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質疑応答集会 第2回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1982年9月2日

0:59 なぜみなさんは私に 聞くのかと、思われます。 私は真剣に、これを お訊きしています。 軽々しく、ではない。 なぜ私たちは、 他の人に聞きますか。 そうすべきでない、ということ ではなく、なぜですか。 私たちは、自らの主題をよくよく 知っている誰かに、聞くし、 私たちは、それについて 情報を得たいのか、 あるいは、私たちは、 何か専門家、 専門職の人へ 向かいます - 自分の特定の研究について 議論するであろう人に、です。 または、私たちは 何か音楽を聞きます。 モーツアルト、ベートーヴェン などを、です。 そして私たちは、それに 喜び、それに刺激されます。 それの美しさを見、 それを楽しみます。 私たちが、なぜあなたは語り手に 聞いていますか、と訊ねるとき、 あなたは、彼を どの範疇へ、入れますか。 2:48 それは必要で正しいだろうと、 私は思います - もしも私たちが協働して、これらの 問いを探査できたなら、です。 すなわち、私たちは みんな一緒に これらの問いの探検に 与ります。 協働します。 語り手が問いを読む、 彼がそれを究明する、 というのではなく、 もしも私たちが、ともに それをできたなら、 それは本当に、とてつもなく 善くて重要になるでしょう。 私たちのほとんどは、どう 協働するのかを、知りません。 私たちは、観念をめぐって 協働します - 私たちがその観念に 同意するなら、です。 または、私たちは理想を めぐって協働します - その理想が実行されるべき であると確信すると、 そのとき私たちは みんな、まとまります。 私たちがその理想に 同意するなら、です。 4:03 すなわち、それで、その理想で 私たちがうれしいなら、です。 または、私たちは、人物を、 何か権威をめぐって協働します。 私たちが、司教や司祭者を めぐってそうするように、です。 または、導師や、それらの 人々の誰をめぐっても、ですが、 それはすべて、 私たちが何かについて 協働することを、含蓄して います。 そうでしょう。 または、何かでもってか、 何かのために、です。 しかし、ここで、私たちは その意味で協働していません。 私たちは、人格的でない 協働が、ほしいのです - 観念、権威などと何の 関わりもないもの、 協働の感じが、です。 話を明らかにできているのか どうかと、思われます。
5:02 みんなで、この問題にともに 取り込もう、という感じです。 なぜなら、それは、私たちの生の ほとんどの問題であるからです。 私たちは、こうも多くの 問題を、持っています - 物理的、心理的なものと、 思考により 創案された問題です。 私たちは、これらの問題と ともに生きます - 果てしなく、 私たちが死ぬまで、です。 私たちは、どの問題からも けっして、自由ではありません。 私たちはいつも、それらを 持ち運んでいます。 そして私たちは、唯一の 問題もなく生を生きるとは、 どういう意味であるかを、 けっして見出そうとしないのです。 初めに心理的に、です。 外的に、ではありません - 私たちは一般的にそうします。 初めに、外的な問題を 解決しよう、と。 それから、私たちは他方に 取り組むでしょう。 6:09 しかし、私は、それがけっして そのように働くとは、思いません。 私たちは初めに、心理的な問題を 解決しなくてはいけません。 そのとき、他の問題は、 智恵をもって、協働的に 理解できるでしょう。 行為されるでしょう。 で、どうぞ、私たちは ともに協働しています。 あなたが語り手と 協働しているわけではない - または、語り手が言う ことと、でもないのです。 これらの問題の幾つかを解消 するよう、まとまっています。
6:54 第一の問い: 「私たちの ほとんどは、結婚しています。 または、親しい関係に 関与しています。 それらは、すべての間違った 理由のために始まりました - あなたが、こうも正確に 叙述してこられたものです。 そういう結婚や関係は、 いったい、 本当に肯定的な力へ 変えられますか。」
7:24 K: お気の毒に。
7:32 問い: 「私たちのほとんどは、 結婚しているか、 親しい関係に 関与しています。 それらは、すべての間違った 理由のために始まりました - あなたが、こうも正確に 叙述してこられたものです。 そういう結婚や関係は、 いったい、 本当に肯定的な力へ 変えられますか。」
