Krishnamurti Subtitles home


BR85Q1 - 第1回質疑応答会合
イングランド、ブロックウッド・パーク
1985年8月27日



0:32 ありがとうございます。
1:05 たくさんの問いが(書面で)出されています。 私たちは、それらのすべてにとうてい答えられません。 これらの問いは、選ばれています - 語り手によってではなく、他の人たちによって、です。 私はそれらを見ていません。 あなたたちも、それらを見ていません。 たぶん、あなたたちの何人かが、それらの問いを、書きました。
1:38 大変尊敬を込めて、お訊きしてもいいなら、 私はあなたに質問をしています - なぜあなたは、ここにいますか。 これは真剣な問いです。 あなたたちが語り手に、他の質問を幾つもしたように、です。 なぜ私たちの一人一人は、ここにいるのか -この、あまりすてきでないお天気の中で、です。 風が強い。あなたたちが居心地良く着席なさっていることを、願います。しかし、なぜでしょう。 あなたたちが居心地良く着席していない、ということではなく、なぜ私たちはみんな、ここにいるのでしょうか。 それは、好奇心からでしょうか。 他にましな、すべきことがないのか。 私は、大変尊敬を込めて、これらの質問をしています。 どんな厚かましさの感覚で、でもありません。 私たちは、刺激されるため、挑戦されるため、もっとエネルギーを持ったり、エネルギーを 解放するために、ここにいるのでしょうか。 または、単に知的な戯れでしょうか - それは良い言葉です!または、ロマンチックに、感傷的に、ですか。 または、或る種の助け - 他の人に助けてほしいのか。 自分自身へこれらすべての質問をするなら、私たちの答えは、何でしょうか。 あなたは、語り手に対して、なぜ話しているのかを、訊ねてもいいかもしれません。 それは習慣でしょうか。 それは、彼は聴衆に向き合って幸せに感じる、充足している、ということ、 彼には聴衆が要る、ということでしょうか。 これらすべての問いが、自分自身にだけではなく、語り手にも、出されなければなりません。 私たちはそれを探検するのなら - 私たちはなぜ、自らがしていることを、しているのか。 このすべての紛糾、苦労と、生すべての心配と恐れでもって、です。 そして、語り手はなぜこの六十年、七十年の間、 様々な大陸を行って、話しているのかに、 答えを見つけないなら、です。 それは彼にとって、習慣でしょうか。 彼はそれを試してきました。 一年以上の間、静かにしていました。 また、或る時に彼は、聴衆にカーテンの裏から話をしました。(笑) 彼は、なかなかバカげていると感じました。 (笑)それで彼は、聴衆の前へ行きました。 彼は、よく気をつけて、これを試してきました- 自分が、充足するため、あるため、なるため、 有名だと感じる、それらの戯言のために、他の人に依存しているのかどうかを、です。 なぜでしょう。彼の番で、彼があなたに訊ねています - 尊敬をこめて訊ねていいなら、です -なぜ私たちは、みんなここにいるのか。 それは老齢でしょうか。私たちは、他にましな、すべきことを、持っていないからでしょうか。 それは、私たちが本当に深く、私たち自身を理解したい、ということでしょうか。 彼は、鏡として作用しているだけです。そこに、私たちの一人一人が、自分自身をありのままに 見られる鏡です - 私たちが何なのかを発見して、憂鬱になったり、昂揚したりするのではない。 その鏡は、澄んで鋭いですか。 そのあらゆる特徴が、 何の歪曲もなく、そうですか。 その鏡が澄んでいて、自分自身がまさに、あるがままに、 見えるなら、そのとき鏡は重要ではありません。 あなたは、鏡を壊せます - 運のなさを何も感じずに、です! あなたは、その問いに答えられるなら- それはなかなか深刻です。 私たちはなぜ、今のように、私たちの一人一人がするように、振るまうのか、 私たちはなぜ、一定の様式で考えるのか、私たちはなぜ、誰かに従うのか - 狂っているほど、いい。 私たちはなぜ、自らが言ってきたこと、 他の人たちが言ってきたことを、蓄えておくのか、 なぜ私たち自身には、自分自身であるものが、何もないのか。 そして、私たちが何なのかを、発見する。 私たち自身を、です。その深く根づいた種子 - 文化的な種子、伝統的なもの、宗教的なもの、 それらの成長すべてだけではなく、きわめて深く、深く 自分自身に入る - 物事すべての起源を見出すように、です。 細胞とそれらではなく、 自らが相続してきた遺伝子ではなく、それらをはるかに越えて、です。 私たちは、それに少し入りましょうか。
11:13 起源は何でしょうか - 生物学的な、進化的な過程ではなく、すべての物事の本源です。 これは、創造とは何かを、要求するというか、訊ねます。 創造とは何でしょうか。 誰がこれらを、創造したのでしょうか- すばらしい万物・宇宙を、 その中とその外に、生きているすべてのものを、です。 それらの本源は、何でしょうか。 あなたは、それらに入りたいでしょうか。
12:33 聴衆: はい。

K: 確かですか。 なぜでしょう。(笑)面白いこととして、ですか。 一つの形の娯楽、何か新しいこととして、ですか。 残念ながら、それは、そのようなことではないのです。
