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BR84T2 - 恐れを、あのとてつもない宝石を、見つめること
第2回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年8月26日



1:58 昨日の朝、私たちが話していたことから、 継続してもいいですか。
2:12 もしよろしければ、ご注意を申し上げることが、重要であると、 私は思います - すなわち、これは、娯楽ではないのです。 これは、すてきな所での、週末のお楽しみではないのです。 天気が悪いのは、残念ですが、そういうものです! 私たちは、イングランドにいるんです! 私たちは、あなたに、どの思想、どの概念をも 説得しようとしていません。 または、一連の計画された調査でもありません。 むしろ、私たちは、できるなら、みんな一緒に、考えているのです - 私たちの問題について、です。 人間の、心理的な、心霊的な問題だけではなく、 また、私たちの外側、外側の、世界での問題も、です - そこは、危険に満ちています。 テロリスト、思想的な傾倒 - 共産主義者と、いわゆる民主主義者、 全体主義者と、独裁制。 また、世界で進んでいる大きな発明すべても、です。 ものすごい発明、創案。 人を破壊し、大地を破壊するだけではなく、 また、人間たちの頭脳を歪曲する、大きな発明も、です。 コンピューターが、あります - それは、とてつもなく重要なものです。 私たちは、それについて、幾人かの専門家に、話をしてきました - コンピューターを構築していて、関心を持っている人たちに、 アメリカなどと、ここで、です コンピューターはたぶん、人間たちができることを、ほぼ何でもできます。 はるかに速く考え、 はるかに速く計算します - 数秒で、です。 小さなチップに、百万のメモリーを、載せています。 また、人間たちの頭脳に、何が、起きようとしていますか - コンピューターが、ほぼ何でもできるときに、です。 人間の頭脳は、萎むのでしょうか。 どうぞ、これらすべての問題を、考慮してください。 人間の頭脳、私たちの頭脳は、奮闘し、格闘してきました。 攻撃的で、競争好きで、計算していて、 果てしなく働いている - お金を稼ぐためか、 何か思想上の概念と追求を、達成するために、です。 コンピューターは、私たちの誰ができるのより はるかにうまく、このすべてをできます。 そのとき、人間の頭脳に、何が起きますか - それは、今、それ自体にこうも占有されています。 それは、萎れてしまうのでしょうか。 または、それは、広大な娯楽の世界に、 娯楽産業に、捕らわれるのでしょうか - 映画、テレビだけではなく、 神の名において、世の中で進んでいる、 宗教的な娯楽すべてに、です。 それもまた、別の形の娯楽です - それが、インドの寺院で行われていても、 ローマにおいても、どこかのモスクにおいても、 それは、やはり娯楽です。 または、頭脳は、はるかに広大、偉大で深い何かでもって、 それ自体を占有するのでしょうか。 すなわち、利己的にではなく、自己中心的でない、内的な眼差しを、向ける。 むしろ、それらを越えた何かへ、向ける - 人が幾千年に幾千年もかけて蓄積してきたすべてを越えて、 広大な測量不可能な何かを、見つけるように、です - 言葉により、思考などにより測量しえないものを、です。
7:42 で、私たちは、心理的に世界の危機に、 私たちの意識の危機に、臨んでいるだけではなく、 また、世界には、現時点で進みつつある危機が、あるのです。 私たちは、昨日の朝、話していました - 私たちは、ともに、話し合っています。 私たちは、自分たちの問題について、話し合っています - 数学の問題とか、地理とか、他の種類の問題ではなく、 人間の問題です - 私たちのすべての恐れ、心配、 悲しみ、痛み、憂鬱、 長く持続する葛藤とともに、です。 私たちは、それらのことについて、話しています。 なぜなら、それが、私たちの生であるからです。