7:59 K: さて、私たちは、この 問いに、どう取り組みますか。 私たちは先日、 その問いへ入りました。 関係とは 何であるのかに、です。 他の一人へ関係するとは どういう意味ですか。 あなたは、きわめて 親しく親密に物理的に 関係しているかも しれませんが、 私たちはいったい、心理的に、 内的に関係していますか。 ロマンチックに、 感傷的に、ではない。 関係しているとの 感じです。 「関係」という言葉は、 他の一人と接触している、 全体性(健全さ)の感覚を 持つ、という意味です - 分離した実体としてであり、それから まとまり、全体だと感じるのではない。 関係こそが、この性質を もたらします - 分離していないとの この感じを、です。 9:35 これは本当に、まったく 重要な問いです。 なぜなら、私たちの 生のほとんどは、 こうもひどく孤立し、 隔離されているからです - 私たちが心理的に動揺しないように 気をつけて構築されています。 そういう関係は、必然的に 葛藤と動揺を、もたらすでしょう - そして、自分の持つ神経症的な 振るまいすべてを、です。 で、初めに、ともに 明らかでありましょう - 私たちがいう関係とは どういう意味であるのか。 その言葉の意味、 言語的な意味だけではなく、 その言葉の裏、二人の人々の 裏に横たわる意義も、です。 10:43 関係するとは、 どういう意味ですか。 私たちは、いったい 関係していますか - その言葉の深い、深遠な 意味において、です。 その種類の関係が、 ありえますか - 海の深さのような、深い、 動揺していないものが、です。 関係がありえますか - もし私たちの一人一人が、 自分の特定の道を、 特定の欲望、特定の野心などを 追求しているなら、です。 もしこれらの物事が存在している なら、そういう関係がありえますか。 もし私たちが、「どうしてそれらが 存在できないのか」と言うなら、です 私たちの一人一人が充足する こと、私たちの一人一人が、 お互いに花開くことが 必要ではないですか 11:54 - それが何を 意味していようとも、です。 その分離性の感覚は 存在しています。 もし私たちの一人一人が、私たちは 互いに助け合っていると言うなら - 花開くよう、成長するよう、充足する よう、ともに幸せであるように、です - そのとき自らは、やはり、 孤立した精神を、維持しています。 さて、なぜ精神や 頭脳は、人間存在は、 いつも分離主義に 縋りつきますか。
12:38 どうぞ、これは、きわめて、 深刻な、真剣な問いです。 なぜ人間たちは、 歴史をとおして、 この孤立、隔絶の感覚を、 維持してきましたか - 分離主義、 分割(の感覚)を、です。 あなたは、カトリックです。 私は、プロテスタントです。 あなたはあの集団に所属しています。 彼は、あの集団に所属しています。 私は、紫の衣、 黄色の衣を、まといます。 または、私の何らかしらの まわりに、花輪をかけます。 そして私たちは、 これを維持します そして私たちは、関係、愛と、 その他すべてについて、話します。 さて、なぜですか。 どうぞ、私たちは 協働しています。 ともに究明しています。 なぜ私たちは こうしますか。 13:45 それは、意識的、 意図的ですか。 あるいは、 無意識的ですか - 伝統、 私たちの教育ですか。 宗教的な構造全体が、あなたは 分離していることを、維持します - 分離した魂、等々を、です。 または、それは、 思考がそれ自体、分離的 である、ということですか。 理解されますか。 私は、私はあなたより 分離していると、考えます。 私は、私の振るまいがあなたより分離 しているにちがいないと、考えます。 なぜなら、さもないと私たちは自動的に なるだろうとの恐れが、あるからです - ゾンビ(になる)、互いに 模倣し合う、と(の恐れが、です)。 思考が、生における この分離主義の原因ですか。 どうぞ、ともにここを 究明してください。 15:13 思考は世界を、民族性へ分離 してきました。そうですね? あなたはイギリス人です。 他の一人はドイツ人です。 私はフランス人です。 あなたはロシア人です、などと。 この分割は、思考により 創り出されています。 そして思考は、この分離主義 の中、この分割の中に、 安全があると、 想定します。 コミューンに所属していて、 同じ集団に所属していて、 同じ導師を信じていて、 導師の布告に沿って、 同じ衣服、着ているものを 信じていて、 自分は安全だと 感じます。 少なくとも、 安全だとの幻影です。
16:22 それで、私たちは 訊ねています - 私たちを分離するのは、 楽しみ、 楽しめる欲望ですか - それはまた、 思考の動きでもあります。 いいですか?  すなわち、 思考はいったい完全ですか。 全体的ですか。 なぜなら、思考は知識に 基づいているからです - それ(知識)は、広大な、 人の蓄積された経験です。 科学的、テクノロジー的な 世界においても、 あるいは、 心理的にも、ですね? 私たちは、大変多くの 知識を、蓄積してきました - 外的にと、 内的に、です。 そして、思考は、その 知識から出てきたものです。 17:31 記憶、知識、経験としての 思考。ですね? で、知識は、けっして 完全ではありえません - 私たちは 同意しますか - 何についても、です。 神について、涅槃について、 天国について、科学に ついて、何でも、です。 で、知識はいつも、無知の影と 相伴うにちがいありません。 どうぞ、この事実を ともに見てください。 で、思考が、関係の 平野へ入るとき、 それは、分割を創り出すに ちがいありません。 なぜなら、思考自体が 断片化しているからです。 思考自体が制限されて います。そうですね?