13:02 私たちの頭脳はとてつもない能力を、持っています - 尋常ではなく、異常です。 尋常の物事すべてを越えています。 テクノロジーの世界すべてを、観察するとき - 彼らがなしてきたことと、なしつつあることと、 なそうとしていること - ものすごい前進です。 頭脳は、この能力を持っています。 コンピューターは、私たちの活動すべてに、ますます、取って代わろうとしています - 多かれ少なかれ、セックス以外は、です。 たぶんそれは、晩の星々を見つめられないでしょう。 しかしそれは、私たちの活動すべてに、取って代わろうとしています。新しい産業、 新しい生き方を、もたらすかもしれません。 電気なしで、それは光に依存するかもしれません。 彼らは、大きな競争を行っています。 アメリカと日本 - ものすごい競争です。 私たちはみんな、あの神、コンピューターの奴隷に、なるでしょう。 で、私たちは、頭脳はとてつもない能力を持っていると、言っています。 しかし、その頭脳は、私たちの教育により、利己により、制約され、狭められてきました。 あなたたちは、これらを聞くでしょうが、それについて何もしないだろうことを、存じています。 それもまた、だいじょうぶです。 幾世紀、幾百万年の間、進化してきたまさにその頭脳、 今そうであるものに、なってきたその頭脳 - 古く、疲れて、たくさんの紛糾、葛藤、抗争、悲惨をもっています。 その頭脳は、私たちの生存すべて、私たちの存在すべての中心です。 未来と過去です。私たちは先日、それに入りました。 この頭脳は、何がこれらを越えているのか、 何が起源、本源、始まりなのかを、見出したいのです。 それはいったい見出しうるのでしょうか。 質問を理解できますか。 それはいったい、本源、生命とは何かを、見出しうるのでしょうか。 創造すべて、物事すべての始まり - 私たち自身だけではなく、虎、すばらしい樹々(の始まり)、です。 あなたは、野生の虎のごく近くに行ったことがありますか。ない。 私たちは、ごく近くに行ったことがあります。 野生のそれに、ほぼ触れるほど、です。 誰がこれらを、もたらしたのか - 無尽蔵の自然と、川、 山々、樹々、芝生、木立、果樹園と私たちを、です。 あなたは、どのように見出すのでしょうか。 どうか、私たち自身にこの質問をしてください。 あなたは、私たちのような通常の人間は、どのように 何かを見出すのでしょうか。 科学、生物学、生物・・・ 何らかのものと、大地を掘って、新しく都市を 創設している人々。 あなたはどのように、見出すのでしょうか。 誰かに従うことによって、ですか。 或る導師たちを、無限に豊かにすることによって、ですか。 あなたはどのように、これに入るのでしょうか。 それが、あなたへの私の問いです。 誰がそれに答えるのでしょうか。 あなたは、語り手がそれに答えるのを、待っていますか。または、 新しい神を創案しますか - すなわち、自分がそれを創造したと言うだろうものを、です。 その創案、その想像はやはり、頭脳の一部です。
19:35 で、あなたはそれを、どのように見出すのでしょうか。 私はあなたを、その問いのところに、残しておいてもいいですか。 あなたはそれに、何を与えるのでしょうか - 見出すように、あなたのエネルギー、あなたの能力、 あなたの熱意、あなたの熱情、あなたの全時間を、注ぐ、という意味で、です。 または、あなたはそれを何か、「ああ、私は今日、あまりに忙しい。明日、それについて考えよう」 というように、または、「それは、若い世代にではなく、年寄りに出された問いです。 私たちは、それらについて考えるには、あまりに若すぎる」というように、扱うのでしょうか。 あなたはそれに、どれほどのエネルギーを、注ぐのでしょうか。 エネルギーを探し求めたり、エネルギーを解放したりするのではない。それはすべて、
20:56 あまりに子どもっぽい。私はこれらの問いを、進めてもいいですか。
21:07 第一の質問: 「様々な時に、私たちは 神秘的で霊的な経験を、してきました。 私たちが実在を 知っているのでなければ、それらが幻影であるのかが、どうして知られるのでしょうか。」
21:29 「様々な時に私たちは、神秘的で霊的な経験を、してきました。私たちは 実在を知っているのでなければ、それらが幻影であるのかが、どうして知られるのでしょうか。」
21:49 あなたは、そういう問いにどのように答えますか。 もしもそれが、あなたへ出されたなら、あなたは、どのように接近しますか。それへのあなたの反応は、何ですか。 あなたは、それにどのように近づきますか- 問い自体が開くように、です。 理解できますか。 問い自体が、進展しはじめます。 あなたが単に答えを探し求めているなら、それは、すでに決定されています。ですね? 私たちはともに、これが見えていますか。 答えを見つけることは相当に簡単です。 しかし、問いを掘り下げること、 その問いの錯綜すべてが見えること- それは、目の前に 世界地図を持ち、すべての国々、首都、 村々、村落、川、海、丘、 山々、その全体が見えるのに、似ています。 あなたは、この問いをどのように見つめますか。 答えを、ではない。 おそらく、問いへの応答は問いの中に、在るかもしれません。 で、様々な時に、私たちは神秘的で霊的な経験を、してきました。