8:48 私たちは昨日、話をしました - 自らの生を、むだにすることについて、です。 むだにする、というのは、 実質的に無意味になりつつあることを、する、という意味です - 生計を立てることなどを、別として、です。 私たちは昨日、また、 時、思考と安全について、話していました。 頭脳は、完全に安全であるとき、 その最高の能力とエネルギーで 抜群に機能できるだけです - それが、何か幻影、何か概念、信念、信条、 何か夢想的な観念に沿って生きていたり、 取りすがっていないとき、だけです。 または、マルクスとレーニンなどの理想や、 私たち自身の民主主義の理想と、それらに取りすがっていないとき、です。 私たちは、時について、話していました - そして、時は、安全にどんな関係を、持っていますか。 時とは、明日です。 時とは、互いに続いていく千の明日です。 その明日に、安全がありますか。 私たちは、互いに理解しあっていますか。 語り手は、質問をしています。 明日の追求に、安全が、あるのかどうか - 未来の追求、に、です。 それは、時です。 いいですか? どうぞ、私たちは、ともにいろいろと話し合っています。 私は、自分自身へ、話していません。 これを、理解することが、重要です。 私たちが、自分自身に入り、自らの全体を、理解したいなら、です - 心理と呼ばれるもの、すなわち、私たちの存在のそれを、です。 それを、きわめて深く理解するには、 この安全の問いに、入らなければなりません。 私たちは、安全を探し求めます - 家族において、 共同体において、コミューンにおいて、 または、特定の派において、です。 それが、カトリックやプロテスタントなどの宗派であっても、 ヒンドゥー教などのであっても、です。 時の中に、安全がありますか。 質問を理解されますか。 未来に、安全はありますか。 そして、未来は、何ですか。 未来は、今の私たちなるものです。 今の自分なるものです - すべての騒動、心配、 憂鬱、暴力、自己中心的な活動、 悲しみ、慈しみと、 別離の痛みと、死の恐れとともに、 今、あるものです。 今の私たちなるものです。 それが、私たちの心理です。 それが、私たちの意識です。 それが、私たちの存在です。 それは、広大な経験、知識の結果です - 何千年に何千年もの間に、私たちが 蓄積してきたことのそれ - それが、今の私たちなるものです。 伝統、私たちの条件づけ - 言語的にも、ですが、それは、別の事柄です。 私たちは、頭脳が、言語的に条件づけられるのかどうかの、 問いに、入らないでしょう。 あなたは、これらに興味が、ありますか - 日曜日の朝に、です。 これは、説教ではありません。 あなたが、本当に自分の生に、興味があるなら - 語り手が話していることに、ではない。 自らが、この甚大な複雑な社会を、理解することに、興味があるなら - その中に、私たちは生きています。 不道徳すべてをともない、腐敗すべてをともない、 あらゆる社会が、あらゆる人間にもたらす大きな悲しみを、ともなって、です。 私たちが創り出してきた社会、 その社会は、私たちより異なっていません。 私たちが、それを創り出してきたのです - 自らの貪欲をとおし、 自らの暴力をとおし、自らの攻撃をとおし、 自らの競争好きなどをとおして、です。 私たちが、それを作ってきました。 私たちは、自らが作ってきたものに、捕らわれています。 で、私たちは、外的に社会と闘っているだけではなく、 それに適応しようとしていて、 また、それを拒絶していて、 その社会より引き下がっています。 それはすべて、この自己中心的な投影された活動の一部です - 世界のあらゆる人間のそれ、です。 彼が、最も小さな集落、村に生きていても、 世界の大都市にいても、です。 私たちが、このめちゃくちゃを、作ってきました。 私たちは、訊ねています - 今の私たちなるもののように、 今、私たちの未来は、何ですか。 未来は、すなわち、明日と そして、十億の明日ですが、 そこに、安全がありますか。 私たちは、望みます - その望みに - 私たちは、或る種の安全を、望みに、見つけようとします。 望みは、未来を含意しています。 で、私たちが昨日、指摘していたように、 私たちは、これを、きわめて真剣に、理解すべきです。 なぜなら、それは全的に、心霊的な革命をもたらすかもしれないからです。 私たちは、世界と私たち自身を、全然違ったように、見つめるかもしれません - 私たちが、時の本性を理解するなら、です。 時は、一つの点から別への距離を、行くことだけではありません。 時は、言語を学ぶために、必要です - 技能を学ぶため、住宅を建てるため、 技能を取得するため、車を運転するためなどに、 時は、必要です。 ですが、時は、すなわち、 なる動きは- 理解されますか - 私たちは、これらに一緒にいますか。 または、あなたは、催眠に掛かりつつありますか。 どうぞ、人物は、まったく重要ではありません。 語り手は、どんな面でも、重要ではありません。 が、彼が言うことは、重要です。 私たちは、それの真理を、あるいは、それの虚偽を見るのか、 それの論理、健全さ、道理を、見るのか。 それが、大事なことです - 個人的なこと、人格崇拝ではありません。 語り手は、単に電話です。 語り手は本気で、そう言っています。 それは、言葉だけではありません。