18:31 これが、私たちのみんなに 明らかであるなら - 私はそれを 説明していません。 あなたがそれを、自分自身で 発見しています - そのとき知識は、関係において どんな所を、持っていますか。 どうぞ、これは 深刻な問いです。 それは、気軽な論争好きな 提言だけではありません。 これは、知識がどんな所を 持っているかへの探究です - 経験、 蓄積された記憶が、 関係において(どんな所を 持っているか)、です。 どうぞ、私を見つめないで、あなた 自身、これに答えてください。 もし私が、「私は自分の妻を 知っている」と言うなら - または、他の形の 親密な関係ですが - 私はすでに、その人物を、 彼女や彼についての 私の知識の枠組みの中に、 入れてしまいました。 で、私の知識は 分割的な過程になります。 20:08 私は、自分の妻と ともに生きてきました - または夫、彼女や、 何とでも、です。 そして私は、情報を 蓄積してきました。 私は、彼女がした辛い 発言を、憶えてきました。 または、自分が してきたものを、です。 イメージとしてのこの記憶の 築き上げ全体が、あります。 それが、他の一人との私の関係に 介入します。 そうですね? どうぞ、自分自身の中で これを観察してください。 そして彼女は、全く 同じことを、しています。 で、私たちは 訊ねています - 関係において、知識は どんな所を、持っていますか。 知識は愛ですか。 私は、自分の妻を知って いるかもしれません - 彼女の見え方、彼女の振るまい 方、一定の習慣などを、です。 それは、相当に 明白ですが、 なぜ私は、「私は彼女を知って いる」と言うべきですか。 または、「彼を (知っている)」と。 21:52 私が、「私は知っている」 と言うとき、 私はすでに、自分の関係を 制限したのです。 あなたが理解なさるのか どうか、私は知りません。 私はすでに、 私自身と彼女との間に、 邪魔物、障壁を 創り出したのです。 それは、私の彼女への 関係において 私は無責任になる、 という意味ですか。 質問を理解されますか。 もし私が、「私は基本的に あなたを知らない」と言うなら、 私は無責任ですか。 または、私は、とてつもなく 敏感になったのですか。 私が、「開いた」という その言葉を使っていいなら - それは間違った言葉です。 私は脆弱です。 私は、分割の感覚を 持っていません。 障壁を持っていません。
23:08 で、もし私が、精神、頭脳の あの性質を、持っているなら - または、関係において、 それは花開いている、 それは動きであるとの 感じを、です。 それは、静止した状態では ありません。 それは、 生きているものです。 あなたは、それを 檻に入れて、 「それがあれだ」とは言えません。 そこから動かないでください。 そのとき、私たちは訊ねはじめ られます - 結婚とは何ですか。 いいですか? または、結婚でないとは。 自分は、他の一人とともに 生きるかもしれません - 性的にか、仲間付き合い、 手を取り合う、話し合う、 そうね、その他すべてです。 そして、登記官へ行くか、 カトリックやプロテスタントの 儀式を行う。 そして私は、 結びつけられています。 神だけに、それを 片付けてもらいましょう。 それは、絶対的に 何の意味もありません。 一つの形の伝統だけです。 24:32 または私は、結婚することなく、 他の一人と生きるかもしれません。 むしろ、一方では 一定の条件において、 私は、責任の誓いを 立てたのです。 他方では、 私は立てません。 そして、一方で、私は 法的に結婚しています。 離別、離婚は、かなり 困難になります。 他方では、それは 相当に単純です。 私たちは互いに、さようならを 言い、別方向へ歩み去ります。 それが、世の中でますます 起きつつあることです。 私たちはまた、非難も していません。 どうぞ、私たちは、この問題 全体を、見つめているだけです。 子ども、責任と、 子どもたちのこのものすごい 重荷の感じをもって、です。 25:48 そこに、あなたは法的に 縛られています。 他方では、あなたは そうではありません。 あなたは、子どもを 持つかもしれませんが、 いつも、この開いた 扉が、あります。 さて、これらの場合の どちらにも、すべての関係は、 単なる一つの形の 魅力ですか。 双方の生物的な応答、 好奇心、 他の一人と一緒にいたい との感覚ですか - それは、無意識的なさびしさの 恐れから出てきたもの、 この習慣を確立してきた 伝統であるかもしれません。 さて、どちらの場合にも、 それは、習慣になりえますね。 そして、 どちらの場合にも、 失うことの恐れが あります。 所有すること、 性的に互いを利用し合うこと、 その他すべてが、続きます。 27:38 さて、どちらの場合にも、 何が重要ですか。 どうぞ、私たちは ともに話し合っています。 私はあなたに、何があるのか、何が ないのかを、語っていません。 どちらの場合にも、 何が重要で、必要ですか。 責任は本質的です。 ですね? 私は、ともに生きる 人々に、責任があります。 私は、自分の妻について 責任があるだけでなく、 私は、世界で起きつつ あることに、責任があります。 私は責任があります。 人々が殺されないよう、 見届ける責任が、あります。 私は責任があります。 私は、暴力がないよう 見届ける責任が、あります。
28:56 で、私の責任は、その人だけに 対して、ですか。 そして、私の家族に対して、私の 子どもたちに対して、だけですか - それが 伝統であったのですが。 西洋の家族は、ますます 消え去りつつあります。 ところが、東洋では、 家族が、いまでも中心です。 ものすごく重要です。 家族のために、彼らは 何でもするでしょう。 たとえ彼らが遠縁の従兄弟 であったとしても、 彼らは、まとまり、 互いに助け合い、 互いに操り合うでしょう。 しかし、ここではそれは、次第に すっかり消え去りつつあります。
