BR85Q2 - 第2回質疑応答会合
イングランド、ブロックウッド・パーク
1985年8月29日
0:51 | ありがとうございます。 あまりに遅い! |
1:07 | それをもっと上に、付けてもいいですか。 (機器の音) |
1:39 | できました!(笑) |
1:47 | 多くの質問があります。 ここには、七つの質問があります。 それらは、気をつけて選択されてきました。 私はそれらを読んでいません。 他の人たちが、それらを読んで選んでおきました。 気になさらないことを、願っています。 |
2:16 | 私たちは、これら質問に入る前に、何かについて、一緒に話をしてもいいですか。 私たちは、たやすく影響されます - そこのボックスによってだけではなく、各自の部屋で 書物により、新聞、雑誌により、過去の伝統によって、です。 たぶんあなたたちが昨夜、聞かれたように、エルサレムは五千年前に存在しました。 さらにもっと、インドの幾つかの部分が、あります。 この長い伝統や、たった一日の短い伝統、 または、ドライヴや森の散歩でのたった一つの午後。 これらすべてが、私たちに影響します。 各々の人間の遺伝子的な過程、遺伝だけではなく、 存在全体が、互いに影響しあう 過程であると見えます - 空気、汚染、大地の美しさ、 私たちのまわりのあらゆる物事と、あなたがそこに座っていて、 語り手がここにいることさえも、です。 私たちは、互いに影響しあっています。 私たちは自分たちに、何をすべきか、何を考えるべきかを、語っています - 私たちの一人一人が、です。 私たちは、互いに圧迫を掛けます - 美しさをとおし、うるわしい詩歌や、 個人的な関係をとおして、です。 それは、常なる過程です - 枠に入れられ、 形作られ、形態にされる過程だ、と見えます。 私たちは、余生の間、その狭い道、狭い小道を 前進します。それが、私たちの存在の道であると、見えます。 影響から全的に自由であることは、そもそも可能なのかと、思われます - 物事すべての起源、始まりを見つけるように、です。 それは、原因や結果を持たないにちがいありません。 |
5:19 | で、それは可能でしょうか。 理解できますか。 私たちはともに、話し合っています。 私たちは、あなたに影響しようとしていません。 あなたは語り手に、影響しようとしていません。 私たちは、一緒に話しあっている二人の友だちです - 同じボートに乗り、 同じ道、小道にいます。霊的なとか、それらの種類のことではなく、普通の、です。 森を通りぬける小道、 木漏れ日と、大地の美しさと樹々。 影響すべてから自由であることは、いったい可能でしょうか - 私たちはお互いに、訊ねています - 私たちが拠っている過去。 その過去は、私たちへものすごい影響を、持っています。 いわゆる宗教書の長い伝統、古い詩歌、 (ギリシャの)イリアッドから古代ヒンドゥーまで、古代の文学、文献。 そして、自分自身に訊ねます - あなたが訊ねているように、私が訊ねているように、です。 本当にこれらから自由であることは、可能なのかどうか、 そして、何か全的に本源的なものを(見つけることは)、です。 反復、反復ではない。導師と弟子、従う者と従われる者のそれ、 彼らの独特の衣装をともなったもの、それらの種類の事柄ではない。 それは可能でしょうか。 どうか、それへ少し注意を向けてください。 あなたは、何と考えますか。 それは、可能でしょうか。 可能でないのでしょうか。 それは可能でないなら、または、それが信じがたく困難であり、ゆえに 私たちは一番たやすい道を選択し、古い様式に従うなら - ただ、違った色、 違った数珠、違った指導者、教師、 導師と、いわゆる覚りを開いたやつら!(笑) などで、です。 すみません。 それは、そもそも可能でしょうか。 または、私たちは永遠に、この状態に留まるよう運命づけられていますか - 印象づけられ、 形作られ、枠に入れられ、条件づけられる状態に、です。 それがそもそも可能であるなら、あなたは何をするのでしょうか。 |
9:13 | あなたはどのように、それに取りかかるのでしょうか。 どんなさまで、あなたはこの問いへ接近するでしょうか。 おそらくそれが、本当の問い、最も重要な問いであるかもしれません。 私たちは、とてもだまされやすいから、そうするための理由を、多く創案します - 従うため、導くため、確信できて満足できる何かへ 降参するための理由を、です。 それで、いわゆる「責任」という言葉すべてを、他の人へ、譲り渡してしまいます。 これが、私たちの定めでした。 これらを知って、どのように、何が実際にあるかを見、 自分が何をできるかを、見ることになるのでしょうか。 それについて、話すだけではなくて、です。 あなたは、自分の妻、夫、女の子などに影響されるかもしれません。 |
10:43 | 大変多くの疑いを持つことは、必要でないですか。 あなたは、何と仰いますか。 一定の懐疑の性質を持つことが、必要でないですか - 他の人たちについてだけではなく、自分自身についても、です。自分の欲望、 確信、信念、信条と、明確な、指向的な目的について、です。 私たちは、それらを問えるでしょうか。 それらを疑い、その疑いがどれほど行けるかを 見られるでしょうか - 訊ね、要求し、探究する感覚がどれほど、行けるか、です。 私たちはともに、これをできるでしょうか。 語り手があなたを導いているとか、あなたが自分の確信でもって、 語り手を導いているとか、ではありません。ともに、です。私は、ともに、これを探究しよう、というのです。 |
