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BR84T4 - 死の本性、深さと美しさ
第4回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1984年9月2日



1:10 来年私たちは、もっと大きなテントを 持たなくてはいけないでしょう!
1:32 あなたたちが、気持ちよい一週間を 過ごされたことを、願っています - 教育的であり、学び、 自分自身を探検する - 生の無量の深さと広さを、です。 私たちは、今朝、幾つもの根源的な問いを、訊ねようとしています。 おそらく、あなたの何人かは、これらの問いを、訊ねたことがないでしょう。 それは、かなり法外に聞こるかもしれません。 または、私たちの日常生活と、何の関わりもない、とか、 それは単に理論的である、と。 語り手は、どのみち、理論、イデオロギーに 耽溺しません - または、どの・・・ 信念、教義、その他すべての事柄の感覚をも、持っていません。
3:03 まず第一に、正直であるとは、どういうことですか。 本当に、深く正直である。 私たちは、何かへ正直です。 すなわち、順応ですが、私たちはそれを、正直と呼びます。 何か虚構の信念、信条やイデオロギーに対して、ですが、 正直は、総合的な誠実さがある人に、あるように、思われます。 その誠実さは、凡庸さではありません。 凡庸さ(ミディオクリティ) - その言葉の意味は、辞書によれば、 丘を途中まで登っていくが、 けっして、丘の頂上へ行かない者です。 おそらく、私たちは、科学では、テクノロジーの世界すべてでは、 丘の頂上へ行くのでしょうが、 私たちは、そのまさに頂上へ、けっして行きません - 私たち自身の探究の、 私たち自身の理解の頂上へ行き、 そして、自分自身で、 自分自身の生の、深さと美しさを、見出さないのです。 (統合された)誠実さが、あるところ、 すなわち、全体性が - 完全性ではなく、 断片化していない生の道の感覚、です - その中から、大いなる正直さが、出てきます。 譲らない、 容易に説得されたり、思い止まらされたりしないで、 日常生活を生きる - その中に、この全包括的な、行いの道が、ある - 道徳と、それらの事柄が、です。 私たちは今朝、ともに、話をしようとしています - 私たちが、生の他の幾つもの要因について、 話してきたように、です。 たとえば葛藤、 私たちの日常生活において、葛藤はいったい終わりうるのかどうか、です。 昨日の朝、私たちは、また恐れ、悲しみについても、話しました - そして、愛、慈悲と智恵の本性と、 深さと強さについて、です。 私たちは、今朝、ともに、 死とは何なのか、不滅性(不死)とは何なのかと、 継続とは何なのかについて、話し合うべきです。 それらを理解する中で、私たちは、本当にきわめて深く 掘り下げなくてはいけません - 時と思考の本性について、です。 私たちは、これらの講話の始まりからそれをしてきています。
7:05 時は- 私たちは言いましたが - 過去が現在において自体を修正するのです。 そして、未来は、現在です - 過去に根を持ち、継続している。 それが、未来です。 ですね? それで、未来は今です。 すなわち、私たちは、進化してきました - 生物学者、科学者たちによれば、 私たちは、この地上において、人間として、 四、五万年の間、進化してきました。 その長い時の間隔に、その持続の間に、 私たちは、大変多くの情報、知識、経験を、蓄積してきました。 テクノロジー的に、私たちは、最もとてつもない形で、前進してきましたが、 内的に、心理的に、主観的に、 私たちは、きわめて原始的で、野蛮です。 (イギリスのお天気です) 私たちは、根源的に変化していません。 私たちは、暴力的で、残忍で、競争好きで、 恐ろしく攻撃的である、などです。 自らが、深く理解するのでなければ - 単に理論的に、だけではなく、 時の本性、時はいつあり、何であるのかを、です。
