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BR85T4 - 宗教的に生きる頭脳の本性
第4回公開講話
イングランド、ブロックウッド・パーク
1985年9月1日



0:55 語り手もまた、発表をしたいと思います。 あなたたちがそれを真剣に取ってくださることを、願っています。 これは、リゾートではありません。 (学校の)水泳プール、テニス・コートがありますし、 (この集会は、)あまりに人気が出て、あまりに大きくなりつつあります。 Kが話していることを、解釈しようとしている人々が、います。 彼はいつも言ってきました - どうか、解釈しないでください、と。中断でなく、解釈をしないのです。 ですから、私たちがそれを、もう一つのリゾート、娯楽場にせずに、 それを、はるかに秩序だち、きびしくしようとしていることに、どうか留意してください。 幾度も発表されてきましたが、つづいているあの音楽 - 音楽とよばれるもの。 バーン、ですか。 ドラムをどんどん鳴らすことなどが、昨夜、十時半まで、つづきました。 ですから、礼節を守り、他の人たちを気づかってください。また、指摘してもよろしければ、 Kはどこへ行こうとも、彼はお客です - 彼はインドに、アメリカに、ここにいても、です。 ですから、お客のように振るまわなければなりません。他の人たちを尊重し、 他の人たちに配慮し、或る種の秩序を持って、です。 それが今なりつつあるように、あまりに大きすぎるように、してはなりません。 私たちは来年、これらについて何かをしようとしています。
3:33 他のことについて、つづけてもいいですか。 私たちは、生の様々な問題について、話していました - 私たちの日々の、単調で、やや楽しめる生の、です。それらは、恐れ、心配、 敵対などで満ちています。 私たちは、時・思考の問いへ入りました。 昨日 - それは昨日の朝でしたか?ええ、やれまあ、すみません。 昨日の朝、私たちは、悲しみが終わることについて、話しました - それが何を含意するのか、 悲しみの本性は何なのか、すべての痛み、心配、 さびしさ、憂鬱、不安定。 それらが、悲しみに含意されています。 世界の一定の地方では、悲しみ、痛みを崇拝します。 私たちはけっして、悲しみを終わらせることが、できませんでした。様々な形での 自分の生の悲しみだけではなく、また、世界全体の悲しみも、です。 つづいているひどい戦争すべて、レバノンと南アフリカで起きていることと、 共産主義世界、全くの全体主義 - そこでは、一定の線に沿って考えるよう、強いられます。 双方での戦争の準備。 究極的には、原爆です。 それが、つづいていることです。 何百万に何百万の人が、虐殺されてきました - 神の名、 平和、国、何か思想上の概念、理論の名において、です。 これが、私たちの定めだったのです。私たちは、数百万年の間、これらに耐えてきました。 私たちは、長い進化をとおしてそうです -私たちは、かつて粗暴で、残酷な蛮人でした。 それを、今何が起きつつあるかを、見つめるとき、 私たちは、いまだに野蛮人です。 私たちはいまだに、内的に暴力的です。 内的に、他の誰でもなく、自分自身に関心を持っています。 自分の楽しみ、問題などに、関心を持っています。 私たちは世界であり、世界は私たちであることを、私たちはけっして、悟るように見えません。 これは理論ではありません。これは、何かあなたが考えて、 イデオロギー的にとか、ユートピア的な観念として、 結論に到ることではありません。 それは、日常生活での現実です。 あなたは世界です。世界はあなたです。 私たちの何人が、この事実を悟るのか- 物理的な痛みを悟るように、 実際に悟るのか、と思われます。私たちが愛情深く、優しく静かであるとき、感じるように、です。 これは、明白な事実です - あなたは苦しむ、残りの人類は苦しむということは、です。 あなたは暴力的です。残りの人類は、苦しむし、暴力的です。 あなたは、自分自身のために何かをしようと意図し、それを充足したいとき、 暴力的になりつつあります。 残りの人類のように、です。 私たちは、これらすべての講話の間に、これらへ入りました。その間だけではなく、 過去七十年 - これを指摘してすみません。また、今も、です。 