BR81T2 - 意識の内容全体を見つめること home
公開講話、第2回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1981年8月30日

0:55 語り手の写真を撮るより良い ことがあると、私は思います。
1:11 昨日私たちが話していた ことを、 少しおさらい しなくてはいけません。 おそらく、新しい人々が 幾らかいます。 それで、お気に なさらないなら、 私たちは、前回ここで 会ったとき、話したことを 短くおさらいするでしょう。 私たちは、どの種類の 宣伝をも、していません。 また、特定の方向で 考えるように あなたを説得しようとも していないし、 何に加わるようにあなたに 頼んでもいません。 世界が何であるのか、 それが置かれたひどい めちゃくちゃを見て、 私たちはそもそも 真剣であるなら、 現実を客観的に 見つめるべきです - 明瞭さをもって、何の個人的 先入観ももたずに、です。
2:32 私たちは、こう言って いました - 思考は、 世界の大きな災難へ 責任があったこと、 そしてまた、思考は 生の良い物事にも 責任があったことを、です。 例えば、外科手術、 通信などのように、です。 思考は、大きな害を なしてきました - テクノロジーの世界でも、 宗教の世界でも、です。 思考は、戦車、潜水艦を 発明してきました。 思考はまたコンピューターを も発明しました。 それはプログラムされつつあるし、 人を思考で上回るでしょう。 またそれは世界の宗教すべてをも 創り出し、創案してきました。 そして、世界中のそれらの 寺院、神殿の内容を、です。 3:42 思考には何も神聖な ものは、ありません。 けれども、思考は、 自らが創案したものが 神聖であると、 想定します。 そのとき、自らが 創り出してきたものを、 神聖だとして 崇拝しはじめます。 で、思考はそれ自体を 崇拝しています。 それは、一つの形の 自己幻影と自己崇拝です。 私たちは昨日、思考は 完全、全体的ではないし、 けっしてそうではありえ ないと、言っていました。 なぜなら、思考は知識、経験、 記憶に基づいているからです。 記憶なく、知識なしには、 思考はありえないでしょう。 私たちは、健忘症の 状態にあるでしょう。 そして、思考は 部分的であり、 ゆえにけっして完全でなく、 けっして全体的でないので、 何でもそれが創り出す ものは、部分的で 制限されているに ちがいありません。 何でもそれが構想するものは - 至高のものとして、 不滅のものとして、時が ないものとして、ですが - また制限されているに ちがいありません。 5:15 思考は、私たちの問題 すべてを、創り出してきました - 外的にも、内的にも、です。 心理的に私たちは、大変多くの 問題を持っています - 関係の問題、 恐れ、楽しみの問題と、 悲しみの甚大な重荷です - 個人的なものだけではなく、 また人類の地球的な 悲しみも、です。 そして、悲しみが あるところ、 愛や慈悲は ありえません - それは、自らの智恵を 持っています。
6:09 昨日、私たちは、できるなら、 存在の問題全体について ともに考えなければ ならないと、言っていました。 語り手や、あなた自身の特定 の視点に沿ってではなく、 世界が何であるかを 観察します - すなわち、私たち人間が それを創り出してきたのです。 私たちはともに、それを全的に 変容させなくてはいけません。 それは、一人物の 問題ではありません。 それは、私たちみんなに とっての問題や主題です。 私たちはとうてい、 それから逃避できません。
6:56 私たちはまた言っていました - 私たちの意識は、 私たちの存在の まさに構造と本性ですが、 人類すべてが拠って立つ共通の 地盤であることを、です。 私たちは昨日、言っていました - あなたがどこへ行こうとも、 どんな気候風土、 どんな環境でも - 全体主義的でも、 民主主義的でも - 人は苦しむのです。 人は、恐れの重荷を 運んできました。 果てしなく楽しみを 追求しています。 そして、大変な不確実性、 心配、混乱があります。 これは、人類すべてに 共通しています。 彼らが褐色、白、ピンクや 黄や黒であっても、です。 これは、私たちみんなが 拠って立つ共通の地盤です。 これは論理的、理性的で、正気 です。これはこうも明白です。 8:10 しかし私たちは、明白で真実な ことに、進んで向き合いません。 なぜなら、私たちはみんな、 個人性、分離した実体、 分離した人間ということに 立って、考えているからです。 しかし、自らが心理的に、 間近に観察するとき、 私たちの 一人一人の意識は 残りの人類の意識に相似 していることを、見ます。 人類が苦しむところ、 人類は、大変多くの苦労、 心配、憂鬱、さびしさ、混乱、 悲惨を、経ていきます。 私たちの一人一人の ように、です。 で、私たちは 残りの人類です。 