23:52 経験とは、何でしょうか。 私はただ、互いに訊ねています。 経験とは何でしょうか。 誰が経験しますか。いいですね? 私は、或る種の神秘的な経験を、したことがある、または、しつつあるかもしれません。 神秘的とか経験という言葉を、使う前に、私がいう経験というのは、どういう意味ですか。 経験には、認識が関与していますか。ですね? それには、私に何かが起きつつある感覚が、関与していますか - 天国からとか、 どこかからとか、または、私が神秘的と呼ぶ 何らかのこと - 日々の経験ではなくて、 何か全然外側の、私に起きること(の感覚)、ですか。 私はそれを、神秘的とか霊的とか、呼びます。 私は、よろしければ、それら二つの言葉、霊的と経験とに、拘りたいと思います。
25:33 経験者なしに、経験がありますか。 質問を理解されますか。 私たちはともに、問いを探検していますか。 または、あなたは、語り手がそれを探検するのを、待っていますか。 で、私たちはともに歩んでいます- 歩みを合わせて、 ゆっくり、または速く、です。ですが、私たちは、一歩一歩、一緒です。ですね? 私たちは、これに同意しますか。 私たちは、同意しないとしても、この問題を話しあっている友だちです。 私は、霊的な経験をしたことがあります - 仮に、です。 私がいうそれら二つの言葉は、どういう意味ですか。 経験 - 何か新しいもの。 何かすでに私にあったものが、新たになった。 または、何か経験者に起きつつあること。 理解できますか。 経験者が経験しつつあり、その経験が一つの形の 認識であるなら、それは、憶えていること、 同一視などです - 私はそれを、経験と呼びます。そのとき、 その感じには、私はそれをすでに知っていたということが、なければなりません。 さもなければ、私はそれを認識できませんでした。 それは、相当に単純でしょう。 私はその点を、詳説したくありません。 それは相当に明らかです。 経験者があるかぎり、そのとき経験すること - それは、 何か経験者に起きつつあること、何か分離したことです。 何か尋常ではないこと、 自らが持つ日々の、退屈で、習慣的な経験ではないこと、です。ですね? 私たちは一緒に、ゲームをしていますか。 で、経験者がそこにあるかぎり、あらゆる種類の経験は、 それを、世俗的とか、霊的とか、神聖とか、エネルギーの解放とか呼ぼうとも、 つづいているそれらのもの - ほとんどが戯言です。 そのとき、この過程において何が重要でしょうか- 経験者ですか、経験することですか。 最も重要なのは、経験者でしょう。ですね? 彼は集めています。 で、経験者があるとき、それは、ますます意識下で自我本位になる。 ますます、「私は、あなたが知らないことを、大変多く知っている」、 「私はすばらしい霊的な経験をしたことがある」、 「私は光明を得た。 あわれなやつだ。あなたはそうではない。 私と一緒に来なさい」、 「私に、あなたのお金すべてを渡しなさい。 あなたはすっかり安心するだろう」と。(笑) 彼らは、このゲームをやっています。 保証しますよ。 「降参しなさい。私が授ける数珠を、着けなさい」。 世の中でつづいている、それら、なかなかバカげたゲームです。
30:01 そして、霊的とは、何でしょうか。 宗教的ですか。 何か聖なることですか。 何か期待せぬことですか。 何か全的に、通常のことを外れたことですか。 なぜ私たちは、日常生活より、何か全的に外側のものが、欲しいのでしょうか。 進んでください。どうか、この問いに答えてください。 それは、私たちの日常生活より何か全然違ったものを、意味しています。 そのとき私たちは、自らの日常生活に、退屈しています - 習慣、さびしさ、 絶望、執着、ご存じですね、権力、その他すべてです。 私たちは、それらを回避したい、天国を招きたいと思います - それが霊的と呼ばれます。 私たちは、尋常でなく自分自身を欺瞞できます - ですね? 私たちは、自己を欺瞞する能力を、信じがたいほど、持っています。ですね? キリスト教は、信念と信仰に基づいています。 すみません。私は、誰をも傷つけようとしていません。ただ指し示しているだけです。 二千年です。 海を渡ってインドへ行くと、そこでは、三千年から五千年の古さです。 神を売る同じ過程です。 なぜ私たちは、これらを信じなくてはいけないのでしょうか。 私たちは怯えているからですか。 私たちは、知られていないことを、知りたい、などと思います。 私たちは、それらに入らなくてもいい。
32:25 で、幻影とは何でしょうか。 実在とは何でしょうか。 付いてきていますか。 私たちは、この問いに付いてきていますか。 質問者は言われます - 私たちは実在を、知るのでなければ、どうやって、それらが 幻影であるかを、知りうるのでしょうか。 そのとき私たちは、実在とは何かを、検討しなくてはいけません。 実在とは何でしょうか。 実在、実際とは、あなたがそこに座っていて、 語り手がこの上にいることです- 不幸にも、です。 実在とは、自然です - あの樹、あの動物、 あの犬、私たちの回りのすばらしい大地、青空です。 実在。ですね? 実在。私は、自分の妻や夫、姉妹などなどへの 感情を、持っています。認識の動き全体です。 そして、実際。ですね? 私たちはここに一緒にいるのか、と思われます。 実際 - あなたと語り手は今、座っている。十二時です。 それは実際です。風がある。 雨が降らないだろうことを、私は願います。 実際は、自然、鳥たち、川、水などです。
