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BR84T3 - すべての悲しみを終わらせることは、可能なのか
第3回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年9月1日



1:58 私たちは、先の日曜日に止めたところから、つづけてもいいですか。 私たちは、生の様々な問題について、話していました - テクノロジー的な問題ではなく、人間の問題について、です。 私たちの心理的な傷、 自らが子ども時代から受ける損傷 - それらを、私たちは、生涯をとおして、ずっと持ち運びます。 これらの傷は、私たちが、 他の人たちと本当の関係を持つのを、阻止します。 これらの傷は、恐れをもたらします。 私たちは、あらゆる形のさらなる傷に、抵抗します。 ゆえに、私たちは、自分自身のまわりに壁を築かなくてはいけません。 それにより、ますます孤立し、神経症になる、などです。 私たちは、それについて話しました - すなわち、 私たちは、自分自身について、自分自身でイメージを創り出してきたのです。 これらのイメージは、政治的でも、宗教的でも、 または、自分の心理的なイメージ、すなわち、主観的なイメージでも、 これらの傷の原因です。 傷つくのは、それらイメージです。
3:54 そして、私たちは、関係について、話しました - 本当に良い、健康的で、理性的なものを、持つことが、 いかに重要であるのか、です - 男と女の間などに、何も葛藤なしに、です。 私たちは、それに相当に深く入りました。
4:21 私たちは、先の日曜日、恐れと、 時の問題全体について、話しました。 私たちは、時は過去の動きであると、言いました - 現在において、自体を修正していて、 未来は、今あるものです。 それで、私たちは言いました - すべての時は、現在に収容されている、と。 もしも、本当に深く、その問いに入れたなら - 時の本性、思考の本性に、です。 そして、時は思考です。 私たちは、それについて、ずいぶん話をしました。 もし、すべての現在が、もし、すべての時が、 今に収容されているなら、そのとき、変化とは何ですか。 そのとき、そもそも変化が、ありますか。 そして、行為とは何ですか。 また、関係とは何ですか - 明日がないとき、です。 明日と、さらなる千の明日は、現在に収容されています。 現在において、根本的な変化が、ないのなら、 未来は、今の私たちなるものです。 私たちが言いましたように、 私たちは、記憶の蓄積全体です。 私たちは、記憶です - 何千の経験をとおし、 経験からの知識をとおして、集められたのです。 その知識は、制限されています。 ゆえに、すべての知識は、過去、現在においても、 未来においても、いつも制限されています。 思考は、また記憶の応答ですが、 その思考もまた、制限されています。 で、私たちは、今朝、幾つものことを、 探究しようとしています - たとえば、道徳、正義、 悲しみを完全に終わらせることは、可能なのかどうか、です。 そして、時間があるなら、私たちはまた、ともに、 死ぬことの本性とは何か、 それは何を意味するかについて、話すでしょう。 また私たちは、指摘したいと思います- これは、娯楽ではないのです。 知的、ロマンチック、感傷的なそれではない。 これは、語り手による宣伝ではないのです。 彼は、あなたを、招待していません - どの理論にも、 どのイデオロギーにも、どの形の説得にも、です。 また、私たちは、指摘したいと思います - 彼は、導師とか、それらの戯言ではないのです。
8:43 で、私たちはともに、話し合うべきです - すなわち、あなたと語り手は、ともに究明するのです。 ゆえに、その究明が、真実であり、 深くて継続的であるとき、 そのとき、それは、あなた自身のです。 そのとき、それは、語り手と何の関わりも、ありません。 私たちが、しょっちゅう指摘しましたように、 語り手は、単に電話機です。 彼が言うことが、重要です。 それは、私たち人間存在の全体に、 心理的に、主観的に、内的に、及ぶという意味で、重要です。 ゆえに、もしも私たちが、ともに考え、ともに探検でき、 ともに長い旅をできたなら、 そのとき、その旅は、その究明は、あなたのです。 ゆえに、それは、あなた自身の理解です - Kが話していることへの理解ではない。 それは、きわめて明らかです。