あなたは、それを 全面的に拒否し、 私たちはみんな個人であり、 分離不可能だと言うのか、 あるいは、それは幻影で あるかもしれません。 私たちが宗教的にも、 社会的にも、道徳的にも 教育されてきた ところの(幻影)です。 9:38 あるいは、あなたは 実際に観察します - 何の先入観もなく、 何の結論もなく、 あらゆる人間が拠って立つところ の共通の地盤の実際を、です。 あなたがそれを全部、知覚する ときと、知覚するなら - 知的にだけではなく、 自らの心の奥底で、です - そのとき私たちの問題は、個人 の救いや個人の問題ではなく、 人類の - すなわち、 あなたの - 問題です。 だから、私たちは特定の 小さな問題から動いて、 はるかに大きな問題へ 去ります。
10:37 人類の未来は何ですか - コンピューターが、 そうなるであろうように、 私たちの考えすべてに 取って代わるとき、です。 私たちにできるよりはるかに 速く学び、それ自身を訂正し、 人が組み立てた 最初の機器より 良いものを創り出す、 などです。 もちろん、コンピューターは 愛せません。 星や、夕べの美しさを 見つめられませんが、 コンピューターは、人間の問題を はるかに速く解き明かせます。 それで、人に何が 起きますか。 これは、語り手だけが出した 問いではありません。 それはまたコンピューター 産業に関与している いわゆる専門家すべても 出しつつあります。
11:47 で、私たちの意識は、 その内容すべてとともに - 信念、教義、経験、儀式、 民主主義的なものと 全体主義的なもの、 私たちが崇拝する象徴 - すなわち、 思考により創り出されたもの、 恐れ、楽しみ、痛み、 さびしさ、心配、悲しみ。 私たちの意識の内容は それらです。 私は、誰もそれに反駁 できるとは、思いません。 それは、どの種の論争にも 持ちこたえます。
12:50 で、私たちが昨日、 指摘しましたように、 私たちは娯楽を 追求します - 私たちの余生の間と、 未来の世代も、です。 サッカー、 宗教的な娯楽と、それら。 あるいは、全然違った 水準に、動きます。 すなわち、大変深遠に 自分自身を知るのです。 どの精神科医によってでもなく、 どの哲学者によってでもなく、 私たちが何であるかを 実際に発見する。 私たちの本性の複雑さ すべてを、実際に見る。 そしてその方向へ行くのか、 あるいは、他に、です。 それが、人類の前の 問題です。 それが危機です。 金銭的なものや政治的なもの ではなく、戦争の危機ではなく、 人、あなたと残りの私たちは、 どの方向へ私たちは 行くのでしょうか。 私たちにとって 未来は何ですか。 14:21 核爆弾とその他すべては 別として、 私たちはこの挑戦に、その危機に 向き合うほど、真剣ですか。 すなわち、私たちは、 大変深遠に私たち自身を 理解することへ向かうのか、 あるいは、様々な種類の 娯楽でもって、 きわめてきわめて 表面的な生を生きるのか。 私たち自身を理解することは 最も困難な問題の一つです。 娯楽産業の動き全体は 相当に理解しやすい。 しかし、私たち自身を 理解するには - 誰によってでもない。 フロイト、ユングや 最新の心理学者でも、です。 それらすべてを脇に置き、 私たち自身を、見つめる。 私たちは実際に、私たち自身を あるがままに見つめられますか。
15:58 私たちのみんなにおいて、なろう との、この欲求があります - 外的にも、内的にも、 何者かであろうと、です。 外的には、それは明白です。 成功の崇拝です。 内的には、自らのあるがまま 以上の何かであろうとの この動きが、 いつもあります。 なぜなら、私たちは初めに自らが 何であるかを知らないからです。 私たちはいつも熱心に、自らの あるがまま以上でありたいのです。 もっと多くや、もっと良くは、 良いことの敵です。 で、私たち自身を理解する、 私たち自身を見つめる、 すなわち、私たちの意識の 内容すべてに気づいている。 それは可能ですか。 私たちがともに 考えているのを、望みます。 どうぞ、語り手は講話、講義、 説教を行っていません それは、ひどいでしょう。 私たちはともに 考えています。 17:36 それもまた、最もするのが困難な ことの一つであるかもしれません。 なぜなら、私たちは けっして・ ・・ 私たちは、自分の考えることに 関心を持っているので、 私たちは同じことについて、 ともに考えることで 協働できないからです。 (同じこと)それを見つめる - どの視点からでもなく それを自由に見つめる。 それは、最もするのが困難な ことの一つであると思われます。 で、私たちは自分自身を 自由に見つめられますか - 実際に何が 進んでいるのかを、 何の動機、歪曲や 方向もなく、です。 それは可能ですか。
