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BR85T3 - 利己に対する自由の関係
第3回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1985年8月31日



1:03 あれらの人々は、協力とお金への訴えをしました。 語り手もまた、その訴えに加わってもいいですか。 私はあなたたちに対して、一緒に物事について話し合うよう、訴えます。
1:34 私たちは、時、思考と恐れについて話してきました。 私たちが言いましたように、これは、特定主題について、 情報を与えたり教示するのを、意図した講義ではないのです。 これは、あなたと語り手との間の会話です。 ともに私たちは、物事すべてを、見つめようとしています - 私たちの生、日常生活において重要であると考えられる物事を、です。 ビジネスマン、医師、教授や科学者などとしての 私たちの生だけ、または、あなたがその集団に所属したいなら、導師たちの(生)だけではない。 私たちは、他の人たちに関心はありません。 むしろ私たちは、会話をしようとしています - そこに、権威はありません。 そこに、専門家はいません。 私たちはみんな、素人です。 私たちは、過去二回の講話と質疑応答において、 話し合ってきたことを、ともに話し合おうとしています。 今朝はかなり雨降りで、風が吹いています。 残念です。昨日は、うるわしい一日でした。 私たちは今朝、ともに話し合おうとしています - 自由、利己、楽しみ、痛み、悲しみと愛について、です。 時間があるなら、私たちは死についてもまた、話すでしょう - それがあなたにとって、だいじょうぶであるなら、です。
4:22 以前、言いましたように、私たちは、なかなか真剣な集団です。 少なくとも、語り手はそうです。 彼は、ここ七十年以上の間、それに携わってきました。 (今週末の)二回の講話に出席したり、何か活字を読むだけでは、 私たちの問題は、解決されないでしょう。 それは、私たちを助けないでしょう。 語り手は、あなたを助けようとしていません。 どうか、それを確信してください。 語り手は何も権威でないこと、ゆえに、 彼は、あなたが助けてもらうために頼れる人物ではないことを、得心してください。 あなたを助けてくれるかもしれない人たちは、他にいます。 あなたは、助けてもらいたいなら - もし大変尊敬をこめて指摘してもよろしければ - 自分の問題を、解決してもらうよう、他の人たちに任せます。 彼らは、彼らの願望、利己、権力、地位、 それらの事柄に沿って、それらを解決するでしょう。 で、私たちは、普通の素人であり、ともに話し合っています。 私たちは、ともに探究し、 事実に、向き合おうとしています - 事実についての観念に、ではなく、事実に、です。 イデオロギーに、ではない。 それらは無意味です。 理論、思弁について、ではない。 誰が光明を得ているとか、いないとか、 誰が何であるか・・・あなたより神に近いとか、ではない。私たちはともに、 この自由の問いへ、入ろうとしています - 自由は時へ、時は思考と行為へ、どんな関係があるのか、です。 なぜなら、私たちは、行為によって生きるからです。私たちのすることすべてが、行為です。 特定の行為ではない - ビジネスの世界でも、 科学の世界でも、哲学と呼ばれる思弁的な世界でも、です。 むしろ私たちは、物事をありのままに、見つめようとしています。
7:28 世界には、大変多くの乱脈、無政府状態が、あります - 混沌、無秩序。 誰がこれを、もたらしたのでしょうか。 これが、私たちの第一の問いです。 私たちが世の中に持っている乱れすべてに、誰が責任があるのでしょうか - 経済的、社会的、政治的などに、です。 すべてが戦争へ、繋がっていきます。 戦争は、つづいています - 今、ひどい戦争が、です。 私たちは、私たちの一人一人は、知的にではなく、実際に、日常生活で、 私たちが住んでいる家について、悟るのでしょうか - 外側の人が建てた家だけではなく、内側の家も、です。 私たちは、それがどれほど無秩序で、矛盾しているのか、 自らがどれほど自由を持っていないのかを、悟るのでしょうか。 自由(フリーダム)という言葉はまた、(語源的に)愛をも、含意しています。 