BR7879CBS2 - 自己なしの精神の状態が、ありますか。 home
仏教学者たちとの議論 第2回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1978年6月23日

0:22 クリシュナムルティ: どうぞ。 あなたは、始めたいと思われました。
0:26 ワールポラ・ラーフラ: ええ。今朝とこの午後、 私は、自分にとって明瞭にするために、あなたに、 三つか四つのことを、お訊きしたいと思います。 これらの問いは、長い間・・・
0:41 K: 少し大きな声で、お話しください。
0:44 R: これらの問いは、長い間、私の心にありましたし、 しょっちゅう私は、あなたのことを考えました - あなたと会って、 これらのことについて議論したい、と。 このような場所で、ではなく、 私的に、あなたと私との間で、です。 ですが、この機会を得ることは、 可能でありませんでした。 今、最終的に私は、この手配をしてくださった ことについて、ナラヤンさんに感謝しています。 私たちは、昨日、 或ることについて、継続したと、思います。 あなたは、最後のことを 仰っていたと、思います。 それは、貪欲についてであったと、私は 思います - 悪いこととしての、です。 その観念は、言葉により示されます。 ですが、言葉なしに、それが見えるなら、 それは、同じことではないかもしれません。 1:30 もちろん、それは全くそうです。 なぜなら、そのものが見えるとき、 そのもの自体は、言葉を持っていないからです。 仏教用語には、 三つの水準の知識が、あります - 一つは、聞所成の智恵です。 すなわち、 私たちが、学ぶのをとおし、 書物、教師より、知恵、一定の知識を、 得るというものです。 それから、さらなる発展が、あります - 思所成の智恵、 すなわち、その、あなたの知識に応じて 考えること、熟慮することにより、 得る知恵です。 やはり言葉の内です。 それは、やはり言語の内です。 ですが、最高の知恵は、 修所成の智恵です。 それは、言葉を越えて行きます。 それは、言葉を持ちません。それは、 名を持ちません。それは、用語を持ちません。 2:44 それは、そこであなたは、言葉なしに そのものを見る、という意味です。 そのものを見るとき、 すべての私たちの反省、蓄積された意味は、 消え去ると、あなたが仰ったとき、 それが、仰った意味だと、思います。 それが、私がそれを理解したさまです。 それが、あなたが仰った意味なのか どうかを、私は知りません。
3:17 K: おそらく私たちは、 それに入るでしょう。 ですが、あなたはまた、何か他の質問を したいと思うとも、仰りました。
3:24 R: そのとおりです。それは、とても 興味深いです。それを許してくださるなら、 そのために私は、あなたに大いに感謝しています。
3:31 K: いいえ、まったくです。
3:33 R: これらは、長い間、 私の精神にあったことです。 あなたは、仏教用語で、阿羅漢(アラハント) という言葉を、ご存じです。 阿羅漢(アラハント)は、 真理を悟った者、解脱した者、 自由である者です。 それは、きわめて有名な用語です。 その問いは、ブッダに対して、 弟子たちにより、様々な人々により しょっちゅう、されました - 阿羅漢の死後、彼には 何が起きるか、です。 そのとき、その人は訊ねました - 「彼は、その死後に存在しますか」と。 ブッダは、「いいえ」と言いました。 「すると、彼は存在しませんか」。 ブッダは、「いいえ」と言いました。 「すると、彼は存在し、なおかつ、存在しないの ですか」。ブッダは、「いいえ」と言いました。 4:32 「すると、彼は存在しないし、 なおかつ、存在しないのでもない」。 これらは、四句、四つの隅、です。 彼は、言いました - 「いいえ。 それらの立場のどれでもない - 存在するとか、 存在しない、有るとか、無いとかは、 あの状態に適用できない」と。 それらすべての立場、 相対的で二元論的な用語は、 私たちの知識の内、私たちの経験・ ・・ 経験的世界の内でのみ、使われます。 しかし、これは、それを越えています。 ゆえに、 それらの言葉のどれをも、適用できません。 で、この答えは、 あらゆるところに、あります。 多くの場所で、彼は、 これらの質問をされました。 これに対して、 あなたは、何と仰りますか。 彼は、存在するとか、存在しないとか、 言えない、と言いました。
5:35 K: 私たちは、ともに 話し合えるでしょうか - 生きるとは何なのかと、 死ぬとは何なのかと、 死んだ精神、または、 死ぬ過程にある精神の状態とは、 何なのかを、です。 私がそのように表すのは、その問いに 答えることの助けに、なりうるのでしょうか。
6:15 R: 私は知りません。
6:17 K: そうね、結局のところ、阿羅漢は、 インド思想、ヒンドゥー思想の中でもまた、 知られていると、私は思います。 なぜなら、 私は本を読んできたわけではないが、 私は議論してきました。  

R: もちろんです。 あなたは、その用例に通じておられます。
世界中の人間たちは、自分に分かるかぎり、 いつも探究しているか、信じています - 死とは何なのか、 死後に生があるのか、継続があるのか、 そして、継続がないのなら、そもそも 生きることの意味は、何なのか、と。 生はとにかく、こういう怖ろしい事柄です - たくさんの困り事、心配、恐れ などなどが、伴います。 適切に、正確に生きることへの 報賞が、ないのなら、 良いこと、親切であり、尊いこと 等の意味は、何ですか。 私たちは、あなたの問いに、その視点より、 接近できるのでしょうか。 または、あなたは、 いかなる自己をも持たない精神の状態は、 何なのかを、訊ねたいですか。
8:04 R: そのとおりです。そのとおりです。 それが、阿羅漢です。
8:07 K: それが、私が取りかかりたいことです。
8:09 R: そのとおりです。それは正確です。 K: ええ。
8:11 私たちはそれへ、そのように入れるのでしょうか。 R: それは良い接近だと、思います。
8:17 なぜなら、それが阿羅漢であるからです - いかなる自己をも持っていない者、です。
8:27 K: それは可能ですか。 私たちは探究しています。
8:30 R: ええ。
8:31 K: 私は、可能であるとか、ないとか、 言っていません。私たちは探究しています。 探検をとおして進行し、見出しています。 信じていたり、信じていなかったり していません。  

R: ええ。
K: で、自己とは何ですか。 名と形態。

R: いえ・・・
K: ちょっとお待ちください。 私に探究させて ください。私たちは、探究しています。 形態、身体、組織体、 名。 名は、それ自体を 身体と同一視します。 一定の特徴が、それ自体を 「私」と同一視します - 私は強い。 私は弱い。私は良い性格を 持っている。私は悪くない、と。 で、特徴が、思考により 「私」として、同一視されます。 傾向が、思考により、 「私」として、同一視されます。 経験、蓄積された知識が、 思考により、 「私」として同一視されます。 「私」は、私が所有するものです - 私の資産、私の住宅、私の家具、 私の妻、私の書物です。 10:09 そのすべて、暴力、楽しみ、恐れ、苦悶、 そのすべてが、名とともに、 形態、同一視とともに、 自己を構成します。 で、自己の根は、何ですか。 自己の根は、 取得された経験ですか - 私は探究していますよ - 取得された経験。 自己 - 私たちは、それの まさしく根を、探究しています。 それの単なる表現だけを、ではない。 よろしいですか。 私は、だいじょうぶですか。 私はちょっと、笑いたいです!