18:27 私たちが言いましたように、 私たちの意識の内容は、 思考によりそこに 置かれています。 私たちが信じている神々、 思考により 創案された象徴、 すべての恐れ、甚大な さびしさの感覚、 暴力 - この内容全体が、 あなたと私です。 私たちは、あの内容を 全体として見つめられますか。 または私たちは、少しずつ 見つめなければなりませんか - 恐れ、楽しみ、痛み、 嘆き、さびしさ、悲しみ、 愛、死、冥想、 などなどなどを、です。 すなわち、 私たちの頭脳は今、部分的に 機能しつつありますが、 その部分が、意識すべての 内容を見つめています。 いいですか。 その内容は、関係を とおして、知覚されえます。 20:08 それは鏡です - そこに私たちの意識の内容が 観察できるのです。 互いの間のその関係は、 親密でも、そうでなくても、 その鏡にあなたは、自分の 恐れの反応を、見られます - 所有欲、支配、暴力、 性的にと、その他で、 すべての反応と応答がその関係に おいて、開示されます - 自らがそれを観察するなら、 それに気づいているなら、です。 それらの反応は一つずつ検討 されることになりますか。 それは、甚大な時間が 掛かるでしょう。 おそらく一生涯です。 それは不可能でしょう。 または、その総体を 一目で知覚できますか。
21:19 質問を理解されますか。 私たちはともに考えていますか。 またはあなたは単に、語り手に 聞いているだけですか。 どうぞ、そうしないでください。 そのときそれは甲斐がありません。 そのとき、それは無意味です。 あなたは単に、たくさんの言葉と 観念が聞こえているだけです。 が、もし私たちが ともに考えて、 ともに人間の構造全体を 観察しているなら - 彼の存在、彼の反応、彼の 痛み、彼の苦しみを、です - そのとき私たちは ともに、同じ道を歩めます - 同じ方向、 同じ動きです。 だから、どうぞ、私たちは ともに考えています。 あなたは単に、語り手に 聞いていません - 彼は当面の間、鏡として 作用するかもしれませんが。 その鏡は、いつ何時でも 壊せます。 その鏡は、保っておく 甲斐がありません。 鏡は単に、 そこにあなたが、 何が実際に進みつつある のかを、見られるものです。
22:32 で、問いは、こうです - 私たちの意識の内容が 意識を作り上げます。 その意識には、これら すべての物事があります - 思考により組み立てられた すべての物事、 究極的原理、すべての神々、 すべての救い主さえも、 すべて思考により、 そこに置かれています。 キリスト教の二千年の宣伝により 条件づけられています。 または、おそらくインドの 四、五千年の宣伝、 伝統などによって、です。
23:30 で、私たちはともに 問いを見つめられますか - 例えば、 恐れの(問い)を、です。 または、直接的に、単純に 私たちの互いとの関係を 見つめられますか。 それで始めましょう。 なぜなら、 そのほうがはるかに近いからです。 自らは、どこに生きていても、 関係しています。 何へかは、大事ではありません - 自然へ、他の人物へ、です。 その関係は何ですか。 関係に本来具わった 問題ではない。 問題ではなく、 関係は何ですか。 私たちは 探究しています - 関係における問題の 解消を、ではなく、 むしろ、ともに 探究しています - 関係についての真理が 何であるかの問いを、です。 それは単に、 感覚的、性的ですか。 それは単に、 仲間付き合いであり、 互いに依存し合うこと、 互いに利用し合うこと、 互いを支配しよう、互いを 所有しようとすることですか。 25:14 またはそれは はるかに深いですか。 どうぞ、あなたが これらの質問をしています。 私が訊ねている だけではありません。 で、私たちはきわめて近く、 深く、関係が何であるかを 探究しなくてはいけません なぜなら、人間関係がこの社会を 創り出してきたからです - 社会的な秩序や 無秩序を、です。 私たちの互いへの関係は、 出てきたものであり、 社会を誕生させつつ あります。 今あるような社会は、 攻撃、暴力、競争、 上下関係の構造に、 基づいています。 私たちの関係は、それに 類似していますか - 貪欲、妬み、嫉妬などに、です。 で、初めにきわめて深く、
26:29 関係が何であるかを 探究しなくてはいけません。 それは単に、楽しみの追求や 自分の欲望の表現ですか。 または、基本的に、 深く、愛がありますか。 で、愛は、欲望とともに 存在できますか。 または、 楽しみとともに、ですか。 または、それらが存在する なら、愛はないのですか。 で、よく気をつけてこれに 入らなくてはいけません。 私たちがそもそも気づいている、 真剣である、それらなら、 そこで関係が葛藤に ならない生を生きることは 可能であるのかどうかを、私たち 自身で発見するように、です。 私たちは昨日、部分的に それについて話しました。 27:42 私たちは、 自分たちの関係は今、 二人の分離した個々人に 基づいていると、言いました。 鉄道のように、けっして 出会わない二本の平行線です。 おそらく彼らは 性的に出会いますが、 その他で、各々が 自分の方向を追求します。 その関係は歪曲されます。 その関係には、甚大な量の 葛藤、悲惨、混乱があります - その関係から他の種類の 関係へ逃避することが、です。 新しい関係には、 同じことが存在します。 それで私たちは 続けていきます。