12:10 | コンピューターは、私たちが先日言いましたように、 コンピューターは、私たちの能率的な仕事すべてを、するでしょう。たぶん私たちがするのより、良くです。 それは、新しい神を、新しい神学体系を、新しい生き方を、 創案するでしょう。すなわち、工業時代は、ほぼ過ぎ去っていて、 コンピューター時代が、始まるでしょう。 これらはすべて事実です。 私たちは、何か異常なこと、非事実とか想像上のことを、言っていません。 これが、私たちのすべてに起きようとしていることです。 彼らは、頭脳への巨大な介入を、創案しつつあります。 |
13:16 | で、私たちは訊ねています - 私たちはともに、この問いに入れるでしょうか。 私たちには、懐疑、疑いが要るし、疑いがとてもエネルギーを与え、 浄化することを知って、 あなたは、それをするのでしょうか。 自分の経験、自分の態度、先入観、 同意、不同意、それらを、疑うのです。 疑う - 革紐に繋がれた犬のように、です。 時々、正しい場所で、犬を 自由に走らせ、ジャンプさせなければなりません。 さもないと、犬は、おとなしめになります。 |
14:29 | で、懐疑もまた、自らの正しい持ち場が、あるのです。 特定の場所ではない。 自らの正しさの性質が、あるのです。 「ああ、私はあれを疑うまい。 私はあれに所属しているから。 私は、他のあらゆるものを、疑おう」と。 私たちは話していました - 私たちは、或る時、大変多くの友だちを、 持っていました - 共産主義者です。 衝撃を受けないでください。 彼らは、そこまで行って、それ以上は行こうとしません - カトリックのように、 プロテスタントのように、ヒンドゥー教徒や仏教僧侶のように、です。 そこまで、です。その向こうには、神秘がある、とか、その向こうは、不可能である、と。 で、疑いは、革紐に繋がれ、また走ることを、許されなければなりません。 あなたはそれをできますか。 私たちはともに、それをできますか。 あなたの神、導師、経験などについて、疑う - 人間の経験、 人間の尽力、人間の結論の背景全体、 それの束全体について、です。 その束を探究しはじめる。 そして、どれほど実際に - 理論的にではなく、自分の生、日常生活において実際に、 どれほど自分が、この疑い、この探究、その裏のこの熱情とともに 行けるのかを、見るのです。 |
16:58 | 私たちは、問いに答えるべきでしょうか。 または、私たちが話していたことを、 つづけるべきでしょうか。 |
17:12 | どれほど遠く、どれほど深く知識は、本質的なのでしょうか。 書物(の知識)と、他の人たちが、言ってきたことの知識だけではなく、 私たち自身についての知識、です。 知識は、いつも制限されています。 ですね? あなたは、科学的知識が何をしているのか、達成しているのかを、見られます。 小さくて、もっともっともっと多くを付け加え、付け加えています。 付け加えられるものは、いつも制限されています。当然です。 よろしい? 私たちは理解しつつありますか。 もし私がいつの時も、何かを知識として、付け加えているなら、 私がゆっくり集めつつあるもの、ゆっくり集められるものは、 いつも制限されています。なぜなら、もっともっと多くが、あるからです。 ですね? で、知識はいつも、制限されています。 創案、発明する人は、「ああ、そうだ。 私たちは知識を乗り越えられる」と。 古代インドで彼らは、この問いへ入ったし、観念を創案しました。 私はそれに入らないでしょう。 そのかいはありません。 知識は、私たちの背景です。 その背景が、私たちを案内し、私たちを形作り、何をすべきかを、語っています。 または、あなたは直観を持ちます - それはお気に入りの言葉です!でも、その言葉もまた、 なかなか危険です。なぜなら、あなたの願いが、昇華されて、直観になるのかもしれないからです。 しかしそれは、やはりあなたの願い、あなたの願望です。 で、知識は、日常生活において、どんな持ち場が、あるのでしょうか。 すみません - 語り手が、これらすべての質問をしています。 たぶんあなたたちは、答えないでしょう。 あなたたちは、ただ聞き、続けていくだけでしょう。 しかし、実際に聞いて、それに入るなら、 知識は、生において、日常生活において、どんな持ち場が、あるのでしょうか。 あなたは、手紙を書くとき、知識を持たなくてはいけません。 あなたは、英語を話すとき、知識を持たなくてはいけません。 または、フランス語やイタリア語、ロシア語や何であっても、です。 あなたは、ビジネスをするとき、電話をかけるとき、 物理的にあらゆることをするとき、知識を持たなくてはいけません。 車をどう運転するのか。 また、関係における知識も、です - 自分の妻、夫、女の子とその他すべてを、認識します。 それは・・・認識は知識の一部です。 関係において、知識はどんな持ち場が、あるのでしょうか。 つづけていいですか。 または、あなたは、これらを面白がっていますか。 あなたと他の一人との間で、知識はどんな持ち場が、あるのでしょうか。 または、知識はどんな持ち場が、あるのでしょうか。 私は自分の妻を知っています。 または、父、母、夫を、です。 私たちが、「私は知っている」と言うとき、知ることは知識です。ですね? それは、日常生活で、どんな持ち場があるのでしょうか - 私の妻と夫との間、 男と女の間で、です。 どうか、答えてください。 あなたが彼女を知っていること、 その知ることは、あなたの関係において、どんな持ち場が、あるのでしょうか。 知識は、関係において障害でしょうか。 |