11:18 R: ええ。それはとても重要です。
11:31 K: で、同一視の過程全体 - 私の住宅、私の名前、私の所有物、 私がなるであろうもの、 成功、権力、地位、威信。 同一視の過程が、自己の本質です。 同一視がないなら、 自己がありますか。 理解されますか。
12:13 R: ええ。付いていっています。
12:16 K: で、この同一視は、 終わりになりえますか。 すなわち、同一視は、思考の動きです。 もしも思考が、自体を あれと同一視して、 「あれは私の家具だ」と 言わなかったなら - なぜなら、それは楽しみ、地位、安全、 それらを与えてくれるからです。 で、自己の根は、思考の動きです。 あなたは・・・
13:02 R: ええ。
13:11 K: で、死は、その動きが 終わることです。 または、死は、その動きの、 次の生への継続ですか。 理解されますか。
13:28 R: 十分に、です。全くです。
13:31 K: アラハント(阿羅漢)、 アラハット、または、解脱した人、 なぜ彼は、終わりまで、 待つべきでしょうか - 死と呼ばれるものに、 自らが到るまで、です。 で、私たちは、自己のまさしく根は、 時の中、距離の中の 思考の動きであることを、悟るとき - ここからそこへ、です。 そして、すべての葛藤、悲惨、混乱が、 - 思考により創り出されています。 よろしいですか - 自己なのです。 で、思考が終わりになるとき、 それは、生きている間の、 一つの形の死です。 R: ええ。
14:43 K: いいですか?
14:45 K: さて、思考は、 終わりになりえますか。
14:47 それをもたらすために、または、 思考を終わらせたくて、 私たちは冥想します。 私たちは実践します。 私たちは気づきます。 私たちは、いわゆる冥想の拷問 すべてを、経てゆきます。 よろしいですか。 あなたはそれに、同意されるでしょうか。 R: 通俗的な宗教です。
15:18 K: いえ、いえ。
15:21 そうね、どうぞ、私が 指摘してもよろしければ、 通俗的な・ ・・普通の人は、 これらに興味を持ちませんね。 彼は、自分のビールがほしいのです - 彼は、何がほしいにしても、 これらに興味を持ちません。 なぜなら、おそらく、 間違った教育、社会的な状況、 経済的な地位、環境的な影響力、 そして、たぶん宗教が、その人を、下のそこ、 通俗的に留めておくのを、助けてきたからです。 エリートたちは、他のどこかにいる - 教皇、枢機卿たちは、です。 よろしいですか。 で、私は、指摘してもよろしいなら、 私は、「通俗的」とは言わないでしょう。 16:24 それは、人間的な傾向です。 それが、私たちが話をしているすべてです。 あらゆる人間は、何らかの物事と、 自分自身を同一視してきて、 それで、自分自身を 条件づけてきました - 神と、涅槃と、解脱と、 天空と、天国などと、です。 さて、生きている間に、 その死、すなわち思考の終わりは、 起こりえますか。 自らの生涯の終わりに、ではない - そのときそれは、墓場での放棄です。 何の意味も、ありません。
17:14 R: ええ。あなたが、生涯の終わりまで、 死まで待つことは必要でない、と仰ったとき、 私は、あなたに同意してもいいですか。 ブッダは、同じことを指摘しました。 この問いが彼に出されたとき、 その問いはまた、訊ねられました - ブッダの死後、彼に 何が起きるだろうか、と。 彼は、弟子たちに訊ねました - 「ブッダとは何ですか。 それはこの身体ですか」と。 そのように、あなたが仰ったように、 名、形態。 ええ、これら、です。 まさしく、あなたが仰ったこと、 名と形態は、仏教用語で、 名色(ナーマ・ルーパ)と呼ばれます。
17:57 K: 名色(ナーマ・ルーパ)。 サンスクリットでも、そうです。
18:05 R: 弟子は、「いいえ、いいえ」と 言いました。 すると、あなたは、今、生きていてすら、 ブッダを、ぴったり指し示せない。 そのとき、死後、どうして あなたは、言えるのか、と。
18:18 K: ええ。もしお訊きしてもいいのなら - 私を不遜だと思われないことを、願っています - なぜ私たちは、ブッダを持ち込みますか。 私たちは人間として、話しています。
18:28 R: まさしく、私は、ブッダの視点より、 その問いを取り上げたからです。
18:33 K: ああ、いえ。人間として 私は、死後に何が起きるかを、 知りたいと思います。 または、死の意義とは何かを、です。 または、日常生活を、僧侶として、 聖者、それらのものとしてではなく、 日常生活を、自己なしに、 生きられますか。
19:04 R: もちろん、私の質問は、 そうではありませんでした。 真理を悟った人物、 解脱してしまい、自由な人、 彼にとって、何が起きますか。 それが問いです。
19:20 K: 私はけっして、その問いをしないでしょう。 なぜなら、彼は、これが起きると、言うかもしれない。 彼は、あれが起きると、言うかもしれない からです - または、何も起きない、と。 するとそれは、私にとって 理論になります - それは観念です。
19:44 R: いえ。私は、あなたから、 それよりもう少し多くを、望んだのです。
19:48 K: ああ、あなたは、私より望みますか。
19:51 R: 理論を、ではない。
19:54 K: 話をしているこの人物より 望むのなら、 あなたは、彼が探究しているように、 探究しなくてはいけません。 ゆえに、彼は訊ねます - 日常生活において、 生きることは、可能ですか。 自らの存在の終わりにおいて、ではなく、 日常生活を、この同一視過程なしに、です。 それが、自己の構造と本性を もたらします。 それは、思考の結果です。 私が生きている間に、 思考の動きは、終わりえますか。 私が死ぬとき、何が起きるのか、 というより、それが問いです。 「私」は単に、思考の動きです。 21:04 思考自体は、きわめて 制限されています。ですね? それは、広大な動きの中の一欠片です。 それは、小さな欠片で、砕けています。 で、思考は、制限され、 砕けたもの、断片は、 何を創り出そうと、 やはり制限され、砕けて、 断片的であるでしょう。 いいですか? で、人間は、あなたや私や、 私たちの誰もは、 私たちは、思考の動きなしに、 生きられますか - それが、自己の本質なのですが。 仮に、私は「ええ、それはできます」と 言う、とします。 それは、あなたにとって、 何の価値が、ありますか。
22:18 イルムガルト・シュレーゲル: ひとたびその同一視が、本当に壊れたとき、 ひとたび思考と「私」の同一視が 本当に壊れたとき・ ・・ K: ああ、いいえ。壊れた、ではない。終わるのです。
22:33 S: それが、私の言った意味です。終わったのです。
22:35 K: 何かが壊れたとき、 それは、継続するかもしれません。
22:37 ですが、それは終わることです。
22:43 S: それは二度と、同じ形で、 戻ってこられません。 それは、取消不可能に、終わることです。
22:49 K: 私が言っていることすべては、 仮に、語り手、この人物が、 「ええ、それは可能です。 私は、それが可能だと 知っています」と言う、とします。すると、何ですか。 それは、あなたにとって、 何の価値がありますか。
23:07 S: それが、私が個人的に、私たちが 議論できたらと、望んでいることです。
23:10 K: 私はそれへ、来ようとしています。 それは、あなたにとって、何の価値ですか。 あなたは、それを受け入れるのか。 あるいは、あなたは、「バカなことをいうな」と 言って、歩み去るのか - それは可能ではないからです。 そして、 あなたは、それを放っておきます。 しかし、あなたが探究したくて、 「ごらん。 それは可能ですか。 見出しましょう」と言うなら - 観念としてではなく、日常生活の 実際として、見出しましょう。 よろしいですか?
24:01 R: ええ。 K: 誰か、加わってください! ナラヤン: ラーフラ博士、私たちは、 仏教冥想や、冥想、準備、実践、 注意深さ(マインドフルネス)の価値という この脈絡で、話してきました。 仏教文献に言及される、 それらすべてのことの 価値は、何ですか - それは、思考が終わることとの関係において、 とても重要なこととして、実践されますが。
24:38 R: 思考や自己が、終わることですか?