9:17 時は、継続ですか。 「私は、これである」、「私は、なるだろう」と。 時は、いつありますか。 理解されますか。 するという行為こそに、時が、ありますか。 生の行為こそに、時が、ありますか。 あなたは、地面に種子を、植えます。 それは、成長し、花開き、実を結び、死にます。 その種子が、成長し、動き、生きている間、 時の概念は、ありません。 時の概念を持つのは、私たち人間だけです。 私たちが、完全に、全包括的に、何かをしているとき - 断片化した見通しや振るまいの感覚もなく、 している。そのする行為には、時が、ありません。 あなたは、これらに注目したことが、ないですか。 あなたは、ここに座っていて、 聞いています - 幸か、不幸か、語り手に、です。 あなたが、きわめて注意深く聞いているとき - そうであってほしいと願います - この注意は、時を持っていません。 いいですか? あなたが、「彼は何について話しているのか。 私はよく理解できない」と言うとき、 時は、生じてくるだけです。 または、理解するために、私は、ものすごい努力をする - そのとき、時が生じてきます。 ですが、実際に聞くことが、 きわめて明らかに見ることが、あるとき、 そのとき、まったく時が、ありません。 これを理解して、私たちは、ともに探究しようとしています - 語り手は、ともに、と言っています。 私たちみんなが、ともに、 死の本性と深さと美しさを、探究します。
12:25 美しさという言葉を、使うとき、 私たちがいうその言葉は、どういう意味ですか。 あなたにとって、美しさとは、何ですか。 なぜなら、私たちは、美しさは真理であると、言っているからです - 愛が真理であるように、です。 美しさとは、何ですか。 美しい人物、美しい絵画、 動かしえない、大いなる山 - 雪に満ち、谷、陰、 そして、広大な谷の濃紺の深さ。 偉大な絵画、古代の彫像。 私たちは、それらを見つめるとき、 「それらは何とすばらしく美しいのか」と、言います。 美しさは、何か、見守る者に、観察者に、 見る者に、あるものですか。 または、観察者がないとき、美しさは、ありますか。 理解されますか。 私たちは、互いに出会っていますか。 あなたたちはみんな、もう十分ですか。もうたくさんですか。 なぜなら、私たちの生、日常生活には、ほとんど美しさが、ないからです。 私たちは、美しい身体、美しい顔を、持ちたいと思います。 あなたは、その美しさを、もたらすためにあらゆる種類のことを、します - 体操、いわゆるヨーガ、です。 私たちは、その言葉へ、少し入ってもいいですか。
15:00 古代の日々、ヨーガは、ごくごくわずかな人にだけ、教えられました。 そして、ヨーガをする中で、 他の要因が、そこに入ってきました - 冥想です。 古代の日々に - 私は今、ヨーガが何だと考えられるかについて、話していません。 それは、見出すための専念の行為でした- 真理とは何であるのか、 その真理に沿って生きる道とは何であるのか、などを、です。 ですが、今、ヨーガは、商業化された事柄に、なってしまいました。 あなたは、何もさほど上手にできないなら、ヨーガを教えようとしています。 それの熟達者である人々は、お金を蓄積しています。 そうね、商業的な過程全体です。 で、ヨーガは、何か、大変多くの注意を、要求することなのです - 昔の日々には、です - 大変多くの自己観察、 自己省察などを、要求するのです。 ただ美しい身体を持つことだけではない。 で、美しさとは、何ですか- 私たちは、訊ねています。
16:55 あなたが、二つの偉大な絵画を比較するとき - あの画家とあの画家との間の比較や、 あの詩歌や他の詩歌、 この書物やあれの間で、ですが、 自らの頭脳の中で、実際に何が進んでいますか。 あなたは、比較しています。 あなたは、判定しています。 あなたは、評価しています。 或る人たちは、 キーツは、かつて生きた中で最大の詩人であると、言ってきました。 または、(25歳で死んだ)彼は、もしも、もっと長生きしていたなら、 シェークスピアより、はるかに偉大であっただろう、などと。 そして、あなたが、世界の絵画すべてを、脇に置くとき - 美術館の中、あなたの自宅の中などのを、です。 そして、大いなる山々が、雪を被り、朝の光の中で、 青空を背にしているのを、見るとき、 一定の静寂の性質、 息を呑む賞讃の一定の性質と、 あの動かしがたいものの知覚が、あります - 深い谷、湖と、川と、林。 