34:13 質問者はこう言われます - 私は、実在を知るのでなければ、何が幻影なのかを、知りえません。ですね? 私たちにおける実在は、何でしょうか。 私たちに、何か実在の、実際のものが あるのでしょうか。 または、それはすべて動き、変化でしょうか。 先日、スイスで私たちが、サーネン集会をすっかり止めたとき - それはもはや、ありません。幾人かの人々が、やってきて、私たちに、語り手に言いました - 「私たちは悲しいです。 私たちはそれを止めてしまいました」と。 語り手は言いました - 「悲しいときは、それを止めていい頃ですよ」と。 (笑)理解されますか。 私たちはそれを止めました。 で、誰も変化を望みません。 ほとんどの人は根源的な変化を、欲しがりません。 質問者は言われます - 「もしも私は実在を知ったなら、幻影が何かを知るだろう」と。 で、私たちは、幻影を、その言葉を見つめるべきです。 幻影とは何でしょうか。 (イリュージョンという)その言葉自体は、 (語源が)ルーデレ - 辞書では、何かあなたが遊び戯れるものを、意味しています。 何かあなたが創案するもの、楽しむもの - 私は神である、私は何であれそれである、私はナポレオンである、私はこんな偉人である、と。 あなたは、何か実際でないことと、遊び戯れます。 自らは痛み、絶望を持っています - 説明できぬ、ものすごい さびしさの感覚です。 それは実際で、精密です。 私たちは、幻影を創り出します - すなわち、誰かが、私たちを助けてくれるだろう、 誰かが、私たちの生を充足させ、私たちをさびしく感じさせないだろう、と。 それはすべて幻影です。 実際の事実は、自らが絶望的にさびしいことです。
37:18 それで、自らが望むなら、何が幻影なのか、何が実在なのか、 なぜ経験へのこの熱狂なのかを、自分自身で見ることは、相当に単純です。 私たちは、性的な経験をしてきました。 幾千もの経験、 あらゆる物事、です。 ここから野原を越えていくと、 鳥、イワツバメなどが、見えます。 それは経験です。でも、あなたはそれを霊的と呼びません。 私は、あなたたちがそこに座っているのが見えます。それは挑戦です。それは動いています。 で、これらにおいて重要なのは、なぜ経験者がこれらを創案するか、です。 質問を理解できますか。 なぜ経験者が、こんなに重要になったのか。 経験者がない期間が、あるのでしょうか。 それが真実の問いなのです - 何が実在なのか、何が幻影なのか、 何が経験なのか、その他すべてではない。 そこに経験者、観察者などがない、 期間、時の長さ、空間が、あるのでしょうか。 そのときあなたは、経験を欲しがりません。 理解できますか。 何もないのです。 それがその言葉であるのが、見えます。 何もない(ナッシング)という言葉は - すみません。 私は辞書ではない - 何事もない、という意味です。 思考の事は何もない。 理解できますか。 何事もないとは、時と思考の終わりを、意味しています。 それは、経験者がまったく無いところです。 それが真実のことです。これらではない。
40:18 次の問いへ進んでもいいですか。
40:26 第二の質問:「病気は、単純に身体の衰退や濫用の せいですか。または、それは何か他の意義を、持っていますか。」 すみません。私は下手に読んでいます。 「病気は単純に、身体の衰退や濫用のせいですか。 または、それは、何か他の意義を、持っていますか。」
41:02 理解できますか。 質問者は、訊ねています - 病気はそもそも、何か意義を持っていますか。 ですね?あなたが仰ってください! 私たちはみんな、人生において何らかの時に病気でした。 麻痺したり、私たちの身体を壊す事故、 あらゆる種類の病気を、私たちは知ってきました。 社会、現代の社会は、かつてなく病気を産出しています。ですね? あなたは、新聞などを読まれます。 それは、何か利益を、持っていますか。 それは私たちに、深く理解させますか- なぜ私たちが病気になるか、 健康とは何か、なぜ私たちは、病気にではなく、健康に縋りつくかを、です。 質問を理解できますか。 私は自分自身に話していますか。 どうですか。 本当に私は、驚いています - あなたたちは聞いている。 または、あなたたちは、それを分かち合っている。 あなたは、私たちが話し合っていることを、ともに分かち合っているのです。 私たちは、同じテーブルに着き、同じ食べ物を食べています。 あなたは、音を立てて食べるかもしれないし、もう一人は優しく食べるかもしれない。 しかし私たちは、同じ時に、同じテーブルで、同じ食べ物を、分かち合っています。 で、語り手は、自分自身に話していません。