10:08 そのとき、私たちは、道徳について、話をすべきです。 「道徳」(モラリティ)という言葉は、(ラテン語の語源より) 振るまい、作法、習慣、という意味です - どの種類の文化、環境によっても、です。 時に束縛しない道徳が、ありますか。 私たちはともに、これを進められますか。 時の平野の中にない道徳。 私たちの道徳は、相対的です。 私たちの道徳は、習慣、慣習、作法、振るまいですが、 そのすべては、思考から生まれるのか、 そして、思考は制限されているので、 ゆえに、道徳は、制限されていて、相対的です。 あるいは、それは、様々な文化、環境などをとおして、 もたらされています。 そのすべてが、相対的です。 ゆえに、時と思考の平野に、あります。 私たちは、ここに一緒にいますか。 私たちは、訊ねています - 時と思考の区域の中にない、道徳が、ありますか - すなわち、行為、作法が、です。 これを発見することが、重要であると、思います。 なぜなら、その上に、自由があるからです。 自由そのもの、それ自体が、です - 何かからの自由ではない。
12:26 で、私たちは、おそらく初めに、それについて、話すべきです。 自由とは何ですか。 自由は、束縛からの反応ですか - さびしさから、あらゆる形の憂鬱、心配 さびしさ、絶望などからの反応ですか。 それらからの反応が、あり、あなたがそれを、自由と呼ぶなら、 それは、自由ではありません。 それは単に、或る条件への応答です。 自由はまた、私たちが今、理解するところ、 選択をも、含意しています。 私たちは、ここに来ることや、そこへ行くことを、選択できます。 様々な職、業務、天職の間で、選択できます。 自分が誰と結婚するだろうか、結婚しないだろうか、などを、選択できます。 選択は、混乱を、含意しています。 選択は、自由ではありません。 自由は、条件への反応ではありません。 で、そういう自由が、ありますか。 私たちは、ここに一緒にいますか。 テントがあまりに暑すぎないことを、願っています。 または、快適に暑いことを、です。
14:26 で、これは本当に、自分自身に訊ねなければならない、 きわめて深刻な問いなのです - 自由は、束縛からか、牢獄からなのかどうか、です。 それは、牢獄から離れて、私たちが自分自身で、創り出してきたのです。 ゆえに、それはやはり、牢獄の区域の中に、あります。 自らが牢獄の中にいるなら - 物理的にも、内的に、主観的にも、ですが - そのとき、物理的な制御、 一定の区域の中に閉じ込められること、 そして、それから逃避することが、自由と呼ばれます。 心理的に、自らが、 自分自身で、牢獄を築いてきました - 自分の欲望により、 自分の心配、さびしさなどによって、です。 それからの自由は、やはり、 その牢獄、心理的な牢獄の区域の中に、あります - 私たちは、一緒にいますか - ゆえに、それは、まったく自由ではありません。 で、反応でない自由が、ありますか。 自由そのもの、それ自体が、です - 何かから離れたり、何かからの、ではない。
16:15 で、自分自身で理解しなければなりません - なぜ私たちは、いつも、逃避しようとか、合理化しようとか、 有るものを乗り越えようとしているのか、です。 有るものを、理解するなら - 単に知的に、言語的に理解するだけではなく、 それの深さを見る、それの真理、それの実体、 それの生命力を見る。 そのとき、観察する - それを知覚し、それとともに留まる。 そして、その動きを探検し、 学ぶ。 記憶するのではない。 そこから、きわめて深く入るなら、 そのとき、自由そのものが、あります。
17:27 さて、道徳は、やはり時と思考の区域の中に、あります。 私たちはそれに同意するだろうと、思います。 国々、諸文化、宗教的な条件づけ、 民族的な束縛などに依存して、です。 で、それは、相対的な道徳です。 すべての時と思考より全的に自由な道徳が、ありますか。 私たちは、これに付いてきていますか。 または、語り手は自分自身に、話していますか。 そういうものを見つけるか、それを発見するには、 または、時のない道徳の、あの感覚をもって生きるには - 思考により組み立てられていない、 ゆえに、制限され、相対的で、 過ぎゆくのではない道徳の感覚をもって、です。 私たちが言いましたように、きわめて深くそれに入るには、 時が、理解されなければなりません- 時の本性が、です。 時は、一連の出来事と動きです。 さて、時はまた、四万年か、五万年の、 この地上での人間存在の蓄積全体です。 彼らのすべての経験 - 人種的、部族的、宗教的な、恐れなどともに、です。 そのすべてが、過去、伝統です。 