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ジャン=ルイ・ドゥウェズとの会話 第1回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1979年9月28日

0:28 ジャン・ルイ・ドゥウェズ: クリシュナムルティさん、 私はあなたに、幾つか 質問をしたいと思います - とても重要であると私が 感じる主題について、です。 すなわち、思考とは何であるかの 中心的な問いです。 人間たちが関係しているところ、 この問題は、決定的に重要です。 なぜなら、人間たちが、 実在について、知りうるすべては - 彼ら自身の内側とともに、外側にも あるものについて、という意味ですが - 彼らの知覚を通りぬけて、 即時に、思考でもって 取り扱われるからです。 これは、回避不可能です。 または、そのように 見えます。 けれども、あらゆるものが、 思考により処理されるなら - 私が、自分自身と他人たちについて知って いると、信じるものを、含めて、です - そのとき、深く、真剣に 入らなくてはいけません - 思考とは何であるかの その問いに、です。 1:40 思考は、連想を 創り出します - それは最終的に、 理解を阻害しえます。 あなたが気にされないなら、私は、 一例を取りたいと願います - それは、私たちの議論に、 直接的な係わりを、持っています。 この対話は、録画されつつあるし、 他の人々により聞かれるかもしれません。 私は特に、合理主義者だと 言われている人々、 西洋の人々を、 念頭に置いています - どの霊的な問いをも、探究した ことがない人々です。 今、クリシュナムルティの名前は、 彼らの精神に 一定の連想を、創り出すのか どうかと、思われます - すなわち、 彼らが聞くのを、すでに阻害して しまうかもしれないものを、です。 で、初めの問いは - この思考の事柄へ、可能なだけ、 多くの詳細さと真剣さをもって 入るに先立って、ですが - 聞いている人や、聞くだろう人たちに とって、初めの問いは、 私たちの一人一人は、自分自身を 覗き見られるのか、です。 というのは、それらの連想と先入観は、 誰かあなたのような名前の人や、 インドから来た人に、 会うとき、生ずるからです。 3:01 そして、言われようとしている ことを、それらの妨げなく、 それらの先入観なく、 どう聞くのか、です。
3:15 クリシュナムルティ: 誰かに 聞くことは、とても困難です - 彼が、東洋から来ていても、 西洋からであっても、です。 なぜなら、東洋においても、ですが、 伝統はそこで、とても強いからです - 霊性とは何であるかに ついて、です。 様々な教師と、様々な古代の 伝統が、彼らを抑えます。 ここ、西洋において、 いわゆる宗教的な感情、 いわゆる霊性は - 私たちが その言葉を使えるなら、ですが - 滅多に考えられたり、 中に入られたりしません。 で、あなたは、お訊きに なっていますね - 知覚がありますか。 理解されますか。
4:12 D: はい、よくよく。
4:13 K: 思考の過程の外側にある、 知覚が、ありますか。 理解、洞察、即時の了解が、 ありますか - 思考の機構すべてを 経ていくことなしに、です。
4:39 D: 今現在、私は、 聞き手は、 即時の知覚を、 持てますか - この議論に関して、自分の頭の中で 進んでいることへ、です。 または、あなたに関してか、何に 関しても、です。  

K: はい。
即時の知覚を、 持ちえますか - 私たちに聞こえることを、思考が 実際に濾しとるさまについて、です。
5:08 K: その問いは、 理解できますよ。 あなたは、知覚があるかと、 仰っています - 即時のものが、 実在について、何か真実な ことについて、ですが、 思考で包囲されたり、思考と 連携されたりしていないものが、です。 で、その問いは、 本当は、 考える過程は 何であるか、です。 あなたは、それが中心的な問い であると、仰るのでしょうか。
5:49 D: その問いは、私にとって 中心的に思われます。 私たちは、できるだけ理性的に、 これに入られますか - 可能なだけ、理性的な議論でもって、 です。 
6:04 K: シー、シー(はい)。 K: この問いは、東洋のや、 西洋のではありません。 それは、人間たちの 問いです。 それは、すべての人類に 影響する問いです - 東洋でも、西洋でも、 カトリックでも、プロテスタントでも、 保守主義者でも、自由主義者でも、 全体主義者でも、 それは、すべての人間に 影響します - 違った社会を、もたらすことに、 関心を持つ人たちに、です。 単に、未来にどこかある、 理想主義的などの、社会ではなく、 今、起こりうる社会、 本質的に良い社会を、です。 あなたが興味を お持ちであるなら、 私たちは、その「良い」という 言葉に、入られるかもしれませんが、 当分の間、私たちは、それを 脇に置いておくでしょう。 しかし、考えることは、 何ですか。 結局のところ、 考えることは、 知識でもって 始まります。 D: 記憶です。