あなたが好きなことを、好きなとき、好きなところで、する自由だけではない。 私たちは、この地上に生きています。 私たちのみんなが、です。 一人一人が、自分の自由を、探し求めています - 自分の表現、 自分の充足、覚りへの自分の道を、です。 それが何であっても、です。 自分の特定の形の宗教、迷信、信念、信条と、 それに伴う物事、政治的、宗教的になど 権威、位階制度の権威に伴う物事すべて、です。 で、私たちは、ほとんど自由を持っていません。 その言葉は、あらゆる精神病質者とあらゆる人間が、 自由に使っています - 彼が(共産主義のソビエト・)ロシアに生きていても、です。 そこでは、圧政がすさまじい。 または、いわゆる民主主義世界にいても、です。 あらゆる人間は、内的に、意識的か無意識的に、自由が要るのです。 世界のあらゆる樹は、成長するには、自由が要るように、です。 威厳、愛の性質のその感覚を持つには、です。 自由の、利己への関係は、何でしょうか。
11:10 どうか、私たちはともに、物事について話し合っています。指摘してもよろしければ、 あなたは、語り手に聞いていません。 演壇の上の人に、聞いていません。 彼はまったく重要ではないのです。 語り手は本気で、これを言っています。 彼は、語り手は、重要ではありません。 しかし、おそらくあなたは、彼が言うことへ、耳を傾けるかもしれません - とても真剣に、物事について話し合っている二人の友のように、です。 私たちは、訊ねています - 自由と利己の間の関係は、何なのでしょうか。 あなたは、自由と利己の間で、どこに線を引くのでしょうか。 利己とは何でしょうか。 それの、思考へと時への関係は、何でしょうか。 どうか、これらすべての問いが、自由に関与しています。 自由は、自分の野心、貪欲、妬みなどを充足させることではないことに、 留意しておいて、 自由に関して、利己の関係とは、何でしょうか。 利己とは何かを、ご存じですね? 利己は、私たちの生のあらゆる石の下に、隠れるかもしれません。ですね? 私たちは、ともに話し合っていますか。 私たちはともに話し合っていることが、あなたはすっかり確かですか。 誰か上の人ではなく、私たちはみんな、同じ水準に座っています。
13:46 利己とは何でしょうか。 意識的、意図的に、それを探究できるでしょうか - どれほど深く、どれほど表面的で、どこでそれが必要なのか、 どこでそれは全的に、完全にまったく持ち場がないのか、です。 質問を理解できますか。 私たちはともに、問うています。 利己は、世の中に大変多くの混乱を、もたらしてきました - 大変多くの無秩序、混乱、葛藤を、です。 その利己が、国と、共同体と、家族と、 神と、信念、信仰などと同一視されようと、 それはすべて、利己です。 覚りを探し求めること - 後生です。まるで、あなたがそれを探し求められるかのようです。 また、その探求にも、利己があります。 また、あなたが家を建て、保険に入り、 抵当権を持つときも、利己があります。 利己は商業的に、奨励されます。 また、すべての宗教によっても、です。 彼らは、解放について話しますが、初めに利己です。 私たちは、この世界に生きなくてはいけません。私たちは、機能し、 お金を稼ぎ、子どもを持ち、結婚するのか、しないのかでなくてはいけません。 二十世紀のこの世界に生きていて、私たちの利己は、 どれほど深いのか、どれほど表面的なのか。 これを探究することが、重要です。 利己は人々を分割します。ですね? 私たちと彼ら、あなたと私、あなたの利害に対立する私の利害。 私の家族の利害は、あなたの家族の利害に対立する。あなたの国、 私の国 - そこに、私は大変多くの情動を付与し、物理的な利益を 投資してきました。そのために、私は進んで闘い、殺そうとしています。それが戦争です。 私たちは、観念、信条、信念、教義へ、儀式などへ 利益を投資します - この循環全体です。 その根には、大変多くの利己がある。