その過去が今、作動し、働いています - すなわち、過去が、私たちを条件づけつつあります。 未来、数々の明日は、 過去の継続です - 修正されて、ですが、 それはやはり、その根を、過去に持っています。 今、根本的、根源的な変化が、ないのなら、 数々の明日は、やはり、今あるものに、なるでしょう。 で、明日は、今です。 未来は、今です - ですね? これを理解することは、相当に簡単であると、思います。 私たちは、生物学者と科学者たちによれば、 この地上に、多かれ少なかれ、五万年の間、 生きてきました。 私たちは、その時をとおして、進化してきたと、考えられています - その長い時の持続をとおして、 物理的にも、生物的にも、 また、私たちの意識の内容すべてが、です。 この長い時の期間の中で、 私たちはやはり、きわめて原始的で、 野蛮で、残酷、破壊的なままに留まっています - 戦争です。 で、私たちは、ほぼほぼ変化してきませんでした。 なぜなら、私たちは、やはり暴力的であるからです - おぞましいほど暴力的です。 テロリスト、戦争、 今日、世界で進んでいるすべてのこと、です。 これは、多かれ少なかれ、五万年の間、進んできたのです。 おそらく私たちは、一発の爆弾で、百万の人々を、殺しませんでした。 私たちは、棍棒や矢で他の一人を、殺しましたが、 やはり、他の人間たちを殺す本能がいまだに、私たちにあります。 で、私たちは、これら長い進化の後で、 私たちはやはり、野蛮人です。 そして、私たちは、野蛮人に留まるでしょう - 私は、その言葉を使っています。 自らは、その言葉を使っていますが、 (古代)ローマでの意味ではなく、本当の意味において、です。 ローマでの(野蛮人、バーバリアンの)意味は、 古代ローマでは、誰でも ローマ帝国に帰属していなかったり、 ラテン語を話さなかったり、などの者でした。 私たちは、その「野蛮」という言葉を、使っていますが、 私たちは、とてつもなく原始的で、自己中心的であり、 驚くほど暴力的で、信じがたいほど暴力的で、 残忍である、という意味で、です。 私たちの仕草、私たちの言葉などにおいて、です。 私たちはいまだに、部族主義者です- イギリス人、フランス人、 そして、シーク教徒とその他すべての分割をともなったインド人です。 私たちが、幾世紀もの進化の後で、今、そうであるなら、 私たちはやはり、幾つもの明日、そうであるでしょう。 で、未来は今です。 いいですか?
23:53 今、完全に変化することは、可能ですか - 明日の概念、観念なしに、です。 そういう根源的な、時のない変化が、あるのなら、 それが、真の自由です。 そういう種類の自由が、あるとき、 恐れは、ありません。 ゆえに、何も・・・ すべての神々の創案、儀礼とそれらは、消え去ります。
24:43 私たちはまた、ともに話し合うべきです - 苦しみとは、何ですか。 なぜ人間たちは、 テクノロジー的に、こんなに広大な進歩をしていて、 知的にも、身体的にも、 有能であるのに、 なぜ、これらすべての年と世紀の後で、 なぜ私たちは、悲しみを終わらせていないのですか。 私たちは、みんな、苦しみます - 最も高度に洗練された個人から、 最も原始的な、無教育などの人物まで、です。 私たちはみんな、苦しみます- 様々な理由のために、 食べ物の欠如から、衣服の欠如などから、 物理的な意味で、苦しみます。 インドには、そして、他の所には、 ほとんど食べ物を持たない人々が、 何千も、何百万も、います。 また、戦争をとおした、何百万の人々の苦しみも、あります - 北アイルランドで、レバノンなどで、起きつつあること、 アフガニスタンとインドでも、です。 その戦争の苦しみは、何千、何万年も前から、ですが、 戦争は、継続します。 それらの戦争は、人類に、無量の苦しみを、創り出してきました また、自分の友だちを失うなら、苦しみが、あります - 自分が長年、一緒に生きてきた人を、です。 また、充足できないこと、達成できないこと、 ならないことなどの苦しみも、あります。 で、広大な人間の苦しみが、あります - 私たちは、それらの(存在)、です。 その苦しみは、何千年の間、存在してきました。 また、個人的な苦しみも、あります - 制限された苦しみ、です。 私たちは、それが、制限された苦しみであるとは、考えません。