私たちは、自分たちが残りの人類であることを、 実際に感じません。 自らの心と頭脳に悟りません。 実際にこの事実を悟るとき - 理論でなく、観念でなく、 実際のこと、日々の事実を、です - そのとき、全然違った生き方が、あるのです。 あなたは、どの国、どの宗教的集団、どの霊的権威にも、 所属していません。または、Kが話していることを、解釈したい人たちにも、です。 あなたは、自分がそうであること、自分が実際に残りの人類であることを、本当に感じるとき、 けっして他の一人を殺さないでしょう。 けっして、心理的に、意識的や無意識的に、 または意図的に、他の一人を傷つけたくないでしょう。
11:05 どうか、これはすべて、きわめて深刻です。 それは、日曜日の集会のため、お説教や講義のためだけではない。 私たちは一緒に、同じボートに乗っています。 私たちはともに、世界と私たち自身と、世界への自分たちの関係を、 理解しつつあるのです - 私たちの責任、ではない。 残りの人類への私たちの関係、です。 あなたたちはみんな、よく食べ、ちゃんと服を着て、住宅、アパート、すてきな庭か、 または、スラムに生活しているかもしれませんが、飢えている人々が、何百万に 何百万もいます。幾つかの人種は、意図的に殺されつつあります - 部族が殺されつつあります。 私たちは、これらを感じなくて、それを観念、結論として、 単に受け入れるかぎり、化け物じみた世界を、創り出そうとしています。 私たちはすでに、それを創り出しつつあるのです。 私たちは、起きつつあることです。 今朝、私たちは、他のことについてもまた、話をすべきです
13:10 - 私たちの生に関連して、です。 私たちは、慈悲、愛について話をしました。その慈悲は、 自らの智恵を持っています。 愛は、自らの智恵を持っています。 利巧な思考、計算、思い出の智恵ではない。 慈悲は、苦しみが終わるときだけ、来られる、または、あるのです。それがあるとき、です。 私たちはそれについて、大変多く話をしました。 不幸にも、語り手は、それらについて書物を公刊してきました。 それは、単に、彼が言ってきたことや 彼が言いたいことを憶えておくだけではなく、あの慈悲の感じの実際、です。 それは、悲しみの終わりがあるとき、来られるだけです - 実際に自らの存在に、自らの心、精神において、自らが 残りの世界であることを、感じて、どの派、どの集団、どの導師、 どの教会、モスクや寺院にも所属していないとき、です。 自らは、これらを聞いたり、これらについて読んだりするでしょう。 それについてKは、長い間、話してきました。あなたは、 「はい、すばらしいアイディアです。彼はとてもよい推理をし、論理的です。しかし・・・」と言います。 あなたはそれに、多くの「しかし」を、付け加えられます。 私たちは、続けていき、それによりもっと多くの葛藤、抗争を産みます。 一つのことを聞く。あなたは、同意するか、不同意するか、それの真理が見える。 それに添って生きたいと思う。 それで、再び葛藤が始まります。
15:46 で、私たちは、ここでのこれら講話の間、葛藤へ大変多く入りました。 私たちは、葛藤が存在するかぎり、愛はありえない、と言いました - 男と女の間、人々、民族、共同体、飛び地などの間に、です。 私たちの頭脳は、長い年と時をへて進化してきましたが、その頭脳は、 とてつもない能力を持っています。一人一人の頭脳が、とてつもない能力を、持っています。 私たちはそれを、テクノロジーの世界、コンピューターの世界で、使ってきました。 私たちはけっして、心理的な世界を見つめたことがありません。 そのほうが、はるかに重要です -主観的なもの、 内的に進んでいる、心理的な過程全体です。 私たちはけっして、それを見つめたことがなく、それに入ったことがないのです - 他の人たちに応じて、ではない。 Kを含めても、です。 私たちはけっして、そうしなかった。 または、表面を皮相的に引っ掻いてきたのです。 ゆえに私たちはけっして、自分自身に、根源的な問いをしないのです。 私たちは今、ともに物事について、話し合っています。 語り手が何かを言っていて、あなたは、ただ聞く。あなたは、 テントを去るとき、それについてすっかり忘れ、十年後にそれを拾い上げる、ということではない。 これは、あなたの生と私の生です。 自分の生を真剣に 扱いたいのなら、または、軽薄にとか普通にとかなら、それは、あなたしだいです。
