BR82T4 - 生の一部としての死の美しさ

公開講話 第4回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1982年9月5日
テキストのみのバージョン
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0:57
これは最後の講話です。
あなたたちはうれしいだろうと 思います。私もうれしいでしょう。
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1:15
私たちが話してきたことを
短く振り返るべきだと、 私は思います
- 過去二回の講話と、
二回の質疑応答集会において、 (話していたことを)、です。
私たちは、世界の混沌に ついて話しました
- 私たちみんなにとっての 大きな不確実さ(について)です。
生は ますます危険に、
予測不可能に なりつつあります。
そして、未来は - 観察されることから、
政治的に、経済的に、社会的にも 物事のありようからして -
なかなかひどい。
自らは悲観的とか楽観的とか ではありません。
これらは事実です。
彼らは、戦争の準備を しています。
人は、見たところ、過去の 歴史から学んできていません。
すなわち、他の人間を 殺すことは価値がない、
何も問題を解決しない ことを、ですが、
見たところ、 それが流行です。
それが、 民族的な遺産と、
受け入れられた正統性です。
3:03
そして誰も、デモを するように思われません。
大変多くのデモが、 ありました -
核戦争について、 あれこれについて、ですが、
最高の者から 最低の者まで、誰も、
すべての戦争を終わらせるために デモをするように思われません。
特定の種類の戦争、 核戦争や通常の戦争や
他の種類の戦争(を 終わらせるため)ではない。
自らは、戦争すべてを終わらせる ように、自分のエネルギーや
衝動や強烈さを 注いできませんでした。
もちろん政治家たちは、それに けっして同意しないでしょう。
導師たちもまた、そうです。
キリスト教の 最高権威も、です。
もしも彼らが そうしたなら、
彼らは、最高権威 ではないでしょう。
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4:10
そしてまた私たちは、一般的な 無秩序についても、話しました。
外的に、です。
そして、私たちがそれとともに 生きるところの内的な無秩序です。
私たちは、世界中でますます拡がる 憎しみについて、話しました。
それには、終わりがない ように、思われます。
私たちはまた、 人間たちが子ども時代から
心理的に負傷したことと、
その傷、損傷の帰結について 話しました -
家族の中で 教育される間に
自分が受けるもの (の帰結)です。
教育、専門校、大学と、 生きることの過程全体が、
この種類の内的な傷を 生み育てるように、思われます
- それは、孤立、恐れを 生み育てます。
そして、ありふれていると 見える種類の神経症を、です。
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5:26
そしてまた、 私たちは、おそらく
最も重要なことについても 話しました - 関係です。
自分自身で見出すこと、
関係に葛藤が存在しない 生を生きることが、
いかに本質的であるのか (を、見出すの)です。
性的なもの、
自分の充足のための 個人的な探求、
自分の野心の追求、
ゆえに関係は、けっして 完全ではありません。
それは、いつも 分割されています。
二本の平行線がけっして 出会わないように、です。
それが、関係と 呼ばれているものです。
ゆえに、そこには 永続的な葛藤があります。
その葛藤の原因、その深い 根源的な関係の欠如が、
この孤立の感覚です。
6:52
個人的な孤立だけではない。
その言葉(個人、 インディヴィジュアル)こそが
孤立を 表示しています。
しかし、その言葉はまた、 異なった意味を持っています
- 分割不可能だ (インディビジブル)、と。
自分の生の色々な 水準に生きていて、
砕かれていない、 人間存在です -
ビジネス生活、 宗教生活、
社会生活、家族生活など (色々な水準で)です。
そういう人間は、 深く、長続き、長持ちし、
愛がある関係を、 とうてい持てません。
私たちは、それについて たくさん話してきました。
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7:50
また私たちはともに、恐れの 本性を、探究してきました