22:55 |
聴衆: はい。 K: ちょっと待って。はい、と言わないでください。 はい、と言うことは簡単です。 それで、何ですか。 私は自分自身に、「私は妻を知っている」と言うなら、私のいう、彼女を知っているとは、どういう意味ですか。 私の以前の性的な経験、彼女についての私の苛立ち、私への彼女の怒り、 彼女が、「今日、あなたはとても良かった。 すてきで優しかった」、 「晩餐に行きましょう」と言うこと、(笑)その他すべて。 それらが、互いについてイメージを、築き上げます。 これは事実です。 私は、充分なイメージを築き上げたとき、「私は彼女を知っている」と言います。 彼女は、「私は自分の夫を知っている。 彼の癖、彼の愚かさ、彼の良さを」と言います。 その他すべて、です。 それらが知識です。 私たちは訊ねています - 関係において、それには、どんな持ち場が、ありますか。 知識には、どんな持ち場がありますか。 または、まったく持ち場がないのでしょうか。 愛は知識でしょうか。 あなたのセックス、あなたの・・・その他すべてを憶えていること、 その特定の関係において、あなたが築き上げてきた背景、 そして、その知識は、分割的です。 そうでないですか。 やれ、あなたたちは、みんな眠っています。(笑) それは分離します。 私は自分の野心、貪欲、その他すべてを持ち、彼女は彼女のを持っています。 彼女は充足したいし、私は充足したい。 で、私たちは、ベッドの中では出会うかもしれませんが、けっして出会わない二本の線路に似ています。 私たちは、これに向き合いますか。 あなたは、結婚しているなら、これに向き合いますか。 または、あなたは、女の子とともに生活するなら、この事実に向き合いますか。 または、事実を見つめたくないのです。 |
26:06 | で、どうか、実際に関係の中で、自分自身で見出してください - 知識とは何か、 自分の経験とは何か、それは関係において妨げなのか、または、 あなたたちが、幾らか快適に、幾らか幸せに、だが、互いから気をつけて 距離を保って、一緒に生きるのを助ける要因なのを、です。 |
26:46 | ですね?私たちの他の質問へ、進んでもいいですか。 神様、十二時近くです。 |
26:56 | 第一の質問: 「Kは、真理への道はない、と言います。 これを見る能力は、私自身の外にあるのでしょうか。 私の意識と、知覚の手段は、全面的に私の内に、あります。 私は、何も手段や道具もなく、どうすれば、未知の目標に向かって、行けるのでしょうか。 何が私に、この方向へ動く必要、エネルギーを、与えてくれるのでしょうか。」 |
27:35 | 「Kは、真理への道はない、と言います。」 あなたは、それを受け入れますか。 「真理への道はない。 これを見る能力は、私自身の外に、あるのでしょうか。 私の意識と、知覚の手段は、全面的に私の内に、あります。 私は、何も手段や道具もなく、どうすれば、未知の目標に向かって、行けるのでしょうか。 何が私に、この方向へ動く必要、エネルギーを、与えてくれるのでしょうか。」 何とまあ!(笑) この問いの中には、多くのことが、あります。 |
28:45 | まず最初に、私たちが先日言いましたように、 答えは、問いの外側にありません。 答えは、問題の外側にありません。 答えは、問題の中、問いの中に、あるのです。 どうか、それについて、短く話しましょう。 私たちはいつも、答えを、見つけようとしています - 問題の外側で、満足できて、 便利であり、幸せであり、楽しめるなどのものを、です。 もしも私たちは、問題からのこれら逃避気味のことを、脇に置けたなら、 もしもあなたが、問題を見つめられたなら- この問いを一緒に見つめてください。 Kは、真理への道はない、と言います。 なぜあなたは、彼の言葉を信じますか。 なぜあなたは、それを受け入れますか。 なぜあなたは、それを反復しますか。 Kは言います。 それを言うKは、誰ですか。 どんな権限ですか。 または、それは反応ですか。 理解できますか。 なぜなら、彼は真理への多くの道を見るからです- 私はそれに入らないでしょう。 人間たちがいるかぎり、彼らは、違った意見を持っています。 で、それは真実でないかもしれません。 初めに、それを見出しましょう。 |
30:42 |
様々なキリスト教の道が、あります - ですね?
カトリック、プロテスタントと、プロテスタントの様々な分派 -
無数の、多くのそれらです。
仏教の、ブッダによる道が、幾つもあります。
ブッダが実際に何を言ったのかは、けっして本当に知られません。
または、バイブルが何を言うのかは、けっして知られません。
それで、
それから、チベットの道があります。ですね?
仏教の道、イスラム教のもの - それらの分派とともに、です。
で、これらすべての道が、あなたの前に、真理へ、拡げられています -
それが何を意味していようとも、神へ、光明へ、
覚りなどへ、何十もの道があるのです。ですね?