28:16 なぜなら、それは、私たちのであるからです - 私の苦しみだ、と。 で、苦しみの原因は、何ですか。 なぜ私たちは、こんなに長い時の持続の後で それを、解消してこなかったのですか。 私たちは、人類のこの大きな苦しみにいったい、気づいていますか - また、私たち一人一人のこの苦しみにも、です。 私たちは、気づくとき、それは、大きな衝撃です。 ほぼ自分を麻痺させかねない何か、です。 すべての苦しみは、自分の見通しを、 狭く、些細に、とても破壊的にします。 私たちが、この問いを解決してこなかったのは、なぜですか。
29:25 キリスト教徒は、この問いを回避してきました。 ヒンドゥー教徒は、シーク教徒とそれらすべての部族的な分割や 宗教的な分割を含めて、 彼らは、業(カルマ)という説明を、持っています。 すなわち、自分がすること、蒔いた種子を・・・などなどと、です。 あらゆる人が、苦しみに或る種の説明を、持っています。 ですが、説明、苦しみの原因は、 私たちが単に、それを説明し、それを言葉に表すだけなら - 私たちは、今すぐそうするでしょう。 言葉は、この感じ、痛みの現実ではないことを、知って、です。 それで、言葉は、そのものではないのです。 説明、叙述は、現実ではありません。 で、私たちは、言葉に捕らわれているなら、 私たちは、苦しみの実体、性質、深さを、 理解することができないでしょう。 で、初めに、私たちは言葉より、自由でありえますか。 これは重要です。 なぜなら、言葉は、 私たちが考えるのを、条件づけるからです。 共産主義者や社会主義者などのような言葉は、 それらはすでに・・・それらの言葉は一定の意義を、持っています。 私たちは、それらの意義を、受け入れます。 かくして、私たちは、言葉により、条件づけられます。 どうぞ、私に、話を終了させてくださるでしょうか。 私たちは、先の火曜日と木曜日に、訊ねました - 私たちは、与えられていた質問の多くに、答えました - すべての質問に、ではない。 なぜなら、それは、不可能になるだろうからです。 二百か、三百の質問が、ありました。 それは、おそらく数週間が、掛かるでしょう。 私たちは、数週間、ここに座っていられません。 少なくとも、私たちはできません。
32:14 聴衆: でも、あなたは、苦しみと苛立つことについて話していました。 それは、苦しむことですよね。

K: 何ですか。
32:22 聴衆: 苦しみと、苦しみについて悩まされ、 苛立つことについて、話していましたね。

K: 気になさるでしょうか - あなたは、先日、この質問を、なさるべきでした。 で、あなたが、私をどうか、許してくださるなら、 私は、自分が言いたいことを、進めるでしょう。 あなたが、気にされないことを、望みます。
32:47 この苦しみが、あります。 「恐れ」のような言葉は、恐れを、もたらしますか。 その言葉自体が、です。 または、恐れは、その言葉より、自由ですか。 愛のように、です。 それは、言葉です。 しかし、その言葉は、現実のものではありません。 で、「苦しみ」という言葉 - それは私たちが考えるのを、形作りますか。 ゆえに、よく気をつけなくてはいけません - もし指摘してもいいのなら - 私たちが、言葉の奴隷でないように、です。 それは、全く困難です。 父親、母親、妻、夫。 それらの言葉は、ものすごい意義を、持っています。 それらの言葉は、私たちが考えるのを、形作ります。 言葉は、無量の力を、持っています - 破壊的なのか、あるいは、 言葉は、理解されなくてはいけません - その深さ、その意味、その性質、その音色を、です。
34:31 で、私たちは、説明、叙述を、取り扱っていません - または、私たちを絡めとる言葉を、です 私たちは、しようとしています - 実際には、私たちは、しようとしているのではない。 私たちは、尽力しています 苦しみとは何かという問いに、入りかけています。
35:07 私たちが苦しむとき、激しい痛みが、あります - 物理的な痛みだけではなく、 主観的、心霊的、内的な痛みも、です。 その痛みは、神経に作用します。 私たちの思考全体は、縮こまる過程です。 それは、私たちを、絶望的なさびしさの感覚へ、目覚めさせます。 私たちは、事実を言っています - 想像力豊かな発言ではなく、 事実、です。 有るもの、です。 あの衝撃の感覚、さびしさの感覚は、 何か慰めを見つけたいとの衝動を、もたらします - 助けてほしいとの感覚を、です。 あなたは、これらを経てゆきませんか。 助けてもらいたいとの欲望は、苦しみの原因の一つです。 これを理解されますか。 私たちは、いつも助けを、探し求めています。 そういうわけで、あなたたちのほとんどは、たぶんここにいるのです。 私たちは、助けてもらいたいのです- 自分の問題について、 自分の秘密の、対立する欲望について、 自分の秘密のあこがれなどについて、です。 