- 人間たちが この醜い世界に生きていて、
すべての恐れから、全的に、 完全に自由であることが
可能であるのかどうか、です。
恐れは、ひどいものです。
それは、暗くし、 縮めます。
それは、自分の精神を こうも脆くします。
そして、すべての恐れから自由である ことは、可能であるのかどうか、です
- 心理的にも、外的にも、です。
恐れがあるところ、 寛大さはありえません。
大いなる慈しみの感覚は ありえません。
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8:51
私たちはまた、愛と慈悲と 智恵についても、話しました。
私たちは、こう 言いました -
愛であるものは、肯定的に 接近できないが、
それでないものは 脇に置かれる、と。
嫉妬、野心、敵対、
野心、競争は、
愛のまさに本性と美しさを 拒否します。
私たちはまた、慈悲に ついても、話しました。
明白に、慈悲は ありえません -
もし自分が信念に、 信仰に、教義に
碇を降ろしているか、
何か集団や何か派閥に 所属しているなら、です。
そういう人物は、憐れみ、同情、 寛大さを持つかもしれませんが、
それは 慈悲ではありません。
慈悲があるところ、 智恵があります。
私たちはそれに 入りました。
10:27
私たちは、智恵をもつ人間 存在の本性が何であるかを
探究しました。
もし智恵が知識に 基づいていて、
知識から出てきたもの であるなら、
そのとき私たちは、大変 多くの知識を、持っています -
生のほとんどの物事に ついて、ですが、
その知識は、私たちを 変容させてきませんでした。
私たちに智恵を持たせて きませんでした。
まさに敵対が、民族的な分割と 人種的と宗教的な分割が、
私たちがいかに智恵が ないかを、標示しています。
誰かが、愚かさについて 歴史を書くべきです。
それが書かれたのは 存じています。
おそらく三十年代に 誰かが本を書きましたが、
そういう本は、 容易く忘れられ、
脇に置かれています。
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11:56
そして私たちは昨日、苦しみの 本性について、話しました。
なぜ人間たちは、 見たところ、
テクノロジーの分野では とてつもない技能を持ち、
とてつもない能力を 持っているが、
その能力、そのエネルギー、
その強烈さの性質を、 使ってこなかったのか
- 物理的にも、 心理的にも、
人間の苦しみすべてを 拭い去るように、です。
おそらく彼らは、 成功するでしょう -
物理的な痛み、病気などを 拭い去って、ですが、
人は、幾千年に幾千年もの間、 生きてきましたが、
それでも、 人は苦しみます。
私たちは、よく気をつけて それに入りました。
これは、 昨日の朝言われたことを
再び繰り返すための 機会ではないでしょう。
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13:17
で、私たちは今朝、ともに じっくり話し合うべきですが、
どうぞ、このような麗しい朝に 死について話すことを、
陰気だとか、不必要だとか 考えないでください。
なぜなら、それは、私たちの 生の一部であるからです
- 私たちの生の他の特徴 すべてと同じく、です。
憎しみ、嫉妬、 暴力(のように)と、
時折、愛の美しさが 燃え立つように、です。
それはすべて、 私たちの生の一部です。
そしてまた、私たちはともに じっくり話し合うべきです -
あなたが語り手に 聞いている、
彼の言葉や発言を真似している、 ということではなく、
または、彼が話していることを 理解しようとするのではなく、
むしろ、ともに これらの問題を究明するし、
それらの真理を 見出す。
14:38
で、どうぞ、私たちは ともに話し合っています。
あなたは、分かち合い、 参加し、協働しています。
ただ聞いていて、 それから
同意したり、不同意したり して、出て行ってしまう。
自分の太極拳を果てしなくとか、 自分のヨーガや、
何か導師の何か実践を するとか、ではない
- 彼が、あなたを覚らせる だろうと考えるものを、です。
しかし、私たちは、自分たちの 日々の生に、関心を持っています
- 何か異国風の、空想的な、 宗教的な概念に、ではなく、
実際の日々の葛藤の生に (関心を)、です
- 私たちが 生きるところの混乱、
不確実さ、 安全への探求、です。
私たちは、そのすべてを 経てきました。
それは、私たちの 生の一部です。
16:00
そしてまた、死も 私たちの生の一部です。
私たちは、その事実を認知しない かもしれないけれども、です。