28:42 で、この分割の深い原因は、 一人一人が分離していると 考えることです。 明白です。 私は、自分の妻より 分離しています。 私は、自分なりに 充足しなければならないし、 彼女は彼女なりに 充足しなければなりません。 彼女は社会的に、成功の梯子を 登らなければなりませんが、 私は、社会的に梯子を 登りたくないかもしれないが、 私は、霊性の梯子を 登りたいかもしれません。 で、私たちの間に 葛藤があります。 なぜなら、各人物が、わが ままを通したいからです。 一人一人が、自分の利己的な 視点で、損耗しています。 それが、私たちの関係における 葛藤の深い根本原因ですか。 そうであるなら、 この分離した感じを 全的に拭い去ることは 可能ですか。 これらに付いてきていますか。 それは可能ですか。 30:00 それは、可能である かもしれません - もし私たちが私たち自身の 本性、私自身の構造を 理解しはじめるなら、です。 私自身は何ですか。 理解されますか。 私たちはそれに 入ろうとしています。 私は何ですか。 名、形、 一定の物理的な構造。 それを別として、私は 数千年の結果です。 ですね? 私の頭脳は、時をとおして 進化してきました - 大変な多くの経験と知識を 蓄積して、です - 継承したものも、 習得したものも、です。 遺伝的に、です - それには 時が関与しています。 そして、私が産まれた ところの条件づけです。 キリスト教、ヒンドゥー教、 仏教の(それ)、暑い気候、 辛い食べ物、寒い気候、美味 しくない食べ物、などなどです。 すみません!
31:46 また、宗教的な 条件づけも、です。 迷信、象徴の崇拝。 実際のものではなく、 象徴の崇拝、 思考により 創り出されたイメージ - 思考によってか、 手によって(のイメージ)です。 信念、教義、儀式、そうね、 私であるすべてです。 私の教育、私の野心、 「私」の構造全体は、 環境の影響、文化的なもの だけではありません。 またいわゆる霊的、 宗教的なものも、です。 そして宗教的な 条件づけは、単に 信念、教義、儀式の古い 伝統を続けていくこと、 一定の無意味な 言葉を反復することです。 で、私はそのすべてです。 32:59 それが、私なるものです。 それが、私たちの 一人一人なるものです - ただ異なった環境において、 ですが、基本的に同じです。 私の頭脳は、部分的にだけ 作動しています。 どうぞ、これは本当に 理解することが重要です - もしあなたがそれへ深く 入りたいなら、です。 私の頭脳は、部分的に 機能しています。 なぜなら、知識は 部分的であるからです。 知識は何についても、けっして 完全ではありえません - 最も複雑なテクノロジーについて さえ、それは完全ではありません。 いつも、何か新しいことが 起きつつあります。 そして、経験の蓄積された知識は きわめて制限されています。 34:00 で、知識はいつも、 無知と相伴います。 で、頭脳は、知識の 訓練をされているし、 無知の中で生きるのを 継続します。 それらはどちらも 機能しています。 で、頭脳は部分的に 機能しています。 なぜなら、それは知識に 基づいているからです。 それで、何でもそれがすることは 部分的であるにちがいありません。 ゆえにその行為は、部分的で あるにちがいありません。 そして、行為が部分的であるとき、 後悔、痛み、心配、悩み、 さびしさがあるにちがいありま せん。 続くものすべてが、です。 そして、頭脳の部分的な活動が 生を砕いてきたのです - ビジネス生活、宗教的生活、 家族生活、霊的生活、 テクノロジー的生活、と。 よろしいですか。 35:13 それは、それを 砕いてきたのです。 なぜなら、頭脳自体が 部分的である、 それは全体として作動して いないからです。 ですね? これは、私たちの間で幾らか 明らかですか。 いいです。 で、関係は思考に基づいた とき - 今それはそうです - それは部分的であるから、分割が あり、ゆえに葛藤があります。
35:55 次の問いはこうです - 頭脳は 全体として機能できますか。 いいですか? それは可能ですか。 なぜなら、私たちは 数千年の間、 ただ部分的に機能するよう 訓練されてきたからです。 私たちはともに、自分たちの 生での部分的効果を、 理解しなければなりません - 楽しみより分離した恐れ、 痛みから分離した楽しみ、 悲しみから分離した痛み、 などとして、です。 または、私たちは 存在の動き全体を 全体として 見つめられますか。 私たちが理解しつつあるのを 望みます。 これらの線に沿って 継続してもいいですか。