7:25 K: 初めに、知識です。
7:28 それから、その知識は、 経験の結果です - 科学的でも、生物的でも、 物理的でも、 想像上で、幻影でも、です。 知識。 その知識は、頭脳に 蓄えられている、などです。 そして、 記憶が、あります。 その記憶の反応が、 思考です。
7:57 D: 一定の人々と、 おそらく、幾らかの科学者は、 たぶん、それは記憶だけでは ないと、言うんでしょうね - 魂や、他の何かが あるのだ、と。 すなわち、思考の問題は、 二通りに見られるのです。 どこか、操縦桿の後ろに、 機長が、いるのか。 そして、自分が 考えることは、 自らがどこに行きつつあるかを知って いる、この機長から、派生します。 そのとき、合理主義者は、 たぶん、こう言うでしょう - 思考は、生物的な、 機械的な過程である、と。 K: はい。そのとおりです。
8:36 D: そのとおりです。
8:37 K: そうでないですか。 D: そのとおりです。
8:39 K: ご存じですか。 ご覧ください。
8:42 頭脳は、 記録しています。
8:46 いいですね? たとえば・・・ それは何と呼びますか。 そうね、 録音する機器ですが。
9:10 D: テープ・レコーダーです。
9:11 ええ、テープ・レコーダー、 それです。 出来事が、 あります - 気持ちいいか、痛いのか、 それは、記録されます。 ですね?  それが、 記憶になります。 で、経験、知識が、 機長です - いつの時も、 導いている者です。 車を運転するように、です。 それを 運転している人物が、誰かいます。 その人物は、運転する経験を、 してきました。 それは、機械的になります - 部分的に、です。 そして、見守っている 運転者が、いつも、います。 それは、本質的に、 経験と知識です。
10:11 D: 機械的な知識の場合に、 それは明白です。
10:17 K: はい。ですが、私たちの習慣 すべては、ほぼ機械的ではないですか。 私たちが考えるのは、 機械的です。
10:28 D: その言葉「機械的」を 見つめましょう。 それは、結果を産出する 原因が、ある、という意味です。 結果は、原因を産出します。

K: はい、そうです。
D: で、もし、思考が機械的な過程である ことを、受け入れるなら、 もしそれが見られるなら、それは、 一連の原因と結果を、意味しています。 K: また、反復も、です。
10:52 D: 反復も、です。
10:54 本質的にそれは、その思考が原因から 派生するのを、意味しています - 過去から、 以前の原因から、来る、と。
11:06 K: はい、それは 過去です。 思考は、過去に 基づいています。 科学的な知識さえも、 過去に基づいています。 蓄積され、学ばれ、 保たれている。 それへ、あなたは、もっともっと 多く、多く付け加えますが、 それは、やはり 全的な蓄積です - 今までの科学的な 知識の、です。
11:41 D: けれども、私たちが自分たち 自身について持つ経験から、 「私」があるように、 思われますが、 この「私」は、過去より 独立しているとは、思われないのです。 それは、自由に 行為すると思われますが・ ・・ もし思考が、機械的であるなら、 「私」はどこから、来ますか。 自由な、自動的な実体があり、 何でもしているように、見えます。 この過程に、入ってもらえますか - それにより、 何か機械的なものの中から、 創造される・・・
12:19 K: 「私」もまた、 機械的ではないですか。
12:25 D: それは、機械的には見えません。 K: 待って。それを検討しましょう。
12:29 探検、究明しましょう - または、どんな 言葉を、お使いになりたいのでも - 「私」もまた、知識の 結果でないのかどうかを、 見出すように、です。 「私」は、何か突然に 生まれたものではありません。 「私」は、持続的な連携を、 持っています - 一連の記憶、 一連の投影を、持っています。 あるべきもの、ありつづけたもの、 今あるもの、です。 で、あなたがごく間近で検討するなら、 「私」もまた、きわめて機械的です。