私たちは、それを 回避しよう、
それをごまかそうとするか、
または、最後の瞬間に、関心を 持とうとするかもしれません。
ほとんどの人々が そうするように、です。
で、私たちはともに、
その本性、 あのとてつもない事実を
探究すべきです。
生はとてつもない事実 であるので、
私たちは、それをもまた 考慮すべきです。
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16:52
そして私たちはまた、 死と冥想との前に、
美しさとは何であるかを 考慮すべきです。
それもまた重要です。
美しさは、観察者の眼に 在りますか。
美しさは、世界の絵画、詩人、 彫像すべてを研究してきて、
一定の結論に到った 精神の状態ですか。
世界の、最もとてつもない 建物の建築 -
深いピラミッドから パルテノンまで、
大聖堂まで、 寺院、神殿、モスクまで。
17:55
そして、あれらの すばらしい樹々、
五千から六千年、生きてきた セコイアを観察するとき
- あれらの幾つかを、 ですが -
美しさは、何ですか。
美しさは、どこにありますか。
詩人に、ですか。
詩歌に、ですか。
文学に、ですか。
絵画に、ですか。
または、あなたが、 美しい人物を見るとき -
姿の良い、美しい顔立ち (を見るとき)ですか。
あなたは何を、美しさと 考えますか。
これは重要です。なぜなら、 愛は、美しさに伴うからです。
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18:52
で、この、美しいものの本性を 探究しなければなりません。
あなたはいつ、美しさを 知覚しますか。
あなたは すばらしい山を見ます -
深い谷と影をともない、
青空を背にしていて、
そこに、天の光すべてが 照っている。
一瞬の間、あなたは この壮大さに、打たれます
- あの巨大な堅固な岩の 偉大さに、です。
そして、一秒の間、 あなたは不在です。
あなたは、自分の問題を 忘れてしまいました -
あなたの些細な喧嘩と その他すべてを、です。
あなたは、このものすごい 美しさに、向き合っています。
美しさは、自己がないとき だけ、存在しますか。
どうぞ、これらの問いを あなた自身にしてください。
自己、「私」、
人物、名前、形態、
それらすべての恐れ、
暴力と問題の言葉、
そして、絶望をともなった 深いさびしさ -
それが、自己、 「私」です。
何かになるために 奮闘し、奮闘しています。
20:50
その自己が完全に 不在であるとき、
それはあの精神、存在の状態です - 美しさを知覚するのは、です。
あなたが、大いなる遺物、 大いなる山々を見るとき、
そうなるように、です。
一秒の間、自己は、 追い払われています
- 事故により、 危機によって、です。
そのときおそらく、 美しいものが、見えます。
それは、私たちのみんなに 起きます。
これは、何もとてつもない ことではありません。
あなたが、麗しい 日の入りを見るとき
- 叙述不可能な光、
金色、オレンジ、 緑のを、です -
そして一秒の間、あらゆる 物事が、忘れられます。
そして、この美しさの、
光の驚くべき明瞭さが、 あります。
あの瞬間に 自己はありません。
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22:16
さて、自らは そのように生きられますか。
何か尋常でないもの、 何か壮大なものにより、
没頭するのではない
- 子どもにおける玩具、
むしろ、玩具をもった 子どものように、です。
その子は、玩具に 没頭しているし、
自分の熱心な悪さすべてを 忘れています。
その瞬間、玩具が彼を 乗っ取ってしまったのです。
ついに彼が、その玩具を 壊してしまうまで、です。
で、彼は、その玩具に 依存します -
我を忘れるために、です。
そして私たちもまた、 何か玩具に依存します。
大人たちも、 象徴の玩具、
言葉の玩具、 マントラの玩具に、です。
「マントラ」という 言葉は、
サンスクリットで、 熟慮するとか、
じっくり考える、 という意味だと、思います
- なっていくのではない。
そして、自己中心的な活動 すべてを解除する。
それが、あの言葉の 根本的な意味です。
そして、私たちはそれを 何にしてしまったのか。
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24:17
で、因果のない生を 生きることは、可能ですか。
どうぞ、ともにこれを 探究してください。
私たちの生、私たちの存在全体が 原因(コーズ)を持っています。
私は、これをする。