37:11 私たちは、それは 可能であると言っています。 それは 芸当ではありません。 何も語り手から 学ばれることではない。 始められるべき新しい流派 - 導師とそれらの戯言 - ではない。 このことは、自分自身で 発見できます。 ゆえにあなたは、そのとき あらゆる人から自由ですし、 あなたは誰にも 依存しません。 私たちはそれに 入ろうとしています。 すなわち、それが可能であるのか どうかを、私たち自身で見出す - 数千年の間、頭脳は 部分的にだけ活動的 であったけれども、 頭脳が全体として 機能することが 可能であるのか どうかを、です。 そのときそれは、ものすごい エネルギーを持つでしょう。 いいですか? 悪さをするためではなく、 全体的であり、 砕けていない生を生きる、 ゆえに善い生を 生きるように、です。 それが可能であるのか どうかを、見出しましょう。
38:44 初めに、私たちの意識の内容の 中から、恐れを取り出しましょう。 私たちは関係について 話しました。 ともに恐れについて 話しましょう。 あなたは、今そこに 座っていて、恐れを 持っていないかもしれません。 持っていないのを望みますが、 私たちの背景は - 私たちの日々の生において、 自らが恐れの様々な要因を 意識しているのか、 あるいはそれを無視する、それを 受け入れる、そして続けていく。 すなわち、恐れが慣習に なってしまったのです。 ゆえに頭脳は、自然と 鈍くなります。 何でも慣習になるとき、 それは課業になります。 39:41 それは活動的では ありません。 どの専門化した経歴も、それは 部分的に活動的であるけれども、 その残りは、無活動的です。 で、私たちの生の要因の 一つは、恐れです。 こうも多くの形の恐れ - ものすごいさびしさの 恐れ、死の恐れ、 暗闇の恐れ、 1ダースの物事の恐れです。 しかし、私たちは恐れを全体 として見つめられますか。 私の特定の形の恐れ、 私のさびしさではなく、 隠れた恐れも、 明白なものも、です。 恐れの動き全体を 見出せるか、 発見できるか、 観察できますか。 40:53 いいですか? まず第一に それは可能ですか。 その言葉を使っていいなら、 全包括的(ホリスティック)に 観察できますか - その言葉を科学は受け入れつつ あります。 全包括的に、です。 私たちは、私たち自身を 全体として見つめられますか。 すなわち、恐れを取って、 それを全体として見つめる。 すなわち、 恐れの原因を、です。 あなたが原因を発見するとき、 確かに原因に終わりがあります。 私が自分は癌に罹っている ことを発見するなら - それが痛みの原因です - そのときそれは、除去できるか、 あるいは私は死にます。
41:51 で、自分自身で発見 しなくてはいけません - 教えられるのではなく、 誰かから学ぶのではなく、 恐れの根を、です。 恐れの根は何ですか。 それは時ですか。 時は、過去であり、 現在に出会い、 未来において それ自体を修正します。 昨日から今日と明日への 動き - それが時です。 恐れの根本原因は 時ですか。 明日、私は存在しないかも しれないとの恐れ、 成功を収めないことの恐れ、 これであり、あれを 欲しいことの恐れ、 あれを欲しいが、あれを達成 できないこと(の恐れ)などです。 で、私たちは訊ねています - 恐れは時の事柄ですか。 43:19 待って、見出してください。 恐れはまた 思考の動きです。 ですね? 私は先週、痛みが ありました。 私は来週、再び痛みが あるかもしれません - 時の要素があります。 「私は痛みがあった」と言う 思考、その記憶。 その記憶が来週へ 継続し、 「気をつけろ。 再び痛みはなしだ」 と言います。恐れがあります。 で、恐れの根は 時と思考ですか。 または、 時は思考ですか。 それらは二つの分離した動きで はありません。時が思考です。
44:26 これらに退屈しかけて おられますか。 すてきな日です。 あなたは お出かけできます。 で、時は動きです。 先週から今日と明日です。 思考もまた動きです。 先週の痛みの知識から 生まれて、 来週、それを再び 欲しくないのです。 で、時は思考です。 それで、時・ 思考が 恐れの根です。 時や思考をどう 止めるのか、ではなく、 私たちは、恐れの 原因を観察しています。 原因について何を するのか、ではない。 あなたが原因を消去する ために、行為するなら - どうぞ、気をつけてこれに 付いてきてください - あなたが原因を 消去したいと願うなら、 そのときあなたは、やはり 時に捕らわれています。 あなたはそれを できないかもしれません。 そのときあなたは、誰かに自分を 助けてもらうのを探求するか、 頼みます。 そしてあなたは またもや戻っています。 これらに付いてきて いますか。いいですか。