あなたは、それらを見るとき、 それの偉大さこそが、 私たちの些細な小さな生を、追い払ってしまいます。 一分間か、数秒間なのかもしれませんが、 自己がないとき、美しさが、あります。 私たちは理解しますか。 私たちは、一緒にここに、いますか。 あなたが、あれらすべての山々、川と、 美しい建築物を見つめたり、 または、詩歌を読んだり、 古代の文献のどこかの部分、 旧約のバイブルや、ウパニシャッドなどを、読むとき、 それらを、思考なく、観察する - 「私」が、あなたの知覚に介入することなく、です。 そのとき、あの無量の美しさの性質が、あります - 思考により組み立てられていないものの、です。 あの美しさに、出くわすことは、 自己、「私」、ペルソナ、 すべての性格的な傾向と、すべての紛糾、 痛みと心配とさびしさ、そのすべて - そのすべてが、脇に置けるのかどうかを、探究することです。 大いなるものにより、あなたは、 あらゆる物事を、脇に置かせられるのではない。 すると、その大いなることが、単に、玩具になるだけです。 ですが、自らが、そのすべてを、脇に置けるなら - 自己のまさに本性、心理を、です - そのとき、あの無量の美しさが、あります。 それは、本当に、時のない存在です。 さて、他の何かへ、進みましょう。
21:34 すなわち、死とは何ですか。 私たちは、ともに探究しようとしています - 死とは何ですか。 また、私たちは、ともに話し合おうとしています - 継続するのは、何ですか。 継続は、時の動きです。 ですね? 付いてきておられますか。 で、私たちは、また訊ねなければなりません - 何か、恒常的なものが、ありますか。 私たちの中に、世の中に、私たちの外側に、 何か、不滅なものが、ありますか - 破壊できなくて、 終わりなく恒久的なものが、です。 人は、最古の時代の時から、この問いを、訊ねてきました。 なぜなら、彼は、身の回りに、あらゆる物事が、流動し、 あらゆる物事が、変化していくのを、見るからです - 得られ、失われ、破壊され、再び組み立てられている。 私たちはまた、自分自身が変化していくのを、見ます - 生物学的に、だけではなく、心理的にも、です。 私たちはみんな、少し動いています- ちょっとずつ、動いて、 変化していきます。根源的に変化しないで、少し、です。 で、そのすべてを見て - この常なる変化、 死ぬのと、生まれ変わるのを、見て、 自らは訊ねます。 何か恒常的な、長続きするものが、ありますか。 そして、長続きするものは、何ですか。 それは、私たちなるものの継続ですか。 理解されますか。 これらに、興味がありますか。

聴衆: はい。

K: ただ「はい」と、言わないでください。それは、何も面白くない! ですが、あなたが、本当にこれに、興味があるなら - なぜなら、それは、自分の生と関わりが、あるからです。 自分の日々の生と、です。 そして、自分の日々の生に、何か恒常的なものが、ありますか。 いつも、そのいわゆる継続の終わりに、あります - 死が、あります。 自らは、九十年か、五十年か、十年か、生きてきました。 それら八十年、九十年の間に、 記憶の長い継続、 活動、労働の継続が、あったのです。 自分自身をもっと優秀にしたいと奮闘し、 切望し、望んで、です - 何らかの技能において、 または、内的に、心理的に、です。 いつも変化していかない何かを、見つけるために、です。 私たちは、これらを見ます。 太古のオークの樹は、死にます。 あらゆる物事が、終わりになる、死ぬように、思われます。 これらを観察し、自分自身に訊ねます。 あなたが、自身に訊ねているように、です-そうであってほしいと、私は望みます。 何か、恒常的なもの、何か、長続きするだろうもの どこかの所に根づいているだろうもの、 いつも成長するだろうもの、 いつも無量であり、恒常的であるだろうものが、ありますか。 いいですか。あなたは、これらすべての質問を、しませんか。 または、私が、あなたのために、訊ねていますか。 それで、私たちは、訊ねています- 継続とは何ですか。 私たちの日常生活で継続するのは、何ですか。 それは、記憶、 一続きの連想ではないですか。 そして、継続はまた、 一つの思考が、当分の間、静寂であり、 別の思考が生ずるときの間にも、存在します。 それら二つの思考の間に、間隔が、あります。 その間隔の中に、 私たちは、時のない存在の感覚を・・・一秒間、観察しますが、 二つの思考の間のその間隔は、 やはり思考です - 不在中の、です。 思考はそのとき、それら二つの間隔の間に、不在ですが、 やはり二つの思考です。 私たちは、これらにも入るでしょう。 それは、あまりに錯綜しすぎていますか。 たぶんそうです。