なぜなら(ビコーズ)、と。
私はあなたを愛している。
なぜなら(ビコーズ)、と。
私は崇拝する。
なぜなら、
私は自分の生が空っぽで あるのを恐れているし、
おそらく、何か外側の機関が 助けてくれるだろうから、と。
私たちの生には、いつも 原因が、あります。
そして、原因があるところ、 終わることがあります。
あなたが私にセックス、楽しみ、 仲間付き合いを提供してくれるから、
私は愛しているなら、
それは原因を持っているから、その 種類の関係は、すぐに終わります。
25:39
しかし、何も因果なく 生を生きることは、
測量のない生を 生きることです。
なぜなら、そういう生は 終わることがないからです。
私が終わらせているのは、 私の生ではありません。
原因を持っている人々は、いつも 終わりを見つけるでしょう。
おそらく、それが 不滅性であるかもしれません。
私の不滅性や、あなたのでは ありません。
始まり、すなわち原因を 持たない生を、生きることです。
ゆえに、それは 終わりがあります。
それの美しさが 見えるなら、
そのとき生は、全然違った 意味を持っています。
どうぞ、私たちが 言いましたように、
私たちはともにじっくり 話し合っています。
27:00
それは、語り手があなたを 刺激しているのではありません。
そのとき、語り手は 薬物になります。
そのとき、あなたは 依存します。
そして、すべての悪さが 始まります。
しかし、私たちがともに これを探究していて、
よくよく気をつけて、探査 しているなら - 懐疑的に、
あなたが検討してきた物事すべてへ 大変多くの疑いをもって、です。
なぜなら、それは、完全な検討 ではないかもしれないからです。
疑い、懐疑は、生において 大いなる要因です。
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27:43
それで私たちは、ともに この死の問いへ、入るべきです。
死ぬのは、何ですか。
そして、生きるのは 何ですか。
それらは、どちらも 相伴います。
あなたが、死、死ぬという 言葉を、用いるとき、
それは、あなたがまた 生きてきた、という意味です。
二つは、分離できません。
それは、基本的な真理です - それは分離できないのです。
あなたが関係を、まるで それ自体でかのように、
とうてい分離できないように、
傷のように、損傷のように、 恐れのように、です。
それらはすべて、相互に 関係し合っています。
けっして、「一つの」 問題は、ありません。
一つの問題は、心理的に、 適切に理解されるなら、
そのとき、その問題には、 すべての問題が含まれています。
しかし、あなたが分離し、 「これが、
私が解決しなければならない 一つの問題である」と言うなら、
そのときあなたは生を、
見かけ倒しの小さな事柄へ 還元しつつあります。
29:13
しかし、一つの問題を 完全に検討するなら
- そして、その完全さの 本性を理解するには、
問題へどう接近するかを 理解しなければなりません。
で、私たちは、きわめて 明らかでなければなりません
- すなわち、 生と死は相伴うのです。
それらは、何か遠方の ものではありません。
自らが若いとき - 命、楽しさと、
大変多くのエネルギーに 満ちています -
他方の終わりについて けっして考えません。
少し年を取るにつれて
- 自分の息子が死ぬのを 見守る -
そのとき、あなたは 問いはじめます。
そのとき、あなたは 涙を流しはじめます。
そして、生の心配です。
私たちのみんなにとって 死はあります。
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30:32
で、死ぬとは どういうことですか。
それで、生きるとは どういうことですか。
生きるとはどういうことかを 訊ねることなしには、
死ぬとはどういうことかを 訊ねられません。
私たちが、生きることを 理解しないなら、
私たちは、他方に 怯えるでしょう。
当然です。
しかし、私たちが、生きる ことの本性を、理解するなら、
私たちはまた、死ぬことの 本性をも、深く了解するでしょう。
死の後に何が 起きるのか、ではない。
むしろ、自分が死ぬ前に 何が起きるのか、です。
そのほうが、はるかに重要です - 後で何が起きるのかより、むしろ、
死ぬ前に何が起きるのかを 見出すほうが、です。
後で何が起きるのかについて、 たくさんの書物が書かれてきました。
そして私たちはみんな、熱心に 探求しているか、待っているか、
合理化しています - 後で 何が起きるのかを、です。
しかし、私たちはけっして、前に 何が起きるかを、見つめません。
32:01