45:57 すなわち、もう一度 説明させてください。 私は、恐れの原因を 見出したい。 恐れの枝々を 刈り取るのではなく、 恐れのまさに根を、 私の恐れすべての、 さびしさ、絶望の原因を、 他の人への恐れ、傷つくこと への恐れの(原因を)です。 私は子ども時代から 傷ついています。 他の男の子たち、親、学校、 専門校から、です。 私はいつの時も 傷つきつつあります。 私は傷ついています。 なぜなら ・・・ 傷の原因は、私が 自分自身についてイメージを 持っていることです。 私の親が私に与えてきた イメージ、 社会が私に 与えてきたものと、 私自身が自分自身について 築いてきたイメージです。 で、私が、私は傷ついて いると言うとき、 私が自分自身で創り出してきた イメージ - それが「私」です - イメージが踏みつけられて、 それは傷つきます。 47:21 その傷の帰結は、 抵抗すること、 自分自身のまわりに 壁を築くことです。 ますますさびしくなり、 回避している - それらの ことは、ご存じです。 で、次第に私は、神経症の症状 すべてをもって、引き下がります。 で、私は、その根を 消去することが 可能であるのかどうかを 見出したいのです。 初めにその根を、そして原因に ついて何をすべきかを、 見出すことが(可能か)です。 ですね? 私の動機は、原因が 恐れをもたらすから、 それから自由であること ですか。 ゆえに私は、 私の動機はそれより自由である ことである、と言います。 動機があるとき、その動機 こそが、恐れになります。 これを理解なさるのか どうかと思われます。 付いてきておられますか。 よろしい。 みなさんは困ったように 見えます。説明しましょう。
48:36 私は恐れの根を、自分自身で 発見したのです - 時・思考です。 それが原因です。 基本的な 原因で、論駁不可能です。 私の自然な本能は、原因 から自由であることです。 それで、私は恐れから 自由になるでしょう。 恐れから自由であるのは すばらしいことです。 で、動機が原因を 彩ります。 または動機が、 何の方向で 原因が解消するであろうかを 方向づけます。 付いてきておられるのか どうかと思われます。 いいですか? いいえ? やれまあ、 私たちは何でもかんでも説明しなく てはなりません。そうでしょう。
49:41 動機とは何ですか。 その言葉の意味は 動きです。 動きは、原因から自由でありたい との私の欲望です。 ですね? 「私は、恐れの痛みすべて 自由であるために、 あれから自由でなければ ならない」と言う私の欲望。 私の欲望は何ですか。 欲望は何ですか。 よろしいですか。 私は、恐れでもって 出発しました - 恐れの根が何であるかを 検討することによって、です。 私は恐れの根を発見したのです - それは、思考・ 時です。 そして私の動機は、それ から自由であることです。 それが私の欲望、私の意志です - それから自由であることが、です。 50:33 で、私は、欲望が何であるかを 探究しなくてはいけません - それは、「私はそれから自由で なければならない」と言います。 欲望自体が 恐れであるかもしれません。 欲望自体が原因であるかも しれません。 理解されますか。 で、私は、 欲望が何であるかを、 きわめて間近で検討 しなくてはいけません。 どうぞ、私たちはともに それをしています。 私が検討していて、あなたは 聞いているだけではない。 ともに私たちは検討し、 探検し、究明しています - 欲望の本性と動きを 覗き見ています。
51:14 欲望とは何ですか。 それは感受ですか。 それは、思考により 変容された感受ですか - 原因から自由であるとの イメージをもって、です。 これに付いてきて おられますか。 これは、一つの朝に あなたにとって あまりに 多すぎることですか。 すなわち、私は感受を持って います。 感受は恐れです。 ですね? それは感受です - 不快で、狭まり、 醜いものです - そして私は、それの原因を 見つけたのです。 そして欲望は、原因を 取り除け、と言います。 なぜなら、原因は感受の 一部であるからです。 ですね?  そして欲望もまた 感受の一部です。ですね? その感受は思考により 顕現します - 原因から自由であるとの イメージをもって、です。 ですね? これは多すぎますか。 よろしい。はるかに 単純にしましょう。
53:05 初めに、私は 感受を持ちます - すなわち、私は恐れの原因から 自由でなければならない、と。 それが感受です。 原因から自由であるとの 思考を目覚めさせる感受。 すなわち、私は 何か快いものを見ます。 知覚、見ることが、原因になり、 感受を引き起こす。 そのとき接触、 そのとき思考が、私があの 青いシャツか、青いドレスか、 それが何でも、着ている イメージを創り出す。 よろしいですか。 それが動きです。 初めに知覚、感受、 接触、触れ合い、 そのとき思考が、 「私はあの青いシャツで 何てすてきに見える だろう」と言います。 または、「あのピンクの ドレスで」と。 54:14 で、欲望は 感受の動きです。 そのとき思考が イメージを創り出す。 その瞬間から、欲望が 生まれます。 それは明らかですか。 で、そのとき、欲望自体が 恐れの原因になります。 いいですか。  これを ご覧になっていますか。 私は恐れの原因を、 基礎的原因へ辿ってきました。 そのとき欲望は、「私は それから自由でなければ ならない」と言います。 その欲望は、私が自由である とのイメージです。 そのイメージが 傷つこうとしています。 いいですか。 で、私は 恐れに戻っています。 それをご覧になるのか どうかと、思われます。 いいですか。 私は進んでいいですか。