28:44 継続は、不滅(不死)ですか。 なぜなら、それは、人が探し求めてきたことの一つであるからです - 不滅性、 死を越えていることが、です。 古代の書物、たとえば、ウパニシャッド、ヴェーダと、 ヘブライの文献、古代のものと、バイブル、 シェークスピア、キーツ。 それらは、或る面で、不滅です。 それらは、あなたと私がぽっくり逝くとき、続いてゆくでしょう。 それらは、そこにあるでしょう。 それが、不滅性ですか。 名前、 その名前に連携している物事すべて - で、何が、不滅なのですか。 死滅すべきこと。私たちは、それが何を意味するかを、知っています。 人は死ぬ。 人間たちは、終わりになる。 人間たちは、この質問をしてきました。 不滅性が、ありますか - まったく死がないところの状態が、です。 継続ではない。 なぜなら、継続は、時を含意しているからです。 時があるところ、死があります。 不滅性があるところ - そういうものが、あるとして、ですが - そのとき、 死は、まったくありません。終わることや始まることは、ありません。 あなたは、これらに入ろうとしていますか。 私はそれに、入るでしょう。 興味があるなら、私たちは旅を行いましょう。 興味がないなら、それは構いません。 あなたが快適に着席なさっていることを、願っています。
31:25 死とは何ですか。 死ぬとは、どういう意味ですか。 それは、絶対に確実なことです - 私たちがみんな、死のうとしていることは、です。 それは、どういう意味ですか。 自分は、子ども時代から、継続してきました - 死の瞬間まで、です。 自分の思考を、 自分の観念や、新しい観念の組み合わせを、継続してきました - 思考、紛糾、痛み、心配、さびしさと、 生の苦労すべて。 それが、継続と呼ばれるものです。 その過程の中で、時は要因です。 そして、私たちが死ぬとき、 アジア世界すべてが、少なくとも、彼らの幾らか、 彼らの大多数が、インドなどを含めて、信じています - この継続が、死の後、継続するだろう、と。 それは、生まれ変わり、輪廻転生と、呼ばれます。 それは、とても慰められる観念です! 自分が蒔いた種子を、自分が刈る。 あなたは、この生において良くないのなら、 来世に、その付けを支払うでしょう。 または、その付けを、今、支払います。ですね? 原因と結果、です。 因果は、分離しています。 まるで、それが結果より分離しているかのように、です。 私たちは、因果は本来的に、結果を含んでいると、言っています それは、二つの分離したものではありません。 これらをお分かりになるのかどうかと、思われます。 これは、哲学ではありません。 それは、或る種の異国風の戯言ではありません。 あなたは、自分の生を見られます。 あなたは、何か醜いことをするなら、 それは、自らの報いや、自らの痛みを、持っています。 あなたは、何かを正確に、自己なしに、するなら、 それは、自らの善を、もたらします。 で、継続は、一つの形の因果、結果です。 そして、結果は、原因になる。 で、それは連鎖です。 そして、私たちは、訊ねています- 死とは何ですか。 生物学的に、 頭脳が、充分な血液、呼吸などを、持たないとき、 それは、きわめて急速に崩壊します。 それは、死と呼ばれます- 物理的な死です。 これは、或る種の病気、自然な老齢をとおして、もたらされるのか、 あるいは、何かの事故をとおして、です。 私たちは、それを認知します。 なぜなら、それは、回避不可能であるからです。 が、私たちは、こう言います -私は、このすべての経験を、集めてきた。 生涯ずっと、私は働いてきた。 生涯ずっと、私は、これとあれをしようとしてきた。 私が、そのすべての終わりに来るなら、 そのすべてが、何になるのか、と。 あなたは、これらの問いを訊ねませんか。 で、私たちは、訊ねなくてはなりません - 終わるとは、どういうことですか。 何かを終わらせる - そこに、継続はないのです。 理解されますか。 終わらせる。 いいですよ。