で、私たちはともに、
前に何が起きるかを、 見つめようとしています。
私たちのみんなに、 前に何が起きますか。
生きると呼ばれること、
なる、と呼ばれること、
格闘、痛み、 心配、さびしさ、
深く終わりなき悲しみ、
朝から晩まで働くこと。
私たちが六十になるまで、です。
そのとき引退して、死にます。
これが、私たちが 生きると呼ぶことです。
私たちは、 それがそもそも
生きることであるのか どうかを、問うています。
どうぞ、あなたがこれを 問わなければなりません。
私が、ではない。
語り手が、ではない。
私たちの一人一人が 問わなければなりません。
問う。
答えを 見つけるのではない。
それは挑戦です。
私たちは、挑戦にどう出会うかを 知らなければなりません。
33:20
これは挑戦です。
私たちの生、 生きることとは、何ですか。
金銭の取得ですか。
権力の探求ですか。
性的な充足ですか。
闘争すること、 葛藤、
恐れ、心配、さびしさと、
深まる悲しみですか。
それが、私たちの生ですか。
それが、私たちの生です。
それは、果てしなく何かに なりつづけることです。
そういうわけで、あなたたち みんなが所属しているのです
- みんなが、ではなく、 あなたたちの幾らかが
何か集団に所属していて、 何かになることを望んでいます
- 開悟すること、
豊かになることを (望むの)です。
で、なることは、 原因を持っています。
そしてあなたは、一定の 方向で、ならないのなら、
他方へ行くし、 これを保ちます -
いつのときも、 なることの緊張を、です。
34:54
それが、 私たちの日々の生です
- ビジネスの世界において、
政治的な世界において、
宗教的な世界において、です。
それについて考えてください。
不条理 です。宗教的な世界において、です。
司祭者が司教になる。
司教が枢機卿になる。
そして枢機卿は結局、 一番偉いやつになる。
いいえ、どうぞ、 笑わないでください。
事実を見てください。
そのすべてのとてつもない 残酷さを、見てください。
これが、私たちが 生きることと呼ぶものです。
もちろんそのとき、私たちは 死に怯えています。
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35:51
で、私たちは 見出そうとしています。
見出せるなら、ですが、 この生きる中で、
自由であることは可能で あるのかどうか、です -
人の重荷すべてから 完全に、です。
それが、私たちが議論 してきたことです
- 過去六十年ほどの間、です。
すべての恐れより全的に自由である ことが可能であるのかどうか、です。
人が人へ 与えてきた損傷すべて、
苦悶、さびしさ、存在の全くの 分離から(自由)です。
私たちがそもそも、 個人であるのかどうか、です。
なぜなら、 私たちの意識は、
思考がそこに置いてきた 物事すべてとともに
- たとえば恐れ、 信仰などです -
全人類の共通の 定めであるからです。
37:10
私たちの意識は、私たちは それを自分のであると考えます
- 個人の意識だ、と -
あなたがそれをごく間近で検討 するなら、そうではありません。
それは、すべての人類の 共通の定め、共通の基盤です。
で、そもそも個人性があるのか どうかを、問うのです。
周辺的なものに、外的な 存在において、あなたのほうが
よい教育を受けている かもしれない。
もっと多くのお金、
もっと良く食べて、もっと良い 衣服、もっと多くの権力を
持っているかもしれないけれども、 内的に私たちは、みんな同じです。
あなたは、一つの分派や一つの集団、 一つのコミューンに所属している、
違ったように自分自身を呼ぶか、 衣を着るかもしれませんが、
内的に、肌の内側で、 心理的に、
あなたは人類です。
38:29
それで、あなたは、基本的に 個人ではありません。
それは、私たちの 幻影の一つです。
私たちは、「考えるのは私の 考えることだ」と考えるし、
私たちは、また そう言います。
考えることは、けっして 私事、個人的ではありません。
考えることは、人類すべてに 共通しています -
偉大な哲学者たちから 数学者たちまで、
科学者たちまで、
そして、 貧しい無知な人 -
けっして読み書きを知らないか、 旅行しない人まで、です。
考えることは、またもや私たちの みんなに、共通しています。
で、考えることは、東洋のでも、 西洋のでもありません。
それは 私たちの生です。
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39:37
この種類の苦労と 苦悶からの自由と、
時折の美しさの感覚が ないとき、