19:28 それで、私たちは、理解しようとしています - 時の中に、安全があるのかどうかを、です。 すなわち、私たちは過去です。 それについて、疑問はありません。 その過去は、現在において、作動し、自体を修正しています。 現在は、もし根源的な変化が、ないのなら - 何か表面を引っ掻くことではなく、 根源的な変化が、ないなら、 未来は、今の私たちなるものです。 で、すべての時、過去、未来、現在は、 今にあるのです。 いいですか? 本当に、これの意義を捉えられるなら、 私たちは、変化するとは、何を意味するかの含意を、見はじめます。 私は、これを辿っている誰かと、この事柄について、 親密に親しく、議論できたらなあ、と思います - ただ何気なく聞いているだけでない人と、です。 なぜなら、それは本当に、とても重要であるからです。 なぜなら、それは本当に、生への見方全体を、変更するであろうからです。 もしあなたが、明日がないことを、受け入れるなら、 あなたは、世の中をどのように、見つめますか。 あなたは、自分自身をどのように、見つめますか。 あなたは、神をどのように考えますか。 あなたは、何かになることを、どのように考えますか。 理解されますか。 何かになることは、時を含意しています。 あなたは、すべての時が、今に収容されているのが、分かります。 理解されますか。 そのとき、なることは、何ですか。 心理的に、いったいなることが、ありますか。 これらに付いてきておられるのかどうかと、思われます。
22:25 そのとき- これを理解されるなら - 関係とは、どういう意味ですか。 誰かに関係していること - その中に、時がなく、なることがない。 理解されますか。 私たちは少し、これに付いてきていますか。 または、あなたは、ヴィデオを見たいと思うのでしょうか。 なぜなら、これらは、本当に、重要な問いであるからです - 自分自身に訊ねなければならない、根源的な問いなのです。 それは、何ですか。 もし明日がないのなら、変化するとは、どういう意味ですか - なぜなら、明日は、今であるからです。 もし変化が、段階性を含意しているなら、 あなたは、時を認めます。 その時、未来は、今です。 で、即座に変化することは、可能ですか - まったく時が介入するのを、許さずに、です。 で、頭脳は、 段階性が、慣習になってきましたが - 段階的に(次第に)、良くなる。 段階的に、暴力を終わらせる。 段階的に、私の愚劣さを乗り切る、など。 頭脳は、それが慣習になっています。 私たちは、そのように教育されます。 あなたは段階的に、学ぶでしょう- 学校で、適切な書き方、 数学の学び方を、です。 次第に、二年を掛けます。 あなたは、医師になるために、幾年も掛けますが、 私たちは、その同じ感情、その同じ動きを、 心理的な世界全体に、拡大してきたのです。 で、私たちは、「私は段階的に、何かになるだろう」と、言います。 段階的(次第)に、どう冥想するかを、学ぶ。 何とまあ、理解されますか。 どう平和に生きるかを、段階的に学ぶ。 そのすべては、なるという概念への、 私たちの条件づけを、含意しています。 もし時が・・・もし、すべての時が、今にあるなら - それは、事実です。 それは、事実の発言です。 その発言は、真実でないかもしれません。 で、あなたは、自分自身で見つけなくてはいけません - その発言が、事実であるのかないのかをです。単に、語り手により、 影響されたり、強要されたり、奨励されたりするだけではない。 ゆえに、自らは、疑いをもち、問わなければなりません。 「それは真実なのか」と言う懐疑が、なければなりません。 それで、あなた自身の頭脳が、活動的であり、 あなた自身が、物事を、ありのままに見るのです。