43:28 私たちはみんな、病気だったことがあります。 私たちは、それを少しも堪えません。 即時に医者、錠剤と、サーカス全体が始まります。 私たちはけっして、少しそれとともに居て、何が含蓄されているのか、自分がどう痛みに出会うかを、見ないのです。 私が言っていることを、理解されますか。 あなたはどう痛みに出会いますか。 私は、あなたがどのように、楽しみに出会うかを、知っています。それは相当に単純です。 しかし、痛み - 物理的な痛みだけでなく、心理的な痛み、 心理的にけがをし、傷つくこと。 あなたはどのように、それに出会いますか。 心理的な傷は、一つの形の病気です。ですね? どうですかね。 あなたが私に無礼であるから、私が傷つくなら - または、あなたが、「あんたはあほだ」と言うなら、私は傷つきます。 それは一つの形の病気です。 しかし、物理的に、私は傷つくなら、医師がいます。 それについて、何かをする誰かが、います。 私は、心理的な痛みを回避したい。 また私は、物理的な痛みをも 回避したい、逃げ去りたい - もちろん、末期癌になっていて、癌の激痛すべてがあるのでなければ、です。 あなたたちの誰一人としてそうでないことを、私は願います。 で、私たちはけっして、何かとともに居て、それがどのようなのかを、見ないのです。 または、それを堪えないのです。 質問を理解されますか。 私たちは一緒でしょうか。 同じ食べ物を分かち合っていますか。
45:50 これらにおいて、心理的な痛みのほうが、はるかに重要です。ですね? けがをする、傷つく痛み。 内側の深い苦悶の感じ。 それは大きな病気です。私たちはそれへ、多くの注意を払いません。 もしも、それへ多くの注意を払ったとしても - 様々な形での内的な痛みへ、です - 誰もそれを治せません。 錠剤はなく、導師はなく、書物はなく、 神はなく、儀式はない。何もその痛みを、止めないでしょう。 あなたは、それから逃げ去らないなら、本当に深く、それとともに居るなら、 それは無量の意義があるのです - ですね。 それはあります。そのとき、あなたは、何かすべての自己、 利己を越えてゆくものへ、透徹します。 そのとき、外的なもの、外的な痛みは、取り扱えるのです。 医師へ行く、それを堪える - それは二次的になります。 語り手が病気であったとき、 或る医師たちは、語り手に大量の抗生物質を、与えました。 しばらくした後、彼は麻痺しました。 一ヶ月間、完全に麻痺しました。 理解できますか。 誰もがみな、身体を運ぶ、お風呂に入れる、その他すべてを、せざるを得ませんでした。 櫛で髪をすく、髭を剃る、それらを一ヶ月間、です。 どうか、同情しないでください。(笑) 私は、あなたたちから、何も求めていません。 私は本気で言っています。 あなたのお金も、です - この大天幕と他の物事を持つため以外、 彼はあなたから、何一つ欲しくありません。 あなたの賞賛も批判も、あなたの財布と関わるものを何も、です。 で、これは、同情のための招待ではないし、 「あなたはどうして、それを堪えられましたか」とか、それらのことではありません。 私は、それがあった、と言っています - 丸一ヶ月の間、です。 「それで終わりです」と、私は私と一緒にいる人物へ、言いました。 だいじょうぶだ、と。 しかし、抗生物質の効果は、ゆっくり去ってしまい、彼はだいじょうぶでした。 彼は、いまでも生きています。 で、何かとともに、痛みとともに居るなら- もちろん、あまりに長くではありません。 それが本当にきわめて、 きわめて痛いのなら、あなたは、意識をなくす、その他すべてです。
49:53 で、それはあるのです - あなたが、自分自身でそれに入るなら、 それは、何か意義があるし、その意義は、一人一人に依存しています。 あなたが、いかに生へ向き合うのか、いかにそれを見なすのか、どんなさまでそれを受け取るのか、 どのようにそれに反応するのか、あなたが日常生活で - 日曜日の朝にではなく - 向き合う物事すべてへどう応答するのか、です。 それで、あなたが観察するなら - うるわしい樹や飛んでいる鳩を、観察するように、 あなた自身を、間近で観察するなら、それは、とてつもないものです - それが開示することは、です。
51:12 第三の質問: 「現在の世界危機に対する、私の責任とは、何でしょうか。」
51:21 「現在の世界危機に対する、私の責任とは、何でしょうか。」 あなたは、誰に、この質問をしていますか。 私の責任、あなたの責任は、何でしょうか。 なぜ私たちは、責任という言葉を、使うのですか。 応答する責任を持つ。 身体を清潔に保つ責任を、持つ - お湯とか、冷たすぎない水を持っているなら、です。 あなたは、自分の子どもたちに責任があります。 教授、教師、 教育者たちは、子どもたちの教育に、責任があります。 なぜ私たちは、その責任という言葉を、使うのですか。 質問を理解できますか。 もしもあなたが、その言葉を消去したなら、世界危機において、あなたの責任は何でしょうか - 私の責任とあなたの責任は。 もしあなたが、その責任という言葉を、断ち切るなら - なぜなら、その言葉は あなたと責任を、含意しているからです。 理解できますか。 あなたは、その言葉を断ち切るなら、そのとき、その質問をするでしょうか。 