13:28 D: 一つ、単一の 「私」だけが、ありますか。 今、あなたとのこの状況に おいて、「私」と言うし、 別の瞬間に、「私」と言うだろうのは、 同じ人物ですか。 自分は、それが同じであるとの 印象の下にあります。 同じ・・・ K: 継続する同じ「私」です。
13:46 D: 継続する。
13:48 が、私たちは、自分自身が関連している ところで、これが見えません。 問題を持っている人々においては、 これを観察できます - 違った状況において、違った態度を 持つと思われる人々には、です。 これは、他の人たちには、 知覚できますが、 私たちの自己には、 それは、はるかに難しい。 人々がいつも同じではないことが、 知覚できます - けれども、彼らは、「私」と言いつづけるし、 合理化しようとしつづけることが、です。 彼らは怒っているとき、 「私は正しかった」。 次の瞬間には・・・
14:24 K: それは、 理性的ではありません。 「私」は、違った様相を、 持っていますが、 本質的に、 それは同じです。 D: 過程は、同じです。
14:35 K: はい。
14:38 これは、東洋においても、 西洋においても、 問題の一つ であったのです - 「私」は 何であるのかは、です。 キリスト教徒は、それを 「魂」と呼びます。 または、あなたが、「個人」という 言葉を、使いたいなら、です。 それは何ですか - 本質的に、です。
15:13 D: この問いは、重要です。 なぜなら、この「私」は、 自らが見て知覚するものすべてを、変容 させるからです。 
15:20 K: はい、そうです。 K: その「私」は、こうも 条件づけられています。
15:26 D: もし彼が、過去であるなら、 彼は、条件づけられています。
15:29 K: もちろんです。 彼は、過去です。 結局のところ、自分は、 インドに生まれます。 または、たとえば、 中国に、です。 彼らは、 条件づけられています。
15:44 D: 文化は、ありますが、それが 最も重要だとは、思われません。
15:47 K: はい、そうです。 仰るとおりです。
15:52 D: が、それでもなお、欲望の、 嫉妬の過程が、あります - 文化にかかわらず、同じである、 これら人間の脆さのすべて、です。 それが、問題を 生じさせるものです。 それが、問題が あるところです。
16:12 K: ですが、嫉妬、 野心、貪欲、 恐れと楽しみなどは、 すべて、 同じものの違った 様相ではないですか。 理解されますか。
16:29 D: はい。 よくよく理解できます。
16:30 K: それらは、違ったものではない。 それらはすべて、「私」の部分です。
16:35 D: ですが、私が怒りや嫉妬、 それらを、感じるとき、 私は、自分がいつも正しいとの 印象を、持ちます - そして、原因は、外側からであり、 私の中の何かからではない。 私は騙されて しまったのだ。 もし私が怒っているなら、私の周囲が、 責められるべきである、と。 K: はい、はい。  

D: 誰でも、 怒って、破壊的に感じる人は
- 怒りは、最終的に 社会を、戦争へ導きます - いつも他の人を、 責めるでしょうし、 外面的な原因をとおして、 それを説明するでしょう。
17:12 K: そうなのですか。 あなたは私を、 馬鹿と呼びます。 私はその言葉が、好きでは ありません。 理解されますか。 私は、自分自身の 映像を、持っています・・・
17:38 D: 私は負傷したと 感じます。
17:39 K: ・・・すなわち、私は馬鹿では ない、と。そして、私は怒ります。 それは、あなたでは ありません。 あなたは、その「馬鹿」という 言葉を、使ってきましたが、 私の中の映像が、その言葉に 反応したのです。
17:57 D: で、原因は、私が「あなたは 馬鹿だ」と言った事実ですか。 または、原因は、内に 見つけられるのですか。 何もイメージが、ないなら・・・
18:15 K: そうです。 それが、主な問いです。 自らは、「私」のイメージなしに、 生において存在でき、 毎日の活動を、続けてゆけますか。 理解されましたか。 「私」は、住宅、 資産、家具です。 妻、夫です。 「私」は、 このすべてです。 赤ちゃんが生まれるとき、 子ども時代から、 次第に、「私の玩具、 私の家、私のお母さん」です。 その中から、執着が、成長します。 そして、問題全体が、始まります。 私は思うのですが、最も 理性的な、科学的な精神さえも - 私たちは、大勢、 彼らに、会ってきました - 明白に、これを 見るでしょう。 しかし、彼らは、「私」のイメージを 終わらせたくありません。 なぜなら、彼らの専門職、 彼らのお金 - よろしいですか - 全部が、 彼らを、抑えるからです。