17:38 さて、この世界に日々、明晰に、生きられるでしょうか - それが必要であるところでは、利己をもって、です - どうか、私は気をつけて、この言葉を使っています - それが物理的に必要であるところでは、です。心理的、内的には、 それは全的に放棄されるでしょうか。 それは可能でしょうか。 理解できますか。 私たちは一緒にいますか。 私たちの一人一人が、ここに、きわめて複雑な社会に生きていて - 競争的で、同意と不同意により分割され、 信条が他の信条と対立し、つづいているこの大きな分割。 個人的にだけでなく、集団的にも、です。 私たちは、この世界に生きていて、利己と非利己との間で、 どこに線を引きますか - 心理的に、いかなる利己もないように、です。 私たちは、それをできますか。 あなたは、それについて果てしなく話をできます。私たちは、講話と講義へ行って、 誰かから聞くのが好きであるからです。しかし、ここで私たちは、ともに観察しなくてはいけません。 あなたは、互いに聞かなくてはいけません。 言語的にだけでなく、また深く、内的に、 広汎に、見出さなくてはいけません - 自分の利己だけではなく、 広汎に、全体的に、どこに利己があるかを、です。 内的、心理的に 利己のどの種のつぶやきもなく、生きられるでしょうか。 自己、「私」のどの種のも、です- それは利己の本質です。 他の一人は、これは利己である、これは利己でないと、 説明したり、言ったりできません - それ(をするの)は、ひどいでしょう。 しかし、自分自身で見出せます - よく気をつけ、一歩一歩ためらいながら 探究し、どの結論にも到らずに、自分自身で見出すのです。 なぜなら、私たちを助けるであろう人は、誰もいないからです。 私たちはこれについて、完全に確実でなければならないと、私は思います。誰も私たちを助けようとしていません。 彼らは、ふりをするかもしれません。 あなたは、ふりをするかもしれませんが、 実際は、これら二百五十万年か四万年の後、 私たちは、いまだに助けを、探し求めています。私たちは、はまり込んでいます。 私たちは、自らのつなぎ紐の果てに、来つつあります。
22:06 利己への探究において、私たちはまた問いへも、入らなくてはいけません - 自由とは何か、です。自由(フリーダム)は、(語源的に)愛を含意しています。自由とは、 無責任や、自分のしたいとおりのことをする、という意味ではありません - それは、世の中にこんなに乱れをもたらしてきたのです。 また利己は、思考へどんな関係が、あるのでしょうか。 私たちは先日、時の問いへ入りました。 また、思考、考えることへも、です。 私たちはそれへ、短く入りましょうか - 時と思考は何かへ、です。必要ですか。 それを何度も何度も反復するのは、何の役にも立ちません。 それは、かなり単調になります - 少なくとも、語り手にとっては、です。 で、彼は、言葉を変えなくてはいけません- 特別の述べ方、 語句の間の静寂。語り手にとって退屈でないとは、それらが含意されています。 しかし、あなたは単に言葉、言葉、言葉を 聞くだけで、行為しないのなら、私たちには、灰だけが残るでしょう。
24:13 私たちが言いましたように、時は、頭脳の進化の 一部です。二百五十万年です。 時はまた、日の出、日の入りです。 時はまた望みです - 私は望む。自分は望む。 時はまた、憶えていることです。 時はまた、自分が集めてきたすべての知識、経験です。 それは、科学的、個人的、集団的、人種的などの知識です。 時は伝統です。 思考は、知識に基づいています。 知識は、経験から出てきたものです - その経験が個人的でも、集団的でも、 人種的でも、伝統的でも、それはやはり知識です。 知識はいつも制限されています- 無限の未来においても、 無限の過去においても、です。なぜなら、知識は本質的に、経験をとおして、 組み立てられるからです - すでに知られたものへ、もっともっと多く付け加えています。 それが、科学者たちがやっていることです。 それが、私たちがやっていることです- もっともっと多く付け加えています。 で、知識は、いつも制限されています- いつも、です。 過去、現在、未来。 時は、知識と呼ばれるこの蓄積の過程です。 私たちは、月へ行くには、時が必要でした- それを考えぬくための時、 集団的に協働するための時など、です。 で、時・思考は、分離していません。 それらは、単一の動きです。 だいじょうぶですか。 私たちは一緒に進んでいますか。 または、それはすべて、言葉だけでしょうか。