あなたは、どのように選択するのでしょうか。
どれが正しい道であるかを、あなたは、どのように選択するのでしょうか。
どうか、仰ってください。
聴衆: 自分自身を知らなくてはいけません。 |
32:05 | K: 自分自身を知らなくてはいけない、と誰かが言います。 |
32:09 | で、なぜ道について、思い悩むのですか。 なぜ真理について、思い悩むのですか。 なぜ、Kが言うことについて、思い悩むのですか。 なぜあなたは、自分自身について、知らないのですか。 あなたはどうやって、自分自身について知るのでしょうか。 どういうさまで、ですか。 あなたはどうやって、自分自身を見つめるのでしょうか- 鏡の中で、自分自身を見つめるように、です。 あなたはどうやって、自分自身を見つめるのでしょうか。 自分自身を見つめると言うことは、簡単です。 ソクラテスと、古代のギリシャ人と、さらに前の古代のイスラエル人、 さらに前の古代のエジプト人などなど、 ヒンドゥー - 彼らはみんな、様々な形で「あなた自身を知りなさい」と言ってきました。 そして、私たちの前には、これらの道があります。 私たちはみんな、真理を達成したいのです- そのことが何であっても、です。 これらすべての道は、それへ繋がります。 それは、真理は固定している、という意味です。ですね? そうにちがいない。さもなければ、それへの道は、ないでしょう。 それは、静止しているにちがいない。 それは、動きを持たないにちがいない。 それは、死んでいるにちがいないのです。 そのとき、それへの道がありえます。(笑) いいえ、笑わないでください。 これが、私たちがすることです。 で、Kのような誰かが、やってきて、言います- さあ、道について思い悩まないでください。 それは、舵の付いた船に、乗っているのに、似ているかもしれません。あなたは動きます。 見出します。学びます。動きます。 動きます。進みつづけます。見出します。 静止して、真理を、何か恒常的なものにするのではない。ですね? 私たちは、何か恒常的なものが、欲しいのです。 恒常的な関係。 私は、自分の夫、妻に執着しています。 私はそれが恒常的であってほしい。 私たちは、どんな変化をも認めません。ですね? 私たちは、いつの時も変化しています- 生物学的にも、 心理的にも、です。しかし、私たちは、何か完全に満足できる、恒常的、永続的で、 私に安全を与えてくれるものとともに、留まりたいのです。 私は、本当に安全がないことを見つけるので、 そのとき私は、真理を、自らがそこへ向かって行く恒常的実体として、持つのです。 そして、弟子、導師、司祭者たちすべてが、います- みんな、あなたが行くのを、助けてくれます。 どこへなのか、私は知りませんが、彼らは、あなたを助けてくれます。 で、自分の推理する能力、論理を持つ能力を、使う。 |
35:45 | 物事を一歩一歩見る。どの歩みをも逃さない。 または、それは、はるかに錯綜しています。 真実で、正確であることを、見るのです。 まあ、それは違った事柄です。 |
36:11 | で、質問者は言われます - 道がない真理に至るために、 必要な道具は、何ですか、と。 あなたは、道具を持った瞬間、すでに道を創り出したのです。ですね? これは見えますか。 見えない? 私は、そうするため、それを達成するための手段を持った瞬間、 そのとき手段は、道具になります。 私は、自らがそれに向かって働いている真理を、すでに持っています。 で、あなたは、道具、手段、体系を持った瞬間、真理が何かを、知っています。 ゆえに、道具を持つことは、むだなのです。(笑) どうなのでしょうか・・・私たちは、これが見えるでしょうか。 または、これは、あまりに非論理的すぎるのか、 または、あまりに卑劣にも合理的すぎるのでしょうか。(笑) 手段は目的です。 手段は、目的より異なっていません。ですね? |
37:45 | それで、 ここにおける、もう一つの問いは、こうです - 「私の意識と、 知覚への手段は、全面的に私の中にあります。」 あなたのいう、意識という言葉は、どういう意味なのでしょうか。 あなたたちは、これらに入ることは、構いませんか。 あなたがこれらに入るなら、面白いです。 自分の頭脳の能力・容量を理解するだけではなく、また、掘り下げるように、です。 石油を見つけるには、とても深く掘ります。 それらの面倒を経てゆきます。 私たちは、自分自身で、私たち自身の中でこうするのに、一秒を使うことさえしようとしません。 で、私たちのいう、その意識という言葉は、どういう意味でしょうか。 その意識は、あなたより、「私」より、違っているのでしょうか。 |
38:59 | あなたは、うるわしい朝にこれらに、退屈しますか - ゴルフ・コースにいたり、散歩や何かをしている代わりに、です。 あなたはここにいて、私たちがここにいるからには、進みましょう。 あなたのいう、意識とは、どういう意味でしょうか。 それについて有識者たちにより書物が、書かれてきました。 私たちは有識者ではありません。ですね? これを理解しましょう。 あなたと語り手は、有識者ではありません。 とんでもない! 職業的な専門家ではない。 職業的な導師、職業的な追従者 - 彼らの独特の衣装とその他すべてとともに、です。 私たちはただ、ともに探究しています- 二人の友のように、です。 あなたのいう、意識とは、どういう意味ですか。 あなたなるすべて、ではないですか。 あなたの意識は、その内容すべてから、作り上げられています。ですね? 怒り、嫉妬、信条、信念、心配、切望。 自らがしてきた無数の経験すべて、 生の小さなことすべての蓄積すべて また、苦しみ、痛み、不安全、混乱、 そして、これらから逃避したい、何か長続きするものを、見つけたいとの願望。 そこにはまた、死の恐れと、 向こうに何があるかの探究も、あるのです。ですね? そのすべて、この広大な束が、私たちの意識です。ちがいますか。 いいえ?はい? 進んでください。これについて、不同意はありません。 神経質にならないでください。 私たちは、私たちの意識です。 意識の内容が、意識の全体を 作り上げます。それが上の意識でも、 下の意識でも、意識を拡大したいとの願望、 (笑)その他すべて - それはやはり、意識の分野の中にあるのです。ですね? その意識が私です。 それなしに、「私」はありません。 で、あなたが、「私」は違っている、私の意識は違っている、と言うとき、 あなたは、それと闘いをする - 闘争、葛藤、続くすべて、です。 で、そのとき私たちの問いは、こうです- 初めに、私たち自身で |