自分の国のために殺すことが、私の義務です。 自分の国と神とその他すべてのために闘うことが、 ロシア人として、アメリカ人として、イギリス市民として、私の義務です。 もしも私たちが、自分の頭脳からその言葉を、すっかり片付けてしまえたなら、 そのときあなたは、それをどのように扱いますか。 義務、責任、「私はしなければならない」 - それらすべての言葉。 あなたがそれらの言葉を片付けてしまうなら、何が起きますか。 それは、とても興味深い問いです。 ですね? 何が起きますか。 責任に含意されている この二元性が - いいですね? 私たちは少し、一緒にいますか。 責任という言葉は、「私はあなたに責任がある」という含意です - 私の子どもたちに、妻に、上司に、仕事に等々です。 私は、あなたたちに対して、神を代表する責任がある。 私は全的にその言葉を忘れるなら - 忘れるのではなく、その言葉を全面的に片付けてしまうなら、 (質問が書かれた紙が、落ちる) すみません!(笑) その紙が落ちたように、同様にその言葉を、私たちの全存在より、放逐します。 そのとき、何が起きますか。 進んでください。 あなたたちは、その言葉を片付けてしまいましたか。いいえ。 私たちはけっして - お分かりでしょう、あなたは何かを聞きますが、それについて行為しないのです。 私は、(ここ)ブロックウッドに責任がありません。 私は、そのように感じません。 語り手は、そのように感じません。 私は、あなたに何を語る責任も、ありません。 しかし、その言葉がないなら - それは、私がない、あなたへの責任がない、 という意味です。 あなたと私だけがある。ですね? そのとき、何が起きますか。 さあ、どうぞ。
57:03 愛に、責任はありますか。 進んでください。どうか、叫んでください。それについて何かを、です。
57:20 聴衆: それは統合です。
57:23 愛に責任がないなら、何が起きますか。 愛が執着でないなら- 責任には、その含蓄があります - そのとき、何が起きますか。

聴衆: (聞き取れない)

K: どうか、何かを言わないでください。 大変尊敬をこめて指摘させていただけるなら、
57:56 あなたが、生きてこなかったこと、働いてこなかったことを、何も言わないでください。見出してください。 私はあなたを愛しているなら、語り手はあなたを愛していて、言葉は、 責任、義務、執着などという言葉は、それでないなら、そのとき、私たちの責任は何でしょうか。 進んで、考えぬいてください。 あなたは、私の返事を待っていません。 私は、語り手は、その問いへ返事をしようとしていません。 それは本当に、きわめて深刻な問いです。 で、これらは、こういう含意です - 私たちは何かを愛していますか。
59:19 愛、何か二元的でないものを持つこと- 「私はあなたを愛しています」とかでない。 まあ、私は問いに答えましたね。 いいえ、私は答えていない。 問いは、答えられた。進展したのです。
59:47 第四の質問: 「案内を頼むことは、必ず理解を阻止するのでしょうか。 助けを求めることは、私たち自身の発見の手段に、なりえないのでしょうか。 なりえないなら、あなたに、Kに聞くことの意味とは、何でしょうか。」
1:00:09 「案内を頼むことは、必ず理解を阻止するのでしょうか。 助けを求めることは、私たち自身の発見の手段に、なりえないのでしょうか。 なりえないなら、あなたに、Kに聞くことの意味とは、何でしょうか。」 何の意味もありません。(笑) あなたは、Kに聞いていません。 あなたは、実際に誠実であるなら、Kに聞いていません。 あなたは、どこで自分が同意するか、不同意するかを見るために、聞いています。 あなたは聞いています。聞く過程で、あなたは、彼が言うことを 自分の便宜へ、自分の条件づけへ翻訳しています。 あなたは聞いています - Kにではなく、あなた自身にです。 Kは、何かとてつもないことについて、話していません。 これらをはるかに越えて、何かとてつもないものが、ありますが、 彼は今、それについて話していません。 あなたは、あなた自身に聞いています。ですね? 私たちが前に言いましたように、あなたは鏡に、自分自身を見ています。 あなたは、鏡を歪曲するかもしれません。 または、「私は鏡が好きでない。私は、自分が見るものが、好きでない」と言い、 鏡を壊すかもしれませんが、あなたはやはり、あなたなるものです。 で、あなたは、Kに聞いていません。 あなたは、Kが言っていることを、理解しようとしていません。 あなたは実際に、あなた自身に聞いています。 あなたが初めて、あなた自身に聞いているなら、 それは、起こりうる最大のことなのです。 しかし、あなたがK、X、Y、Zに聞いているなら- いや、すみません。X、Y、Zではない。 あなたがKに聞いているなら、そのときそれらはただ、たくさんの言葉、 たくさんの反応などだけです。 それはまったく - 尊敬をこめて指摘してもよろしければ - まったく無意味、不必要です。 あなたは、多くのことを、聞いてきました。 説教者たちに、書物に、 詩歌に、聞いてきました。あなたは、自分の妻と夫と女の子などの 声を、聞いてきました。 または、普通に聞いています。 しかし、あなたは聞くこと、聞こえることへ、注意すべてを向けるなら - 耳でもってだけではなく、はるかに多く、はるかに深く聞こえる。 そのときあなたは、あらゆる物事を聞くでしょう。 あなたは、Kが言うべきことを、聞くでしょう - あなたは、それとともに生きるのか、 それは真実、実際であるのか、あるいは、それは何か言語的、知的なことであり、 ゆえに、私たちの生においてほとんど意味がない。 質問者は言われます - 「案内を探し求めることは、