19:43 D: で、毎回、私は 何かで苦しむたびに、 心理的に、幾らか 不安ですが、 私は一般的に、それを、何か 外面的な原因に、帰属させます。
20:00 K: セサ(そうです)。
20:04 D: けれども、同時に、それが 私に効果を持つためには、 それは、私の中の何かに、 触れなくてはなりません。 で、問いは、こうです - 私の中で、 それが触れるものは、何ですか。 私はそれを、 見つめられますか。 
20:21 K: はい。 すなわち、ギリシャ人たちは、 それを言ってきました。 古代ヒンドゥーたちは、それについて 大変多く話してきました - すなわち、 あなた自身を知る。 自己認識。 ですが、誰も それを、研究しません。
20:45 D: 心理学者は、他の人たちを 知ろうとします。
20:49 K: そうです。または彼らは、 「あるべきもの」を考案します。
20:52 D: ええ、観念です。 フロイト、それらです。
20:56 K: しかし、ここに私はいます。人間です。 私は、私自身を知りたいと思います。
21:01 D: 明白に、その問いは、 どうなのか、です。なぜなら・・・
21:05 K: ああ、それに入りましょう。 それを見出しましょう。 私はどう、私自身を 知られますか。 フロイトに沿ってとか、他の誰かに 沿って、ではありません。 理解されますか。
21:17 D: はい、理解します。
21:17 K: 私自身を知る。 私は、それらの心理学者に、従うなら、 私自身を知らないでしょう。 D: ただそれらを、見つめなくては いけません。 
21:28 K: ええ、そうなんです。
21:32 私は、彼らが私について 言うことを、知るでしょう。 で、私が何であるかを、 究明したいなら、 私は、すべての権威を、 捨て去らないといけません。 マルクスさえも、です。 たぶん彼は、本質的に ブルジョワでした。 なぜなら、彼は、すべての存在を 一定の層へ、付託したからです。 で、問いは、こうです - 考えるとは、何ですか。 それは、機械的ですか。 または、考えることは、 いったい、自由でありえますか。
22:33 D: ええ。なぜなら、自己認識は、 私が自由であることを、要求します - それで、私が探究できる ように、です。  

K: そうです。
D: さもないと、私は思考を使うよう、 強いられます - それは、自由ではありません。 私は輪の中を、ぐるぐる回るでしょう。
22:47 K: それが、問いです。 で、初めに、私自身を理解するには、 私は権威を、拒絶しなければなりません。 D: 他の人たちのそれを・・・
22:57 K: 他の人たちのを、です。
22:59 彼らがたとえ・・・ D: それから、私自身のを。
23:03 K: 初めに、私は、すべての教授、 心理学者、心理分析者たちの権威を、
23:05 拒絶できますか - 「私は魂だ」、「私は神だ」 「私はこれだ」、「私はあれだ」と 言う、宗教的な人々のを、です。 私は、私自身を知るには、そのすべてを 脇に置かなければなりません。
23:21 D: それは、すでに困難です。 なぜなら、それであなたは、 多くの集団と共同体の 外側に、置かれます。 あなたは、これらを したとき、自分自身が幾らか 一人で立っているのを、見つけます。
23:33 K: それは、同意します。
23:39 D: 私は、他の人たちの接近を、脇に 置き、私自身で探究しようとします。
23:44 K: すなわち、思考は、「私」を究明 できますか。理解されましたか。 記憶、経験、知識に 基づいている思考、 そして知識は、不完全です - 知識は けっして完全ではありえません。 ゆえに、知識は 無知を、伴います。 理解されましたか。
24:18 D: 最後の言葉は、していません。
24:20 K: 無知を伴う。 知識と無知は、一緒にいます。
24:26 D: はい、 コインの両面です。
24:30 で、思考は、私自身を 研究できません。 なぜなら、思考が、私を 創り出してきたからです。 理解されますか。
24:38 D: はい。それは理解できます。 それが、主な問題が あるところです。 なぜなら、科学者は、こう言うだろう からです - 何かを研究するには、 自分は客観的であろうと しなければならない、と。 外側から、主観に向かう、という 意味です。 
24:53 K: そうです。 K: ゆえに、観察が あります。 「私が私自身を 観察している」、ではない。 観察が観察している。 理解されますか。
25:07 D: 私が、私自身を観察するなら、 それは、やってしまっています。 K: ええ、「私が観察する」と。 