29:48 で、これらを見る - 結婚に存在している ような責任、 誰かとともに 生きていて、 相手に存在している ような責任です。 私たちは無責任です。 なぜなら、私たちは 子どもを持っているなら、 私たちの責任は、彼らが適切に 教育されるよう見届けることです - 或る種のところへ送られて しまわないように、です。 そうね、可能なだけ、 すばやく彼らを追い払う。 そうね、あなたが この問題へ入るとき、 それは、とてつもなく複雑に、 とてつもなく肝要になります。 なぜなら、私は子どもを 持っているなら、 私は、今そうであるように、彼らを 愛していて、責任を感じるなら、 私は、彼らの生全体へ 責任があるからです。 そして彼らは、彼らの生涯にわたって 私に、責任を持たなければなりません。 私は、彼らが適切に教育される よう、見届けなければなりません - 戦争で屠殺されるの ではなくて、です。
31:07 で、そのすべてが、この問いに 含蓄されています。 そして、この問いは、 深遠に究明する中で、 自らがこの愛の性質を 持っているのでなければ、 あらゆる物事が、ただ 的外れなのです。 もし私が、妻への愛を 持っていないなら - すなわち、私は、自分の自己 中心的な活動を追求していない。 そして、彼女もまた そうしていないが、 もし私がそうしていて、 彼女がそうしていないなら、 そのとき紛糾が 始まります。 すなわち、私が自己中心的 でないよう、試みているなら - 孤立しないように、 深い慈しみのこの感じを 持つように、です。 そこに、執着がなく、 所有がなく、 楽しみの追求がない (慈しみの感じを持つ)。 そして私の妻は、反対を 感じます。 全く違っています。 そのとき私たちは、全然 違った問題を持っています。 32:20 理解されますか。 そのとき問題は、こうです - 私は何をするのでしょうか。 彼女から去る。 逃げ出す、 離婚するだけですか。 私はそうしなくては いけないかもしれません。 彼女は、何かを 主張します。 これに付いてきて おられますか。 それは、わずかな発言で答えられる べき問いではありません。 それは、これへの大変な多くの 内的な探究を、必要とします - 双方に、です。 その探究の中、 探検する中で、 愛がないなら、智恵ある 行為は、ありません。 愛があるところ、それは 自らの智恵を持っています。 それは、自らの責任を 持っています。 いいですか? 私たちは、次の問いへ 進めますか。 私たちはそれに飽きている、 ということではない。 33:38 関係は、生において最も とてつもないものの一つです。 他の一人と全的に、 完全に関係すること - 何の「私」の感覚も それに介入することなく、 自分本位の追求すべてを ともなった自己の感覚なく、です。 それは、その関係に 入りません。 第二の問い: 「安全への 私たちの持続的な探求の中に、 神経症的な妥当な必要・ ・・」 何ですか。 すみません。 私が間違えました。
34:42 「安全への私たちの継続的な 探求は、妥当な必要ですか。 または、 神経症的なものですか。 不安全の対極でない 安全が、ありますか。」
35:02 「安全への私たちの継続的な 探求は、妥当な必要ですか。 または、 神経症的なものですか。 不安全の対極でない 安全が、ありますか。」
35:26 K: 私たちは、この問いを 進められますか。 そうしましょうか。 対極とは何ですか。 正反対です。 男と女があります。 光と闇、 日の出と日の入り。 闇が、あります。 自然と人との間に 分割があります。 実際の自然と人、です。 背が高い人と、 低い他の人との間に、 分割があります。 明るい肌、黒い肌、 褐色の肌、黄色い肌と 紫の肌 - もし彼らが身体に 絵の具を塗っているなら、です。 で、分割があります。 明白な分割です。 大テントと邸宅、 ドームと平面、です。 さて、心理的にそもそも 対極が、ありますか。 どうぞ、これをともに 探究してください。 36:58 内的に、 対極がありますか。 私たちは、内的に 対極を持っていますね。 私は善いか、悪い。 そして 私は善くなければならない。 私は貪欲である。 私は 貪欲であってはならない。 私は暴力的である。 私はいつの日か 暴力的でないように、望む、と。 で、内的に、心理的に それらは対極です。 内的に、対極があるところ、 葛藤があるにちがいありません。 いいですか。 そのとおりです。 私は暴力的ですが、 思考は、非暴力の状態を 創り出したのです。 それは、私の実際のありのまま、 あるものの対極です。 そして、私は 格闘しています - 時、経験をとおして、非暴力的 になるように、ですね。 私たちは 進められますか。
38:21 で、「あるもの」と 「あるべきもの」です。 で、葛藤があります。 さて、「あるべきもの」は 非事実です。 そのとおりではありません。 「あるもの」は 私の暴力です。 それがすべてです。 「私は非暴力的になるべきだ」は そうでありませんね。 私たちはこれを明らかに 見るのかどうかと、思われます。 「あるもの」は、「あるべきもの」 より、はるかに重要です。 なぜなら、「あるべきもの」は けっして起きないだろうからです。 なぜなら、「私は或る日、 なるだろう」 - その間に 私はいつの時も、暴力の 種子を、蒔いているからです。 で、心理的に、対極は 実際に存在していません。 対極があるという ことは、幻影です。 さて、私たちの条件づけが、 対極を創り出すことであるなら、 私たちが、その条件づけより 自由であるなら、 そのとき私たちは、「ある もの」を、見つめられますね。 で、「あるもの」を 見つめましょう。