26:41 私たちが言っていましたように、 すべての時、過去、現在と未来が、 今に収容されているのなら、 私たちの、互いへの関係は、何ですか。 葛藤の中にある男と女の間のその関係 - 各々が充足したいと思い、 各々が、自分自身を維持するように、相手を助けている。 もし自らが弱いなら、彼は、誰か強い人に、依存する、などでしょう。 それが、現在の葛藤の関係です。 その葛藤は、即座に終わりえますか- 段階的に、ではない。 質問を理解されますか。
27:42 そのとき、行為とは何ですか。 行為は、記憶に応じてであり、 過去により条件づけられています。 または、明日の行為です。 「私はこれをするだろう。 私は、理解しようとするだろう」、 「私は、あなたが言っていることを、聞こうとするだろう」と。 で、行為とは何ですか ・・・すべての時が、今であるときに、です。 質問を理解されますか。 どうかと思います! 自分は貪欲である。 または、自分は暴力的である。 暴力は、多くの様相を持っています - 順応、模倣、適応、調整、 または、身体的な身振りと、物理的に行為、 誰かを嫌うこと、など、爆弾を投げることです。 それらは、すべて、概念、観念、記憶、 理想などに、基づいています。 で、もし、明日がないなら- 理解されますか - そのとき、行為は何ですか。
29:53 いいですよ。 別の方から、表しましょう。 おそらく私たちは、より良くそれに取りかかれるでしょう。 世の中の人々のほとんどは、神を信じています - ですね? なぜなのか、私は知りませんが、彼らは信じています! 古代の文献には、 きわめて古代の文献には、神への言及が、まったくありません。 神はただ、最近の創案です。 その神を、私たちは崇拝し、それへ私たちは、祈りますし、 彼が、世界を築いてきた、世界を創造してきたのですが、 彼は、そのすべての本質である、などなどなど、です。 私たちのみんなは、世界のほとんどの人々は、 あの神々しさの感覚を、達成しようとか、悟ろうとかしています。 ですが、もし、明日がないのなら - 何が含意されているかを、理解されますか - 達成の感覚が、まったくありません。 あなたが、職に就く、 一定の地位に到達するとか、 あなたが、たくさんのお金を貯蓄するためとか、 権力のために、一生懸命働くこと以外は、です。 そのためには、たくさんの明日が、あります。 特に、お金と権力のためには、です。 あなたが権力の問いへ、入ったことがあるのかどうかと、思われます。 人々に対する権力、 多くの者に対する、わずかな者の権力や、 一人の権力 - それが、導師であっても、独裁者であっても、です。 または、理想を代表するわずかな者の権力、 人間の頭脳を制御し、形作るために、 この無量の力を持つこと。 教授、科学者と、 あらゆる人間が、 何らかの形で権力をほしがります。 男は、女に対して、女は、男に対して、 性的な力、 思考の力- これらを理解されますか。 「私は知っている。あなたは知らない。私があなたに、 それについて、すべてを語ろう」と言う人の権力。 知識の権力。
33:03 で、権力は、どの形でも、邪悪です - それが、教皇の権力であっても、 男の、自分の召使いに対する権力であっても、です。 私たちのみんなが、或る種の権力を、ほしがります。 私たちは、謙虚さと無垢の本質を、一度も 味わったことが、ありません。 「無垢(イノセンス)」という言葉は、(語源的に) 他の人を傷つけないとか、傷ついていない、という意味です。 進んでもいいですか。 または、あなたは、(後でゆっくり)ヴィデオを、見たいですか。 あなたは、語り手が言っていることを、実際に聞いていますか。 聞く。耳で、だけではなく、言葉を越えて聞く。 意義を即座に掴む。 説明に次ぐ説明、 叙述に次ぐ叙述を要求しない。 私たちは、そもそも聞きますか。 または、私たちは、言われていることを、いつも翻訳していますか - 自分の条件づけに、 自分の好き嫌いなどに、合うように、です。 もしも私たちが、この事実を、とても真剣に聞けたなら - すなわち、すべての時は、今であることを、です。 過去、現在と未来が、です。 そのとき、それの真理は、とてつもなく、活力を持ちます。 それは、生きものです。 一連の言葉、概念、信念だけではない。 そのとき、関係、変化と行為は、全然、違った意味を、持っています。