25:16 D: なぜ なら、私はぐるぐる回っているからです。 K: ええ、そうです。 「私」 なしの観察が、ありますか。 主観的・ 客観的、ではなく、 ただ、「私」なく、観察する。 そうね、これは、はるかに深い 主題へ、入ります。 すなわち・・・ あなたは、それを つづけたいですか。 すなわち、私たちは、分割してきました - そこの世界と、分離した私。 ですね?  世界と私、です。 しかし、そういう違いが、 ありますか。 「私」が、世界を 創り出してきたのです。 自然と環境の世界を、 ではない。 すべての空と、 大地の美しさを、ではないが、 すべての貪欲、妬み、怒り、 暴力、残酷さ、迷信をともなった 「私」が、その世界を、 創り出してきたのです。 それが社会です。
26:40 D: はい。
26:44 K: それが、 この現代社会です。 そして私たち、人間が、 それを、創り出してきました。
26:56 D: ですが、自己認識は、すっかり 違った問題ではないですか。
27:02 K: そうなんです。そうなんです。 で、私は、こう言っています - 私たち人間が創り出してきた 世界は、分離していない、 世界は私であるし、私は 世界である、と。理解されますか。
27:20 D: はい、私が自分自身を 理解したいのなら・・・ 私はまた、世界にいます・ ・・私は、 世界において、私自身を理解できますか。 それが、あなたが仰りたい ことですか。  

K: いえ、いえ。
D: 私は、社会がそのように 組織されるのが、分かります - 私たちの間の格闘のせい、 葛藤、欲望のせいで、です。 それは、それらのせいで このように、組織されています。
27:42 K: そうです。それが、 「私」と「あなた」です。
27:48 D: マルクスは、それは経済のせいで、 組織されていると、言ったでしょうが、 私たちは、こう言っています - それは、そのすべての下の、 心理的な諸問題ゆえに、組織されて いる、と。 
28:01 K: そうです。 K: マルクス主義者とみんなは、社会が 創り出されるのは、経済的だと、言います。 反対に、それは 心理的です。
28:17 D: が、私が探しているものは、私自身を 知ることです。で、どう・・・
28:22 K: お待ちください。私は そこへ、来ようとしています。 で、私は、自分自身を 検討しているとき、 私は、人類全体を、検討して います。 「私」を、ではない。 理解されますか。 ご覧ください。 人は、世界中で、苦しみます - 苦しんでいる。 ロシア人でも、インド人でも、 シナ人でも、ヨーロッパ人でも、 人は、苦しんでいます。 ですね? 人は、怒っています。 人は、暴力的です。 人は、残忍です。人は、あらゆるものです。 で、あなたは、残りの 人類の不可欠な部分です。 理解されますか。
29:18 D: はい。 で、あなたが、あなた自身を 研究し、あなた自身を知るとき、 あなたは、人類の全体を 研究しています。
29:36 D: それは、私自身のことだけではない。 「私」の自己だけではない。
29:43 K: あなたは、 世界です。 で、あなたが、あなた自身を 研究するとき、 それは、利己的ではありません。 あなたは、人類を研究しています。 で、責任は、 はるかに大きくなります。
30:07 D: ええ、ですが、 問いは、こうです - 思考の介入なしに、 それをどう研究するのか。 それは自体が、条件づけられて います。 
30:15 K: ええ、そうです。 それが、 本当の問いです。 すなわち、私は・ ・・ 世界である私自身を、見つめる 可能性が、ありますか - 思考の介入なく、 鏡において、です。 なぜなら、思考は、制限されている、 思考は、機械的であるからです。 「私」は、 生きています。
30:48 D: 私が、自分の探究に 介入するなら、 私は、自分が願うことを、 見つけるでしょう。  

K: そうです。
私は、何も新しいものを、 見つけないでしょう。 私は、自分が探しているものを、 見つけるでしょう。 
30:56 K: そうです。
30:59 D: が、私は、たぶん、何か新しいものを 見つけることが、できるかもしれません。
31:02 K: はい。で、私自身を 見つめることは、可能ですか - 思考の介入なしに、です。 そうでないですか。 D: はい。それが問いです。 
31:15 K: はい。私たちは、その点に来たのです。
31:17 すなわち、私は、自分の反応の 全体を、観察できますか - 私の楽しみ、絶望、さびしさ、 怒り、暴力、性欲を、 歪曲がないところの 鏡において、です。 考えることがあるとき、思考が 観察するとき、歪曲が、起きます。 D: はい。それは、機械的であるからです。
31:46 K: そうです。そうです。いいですか?