24:42 N: 言うならば、念住、 注意深さ(マインドフルネス)ですね。
24:45 R: 念住、注意深さ(マインドフルネス)、 または、むしろ、気づきの存在、 注意深さ(マインドフルネス)の存在です。 ええ。 念住は、多くの様相を 持っています。一つだけではない。 最も重要なことは、 あらゆる物事における 注意深さ、気づきです。 今でさえ、ここで私たちが することは、冥想です。 それは、樹のもとや洞窟で、脚を組んで 彫像のように、座ることではありません。 それは、けっして冥想ではない。 それは、外面的な実践だけです。 多くの人々は、それを、 冥想であると取ります。 私たちがここですることを、誰も、 私たちが冥想しているとは、考えないでしょう。 25:28 ですが、私にとって、これは、 最も深い種類の冥想です。 また念住においても、示されています。 これは、法の勝観と呼ばれます - 様々な主題、話題、物事、教義について、 見ることや、認めることや、 観察することや、気づくことです。 そのような物事、 様々な物事について、です。 それが、その知的な側面です。 それからまた、冥想があります - 自らがすることすべてへの 注意深さ(マインドフルネス)です。 食べる、飲む、歩いて行く、話をする - あらゆる物事が、 注意深さ(マインドフルネス)です。 そのすべてが、彼が言うことへ、 つながります。 N: それは何へ?
26:12 R: それは、彼が言うことへ、つながります。
26:13 N: それが、私が本当に 取りかかりたいことです。
26:15 R: それは、あなたを、自己の思考過程を 終わらせるよう、導きます。
26:18 N: ええ。
26:27 K: あなたが、私のことを、不遜だとか、
26:28 ブッダの言ったことへ不敬だとか、 お考えにならないことを、望んでいます。 私個人は、これらのものを、 何も読んだことがありません。 私は、これらについて、何一つ 読みたいと思いません。 それらは、正確であるかもしれないし、 正確でないかもしれない。 それらは、幻影のもとにあるかもしれないし、 幻影のもとにないかもしれない。 それらは、弟子たちにより、 組み立てられたのかもしれないが、 弟子たちが、自らの導師に関して、 することは、おぞましい - あらゆる物事を歪めますね。 で、私は言います - ご覧なさい。 私は、誰かが私に、何をすべきかとか、 何を考えるべきかを、語ることより、 始めたくないのです。 私は、何も権威を持ちません。 で、私は言います - ご覧なさい。 人間として、苦しむ、苦悶、セックス、 害悪、恐怖、その他すべてを、経てゆく。 それらを探究する中で、 私は、その点に来ます - すなわち、思考です。 27:40 それだけです。 私は、世界の文献すべてを、 知らなくてもいい - それは、さらに考えるのを、 条件づけるだけでしょう。 で、そのように表すのを、 許してください。 私はそれらを、脇に払いのけます。 私たちは、こうしてきました。 キリスト教徒たち - 私は、キリスト教徒たちに、会ってきました。 ベネディクト会の修道士たち、 イエズス会の人たち、偉大な学者たちに、 です。 いつも引用し、引用し、引用し、 「これはそうだ。 これはそうではない」と 信じています。 理解されますか。 私が不敬だと、お考えにならない ことを、願っています。
28:26 R: いえ、まったく思いません。 私は十分、あなたに同意しますし、 それが、私の態度でもあります。 私は、これを検討するために、それを 引用していて、話しています。
28:39 K: いいえ、あなたはすでに・・・私は、何が事実で あるかより、出発するだけです - 私にとって、です。 何か事実なのか。 誰か哲学者と宗教的な教師と 司祭者によってではなく、 事実です - 私は苦しみます。 私は、恐れを持っています。 私は、性的な欲求を、持っています。 私はどのように、これらすべてのものすごく 複雑な物事を、取り扱うことになりますか - それらは、私の生を作るのです。 私はすっかり悲惨で、不幸せです。 そこから、私は出発します。 誰かが言ったことから、ではない - それは、何の意味もありません。 付いてきておられますか。 私は、ブッダとかを見くびっていません。 お許しください。私はそうしないでしょう。
29:35 R: それは存じています。私は、あなたがブッダへ 最高の尊敬を、持っておられるのを、存じています。 それは分かっています。 ですが、私たちは、同じ態度を持っていますし、 私は、あなたとともに、それを検討したいのです。 そういうわけで、私はその質問をしたのです。 理論として、ではない。
29:49 K: いいえ。すっかりそうでもない。 そう申し上げるのを、お許しください。 すっかりそうでもない。 私は、何か私たちのみんなに 共通していることより、出発します。 ですね? ブッダに沿って、ではなく、 何かキリスト教の神や、ヒンドゥーや 何かの集団に沿ってではない。 私にとって、 それらは、全的に不適切です。 それらは、何の場所をも持ちません。 なぜなら、私は苦しむし、 私は、それをどう終わらせるのかを、 見出したいからです。 または、私は余生の間、 続けて行かなければならないのか - この苦悶、この残忍さ、 この性的な倒錯や性欲、 そうね、その他すべてを、です。 よろしいですか。 で、私は、このすべての根、 この混乱、不確実性、不安全、 苦労、努力の根は、 自己、「私」であると、見ます。 31:02 よろしいですか。 さて、「私」より 自由であることは、可能ですか - このすべての混沌を 産出する「私」より、です。 外的に、政治的、宗教的、 経済的、その他すべてでも、 また内的にも、 この常なる格闘、常なる闘い、 常なる努力を、産出するものより、です。 いいですね? で、私は訊ねています - 思考は、終わりえますか。 それで、思考は、 何も未来を持ちません。 終わるものは、 そのとき、全的に違った始まりを、 持ちます。 「私」の始まりではない。 終わって、後で再び 拾い上げるのではない。 よろしいですか。 で、どうすれば その思考は・・・どうすれば、ではない。 どんな様態で、その思考は 終わりえますか。 それが問題です。 ブッダは、それについて 話したにちがいありません。 よろしいですか。 32:17 R: ええ。 K: キリスト教は、私が知るかぎり、 この点に触れたことがあるとは、 私は思いません。 彼らは、「あなた自身を神に、 キリストに、捧げなさい」、 「あなた自身を彼へ放棄しなさい」と 言いました。 ですが、自己は、つづいていきます。 彼らはまったく、それに 入ったことがありません。 ただヒンドゥー教徒と仏教徒だけが、 そうしてきました。 おそらく、幾らかの人が、です。 で、この思考は、終わりえますか。 そのとき、司祭者がやってきて、言います - 「ええ、それは終わりうる。 ただ、あなた自身をキリストと、ブッダと 同一視しなさい」 - よろしいですか - 「同一視し、あなた自身を忘れなさい」と。
33:11 R: それが、キリスト教の態度です。
33:13 K: キリスト教の、です。 また、ヒンドゥー教徒の一部も、です。
33:17 R: でも、仏教はそうでない。私は それを、擁護しなければなりません。
33:21 K: 知っています。 そうです。
33:24 N: 仏教思想の大変多くもまた、退廃して、 こうなったと、思います。
33:28 R: ええ、ええ。もちろん、退廃した。 すなわち、一定の思想の学派が、です。 ですが、私は、ブッダの教えに沿って、 言おうとしています。
33:38 K: ああ、いえ。お分かりですね・・・
33:40 I.シュレーゲル: 私たちは一番良くても、 何かに、もたれ掛かることが、 人間の本性である、と言うのでしょうか。 これは、自動的に起きることですし、 これは、私たちが離れようと していることです。 
33:56 R: ええ。 K: で、ここに私はいます。 普通の人間で、 相当に教育を受けています - 学校、専門校に沿ってではなく、 相当に教育を受けていて、 世の中が何を経て行くかを、 観察してきました。 そして彼は言います - 「私は世界です。 私は 世界より異なっていない。 なぜなら、私は苦しむから。 私が、この奇怪な世界を、創り出してきた。 私の両親、私の祖父母、 あらゆる人の父母が、 これを創り出してきた」と。 よろしいですか。 で、どうして、思考が終わることは、 可能でしょうか。 或る人々は、「ええ。 それは、冥想すること、 制御すること、 抑圧することです」と言います。 S: いえ、いえ。
34:46 K: 待ってください。