27:06 で、時は、過去、現在、未来だけではない。 現在は、過去を修正しつつある。 ゆえに未来は、 明日の未来は、今日の私なるものです。 で、今、それは、あなたがそこに座っている瞬間です - あなたが聞いていながら、 おそらくあなたが、注意を払っていながら、です。 今は、すべての時を収容しています。 で、本当に深く、深遠にそれを理解するなら、 そのとき変化は、全然無意味です。 あなたは、今のあなたなるものです。 それとともに留まること。「まあ、私はそれを変化させたいと望む」、「私はこれになるだろう。 私は暴力的であるが、私は後で非暴力的になるだろう」と言わずに、です。 私たちが話していることを、理解できますか。 私たちは一緒にここにいますか。 思い悩まないでください。 それはきわめて単純です。 あなたが、それを見つめるようになると、それは、本当にひどく単純です。 私は今日、暴力的です。 私は、ここ二百五十万年の間、暴力的でした。あなたもまた、そうでした。 私たちは暴力的だったのです。ですね? 私たちは、言葉でもって、説明でもって、論理的な結論でもって、 それを覆い隠そうとしてきました。 しかし私たちは、いまだに暴力的です - 互いに殺し合い、互いに傷つけ合っています - 物理的にも、心理的にも、です。 競争的で、野蛮です。ですね? 私たちは、暴力的な人々です。 世界でつづいていることすべて - 爆弾を投げること、テロリスト。 動物たちへ、他の人間たちへ 起きつつある、怖ろしいことすべて。 あなたは、これらを知りませんか。 いいですね? 私たちはこれらを知っています。 私たちは暴力的な人々です。 今、変容がないならば- 今、この瞬間に、 この秒に、です - 明日、あなたはやはり暴力的になるでしょう。ですね? それは論理的で、合理的です。 気になさらないなら、これに、少し注意を払ってください。 私は、今、怒っていて、憎んでいて、敵対的であるなら、明日、同じになるでしょう。ですね? それは明白です。 で、今は、過去、現在、未来を収容しています。 で、どんな変化も、時の中での動きを、含意しています。ですね? 「私はこれであるが、私はあれになるだろう」 それは、時という意味です。 それは、私は本当に、時の意義を捉えてこなかった、という意味です。 しかし、私は、「有るもの」を離れる単一の動きもなく、 完全に、それとともに留まるなら、私が観察し、保ち、一緒に居るものは、私です。 暴力は、私から分離していません。 私は暴力的です。 怒りは、私から分離していません。 私が怒りです。 貪欲、妬み - 私がそれです。 しかし、私たちはそれを分離してきました。 ゆえに、葛藤があるのです。 これはすべて、とても単純です。 私が入らなくても・・・ それは、私たちの間で、幾らか明らかでしょうか。 私が、あなたにそれを明らかにしつつある、のではない。 あなたは、自分自身で事を明らかにしつつあります。だから、それは、あなたが 言われつつあることを、理解するとか、語り手が自らの言いたいことを説明する、とか、 あなたが、「私はあなたを理解できない」と言える、ということではない。 あなたは、語り手を理解しつつあるのではなく、あなた自身を理解しつつあるのです。 あなたは、自分自身を見つめています - あなたは、憂鬱すぎていないなら、 怠けすぎていないなら、表面的な物事に関心を持ちすぎていないなら、です。
32:54 で、時・思考、利己 - このすべての循環には、 自由がないのです。明白です。 利己があるところ、けっして自由はありえません。 それは明白です。 単純です - あなたがそれを見つめるなら、です。 それは、単純であればあるほど、微妙です。 とてつもない深さを持つのです。