それは、痛み、不快、困惑の感覚などを 引き起こすのです。 私たちは、助けてほしいのです。 私たちは、他の一人から助けてもらいたいとき、 それが司祭者であれ、 精神科医などであれ、 そのとき、私たちは依存します。 そのとき私たちは、その依存に、執着します。 それが、苦しみの基本的な原因の一つです。 いいですか? どうぞ、これを理解することは、重要です。 なぜなら、すべての私たちの神々、 私たちの祈りなどは、 世界中のあらゆる人間の要求であるからです - 助けを探し求めているのです。 ゆえに、助けてもらいつつあるとき、自らは弱くなります。 あなたは、苦しみ、痛みより逃避するために、 常に、或る種の薬物、錠剤に、依存しているなら、 あなたは、それらの薬物、錠剤、医師に、 もっともっともっと、依存します。 ここに医師がおられないことを、願っています。もし、おられるなら、 私たちは、医師が必要ですが、私たちは、依存について話しています。 私たちは、こう言っています - 依存があるところ、 執着がある。 執着は、悲しみの原因の一つです。 私は、自分の妻に、執着しているとき - 或る建物や、何らかの思想的な概念に、です。 私は、それに執着しています。私は、それらなしに、生きられません。 それらは、私にとって、とても多くを、意味しています。 私の神様、私の信仰、私の信念、私の儀式。 私は、それらすべてに依存するなら、 そして、それらが問われるとき- それらは、問われるべきですが - 誰かが、それらについて、懐疑的になるとき、 あなたは、苦しみます。 で、全的な自由が、ありえますか - 反応ではありません - すべての種類の執着から、です。 執着は、楽しみの記憶に対して、です。 付いてきておられますか。 性的な楽しみ。それへの執着、それに取りすがること。 そして、権力の楽しみ、 知識の楽しみ、 それへ執着すること、取りすがること - まるで、何か具体的なものが、あるかのように、です。 この執着が、あるところ、悲しみが、あるにちがいありません。
41:04 なぜ私たちは、執着していますか。 私たちは、問うています。 私たちは、これを探究しています。 私たちは、あなたは、してはならないとか、 しなければならないとか、言っていません。 語り手は、「してはならない」とか、「するな」を、 持っていません。 それは、あなたしだいです。 私たちは、訊ねています - 執着には、欲望がありますが、 それらにおける欲望は、何ですか。 おそらく、私たちは、時間があるなら、それに入るでしょう。 で、私たちは、時の本性を知り - すなわち、明日は今であることを、です - そして、私たちは・・・執着が終わることが、ないのなら、 明日はやはり・・・私たちは、やはり、執着しているでしょう。 ゆえに、私たちは、やはり苦しんでいるでしょう。理解されますか。 で、執着が即座に終わることが、ありますか。
42:31 それが終わることへ、時が入るのを、許さない。 時は、継続です。 ですね? 時の段階的な過程は、 「私は段階的に、執着を取り除くだろう。段階的に、 非暴力になるだろう」ということです。それらのことは、戯言です。 で、苦しみは、執着と同義語です。 私たちは、執着しています。なぜなら、私たちは、こうも、さびしいからです。 私たちは、自分自身では、何でもない。 私たちは、依存します - 書物に、絵画に、 他の人々の知識に、です。 宗教的な世界全体が、他の人々の経験に、基づいています。 経験は、いつも制限されていますが、 それらは、神聖になってしまったのです。 なぜなのかは、知りませんが、それらは、神聖になったのです。 印刷されたものは、けっして神聖ではありません! あなたが何を・・・それらには、入らなくてもいい。
44:14 苦しみもまた、 自己中心的な追求が、あるとき、苦しみは、来ます。 ですね? なぜなら、自己中心性、自我本位、利己性は、 きわめて、きわめて制限されているからです。 それはいつも、自分の頭脳の小さな区域に、生きています。 頭脳は、とてつもない能力を持っています - テクノロジーの世界で、見られるように、 無量の能力、無限の能力、です。 私たちは、自己関心をもっているとき - ほとんどの人々は、そうですが -すみません。 自己関心は、きわめて制限されています。 ゆえに、それは葛藤を、もたらします。 何でも制限されているものは、必然的に 葛藤を、もたらすにちがいありません。 