42:37 | 内容を発見すること、内容を見ることは、可能でしょうか。 それは相当に簡単です。 習慣、あなたが櫛で髪をとかすさま、話し言葉の、思考の習慣。 それらを観察することは、相当に単純です。 また、イギリス人として、フランス人として、ロシア人等々としての 自分の条件づけに気づくことも、です。 私たちの様々な宗教的な傾向を見ることもまた、相当に簡単です - カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒、仏教徒。 何らかのことに従う。付いてきていますか。 それは、相当に簡単です。 しかし、それを越えていくには、 アクアラングは要りません。あなたは、とても深く行かなくてはいけません。 しかし、とても深く行くには、初めに、表面的なことを、理解しなければなりません - 私たちを条件づける影響から自由であることは、 可能なのかどうか、です。ですね? それは可能でしょうか。 見出してください。 働いてください。聞かないで、それへ取り組んでください。 それへ、あなたのものすごいエネルギーを、注いでください。 あなたは、ものすごいエネルギーを持っています。もっと多くは要りません。 ここに来るには、あなたにはたくさんのエネルギーが、掛かりました。 そのエネルギーの幾らかを、使ってください。 尊敬をこめて指摘してもよろしければ、 これに入るよう、そのエネルギーの幾らかを、使ってください。 あなたは、何かが欲しいとき、それを追いかけます。 それは、自分はすっかり怠惰ではいけない、自分は少し活動的でなくてはいけない、という意味です。 あなたを助けてくれる人は、誰もいません。 あなたを助けてくれるどんな道具、 どんな器具、どんな指導者、どんな物事も、ありません。 あなたは、本当のものを見つけるには、本当に、助けなしにならなければなりません。 私が話していることを、あなたが理解されるのかどうか、私は知りません。 あなたが、助けなしであり、実際に助けなしであるなら - それは、いかなる助けもない、という意味です。誰からも、どの書物からも、 どの人物からも、どの環境からも、です- そのときあなたは、 本当に助けのない状態に、います。 そのとき、他の何かが起こります。 そのとき、あなたは、物事が見えはじめます。 |
46:07 | 質問者は、言います。訊ねます - 「何が私に、真理の方向へ動く必要、 エネルギーを、与えてくれるのでしょうか。」 真理の方向。 それは、すでにそれがあちらにある、という意味です。(笑) 私は笑っていません。私は、不敬とか冷笑的とかではありません。ですが、そのようなものです。 私たちが、方向というような言葉を使うとき、それはすでにそこにある。 それはすでに、予め構想されていて、すでに、そこに存在しています。 あなたの確信のためか、誰かがあなたに語ったから、などです。 真理は本当に、道なき土地なのです。 恐れとその他すべてがないとき、それは存在しうるだけなのです。 |
47:16 | 第二の質問: 「私は、変化するのを恐れています。 私が変化するなら、後で何が起きるのでしょうか。 私はこれで麻痺しています。 この問題について話してもらえますか。」喜んで! |
47:32 | 「私は、変化するのを恐れています。 私が変化するなら、後で何が起きるのでしょうか。 私はこれで麻痺しています。 この問題について話してもらえますか。」 なぜ、変化を恐れているのでしょうか。 あなたのいう、その変化という言葉は、どういう意味でしょうか。 自らは、芝生の向こうのこの邸宅に、二十年近く、生活してきました。 あの特定の部屋に、そこのすてきな家具に 執着します。ですね? 執着します。 それは、あなたが執着しているものが、あなたなるものである、という意味です。 あの良い古い家具に執着しているなら、あなたは、あの家具です。 それで、私たちは、変化するのを恐れています。 私は、あの部屋に執着しています。 しかし、不幸にも語り手は、大変多く旅行をします - それはただの言い訳です。 |
49:07 | で、その言葉は、どういう含意でしょうか。 「あるもの」から、「あるべきもの」に変化する。ですね? それは一つの変化です。 または、私の古い様式に沿って変化するが、様式の中に留まる。 その分野の片隅を横切っていき、私は、自分は動いた、自分は変化した、と言います。 しかし、それはやはり、同じ分野の中なのです - バリケード、有刺鉄線が置かれています。ですね? 北、東、西、南へ行くことが、変化です。 なぜ私たちは、その言葉を使うのでしょうか。 生物学的に、血液には、常に変化があることを、聞かされています。 常に動き、変化が、です。一つの細胞が死に、もう一つが取って代わります。 または、一連の分子などが、です。 物理的に、この常なる変化がつづいています。 私たちは、変化するのを恐れています。 私たちは、その変化という言葉を、捨てられるでしょうか。 変化は、時という含意です。 そうではないですか。 「私はこれである。 私はあれに変化するだろう。 または、「私はあれだったが、或る出来事がやってくる、 起きるだろう。その出来事が、私を変化させるだろう」などとです。 変化は、時の中での動きを、含意しています。ですね? 私たちは先日、時の問いへ入りました。 私は、反復すべきでしょうか。 語り手は再び、それに入るべきでしょうか。 時。 時は、きわめて複雑なものです。 私は、それに入らないでしょう。 これは、その機会ではありません。 で、もしもあなたは、その変化とか革命とか変異とかいう言葉を、 |