18:34 私たちは、自由についてもまた、大変多く話しました - 心配、悲しみ、痛み、生の苦労すべてからの自由。 また、もう一つの種類の自由が、あるのです。 それ自体で、そのものである自由、です。 あなたが何かから 自由になりたいからではない。 それは、きわめて部分的な自由だけです。 部分的でなく、完全に全体的である自由が、あるのです。 今朝、私たちはまた、死についても、話をすべきです。
19:33 いいですね? 私たちは、他の多くのことについて、話してきました。 死は、暗い朝や暗い夜の陰鬱な主題ではありません。 人々は、幸せな死に方について、書物を書いてきました - それをどう自然に受け入れるのか、身体をどう逝かせるのか。 そうですね、彼らは果てしなく、それについて、話してきました。それについて書いてきました。 私たちは今、あなたと語り手は一緒です。どうか、一緒に、です。 彼は、自分自身に話していません。 彼は、講義をしていません。 彼は、何かあなたが理解すべきで、ゆえに、解釈者たちを持つべきことについて、 話していません - Kが話をすることについて、語ってくれるだろう人たちを、です。 それが、この場所でも、つづいています。 それはとても不条理に見えます。
21:03 私たちはともに、話し合うべきです- このとても重要で 深刻で、きわめて大きな、死と呼ばれることについて、です。 いいですね、進みましょうか。 どうか、留意してください - 彼は、あなたに話していません。 私たちは、互いに話し合っています。 彼は、何も権威を持っていません。 私は、本気でそう言っています。 彼は、何も優越感を持っていません - 彼があなたへ、それについてすべてを語るだろう、と。 私たちは、ともにそれへ入ろうとしています - あなたが、そうしたいなら、です。 あなたが、そうしたくないなら、それはだいじょうぶです。 それもまた、だいじょうぶです。 誰もあなたへ、何をも課していないし、あなたに指令したり、 何をすべきかとか、何を考えるべきかとかを、語っていません。 ですね?
22:26 死とは何でしょうか。 私たちは、その質問をするとき、また、継続とは何かを、また、終わりとは何かをも、 考慮すべきです - 最後になる何か、です。 終わること、継続、時と死、または思考。ですね? 私たちがその問い、死とは何かを、訊ねるとき、これらすべてが、関与しています。 時、思考、継続の衝動、要求。 また、継続性を 欲しがっているとき、私たちは、終わるとはどういうことかをも、ともに探究すべきです。 始まりが、あるのでしょうか。 これらすべてが、死とは何かのこの問いに、関与しています。 ただ酸素、頭脳への酸素の欠如と、ぽっくり逝くとか、 くたばるとか、だけではない - それをどう呼びたいとしても、です。 それは、人の関心事全体です - 自らの生き方と、死に方です。
24:18 で、私たちはともに、探究しています- 死とは何でしょうか。 なぜ死は、悲しみと連係されているのか。 これらに付いてきていますか。 語り手は、あなたを導いていません。 彼は、あなたを説得していません。 私は、あなたたちへ、それを語るのに、飽きています! で、死とは何でしょうか。 あなたは、その全体を取らなければなりません- ただ死ぬことだけではなくて、です。 あなたは、生まれること、生きることを取らなければなりません - 五十、四十や 六十、七十、九十年とか、さらに少し行く。 あなたは、その全体を取らなくてはなりません- ただ、死とは何か、だけではなくて、です。 それは、むしろバカげた問いです- 死とは何かと言い、それから それについて泣くとか、怯えるとか、キリスト教徒がするように、それを崇拝するとかは、です。 インド人、以前の古代のヒンドゥーは、アジア中に炸裂しました。 (古代)ギリシャが、西洋世界に炸裂したように、です。彼らは、輪廻転生の 自らの理論を持っていました。 - ピタゴラスと他の人たちを 含めて、です - 私たちは今すぐ、それについて話すでしょう。