55:35 で、これが、 恐れの動き全体です。 部分的な頭脳がそれに 関して取る、どの行為も、 やはり、恐れの枠組みの 中にあります。 あなたがこれを悟られるのか どうかと、思われます。 すなわち、恐れの本性へ 洞察を持つこと。 その洞察こそが 恐れを解消します。 そのときあなたは、 洞察は何であるかを 訊ねていいかもしれません。 私はこれらを 続けましょうか。 あなたたちは、暑い日に とても辛抱強い。
56:26 そうね、私たちが 見出そうとしているのは、 頭脳の全体が作動 できるのかどうか、です。 部分的な頭脳ではない。 なぜなら、頭脳全体が 作動できるなら、 制限された頭脳が創り出して きた物事は、消え去るからです。 部分は全体に消え去ります。 理解されますか。 で、私は発見しなくては いけません。 私たちは見出さなくては いけません - そもそも 頭脳全体が作動することが可能 であるのかどうかを、です。 そのとき、何でも部分が 創り出してきたものは、 解消されます。 部分は存在しません。 なぜなら、それは 全体的であるからです。 ご覧になるのかどうかと 思われますか。 ですね? そして洞察は、 全体の行為です。 なぜなら、それは時に 基づいていないからです。 それは、知識に、思い出に 基づいていなくて、 恐れの真理への瞬時の知覚に (基づいているの)です。 それは、行為するよう 頭脳全体を開くことです。 私はこれについて、 何かを伝えていますか。
58:05 すなわち、ご覧ください。 私たちは今、作動しています。 私たちの行為全体は、 知識に基づいています - 経験、知識、記憶、 思考、行為です。 ですね? それが、私たちの作動の 仕方です - 経験、知識、 記憶が頭脳に蓄えられた。 思考、行為、 その行為から私たちは、もっと 学ぶし、様式を反復します。 それは十分に単純です。 ですね? これが、いつの時も実際に 起きつつあることです。 もっと学ぶ - 緩やかにか、 速くか、です。 行為する。 その行為から もっと学ぶ。 これが、思考が作動している ところの循環です。 この作動の中で、私たちは すべての問題を持っています - 言語的、社会的、宗教的、 などです。ですね? 59:27 洞察は、記憶に基づいた 行為ではありません - 経験、知識、記憶、思考、 行為に基づいていない。 それは、そのすべてから 自由です。 確かにあなたは、何かを 即時に見る機会が、 瞬時に何かを理解する機会が あったにちがいありません。 その深い理解から、 あなたは行為します。 それは、私たちのみんなに 起きてきたのです - 詩人、芸術家、科学者の場合の ように部分的にか、あるいは 本当に宗教的な人々、深く深遠に 宗教的な人々において、です。 正統派の宗教では ありません。 彼らはものすごい洞察を 持つし、 全体の明瞭さが 明らかにされます。 私たちは進みながら、 それに入るでしょう。
1:00:33 この意識の内容の要因の 一つは、楽しみの追求です - 恐れとは違っています。 私たちは恐れを回避します。 恐れから逃げ去ります。 それを覆い隠し、 楽しみを追求します。 性的に、十の違った やり方で、です。 評判の楽しみ、あなたたちへ 話をする楽しみ - 私はそれを持っていません。 あり がたい! などなどなど、です。 で、楽しみとは何ですか。 なぜ人は楽しみに縋りつき、 楽しみを追求しますか。 記録なき時から 楽しみは、 人が追求してきた原理の 一つであったのです - 神の名において、 平和の名において、 十の違った仕方で、です。 楽しみは何ですか。 なぜ 楽しみへのこの拘りですか - 外面的にも、 内的にも、です。 1:01:52 楽しみは記憶ですか。 過去の何かの思い出、 それはあなたに喜びを 与えてくれました - 知覚の瞬間に 喜びを、です。 そのとき、その思い出と、 事実ではなく、思い出を 追求すること。 ですね?  すなわち、 楽しみは思い出ですか。 未来としての楽しみ。 未来に楽しみがありますか。 それは、望みなどですが。 で、どうぞ、検討してください。 ともにそれを見つめましょう - 人間たちが追求してきた この要因を、です。 何千年の間、神の名において、 国家、民族の名において、 あらゆる形の楽しみを、 ですが、 私たちはなぜ楽しみを 追求してきましたか。 いつも、恐れを回避し、 これを追求する。 または、それらはどちらも 互いに関係し合っていますか。