51:42 | 捨てられたなら - 語り手は、これらすべての言葉を、使ってきました。もしもあなたが、 それらのすべての言葉を捨てられたなら、私たちは、「有るもの」に向き合っているだけです。 ですね?「それがあるべきもの」ではなく、「有るもの」に向き合うだけです。 私は怒っている。 それが、「有るもの」です。 私は暴力的である。 それが、「有るもの」です。 しかし、政治的にとか宗教的に非暴力的になることは、変化です。 私が暴力的であるとき、非暴力になるには、時が掛かります。 その間隔に、私は暴力の種子を蒔いています。 それはすべて単純です。ですね? で、私は、暴力を変化させようとしないで、それとともに留まります。 私は怒っている。 それは事実です。 怒りへの言い訳は、ありません。 私は、憎しみと怒りのために、一ダースの言い訳を見つけられます。しかし、私がなぜ怒るかへの それら探究は、怒りからのもう一つの逃避です。ですね? なぜなら、私は動いて離れたからです。 で、頭脳は、「有るもの」とともに留まります。 そのとき、何が起きるかを見てください。 すなわち、私はあなたに嫉妬しています。(現実に)私が、ではない。私はあなたに嫉妬しています。 なぜなら、あなたのほうが、はるかにすてきに、清潔に、良い趣味に見えるからです。 あなたは、良い頭脳を持っていて、私はあなたを、妬んでいます。 その妬みの中から、憎しみが出てきます。 妬みは、憎しみの一部です。 妬みは、比較の一部です。 私は、あなたのようになりたいと思うのですが、私はなれません。 それで私は、かなり敵対的になります。 私は、あなたについて暴力的になります。 で、私は「有るもの」とともに、留まります。 すなわち、私は、自分が妬んでいるのを、見ます。 そこにある。私は妬んでいます。 その妬みは、私より違っていません。ですね? 妬みは私です。ですね? で、私はそれについて、何もできません。 私はそれを保ちます。 私はそれとともに居ます。ですね? あなたは、それとともに居るのでしょうか。 逃避しない。原因や理由を見出したり、それを越えていくのではない。 私は妬みです。 そして、何が起きるかを、見るのです。 初めに、葛藤がありません。明白です。 私は妬んでいるなら、妬んでいる。 私が妬んでいたくないとき、葛藤が存在するだけです。 あなたがこれらに付いてきているのか、と思われます。しかたない。構いません。 |
55:24 | で、私は、それとともに居るなら、ものすごいエネルギーを持っています。ですね? エネルギーは、何かへ光を照らすのに、似ています。何かへ焦点を合わせた光です。 そのとき、それは、きわめて明らかになるのです。 きわめて明らかなものを、あなたは恐れたり、麻痺していません。 それはそうなのです。 理解できますか。そう願います。 で、この問いにおいて重要なのは、逃避しないこと、 |
56:06 | 努力をしないこと、ただ「有るもの」とともに留まることです。 私は、イギリス人であるなら、それとともに留まります。 何が起きるかを、見てください -それがどんなに狭くなるのか。 あなたがイギリス人であるなら、すみません。 お許しください。すみません。 または、フランス人やロシア人や、何であっても、です。 ものそれ自体が、その内容全体を、示しはじめます。 |
56:34 | 第三の質問: 「近い親戚からの侵略と、心理的な攻撃を、どのように 迎えるのでしょうか。彼らからは逃避できません。」(笑) 「近い親戚からの侵略と、心理的な攻撃を、どのように |
56:57 | 迎えるのでしょうか。彼らからは逃避できません。」 私たちはみんな、そのようなのでしょうか。 私は、自分の導師から逃避できません。なぜなら、そうですね、私は、彼や彼女に参与してきたし、 私は、自分のお金すべてを、彼に捧げてきたからです。 お笑いにならないでください。 これは今、起きつつあるのです。 |
57:36 | 誰かが、フランス語の記事を、送ってきました- 大いにおもしろく、笑えます。 本当に滑稽です。そこには、「どうすれば良い導師になれるのか」と言います。(笑) それは、とても利巧に書かれています。(笑) それが英語で印刷されるだろうことを、願っています。 |
58:07 | 心理的な攻撃。 それは、どういう意味でしょうか - 心理的、内的に攻撃されるとは。 あなたが、親友や親戚と一緒にいるとき、 心理的、内的に、二人の間には、これらの圧迫が、つづいています。 あなたはこれらをご存じです。 私があなたに、語らなくてもいい。 相手について、いつも何かをしようとする。微妙に攻撃する - 物理的にとか、当てこすりをとおしたり、微妙な言葉、身振りをとおして、 あなたはいつも、相手を一定の様式へ押し込もうとしています。ですね? これは、あなたにとって、普通なのでしょう。 さて、質問者は言われます - 何をすべきでしょうか。 私は、あなたと同じ家に生きていて、あなたは、私を砲撃しています。 私は、あなたを砲撃しています - 言葉と身振りで、だけではなく、苛立ちのまなざし、 感じなどで、さえも、です。 あなたは、どのようにするのでしょうか。 何をするのでしょうか - 心理的に、けがをしないように、小突かれまわさないように、です。 あなたは金銭的に、その人物へ依存しているかもしれません。 あなたは、様々な心理的な理由のために、その人物へ、依存しているかもしれません。 あなたは、依存した瞬間、奴隷になる。ですね? あなたは、執着した瞬間、死人です! 私が提案してもよろしければ、どうか、他の誰かを見つめずに、私たち自身を見つめましょう。 私は、聴衆としてのあなたたちに執着しているなら、迷っています。 そのとき私は、あなたたちに依存しています - 自分の満足、安楽、 評判のため、自分の物理的な幸福のためにも、です。 しかし、私は、あなたに依存しないなら、なぜあなたに依存しないかを、見出さなくてはいけません。 それは、あなたにだけではない、私は何にも依存しない、という意味です。 私は、それが真実なのかを、見出したい。 私はそれを、自分の近い親戚へ示さないかもしれません。 私は、自分自身で見出したいのです- 同じ部屋、同じ家に生きていて、 夫、妻、親戚などですが、全的に難攻不落であることは、 可能でしょうか。自分自身のまわりに壁を築くのではない。それは相当に単純です。 理解できますか。 私は、自分自身のまわりに壁を築き、「すみません」と言い、それについて礼儀正しく、穏やかにし、 とても愛情深くすることは、できます。しかし、それはやはり壁です。 それは、制限を意味しています。 で、私は、脆弱に生きることは、可能でしょうか。 進んでください。考えぬいてください。 けれども、傷つかないのです。 大いに敏感ですが、自分の執着に沿ってどのようにも応答していない。 理解できますか。 進んでください。考えぬいてください。 金銭的に、他の一人に依存しているのなら、 それは、なかなか危険になります。 私たちのほとんどは、この立場にいます。 あなたたちは私に、これをつづけてほしいですか。 |