35:36 私たちは、今朝、また 恐れの問いを、考慮すべきです。 未来の恐れ - 起きるかもしれないこと、不安全の恐れ、 死の恐れ、 過去に起きてきたことの恐れ。 人間たちが、持ち運ぶ恐れが、こうも多くあります。 または、一つの支配的な恐れ、です。 ほとんどの人間は恐れを、持っています - 傷つくとの物理的な恐れだけではなく、 物理的に傷つくだけではなく、内的にも傷つく。 私たちは、その恐れを持っています。 私たちは、抑圧の恐れ、 職を失う恐れを、持っています。 この国(イギリス)での、失業の恐れ。 仕事とは何かを、一度も知らなかった18歳と30歳の間の人々が、います。 それで彼らは、乱暴になる、その他すべて、です。 この国と、世界の他の地方で、起きつつあること、です。 私たちは、特定の形の恐れについて、話していません - あなたの特定の形や、私の特定の形、ではない。 私は、世論を恐れているかもしれません。 私は、恐れていませんが、仮に、自分がそうだと、しましょう - 他の誰かが言うかもしれないことを、です。 そして、達成しないことの恐れが、あります - 覚りを達成しないこと - そうね、それが何を意味していようと、です。 多くの物事に私たちは、怯えています。 同意しますか。少なくとも、私たちは、これが見えますか。 私たちが言いましたように、私たちは、特定の形の恐れについて、 話していません。 恐れとは何であるのか、です。 質問を理解されますか。 自らは、暗闇を恐れているかもしれません。 または、自分の妻が言うかもしれないことなどに、怯えています。 それらは、すべて表現です - 恐れの中心的事実の、多数の表現です。ですね? で、私たちは、恐れの中心的事実、 恐れの根について、話しています。 様々な形の恐れについて、ではありません。 これらの根は、何ですか。 恐れは、私たちの生の主な要因の一つであったのです - 今だけではなく、過去に、幾千年、 幾世紀に幾世紀も前に、です。 最も原始的な人々は、雷の電光に、怯えていました。 で、彼らは、それを神にしました。 理解されますか。 私たちは、何でも自らが怯えているものを、神にします。 または、何か崇拝されるものとか、何か殺されるべきものに、です。 たぶんそれが、私たちが今、していることなのです。 で、私たちは、怯えた人々です。 昨日の痛みに、怯えています - 今日か明日、再発することに、です。 自分の視覚、聴覚を失うことの痛み、 そして究極的に、死ぬことのそれ、です。 私たちは、訊ねています - すべての恐れの原因は、何ですか。 恐れの起源、始まりは、何ですか。 その恐れは・・・初めに心理的に、内的に - 外的な物事の恐れではなく、初めに、内的なもの、 頭脳の内側、頭脳のまさしく隠れた部分の内側で、 頭脳のまさしく奥底、です。 恐れは、何ですか。 なぜ私たちは、それを解消してこなかったのですか。 もし、まったく恐れがないのなら- 内的に、まったく、です - 私たちは、神々を持つでしょうか。 そうです。世界中で、神々を作り、創造しているのは、恐れです。 で、自分自身で、理解し、見出すことが、 とても重要です - 全的に恐れより自由であることは、可能なのかどうか、です。 初めに、心理的に、内的に、主観的に、です。
42:04 あなたが、語り手に、こう訊ねるなら - 「あなたは、これを事実として、話していますか。 または、あなたは、主観的に、それより自由ですか」と、 そして彼が、「はい」と答えるなら、 そのとき、あなたは、どこにいますか。 質問を理解されますか。 で、語り手が自由であるのかないのかを、訊ねることは、 重要ではなく、自らが自由であるのかないのか、 そして、恐れより自由であることが、いかに重要で、 いかに本質的であるのか、です。
42:55 で、恐れとは何ですか。 深く、起源、始まりは、何ですか。 頭脳の深い水準において、 いわゆる無意識の恐れだけではない。 語り手は、意識を、無意識的なものと、意識的なものに、 分割したくありません。 それは、すべて意識です。 あなたは、それらの言葉を弄べますが、意識は全体的です。 あなたは、それを分割できます - 利得のためか、面白さのためか、 あるいは、様々な他の主観的な理由のために、です。 ですが、意識は、全体的です。 それは本当に、分割不可能ですが、 私たちは、それを分割したい、砕いてしまいたいと思います。