40:02 実際にあるもの - 私たちは不安全です。 私は安全を 探し求めています。 しかし、実際の事実は、私は 不安全で、私は不確実であり、 混乱し、むだ口を叩く。 一つのものから 別のものへ動く。 一つの家族から別のへ、 一人の女から別のへ、 一人の男から別のへ、一人の導師 から別のへ - よろしいですか。 私は安全を 探し求めています。 そして私は、民族に 安全があると、考えます - 共同体に、家族に、です。 または私は、相当に 智恵があるなら、 私は、「いいえ、安全はないが、 神に安全がある」と、言います - 「服従することに、従うことに、 受け入れることに(ある)」と。 しかし、いつの時も 事実が、残っています - すなわち、深い不安全の この感じが、あるのです。 41:18 で、私たちは心理的に、 安全への探求を、片付けられ、 不安全が何であるかを 探究できますか。 そのとき私は、それを 取り扱えます。 しかし、私がいつの時も 安全を探し求めているなら - そして私は、それを 教会に、司祭者に、 見つけられないことを、 よくよく見ます - 書物に、人々に、導師に、観念に (見つけられないの)です。 それは何一つありません。 私はそれを見ます。 で、私は戻ってきて、 今、言います - 私は不安全です。 なぜですか。 不安全とは何ですか。 私は、まず第一に、 心理的に話しています。 初めに、外的に安全で、それから 内的に安全だ、ではない。 初めに、心理的に、私は 不安全を探究しています。 どうぞ、これの重要性を 見てください。 共産主義者、社会主義者と、 他の様々な集団は、 人のための安全を、外的に見つけ よう、もたらそうとしてきました。 そして彼らは、みんな 失敗してきました。 42:40 共産主義者たちは 開始しましたが - そうですね、私は それらに入らないでしょう - あらゆる種類の提案、 理想ですが、 それから、全体主義に 終わってしまいました。 で、私たちは、心理的に 人間の振るまい、 人間の精神の内的構造を掴んで 取り組むのでなければ、 単に外的な上塗りは、 何の効果も持たないでしょう。 自らはこれを 悟らないのです。 で、初めに、私たちは ともに探し求めています。 なぜ私たちが心理的に 不安全に生きるのかを、 見出そうとしています。 他方ではなく、なぜ私たちは 不安全に感じるのかを、です。 なぜですか。
43:51 さて、私が不安全であり、私が 不安全であるのを知っているとき、 安全があるとの微妙な欲求、 微妙な暗示が、ありますか。 理解されますか。 私は不安全です。 私は結婚しています。 その他すべてですが、 私は 不安全だと感じます。 しかしまた、 私の奥底には、 どこかに安全があるとの 感じも、あるかもしれません。 そして私は、無意識的に それを追求しています - 私は、不安全を究明しようと しているけれども、です。 よろしいですか。 これをご覧になるのか どうかと、思われます。 私は、きわめて明らかで なければなりません - すなわち、私は自分が不安全 であると公言するけれども、 私は内密に、テーブルの下で、 安全を探し求めていないのです。 で、私たちは自らの存在を通して ずっと明らかでなければなりません - すなわち、自らが不安全の中に 生きることが、です。なぜですか。 45:15 そのとき私たちは、本当の 問いを、訊ねられますが、 もしあなたが半々であるなら - そうね、何についても 半々です - あなたは凡庸になります。 それは良い主題です - 凡庸さは。 でも、 私たちはそれに入らないでしょう。 その言葉「凡庸さ」 (ミディオクリティ)は、 山を途中まで登っていく、 という意味です。 途中まで行く人物は、 凡庸です - その頂上まで 行かない人は、です。 専門職において、ではない。 何か特定の主題において、 ではない。 心理的に彼は、その 頂上まで、行かないのです。 そういう人物は凡庸です。あなたが そうだとは、申し上げていません。
46:12 で、不安全とは何ですか。 そもそも、安全が ありえますか。 憂鬱にならないで、心配を 感じないでください。 私たちは究明しています。 それはありえますか - 私は安全を探し求めて、 欲しがって、 探求して、あこがれている けれども、です。 私は、自分が 不安全であると、悟って、 私はまた訊ねています - 本当に そもそも安全はありますか。 安全への私の探求は、 間違っているかもしれません。 私が探し求めているものは、 安全ではなくて、 あらゆる物事に正しく出会う であろう精神、頭脳の性質です。 いいですね? これを理解なさるのか どうかと、思われます。 私は不安全だと感じます。 私は、生は不安全 であると、見ます。 いつも死が あります。 いつも事故が あります。 いつも、何かが 起きつつあります。 私の基盤を 揺るがしています。 47:50 私はそれを悟るし、私は 自分自身に言います - そもそも安全が ありますか。 待って。 それを 拒否しないでください。 私はそれを問うています。 それに入っています。 なぜなら、安全は 必要であるからです。 頭脳は、自らが安全であるとき、 効果的に、活発に、十分に、 そのとてつもない能力すべて でもって、機能できるだけです - 子ども、赤ちゃんが安全で なければならないように、です。 で、頭脳は、自らが完全に安全で あると、感じなければなりません。 揺るがされるのではない。 それは、自らの安全において 不動でなければなりません。 そのとき、頭脳は 花開いています。 理解されますか。私たちは 互いに付いてきていますか。
48:56 で、見出しましょう - そもそも安全が あるのかどうか、です。 そして、 安全がないのなら、 頭脳はとうてい、 適切に機能できません。 で、私たちは訊ねています - 安全と不安全とは何ですか。 疲れてきておられますか。 私たちは初めに、見出そうとして います - 不安全とは何ですか。 なぜ私たちは、永続的に 不安全の中に生きるのか。 さて、まさにその探究の中で - 私たちはなぜ、 この状態に生きるのか、 混乱とその他すべての中に (生きるのか)、ですが、 それへの気づきこそが、 智恵の始まりです。 これに付いてきて おられますか。 さて、再び始めましょう。 私は不安全です。
50:18 私は、安全を 探求してきました。 すなわち、私の不安全から 逃げ去ってきました。 すなわち、私は、対極を 創り出してきました。 そして私は、それとの 葛藤の中に、います。 不安全を知り、 安全を欲しがっている。 で、格闘が 進みつつあります。 で、私は、それがいかに 愚かであるかを、聞きます。 これの認識こそが、 智恵の始まりです。 ですね? 私たちはここに 一緒にいますか。