33:37 私たちはまた、取得したがり、楽しめて、満悦できる過程全体についても、 ともに話し合うべきです。 いいですか? あなたは進んで、これらに入ろうとしていますか。 「うん!」と言わないでください。(笑) それは、金を見つけるために、大地を掘るのに、似ています。 あなたが、大地を引っ掻いて、表面的に引っ掻いて、金は見つかりません。 あなたは、掘らなくてはいけません。 きわめて深々と掘り下げなくてはいけません。 空中へ、空へ上がるのではない。 先日、私たちが言いましたように、 あなたは全人類です。 で、あなたは、自分を助けてくれる他の人を、探さなくていいのです - または、自分が掘ったり、 自分自身に入ったりするのを助けてくれる人を、です。 あなたはそれです。あなたは人類全体です。 なぜなら、あなたが考えることを、数百万の他の人たちが、考えるからです - 考える。彼らが何について考えるかではなく、考えること。 考えることは、人類すべてに共通しています - 彼らが科学者であっても、 仏教者やチベット人であっても、神のみぞ知る他の何であっても、です。 彼らはみんな、考えます。 彼らはみんな、楽しみを持ちます- 性的にとか、執着での、所有での楽しみ、 地位、金銭、栄光、名声、それらの事柄を達成する中での楽しみです。 すべての人間は、どんな人種、色、先入観、宗教であっても、彼らはみんな、 楽しみ、痛み、心配、不安定と悲しみを、経てゆきます。ですね? で、それは、あなたの特定の悲しみだけではない。 それは、あなた自身の 特定の楽しみではない。 それは、人類の楽しみです。ですね? 私たちはいつも、楽しみを探し求めてきました- 物理的に、心理的に、です。私たちはそれを そこに見つけないなら、何か地球外のものを発明します - 緑の小人たちを、です! それについて笑ってすみません。 取得、所有での楽しみ。 私はあなたを所有する。あなたは私を所有する- それをよく考えてください。見つめてください。 その楽しみは、いつも恐れで曇っています。 で、楽しみ、恐れ、利己、時、 思考は、すべて一つの動きです。 分離した動きではない。ですね?
37:55 また私たちは、探究すべきです - 苦しみは何なのか、 なぜ人は、時を越えた時から苦しんできたのかをも、です。 彼らは、苦しみから逃避するために、地上で、あらゆることをやってきました - 物理的な苦しみだけではなく、はるかに重要な、心理的な苦しみからも、です。 すべての宗教にもかかわらず - 一つの特定の宗教は、死、苦しみを 崇拝します。 キリスト教でやられるように、です。 他の宗教は、他の逃避を持っています。 彼らはけっして、 人は、男や女はけっして、この問題を解決したことがないのです。 彼らはそれに耐えます。 それに忍耐します。 彼らは、それにより不具になる。 彼らは、精神病になる。涙を流す。 苦しみは、様々な形で私たちみんな全部に、共通です。 それは誇張されるのか、 あるいは、あなたは、ただ涙を流し、それを自分自身に取っておき、続けていく。 そしていつも、この互いの殺し合いがある。ですね? 何千人、何百万に何百万もの人が、涙を流してきました。そのすべての残忍さ。 戦争の狂気、軍備の増強、 他方、何百万に何百万もの人が、飢える。 私はそれらに入らなくてもいい。 それはすべて、きわめて明らかです。 一つの民族、国家は、もう一つの民族、国家と闘っている - あなた自身のような、もう一つの人間の集団と、です。あなたは、自分自身を イギリス人、インド人や他のラベルで呼ぶかもしれませんが、あなたは初めに人間です。 で、私たちは訊ねています - 戦争に終わりは、苦しみに終わりは、あるのでしょうか。
41:10 私たちが家族として、共同体や派閥として、民族、国家、宗教などとして 分離しているかぎり、戦争に、終わりはない。 この分割は、いつも、永続的に葛藤、抗争を、創り出そうとしています - あなたと私、我らと彼ら。 これは、私たちがやってきたゲームです。 初めに部族的で、制限されている。 今やそれは地球的です。 で、私たちは自分自身に訊ねています - 悲しみに、終わりがあるのでしょうか。 真剣にこの問いを、あなた自身に訊ねてください。 なぜなら、悲しみがあるところ、愛はありえないからです。 同情、哀れみ、忍耐、共感は、ありえます。 しかし、寛大さ、哀れみ、同情は、愛ではありません。 愛は、それらを収容しているとか、それらを持っているかも しれませんが、諸部分は全体を作りません。 あなたは、同情、共感、優しさ、 寛大さ、友情を収集できますが、それは愛ではありません。 で、悲しみに、終わりはあるのでしょうか。
