Krishnamurti Subtitles home


BR85T2 - 恐れに対する時と思考の関係
第2回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1985年8月25日



0:29 神様、ここには、とても多くの人々がいますね- この天気の悪い中で。 私たちは、昨日止めたところから、継続してもいいですか。 みなさまが、寒い中、外のそこに立たれていることは、申し訳ありません。 私たちは、この長い大天幕に、何かをしなければなりません。 おそらくサーカスのテントです!(笑) 私はそれを、侮辱として申していません。 すみません!(笑) 私たちが一緒に笑えることが、うれしいです。
1:49 私たちが昨日、言っていたように、これは、一人の人の話ではありません。 それは、一匹の犬が吠えているのではなく、むしろ、私たちは、ともに熟議しています。 その言葉は、大変多くの意義を、持っています- はかること、均衡させること、 考慮すること、一緒に相談すること。 行為する見通しで、判断と行為をもたらす見通しで、です。 その言葉は、深さを持っています。 今朝と、続く朝、ともに私たちは、 一緒に熟議をしようとしています。 それは、一人の語り手や一人の人格ではない。 むしろ、私たちはみんな、一緒に 見つめ、観察し、物事がありのままに見えている、ということです。 一緒に相談をしている、熟慮し、実際に考えている - 理論的にとか、無数の信念を持つのではなく、 むしろ、これらすべての事柄へ、一緒に入るのです。 事柄は、私たちの生、私たちの日々の、です。それは、退屈なのかも、わくわくするのかもしれません。 情動的や感傷的、ロマンチックで、大変多くの想像、空想に 捕らわれていたり、一つ、二つの信念に縋りついているかもしれません。 これらのことのどれかをするなら、熟議は、可能ではありえません。 なぜなら、私たちは、同じ道路を行っているからです - 同じボート、同じ小道、 ともに来る同じ感覚、です。そのため、私たちはともに建設できるのです。 それがきわめて明らかであるなら、私たちは、多くのことに入れます - 私たちはそれを、 今朝と、火曜日と木曜日の二日と、土曜日と日曜日に、しなくてはいけません。 ともに話し合うべきことが、たくさんあります。
5:01 ここには、これら講話には、私たちの間のこれら対話には、何も権威はありません。 語り手は、不幸にも、演壇に座らなくてはいけません。 それは、彼に何の権威をも、与えません。 それは、人格崇拝ではありません。 それは、何か、あなたが一緒に考えて、後で行為するであろうことではありません。 今、ともに、この大天幕に座って、 私たちはともに、探検しようとしています。 その探検の中、行為するのです。
5:55 私たちは昨日、葛藤について話していました。 私たちが関与している、ひどいことすべて。 殺害、テロリスト、そして、戦争 - 宗教的なのでも、政治的なのでも、イデオロギー的な構造物と イデオロギー的な信念の間で、起きている戦争すべて、です。 しかし、誰も、世界の問題全体を、考慮に入れないように、見えます。 各国が、各地点が、または自国の特別な境界が、 他の国々と闘っているのです -経済的に、です。戦争の脅威、 そして、世の中で起きているひどいことすべて、です。 今朝、私たちは、これらすべての事柄を、考慮すべきです。
7:15 まず最初に、私たちは今朝、すばらしい雲が、見えたのでしょうか。 とてつもない光と、それらの美しさ、 栄光の感覚、 とてつもない青空。 私たちは、ともに協議すべきです - 愛とは何か、美しさとは何か、 時と思考とは何かについて、です。 私たちは今朝、時間があるなら、恐れについて話すでしょう。
8:09 で、私たちは、美しさ、愛、 時と思考と、恐れは何かという問いに、入ろうとしています。 病気になる恐れ、本当に具合が良くないことへの恐れ。 私たちは後で、それに入るでしょう。 しかし、初めに私たちは、美しさの本性は何なのかを、ともに考慮すべきです。 私たちは、それについて、ともに話し合おうとしています。 どうか、語り手が説明するのを、待たないでください。 これは、私たちの一人一人の前に出された問いなのです - 私たちがともに出そうとしている他の問いすべてと同じく、です。 美しさは、何でしょうか。 それの、思考と時と愛への関係は、何でしょうか。 美しい雲、うるわしい日の入り、朝早く、空に唯一つの星があるとき、 それらに満ちている、あれらの樹々。 あなたは、あの樹に見られます - 木の葉の響き、ささやき、 動き、そして、幹の甚大な強さ。 