34:47 私は、或る人々は、と申しました。マダム。 S: もう一回、お願いします。
34:50 K: 或る人々は、「それを抑圧しなさい。
34:52 自己を最高のものと同一視しなさい」と 言ってきました。 それはやはり、思考の動きです。 或る人々は、 「感覚すべてを焼き尽くしなさい」と 言ってきました。 よろしいですか。 彼らは、それをやってきました。 このもののために、断食し、 あらゆることをやります。 で、私のような誰かが、やってきて、 努力は、自己のまさしく本質である、と 言います。 いいですね? 私たちは、それを理解しますか。 または、それは観念になったのですか。 私たちは、その観念を、実行しますか。 私が話していることを、理解されますか。 私の話が明らかになっているのか どうか、知りませんが。 すなわち・・・
36:00 ナラヤン: もしあなたが、努力は 自己のまさしく本質である、と仰るなら、 またもや、準備が、 当初の訓練が、ありますか・ ・・ K: いえ、いえ。
36:22 N: あの状況に来るために、です。
36:24 または、努力なく、そこに来ますか。
36:32 S: 私が、お話を理解したのなら - そうでないなら、訂正してください - あなたは、私がそれへ来るために行う まさに努力こそが、 それ自体がすでに、私の妄想に 寄与している、と仰っています。 K: 努力を行う者にとって、です -
36:47 S: ええ、ええ。 K: 彼は、すでに何か、より大きなものと 同一視してきましたし、 それに到るために、努力をしています。 それはやはり、思考の動きです。
37:02 S: ええ。それはやはり、取引です - 私がこれをするなら、とか、 これをあきらめるなら、 私はあれを得るだろう、と。
37:11 K: で、お訊きしてもよろしいなら、 あなたは、どのように聞きますか。聞く。 あなたは、どのように聞きますか。
37:21 S: 聞く。
37:27 K: 私のような人物が、言います - どの種の努力も、自己を強めるだけだ、と。 さて、あなたは、どのように その発言を、受け取りますか。
37:43 S: 私は、全面的に同意しています。
37:45 K: いえ、いえ。同意や不同意ではない。 ああ、神様! あなたは、どのように それを、聞きますか。 S: それに、突き当たらせます。
37:56 K: いえ、いえ。
37:59 D.ボーム: 私たちは、同一視を してきたのと同じように、聞きますか
38:03 - すなわち、一般的に私たちは、 過去をとおして、聞きますね。 自らの以前の観念をとおして、 自らが知っていることをとおして、です。 S: そうにちがいありません。
38:23 B: それは正しいですか。
38:26 S: 自らが開かれて、ただ聞けるなら・・・
38:29 K: ああ、いえ、いえ、いえ。 S: できませんか。
38:34 K: あなたは、食べるとき、 空腹であるから、食べています。 胃が食べ物を受け取ります。 食べ物を受け取るとの観念は、 ありません。 で、あなたは聞けますか。 聞く - 受け取るとの観念なく、 受け入れるとか、拒否するとか、 論争するとかの観念なく、 ただ発言を聞きますか。 それは、偽りなのかもしれません。 それは、 真実なのかもしれません。ただそれを聞く。 それをできますか。
39:28 S: 私は、ええ、と言うでしょう。
39:34 K: そのとき、あなたが そう聞くなら、何が起きますか。
39:43 S: 何もない。 K: いえ、マダム。
39:45 即時に、「何もない」と言わないで ください。何が起きますか。 私は、発言を聞きます - 思考が自己の根であるとの発言を、 思考の動きを、気をつけて説明された後に、です。 自体を、形態と名と、 これとあれと他のことと 同一視する思考の動きを、です。 で、よく気をつけて説明された後、 思考は、自己のまさしく 根であることが、言われます。 さて、あなたはどのように、その事実の 真理を、受け取りますか。 聞きますか - すなわち、思考が自己の根である、と。 それは観念、結論ですか。 または、それは、絶対的な 取消不可能な事実ですか。
40:55 R: 私にお訊きになるのなら、 それは事実です。 私は、それを聞きます。 それを受け取ります。それが見えます。
41:05 K: いえ、あなたは、 仏教者として聞いていますか - そのように表すのを、お許しください。 R: 私は、知りません。 
41:10 K: いいえ。 あなたは、知っているにちがいない。
41:11 R: 私は何をも、まったく 同一視していません。
41:12 私は、仏教者や非仏教者として、 あなたに、聞いていません。
41:17 K: 私はあなたに、お訊きしています。 あなたは仏教者として、 聞いていますか - ちょっと待って。 あなたは、ブッダについてと、 ブッダが言ってきたことについて 大変多くを読んできた人物として、 聞いていて、それで比較していますか。 ちょっと待って。 ちょっと待って。 それで、あなたは、聞くことより、 離れ去ってしまった。 いいですか? あなたは、聞いていますか。 私は、個人的になっていません。 お許しください。 R: ええ、ええ。
41:50 K: あなたは、聞いていますか。
41:51 R: ああ、あなたは、私について、 全く自由にしてくださっていい。
41:52 私は、あなたを誤解しないでしょうし、 あなたは、私を誤解しないでしょう。 私は、それについて、何も恐れを、 持っていません。
41:58 K: いえ、いえ。私は、あなたが私を 誤解なさるのを、まったく気にしません。 私はそれを訂正できます。
42:06 R: ええ。
42:10 K: あなたは、観念を、言葉を、そして、 それら言葉の含意を、聞いていますか。 または、あなたは、言語的な 了解の感覚なしに、聞いていますか - あなたは、それをすばやく 通りぬけてしまい、 「ええ。私は、それの絶対的真理が、 分かる」と言いますか。
42:45 R: それが、私が言ったことです。
42:47 K: そうですか。 R: はい。
42:47 K: いいえ。そのとき、 それは終了しています。
42:48 それは、何かものすごく危険なものを、 見るのに、似ています。 それは、済んでいました。 あなたは、それに触れません。 お分かりになるのかと・・・
43:09 S: なぜそれに触れませんか。
43:11 B: あなたが仰るように、 言葉をとおして聞く傾向が、 あるように、私には思われます。 その言葉は、同一視します。 自分は聞いていると考える間も、 その同一視は、やはり、 つづいていきます。  

K: ええ。
これが問題です。 それは、とても微妙です。 R: ええ。言い換えると、 それが聞いています。
43:32 あなたは見る中で、その言葉を その意味で使います。
43:38 K: いいえ。私は聞きます。 あなたが、私に何かを仰るとき - ブッダが言ったことを、です - 私は聞きます。 彼は、「ブッダが言ったことから、 引用しているだけだ」と、私は言います - 「だが、彼は、私が知りたいことを、 言っていない」と。 彼は私に、ブッダについて語っていますが、 私は、あなたが何と考えるかを、知りたいのです - ブッダが何を考えたかを、ではない。 なぜなら、そのとき私たちは、あなたと 私との間に、関係を確立しつつあるからです - あなた、ブッダと私との間に、ではない。 それがお分かりになるのか と、思われます。
44:18 R: それはまた、あなたが 他人の思考を聞いていた、という意味です。
44:24 K: 私は、あなたがブッダについて 仰っていることを、聞いていました。 私はただ聞いていました。 私は知りません。 あなたは引用しています。 たぶん、あなたが 引用していることは、完璧にそうだった・・・ あなたはたぶん、正確に 引用している、などです。 ですが、あなたは、自分自身を 私に開示していませんが、 私は、自分自身を あなたに、開示しています。 ゆえに私たちは、ブッダをとおして 関係を持ちます - 直接的な関係ではない。 お分かりになるのかどうか・ ・・ 私は、自分の犬を愛しているし、 あなたも、あの犬が好きです。 ですが、あなたは、あの犬を好きですし、 私たちの関係は、あの犬に 基づいています。 話が明らかになっているのか どうか、私は知りません。 私はブッダを、犬に対比していません。
45:29 S: 私は、あなたがしようと なさっていることを - しようとなさっているのではない - 言おうとしてもいいですか。 あなたが探しておられるのは、 あなたの発言に対する、 私たちの個人的な経験的な応答です。
45:47 K: いえ、いえ。 あなたの個人的な経験はまた、 他のあらゆる人の経験です。