1:04:30 必ずや理解を阻止するのでしょうか。」 何への理解ですか。 化学ですか。数学ですか。 何か哲学的な概念ですか。 (ソ連の新指導者)ゴルバチョフへの理解ですか。 あなたのいう理解とは、どういう意味ですか。 どうか、私は、語り手は、失礼になろうとしていません。彼は失礼である・・・ すみません。彼は、そうしようとしていません。 彼は失礼ではなく、ただ訊ねています。 初めに、私たちの、理解というその言葉は、どういう意味でしょうか。 それから私たちは、その言葉を理解へ、関係づけられます - 案内をとおして、 案内を探し求めることをとおして、理解をもたらすことに、です。 初めに、私たちのいう理解とは、どういう意味でしょうか。 理解する。 私は、幾らかフランス語を知っているから、フランス語を理解する。 語り手は、イタリア語を知っているから、それを理解する。 で、知的、言語的な疎通が、あるのです - ですね。 それが、一つの形の理解です。 私たちは、普通の言語を使います。あなたは英語を話すし、語り手は英語を話します。 そして、言語的な疎通です。私たちが、同じ意味で言っていて、その言葉に 違った意味を与えないなら、です - 不思議の国のアリスが、「私は言葉に、 自分の望むことを、意味に、自分の望むことを与える」と言うように(しないなら)、です。 あなたはそれもできますが、そのとき疎通は、なかなか困難になります。 で、私たちのいう理解とは、どういう意味ですか。 言語的な疎通ですか。 概念への、観念への知的な了解ですか。 または、理解は、他の一人が言っていることを、実際に聞く、という意味ですか - 解釈しようとせず、それを変化させようとせず、修正しようとせず、 彼が言うことを、実際に、です。知的にだけではなく、あなたの存在すべてでもって、 大きな注意をもって、です。そのとき、それは単に知的や、情動的や、感傷的や、 それらの種類のことではなく、全面的にあなたは、そこにいるのです。 そのとき、言語的な疎通だけでなく、非言語的な疎通も、あるのです。 質問者は、言います、訊ねます -
1:08:01 案内を求めることは、必ず理解を阻止するのでしょうか。 いいですね? なぜ私は、案内が欲しいのでしょうか。 何について、ですか。 あなたが、私に答えてください - あなたたちの中で、これら導師とその他すべて、 教会と寺院とモスクに従う人たちは、です。 あなたのいう案内とは、どういう意味ですか。 違った衣を着て、あごひげを生やしたり、生やしていない、もう一人の仲間の人間。 特に、インドを含めて、アジアからのです。 なぜ案内が、欲しいのでしょうか。 あなたは今、案内されつつありますか。 単純であってください。 あなたは今、案内されつつありますか。 または、私たちはともに究明し、探検し、疎通していますか。 「私は、あなたが言っていることを、理解できない」と言っていますか。私は、「それを説明しましょう」と言う。 それからあなたは、私に何かを説明する。 私は、「はい」と言う。 私たちは、ともに動いています。 何も案内はありません。 理解されますか。 私たちはそうしていますか。 私たちは、たくさんの案内を持ってきました- 世界中の、あらゆる新聞、 あらゆる雑誌、あらゆる説教者、あらゆる司祭者が、私たちを案内しています。 私たちに、何をすべきか、何をすべきでないかを、言っています - これを考えろ、あれを考えるな、 降参しなさい、ああ、彼に聞くな、 彼は反動主義者だ、と。 付いてきていますか。 私たちは、いつの時も案内され、形作られ、枠に入れられつつあります - 意識的にか、無意識的に、です。 ここで私たちは、誰をも案内していません。 私たちは、二人の友のように一緒に、物事について話し合っています。 それは全然違っています。 案内は、理解を阻止します - その言葉の、より深い意味で、です。 なぜなら、私は初めに自分自身を理解できない、自分自身を見つめられないからです。 あなたは私を、いつの時も案内しています- これをしろ、あれをするな、と。 私は自分自身を見つめていません。私は、あなたが言ってきたことを、聞いています。 それは、あなたが権威になる、私はあなたの奴隷になる、という意味です - 心理的な奴隷でも、何か他の要因への奴隷でも、です。 自分のアシュラムをもった、これら導師たち- 彼らの場所は、強制収容所になる。 彼らはあなたに、何をするのか、どう礼拝するのか、たわごとすべてを、語ります。 私は非難していません。そのとおりです。 で、案内は実際に、私たち自身の理解を阻止しますが、私たちはまったく