あなたは大地が見えます。空中からではない。そこでは高すぎます。大地 - 甚大な力の感覚、広さ、谷、山々、青空、 そして、雪を被った大きな山々の輪郭線。 あなたは、それらを見つめるとき、そして、妻や夫、あれらうるわしい子どもたちを、 見つめるとき - 彼らはこの場所を、跳ね回っています - 美しさは、私たちの一人一人にとって、何を意味しているのでしょうか。 美しさは、私たち自身の特定の視点に、依存するのでしょうか。 私たち自身の敏感さに、でしょうか。 または、美しさは、鍵の掛かった美術館の絵画に、あるのでしょうか。 または、詩歌、特に、キーツによる頌歌に、でしょう。 あなたは、文学書、いわゆる人気の本に、一文を見ます。 その一文は、すべての扉を開くには、十分です。 で、私たちの一人一人にとって、美しさは、何を意味しているのでしょうか。 それは、顔、身体でしょうか。 他の一人に対する優しさの感覚、 寛大さの、与える感覚でしょうか。 あれらすばらしい絵画の何枚かを見る中での、大きな楽しみでしょうか。 で、あなたは、語り手が美しさとは何かを語ってくれるのを、待っていますか。 または、美しさは、自己がないとき、あるのでしょうか。 理解できますか。 私が、自分の問題について、悩んでいないとき、です - 自分のみじめさ、 憂鬱と悩みと、生の苦労すべてについて、です。 それは、私に中心があります。 それが「私」です。その「私」が、何分の一秒間にも、ない - 頭脳が、 何も制限の感覚なく、静かであるとき、美しさがあるのでしょうか。 または、そのときだけ、美しさが、あるのでしょうか。 私たちは、ともに話し合っていますか。 熟議していますか。 または、私たちは、語り手に同意しつつあるのでしょうか - 「ええ。それはとても良く聞こえる」、 「その説明が、私が欲しいものだ」、 「その説明と叙述によれば、 私は、何かを一瞥して、それについての記憶を持つだろう」と。
14:49 そのとき訊ねます - 記憶と、記憶の継続、 記憶の動き全体、 それは、美しいものの堪能を、助けるでしょうか。 または、憶えていることは、それといかなる関わりも、ないのでしょうか。 私たちは一致していますか。 なさらないでください。 私たちの生に、美しさはあるのでしょうか。 寛大さの感覚 - 許しの感覚ではない。 許すべきことは、何もありません。 高い敏感さの感覚です。 で、私たちは、 信念、比較、悩みと問題は、 美しさと何の関わりもない、と言っています。 それは、あの性質です。自己、「私」、ペルソナの欠如の感覚です - 「私」である自分の背景すべての(欠如)、です。 それがないとき、他があるのです。 これは、不可能に聞こえるかもしれません。 しかし、そうでしょうか。 私たちは、何か極端なことについて、話していますか。 または、それは、私たちみんなが経て行く、私たちみんなの共通の定めでしょうか - 苦しみ、苦悶、絶望、憂鬱の大きな期間、 あらゆる種類の情緒的な激動。 それらが私たちより抜け落ちてしまい、 すべての叙述を越えた何かが、見える瞬間が、 私たちの生において、稀にあります。 それは、私たちのみんなに起きるのです。 それは記憶になります。 そのとき私たちは、その記憶を追求します。 私たちは、もっと何かが、欲しいのです -自らが一瞥するものの継続的な何かが、です。 そのとき、その記憶が、じゃま物になります。 その記憶が、他のあらゆるものを、破壊します。 寛いで、ただ静かに受けてください。(笑)
18:30 それが幾らか明らかなら - 私たちは、ともに熟議し、相談しあっているからです - そのとき、私たちは、時というとても複雑な問題について、話をすべきです。 望みとしての時。 私たちの生の出来事と 起きること全体としての時- 過去として、です。 記憶の動きとしての時、自らの長生きに応じた時、 この地上に生きて死ぬこととしての時。 時計による時、クォーツ時計のぴったりの一秒、 その秒のぴったりなこと。 心理的になりゆくこととしての時- 「私はこれだが、あれになるだろう」、 「私は不幸せだが、いつの日にか幸せになるだろう」、 「私はいつの日にか、理解するだろう」、 「私は知らないが、知るだろう」、 「いつの時にか後で、地上に平和があるだろう。 でも、今はそうではない」と。 で、時は、私たちの生においてとても重要な要因です。 記憶としての時、他の何かへの進化としての時、 天国で天使たちに囲まれる・・・ ここでジョークを言ってもいいですか。(笑)
21:05 二人の人々が天国にいます - 翼と光の輪をつけて、です。 一人の人が、もう一人へ言います - 「私は、死んでいるとき、なぜこんなに気持ちが悪いんだ?」と。 理解しましたか。(笑) で、時は、私たちの生における要因です。