45:57 S: 当然です。 K: それは、個人的ではありません。 S: それは個人的に、行われていますが。 なぜなら・・・
46:00 K: それは、たとえ・・・ 私たち、あなたと私が、苦しむとしても、 それは苦しみです。 私の苦しみとあなたの苦しみではない。 ですが、私自身を同一視するとき・ ・・ 苦しみとの同一視があるとき、 それは、私の苦しみです。 そして私は、「私はそれより 自由でなければならない」と言います。 ですが、世界の人間として、 私たちは苦しみます。 私たちは、他のどこかへ、 逸れていこうとしています。
46:34 D.ボーム: この同一視の問いは、 主なものであると、私には思われます。 それは、とても微妙です。 仰ってきたことすべてにもかかわらず、 同一視はやはり、つづいていきます。
46:43 K: もちろんです。
46:46 B: それは、私たちに 組み込まれているように、思われます。
46:52 S: これは、同一視は終わらせられるのか どうかの問いを、生じさせます - 私が正しく理解するなら、です。
47:03 B: 同一視は、自由に、開け広げに 聞くことを、阻止します。 なぜなら、同一視をとおして、 聞くからです。
47:12 K: 同一視とは、どういう意味ですか。 なぜ人間たちは、自分自身を 何かと、同一視しますか - 私の車、私の住宅、私の妻、私の子どもたち、 私の国、私の神、私の・ ・・ よろしいですか。 なぜですか。 S: おそらく、何かであるため、です。
47:31 K: なぜかを探究しましょう。
47:35 外的な物事と同一視するだけではなく、 また内的にも、私の経験と同一視する。 経験と同一視して、 「これが私の経験だ」と言う。 なぜ人間たちは、いつの時も これを経ていくのか。
48:02 B: 一つの段階で、あなたは、 私たちは、例えば自分たちの 感受、感覚と同一視する、と 仰りました。

K: ええ。
B: これは、とても強力だと、思われます。 私たちの感受と同一視しないとは、 どういうことに、なるのでしょうか。
48:19 K: ええ。 で、自らが聞くとき、 私は、自分自身を その事実と同一視するために、 聞いていますか - 彼が話している事実と、です。 または、まったく同一視がなくて、 ゆえに、私は、全的に違った耳で 聞く能力が、ありますか。 私は、自分の聞こえる耳で、 聞こえているのか。 または、私は、 全的な注意でもって、聞こえているのか。 理解されますか。 私は、 全的な注意でもって、聞いていますか。 または、私の精神は、さまよってしまい、 「やれまあ、これは、なかなか退屈だ。 彼女、または彼は、何について 話しているのか」と言い、 49:28 それで、私は外れているのか。 ですが、私は完全に注意し、 それで、ただ聞く行為だけが あるように、できますか - 他の何でもなく、同一視なく、 「ええ、これは良い観念だ。 悪い観念だ。 それは真実だ。 それは偽りだ」と言わずに、です - それらはすべて、同一視の過程です。 それらの動きのどれもなく、 私は聞けますか。 もし・ ・・ 私はそう聞くとき、何ですか。 思考は自己の本質である、 そして、自己がこのすべての悲惨を 創り出すとの真理を、です。 それは、終了しました。 私は、冥想しなくていい。 私は、実践に行かなくていい。 それは済んでいます。なぜなら、私は、 このことの危険が、見えるからです。 50:42 で、私たちは、自己の不在があるように、 完全に聞けますか。 彼は言います - 私は自己なく、何かを 見られますか、観察できますか、と。 それは私の国だ。 私はあの空を愛している。 それは美しい空だ、 その他すべてなしに、です。 で、どうぞ。 で、思考が終わること - それは、自己のまさしく根こそが 終わることか、それを断つことです。 悪い直喩ですが、 それを受けてください。 そういう活動的で注意深く、 同一視しない注意が、あるとき、 自己は存在しますか。 私はスーツが必要です。 スーツを得る中に、なぜ 同一視があるべきですか。 52:26 私はそれを得る。 それを得ることがある。 で、活動的に聞くことは、 感覚を聞くことを、含意しています - よろしいですか - 私の味わいを、 感覚的な動き全体を、です。 あなたは、感覚を止められない、というんです。 そのとき、あなたは麻痺しているでしょう。 ですが、私が、「あれは すばらしい味わいだ。 私はあれを、もっと持たなければ ならない」と言った瞬間、 同一視全体が、始まります。
53:09 B: 私には、それが人類の 一般的な条件だと、思われます - 感覚と同一視していることが、です。
53:14 K: もちろんです。
53:16 B: さて、私たちはどのように、それを 変化させようとしていますか。
53:18 K: それが問題全体です。 人類は、自体を、あらゆる物事と 同一視するよう、幾千年もの間、 教育され、条件づけられてきました - 私の導師、私の住宅、私の神、 私の国、私の王、私の女王。 つづいている、 それらの怖ろしい事柄です。
53:47 B: それらの一つ一つとともに、 感受があるのが、見られます。
53:51 K: それは感受です - それを あなたは、経験と呼びます。 さて・ ・・すみません。 私たちは・・・ R: で、私たちは、自分たちの論点に、 来るべきです。 
54:08 K: ええ、すなわち、
54:10 R: 私たちが始めたものに、です。 K: ああ、死ですね。
54:13 K: 自己が終わるとき -
54:23 それは終わりえます。明白です。 「私はなるだろうか」と、それらを言うのは、 最も無知であり、 最も知識の重荷を負った者、 自分自身を、知識と 同一視している人々だけです。 自己が終わることが、あるとき、 何が起きますか。 私の生の終わりに、ではなく、 頭脳が衰退しつつあるときではなく、 頭脳が、きわめて活動的で、 静かで、生きているとき、 そのとき、何が起きますか - 自己がないとき、です。 さて、あなたはどのように、見出せますか。 例えば、Xは、自己を 完全に終わらせた、とします - それを未来に、別の日に 拾い上げるのではなく、 それを完全に終わらせます。 彼は、「ええ。 自己ではない、全然 違った活動が、ある」と、 言います。 56:06 それは、私にとって、何の役に立ちますか - または、私たちの誰にとっても、です。 彼は、「ええ。 それは終わりうる」と 言います。 それは、すっかり違った世界、 違った次元です。 感覚的な次元ではなく、 知的に投影された次元ではなく、 何か全然違ったものです。 私は、彼は間抜けか、詐欺師か、 偽善者にちがいない、と言います。 それは何も・ ・・私は見出したいと思います。 彼がそう言うからではなく、 私は見出したいのです。 私は、人間として、 このものすごく醜い、残忍な、 暴力的な世界に、生きていて、 経済的に、社会的に、道徳的に、 その他すべてで、 自己なしに、生きられますか。 私は見出したいのです。 57:11 私は、見出したいのです。 観念としてではなく、 私は、そうしたいのです。 それは、私の熱情です。 そのとき私は、探究しはじめます。 なぜ、形態との、名との 同一視があるのか。 あなたが、Kなのか、Wなのか、Yなのかは、 さほど重要ではありません。 で、あなたは、きわめて気をつけて、 これを検討します - 自分自身を何とも、 感受とも、観念とも、国とも、 経験とも、同一視しないように、です。 理解されますか。 あなたは、それをできますか。 漠然と、時折にではなく、 見出すように、何かあなたが、 熱情をもって、強烈さをもって、 しなくてはいけないこと、です。 それは、私があらゆる物事を、その正しい所に 置かなければならない、という意味です。 58:38 いいですか。 なぜなら、私は生きなくてはいけないからです。 私は食べ物を持たなくてはいけない。 私は自分自身を、これやあれの食べ物と 同一視しなくてもいい。 私は、正確な食べ物を食べます。 それは終了しています。 ゆえに、それは、自らの正しい所を、 持っています。 ですが、すべての身体的な要求、 セックスが、あります。 それを、その正しい所に、置いてください。 それを正しい所に置くよう、 誰が、私に語るのでしょうか。 理解されますか。 私の導師、教皇、 何か聖典ですか。 彼らがそうするのなら、 私は自分自身を、彼らと同一視します。 なぜなら、彼らは私に、物事をその正しい所へ置く 助けを、与えてくれつつあるからです - それは、まったくの戯言です。 よろしいですか。 教皇は、私に語れません - セックスは、 その正しい所を、持っています。 