1:11:39 それを探し求めないなら、そのとき、助けを探し求めることは、手段とか、私たち自身の発見に なりえないのか。やれまあ。私たちはもう一度、これらに入らなければいけませんか。 なぜ私たちは、単純でいられないのでしょうか - 衣服での(質素)ではない。 私はそういうつもりで言っていません。 単純である。 物事を、ありのままに見る。 物事を実際に、あるがままに見る。向き合う。 これら迷路、迷宮の代わりに、です。 なぜ私たちは、これらを通っていかなくてはいけないのでしょうか。 医師以外は、です。 - それは違った事柄です。 心理的に、私たちは話をしています。 なぜ私たちは、きわめて単純であり、物事をありのままに、見られないのでしょうか。 私たちの頭脳は、無能力にされていて、ずるがしこく、絶望的に婉曲であり、 そのため、物事が、鼻先や目の前にあるものが、見えないのでしょうか。 あなたは心理的に、きわめて単純であるなら、 その単純さこそが無量の微妙さを、持つのです - 頭脳のずるがしこさすべてより、はるかに微妙です。 しかし、私たちはけっして単純ではありません。 雨が降っているなら、降っています。 私はさびしい - 語り手が、ではありません。 自分はさびしい。それは事実です。 なぜそのまわりに、すべてのサーカスですか。
1:14:05 第五の質問: 「全的なヴィジョンとは何かを、どうか説明してもらえるでしょうか。 それは、私たちの通常の頭脳機能の延長でしょうか。 または、それは、何か全然違ったものを、含意しているでしょうか。」
1:14:28 「全的なヴィジョンとは何かを、どうか説明してもらえるでしょうか。 それは、私たちの通常の頭脳機能の延長でしょうか。 または、それは、何か全然違ったものを、含意しているでしょうか。」 ごく単純であるなら - 私たちは何かが、全面的に見えますか。 私たちは、見えますか - 樹々、自然、それらが、ではない。 私たちは、私たちの一人一人は、自分の妻が、見えますか。 見える - 想像するとか、イメージすべてが、ではない。単純に見えますか。 私は部分的に見えますか。なぜなら、私はとても多くの先入観、多くの恐れ、 多くの心配、その他すべてを持っているからです。 で、私はけっして、誰も全面的に見えません - ですね? 何かが全的に - その言葉を使っていいなら、全包括的に、完全に 全的に見える。その見える中に、矛盾はありません。そのとおりです。 理解できますか。いいですか? 実際に起きていることが、見えることには、矛盾がありません。 私は怒っています。 私は辛抱できません。疲労困憊しています。 それが単純に見える。 しかし、私が事実に持ち込む瞬間 - 「ああ、私はそうあるべきでない。私はこのようだ。 私は疲労困憊している。 私は激怒している」と、です。 ですね? 私は自分自身が、全的に、ありのままに見えるでしょうか。 私は、地図全体が見えるでしょうか。 地図は、私たちの一人一人の前に置かれています - 世界の地図で、 様々な色、様々な旗、様々な首相、様々な大統領を もっています。つづいている間抜けなことのすべて、です。 それが、私の前、私たちの前にあります。 私は、その地図全体を、全体として、見つめられるでしょうか。 私の注意がイギリスにあるなら、 または、私の注意がロシアにあるなら、その地図全体を 見つめることは、可能ではありません。 で、そのとき、私の注意は一点へ方向づけられています。 付いてきていますか。 で、一点へのこの方向づけや利己の感覚は、 全包括的な見通し、全体のことが見えることを、阻止します。 それは単純です。 ですね? しかし、私は、大地のこの特定の一角に、はまり込んでいるなら、 私の根がそこにあるなら、私はとうてい、全体のことが見えません。 私がいつもインドについて考えているなら - ありがたい。私はそうでない。けっしてそうでない。 私がいつも、インドについて、考えているなら- 何が起きつつあるのか、 なぜ私はインド人なのか、なぜ私は貧しいのか、なぜ私はこうなのか - その他すべてをご存じでしょう - 私はどうやって、誰かをだませるのか、 または、何か特定の神とか何らかのものを、信じられるのか、と。 私はそこにいて、はまり込んでいます。 私はその全体が見えません。 ですね? それは、さほどに単純です。 で、それの真理が見えるとき、当然、私はそうならないでしょう。私は「何て戯言だ」と言います。
1:19:34 全包括的に見えるだけではない- 私たちは止めなければなりません - 見えることには、それよりはるかに、多くがあるのです。 観察する - 何の言葉もなく、 何の思考の介入もなく、ただ見える。 まず最初に、視覚的に、それから内的に、あらゆる物事が、ありのままに見える。 その見えることから、私たちははるかに先へ行けます。そのときあなたは、洞察とは何かを訊ねます。 何かが絶対的に真実だと見えて、その瞬間に行為する。 私は今、それらに入らないでしょう。 もう止める時間です。 しかし、これらは、自らが何なのかへの、分析者なしの 究明や観察を、必要とします。 そこからあなたは、無際限に、限界なく動けます。 そこには、始まりや終わりがないのです。
1:21:07 立ち上がってもいいですか。