26:12 で、私たちは、継続とは何か、終わるとは何か、この過程に関与した時と思考とは何かを 考慮しなくてはいけません。それは、初めに 私たちは、生きるとは何かを、探究しなくてはいけない、という意味です。死ぬとは何かではなくて、です。 ですね?私たちはここに一緒にいますか。 私はそれを、二度と反復しないでしょう。 で、生きるとは、何なのでしょうか。 私たちは、何を生きることと呼びますか。 私たちが生まれた瞬間から、生、生きることと呼ばれる長い期間をとおして、 そこには何が起きますか。 その一部だけではなく、その長さ、です。 子どものときから、私たちは問題を持ちます。 学校へ送られた子どもたちは、即時に問題を持ちます - どう読むのか、書くのか、どう数学を学ぶのか、 後では化学、生物学。 それはすべて問題になります。 彼らは、問題の教育を受けます。 これらはすべて事実です。 語り手の想像ではありません。 で、始まりから私たちの生は、継続的な問題、闘争、痛み、 心配、不安定、混乱、信条、信念、 神々と、儀式の永続的な反復 - 宗教と呼ばれるもの - です。 象徴の崇拝と、信仰、信念、 成功、失敗、悲しみ、痛み。 そのすべてが、私たちの生きることです。 実際の事実 - そこには、楽しみ、セックス、その他すべてが、含まれています。 これが、生きることと呼ばれるものです。 9時から5時までオフィスや9時から5時まで工場へ行く。 または、店に入って、本、衣服、食べ物などを売る。 これが、私たちの日々の単調な、いわゆる規律ある生活です。 あなたと私は、それについて不同意するのでしょうか。 または私たちは、それが事実として見えるでしょうか - 叙述上で受け入れるのではない。 それは、私たちの生の実際の事実です。 よろしいですか。 私たちはそれを、理解してきませんでした。 私たちは、これに入って、全然違ったように生きられるかどうかを、見たことがない。
30:19 ですが、いつも死があります。 とても良いイタリアのことわざが、ありますが、私はそれに入らないでしょう。それは、 「誰もがみな死ぬだろう。私は知っている。 おそらく私もだろう!」と言います。(笑) で、初めに、私たちが掴まえ、理解し、入り、解消しなくてはいけないものは、何でしょうか。
30:57 生、日々の生きることや死ぬことですか。 そのうえ、私たちはなぜ、死についてひどく関心を持つのでしょうか。 語り手はかつて、インドで木陰の道路を歩いていました。 彼が海へ向かって歩いていると、後ろに詠唱が、聞こえました。 二人の男に運ばれていく死体が、ありました。 彼の長男は、彼の前、死体の前で、火を運んでいました。 それですべてです。そうですね、騒ぎと霊柩車と花のすべてではない。 それは単純なことでした。 それは本当に、なかなか美しかった。 息子は泣いていて、サンスクリットで詠唱していて、 海へ向かって歩いていました - そこで彼は、火葬されようとしていました。 西洋世界が死について起こす騒ぎ、 ロールスロイス、莫大な量の花々など。 で、私たちは、何に関心があるのでしょうか。 生きることですか、死ぬことですか。 どうか、私たちは、互いに話をし合っています。 私たちが取っ組み合い、それに齧りつき、全エネルギーを注ぐには、 どれが一番、重要でしょうか。
33:18 エネルギーについて話すと、 エネルギーを解放したいと思う人々が、います。ですね? その一部が、鍼治療です。 その一部が、私たちの持つエネルギーを 増大させようとする様々な試みなどです。 エネルギーは何でしょうか。 ここへ来るには、エネルギーが掛かりました - 大変多くのエネルギーが、です。 テントを建てる。 雨風の日に車で来る。 ここへ来るため、すべての物事をまとめる。 それには、たくさんのエネルギーが掛かりました。 あなたは、それを払いのけ、「私は行こう」と言うかもしれません。しかし、行こうと決断する、 来る、車を運転する、テントを建てる、ここに座って聞く - それには、大変多くのエネルギーが、必要とされます。 私たちは、もっと多くのエネルギーが、欲しいのです。 私たちは、自らのエネルギーをどう使うかを、知りません。 あなたは、何かをしたいとき、充分なエネルギーを、持っています。 彼らは月へ行きました。 誰もみなに要求される、テクノロジー的なエネルギーのすべて。 話をする、考える、セックスをする - あらゆることに、エネルギーが掛かります。 生はエネルギーです。