1:03:13 | 私が金銭的に、あなたに依存しているなら- とんでもない!私はそうではないですが - 私が金銭的に、あなたに依存しているなら私たちの間に、何が起きますか。 そのときあなたは、手に鞭を持っています。 金銭的にだけでない。 さらにそれへ入ってください。 私が金銭的に依存している他の一人とともに、生きることは、可能でしょうか。 私は他に何もできないから、自分が依存しているのを、知って、です。ですね? 私は、新しい経歴を、始められません。 私は、すっかり若いなら、たぶん始められたでしょうが、私は六十、五十、または、 七十や九十歳でもあるなら、それはできません。新しい経歴を、始められません。 で、そのとき私は、何をするのでしょうか。 進んでください。私は・・・ あなたは、何をするのでしょうか。 で、私はどこに、依存の線を引きますか。 |
1:04:48 | 質問を理解されますか。 心理的に、私は依存しないでしょう。 私自身については、私は誰にも、何にも、依存しないでしょう。 または、どの過去の経験と、その他すべてのごみにも、です。 何も依存はありません。 しかし、金銭的に依存しているなら、私はどこに、線を引きますか - あなたは、 やや老いていて、「すまないな。私はそれを堪えなくてはいけない」と言います。ですね? 私は、それを堪えなくてはいけない。 私は、新しいゲームを始められない。 で、その線は、どこまでで、どれほど深いのでしょうか。 あなたは、質問を理解できますか。 それは表面的だけでしょうか。 理解できますか。 または、その線は、大きな深さを持っていますか。 明白に、とても表面的です。 ああ、私は気に掛けません。 いいですね? で、この問いにおいて重要なのは - それを正しく理解できるなら -自由です。 自由は、絶対的に必要です。 しかし、私は牛乳屋さんに、スーパーマーケットに、郵便屋さんなどに依存します。 その他では、心理的に私は依存していません。 私はこれについて、きわめて明らかでなければなりません。 それで私は、何の深さもなく、きわめて表面的に、線を引きます。 |
1:07:07 | ああ、神様! |
1:07:17 | 第四の質問: 「或る人々は、あなたが言われることのうち、自分の問題や利益に適う 諸部分を、拾い上げ、それから残りを捨て去るように、見えます。 これに対して、あなたは何と言われますか。」 |
1:07:32 | 或る人々は、あなたが言われることのうち、自分の問題や利益に適う 諸部分を、拾い上げ、それから残りを捨て去るように、見えます。 これに対して、あなたは何と言われますか。」 私はそれについて、何も言わなくていい。 あなたは、何と言われますか。 私たちはともに、生の全体を扱っているのでしょう - 生の部分だけではなく、それの全体を、です。心理的な世界も、です - それは無量です。物理的な反応と神経的な応答と、記憶と それらだけではない。 それは、心理的構造の一部ですが、 それは、それらより、はるかに深い - あなたがそれほど深く行けるなら、です。 で、私たちは、心理的な世界だけではなく、 世界に存在する暴力を、取り扱っています。 つづいているものすごい暴力。 殺すために、殺す。 殺すことの面白さのため - 銃でもってだけではない。 また、人々が誰かに服従するとき、彼らを破壊する。 どうか、気をつけてください。 それは、服従という意味です - ですね? それは、危険な主題です - どうか、気をつけて聞いてください。 その一部を取って、「ええ、彼は軍隊に反対している」と言わずに、です。 私たちは、生の現象全体を、扱っています。その諸部分を、ではない - それを、科学者はしています。 それを、医師はしています。 それを、司祭者はしています。 教育者はしています。 私たちは、人生の全体に、関心を持っているのです。 あなたが、その諸部分を拾い上げたいのなら、それは、あなたしだいです。 その部分は、満足できるでしょう。 または、「それは私に適っている。 私には、それは十分です」と言う。 それもまた、完璧に正しいのです。 しかし、私たちは、生の全体に関心を持つなら - 自分の特定の生だけではなく、また、世界中の人間たちの生、 無量の貧困、計算不可能な貧困- それについてあなたは、知りません - その侮辱、その腐敗。 そして、宗教的なサーカスすべて。 その言葉を使って、すみません。 世界でつづいている、宗教的な戯言すべて、 ものすごい大ビジネス、莫大な富、ロールス・ロイス。 あなたは、「どうすれば良い導師になれるのか」についてのこの記事かメモ書きを、読むべきです。 これらの人々のものすごい富! あなたは、人類全体に関心を持っているなら - すなわち、あなたもまた人類です。ですね? あなたは人類です。人類はそこにいて、あなたは違っている、というのではない。 あなたは人類です。 イギリス人、フランス人、ロシア人ではない。 私たちは、初めに人間です。後で、職業的な専門家です。初めにあなたたちは、人間です。 私たち人間は、私たち自身を分離してきました。 そういうわけで、世界に混沌があるのです。 「それは、レバノンの戦争だけだ。 誰が気にするか!」 「それは、極東、アフガニスタンでの戦争だ。 ひどいロシア人だ」などと、です。 しかし、あなたは、自らが全人類であることを、深く感じるなら - なぜなら、彼らが苦しむように、あなたは苦しむからです。あなたは涙を流す。彼らも流す。 あなたは心配している。あなたは笑う。 あなたは痛みを持つ。 彼らもまた、これらを持つ - 彼らが豊かでも、貧しくても、です。 彼らは腐敗している。 私たちも違った形で、そうです。 