31:48 さて、その鏡は 何ですか。 理解されましたか。
31:57 D: 世界・・・実在です。
32:00 K: 世界・・・ いえ、ちょっと待って。 私が歪曲なく、私自身を見られる ところの鏡は、何ですか - 幻影なく、そして、 思考の介入なく、です。 理解されますか。
32:20 D: はい。 私が苦しむとき、私は、ありのままに 私自身を見るのです。例えば・・・
32:29 K: そうです。そうです。
32:31 D: 何かが 起きたのなら、 心臓に、アドレナリンが 駆け巡るといったことですが、 それは、イメージがある、 抵抗がある、という意味です - それが、衝撃を創り出したのです。 私は、それを見られます。 が、思考が 入るやいなや・・・
32:52 K: 待って。私たちは、それを 検討しようとしています。 その問いについて、 明らかでありましょう。 すなわち、私自身の観察は、ありますか - 私は、世界なのですが - そして、思考の歪曲なしの観察が、 です。 それが、問いです。 鏡は、関係です。 理解されますか。 その鏡において、私は観察します。 私は、嫉妬しています。 私は、怒っています。 私は 支配したがります。私は、野心的です。 あなたと私との間、 妻と夫との間の関係において、 彼らは、見守れます。 それが、鏡です。
33:49 D: 鏡は、現在です。 それは、瞬間です。
33:53 K: そうです。そうです。 関係において、です。
33:58 D: ちょうど起きた関係ではなく、 この瞬間において、ね。
34:04 K: そうです。修道院で 生きている修道士は、 すでに、彼自身を閉ざしています。
34:14 D: 何も関係がない。
34:17 K: 共産主義者は、彼ら自身を 閉ざしてきました。
34:19 D: 観念の中、理想の中に。 K: そうです。そうです。
34:21 D: その理想に填まり込まないものを、 彼らは、見ません。 K: そうです。
34:23 D: 彼は、不正直ですらありません。彼は、 それを見ません。 K: そうです。そうです。 D: が、関係が起きるとき、思考は、 ただちに、それを捉えます - 感受を合理化するように、です。 もし私が、感じていたなら・・・
34:56 K: そうです。 で、関係の鏡において観察する - 私たちの間の関係に、です - 何がまさしく 起きつつあるのかを、です。 D: 思考は、あっては・・・
35:13 K: そうです。
35:14 私は、あの虫が這っているのを、 観察します。私はただ観察します。 「私が観察する」、ではない。 ただ観察が、あるだけです。 ご覧ください。 「観念」(アイディア)と いう言葉は、ギリシャ語からですが、 それは、観察することです。 本当の意味は、観察することです。 観察して、観念を形成するの ではない。 理解されますか。 そうね、それが、 起きつつあることです。
36:01 D: ですが、観察している 精神の状態は、何ですか。 思考は、原因と結果 からであるから - 過去の、です - それは、機械的です。 私が考えるすべては、 過去の物事の混合です。
36:21 K: 過去に起きてきたこと すべての混合です。
36:27 D: 一方に、思考がありますが、 また、他の何かも、あります 私たちがまだ、 触れていなくて、 問題のまわりで、それ自体を 包み込むものが、です。 それは、智恵なのでしょうか。 私はそれを 何と呼ぶべきかを、よく知りませんが、 それは、 智恵なのでしょうか。 たぶん、ふつうの意味での 智恵ではないですが・・・
36:49 K: そうなんです。 あなたが観察した瞬間 - 世界があなた より、分離していないことを、です - それが、智恵なのです。 それは、思考の智恵 ではありません。 「私自身を研究するには、 私は、すべての権威より、 自由でなければならない」と 言うのは、智恵です。 こう言うのは、智恵です - ずるい思考ではありません - 「私は、他の一人との関係において、 私自身を理解できるだけだ」と。 関係の鏡において、私は、私自身を まさにありのままに、見ます。
37:39 D: 反対に、私が、いつも 自分の過去を、分析するなら、 私が、一年や二年前に自分が したことを、分析しようとするなら、 私は戻って、思考を 使っています。