36:46 自分は、執着しています。 それについて、疑問はありません。 観念に、執着しています- 書物に、言葉に、 自分のお金に、自分の妻に、何かの理想などに、ですが、 自分は、深く執着しています。 私たちは、それは正しいとか間違っているとか、言っていません。 自分は、執着しています。 死がやってきて、「すまないね!」と言います - 「その執着を切り捨てなさい」と。 私たちは、その執着に、継続してほしいのです。 それなしで・・・ 執着からの自由が、あるとき、 私たちは、ちょっと、迷った感じです。 で、私たちは、死に怯えています。 なぜなら、それは、あなたが持っている物事すべてを、 終わらせるかもしれないからです。 よろしいですか。 そして、自らは訊ねます - あなたは、何を持っていますか。 九十年の終わりに、 私はこれを、自分自身に訊ねています。 あなたは、あなた自身に、訊ねているにちがいありません。 あなたが持っているのは、何ですか。 住宅、 銀行口座 - あなたが、運がいいのか、運悪いのなら、です。 妻、夫、セックスの楽しみ、 そして、自らの生の葛藤、抗争すべて。 実際に、自分は、何を持っていますか。 生の中、あなたは、何を持っていますか。 もしも自分が、きわめて、きわめて正直であったなら、ですが・・・ あなたは、住宅を持つことが必要です。 あなたは、衣食住を持つことが、必要です。 それは、自然で、正常です。 その他に、あなたは、何を持っていますか。 一連の記憶。ですね? 記憶の束。他には何もない。 それら記憶の束の中に、 すべての切望、ほしがること、ほしがらないことが、ある。 神を探し求めること- それらをご存じです - または、神を探し求めないこと。 または、「これだけが、ある」と言うことが、です。 すなわち、楽しみ、お金、権力が、です。 自らの生の世俗的な活動。それが、自分が持っているすべてです。 そして、死がやってきて、言います - 「あなたは、それを持ってゆけない。 そのすべては、終わりにならなくてはいけない」と。 それの終わり - あなたの記憶すべて、 あなたの経験すべて、生をとおして、蓄積するために、 自らが格闘してきた物事すべての終わり。 科学者、偉大な科学者が - 政府お抱えのではなく、政府より自由な、 それら科学者、彼らは、 とてつもない量の知識、技能を、蓄積してきました - 物質への偉大な透徹、です。 物質が何であるのか、エネルギーが何であるのか、などを問うて、です。 彼らもまた、死にます。 私たちのように、です。 彼らは、自分の生の終わりに、何を持っていますか。 暴虐な全体主義の独裁者たち - (ソヴィエト・)ロシアで進んでいることと、 世界の独裁制すべて。 彼らは、何を持っていますか。 理解されますか。 私たちは、自分たちが持っているものに、 すなわち、記憶に、 継続してほしいと、思います- ですね? それら記憶が、終わりになるとき - それが、生の事実です。 それが、死です。 それらを知って、自らは、怯えます。 あなたは、後に何が起きるのかを、知りたいのです。 あなたは、後で何が起きるのかを、知りたいのですが、 あなたの既存の知識に沿って、です。 ですね?理解されますか。 これに、付いてきておられますか。 あなたは、もっと多くの知識を、付け加えています - 自らが死ぬとき、何があるのかを、訊ねることによって、です。 自らが欲しいすべては、もっと多くの知識、 もっと多くの知識の確実性だけです。 そして、知識は制限されています。 理解されますか。 なぜなら、知識は、経験に基づいているからです - すなわち、制限されているものに、です。 そして、知識は、記憶です。 それで、思考は、制限されています。 で、私たちは、その循環の中を回りつづけます。 これらに、終わりがありますか。 そして、それが死です。 で、自らは訊ねます。 死とともに生きることは、可能ですか - 自殺をするとか、それらのばかげたことではなく、 何かとともに生きる。 絶対的な事実とともに、生きる。 絶対的な事実は、自分が死のうとしていることです。 そして、死は、知識、記憶が 終わることを、意味しているのです。 で、死とともに生きて、 二つを分けておかないことが、できますか。 理解されますか。これらに付いてきておられますか。 死とともに生きるとは、どういう意味ですか。 何をも所有しないとは、どういう意味ですか。 あなたは、お金、妻、子どもを、持っているかもしれませんが、 保っておき、 自分が保ってきたものに、つづいてほしいと思う。 そして、死は、あなたが何をも保っておかないことを、意味しています。