21:51 それは、私たちの生の重要な部分です。 私たちは、時ということに立って考えます。 私たちがそうであったもの、私たちがなるであろうもの、 今あるものと、私たちがなるであろうものとしての時。ですね? 私はあれであった。私は今これである。だが、私は未来に、他の何かになるだろう。 この動きは、記憶、知識、経験 などの動きです。ですね? 過去、現在、未来の間の、この常なる動き、です。 これは、私たちの生においてとても重要です。 時は、きわめてたくさんの問題を、創り出します。 私は何かを・・・人は何かを、楽しみに待っています - スペインや、うるわしいシシリア島での休日などを、です。 この動きに、止まることはあるのでしょうか。 私たちはともに、話し合っています。 相談しあっています。 この永久に続く動きは、自らの生の始まりから死ぬまで 続くように見えますが、この動きにいったい、止まることはありますか。 どうか、私たちは、あなたのためにこの問いを出しています。 あなたが何と答えるだろうか、ではなく、問いに答えてもらいましょう。 それを理解できますか。 問いがとても重要です。 問いはこうです - 時、この動き、その中に、私たちのみんなが 捕らわれているこの循環 -果てしなく、二百五十万年以上、 私たちがこの地上に生きてきたように、です。 この動きは、いったい終わりうるのでしょうか。 または、人間は永遠に、それに捕らわれているのでしょうか。 SF小説や、時についての何かの理論や、 何か夢想的な、他なることではない。 私たちはお互いに、とても単純で直接的な問いを、訊ねています。 問いが重要です。なぜなら、 そのときにだけ、何か全然新しいことが、起こりうるからです。
25:43 で、私たちは訊ねています - 時は、いったい止まりうるのでしょうか。 老齢としての時。 老齢では、わずかに惚けてきます。 老衰が起こります。 それは、なかなか興味深い主題です。 誰が老衰していますか。 若い人、四十か三十までの若い人たちだけ。 残りは、みんな老衰していますか。 または、年老いた人々だけが、老衰していますか。 老衰は、私たちのみんなにとって、何を意味しているのでしょうか - 彼らが自分自身に、この質問をすればするほど、です。 老衰とは何でしょうか。 あなたたちは教会へ行きます - 特に(カトリックの)枢機卿が執り行っているとき、 それはすばらしい光景、美しい光景です- 気をつけて作り出されていて、 精巧で、威厳がある。すばらしい衣と色。 あなたが、ローマのあれら大聖堂の一つへ、行ったことがあるなら、 そこでは、枢機卿が、執り行っています。 この反復があります。 反復は、老衰の標示でしょうか。 それは、老いた人たちだけに、在るのでしょうか。 同じ習慣、同じ考え方、オフィスへ永続的に 行って、働きに働きに働く。 鉱山で、海で、潜水艦と航空機で。 互いとの間での同じ関係、反復- 性的に、です。 または、互いが慣習になる。 そのため、あなたはこの地上で 全く一人であると感じる感覚が、ない。 私たちの頭脳は、反復に捕らわれています。 反復には、自らの安全、自らの保全、保護が、あります。 しかし、心理的にあなたが、憶えつづけ、憶えつづけ、 同じ古い様式と方法と実践で、行為しつづけるとき、 当然、それは一つの形の老衰です。 ちがいますか? どうか、同意しないでください。 それは、同意や不同意の事案ではないのです。 私たちがそれら二つの言葉、同意と不同意を、 遠ざけられて、私たちの中で 実際に起きていることを、見られたならと、願っています。 そして、私たちが長年にわたって形成してきた習慣を、私たちが持っている結論 - 政治的、宗教的などの - を、観察するのです。 結論、終わり、「これが私が理解したことだ。 私はそれを貫く」などと、です。 それは、老衰の一つの形ではないですか。 老衰の動きは、年寄りだけに起きる、ということでしょうか。
31:27 で、私たちは、時について話しています。 過去が、現在を経てゆき、修正し、継続する。 過去は、根ざしています。 深く根づいていて、現在を経てゆきます。 挑戦、境遇、圧迫などを経てゆきますが、それはやはり過去です。 未来は、過去です - 修正されたのです。 で、未来は今です。 私たちは一緒にいますか。 はい?そうではないですか。 二百五十万年以上か以下か、私たちは過去ですが、 それは、あの長い過去と現在との間の甚大な空間です。 現在は、私たちがそうであったものと、今私たちがそうであるものです。 それは事実です。 その過去は、枠に入れられ、形作られ、圧迫されます。 あらゆる種類の苦労、心配などを経ていきます。 しかし、その過去は、違った形や違った形態で、違った多様な道で、 継続します。それが未来になります。 で、未来は今なのです。 ですね? 私たちは一緒に、ここにいますか。 または、さらに説明が、要りますか。