1:03:20 楽しみとは何ですか。 あなたは、日の入りを 見つめます - 日の入りの輝きすべて、 その美しさ、光輝、 雲に当たる とてつもない光。 あの瞬間に、あなたは 自分自身を忘れてしまったし、 あなたは、この日の入りを 見つめています。 それは記録されます - あの喜びが、です。 そして、あなたは 記録を追求します。 日の入りの現実を、 ではない。 ですね? これが、起きることです。 あなたは、性的な楽しみを 得てきたかもしれません。 そのとき、その思い出と、 その追求、 または、違った形の 楽しみです。そうね、 1:04:27 私はそれらに入らないでしょう。 それは相当に単純です。 で、楽しみは思い出ですか。 で、楽しみは思考ですか。 で、楽しみは時ですか。 もちろん、そうです。 で、思考・ 時は 恐れの動きでもあります。 楽しみと同じくです。 これを ご覧になるのを望みます。 私からではなく、あなた自身で それを見てください。 あなたはそれのとてつもない 実在性を、見るでしょう - すなわち、思考と時が、 楽しみ、痛み、恐れの 要因であったのです。 そして、愛は 思考と時ですか。
1:05:27 さて私たちは、愛を楽しみに 関連づけてきました - それに関与した問題 すべてとともに、です。 嫉妬、心配、所有欲、 依存、それらです。 で、自らは理解し、愛が 何であるかのこの問い 全体に入らなくては いけません。 言語的にそれに入られますが、 言葉は、事実ではありません。 感じ、その深さ、その美しさ、 その活力ではありません。 で、愛は欲望でないし、 楽しみでないのなら、 そのとき、 それは何ですか。 それは、自己がないときだけ、 生じてきますか。 自己は時と思考です。 これらに付いてきておられる のかどうかと、思われます。 1:06:45 「私」は時と思考です。 それが存在するかぎり、他方は とうてい存在できません。 愛は、利己性とともに 存在できません。 利己性は、異なった形を 取るかもしれません。 それを、子ヤギの革手袋とバラ色 で包み隠すかもしれませんが、 それはやはり利己性です。 すなわち、 「私」と「あなた」です。 自らの心にあの要素が 存在するかぎり、 明白に、他方は 存在できません。 あなたは神の愛、イエスの 愛、ブッダの愛などについて 話をするかもしれませんが、それは すべて空っぽの言葉だけです。
1:07:39 で、愛は、頭脳の全体が 目覚めることですか。 理解されますか。 私たちは、気をつけて これに入ってきました。 すなわち、私たちは、 関係、様々な形の傷、 自分自身についての イメージで、出発しました。 そのイメージが傷つきます。 うれしがります。 それで関係は、いつも 分離したままに留まります。 けっして出会わない 二本の線路です。 そして恐れは、楽しみと 同じく、時・ 思考です。 愛は、時・ 思考、 思い出ですか。 時・ 思考は、私自身の構造 全体を、組み立ててきました - 遺伝的にもまた 心理的にも、です。 自己としてのその構造が 存在するところ、 愛はとうてい存在 できません。明白です。
1:09:04 そのとき、訊ねても いいかもしれません - 私は何をする ことになりますか。 私はこの事実を見ます。 私は論理的に同意します。 私は、あなたが言っている ことの健全性を、見ますが、 私はやはり、ひどく 自己中心的ですし、 私はやはり自分の妻を 愛しています。 で、私は何をすることに なりますか。 いいですか? それは、明白で、かなり 制限された問いです。 あなたがその質問を するとき - 「私は何をすることに なりますか」と。 その問いの理由、 その原因は、何ですか。 あなたは、何をすべきかを 語ってもらうために、 他の誰かに 訊ねているのか - もちろん、何をすべきかを助けて くれる人々は、何千もいます。 あるいは、あなたは 何をすべきでないかを 見出すために、 その質問をしています。 理解されますか。 あなたが、何をすべきかを訊ねる なら、それは十分に単純です。 1:10:32 彼らはあなたに語ってくれる でしょう - 冥想しなさい。 このように座りなさい。 あのように呼吸しなさい、 空中浮揚しなさい、それだけ 払いなさい、その他すべてです。 しかし、そうね、 あなたが 「私は何を・ ・・」と訊ねる なら・・・ 何でもあなたがすることはやはり 利己的であることを、悟ります。 いいですね? 理解されますか。 もし私が、「私は 自分自身を取り除かなければ ならない」と言うなら、 それはやはり 自己の動きです。 もしそれを悟るなら、そのとき あなたは何一つしません。 それは、行為の 全的な否定です。 行為の全的な否定であるものが 行為です。 理解されますか。 それをお分かりになるのか どうかと思われます。 いいです。
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