43:03 これは、それに入るために、無量の、大変多くのエネルギーを、必要とします - 「まあ、それについて考えよう」と言うだけではなくて、です。 考えることは、悲しみの要因なのかもしれません。 私の息子は死にました。私は、彼の写真を銀の額縁へ入れて、 (暖炉の)マントルピースやピアノの上に、置いています。私は憶えています。 憶えているのは、思考の過程です。 もちろんです。 いかに私たちが一緒に日の入りを楽しんだのか、 いかに私たちが、林を歩き、笑い、スキップしたかを、考える。そして、彼は去りました。 しかし、彼の思い出は、つづきます。 その憶えていることが、悲しみの要因なのかもしれません。 私は、息子が死んだこと、去ったことを、認めたくありません。 そういう事実を認めることは、まったくのさびしさを、認めることです。 私たちは、まったく自分一人であるとのこの事実に、向き合いたくないのです。 それで、私は他の人を探します。 私は、自分の幸せ、満足のために、頼ります - 性的に、またはその他で、です。 他の人を頼みにします。 私は同じゲームを、何度も何度もやります。 しかし、私は悲しみを終わらせていません- 私、語り手はそうではないが、 私たちは、悲しみを終わらせていません。 悲しみは、自己憐憫、利己だけではなく、 また、私が持っていたものの喪失です- 喪失。 充足しえないこと。何か私がそのために働いてきたことを、達成しえないこと、 獲得しえないこと - 物理的にだけでなく、心理的に、内的にも、です。 このすべてともっと多くが、悲しみに、含蓄されています。 私たちは、自分自身に訊ねています。 誰もあなたに、この質問をしたり、 この挑戦を要求したりしていません。 あなたが自分自身に、これを訊ねています - 悲しみは終わりうるのかどうか、です。 自分自身の悲しみ - 自分自身の中にそれがあるところ - だけではない。 また、人類の悲しみも、です - あなたはそれによっています。 それは、他の一人を殺さない、心理的に他の一人を傷つけない、という意味です。 そうですよ! 私たちが言いましたように、悲しみがあるところ、愛はありえません。それは事実です。
47:18 で、私たちは、探究すべきか、または見るべきです。 探究ではなく、見る - 愛とは何でしょうか。 その言葉は、こんなに使われ、唾を吐きかけられ、汚され、醜くされてきました。 「私は自分の国を愛している」、「私は神を愛している」、「私は献身している。私は愛のために祈る」と。 ですね?「私は愛されていないが、愛されたい」 - 愛の詩歌。 愛は感受でしょうか。 どうか、あなた自身に、これらすべての問いをしてください。 愛は、楽しみの継続と思い出でしょうか。 愛は欲望でしょうか。 欲望とは何かを、知っていますか。 短くそれに、入ってもいいですか。 欲望とは何でしょうか - あなたは、それにより駆り立てられ、引き裂かれ、切り裂かれます。 欲望と呼ばれるそのものは、何でしょうか。 それを抑圧するのではなく、それを変異させたり、それに何かをするのではなく、 欲望の動きとは何でしょうか。 それはどのように、訪れるのでしょうか。 あなたは、自分自身にこれら問いをしていますか。 または、あなたは、語り手に説明してほしいのでしょうか。 後生です! それに入りましょう。
49:43 私たちは、感受によって生きます - 物理的な感受でも、心理的な感受でも、です。 感受は、応答の一部、比較の一部などです。 感受。私は感じる、感受する。 私は雰囲気を感受する - 良い、悪いと。 感受。ですね? その感受は、見えること、触れること、聞こえることをとおして、 訪れます。そのとき、感受の後、何が起きますか。 さあ、みなさま! 思考が入ってきて、その感受をイメージとして使います。ですね? 私は、すてきな住宅や庭を、見る。 または、すてきな絵画や家具や、 すてきな女性を、です。 感受がある。見える、観察する。 観察する。接触、そのとき、感受が来ます。 感受があるのでなければ、私たちは麻痺しています。 私たちのほとんどが、そうであるように、です! 私たちは、感受を持たないなら、麻痺しています - 私たちの脚、手、その他すべてにおいて、です。 で、感受。そのとき、何が起きますか。 思考は感受を取る。それをイメージに作りかえる。ですね? 私は、あなたが美しく着飾っているのが、見える - 清潔で、健康的で、 明るく、良い。良い頭脳とその他すべて。 私はそれが見える - あなたの話し方、あなたのこれとあれのやり方など。 