37:50 K: で、それが、論点全体です。 分析は、単に・・・ 分析者、心理分析者 - 彼らは、何をしていますか。 彼らは、あなたなるものの原因を、分析 しています - 過去において、ですね。 そして、分析者は、 思考の動きです。 ゆえに、思考は、 制限されているので、 彼の分析は、制限されているに ちがいありません。
38:20 D: 私は、観察してきました - すなわち、 問題の原因を知ることは・・・ 仮に、私は、自分が娘に怒る ことの原因を、知る、とします。 たとえ、私が原因を知っていると しても、抑圧することは、叶いません
38:34 K: そうです。私は、これより自由 であることは、叶いません。そうです。 で、まさに そうなんです。 原因を理解すること、原因の発見は、 結果を変化させないでしょう。 D: これは、何か、誰もがみな、経験 できることです。 
38:48 K: ええ、そうです。
38:58 K: そのとき、私たちは、 かなり重要な点に、来ます。 それは、観察すること、鏡において、 見ることです- ですね? - まさしく、起きつつあることを、 思考の介入や投影なく、 起きつつあることを、 訂正しようとせずに、です。
39:20 D: それはすべて、きわめて 速く進みます。なぜなら、 そこには、私たちが好きでない物事が - 思考が隠すものが - あるからです。 なぜなら、私たちは、自分の中に、好きで ない物事を、発見するかもしれないからです。
39:33 K: で、気持ちよいことや、 気持ちよくないことを、観察する - 何の選択もなしに、です。 ただ観察する。ですね? さて、その観察の中に、 観察者が、ありますか。 理解されますか。
39:52 D: はい、します。
39:54 K: 観察者があるなら、 それは、やはり思考です。
39:59 D: 過去です。 K: 過去です。
40:06 そうね、誰も、これに入りたく ないんです。理解されますか。 なぜなら、彼らは、あまりに 散漫になっているからです - 自分の野心により、自分の地位により ・ ・・ご存じでしょう。それらです。 彼らは言います - 「これは、自分自身 へのものすごい究明を、必要とする」と。 そして、誰も、 そうしたくありません。 私たちのあるがままで、進んでいく ほうが、はるかに簡単です。 で、私自身を完全に 理解することなしには、 良い社会を創り出す ことは、できません。 ですね? 全体主義者は、いわゆる良い 社会を、創り出そうとしますね。 彼らは、奇怪なものを 生産してきました。 41:07 何も自由が、ありません。抑圧、窒息、 拷問が、あります。ご存じです。 さて、ご覧ください。 こうも美しい日です。 さて、あなたは、あの土地の 美しさを、観察できますか - 緑、樹々、影、とてつもない光を、 「私」なしに、です。 「私」、フランス人、 「私」、ロシア人、 「私」、ヒンドゥー、「私」。 あなたは、それらを観察できますか。
42:08 D: または、「私」、所有者です。 自然について、 そうするほうが、簡単です。
42:16 K: ええ。で、あなたは、 それをできるなら、 なぜここで、同じことを できませんか。 理解されますか。 ここで あなたは、怯えています。 なぜなら、あなたは、自分の何かを 失うかもしれないからです - 自分の立場を。
42:41 D: 自分の職を。
42:44 K: あなたの地位を。あなたは、自分の 民族性を、失うかもしれません。 で、あなたは、「どうぞ ・・・」と言います。
42:53 D: それで、これらを失わない ために、起きることは、 私が物事を、蓄積します - または、 知識や友だちや品物を、です。 損失に備えて、私自身を 保護するために、です。
43:11 K: そうです。ゆえに、 それが、恐れです。
43:15 D: ですが、自己認識の 問題に、拘りましょう。 もし思考が、 機械的であるなら・ ・・ K: 「もし」ではない。それは 機械的です。 
43:23 D: それは、機械的です。
43:28 で、思考なしの観察の 可能性は、どこから来ますか - それが存在するなら、 ですが。 何か他の所が、なくては いけませんが・・・