彼は、離婚するな、結婚しろ、 あなたの結婚は、神とともにある、と 言います - それらを、です。 59:53 そして私は、行き詰まっています。 なぜ私は、教皇に、 服従すべきでしょうか。 または、導師や聖典や政治家に、です。 で、私は、セックスやお金にとって 正しい所は何なのかを、 見出さなくてはなりません。 よろしいですか。 正しい所は、何ですか。 セックスにとって、正しい所は何なのかを、 私はどのように、見出すのでしょうか - それは、最も強力な、 切実な、物理的な要求です。 それを、宗教的な人々は、「切り捨てよ、 破壊しろ」と言います。 よろしいですか。 「それを抑圧しなさい。 それに対する 誓いを立てなさい」、その他すべてを、です。 私は、「すみません。 それは私にとって、 何一つ意味がない」と、言います。 で、私は、その正しい所が 何なのかを、見出したいのです。 1:00:58 私はどのように、見出すのでしょうか。 私は、それへの鍵を持っています。 いいですか? すなわち、感受との不同一視です。 それが、その鍵なのです。 よろしいですか。 で、感受との不同一視です。 感受は、現代の経験に 翻訳されます - 「私はセックスを、 経験しなければならない」と。 いいですか。 で、すなわち、 感受との同一視が、自己を作ります。 で、感受と同一視しないことは、 可能ですか。 ええ、感受。 私は空腹です。 ですが、セックスは、もう少し強力です。 で、私は、それへの鍵を、持っています - 理解されますか - それの真理です。 よろしいですか。 で、ええ、私は性的に感じる。 いいですよ。 1:02:44 不同一視 - それが、それの真理です。 私は本当に、それの真理が見えるなら、 そのときセックス、お金、あらゆる物事が、 その正しい所を、持つのです。
1:03:08 R: 言い換えると、私はこう言っていいですか - あなたは、自己なしで、見られる。 見なければならない。または、見る、と。
1:03:19 K: ああ、いえ、いえ、いえ。
1:03:22 R: 同一視が自己です。 K: いいえ。私は、言いました -
1:03:27 私は鍵を持っている・・・いや、私が、ではない。 感受との、これとの、あれとの同一視は、 自己の構造を築くとの真理が、ある、と いいですか。 それは、絶対的な、取消不可能な、 熱情的な、長続きする真理ですか。 または、それは、私が 受け入れた観念だけですか - 「ええ。 それは真実だ」と。 私は明日、その観念を 変化させられます。 しかし、このものは、取消不可能です。 お金は、持たなければなりません。 お金は、私に自由を与えてくれます。 お金はあなたに、好きなことを できる自由を、与えてくれます。 自由、セックス - あなたはそれが欲しいなら、です。 お金は、あなたに 旅行、権力、地位の感覚を、 与えてくれます。 そうね、その他すべてを、です。 で、お金との不同一視です。 よろしいですか。
1:04:52 B: それは、何へでも、 欲望の終わりを、意味します。
1:04:57 K: いいえ。終わりに、欲望は、ほとんど・・・ B: ・・・意味を持ちません。 ですが、それは、私が死んだ植物人間である、 という意味ではありません。
1:05:14 B: あなたは、同一視が欲望に、 過剰な意味を与える、と仰っていますか。
1:05:18 K: もちろんです。 で、あらゆる物事を、 その正しい所に置いてきて - 「置いてきた」ではない。 私はそれを置きません。 それは起こります。 なぜなら、私は、 このことの真理が、見えたからです。 で、あらゆる物事が、 その正しい所に、収まります。 いいですか? いいえ、私はあなたに、語れません。私はあなたに、 「ええ、正しい」、「間違っている」とかを言えません。
1:05:48 R: いえ、いえ。私は、 あなたが仰ることが、分かります。
1:05:53 K: そのとき思考は、 どんな所を、持っていますか。 理解されますか。
1:06:03 R: ええ。
1:06:04 K: 思考は、どんな所を持っていますか。 それはそもそも、どこか 所を持っていますか。 明白に、私は、話しているとき、 言葉を使っています。 それら言葉は、記憶などなどと 関連しています。 で、そこには、考えることが、ある - 私においては、そうではない。 私が話しているとき、ほとんど 考えることは、ありません。 それに、入らないようにしましょう。 で、思考は、その所を持っています。 よろしいですか。 私が列車に乗らなくてはいけないとき、 思考は・ ・・私が歯科医に行くとき、 私が何かをしに行くとき、 思考は、その所を持っています。 同一視の過程が、起きつつあるとき、 それは心理的に、 どんな所をも、持っていません。 いいですか? お分かりになるのかどうか、と・・・
1:07:10 N: あなたは、何も思考がないから、 同一視の過程は、 その強さを失ってしまったと、 仄めかしておられますか。
1:07:19 K: いいえ。それは、 その強さを、失っていません。
1:07:22 N: または、それはまったく起きません。
1:07:24 K: いいえ。私たちは ちょうど今、言いました - その鍵を持っているか、知覚し・ ・・ 事実とともに生きていて、 真理とともに生きている。 すなわち、同一視が、 自己の構造と本性を、 もたらす、ということと、です。 それは、無数の問題すべてを、 創り出します。 真理が見えて、その真理を生きる。 生きる。 それが、私の呼吸に、 私の喉に、私の食道にある。 それは、私の血の一部です。 それの真理を見る。 その真理が、そこにある。 それで、思考は、 その正しい所を持つ。 私は、お金、セックスを、その所に・・・ - 私が、ではない。
1:08:31 ナラヤン: あなたが、仄めかしておられる・・・
1:08:36 S: それは、その所に、収まります。 R: ええ。
1:08:39 K: いいえ。私はさらに、これに 入りたいと思います。進んでください。
1:08:42 N: 洞察、熱情、真理が強力であるなら・・・
1:08:46 K: いいえ。あなたは、「強力だ」と いう言葉を、使っていますね。
1:08:50 N: ええ。私はそれを使っています。 K: いいえ。それは強力ではないと、私は言います。
1:08:54 N: それは、自らの強さを、持っています。 K: いいえ。それらの言葉は、使えません。
1:08:56 N: さて、それが強さを持っていないなら、 思考は自体を主張します。
1:08:58 K: いえ、いえ。それは強さではありません。
1:09:00 B: あなたは、思考に、 間違ったことすべてをさせるのは、
1:09:02 同一視であると、仰っていますか。
1:09:08 K: そのとおりです。同一視が 思考に、間違ったことを、させてきました。
1:09:11 B: さもなければ、だいじょうぶなのでしょう。
1:09:16 K: さもなければ、思考は、その所を持っています。 B: それは、合理的でしょう。 
1:09:19 K: ええ。
1:09:22 B: ですが、同一視なしと仰るとき、 それは、自己が空っぽである、
1:09:24 それは、何の内容をも持っていない、 という意味なのでしょう。
1:09:33 K: 感受だけが、あります。
1:09:36 B: 感受。だが、それらは同一視されない。
1:09:38 K: 同一視されない。
1:09:39 N: 思考をとおして。 K: 同一視されない。
1:09:41 B: それらはただ、起きている、 という意味ですか。
1:09:42 K: ええ。感受が起きています。
1:09:44 B: 外側か、内側で。 K: 内側です。
1:09:45 N: あなたはまた、元へ戻ってしまう ことがないとも、仄めかしています。
1:09:49 K: もちろん、ない。
1:09:52 大変危険な何かが見えるとき、あなたは、
1:09:57 元へ戻ってしまったり、前へ進んだり しません。それは危険です。 そのとき、それは、死ですか。 それが、私たちが始めたところの問いです。
1:10:22 K: ええ、ええ。そのとおりです。
1:10:25 K: それは死ですか。 私たちが知っているような死。 それは、脳細胞等々が、死ぬことです。 ですね? 身体は衰退します。 酸素がない。 その他すべてです。 私は別に・ ・・ で、それは死にます。 感受は、それとともに死にます。 ですね? さて、私はどこにいますか。
1:11:15 B: 感受は、身体とともに死ぬと、 仰ります。
1:11:18 K: ええ、身体とともに。
1:11:19 B: で、感受はない。 K: 感受はない。
1:11:21 ですね?