ですが、私たちは、自らの利己、専門化をとおして、 成功への要求、恐れと それらをとおして、私たちは、そのエネルギーを制約してきました。 私たちは、それを小さくし、特定にし、極小にしてきました。 すみません! 私たちの頭脳は、専門化により、そうね、その他すべてにより、 狭められてきました。 それで、エネルギーがあります。 私たちが、自分自身を理解するとき、そのエネルギーは、炸裂します。 そのときあなたは、ものすごい熱情を持っています - 何かへの熱情だけではない。 けっして萎れない熱情(パッション)の花、です。 それは、慈悲(コンパッション)があるとき、来られるだけです。
36:54 で、私たちは何に、最も関心を持っていますか- 死、または、生きることに、ですか。 生きることは、私たちが言いましたように、一連の葛藤、闘争、痛み、 悲しみとその他すべての連続です。 これは、陰気な絵図ではありません。 あなたはそれを、色合いでもっと美しく描けます。 叙述的にもっと魅力的にできます。 ですが、これは事実です。 で、私たちは初めに、生を、生きることを、理解すべきであり、 それから、死とは何かの理解へ、来るべきではないですか。 理解されますか。 逆に、ではありません。 あなたは、何を与えるでしょうか - 金銭的にではない。あなたは、何を与えるでしょうか - どのように、どんなさまで全的に違ったように生きられるかを、見出すように、です。 何か他のいかさまの戯言、新しい絵画、新しい詩歌、新しい舞踏、 その他すべての未熟で子どもっぽいことを、追求するのでなくて、です。 語り手は、不寛容ではありません。彼はただ、これらがつづいているのが、見えるだけです。 で、私たちは、自らの生が何なのか、この地上での存在の実際の生を 悟って、変異をもたらせるでしょうか - 変化ではない。完全な変化、 逆転 - それが何であっても、自らが生きてきたこと、生きていることが、 完全に終わらされて、何か新しいことが、起こりうるでしょうか。
39:19 ゆえに、私たちはともに、継続とは何かを、探究しなくてはいけません。 私たちの生、生きる中で継続するのは、何でしょうか。 それは、記憶ですか。 継続。一連の出来事、経験の連続。 「私」、ペルソナ、自我は、記憶の束です。 自らは、その観念を好きでないかもしれません。 何か単なる記憶以上のものを欲しがること 何かもっと、記憶を越えたものを欲しがることは、もう一つの記憶の形成です。ですね? 自らは、この記憶に満足していなくて、何か他の記憶が欲しいのです。 で、この継続を、私たちは生きることと呼びますが、それは、一連の出来事、 記憶、経験の連続です。 それらの束が、私です。あなたです。 継続は、知られているものです。 何かあなたをそれらへ終わらせるものを、私たちが、どんなに怖がっているのか! 自らは、経験、知識の長い生を、生きてきました。 自らは、いたるところを、旅行してきました。 なぜかは、神のみぞ知るですが、そうしてきました。 あなたは、話し、判断し、評価します。 そうですね、それらです。 私たちはけっして、継続が何かと、終わりが何かを、探究しません。 あなたが大切にしている何かを、自発的に終わらせる - 質問を理解できますか。 私たちはお互いに、その質問をしあっていますか。 仮に、自らは、或る人物、結論に、大いに執着している、とします - その結論は、どれほど歴史的、弁証法的で、マルクス主義、レーニン主義や 何やらかんやら、それらであっても、自らは、カサ貝のように、それらに執着しています。 自発的に、楽に、手放せるでしょうか。 それが、死が意味することなのです。 あなたは、死とは論争しません。 あなたは、「どうか、私にもう二日、ください。あらゆることを、 整理整頓できるように」と言いません。 それは、あなたの扉のそこに、ある。