43:42 K: ええ、まったくです。 あります。 ご覧ください。 あなたが、あれの 美しさを、見つめたとき、 「私」は、ありません でした。 ですね? さて、私は、私自身を、 思考なく、見つめられますか 思考は、過去であり、 ゆえに、制限されていますが、 私は、関係の鏡において、 私自身を、観察できますか。 私たちは、その点に 来たのです。 他の何かへ、逸れて いかないでください。 さて、鏡をどう観察するのか。 理解されますか。 私が、まるで私が、鏡を見ている外部者 であるかのように、観察しているなら・ ・・ ゆえに、イメージは私です - それが、鏡の中にある。 理解されますか。 すなわち、 観察者は、観察されるものです。 D: それが、困難な点です。 
44:50 K: いえ、 いえ、それは、困難ではありません。
44:53 反対に、それは きわめて単純です。 ただ、それを 見つめてください。 観察者は、「私は、自分が見るもの より、異なっている」と、言います。 D: 私はそれを、修正したいと 思います。 
45:15 K: そうです。
45:18 それが、歪曲です。
45:30 D: 変化させたいとの、どの願いも なく、観察すべきです。
45:35 K: 変化させたい、抑圧したい、と。 そうです。観察する。 あなたは、あの花を観察します。 あなたはそれを、変化させられません。 あなたは、あれより、バラの ほうが、好きかもしれませんが、 あなたは、あれを 変化させられません。 それは、とても 興味深いです。 自分自身を知ることは、観察者なく 観察することを、意味しています - 理解されますか - 観察者は、過去です。 観察者は、すべての記憶、連想です - それらの混合物です。 彼は、鏡の中を見るとき、「私は、あれではない。 私は、それを変化させたい」と、言います。 「私は、それを好きでないが、私は、あれが 好きだ。 だから、私はそれを取っておこう」と。 で、あなたは、観察者なしに、 見られますか。 これは、本当の、 人間精神全体の活動です - 思考が、「私は好きだ、私は 好きでない」とか、 思考が「これは正しい。 これは間違って いる」とか、言っているだけではない。 私たちは、人間存在の総体を、 観察しています。
47:25 D: 私や何かが、観察者なしに、観察 できるのかどうか、私は知りませんが・・・
47:33 K: ただ観察する。あなたは、あの緑の 大地を、見つめたとき、そうされました。 あなたは、所有者や、これや あれではありません。 あなたはちょうど、「あの大地は、何と すばらしいのか」と、仰いました。
48:03 D: けれども、私たちは、自分が 他の人たちへ与えようとしている イメージの所有者を、感じます。
48:13 K: そうです。そうです。 D: 私たちは、それに 執着しています。 K: そうです。 「私は、大きな 資産を、持っている」と。 そういうわけで、宗教、 共産主義、マルクス主義、 それらのすべては、本当に 破壊的であるのです。 D: はい。 
48:40 K: なぜなら、それらは すべて、分離的であるからです。
48:58 そうね、私たちは、宗教をとおして、 人類の統合を、持ちえません。 組織された宗教をとおして - ですね? - 国際連合(連合国)を とおして、です。 また、世界中に拡がる 全体主義をとおしても、です。 あなたは、人類の統合を、ゆえに、 良い社会を、持ちうるのは、 民族主義が、完全に 放棄されるとき、だけです - フランス人、イギリス人、 ドイツ人、そうね、 このすべての ばかげた分割が、です。 そうね、革命は、物理的では ありません。 それは、心理的です。 D: 歴史は、それを証明します。世界の 歴史は、それを示します。 
50:17 K: そうです。
50:23 ここで、ではなく、あちらでの革命ね。 D: 「他の人たちを変化させよう」と。
50:28 K: 他の人たちを 変化させろ、とか、
50:32 彼らを、「私」に、 私の様式に、順応させろ、と。
50:42 D: ですが、 この種類の知覚、 観察者と観察されるものとの、 この問題、この智恵ですが、 思考は、助けられないので、 問題が、あります。 何が、この智恵を 誕生させるのでしょうか。
51:05 K: それは、とても単純です。 あなたは、あれを見つめました。 そして、あの美しさを、 観察者なし、「私」なしで、 見つめることこそ - それが、智恵でした。いいえ?
51:23 D: 終わりに、あなたが仰ることに ついて、単純なことは、 この智恵、それは生である、 と言えるんでしょうね。
51:33 K: まだ、それを 定義しないでください。
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