45:18 自らは、この世界において、 生きることと死を一緒に、生を生きられますか。 それは、毎日、生きることと死ぬことを、意味しています。 ああ、さあ、みなさん! で、それは、けっして、けっして 何かにならないことを、意味しています。 心理的に、なること、 それは、いわゆる心理的な進化です。 そこには、時と継続が、ある - そして、頭脳に保たれた記憶、です。 もちろんです! 死とともに生きることは、 心理的に、蓄積され、集められてきたことを、 毎日、あらゆる物事を終わらせる、という意味です。 その日の終わりに、ではなく、 始まりに、そして、最中に、いつの時も、です。 それが何を意味するのかを、理解されますか。 どの所にも、けっして根を持たない。 所有権、保有、執着の感覚を、 けっして持たない。 それで、頭脳は、とてつもなく生きて、自由になるのです。 ゆえに、恐れがない。
47:36 私たちは、また冥想についても、話をするだろうと、言いました - 宗教、冥想と、創造は何であるのか、です。 これらに、興味がありますか。
47:53 宗教とは何ですか。 宗教的な精神とは、何ですか。 精神とは何ですか - 私たちは、区別しなければなりません。 頭脳は、記憶すべての倉庫です。 それは、すべての反応と行為(作用と反作用)、応答の座です - 神経的にも、 心理的にも、主観的にも、です。 それは、頭脳の中に、意識として収容されています。ですね? それは、大事じゃない。 私は進めましょう。 ただ、私と遊んでくれるでしょうか。 で、頭脳は、制限されています。 それは、無際限の能力を、持っているけれども - なぜなら、テクノロジーの世界で、何がされているかを、見てください。 心理的に、主観的に、私たちは、きわめて制限されています - 頭脳のその部分は、です。 精神は、何か全然違ったものです。 精神は、頭脳の外側に、あります。 これは、大変多くの探究を、必要としますが、 おそらく私たちは、それをつづけられません。 なぜなら、私たちの時間は、制限されているからです。
49:51 愛が、頭脳の中にないように、です。 それは、外側にある。 それが、頭脳の中にあるなら、 それは、思考、記憶、 想起の過程です - 思い出 楽しみ、痛みとそれら。 すなわち、頭脳は、意識すべてを、収容しています。 私たちの意識は、その内容です。 もし内容がないのなら、 私たちが知っているような意識は、ありません。 いいですか。 内容は、私たちの痛み、さびしさ、 信念、信条、望み、切望、心配です。 そのすべてが、私たちの意識です。 それは、頭蓋骨の中に、収容されています。 で、愛は、確かに、それではありません。 愛は、戦場ではありません。 愛は、反応や思い出ではありません。 反応、思い出と、それらが、あるとき、 それはやはり、頭脳の中にある。 愛は、そうであるなら、愛はやはり、頭脳の一部です。 それは、反応とそれらです。 そのとき、明白に、それは愛ではありません。
51:42 で、私たちはともに、宗教とは何であるかを、究明しようとしています。 なぜ人は、こんなにエネルギーを、使ってきたのですか - 大きな探究、苦しみ、断食し、 自己を拷問してきました。 真理を見つけるため、 時のないものを、見つけるために、ですか。 あらゆる宗教が、こうしてきました。 すなわち、あらゆる宗教が、こう言います - 無量であり、測量不可能であるものを、見つけるには、 あなたは、一定のことを、しなければならない。 肉欲を拒否しなさい。 制御し、修練し、 それに人生を捧げなさい。 命を捧げなさい。 そのときだけ、あなたはそれを見つけるだろう、と。 彼らは、この、きわめて単純な発言を、 もっと複雑に表しますが、 それが、宗教が言ってきたことです。 