死とは何ですか。
なぜ あなたは、怯えていますか。
なぜ私たちはみんな、 こうも怖がっていますか。
ヒンドゥー教徒、古代のヒンドゥー は、理論を考案したのです
- すなわち、あなたは 後で生きるだろう。
今生のあなたの悲惨を 続けるだろう。
もしあなたが適切に 振るまうなら、来世に、
それは 良くなるだろう、と。
あなたは、もっとお金を、もっと良い 住宅、もっと良い衣服を持つだろう。
あなたは、もっと権力を 持つだろうとか、
あなたは、偉大な聖者に なるだろう、と。
キリスト教徒もまた、自分の 合理化を持っています
- 復活と、 その他すべてです。
40:43
輪廻転生を 信じている人たち
- すなわち、 来世に転生する、と。
来世、転生するのは 何ですか。
それに入ってください。
伝統を受け入れないで、
それに入ってください - 来世、 転生するのは、何ですか。
あなたの思考ですか。
あなたのさびしさですか。
あなたの闘争ですか。
あなたのまったくの 混乱と悲しみですか。
そして、悲しみ、心配、 さびしさと苦悶は、
時をとおして消し去られる ことになりますか
- それが進化ですが。
私たちは、そう考えたい のです。
私たちは、
「暴力は終わるだろう。
私に時間を 与えてくれ」と考えたいのです。
あなたが時間を 持っている間、
あなたは、さらに暴力の種子を 蒔きます。明白です。
42:01
で、この理論を 信じている人たちは、
彼らの幾人かは、「ああ、いえ、 それはきわめて現実的です」
と言うけれども、です。
たぶんね。
これらすべての信念については、 よく気をつけなくてはいけません。
すべての問題を解決しようと しているのは、
一つの信念ではありません。
もしあなたが、それを 信じているなら、
それは、あなたが今、 正しき生、善い生を、
生きなければならない、 という意味です -
智恵ある生、 愛と慈悲の生を、です。
しかし、あなたは そうしません。
それは、最後の一分間にあなたを 慰めてくれる理論だけです。
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42:54
で、死ぬのは、何ですか。
どうぞ、あなたたち自身に この質問をしてください。
書物が言うことではない。
あなたの伝統が 言うことではない。
なぜなら、それはただ、別の形の 幻影であるかもしれないからです。
誰がそれを言うのかは、 大事ではない -
それを言うのが、 ブッダや誰でも、
シャンカラでも、古代 ヒンドゥーに沿っても、です。
彼らは欺瞞されている かもしれません。
そして、人間たちは、きわめて きわめて容易く欺瞞されます。
なぜなら、それの根は、
彼らがみんな快適さを ほしがることであるからです。
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43:43
で、死ぬのは、何ですか。
明白に、あなたの執着、
あなたの銀行口座です。
あなたは最後の一分間まで、それを 持っていたいかもしれませんが。
それは、 あなたの銀行口座、
あなたの信念、
あなたのさびしさ、
あなたの関係です - 親密でも、 そうでなくても、です。
そのすべてが死にます。
何が起きるかをただ見てください。
それが、死につつあるものです。
あなたは、大変多くの 芸術の宝物、富、
良い邸宅を 収集してきました
- あれこれを養成して、
あなたの人格を、です。
庭だけではなく、あなたは 自分の精神、自分の心を
養成してきました。
44:56
そのすべての終わりに 死があります。
すなわち、これらすべての 性質は、あなたです。
あなたはそれを、魂と 呼ぶかもしれません。
ヒンドゥー教徒は、それに 別の名前を与えますが、
それは、自己の あの中心です -
名前、形態、性質、
損傷、傷。
そのすべてが私です。
そして、病気、老齢や 事故をとおして、
そのすべてが 断たれてしまいます。
そして、それが死です。
で、私たちは、生きることを 分離してきました。
そして、死は、はるかどこかの 角を曲がったところにあります。
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46:04
さて、その次の 問いは、こうです。
生きている間に、 死は起こりえますか。
どうぞ、私たちがいう 意味を、理解してください。
私は、自分の家族に、 自分の妻に、執着しています
- 自分の住宅に、
私が先日買ったばかりの 美しい家具に、です。
私はそれを 買っていませんが・
・・
そして私は、それらに 執着しています。
死は、それが 終わることです。
さて、私は、