50:58 聴衆: 完全にではありません。
51:02 K: 完全にではない。 ご覧ください。 私たちは、世界を民族性へ、 分割してきました。 これらの民族性は、戦争の 主要原因の一つですね。 原因の一つです。 経済的な もの、などなどですが、 原因の一つは この感じです - すなわち、私たちは、この 人物より分離している、と。 よろしいですか。 民族性です。 さて、それを 認識することと、 それより自由であることは、 智恵を持つことです。
51:41 いいえ? またはあなたは、智恵を 持たないでいたいのでしょうか。 いいえ。 どうぞ、 これは重要です。 偽りであるものを 認識すること、見ることと、 それを放棄することが、 智恵です。 いいですか? さて、
52:16 私は、究明した後 - 私たちはそうしてきました - 信念には安全が ないことを、見ます。 なぜなら、信念は、いつの 時も、変化するからです。 それは論破されるかもしれません。 それは崩れてしまうかもしれません。 信仰、信念、理想。 それへ疑いを持ってくると、 それは、消え去りはじめます。 で、そこに 安全はありません。 ゆえに、私の頭脳は、幻影の ようなものを、見てきました。 それは前、私に安全を与えて くれると、考えられてきましたが、 頭脳は、それを 放棄したのです。 で、それは、活きて 智恵を持ったのです。 53:13 そしてそれは、言います - そもそも安全があるのか、と。 智恵があるとき、 それはあります。 これに付いてきておられるのか どうか、私は知りません。 智恵は、最も肯定的な 安全の力です。 いいですか。 これは明らかですか。 心理的に、偽りである物事 すべてを、放棄すること、 それを知覚すること、それをきわめて 明らかに見ることが、智恵です。 智恵があるところ、 あなたは、 自分が安全であるか、不安全 であるかを、訊ねさえしません。
54:14 で、そのとき 私たちは、ともに 安全と不安全の本性を 見られますか。 その検討、観察、 探査の中でこそ、 私たち自身で発見できますか - 誰が言うからでもない - 私たち自身で 発見するのです。 すなわち、 智恵があるところ、至高の 安全があることを、です。 ずる賢い智恵の 思考ではない。
54:52 いいですか? 私たちは 次の問いへ、行けますか。
55:03 第三の問い: 「あなたがいう 頭脳、精神、意識とは どういう意味かを、どうぞ 明瞭にしてくださるでしょうか。」
55:12 「あなたがいう頭脳、精神、 意識とはどういう意味かを、
55:17 どうぞ明瞭にして くださるでしょうか。」 K: 私は明瞭にしようと していません。 私たちはともにじっくり 話し合うでしょう。 まず第一に、私たちは専門職 ではありません。 ありがたい! 私たちは 探究しています。 専門職が探究しないと いうことではない。 私はそういう意味で言っていません。 私たちは、普通の素人です。 私たちは、このきわめて、きわめて 複雑な問題を、探究しています。 すなわち、意識を、です。 その性質とは何ですか。 構造、本性、細胞と それらではなく、 頭脳と精神です。 いいですね? どうぞ、私を見つめないで、 あなた自身を見つめてください。
56:27 まず第一に、意識、 意識していること。 それは、 気づいていることです。 それは、注意深いことです。 怠慢ではなく、勤勉に探究する - 私たちの意識の本性を、です。 無意識的なものと意識的なもの との分割が、あったのです。 無意識的なものは、 過去すべてです。 継承したものすべて、人の 数千年の記憶すべてですね。 無意識的にあなたは、条件づけられた 記憶を、持っているかもしれません - プロテスタント、ヒンドゥー教、 その他すべてにおいて、です。 二千年のキリスト教と 宣伝は、 天国と地獄の恐れ、救い主(の 種子)を、深く蒔いてきました。 それはそこにあります - 深く、です。 58:12 あなたがイスラム世界へ行くなら、 そこにもまた、あります。 ヒンドゥー世界なども、です。 で、無意識的なものは、 過去の動きです。 私たちは、あまりに多くの 詳細には、入らないでしょう。 なぜなら、私たちが 入りつつあるのは、 きわめて複雑な問い であるからです。 過去は、千の記憶です。 千年の痛み、格闘と 人の苦労すべてです。 無意識的なものは、 あなたがイギリス人、 フランス人である などの観念です。 そして、意識的なものは、 観察されるかぎりでは - 自分は間違っているかもしれませ ん。 自分はいつも疑っています - 意識的なものは、 最近の覆いすべてです。 教育、テクノロジー - 覆いです。 59:29 すなわち、 意識的な精神は、 しばしば、無意識的なものの 暗示を、持ちます。 いいですか? これらに付いてきて おられますか。 そして、意識的な精神は、 いつも - 自分がそもそも 気づいているなら - 無意識的なものにより、 導かれつつあります。 よろしいですか。 で、実際には - 自分がそもそも 活きて気づいているなら - 無意識的なものと 意識的なものは、ありません。 それは、一つの 統合的な動きです。 - 自らが生きて、十分に 気づいているなら、です、 危機があるとき、自らは 十分に気づいています。 何か深い動揺する挑戦が あるとき、 あらゆるものが、あなたの 意識全体が、作用しはじめます。 1:00:56 私たちの意識は、思考がそこに 置いてきたものすべてです いいですか?  私たちの信念、 私たちの伝統、私たちの信仰、 私たちの天国と地獄の 恐れ、です。 そうね、私たちの生の動き 全体が、私たちの意識です。 その意識は、私たちの頭脳の 一部です。 もちろんです。 私は頭脳を持たないなら、 私は意識を持ちません。 で、頭脳は、意識の部分、 そして、必然的な動きです。 