33:52 で、動き全体は - 過去、現在と未来は 今に収容されていますか。 なぜなら、それが、私たちなるものであるからです。 それが、時の動き全体です。ですね? 私たちは訊ねています - その動きは、いったい止まるのでしょうか。 さもなければ、私たちは、この永久に続く時の縛る性質へ、縛られています - 過去、現在、未来のこの動きの性質へ、です。 私たちは、これらから離れた天国、地獄、未来について 話すことにより、この問いから逃避します。 で、今において、今、あなたがそこに座っているとき、 今の中に、時のすべてが収容されています。 過去が、現在において自体を修正し、未来です。 この循環は今ですが、その中で - その動きは、一分間、一秒間、止まりうるのでしょうか。
35:55 そのとき訊ねます - 時がないこととは、何でしょうか。その中に、時が全く存在しないとは。 科学者たちは、時に、異なった定義を与えられます。 それは、秒から秒へ、秒へ、秒へ 一連の動きです。しかし、それはただの理論です。 私たちの生にある何かか、あるかもしれない何かの、ただの受け入れです。 しかし、それは十分ではありません。 もし私たちが、理論すべて、信念すべてを、脇に置くなら、 事実は、私たちの生において - 日の出と日の入りと 新しい月と満月の時ではない。 天界は、自らの秩序、自らの時のない感覚を、持っています。 しかし、それらは、私たちの実際の毎日の退屈で、さびしく、絶望的な生とは、 - 時折、喜ばしいが - 何の関わりもないのです。 で、時に終わりは、あるのでしょうか。
37:39 そのとき私たちは、訊ねられます。そのときだけです - 時がないとは、どういうことでしょうか。 私たちは、それについて話せます。 私たちは議論できます。 ですが、それら議論、言葉、理論は、まったく意味がないのです。 時の、思考への関係は、何でしょうか。 語り手は、これらすべての問いを、訊ねていません。 あなたが、これらすべての問いを、訊ねています。 思考と時の間の関係、実際の関係は、何でしょうか。 そして、時、思考の、恐れへの関係、 それらの、愛への関係は? これが、私たちが関心を持っていることです。ですね?
39:00 で、思考とは何でしょうか - それはとても重要です。それは、私たちの頭脳の 一番深い谷に、深く埋め込まれています。 私たちの生において、思考は何でしょうか。 思考、考えること。 どうか、あなた自身にこの質問をしてください。 このすべては、宗教とは何の関わりも、 つづいているサーカスすべてとは、導師たちとは、霊的権威とは、何の関わりも、ありません。 一緒のそれら二つの言葉について、考えてみてください - 霊的な権威、です! それら二つを一緒に纏めることは、そんなに忌み嫌われることだと、見えます。 で、私たちの生と行為すべてが、思考に基づいています。
40:27 あなたは、情動は思考ではない、と言います。 そのとおりでしょうか。 私たちは、とてもだまされやすいのでしょう。 私たちは、あらゆることを、たやすく受け入れます。 語り手のような誰かが、何かを言います。 あなたは、はいとか、いいえとか言います。 私たち自身の考えることは、ないのです - あらゆる物事への明らかで、客観的で、非個人的な観察です。 私たちは、他の人々の知識で、満ちています。 私たちは、自分たちの生の山々の自らの深い曲がりくねった谷を、知りません。
41:34 で、考えるとは、何でしょうか。 私たちは再び、語り手があらゆることを説明するのを、待っていますか。 それからあなたは、同意や不同意をしますか。 それらは、完全ではなく、部分的なだけです。 「私は、他の誰かがそれを完成させるのを待とう」と。 理解できますか。 私たちの頭脳を、見てください- それがいかに働くのか。 私たちは霊的に、ウィンドー・ショッピングへ行きます。 ここ、この大天幕の中で、ちょっと収集します。 それから、別の大天幕へ行きます。 可笑しく聞こえるでしょう。(笑) 私たちはいつも、収集しています - カササギや、あれらモリネズミのように、です。 私たちは、自分の能力について、何も知りません - 技能について、ではない。 経験に基づいていない能力、 知識とは何の関わりもない能力、です。 