44:01 で、この問いに、入りましょう- 恐れの根は、何ですか。 それは、思考ですか。 思考は、蓄積された記憶です - 知識、経験より生まれています。 思考は、知識より生まれて、知識は、制限されています。 それで、思考は、制限されています。 恐れは、 初めに、主観的に、初めに、内的に、 その恐れは、思考より生まれていますか。 明日について考えること、起きるかもしれないことについて、考えること。 自分の妻は、逃げ去ってしまうかもしれない。 実際の現在ということに立って、ではなく、 未来や過去ということに立って、考える。 それが、恐れの原因ですか- 思考が、ですか。 それが、恐れの原因であるなら - 語り手は、そうであると、言います。 どうぞ、それを受け入れないでください。 そのときあなたは、思考をどうするのでしょうか。質問を理解されますか。 もし私は、あなたを恐れているなら - 明日、あなたたちは、大きな聴衆にならず、 小さな聴衆になるかもしれないからです。 私は怯えているなら、 私は、それの原因を、見出したいと思います。 原因は - 私は、大きな聴衆を持ちたいのです。自分自身のために・・・ そうね、あなたたちが、それを理解されるのが、うれしいです! ・・・などです。 私は、恐れの核心、起源を、見つけたいと思います - それがどう来るのかを、です。 私たちが先日、言いましたように、自らは、分析していません。 自らは、見守っています。 自らは、知覚しやすい。それは敏感さを、必要とします - 結論、ではなく、「私は、それを取り除かなければならない。 私は、それについて、何かをしなければならない。 私は、それより、逃避しなければならない」などと 言うことではなく、見守ることを、です。 きわめて明らかに、見守る - どの方向づけもなく、どの動機もなく、 自分自身で、見る、見出す - 思考が、この恐れの起源であるのかどうかを、です。 そのとき、私は自分自身に、言います- 「私は思考を、どうするのだろうか。 それが恐れの原因であるなら、私はどうやって思考を、止められるのか」と。 理解されますか。私たちは、互いに付いてきていますか。 さあ、どうぞ。 そのとき私は、訊ねなくてはなりません - 思考を止める実体は、誰ですか。 いいですか?付いてきていますか。 その実体もまた、恐れより自由でありたい思考です。 ですね? で、一つの思考が、別の思考と闘っています。ですね? 私は、それを明らかに見ますか - すなわち、これが、二つの思考の間の闘いであることを、です。 「私は恐れより、自由でなければならない」と言っている思考と、 「思考の起源は、何なのか」と言う思考です。 「思考の起源は、まさに考えること自体である」と、思考は言います。 そのとき、別の思考は、 「私はどうやって、考えるのを、止められるのか」と、言います。 問題を理解されますか。 で、葛藤が、あります。 私たちは、互いに付いてきていますか。 で、葛藤が、あります。 そのとき私は、想定します - 私はどうやって、その葛藤を終わらせられるのか、と。 で、私は、このことを築きます - 次から次のもの、次から次の連想を、です。 そして、私は、恐れよりはるか遠く離れています。 私は、恐れを解決しようとしはじめて、 そういう混乱に、そういう葛藤、そういう悲惨に、終わってしました。 そして、いまだに恐れは、残っています。 一分間、待ってください。
49:33 そのとき、私は訊ねます。 自らは訊ねます - 恐れの別の原因が、ありますか。 時。 時は、動き、一連の動きです。 時は、明日ですが、 明日、私は、自分の職を失うかもしれません。 私は、盲目になるかもしれません。 私は・・・その他すべて、です。 で、時は、恐れの要因です。ですね? で、時と思考は、恐れの根です。 時は、思考です。 で、それが、恐れの根です。 私は、これを理解します。 自らは、これを理解します - 知的に、言語的に、です。 それは、よく気をつけて、説明されてきました。 明日としての時、過去としての時、現在としての時、 明日のみが、私にとって、全く重要です。 千の明日、明日のみが、全く重要です。 なぜなら、私はそれを、段階的に取り除きたいと思うからです。 で、私は、見ます。 とても明らかに、自らは見ます - すなわち、時と思考が、恐れの根である。 時、思考が、恐れの根であることを、です。 私は、それを観念として、見ますか。 または、私は、それを概念として、見ますか。 または、私はそれを、何か現実的、事実のこととして、見ますか。 観念として見てから、 働いて、その観念を事実にするのではない。 私たちは、互いに付いてきていますか - 少なくとも、少しは?