頭脳をとおしてか、その中で 行為していますね。 さて、頭脳は - どうぞ、 私は専門職ではありません - 私はこの点について、専門家 たちと議論してきましたが、 彼らは、私たちが言っている ことを、受け入れないでしょう。 が、それは大事なこと ではありません。 私は偽りなのかも、私は 間違っているかもしれません。 1:02:13 私たちは、こう言っています - 頭脳は 今、条件づけられているのだ、とね。 テクノロジー的に - どれだけ多くのエネルギーが テクノロジーに注がれて きたのかを、見てください。 私たちの頭脳は 制限されています。 条件づけられています - 広大な 経験、知識をとおして、です。 それは 条件づけられています。 しかし、条件づけられて いない頭脳の性質を、 ゆえに無際限の能力を、 発見する。 テクノロジーの人々が何を しているのかを、見てください。 彼らは 条件づけられていません。 彼らは、探究しています。 見出す ように推し進め、駆り立てています ゆえに彼らは、とてつもない 能力を、持っています。 1:03:14 原子爆弾、 技術者、科学者たちが 創り出している物事です。 あなたたちの幾人かは、それに ついて知ってすらいません。 彼らがやっている 怖ろしいことを、です。
1:03:29 で、頭脳は、無際限の 能力を、持っていますが、 それは今、 条件づけられています - イギリス人として、フランス人 として、その他すべてとして、です。 私は信じている、 私は信じていない、 私は神を信じている、 彼は私の導師である、 あの導師のほうが、この導師 より良い、と。 よろしいですか。 それらの戯言が 進んでいます。 で、それは条件づけられているので、 その能力は制限されています。 そして、その条件づけが 全的に自由であるときだけ - それは、信仰なし、恐れなしと いう意味です。 よろしいですか。 何へも、 どの種類の執着もない - 過去の記憶、 過去の経験へも、です。 そして、彼らは そのとおりです。 彼らがテクノロジー的に 関与しているとき、 彼らは、ものすごく 生きています。 1:04:35 私は彼らに 話をしてきました。 彼らは、時間を持っていません。 彼らは、あなたを払い除けます。 で、頭脳が条件づけを解かれる ことは、可能ですか。 それは、頭脳が知られた ものより自由であることは 可能であるか、という意味です。 すなわち、私は、 帰宅しなくてはいけない所を、 知っていなくてはいけません。 どの道路へ行くのか、 どんな言語を私は話すのか、 私は知っていなくては いけません。 知識がありますが、 心理的には自由である。 すなわち、条件づけのことです。 頭脳が条件づけられて きたもの、です。 知識により 条件づけられているが、 それより自由である。 そのときそれは、とてつもない 能力を、持っています。
1:05:37 そのとき私たちは 言っています - 精神とは何ですか。 理解されますか。 私たちは、意識、頭脳と 精神について話しました。 頭脳が、あの心理的な知識より 完全に自由であるとき、 そのとき、頭脳は 精神です。 なぜなら、精神は 無際限であるからです。 で、これらを理解するには、あなたは 自分自身を研究しなくてはいけません - 書物からではなく、 他の人々からではない。 あなたは、あなた自身の生を 見つめなくてはいけません。 時間、エネルギーを掛ける。 辛抱する。探査する。 私たちは時間を持っていません。 なぜなら、私たちは いつの時も、おしゃべりを しているからです。 で、すべての条件づけからの 全的な自由があるとき、 精神、頭脳と意識は 本当に一つです。
1:06:55 私たちは進みましょうか。
1:07:10 第四の問い: 「私たちは、誰かが 言語的にか、物理的にか 他の一人に対して攻撃的であるのを 見るとき、介入する必要を感じます。 そういう介入は、 正しくありえますか。 またはそれは、単なる 自己の微妙な反応ですか。」
1:07:33 「私たちは、誰かが 言語的にか、物理的にか 他の一人に対して攻撃的 であるのを、見るとき、 私たちは、介入する 必要を感じます。 介入する。 そういう介入は、 正しくありえますか。 またはそれは、単なる 自己の微妙な反応ですか。」
1:07:58 K: これを自分自身で 見出せませんか。 自分自身の反応に 気づいて、 それが、自己動機での 反応であるのか、 それは親切に、自由で あるのかを、見られませんか。 そうね、誰かが傷つけています。 あなたは当然、介入します。 しかし、自分自身の反応に 気づいていないなら、 それは、利己的な反応であり、あなた 自身を重要にするかもしれません。 その問いは十分ですか。 私たちは、次のものへ 行けますか。
1:08:57 第五の問い: 「世界の 暴力と無秩序は、 私たちから、応答の 緊迫と強烈さを、要求します - 私たちが欠いていると 思われるものを、です。 私たちの個人的な 気づきは、不適切です。 より深い気づきが、 ありえますか - 問題の甚大さに 応えるものが、です。」
1:09:21 「世界の 暴力と無秩序は、 私たちから、応答の 緊迫と強烈さを、要求します - 私たちが欠いていると 思われるものを、です。 私たちの知的な 気づきは、不適切です。 より深い気づきが、 ありえますか - 問題の甚大さに 応えるものが、です。」