そして、キリスト教世界では、 ヒンドゥー教と仏教の世界と、イスラム世界と同じく、 人物像、象徴は、 あまりに明るすぎない所、 大聖堂と教会の、神秘の中で、 儀式すべてをともない、 受け入れ、服従する - そのすべてが、宗教と呼ばれます。 同意されますか。 それは、宗教ですか。 または、宗教は、何か全然違ったものですか。 今、私たちは、仲介者、司祭者を、持っています - あの最高のものと、いわゆる最低のものとの間に、です。 彼は、解釈者です。 精神科医のように、です。 司祭者は、歴史において、大きな役割を、果たしてきました - エジプト人から、 エジプト人の前、シュメール人など、 司祭者たちは、学識者たちやら何やらでした。 彼らは、一定の法律、規則を、確立してきました。 あなたが、懐疑的であるなら - そうであってほしいと願っています - 疑い、問うていて、 心理的に、けっして何をも、受け入れないなら - 警察官と、 税法以外は、です。 その他では、問い、疑う。 心理的に、けっしてそれに入らずに、服従しない。 どの宗派にも、どの導師にも、 どの組織的な宗教にも、所属しない - キリスト教、イスラム教のような、とか、 さほど組織されていない、むしろ無秩序なヒンドゥー教などに、です。 あなたは、そのすべてを、脇に置くなら- もしそれができるなら、です。 なぜなら、私たちは、二千年の宣伝により、 重く条件づけられているからです。 または、重い宣伝が、あなたの頭脳を、プログラムしてきました - インドで、三千から五千年の間のように、などです。 あなたが、そのすべてを脇に置けるなら - 名のないものを、見つけたいのなら、そうしなければなりません - そのとき、宗教とは、何ですか。 それを見つけるために、 人の尽力すべてを、全的に脇に置いてしまった 精神や頭脳の性質とは、何ですか - 人の体系、方法、人の冥想の体系すべて、 正確な呼吸、足を組むこと、そうね、それらを、脇に置いたのです。 それらは、すべて無意味です。 頭脳を鎮めるために、適切に、静かに呼吸する。 部屋の中か、樹の下に、静寂の中、座る。 それは、無量であるものを、もたらさないでしょう。 で、このすべてを、脇に置いてしまった精神の、 頭脳の性質とは、何ですか。 それは、拘束されていません。 それは、どんな束縛をも、持っていません。 それは、自由です。 完全に自由です。 その言葉、「自由(フリーダム)」はまた、その語源を、持っています - (フレンドと同じく)語源的に、愛(ラヴ)を、です。 自由はまた、愛をも意味しています。 性愛ではなく、愛、です。
58:23 で、それは、可能ですか - 世界すべてが、叫んでいるとき、 世界すべてが、宗教の娯楽で楽しんでいるとき、 この世界に、日々、そういう全的な自由をもって、 生きることは、可能ですか - すべての伝統から、すべての知識からの自由をもって、です。 知識が必要であるところ、以外は、です。 私たちは本当に、きわめて、きわめて困難な問いを、しています。 なぜなら、知識は、真の知覚を、阻止するからです。 そこから、生じます - 冥想とは何ですか。 どのように冥想するのか、ではない。 その言葉、「冥想」(メディテーション)と、 その言葉に伴う含意すべては、 キリスト教徒の黙想などを別として、 その冥想は、導師たちにより、この国に、もたされてきました または、アメリカ中などに、拡がりつつあります。 彼らは、自分の体系、自分の実践、自分の修練を、持っています。 そして導師たちは、その中から、たくさんのお金を、得ます。 そのすべての事柄が、進んでいます。 ヒンドゥーの冥想、チベットの冥想、 冥想の流派が、あります。 ですね? 禅- それらの全部です。 彼らは、何を提供していますか。 冥想とは、何ですか。 どう冥想すべきか、とか、どんな体系に従うべきか、ではない。 それは、あまりに未熟です。 あまりに子どもっぽい。 ですが、あなたは深く訊ねるなら、 冥想するとは、どういうことですか。 なぜ冥想すべきなのですか。 「冥想」(メディテーション)という言葉は、また、 語源的に、そしてサンスクリットで、測量を、意味しています - ただ、熟考する、じっくり考える、だけではない。 それは、冥想(メディテーション)の一部ですが、 またそれは、測量を理解する、という意味です。 