私たちが、イギリス人、フランス人、インド人、 アメリカ人、ロシア人と言うとき、 それはすべて、ただ、地理的、民族的に、きわめて制限されています。 それは、一つの形の部族主義です。 そういうわけで、戦争は・・・ 戦争の理由の一つは、この制限です。 で、或る人物へ、概念へ、イメージへ、 或る形の知識への執着は、 必然的に、紛糾、動揺を、もたらすにちがいありません - 悲しみを、その痛みとともに、です。 また、生に対して、この自己中心的な見通しが、あるところ、 生は、とてつもなく広大なのですが、 その制限された見通し、 その制限された生き方は、 必然的に、悲しみをもたらすにちがいありません。 悲しみに、終わることは、ありますか - 完全に終わることが、です。 なぜなら、悲しみを終わらせることなしには、愛はないからです。 で、私たちは、終わるとはどういうことかの問いを、考慮すべきです。 それに、入るべきです。 何かの最終的なこと、終わること - ありつづけたものや、今あるものの、 修正された形での継続ではない。
47:44 で、終わるとは、どういうことですか。 即時に、習慣、作法を終わらせる。 終わらせる。 「私は、これを終わらせるなら、 そこから何を得るのだろうか」ではない。 理解されますか。 あなたは、これらに興味が、ありますか。本当ですか? または、それはただ、一つの形の面白いことですか。
48:26 あなたは、かつて本当に、終わるとは どういうことかを、探究したことがありますか。 あなたは、その問いに入ったことがありますか - 何かを終了させる。 そして、終わらせるなら、後で何が起きるかを、発見するかの問いに、です。 それは、死ではないですか。 私たちは、今すぐ、それに来るでしょう。
49:07 で、私たちは、こう言っています - 苦しみがあるところ、愛はないのです。 そして、すべての悲しみを終わらせることは、可能ですか。 あなたは、悲しみを終わらせるそのことは、 どんな効果があるのかと、言うかもしれません - 自らが、その悲しみより、完全に自由であるなら、 それは、世界に対して、大多数の人々に対して、 どんな効果があるのか、と。 それが、自らがする普通の問いです。 それは、むしろ、非合理的な問いではないですか。 初めに、それを終わらせなさい。そして何が起きるかを、見てください。 「私がこれをするなら、それは、 どんな効果を、もたらすのだろうか」と、言うのではない。 それは逃避の道であると、感じます。 一人の人物が、世界に影響してきたのです。 ですね? 一つの戦争で一人の指導者が、です。 最古の時代より、今まで、 彼らは、世界に影響してきました。 キリスト教の一人か、二人の宣伝者は、 世界に影響してきました - ペテロとパウロです。 一人の人物は、たとえばブッダは、 アジア世界全体に、影響してきました。 彼は、その質問をしませんでした - 「私がこうするなら、それは、人類に影響するだろうか」と。 それは、こうも不条理な問いです! 私がその言葉を使っても、許してください。 で、悲しみが終わることが、あるとき、愛がある。 そのとき私たちは、訊ねなくてはいけません - 愛とは何ですか。 その言葉は、他のあらゆる良い言葉と同じく、 台なしにされてしまいました。 愛は、欲望ですか。 愛は、楽しみですか。 愛は、思考と時の動きですか。 これらの問いをできます。 語り手が、その問いをしていますが、 その問いをすること・・・ - 自らが、その問いと、言葉とともに留まらないなら、ですが - そのとき、私たちは、きわめて深く、それに入られます。 私たちは、愛は欲望であるのかどうかを、訊ねました。 私たちにとっては、そうです。 愛は、楽しみです。 愛は、何か所有したがることです - 権力、地位、身分を、です。 で、私たちは、ともに考慮すべきです- 初めに、欲望とは何ですか。 おそらく、あなたたちの何人かは、 もしあなたが、語り手が言っていることを、受け入れてくださるなら、 この言葉を聞いてきました - 欲望とは何かの説明を、です。 おそらくあなたは、「ええ、それを進めてください」と、言うでしょう。 ですが、自分自身で、きわめて深く、 欲望の本性と構造を、見出し、生におけるその関係を、見る、 そして、なぜ世界中の人間は、 それにより駆り立てられるのかを、見出す - 様々な形で、権力のため、地位のため、そうね、その他すべて、です。 欲望、あのとてつもないエネルギー、 月へ行きたいとの欲望、 そして、彼らがいかに、そのために、働いたのか! たぶん、30万の人々があの一つの計画で、働きました - 月へ行くために、です。 それから、あそこに、ばかげた(合衆国の)旗を、立てました。 いいえ。 もしも、イギリス人があそこに、旗を立てたなら、 それもやはり、ばかげているでしょう。