1:11:25 R: ええ。
1:11:29 K: さて、感受を十分に目覚めさせて、 生きることが、ありますか。 それらは、目覚めています。 それらは、生きています。 ですが、感受との不同一視は、 剥奪し・ ・・ 自己を拭い去ります。 いいですね? 私たちは、それを言いました。

R: そうです。
さて、死とは何ですか。 日常生活を、死とともに 生きることは、可能ですか - それは、自己が終わることですが。 そうではないですか。
1:12:16 R: ええ。
1:12:18 K: 私は分かりません・・・ 私は問うていません。 進んでください。 誰かが、しばらくの間、話してください。
1:12:25 R: 私は、それに 付いていっています。ええ。
1:12:27 N: 洞察について、大変多くの話が あると、仰るんでしょうか - 洞察の冥想、勝観(ヴィパサナ)ですが。 洞察は、持続し、 元へ戻ってしまわないものですか。 洞察は、その性質ですか。
1:12:46 R: まさしく、彼が今語っていることは、 洞察の冥想です。 K: ええ。 
1:12:59 R: 彼が今、 語っていることは、洞察の冥想です。 N: いえ。私は訊ねています - 洞察は、時への関連なく、持続しますか。
1:13:05 K: ああ、持続する、長続きする、 という言葉を、使わないでください。
1:13:10 N: すべての洞察は、瞬間的な過程です。
1:13:12 K: 洞察を持った瞬間、 それは終了しています。
1:13:14 R: 終了しています。ひとたび それを見たとき、終了しています。
1:13:15 K: 私は、自己の本性全体へ 洞察を持つ。終了です。
1:13:17 私は洞察を持つ。 R: まさしくそれが、彼が言うことです。
1:13:23 N: それは完全です。
1:13:24 R: それは、自体で完全ですし、 戻ってくることが、ありません。
1:13:25 N: 戻ってくることが、ない。さもないと、 それは洞察ではない。 K: もちろんです。
1:13:28 R: あなたは、それを見た。 あなたは、それを知っている。
1:13:33 元に戻ってしまうこと、 戻ってくることは、ない。
1:13:40 S: 誰が、それを見たのですか。 それらの言葉でもって、私たちは いつも、面倒に入ってきます。
1:13:44 R: いいえ、いいえ。これは言語だけです。 見ることを離れて、見る者はありません。
1:13:50 N: 見ることを離れて、見る者はありません。
1:13:52 B: 洞察は、その人物を変容させると、 仰るのでしょうか。
1:13:56 K: それが、私たちが先日、 議論していたことです。 洞察は、精神の状態だけを 変容させるのではなく、 脳細胞自体が、変化を遂げます。
1:14:05 R: 絶対的に、です。
1:14:07 B: ゆえに、脳細胞は、 違った状態にあって、 違った振るまいをします。
1:14:12 K: そのとおりです。 B: 洞察を反復することは、必要でない。 R: システム全体が、 それとともに、変化します。
1:14:15 K: 気をつけてください。そんなに・・・ そうであるのか、あるいは、そうでないのか。 で、私は今、これとともに残っています。 私は、死とは何かの問いとともに、 残っています。 自己が終わることは、死ですか。 その言葉の普通の 認められた意味での死。 明白に、そうではない。

B: ええ。
K: なぜなら、私は生きて・ ・・ 血液は循環していて、 頭脳は活動的であり、
1:14:52 R: それは、医学的な意味で、ではない。
1:14:54 K: 心臓のポンプは、送り出している、 その他すべてあるからです。 R: ええ。
1:14:57 B: それは、やはり生きています。 K: それは生きています。
1:14:59 ですが、自己は、存在していません。 なぜなら、どの種の同一視も、ないからです。 これが、ものすごいことであるのは、 存じていますよ。 何とも同一視がない - 経験とも、信念とも、国とも、 観念、理想とも、 妻、夫、愛とも。 まったく同一視がない。 それは死ですか。 それを死と呼ぶ人々は、言います - 「神様、私は自分自身を、 私の何らかの物事と同一視しないなら、 私は何でもない」と。 1:16:00 で、彼らは、(自らが)何でもないことを、 恐れています。 そのとき、同一視します。 しかし、何でもないこと - それは、何一つないことです。 理解されますか。 何一つない。 ゆえに、それは、 全く違った精神の状態です。 さて、それが死です。 生きている間に、感受、 心臓は鼓動し、 血液は循環し、呼吸し、 頭脳は、活動的で、損傷していない。 いえ、これは・ ・・ 損傷していない。 私たちの頭脳は、損傷しています。
1:16:58 B: この損傷は、どのように 癒やされますか。 損傷を癒やすことは、可能ですか。
1:17:02 K: 洞察 - それが、私が 取りかかりたいことです。 私たちの頭脳は、損傷しています。 何千年もの間、私たちは 心理的、内的に、 傷ついてきました。 その傷は、私たちの脳細胞の 一部です。 憶えられた傷。 私はキリスト教徒である、 私はイエス・ キリストを信ずるとの、 二千年間の宣伝。 それは傷です。 または、私は仏教徒である、と。 よろしいですか。それは傷です で、私たちの頭脳は、損傷しています。 その損傷を癒やすことは、 よく気をつけて聞くことです。 聞く。 そして、その聞く中で、 言われつつあることへ、洞察を持つ。 ゆえに、即時に脳細胞に、変化があります。 ゆえに、同一視がない - 完全で、全的です。 1:18:31 そのとき、それは愛ですか。 そうね、私はこれを問います。 仏教文献には、慈悲について、 多く話が、あるのでしょう。 慈悲深くありなさい。 殺すな。傷つけるな、と。 愛は、慈悲において、 どんな所を持ちますか。 男や女を、愛する。 または 犬や、一個の石、のら猫を、 何かを愛する - 雲、樹々を。 それはどんな所を・ ・・ または、自然を、何をでも、愛する。 建築家により組み立てられた 邸宅を、愛する。 美しいもの、煉瓦 - それを愛する。 それは、煉瓦と、邸宅と 同一視しないことです。 生きている間に、死んでいくことは、 その愛です - その中に執着がない愛、です。
1:20:11 R: そうです。そうです。
1:20:15 K: そのとき、愛は どんな所を持ちますか。 女を、男を愛する - 理解されますか - 同一視しないのです。 どうぞ、女とのとか、男とのセックスの 感受との同一視(をしないの)です。 けれども、その人物を愛している。 理解されますか。 その愛があるとき、その愛は、 私が愛している女ではありません。 それは、地球的な愛です。 お分かりに なるのか・・・ 

R: 十分に。
K: 同意しないでください。 
1:21:03 R: いえ、 同意ではありません。私はそれが分かります。
1:21:05 K: で、その性質は、慈悲との どんな所を持っていますか。 または、慈悲は愛と同じですか。
1:21:19 R: いいえ。
1:21:28 N: なぜ、いいえと仰るのですか。
1:21:29 R: 慈悲(コンパッション)は、苦しんでいる 者たちのためだけです。苦しんでいる人たちに、です。 愛 - そこに、区別はありません。 ところが、慈悲は、苦しんでいる者たちへ、 方向づけられています。
1:21:59 N: あなたは、慈悲と愛と間に、 その区別をなさります。
1:22:02 R: ええ。
1:22:03 N: それは、仏教の言語にありますか。 R: ええ、仏教の言語です。
1:22:06 それは、慈(マイトリー)と悲(カルナー)です - これら二つの言葉を使うなら、ね。
1:22:13 K: 慈(マイトリー)と悲(カルナー)。
1:22:16 R: 悲は、慈悲(コンパッション)です。 愛は、慈です。それは、 慈悲という言葉以上です。