42:50 で、継続性を理解して、その継続性を終わりにできるでしょうか。 質問を理解できますか。 私たちにとって、執着は、大変多くを意味しています。 それは、最も満足できる共通の経験です - 大地に、一定の信念、一定の教義、 一定の儀式、一定の習慣などに、執着する 住宅に、家具に、習慣に、大いに執着しています。 それに気づいて、その気づきの中、それを完全に、終わらせられるでしょうか。 明後日ではなく、今、私たちがここに座っていて、 それらに気づく - 説明、実在に、です。 叙述ではなく、継続に対するこの常なる要求の事実に、です。 性的な継続、所有物の継続、家族の継続、 自らの深い経験の継続。 そのすべてが、即座の終わりになる。 それが死です。 で、あなたが六十、八十、九十のとき、死を待つのではなく、 それを毎日、終わらせる。 死とともに生きる。 どうか・・・ 語り手は、これに関与した、何かものすごいことを、言っています - たくさんの言葉が組み立てられただけではない。 何かとともに生きる。毎日、毎分、常に終わっている生、です。 それで、過去や未来の継続は、ないのです。 この終わることだけが、ある。 すなわち、死です。 そのように生きること。 みなさま、進んでください。 それについて考えないで、それの真理を、見てください。 思考は・・・それは、たくさんの物事を 組み立てられます。しかし思考は、死を欺瞞できません。 で、日常生活で、その終わることとともに- すなわち死と呼ばれるものと、です - 生きることの無量の意義を、悟るなら、そのとき 本当の変容、本当の変異が、ある- 脳細胞にさえも、です。 なぜなら、脳細胞は、私たちの記憶すべて、 過去すべてとその他すべてを、運んでいくからです。 で、私たちは、そのように生きられますか。 ふりをするのではない。「私は努力しなければならない」ではない。あなたは、死ぬために 努力をしません! - 十八階から跳び出して、「これまでは良し」と 言うのでなければ、です。(笑)
47:32 また、私たちはともに、宗教とは何かについても、話し合うべきです。 宗教的に生きる頭脳の本性とは、何でしょうか。 宗教は、私たちの生において、とても重要になってきました。 あなたは、無神論者なのかもしれません。 「まあ、それはすべて戯言だ。誰か愚かな司祭者が 何か戯言について、説教している」と言うかもしれません。 あなたは、それらを避けるかもしれません。 けれども、この内的な要求が、あるのです - 「結局、これらは何だろうか。この生きることと死ぬこと、この痛み、この心配。 それはどういうことだろうか」と内的に言うことが、です。 「誰がそれを創造したのか。 神か。自然か。最初の細胞か」などと、です。 で、宗教は、すべてのゴミ、つづいているサーカスに、関心がありません - ローマでも、イングランドでも、インドのベナレスでも、 仏教の国々でも、です。それは、すべて思考により組み立てられています。 ゆえに、きわめて、きわめて制限されています。 で、私たちは、訊ねなくてはいけません - 宗教と創造とは、何でしょうか。 創造とは、何でしょうか。 創造と、創案・発明との間に、違いが、あるのでしょうか。 私たちは先日、優秀な医師と話していました - 本当に一流の医師です。 金儲けをする医師ではなく、良い頭脳をもった良い医師です。 彼は、言っていました - いつも活発化させられる 頭脳の一定の部分がある、と。 私は、間違った解釈をしているかもしれません。気をつけてください。 それについて、語り手が言っていることを、全面的には受け入れないでください。 彼は、私が知らない何か専門用語を、言いました - 病気になるにつれて、少し鈍くなる頭脳の一定の部分、 年を取るにつれて、さらに鈍くなる部分が、ある、と。 その頭脳の内の部分は、復活させられ、生かされうるのかどうか。ですね? 受け入れないでください。 眠らないでください。 私たちは、それについて話していました - 私は今、それに入らないでしょう。これはあまりに複雑であるからです。 で、創案・発明は、何でしょうか。 創造は、何でしょうか。 宗教は、これに関心があるのです。 頭脳は、あらゆる種類の物事により、条件づけられ、形作られ、枠に入れられています - 共同体、あなたが読むこと、聞くことによって、です。 何らかの観念、何らかの崇拝、何らかの神々を普及させてきた 司祭者すべてによって、です -そのすべてが、私たちの頭脳を 、条件づけてきました。 私たちの頭脳、あなたのと私たちの 頭脳 - その頭脳は、いったい、創造とは何かを、理解できるでしょうか。 または、それは根源的に、知識に基づいています - 知識は、経験、集めること、学ぶこと、記憶することなどです。 その頭脳は、測量可能でないものを、理解できますか。 理解されますか。 私たちは、幾らか一緒にここにいますか。