私の活力すべてをもって この生を生きていて、
執着を終わらされますか - それが死です。
理解されますか。
これらに 付いてきておられますか。
私は、自分の妻に 執着しています -
または、自分の 子どもに、です。
自分の銀行口座には もっとそうです。
そして死は、そのすべてを 拭い去ります。
47:22
生きている間、私の 明瞭な精神でもって
- それがどれほど 明瞭であっても、です -
私の活力でもって、 あの執着を終わらせる。
で、私はいつの時も、死と ともに生きています。
それの美しさを 理解されますか。
理解されますか。
すなわち、心理的に私が蓄積 してきたものを、終わらせる。
ゆえに、生きることと 死ぬことは、相伴います。
それが何を意味するかを 理解されますか。
これをすることは 可能でしょうか。
大変尊敬をこめて お訊きしていいなら、
あなたはかつて、終わらせよう としたことが、ありますか。
何も原因なく、何かを終わらせ ようとしたことが、ありますか。
48:32
普通の物事、タバコを 吸うこと、酒を飲むこと、
おしゃべりをすることを、です。
誰かに従うことを終わらせる - あなたの指導者、あなたの導師、
あなたの司祭者、あなたの 専門家に(従うことを)、です。
専門家に、心理的に、です。
私たちは物理的な専門家について
話していません。
医師などのように、です。
あなたは自発的に、何の原因もなく、 何かを終わらせたことがありますか。
あなたは、誰かを嫌いかも、 誰かが憎いかもしれません。
それを終わらせなさい。
それが死です。
で、理解しはじめます
- 自らがそれに、きわめて 深く入るなら、ですが -
死が、自分の生の終わりにある何か ではない、ということを、です。
(その生が)どれほど短くても、 どれほど長くても、です。
死は生の動きです。
49:56
死は、生に親しく 関係しています。
それで、終わることが あるところ
- 因果なく、完全に 終わることが、です -
そのとき、終わりなき 始まりが、あります。
それが不滅性です。
それが、 時のない状態です。
しかし、私は死に怯えているなら、 すなわち、失うのを怯えているなら、
その恐れを終わらせる。
今、失いなさい。
理解されますか。
そこに、大いなる 美しさが、あります。
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50:50
で、私たちは、次に 話すべきです・・・
私たちは、死の主題を 終わらせていません。
なぜなら、それは、はるかに 複雑すぎるからです。
自らはそれに、きわめて深く 深く入らなくてはいけません。
すなわち、私たちのみんなに 何が起きますか
- その意識は、すべての 人類に、共通しています -
その意識の外に出ている 人には、何が起きますか。
その人物は、残りの人類に どんな関係を持っていますか。
理解されますか。
私は今、 それに入らないでしょう。
私たちは時間を 持っていないからです。
私が言いましたように、死は、 その意味すべてとともに、
きわめて複雑です。
よく気を つけた観察が、必要です。
恐れがあるとき、 あなたは観察できません。
それは、大いなる躊躇い、 慈しみを必要とします -
生と死が何であるかを 見ることを、です。
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52:03
さて、これは最後の会合なので、 私たちはまた、話すべきです
- 冥想とは何ですか。
それへの関係において、私たちは ともに、話し合うべきです
- 宗教とは何ですか。
インドの最も小さな村へ 行ってください。
貧しく、空腹で、
たぶん(一日)一食です。
その食事も充分ではありません。
彼らもまた、宗教性の 感じを、持っています。
彼らは、樹、岩を 崇拝します。
そしてあなたは、もっと錯綜し 洗練された社会へ、来ます。
それは、同じ動きです。
彼らは、大きな崇敬をもって、石に 花輪を掛けるかもしれません。
洗練された社会では、それは はるかに磨き上げられています。
53:30
そこであなたたちは、すばらしい 大聖堂、教会を、持っています
- 彩られた窓、厳粛さ、 詠唱、ろうそく、
変わった衣装を、です。
それもまた、大いなる 雰囲気を、創り出します。
あなたが、古い大聖堂の幾つ かへ行ったことがあるなら、
そこでは枢機卿たちが 執り行っています。
それは本当に、とてつもなく 美しいものです。
それは、戯言である かもしれません -
すべての言葉と、進んでいく 物事すべては、です。
それはすべて 滑稽なのかもしれません。
しかし、雰囲気、