彼らはお金、食べ物が欲しいから、腐敗しています。 彼らは、食べ物とお金を得るために、何でもするでしょう - 何でも、です。 で、私たちは全人類です。 そのすばらしいことを悟るなら- それは真理です - そのときあなたは、他の一人を殺さないでしょう。そのとき、この国とあの国との間に、 分割はないのです。そのとき、あなたの生全体が、違っています。 それが、あなたの欲しいことであるなら、 あなたが、その諸部分を拾い上げたいのなら、そうしてください。 誰もあなたに、その一部分を拾い上げないよう、あなたの小さな要求や 大きな要求を満足させないよう、圧力を掛けていません。 しかし、実際に、深く、正直に、イデオロギー的な戯言すべてなしに、 私たちは全人類であるとの本当の事実 - 祈る者、信じない者、イスラム教徒、 ヒンドゥー教徒、仏教徒。 私たちは一つです。 私たちはみんな、ものすごい苦労を、経てゆきます。 ゆえに、個人的自由へのこの探求、 個人がなることなどは、かなり子どもっぽくなる- どうしても、私にとっては、です。 |
1:15:16 | 第五の質問: 「特定の修練に従って、測量不可能なものに 出くわす人々の報告が、多くあります。 彼らは、自己妄想になっていますか。 または、彼らは、自らの努力にもかかわらず、どうやらこれに至ったのでしょうか。 または、他の説明がありますか。」 |
1:15:38 | 「特定の修練に従って、測量不可能なものに 出くわす人々の報告が、多くあります。 彼らは、自己妄想になっていますか。 または、彼らは、自らの努力にもかかわらず、どうやらこれに至ったのでしょうか。 または、他の説明がありますか。」 |
1:16:07 | それは、修練、規律とは、努力とは何の関わりもありません。 あなたは不同意するかもしれません。あなたが不同意や同意をするのは、完璧に正しい。 しかし、私たちはどちらも、自らが何を話しているかを、理解しましょう - 私たちの一人一人が、です。 あなたは、特定の修練、規律に、所属しているかもしれません - 仏教、ヒンドゥー教、チベット、 キリスト教のもの、一定の僧院長、一定の導師、その他すべてに、です。 一定の修練、規律、儀式に従い、毎日、あらゆることをする。 朝の二時や朝早くに、祈る。 これをする - 修練、規律です。 その修練をとおして、或る人々は、自らは測量不可能なものを 理解したとか悟ったとか、言います。ですね? 質問者は、こう言います - 測量不可能なものに出くわした人たち。 彼らは、自己妄想になっていますか。 あなたは、何と言いますか。 「修練(ディシプリン)」という言葉は、辞書によれば、 学ぶことを意味しています。 学ぶ。 学徒(ディサイプル)は学びます。 師匠からではない。学びます。 すなわち、彼は学んでいます。順応していない。 模倣していない。服従していない。 彼は学んでいます。 学ぶこと自体が、自らの修練を持っています。ですね? あなたが理解されるのか、私は知りません。 |
1:18:18 | この学びの性質が、あるのです- 記憶して反復することではない。 ですね? すなわち、私たちのほとんどは知識と記憶を、蓄積します - 一定の機能、一定の技能をするため、です。 で、そこでの学びは、蓄積を、含意しています。 その知識の蓄積に応じて行動します。 その知識は、ますます増加させられます。 または、ますます鈍くなり、ますます慣習になります。ですね? で、私たちのほとんどは、技能を持つために、記憶しています。 この現代社会に生きるには、或る種の技能を、持たなければなりません - 工場で、鉱山で、ビジネスで、 または、祭壇で、です。そこで、或る種の努力、或る種の修練です。 彼らは、来る日も来る日も、来る日も来る日も、反復しつづけます。 それらは、教会と寺院とモスクで、見られます。 同じ古いことを、反復しています。 それは、学ぶことではありません。 彼らは、「ええ、私たちは学んでいます」と、言うかもしれません。 しかし、あなたが反復し、反復し、反復するなら、それはかなり無意味です。 で、修練は、順応し、模倣し、服従し、 |
1:20:10 | 線を引っぱることですが、それは、測量不可能なものへ、繋がりうるのでしょうか。 測量不可能とは、測量されつつないもの、 測量できないものを、意味しています。ですね? それは、測量すべて、輪郭、線すべてを、越えています。 語り手には、それは可能でないと、見えます。 なぜなら、そのとき頭脳は、課業へ、或る特定の形へ 条件づけられているからです。 あの無制限のまさに本質 - それを了解するには・・・了解するのではない。 それが何かを見るには、無量の計算不可能な自由が、必要とされるのです。 |
1:21:27 | ゆえに、自由とは何でしょうか。 これらではない。 自由。 二つの種類の自由が、あります。 何かからの自由、 自由そのもの、それ自体で、です。 私は、恐れから自由になれます。 恐れからの自由は、ありえます。ですね? その自由は、条件づけられています。 なぜなら、それは、何かから自由であるからです。 それ自体で、そのもの自体である自由が、あるのでしょうか。 それは、慈悲、愛を必要とする自由だけです。 その自由は、思考の智恵とは何の関わりもない 至高の智恵なのです。 それへ来るには、 恐れすべてと、その他すべてから、自由でなくてはいけません。 あなたは、それに興味があるなら、それへエネルギーを、注がなくてはいけません。 あなたの生、あなたの家を、秩序立てなくてはいけません - 完全な秩序に、です。 きちんとしているのではなく、家具を磨くのではない - それは、その一部です。 しかし、家、内なる家、 基盤、屋根、隠れ場を何も持たない深い家、です。 あなたは、測量不可能なものを、招待できません。 そのときそれは、玩具になります。 あなたは、他の一人が従うための道を、定められません。 それは、言葉に表されるべきではありません。 私たちは、言葉でもってあらゆる物事を、測量します。 私たちはそれを、測量不可能なものと呼びますが、確かにそうではありません。 それは、何か全然違ったものなのです。 |
1:24:04 | すみません。 私は止めたほうがいい。 立ち上がってもいいですか。 (機器の音)(笑) |