時間があるなら、私たちは、それらについて話すでしょう。 で、考えるとは、何でしょうか。 あなたは、そこに座っています。 語り手は不幸にも、この壇上にいます。 私たちはどちらも、考えています。 その考えるとは、どういう意味ですか。 彼は何かを言います。問いが、あなたに出されます。頭脳は、活動的に なりはじめます - それは、挑戦されつつあるし、それは、駆り立てられ、 押され、圧迫されつつあります。そのとき、それは目覚めて、はいとか、いいえとか言います。 それで私たちは、つづけていきます。 私たちはけっして、自分自身を掘り下げません。 それは、私たちがとても多くの物事に、 依存している、という意味です。多くの書物、多くの教授、多くの導師や指導者に、です。 で、私たちは、ここにいます -指導者なく、助けなく、 どの種の環境的、実用的な支援もなしに、です。 あなたは、見出さなくてはいけません。 考えるとは何なのか、思考すべての起源は何なのか。 - 特定の原因、特定の思考、ではない。それは、明白に、原因を持っています。 原因を持っているものは、いつも乗り越えられるのです。 私は、痛みのための原因を持っているなら、それを取り扱えます。 医師へ、または反対(の代替医療の)医師や何でも好きなものへ 行けます - 偽医者と、最新の反対医療などです。 原因を発見するから、それを乗り越えられます。 で、考えることの原因は、何でしょうか。 あなたは原因を理解するなら - 人は理解するなら、それを脇に置けます。 理解できますか。 原因が見つからないで、単に説明を受け入れるなら - それは 実際の原因ではありません - 私たちは、スキップしていき、ここそこで拾うのを、つづけます。 で、私たちはともに、私たち自身で見出そうとしています。語り手があなたに語り、 それからあなたが、それを玩ぶのではない。自分自身で見出します。 語り手は、説明し、それに入るかもしれません。 彼が幾つもの場合に、してきたようにです。 彼は、八十年間、これをしてきました。 で、それは、彼においてはゲームではない。 それは、習慣や老衰ではない。 (雨の音)ああ、雨が降っています。 または、ひょうです。 どうか、入ってきてください。 内側へ入ってきてください。 ああ、過ぎ去りました。 あなたたちが今朝、早く、注目したのかどうか、私は知りません - 空には、唯一つの雲もありませんでした。 でも、私たちはイギリスにいます!(笑) 大西洋にとても近い。
48:21 原因を、存在理由、その根を、発見できるなら、 そのとき、それを根こそぎにして、死なせること、萎れさせることが、 可能です。または、あなたはそうしていない。 自分自身で発見していないのです。 (雨の音)雨は、世界の一定の地方では、ありがたいものです。 彼らは、雨乞いをし、雨にあこがれます。ですね。 ここでは、それは永続的です。(笑) で、何でもその原因、頭痛の原因、癌の原因・・・ それはまだ発見されていません。 けれども、たぶんされるでしょう。 老衰の原因、恐れの原因。 特定の形の恐れではなく、恐れの根、です。 原因を発見できるなら、結果は何の意味もありません。 そのとき、原因は滅するでしょう。 それが、私たちがともに見出そうとしていることです - 思考の原因は何なのか。 思考は、憶えたこと、記憶、イメージと 関連しています - 思考が築き上げてきた、組み立ててきたイメージと、です。 これらの原因は、何ですか。 これは熟議であると、語り手には見えます- どうか、受け入れないでください。 (ローマで)教皇を選挙するには、三日間が掛かりました。私たちは、三日間も掛けなくていい。 これの原因は、何でしょうか。 それは経験でしょうか。 知識を与えるのは、経験でしょうか。 知識は、記憶として、頭脳に蓄えられています。 その記憶が、考えることとして、反応しますか。 考えることすべては、それに基づいていますか。 それは、さほどに単純でしょうか。 もし考えるのが、親近性に基づいていて、考えるのが、記憶に基づいているなら - もちろんです。もしも記憶を持っていなかったなら、あなたは、考えないでしょう。 ですね?きわめて単純でありましょう。 なぜなら、まさに単純さこそが・・・それはとても微妙です。 あなたは単純であればあるほど、微妙さは大きくなる - 衣服の(質素さ)ではありません。 私がいうのは、そういう意味ではありません - 或る種のばかげた衣を着たり、 首に花輪を掛けるとか、それらではない。 それは単純さではない。 とても明晰で敏感で観察する頭脳を、持つ- 怯えていなくて、見守っているのです。 私たちは今すぐ、恐れに入るでしょう。 お許しください!