1:22:26 K: 私はただ・・・ 私は・ ・・あなたは・・・あなた個人が、 ではない。自らは、同一視なしに愛しますか。 それは、自己なく、執着なく、 という含意です。 R: それが真の愛です。
1:22:51 K: いえ、いえ。私は訊ねています。
1:22:55 あなたは、人間として、 仏教者としてではなく、人間として、 自分の感覚などなどとの同一視なく、 あなたは、女や男や子どもや 空や石や野良犬を、愛しますか - 同一視しないで、です。 彼らはみんな、苦しみます。 女は苦しみます。 男は苦しみます。 犬は、ひどい生を送ります - 野良犬は、 あらゆる人に、追いかけられ、 あらゆる人に、蹴られます。 同一視がないとき、あなたは その犬を愛しますか。 または、その犬へ慈悲を持ちますか。 慈悲は観念ですか。 私は、苦しむ者へ、貧しい者へ、 たわけ者へ、発狂した者へ、 慈悲を、持たなければなりませんか。
1:24:27 B: 私はまだ、問いはこうだと 思います - 苦しんでいない誰かへの愛が、 ありますか。 仮に、苦しんでいない誰かが いる、とします。
1:24:38 K: 仮に、誰かが怖くなるほど 幸せだ、とします。 なぜなら、彼は、 良い本やスリラーを、書いて、 たくさんのお金を得て、 「愉快な良い生活だ」と言うからです。
1:24:45 B: 私は、正しくは、 そういう意味で言っていません。 彼は底では、苦しんでいると、 言えるかもしれません。
1:24:49 K: それが、私が問うていることですよ。
1:24:52 B: しかし、もしも、苦しみがなかったなら、 愛は、あるのでしょうか。 そうね、もしも人類が、それより 自由であることになったとしたなら、です。
1:25:01 K: ああ、苦しみなしに、 愛は、あるのでしょうか。 または、あなたは、こう仰っていますか - 人間は、愛を持つために、苦しみを 経ていかなければならない、と。
1:25:10 B: まあ、必ずしもそうではない。
1:25:12 K: そうね、あなたがそのように表すとき、 それが、その含意することなのでしょう。
1:25:16 B: まあ、一つの見解は、 苦しみがあろうがなかろうが、 愛がありうるかもしれないとの、一つの点を、 言えるかもしれない、というものです。 他方は、慈悲です。 仏教での用い方で、それは、 苦しむ者たちのためだけである、 ということです。 K: 私はそれを問います。
1:25:30 B: それはすっかりは明らかでない。
1:25:34 N: 私は、悲(カルナー)、慈悲が、 苦しんでいる者たちのためだけである、とは、 すっかりは感じませんでした。 それは、より広い性質を 持っている、と思います。
1:25:42 R: いいえ。このように、梵住と呼ばれる 四つの性質が、あります。 これら至高の性質 - 慈(マイトリー)、悲(カルナー)、 喜(ムディター)、捨(ウペークシャー)です。 慈(マイトリー)は、あなたが仰ったように、 苦しんでいる者も、苦しんでいない者をも、包容します。 悲(カルナー)は、 苦しんでいる者だけを、包容します。 喜(ムディター)は、 幸せな人々へ、方向づけられます。 あなたは、それの幸せと同一視します。 なぜなら、世間に、そういう 共感の喜びは、ないからです。 捨(ウペークシャー)は、平静さです。 これら四つの性質は、 梵住と呼ばれます - 至高の神聖な性質です。 愛という言葉を使うときの その分類は、はるかに大きい。
1:26:41 K: いいえ。私はまだ、 慈悲に来ていませんよ。 私はただ、知りたいのです - 私は人間として、誰かを 愛していますか。 犬を、煙突の煙を、 雲を、美しい空を、 同一視せずに、です。 理論としてではなく、事実です。 私は、理論や観念で、 妄想したくありません。 私は、自分があの男や女やあの子どもや犬を、 愛しているのかどうかを、知りたいのです - 「それは、私の犬だ、私の妻だ、 私の住宅だ、私の煉瓦だ」と言わずに、です。 抽象ではなく、実際に、です。
1:27:32 S: 「私」とのその同一視が、 去ったとしても、 私が、「私」は自己として 行為していると、感じるかぎり、 私はそれをできません。
1:27:42 K: いえ、マダム。 私は、真理は、同一視が自己を 生み育てることである、と言いました - 紛糾、悲惨すべてを引き起こす自己を、です。
1:27:52 S: それが見えるなら・・・
1:27:54 K: 私はそれを言いました - それは、 絶対的な、取消不可能な実在です。 それは、私の血の中にある。 私は自分の血を取り除けない。 それはそこにある。 S: そのとき、私は愛さざるを えません。 
1:28:04 K: いえ、いえ。
1:28:06 みなさんは、あまりに速すぎます。 S: もう一度、お願いします。
1:28:11 K: 「私は愛さざるをえない」ではない。 あなたは愛しますか。
1:28:14 R: それが見えるなら・・・
1:28:22 K: ああ、いいえ、いいえ。
1:28:25 あなたは真理が、 それの真理が、見えますか - すなわち、同一視が、 思考とその他すべてとともに、 自己の根であることが、です。 それは、絶対的な事実です。 コブラのように、危険な動物のように、 断崖絶壁のように、 毒薬を飲むように、です。 で、あなたは危険が見えるとき、 絶対的に、同一視がない。 そのとき、世の中へ、自然へ、 私の女、男、子どもへの、 私の関係は、何ですか。 同一視がないとき、 無頓着、冷淡さ、残忍さが、 ありますか - 「私は同一視しない」と言って、 鼻高々でいることが、です。 R: それは、とても利己的でしょう。
1:29:47 K: いえ、いえ。利己的ではない。
1:29:50 これが、起きようとしていることですか。 R: いいえ。
1:29:55 K: いいえ。あなたはただ、そう言えません。
1:29:58 なぜそうでないのか。 それが知的であるなら、それが 言語的であるなら、それは起きるでしょう。 S: それは真理ではない。
1:30:10 K: 私は理想を持っています。ええ。
1:30:12 R: それが、私が言ったことです - そのときあなたは、見てこなかったのです。
1:30:15 K: いいえ。
1:30:17 私は、お訊きしています - この不同一視は、 私がそれとともに生きようとしている 理想、信念、観念ですか。 ゆえに、私の関係は、その犬へ、 妻へ、夫へ、女の子へ - それが何であれ - とても表面的に、 何気なくなるのです。 同一視が、自らの生において、 絶対的に切り捨てられるのは、 ただ、真理が・ ・・ そのとき、何も冷淡さはない。 なぜなら、それは実在するからです。 私たちは、まだ 死の問いを、解決していません。 今、1時5分です。私たちは、 昼食のために、止めなくてはいけません。
1:31:18 R: 午後に私は、 さらに幾つか質問を、持っています - K: 良いですよ。
1:31:22 R: ・・・物事の一覧です。
1:31:24 K: それらを調べてゆきましょう。
1:31:26 R: これらは、長い間、 私の心中で、練られてきました。
1:31:29 K: それをしましょう。 R: 私は、あなたとともに、それらについて
1:31:32 議論したいと、思います。今日、私たちが行う 会合は、一回あるだけです。
1:31:33 N: この午後に、4時に。 R: この午後に、4時に。
1:31:41 K: もっと多く会合を望みますか。
1:31:42 R: 今日は、可能ではない。 私たちは、昼食を取ろうとしているからです。
1:31:43 K: いえ。この午後、私たちは 会おうとしています。
1:31:46 K: いえ。この午後、私たちは 会おうとしています。
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