54:48 で、欲望とは何ですか。 あなた自身、それを見てください。 私たちがそうであるのは、なぜですか- 私たちは、欲望の奴隷です。 世界の様々な宗教は、 欲望は、消去されなければならないと、言ってきました。 または、自らが、それを超越しなければならない、と。 または、欲望は、 或る人物像、或る象徴に、集中されなければならない。 他のあらゆる欲望を、抑圧しなさい、と - 神への探求以外は、です。 修道士、僧侶は、幾世紀もの間、こうしてきました。 しかし、欲望は炎です。 それを焼き尽くすことはできません。 それを消すことはできません。 それは、そこにある。 あなたは、何か尊いことなどへ欲望を、持つかもしれませんが、 それは、やはり欲望です。 欲望は、世界に、荒廃を引き起こしています。 各人が、自分の生き方を、欲望します - 自分の考え方などを、です。 それは、明白です。
56:43 で、私たちは、きわめて深く理解しなければなりません - 知的に、ではなく、深遠に、 欲望とは何であるかを、です。 それより逃避するのではなく、それを合理化するのではなく、 それへの代替物を見つけるのではなく、 欲望とは何ですか。 欲望は、感受の中から生まれます。 物理的な感受、 知覚の感受 - 見ること、視覚的に見ること、 聞こえること、味わうことの、です。 それらはすべて、どの感受からも、反応です。 それらは、通常の、健康的な感受です。 私たちは、それら自然な感受を、抑圧しようとしてきました - 断食、修練、規律により、 帰属させること、それらによって、または、 それらのエネルギーを、特定の対象へ向けることなどによって、です。 で、欲望の中から・・・感受の中から、欲望がある。 それは、明白です。 それに、さらなる説明は、要りません。 ショーウィンドウに、或るものを、見ます - 青いシャツや、すてきなドレス。知覚。 中へ入っていき、それに触れる。 そして、感受。 それから、それを所有したいとか、所有したくないとかの欲望、です。 いいですか?それは、さほどに単純です。 何により・・・その欲望は、どのように感受の中から、生じますか。 理解されますか。 あなたは、何か美しいものを、見ます - 女や、男や、 何か美しいドレスや、車や、何かを、です。 そして、感受があります。 そのとき、何が起きますか。 そのとき、その感受の中から、思考が、 あなたがあの車やあのシャツを所有しているイメージを、創り出します。 感受の中から、思考がイメージを、創り出すとき、 その秒に、欲望が生まれます。ですね? 私たちは、これを進められますか。 あなたは、それを反駁されますか。 すなわち、私は美しいものを、見ます - 美しい絵画や彫像や女や、何であっても、です。 私たちは、美しさとは何かについて、議論していません。 それは、別の事柄です。 そして、即座に感受が、あります。 そのとき、思考は、「私はあれを持っていたらなあ」と、言います。 そのとき、思考は、「私はあの車に乗り込み、運転しよう」と言います。 理解されますか。 そのとき、欲望が生まれます。
1:00:45 さて、ちょっと待ってください。 で、問いは、こうです - 感受と思考が、 即時にそうしないことは・・・ 思考が即時に、感受に形を与えないことは、可能ですか。 理解されますか。 それが何なのかを、私たちは理解しますか。 すなわち、隔たりを持つ。 もし、自らが・・・ 私たちは、「時の間隔」という言葉を使うでしょう - 感受と、 思考がその感受の中からイメージを創り出すのとの間に、です。 その二つの間に、小さな空間が、あるなら、 そのとき欲望は、何か全然違ったものに、なります。理解されますか。 で、それは、とてつもない注意を、必要とします - 感受へ、そして、イメージが即時に形成されるのへ とてつもない気づきを、です。 それで、間隔があるように、です。 そのときあなたは、間隔を拡張できます。 それを抑圧するのではなく、 それを超越しようとするのではなく、 それより逃避しようとするのではない。 あなたが何かを、きわめて深く理解するとき、 それは、きわめて単純になります。 整備士、彼にとって、それは、とても単純です - モーター全体が、ですが、 私たちにとって、それは、かなり錯綜しています。 ですが、私たちは、これが見えるなら、それは、とてつもなく単純になります。 そのとき、欲望の間に、葛藤はありません。 いいですか?