53:27 で、考えることは、経験、知識、記憶に、基づいていますか - 思考は、です。 で、考えるのは、いつも知識に基づいています。 あなたは知識を持てば持つほど、考えます。 科学は、毎日、もっともっと多くを付け加えています。ですね? それは、単純な棍棒で始まりました。 それから、それは弓矢になりました。 それから、それは銃砲になりました。 それから、究極は原子爆弾です。 それらは、蓄積された知識に、基づいています。ですね? 一歩一歩、または、急な飛躍。 しかし、やはり知識の分野の中です。 で、考えるのは本質的に- どれほど単純に聞こえようとも - それは、経験、知識に、基づいています。 私たちは訊ねています -その考えるのは、止まりうるのでしょうか。 さもなければ、私たちはこれに捕らわれています。 それはこういう意味です - 唯一つの記憶もない、唯一つの思考もない 状態は、ありうるのでしょうか。 時の、思考への関係と、
55:41 男と女の間の関係、夫、妻、子ども、 ガールフレンドなどの関係。 関係、近さ、 互いへの感情 - それは、思考に基づいているのでしょうか。 どうか、私たちはこの質問を、しています。 問い自体が、重要です。 答えが、ではない。 で、関係、思考と時。 ですね? 私は、あなたと結婚しています。 様々な理由 - 性的な魅力、 依存、仲間付き合いとその他すべてのためです。 私たちは一日か、十年か、十五年か、百年の間、 互いに一緒に生きるにつれて、互いに慣れます。 私たちは、互いについて、記憶、イメージを築き上げてきました。 これは明白でしょう。 その記憶、それらイメージが、実在です - その女や男や子どもたちではない。 実在は、私が彼女について築いてきたイメージです。 彼女は、私についてイメージを、築いてきました。 これらイメージが、実在です。 機能上の実在ですが、 実際の関係ではありません。 で、思考は、私たちの生の基礎です - ビジネス、 鉱山の採掘とか、研究所で働くなどなど、です。 司祭者たちが、組み立ててきた物事すべて - 儀式、信念、聖餅(ウェハース)と、寺院とモスクの中に あるすべての物事は、すべて思考により、組み立てられています。 ゆえに、思考は、知識に基づいているので、 永久に制限されて、部分的です。 完全な思考はないのです。それは不可能です。 ですね? で、思考は完全に制限されているという事実への
58:57 認識がないのなら - あなたの礼拝、あなたの祈り、 この導師やあの導師への所属 - 後生です。 これらは、ひどく些細です。 どうか、私に怒らないでください。 それで、思考は制限されているなら- 明白にそうです。 あなたは、無制限のものについて考えるかもしれませんが、それはやはり制限されています。 あなたは、永遠のものとそれらについて、考えるかもしれません。 それはやはり、思考により組み立てられています。 私たちは言っています - その思考、時は、終わりになりうるでしょうか。 たぶんあなたは、一度もこの問いを訊ねたことがない。あなたは、 その問いに向き合っていますが、それに答えられません。 なぜなら、あなたたちは、自分自身を深く掘り下げたこと、検討したこと、 見つめること、観察することが、ないからです。 それは、分析より違っています。 自分の生と頭脳の深い谷を、ただ観察する。
1:00:39 そこから私たちは、恐れとは何かへ入り、探究すべきです。 恐れは、時と思考に関係しているのでしょうか。 恐れとは何でしょうか。 病気であることへの恐れ。 私たちはみんな、病気だったことがあるでしょう。何らかの時に、です。 地球は、医師と錠剤で、混雑しています。 私たちはみんな、病気だったことがあります。 病気の価値や意義は、何でしょうか - あなたは、それにとても怯えていますが。 どうか・・・ 病気であることの意義は、何でしょうか。 それはそもそも、何か意味があるのでしょうか。 または、恐れが病気に介入するとき、あなたはそもそも、何かを学ぶでしょうか。 または、その病気を、まったく客観的に見つめられるでしょうか。 即時に、自己をその痛み、その病気と同一視し、 それから、健康になりたがるなどして、それと闘わないで、です。 で、病気であることへの恐れ - 病気を、末期の病いの極端な地点まで 許さないなら、それは、大きな意義を持っています。 それは、大変多くを標示します。 