51:56 一般的に起きることは、こうです- 私は、発言を聞きます。 それが聞こえます。すべての時は今である、というように。 私はそれを、よく理解できません。 私はそれを、観念にします。 それを概念に、します。 そのとき私は、その概念に従おうとします。 その概念は、現実ではありません。 で、またもや、私は葛藤の平野に、入ります。 で、私は、自らは、この事実を、完全に聞けますか - すなわち、時と思考は、恐れの根である。 時・思考は、恐れの根、始まりである、と。 ただそれを知覚すること。それについて、何をするのか、ではない。 理解されますか。 私たちは、それを・・・ 不幸にも、私たちは、それを達成したいのです。 で、私たちは、努力をしつつあります。 ですが、あなたは、静かに、静寂に聞くなら - 催眠に掛かるのではなく、 それを静かに、深く聞く。 そのとき、あなたは、見ます。 そのとき、その静寂の知覚こそと、 見守ることが・・・ 何の努力もなく、です・・・ 恐れは、まったく、居所を持ちません。 これは、ロマンチックな幻影ではありません。 これは、事実です。 あなたが、動きなく、何かを保つとき、 あなたは、あの宝石の美しさや醜さを、完全に見ます。 ですが、私たちは、けっしてその宝石を、見つめません。 私たちは、「何と美しい」と言って、それを手渡します。 ですが、私たちは、それを自らの手に保つとき - 世界で最もとてつもない宝石を、です - それを、気をつけて、見つめる。 何ととてつもなく複雑で、 何と繊細で、微妙であるのか、その能力、こうも偉大である。 自らは、それが何であるかを、学びはじめます。 学ぶことは、記憶することとは、異なっています。ですね? 神様! 私たちは、一つの講話であまりに多くを、言っていますか。
55:01 聴衆: ええ。
55:03 K: ええ? 全くそのとおり。 あなたは、正しい。 一つの講話で、あまりに多くを、言っている。仕方ない。すみません!
55:16 あなたはかつて、恐れを保ったことが、ありますか。 保ってください。 それより動いて、離れないで、 それを抑圧しようとか、それより逃げ去ろうとか、それを超越しようとか、 それについて、あらゆる種類のことを、しようとせず、 ただ、恐れの深さ、恐れのとてつもない微妙さを、 見てください。 自らが、何の動機もなく、それを見つめているとき、 あなたは、それらに気づけるだけです - それについて、何一つ、しようとせずに、です。ただそれを見守る。
56:06 痛みについて、同じことをできます。 もちろん、極度の痛み、ではない。 あなたは、気をつけて痛みを、見守るとき - 即時に、歯医者に駆けつけようとせずに、です。 あなたが、それを見守り、それとともに、留まるとき - 陰鬱に、ではなく、 起きつつあることすべてを、見る - 自分がどのように、それに反応するのか、などなどを、です。 あなたがそうするなら、痛みは減ります - 当然です。 同じように、あなたがこの宝石を、保つなら - 恐れは、とてつもない宝石です。 何か、とてつもないものです。 それは、人間たちを、四万年以上の間、支配してきました。 あなたが、それを保って、見つめられるなら、 それが終わるのを、見はじめます - 段階的に、ではなく、それが完全に終わることを、です。 それは、こういう意味です - 恐れは、私たちの自己中心的、自我本位の活動の一部です。 自我、「私」が、孤立しているとき、恐れが、あります。 「私」、自己、 この自己中心的な動き - それは分離的であるから、 それは、葛藤とその他すべてのまさに本質であるから、 それが、恐れの根です。 ですが、これが聞こえるとき、あなたは、こう言うでしょう - 「自己中心的でなくて、どうやって、世の中に生きられるのか」と。 いいですか? これは、自然な、健康的な問いです。 ですが、初めに、自由であってください。 そのとき、あなたは見出すでしょう - 逆の方から、ではない。 私が言っていることを、理解されますか。 それは、「山の向こう側には、何があるのか」と 言うのに、似ています。 あなたは、見出すには、山に登らなくてはいけません。 ですが、山の向こう側に何があるのかの叙述は、 やはり、叙述です。 ですが、もしも、山に歩いて登ったなら、 あなたは、見出すでしょう。 そうね、私たちがほしいのは、保証です。 私が、これをあきらめるなら、あなたは私に、あれを保証してくれるのでしょうか。 そして、保証は、ありません。 実際に、あきらめることは、ありません。 ですね?