測量は、比較を、意味しています。 今、私は、言っています、語り手は、言っています - 比較があるところ、冥想はない、と。 理解されますか。 さあ、どうぞ! 私たちは、互いに、少し、付いてきていますか。 私たちは、いつも測量しています - より良い、より多い、より少ないと、より大きい。 この測量の動き全体は、 比較なのですが、 それは、完全に終わりえますか - 心理的にも、外的にも、です。 それが、冥想の一部です。 あなたが、冥想が何であるかを、探究しているとき、 それはただ、考える、熟考する、見る、観察する、という意味だけではない。 またはそれは、比較すべてが完全に終わることを、意味しています - 低い、高い、広い、広々、 美しい、美しくない。 それらすべては、自己の様式です。 測量があるところ、自己がある。ですね? で、何の形の比較もなく、生を生きることは 可能ですか - 日々の生を、です。 そのとき、あなたは、自分自身で、 頭脳のとてつもない性質が、見えるでしょう。 そのとき、頭脳自体は、自らの動きを、持っています - 自らの動きとは別に、それは、別の性質を、持っています。 そのとき、それは、とてつもなく安定し、堅固です。 それは、譲らない、という意味ではありません。 それは、堅固さの中、強さの中で、譲ります。 そして、冥想はまた、 言葉と思考のネットワークからの自由をも、意味しています。 いいですか? で、頭脳は、言葉でもって、様式でもって、 体系でもって、測量でもって縺れていません。 そのとき、絶対的な静寂が、あります。 その静寂は、必要です。 静寂は、自らの音を持っています。 あなたはかつて、樹に聞いたことが、ありますか。 これは、何か狂った問いではありません。 あなたはかつて、樹に聞いたことが、ありますか - 古い樹を、 風とそよぎが、終わりになって、 樹が全く静寂であり、 どの木の葉も、ひらめていないとき、です。 そのとき、あなたは樹の音を、聞きます。 私たちは、或る科学者から、その質問をされました。 彼は、それを受け入れました。 で、あなたもまた、それを受け入れたほうがいい。 なぜなら、あなたたちは、科学者を、愛しているからです - 知識を蓄積する人々を、です。 ですが、静寂の中に、音を見出す。 そして、どこに、この完全な、絶対的な静寂が、あるのかを、です。 - 相対的な静寂ではありません。 相対的な静寂は、思考をとおして、意志をとおして、 もたらせます - 「私は静寂でなければならない」と言って、です。 それは、まったく静寂ではありません。 自由が、あるときだけ、静寂が、あります - 人が蓄積してきた物事すべてからの自由が、です。 その静寂には、尋常でない広大さと無量性の感覚が、あります。 あなたは、もはや質問をしません。 それはある。
1:06:47 そのとき、私たちはまた、質問すべきです。 創造とは、何ですか。 もしあなたが、「神が世界を創造した」と、言うなら、 それで、それは終わりです。 それは、様々な書物の中の、便利な発言の一つです。 それは、けっして答えではありません。 ですが、訊ねはじめるなら、創造とは何ですか。 このすべては、どのように生じてきましたか - 虎、鹿、すばらしい樹と、荘厳な山々、 そして、世界の大いなる河。 この膨大な人口。 このすべては、どのように起きますか。 私たちは、創造と考案の間を、区別しなければなりません。 創造は、考案より全然、異なっています。 考案は、やはり知識の平野の中に、あります。 ジェット(・エンジン)を考案した人、 彼は、知識より知識へ動きました。 彼は、考案しました。 テクノロジーの世界の、新しい考案、発明すべては、 知識に基づいています。 おそらく、考えていない一秒- そのとき、何かが来ますが、 それはやはり、知識の区域の中に、あります。 創造は、考案ではありません。 知識が終わりになったときだけ、創造はあります。 これらを理解されますか。 そのとき、その創造は、 私たちがその言葉を使えるのなら、何物でもない。 何物でもないとは、何一つ物がない、という意味です。 ラテン語などでの物は、思考です。 何もないとき・・・ 思考の絶対的な静寂が、あるとき、 全然違った次元が、あるのです。
1:10:02 立ち上がってもいいですか。