1:09:58 どうぞ、ともに探究しましょう。 気づくとはどういうことですか。 気づいている。 意識している。 認知している。 あらゆる物事へ 敏感である - 自然へ、あなたの まわりの人々へ、です。 あなた自身の反応において 敏感である。 気づいているとは、 どういう意味ですか。 自分は、この大テントに 気づいていますか。 またはあなたは、それを 当たり前だと受け取ります。 あなたは、この大テントの柱の 本数を、数えたことがありますか。 あなたは、樹々を 見つめたことがありますか。 それに名前を付けないで、 それに気づいている。 それに敏感である。 または、あなたの隣に座っている 人物に、気づいていますか - 彼の物理的な動き、 彼がどう人々を見つめる のかに、気づいていますか。 1:11:27 彼の服、衣装に気づく - それが何であっても、です。 または私たちは、みんな こうも自己中心的であり、 私たちは時間を 持っていませんか。 私たちは、他の一人を 敬いません。 私たちは、自分の問題に、 自分の悲惨に、 こうも絡まっているので、 私たちは他の何を見つめません。 で、気づくこと。 それは、見る、感じる、見つめる ことを、意味していませんか - 起きつつあることへの どんな選択もなく、です。 世界で起きつつある ことに、気づくこと - 必ずしも新聞と 雑誌からではなく、 進んでいく戦争に 気づいている。 人々は互いに 殺し合っています。 数千年、涙を流すこと、 そして私たちは、何をも 学んだように、思われません。 1:12:52 何も選択なく、このすべてに 気づいていること。 自分は、イギリス人として、 気づいています。 ここで何が起きつつあるのか、です - 自分はよくよく知っていますが、 自分は地球的に、人間と して、気づいていません。 で、私たちはそういう意味で、 気づいていますか - 人類の地球的な感じです。 アラブ人とイスラエル人と、 イギリス人とフランス人、 アメリカ人などとして、 ではない。 それは、かなりばからしくなります - それらの種類のものは、です。 この人間の苦しみに そう気づく - 人間の悲しみ、 人間の楽しみに、です。 自分がそう 気づいているなら - それは、まったく 集中ではありません - 気づく。 そのとき、質問者は 言います - 何かきわめて深いものへの 気づきが、ありますか - そこからあなたが 行為するものが、です。 1:14:09 それが、質問者が 訊ねることです。 そのとき、 注意があります。 気づきと注意が、です - 集中ではありません。 集中は単に、 あなたのエネルギーすべてを 特定の点に、 焦点化することです。 それを私たちは、 相当に容易くできます。 あなたが、一定の主題、 一定の観念、一定の物語に、 興味を持っているとき、あなたは 完全に集中しています。 またはあなたは、力ずくで 集中するかもしれません。 それは、他の思考の他の 侵入に、抵抗することです。 しかし、気づきは異なっています - 気づくこと、敏感であること、 全的であり人間的であるこの 動きの感じを、持つことです。 1:15:14 そして、注意は この性質です - その中には、そこからあなたが 注意している中心が、ありません。 それは、注意には、辺境がない、 境界がない、という意味です。 その注意の性質があるとき - それは、愛と慈悲と 智恵の一部です - そのときそこから、自らは行為 します。または、行為しません。
1:15:52 私たちは、次のものへ 進めますか。 それは最後のものです。
1:15:58 第六の問い: 「あなたが行われる 講話では、私たちの多くが、 測量不可能な重要性の何かを 感じるか、感知します。 これは、ロマンチックな空想や 幻影ではありません。 それは、私たちの生の残りの多く より、もっと深遠に実在します。 しかし、私が去った後、 私は、 あの大いなる深遠さが次第に 散失するのを、止められません。 これは、真の悲劇です。 自分は何ができますか。」 「あなたが行われる講話では、 私たちの多くが、
1:16:44 測量不可能な重要性の何かを 感じるか、感知します。 これは、ロマンチックな空想や 幻影ではありません。 それは、私たちの生の残りの多く より、もっと深遠に実在します。 しかし、私が去った後、 私は、 あの大いなる深遠さが次第に 散失するのを、止められません。 これは、真の悲劇です。 自分は何ができますか。」
1:17:32 K: 初めに、私が大変尊敬を こめて、お訊きしていいなら、 あなたは、影響されつつ ありますか。 あなたは、刺激されつつ ありますか。 あなたは、語り手の言葉によって 駆り立てられつつありますか。 または、語り手の感じに よって、です - 彼自身にとって真実として彼が言う ことの(感じによって)ですが、 そのすべてにより 影響されつつありますか。 そのとき、あなたが 影響されるなら - あなたがそうでない ことを望みます - あなたがそうであるなら、 そのときそれは、薬物になります。 そのときあなたは、 それを失います。 そのときあなたは、 そこへ駆り立てられたり、 影響されたりしてきたものを、 散失せざるをえません - または、言われたり、感じられたり してきたものを、です。 1:18:42 もしそれが薬物として 作用するなら、それは、 素早くか、次第に消え去る にちがいありません。 しかし、自分が - これはまたもや、大変 謙虚に言われつつあります - 自分は、言われつつある ことが、実際に聞こえるし、 自分自身で真理を 発見するなら、 そのとき、自分は 自分自身にとって光です。 その光自体は、 けっして消されません。 けっして 消滅しえません。 しかし、自分が 他の一人に依存するなら - 他の人がどれほど何かを 持っていようとも、です - それが、自分の生の一部、これの 自分の日々の美しさでないなら、 そのとき散失は 回避不可能です。 1:19:58 そして悲劇は、私たちの みんなが聞くということです - 時には深遠に、 時には気軽に、ですが、 そのまさしく種子が そこにあります。 しかし、私たちはそれに、花開かせる 機会を、けっして与えません。 世界は、私たちにおいては あまりに過ぎるのです。 このすべてを 意識していること - 大地の広大さ、 人間の頭脳の広大さ、 そして、愛とそのすべてが そうです。 自分がそこへ来るなら - 言語的に、ロマンチックにか、 感傷的にだけではなく、 実際に(来るの)です - そのとき、その火は けっして消されません。
1:20:57 よろしいです。 どうぞ、立ち上がっても いいですか。
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