59:32 で、私たちは、今、訊ねています - 思考と時、または、思考・時が、 恐れの事実ですか。 私たちは、そうであると、見ます。 頭脳は、条件づけられ、形作られ、枠に入れられてきました。 恐れを、生の道として、受け入れてきました。 頭脳は、手放すのを、渋っています。 それは、恐れの領域に、何千年の間、生きてきました。 それは、それに慣れてきました- 細胞すべてが、 そうね、内側で進んでいるすべて、ですが、 頭脳は、「それは自然だ。それは、私たちの生の部分だ」と言います。 自らは、ものすごい衝撃をとおして、学ぶのか - それは、頭脳にとって悪いのです。 あるいは、あなたは、即座に、事実が見えます。 ゆえに、即座に行為が、起きます。
1:01:02 私たちは、安全について、話していました。 明白に、未来に安全はありません。 いいですか? 私たちはそれが分かるのかどうかと、思われます。 未来は、あなたが、 「私は明後日、安全になるだろう」とか、 「神がおられて、彼の中に、私は安全を見つけるだろう」とか言うとき、です。 または、何かの形の幻影の中に、です。 時の中に、安全がありますか。 どうぞ、それに入ってください。 または、真理を理解する中に - すなわち、すべての時は、今にあることを、です - ただ一つ、安全が、あります。 完全な安全が、です。 今は、究極の安全です。 理解されますか。 さあ、みなさん!理解されますか。 今は、今のあなたなるものです。 あなたなるものは、あなたの意識です。 いいですか? あなたの意識が、あなたなるものです。 あなたの意識は - 意識は、あなたの恐れ、あなたの切望、あなたのあこがれ、 あなたの欲望、あなたの充足、あなたの憂鬱、あなたの心配、 悲しみ、痛み、その他すべてを、収容しています。 あなたの神々 - そのすべてが、あなたの意識です。 その意識の中に、 この、時と思考の動き全体が- いいですか? あなたがこれらを理解されるのかどうかと、思われます。 あなたは、あなたの意識なのでしょう。 いいえ? もちろんです。 いいえ? で、あなたの意識は、あなたの信条、 あなたの信念、民族性、国籍、 あなたの恐れ、あなたの神々です。 あなたは、イギリス人、フランス人、ドイツ人、インド人、シーク教徒です。 そして、これらすべての分割 - それらに、思考は、世界と人間たちを、分割してきたのです。 で、そのすべての意識が、あなたです。 利己的な活動と、 利己的でないようにすること、などなどです。 その意識の全体が、あなたです。 この意識は、 残りの人類の意識です。 なぜなら、世界のあらゆる人間は、 あらゆる人が、最も原始的な者たちから、 最も無教育な者たちから、 最も高度に洗練され、教育された者たちまで、 彼らは、このすべてを、経てゆくからです。 - 信条、恐れ、あこがれ、憂鬱、心配、 悲しみ、痛み。 世界のあらゆる人間が、それを経てゆきます - 彼が、共産主義者でも、社会主義者でも、資本家でも、 民主主義者でも、どの集団に所属していなくても、です。ですね? で、この意識は、すべての人間により、分かち合われています。 ですね?残念ながら、あなたは それを受け入れないだろうと、思います。ごもっとも。 なぜなら、あなたは、宗教的に、そして、他の形で、 訓練され、教育されてきたからです - すなわち、あなたの意識は、あなたのであり、他の誰のでもない、と。 誰かが、やってきて、「気をつけて、それを見つめてください」と言います - 「あなたが、内的に、何であるのかを」と。 外的な刈り込みは、異なっているかもしれませんが、 内的に、あなたの意識は、 はるか遠くの村の人に、似ています - 原始的で、醜く、無教育です。 彼は、あなたにそっくりです。 ほとんど、あなたと同様です。 で、あなたは、まったく個人ではありません。 私は知っています - このすべては、受け入れることが、きわめて困難です。 あなたは、残りの人類です。 あなたは、人類です。 あなたが、自分自身を分離するとき、すべての問題が、始まるのです。 分離は、葛藤、恐れ、孤立を、引き起こします。 あなたたちの天国は、孤立した聖霊で、充たされています。
1:07:26 で、これは、事実ですか、そうでないですか。 または、ロマンチックな概念だけですか - すなわち、あらゆる人間が苦しむ、ということは、です。 物理的に、あるいは、心理的に、内的に、です。 あらゆる人間は、何らかのことについて、心配しています。 あらゆる人間が、怯えています。 彼は、何か慰め、望み、神、父親像か、母親像が、 ほしいのです - 何でも、お好きなものを、です。 で、あなたの意識は、私たちのみんなにより、分かち合われています - 私たちのみんなにより、人類すべてによって、です。 ゆえに、あなたは人類です。 何か分離したイギリス人、フランス人ではない。後生です! これらを理解されますか。
1:08:38 そのとき、自らが持つ無量の責任を、悟りはじめます。 そのとき、愛の本性を、悟りはじめます。 あなたは、他の一人を愛しているかもしれないが、 その愛は、一人に制約されていません。 なぜなら、あなたは、全人類であるからです。 あなたは、世界です。 そして、世界は、あなたです。
1:09:28 立ち上がってもいいですか。