1:02:53 で、私たちは、言っています、訊ねています - 愛は、欲望ですか。 あなたは、自分自身でその問いに、答えてください。 欲望は、感受であると、私たちは言いました - そして、思考がその感受に形を与えることである、と。 楽しみの思い出と、 その楽しみへの要求 - もっと、もっと、もっと多く、です。 で、愛は、楽しみですか。 愛は、嫉妬ですか。 所有欲、執着、恐れですか。 または、愛は、何か全然 - どうぞ、これを聞いてください - 全然、頭脳の外側にあるのですか。 頭脳は、応答です - 神経、思考、情動、反応の、 応答すべての中心です。 頭脳の専門家へ、行かなくもいい。 これは明白です。 もし、愛が、それの中心の中にあるなら - すなわち、葛藤、抗争、痛み、欲望、心配、 神経的な応答すべての、です - そのとき、愛はどうして、そこに存在できますか。 そうであり・・・ そのすべてが、自由であるなら、 あなたは、それが外側なのか、内側なのかを、訊ねもしないでしょう。 理解できますか。 そして、慈悲(コンパッション)の本性とは、何ですか。 その言葉自体は(御殿的に)、 すべてへの熱情(パッション)と、それらの事柄です。 慈悲(コンパッション)とは、何ですか。 慈悲は、憐れみ、同情ですか。 慈悲 - 貧しい人たちを、助けることですか。 私たちは、その言葉、意味を検討しています - そのとてつもない言葉の意義を、です。 苦しみがあり、 その苦しみが終わることが、あるところ、熱情があります。 理解されますか。 熱情、です。 その苦しみが終わることでもって、熱情がある。 その熱情(パッション)は、慈悲(コンパッション)の部分ですか。 理解されますか。 自らが、自分の宗教に執着しているなら、 慈悲は、ありえますか - 自分の導師、 自分の信念に執着し、 特定の宗派に、特定の信念に、繋留されているなら、です。 理解されますか。 私は、訊ねています。 または、慈悲は、何か全然、そのもの、それ自体であるものですか - それらより自由であって、です。 それらより自由であって、 ゆえに、それは、至上の智恵です。 かくして、慈悲、愛と智恵が、あるところ、 そのとき、行為、振るまい、道徳は、全然違っています。 そのとき、それは時に束縛しません。 それでもって生きること - 言葉だけではない。 あの深さと熱情のとてつもない感覚をもって、 あの智恵をもって、生きる。
1:07:31 私たちはまた、ともに話し合うべきです - 死について、です。 あなたは、これの終わりに、疲れていますか。
1:07:48 聴衆: いいえ。
1:07:50 K: いいえ? なぜですか。 どうぞ、あなたは、「いいえ」と仰いますが、なぜですか。 それは、あなたが、エネルギーを費やしてこなかった、ということですか。 あなたのエネルギーを、です。 語り手のエネルギー、ではない。 あなたのエネルギー、これに深く入ること。 で、それを、そのまさに終わりまで、追求する - その途中で止まらないで、です。 それは、ものすごいエネルギーを、必要とします。 私たちは、自らのエネルギーを、むだにします。 この問いを探究するには - それは、大変多くのエネルギーを要求します - それに入るには、です。 死の本性、 何かが全的に終わることに、です。 実際に見出す。ただ同意や不同意をするだけではない。 または、それは望みがないと、言ったり、 現代世界の中で、どうして私は、あらゆる物事を、終わらされるのか、 などなどなどと、言ったりしないのです。 ですが、私たちは、その最大の深みにおいて、 何かの本性と終わることを理解するなら、 それは、ものすごい生命力、エネルギーを、もたらします。 そして、冥想するには、見出すには、あなたは、 そのエネルギーが、必要です- 真理とは何なのか、 何が神聖なのか、 何か恒常的なもの、 何か時がないなどのものが、あるのかどうかを、見出すには、です。 それは、物理的なエネルギーを必要とするだけではなく、 智恵のエネルギーをも、です。 智恵は、私たちがたびたび繰り返してきたように、 思考のエネルギーではない。 思考は、ものすごく智恵をもってきました - コンピューターを創り出す。 このテレビや、 マイクロフォンや、 兵器、外科手術などを、作る中で、です。 思考はずっと、とてつもなく智恵をもってきましたが、 その智恵は、思考から生まれているから、制限されています。 すべての絵画、すべての彫像、すべての書物、 すべての詩歌と、すべての神々は、組み立てられているので、 それは、やはり制限されています。 その制限は、葛藤を引き起こします - 私たち、一人一人の間に、葛藤、抗争を、生んできました。 で、死の本性を探究するには、探検する、 それの無量性を見るには - ただ、個人的に死ぬとか、他の誰かが死ぬとか、だけではなく、 死の無量性、です。 すなわち、終わることの、です。 そして、終わることがあるなら、そこに何が、ありますか。 など、です。
1:12:16 で、私たちは、明日の朝、これを継続するでしょう - あなたが気にされないなら、です。 立ち上がってもよろしいですか。