それは、多くの物事へ、扉を開きます。 しかし、恐れがあるとき、扉すべてが、堅く閉ざされています。 私たちは今、また探究しています- 恐れとは何でしょうか。 楽しみを失う恐れ、明日への恐れ、暗闇への恐れ、 自分の夫や妻への恐れ、自分の導師への恐れ。 もちろんです。さもなければ、あなたは、彼らに従わないでしょう。 彼独特の覚りを得ないことへの恐れ。 考えてみてください - 導師が覚りを得ている、と。 とても多くのことへの恐れ- 隣人、戦争、テロリスト。 そして、司祭者たちが、キリスト教では、二千年の間、 組み立ててきた物事すべて。 古代インドが、三千年から五千年、 組み立ててきた物事すべて。 インドには、あらゆる種類のとてつもない伝統が、あります。 私は今、それに入らないでしょう。 それらは本当に、まったくとてつもない- それらの幾つかは、です。
1:04:36 で、天国と地獄の恐れが、あります。 私たちの生の、最も些細な物事の恐れ。 で、私たちはともに、恐れの原因を見つめようとしています。 私たちが言いましたように、自分自身で原因を、発見できるなら、 そのとき、原因を扱えます。 そのとき、原因を終わらせられます。 あなたは、よく気をつけて原因を 観察するなら、その原因こそが、終わりになります。 あなたは、それについて、何もしなくていい。 ただ原因を観察するだけです - 何か外的なものを、観察するように。 数分前に、(テントの)キャンバスに 雨が聞こえたように。 あなたは、それが聞こえました。 それが静かに聞こえるなら、それは何かを語ってくれます。それは、自らの音楽を持っています。 で、恐れの原因は、何でしょうか。
1:06:02 病気の恐れ、死の恐れ、百もの小さな物事の恐れ。 恐れは、自由を抑制します。 何についても、何か恐れの分子があるかぎり、自由はないのです。 それは、どこか他の所に、探し求められるべきではありません - 平野を越えて、牧草地は、さらに青かろうとも、です。 しかし、この恐れの増殖 -地上でますます成長しています。 ここに真剣に座り、恐れの因果は何かを ともに考慮し、ともに話をしているとき、私たちは、それに入れます - あなたが真剣であり、恐れが終わることに関心があるなら、です。 初めに私たちは、心理的な恐れを、扱わなければなりません。 外的な恐れを、ではない。 それは後で来ます。 心理的な恐れが終わらされるなら- 完全にです - そのとき、全然、別に 物理的な恐れを、扱うでしょう。 逆の方からではありません。 私たちが、外的に恐れなくありたいということは、明白でしょう。 ゆえに、私たちは分割します- 国々、信念、 教義と、それらの子どもっぽい事柄です。 しかし、私たちは、心理的、内的に恐れの根が見えはじめるなら - 自分の恐れと分離した人物としてではなく、全体としての恐れ、です。 なぜなら、この地上のあらゆる人間は、恐れを経てゆくからです。 導師たちさえも、司祭者たちさえも、 キリスト教の最高権威さえも、彼らはみんな、恐れを持っています。 世界中で、あらゆる人間は、恐れを持っています - 死について、 愛の欠如についてと、ああ、何十も何十もの恐れを、です。 私たちは、恐れを持っているから、けっして自由でない。それで、私たちは、つくづくと 検討するのが相応しい - 分析的に、ではありません。なぜなら、そのときあなたは、 分析者と分析されるものを、分離するからです。 そのとき、葛藤が始まります。 ですね? 分割があるところ、葛藤があるにちがいありません。 それは、自然の永遠の法則です。 鉱夫たちと、鉱山所有者たちとで起きていることを、見てください。 分離した国々は - イングランド、フランス、ドイツ、ロシアのように - 闘い、闘い、闘っています。 アラブ人とユダヤ人。 ご存じでしょう。これは、とても明白です。 で、どの国にも所属しない。 もちろん、パスポートは持たなくてはいけません。 語り手は、インドのパスポートを持っていますが、彼はインド人ではありません。 彼には、外交官パスポートが与えられました。 しかし彼は、その外交官のを、それが所属するところへ、置いてきました。 で、恐れは、私たちのみんなに共通です - 痛みのように、心配のように、悲しみ、不安定、
