますか。 それがあるなら、自らは・・・ 自らが、それに出くわしたのなら、どの種類の恐れも、ありません。 それは、時がありません。
1:15:09 で、そういう安全が、ありますか。 思考は、その安全を、とうてい提供できません。 なぜなら、私たちが言いましたように、思考は、制限されているからです。 何でも、それが創案してきたものは、やはり制限されています。 私たちは、思考の制限の分野に、生きてきました。 そこには、けっして安全を持つ可能性が、ありません。 ゆえに、私たちの頭脳は、いつも探求し、訊ね、問い、要求しています。 恐れていて、不安定で、憂鬱であり - お分かりですね - 私たちの活動の過程全体です。 そして、安全は・・・安全といったものは、ありますが、 それは、大きな探究を、要求します。 自由の中での、安全。 自由は、何かからではありません。 恐れからの自由、心配からの自由など- それらは、すべて部分的で、 制限されています。 自由は、制限されていません。 そういう自由が、ありますか。 そして、誰が、その質問をしていますか。 牢獄の中の人が、「そういう自由があるのか」と、訊ねています。 彼は、牢獄を離れるとき、そういう自由を、見つけられるだけですが、 私たちは、牢獄の中に生きたいと思うけれども、私たちは自由を求めています。 いいですか?これは、明白な事実です。 私たちは、自分の牢獄を、愛しています。 または私たちは、それに気づいていません。 それが、指摘されるとき- 牢獄が、です - 自らがするすべては、言葉を受け入れようとすることです。 それらの事柄は、ご存じですが、 自らはけっして、牢獄を破りません。 けっして、牢獄を打ち砕きません。 そして、自由があるとき、智恵が、あります。 それは、私たちが進むにつれて、話すであろう智恵ですが、 その智恵は、自体が、絶対的な安全です - 揺るぎえない。 それは、何にも依存しないからです - 環境、人物に、 どの種の思想にも、です。
1:18:49 で、私たちは、今朝、ともに話し合いはじめました - 生きることの甚大な問題について、です。 それは、きわめて、きわめて複雑になりつつあります。 きわめて複雑なものには、きわめて単純に接近しなければなりません。 単純な精神ではなく、謙虚さと単純さの性質、です。 衣服の簡素さと、それらではなく、 旅を始める、頭脳の単純さ - そして、その終わりを見つけるまで、 進まなければならない、それです。
1:19:49 私たちは、1時間と15分間、話をしてきました。 今朝は、それで十分であると、思います。 あなたがよろしければ、私たちは、明日の朝、会うでしょう。 そして、私たちは、止めたところから継続するでしょう。