52:59 私たちは測量します。ですね? 私たちは測量します。それは、比較する、判断する、評価する、という意味です。 私たちは、いつも比較しています- 自分自身を他の何かと、です。 一人の画家をもう一人の画家に対して、 一つの詩歌を、もう一つの詩歌に対して、 ベートーヴェンをバッハなどと、モーツアルトに対して比較する - モーツアルトをそこに含めさせてください。 で、創案、発明は、知識に基づいていませんか。 どうか、私たちはともに、それについて話し合っています。 知識がないなら、創案、発明はありません。 私たちは、何か新しいものを見つけるには、知識の背景を、持たなければなりません。 それは創造でしょうか。 または、創造は、何か全然、時と思考の外のものなのでしょうか。 これは、宗教的な頭脳、宗教的な性質の 問題の一つでした。 たぶん最大の問題です。 私たちはもはや、冥想(メディテーション)という言葉を、けっして使わないでしょう。 あなたが気にされないことを、願っています。 その言葉はまた、サンスクリットで測量をも、含意しています - 定評のある(英語の)辞書類においてもそうであるように、です。 測量。 布と、素材のものすべての測量だけではなく、 また、私たち自身を何かに比べて測量することも、です。 測量は、(古代)ギリシャ人たちにより、創案されました - たぶん彼らより前に、です。 測量なしに、テクノロジー的な世界はありません。 私たちは、自分自身において同じその原則を、続けていきます。 私たちはいつも、自分たちが今日どうであるかを、測量していて、 明日が同じになることを、望んだり、それが異なることを、願います。 それは、いつも比較すること、判断すること、評価することです。 その(メディテーションという)言葉。 様々な形の冥想をもたらしてきた 導師たちにより、破損されてきたその言葉。 私たちは、その言葉について、もはや議論しないでしょう。それは愚かな言葉になったからです - 一定の姿勢で座る。一定の形で呼吸する。 集中する、それら。ものすごい努力をする- 何を達成するため、ですか。 ロバの前の何かニンジンですか。 で、私たちは、頭脳をどう鎮めるかに、関心を持つべきではない
57:05 - それは、相当にたやすい。 ですが、全的な注意に、関心を持つ。 何かに対してや、何かについての注意ではない。 集中より違っている 注意の性質 - 全面的に違っています。 集中は努力です。 一つのことや幾つものことに 焦点を合わせることです。それは習慣になる- 飛行中のパイロットのように、です。 で、注意深いことは、可能でしょうか。 そのとき、そこには、偽善、ふりがありません。あなたは注意しています。 注意には、完全な静寂があります- あなたが注意するとき、です。 その注意には、境界がありません。 それは注意することです。 「私は注意している」は、ありません。 ただ注意だけがある。 どうか、考慮してください。 これについて、ともに相談してください。
59:05 で、創造とは何でしょうか。 最初の細胞ではない。また、私たちがどう進化してきたのかと、それらでもない。 私たちは、神がこれらを創造した、と言ってきました。 反対に、私たちは、神を自分たちのイメージに、作ってきました。 私たちは、自分たちなるものの中から、上のあそこに、あの哀れなやつを、作ってきました。 私たちは、彼に、自分たちに欠けている性質すべてを、与えてきました - 憐れみ、慈善、 愛、遍在性、智恵と、その他すべての事柄を、です。 創造とは何でしょうか。 頭脳は、私たちの神経すべて、活動すべて、 存在すべての中心です - それがどんなに小さくても、です。 その頭脳は、創造の無量性を理解できるでしょうか。 または、頭脳を越えたものが、何かあるのでしょうか。 さて、どうか気をつけてください。語り手が言っていることを、何も受け入れないでください。 これが、学ばなくてはいけない最初のことです - いわゆる霊的なことを、何もけっして受け入れない。 それはまったくの戯言です。 霊的な権威はありません。 医師、科学者の権威 - それは、異なった事案です。 警察官は権威を持っています - 特にスイスでは、です。(笑) ものすごい! 