そのとき思考は、「私は彼のよう、彼女のようだったらなあ」と言う。 その瞬間に、欲望が生まれています。ですね? 感受、そのとき欲望。そのとき思考が、その感受に形を与える。 感受と思考との間に、間隔があるなら、 そのときあなたは、はるかにそれに入れます。ですが、今ではない。 理解できますか。 私たちは幾らか、一緒にここにいますか。 ご覧ください。私たちの困難は、私たちが自らの思考において、とても複雑であることです - 見出したがり、いつも見て、見て、見ていて、 問題への答え、解決を見つけ、「私はどうやってこれをすべきか」ということです。 私たちは、けっして単純ではありません - 物理的に(質素)ではない。後生です!それを、幾らか食べ物をとるとか、 ほとんど衣食を持たないとか、一食を食べるとかそれらに、還元しないでください。 あの種の食べ物は、何ですか。 何と呼ばれるのか・・・ 私は、それの名前を、忘れてしまいました。 そうね、日本からのです。 それの名前は、何ですか。
53:48 聴衆: 長寿食。

K: 長寿食。それです。 それに熱狂する。(笑) ヨーガ、その他すべてに熱狂するように、です。 太極拳、そうね、私たちは戯れます。 私たちは戯れていません。 これは空想ではありません。 これは、何かあなたが引っ掛かっていることです。 これは、私たちの生です。私たちの毎日の、さびしく、醜く、小さな生です。
54:37 で、愛とは何でしょうか。 憎しみと恐れがあるところ、競争と比較があるところ、 順応、同意と不同意があるところ、愛は、存在できるでしょうか。 これらに入ってください。 または、愛は、これらとは何の関わりもないのでしょうか。 愛は、何か頭脳の中、頭蓋骨の内側のものでしょうか。 または、それは、何か全然、思考と時を越えたものでしょうか。 利己があるところ、愛はありえません。 明白です。あなたは、これらをご自身でご覧になれます。 そのとき愛は、悲しみへどんな関係があるのでしょうか。 愛は、慈悲でありうるでしょうか - 私はあなたを愛している、あなたは私を愛している、だけではない。 愛は、あなたのや私のではない。 それは愛です。 ですね? 私は結婚していて、子どもを持ち、セックスする、その他すべてかもしれません。 それらの中には、優しさ、寛大さ、礼儀正しさ、親切、 譲ること、忍耐があるかもしれません。 それらは、愛ではありません。 で、慈悲と愛は、分離していません。 それらは一つです。 そのように生きられるでしょうか。 理解されますか。 これを、自らの生に持てますか。 抽象的な瞬間に、とか、 あなたが自分一人で、ソファーに座っていたり、森で散歩している 瞬間に、ではない。 ひらめき、匂い、香り - すなわち、一秒間、あなたの存在全体を変容させるように、見えるもの。 私たちは、その香りをもって、日々の生を生きられるでしょうか。 というのは、あの慈悲は、自らの智恵を持っているからです - インドやアフリカへ出かけて行って、何か伝道の仕事をしたり、 貧しい、極貧の人たちを助ける人の慈悲ではありません。それは、愛ではありません。 愛があるところ、絶対的な自由があります - あなたが好きなことをするため、自己主張をしたり、他人を改宗させたり、 その種すべての、ばかげたことのためではない! で、その智恵は、思考の智恵ではありません。ですね?
58:50 月へ行くには、大変多くの智恵が 要ります。潜水艦を組み立てるには、コンピューターを築くには、 ものすごくたくさんの智恵が、要ります。ですね? それは部分的な智恵です。 科学者、画家、詩人、パンを焼く普通の人物 - それは、部分の智恵です。 それは、完全な智恵ではありません。 あの全包括的な智恵、あの智恵の性質全体は、 悲しみの終わりと愛とともに、訪れうるのみです。それは行為します - 思考と時によりもたらされた、部分的な行為ではない。
1:00:19 立ち上がってもいいですか。 または、じっと座りましょうか。 私たちは、手を取り合うことはできませんが、二、三分間、静かに座れます。 そうしましょうか。

聴衆: はい。

K: よし。 冥想するのではない。(笑) 静かに座りましょう。 (長い休止) 立ち上がってくださるでしょうか。 それから、語り手は立ち上がるでしょう。