1:10:47 権力、地位、威信への要求のように。 あらゆる人間は、この恐れの種子を、持っています。 私たちは、特定の恐れについて話していません。ですが、恐れの内容全体、 その根を掴むとき、あなたは、特定のものを 扱えます - それは、まったく不必要になるのです。 で、恐れの根は、何でしょうか。 どうか、語り手が説明するのを、待たないでください。 それの根 - なぜなら、それは私たちの中にあるからです。天国にとか、 司祭者たちに、とか、人の思考が組み立ててきた物事すべてには、ありません。 それは時でしょうか。 それは思考でしょうか。 それは、何か知られていない要因でしょうか。 それが、知られていない要因であるなら - すなわち、人にとって二百万年かそこらの間、 存在してきたこの事実に、人は祟られているし、 その長い進化は、この問題を解決してこなかった。 人は、それから逃避してきたのです - 神々を崇拝したり、誰かに従ったり、それらの事柄です。 で、今朝、私たちはこの大天幕の下に座り、 ともに熟議しあっていますが、原因を見出し、それを終わらされるでしょうか。 今それを終わらせる。明後日にではない。 あなたは、今 それを終わらせるなら、驚くほど自由な人、男や女です。それが何であっても、です。 そのときあなたは、本当に自由です。 その自由のみが、真理へ扉を開けます。
1:13:36 で、私たちは訊ねています - それの根は、何でしょうか。 それは思考でしょうか。 それは時でしょうか。 どうか、語り手の言うことを、何一つ受け入れないでください。 彼の言葉や、彼の身振りや衣服に、従わないでください。それに入ってください。 何を発見するにも、熱情を持つこと、あのものすごいエネルギーを持つことが、 必要です。 ただの受け入れとそれらと、 あなた自身を誰かへ手渡すだけではない。 それは、それら未熟なこととは、何の関わりもありません。 なぜなら、それはとても深刻な問いであるからです。 で、思考と時が、責任があるのでしょうか。 または、時は思考でしょうか - それは一つであり、分離していない。 それが、その根でしょうか。 それが、その根なのでしょう。 私は、自分は、死を恐れていない- 終わることへのその恐れに、 私たちは、別の時に入るでしょう - その終わることが起きるなら、知られたものについて、怯えます。 で、考えることが、根でしょうか。考えることは時ですが、それがそれの根でしょうか。 もちろんです。 指し示すなら、それは明白です。 もしも私たちが考えなくて、時がなかったなら、死はなく、恐れはない。
1:16:13 で、問いが生じます。 思考・時は、止まりうるのでしょうか。 そのときにだけ、恐れに終わりがあるのです。 しかし、それは他の人から受けるのではなく、自分自身でそれが、見えなくてはいけません。 私たちは、物乞いではありません。 誰も、与えたり、受けたりしていません。 誰もあなたに、動くよう、手を差し出していません。 あなたは、このエネルギーを持たなくてはいけません。そのエネルギーは、自らの能力を持っています。 で、語り手は言っています - あなたはそれを、受け入れたり、拒否しなくていい。 ただ、彼が言うのを、観察してください -すなわち、考えることと時がないとき、 恐れは心理的に完全に、全く終わりうる、ということを、です。 その問い自体、です。 恐れの原因を見出すように、です。 それを自分自身で見出して、その原因を保つ、それとともに居る。 そのとき、まさに居ることこそが、自らのエネルギーを、持っています。 しかし、あなたが逃げ去るなら、それは、あなた自身とゲームをやるのに、似ています。 で、今、心理的に、完全にこの恐れを終わらせることは、 可能でしょうか - そのため、あなたは自由な人であるように、です。 私たちは、他のことについて話すでしょう - 楽しみ、悲しみ、
1:18:38 死と冥想、宗教などのように、です。 しかし、恐れが、完全に終わりにならないなら、 他のことは無意味です。 あなたは、冥想で座り、特別の衣を着、或る人物に従う かもしれません。 それらは、何の意味もありません。 意味があるのは、恐れが終わることです。 あなたが原因を - 思考と時のように - 発見し、それとともに留まるとき、 それを保ち、それとともに居て、それを手から逃がさないとき、 それへの観察こそが、その心理的な恐れが 終わることなのです - その中には、何へも執着がありません。
1:19:40 長く話してしまって、すみません。 立ち上がってもいいですか。