私たちはかつて、それに捕らわれていました! 頭脳は、測量可能でないものを、本当に見る能力が、あるのでしょうか。 私たちは、それについて話をできます。 私たちは、それを創案、発明できます。 私たちは、測量不可能なものがある、と言えます。 それらは、たくさんの言葉を意味しています。 しかし私たちは、すっかり異なった質問をしています - 頭脳は、 時、記憶、思考、経験、その他すべてから、作り上げられていますが、 その頭脳はいったい、無制限なものを、理解できるでしょうか。 質問を理解できますか。 それは本当に・・・ または、他の何かがある - それは、頭脳ではなくて、精神です。 創案しないでください。 すると、私たちは迷っています。 私たちは、互いに訊ねています - 私たちが当面、精神と呼ぶであろうものが、何かあるのでしょうか。 私たちはその言葉を、変えるかもしれません。 頭脳ではない精神が、あるのでしょうか。 それのみが、無量であるものを見られる、そういうものが、あるのでしょうか。 そのとき、その精神は、頭脳へ疎通できるが、 頭脳はそれへ疎通できない。 理解されましたか。 私たちは、互いに訊ねています。 私たちが知っているような頭脳は、無量の能力を、持っていますが、 とても小さくされてきました。 コンピューターは、何かとてつもないものです。 それはたぶん、私たちの生に取って代わるでしょう。 それはたぶん新しい産業です。 コンピューターは、私たちの生を形作るでしょう。 それはすでに、静かにゆっくりとそうしています。私たちはそれに気づきません。 私たちは、大変多くのこれら有識者へ、話をしてきました - それを構築しつつあるコンピューターの専門家です。 彼らは、人間の頭脳に何が起きるかに、関心がありません。 質問を理解されますか。 彼らは、それを創造することに、関心があります。 ああ、それを創造するのではなく、構築することに、です。そのほうが、良い言葉です。 コンピューターが、私たちの生に取って代わるとき、私たちの頭脳に、何が起きますか。 それらは、より良く、はるかに速い。急速です。 それらは一秒で、千の記憶を語ってくれるでしょう。 で、それらが取って代わるとき、私たちの頭脳に、何が起きようとしていますか。 次第に萎みますか。 または、徹底的に娯楽へ、エンターテインメントへ 使用されますか。 どうか、これらに向き合ってください。 後生です!これは起きつつあるのです! テレビでの長いスポーツ記録すべて。 それは、ますます長くなりつつあります。 クリケット(競技)には、十分間が使われます。 南アフリカで起きつつあることには、二分間です。 で、娯楽産業が、取って代わろうとしています。 どうか、これらに向き合ってください。 宗教的な娯楽 - それもまた、取って代わってきました。 で、私たちは、いつの時も、娯楽で楽しまされています。 私たちは、ここでの会合を、それの一部として、扱います。 そうではないことを、私は保証いたします。 これらは、ひどく深刻です。
1:06:37 で、頭脳はいったい、万物・宇宙を、理解できるでしょうか。 彼らは、金星はこれほどの気体、これほどの金属等々であると、言えます。 しかし、その叙述、性質、味わいは、金星ではない - それの美しさ、それのとてつもない静けさではない。 私たちの頭脳は、そのすべての無量性を理解するように、静かでありうるのでしょうか - 永久におしゃべりし、おしゃべりし、おしゃべりするのでなくて、です。 その頭脳は、とてつもなく単純になり、ゆえに、 とてつもなく微妙になりうるでしょうか。 その頭脳は、その微妙さの器量(があり)、時と思考とその他すべての 大いなる単純さの、無量の感覚の能力があるなら、 そのときおそらく、あの精神は - それは頭脳ではない- それへ疎通できるでしょう そのとき、頭脳はあれへ疎通できません。明白です。 私たちは、あれと疎通するために、まさに最善を尽くしています - あらゆる種類の仕掛け、 あらゆる形の制御、犠牲をし、誓いを立てて・・・ですね? そして、あのものはけっして - それには、けっして触れられません。 宗教的な精神、宗教的な頭脳は、 いつも、大いなる静寂と孤独の背景を、持っています。
1:08:55 終了しました。 どうか、立ち上がっていただけるでしょうか- 私も立ち上がれるように、です。