天空へ聳えるあれら 巨大な柱の美しさ
- それは、同じ性質です。
ただ磨かれ、清潔で、 健康的なだけです。
二千年の反復です。
54:45
それは、石の前に花輪や花を 供える村の男や女と、同じです。
どちらも、いわゆる 宗教的です。
他方を、異教徒、無知な者 と呼ばないでください。
彼は、あなたがしているのと 全く同じことを、しています。
何か外側のものを 崇拝しています。
宗教的な正統性の 道具揃えをともなった
何か、機関、神を、です。
で、宗教とは何ですか。
これは、理解することが 必要です -
私たちが冥想の問いに 入る前に、です。
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宗教の名で進んでいく ことすべて
- ユダヤ教のもの、 アラブ人のもの、イスラム世界、
彼らの残忍さ、
彼らの鞭打ち刑、
そこで何が起きつつあるかは ご存じです。
そして、インドの 広大な迷信すべて
- 彼らの三十万以上の 神々でもって、です。
あなたは、好きなだけ 神を考案できます。
一人の神を持つより そのほうが、面白い。
しかし、すべての神は 考案されています -
すべての儀式が そうであるように、ですが、
あこがれ、 このすべてを越えて
何かがあるにちがいない との感じ -
人間の苦しみ すべてを越えて、
人間の悲しみ、仕事、 労働すべてを越え、
すばらしいテクノロジーをともなう 物質主義的世界すべてを越えて、です。
57:17
このすべてを越えて、 何かがあるにちがいない。
さもないと、生はほとんど意味が ない - 今そうであるように、です。
で、人は考案します。
私の生は空っぽで、 浅く、無意味です。
私は、もっと何かを 持たなければなりません。
で、人は神を考案します。
そして神々は 考案されます。
神は、私たちを 創り出してきませんでした。
そうであったなら、彼は、かなり くだらない神にちがいありません。
なぜなら、彼は私たちの生をこうも おぞましい悲惨にしてきたからです
- 憎しみ、 その他すべてに、です。
で、私たちは、自分の像に なぞらえて神を作ってきました。
それは、私たちの あるがままの対極です
- 親切だ、慈愛に満ちている、 すべてを知っている、
保護してくれる、大いに 慰めてくれる者など、と。
58:30
そのすべてが 宗教ですか。
人はいつも、何か神聖なものを 探求してきました。
あなたは、何も神聖なものを 信じていないかもしれません。
それは あなたの事情ですが、
多くの、何百万、何千万の 人がいます。
自分が真剣であるなら、 自分自身を含めて、ですが、
何か神聖なものがあるのか どうかを、訊ねます
- 測量可能でなく、 不滅なものが、です。
それに出くわすには、 冥想が必要です。
で、私たちは訊ねなければ なりません - 冥想とは何ですか。
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冥想が何であるかを 見出すには
- その言葉ではなく、 それの美しさを、です。
その言葉(メディテーション)は 熟考することを、意味しています。
その言葉の意味、です。
熟考する、考える、 回想する。
で、冥想が何であるかを 見出すには、
私たちはそれへ、否定的に 接近しなければなりません。
すなわち、それが何でないかを 見出すのです。
理解されますか。
私たちのほとんどは、 こうも肯定的です。
そして私たちは、冥想は何か 自らがしなくてはいけないもの、
実践しなくてはいけない ものであると、考えます。
しかし、私たちが智恵をもって それに接近できるなら
- 欲望をもって、ではなく、 智恵をもって、です。
すなわち、それが何で ないかを見ることです。
で、私たちはともに それをしましょうか。
それは何でないのか。
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1:01:08
まず第一に、それは 体系ではありません。
あなたが、体系を 実践するなら、
あなたの頭脳は、今そうである より、機械的になります。
いいですか。
それはこうも明白です。
私が、何かチベットの、 禅のを実践するなら
または、最近の
冥想で金儲けを する人たち、ですが、
そのとき、この反復は、
それが午後の 二十分であっても、
午前、午後、晩に、マントラを 反復するのでも・
・・
その言葉の意味を知ると
- もしも、あなたがその言葉の 意味を知っていたなら、
あなたはけっして、マントラを 反復しないでしょう。
それは、こうも 滑稽です。
で、どの実践も、ピアノで間違った 音を実習するのに、似ています。
あなたは、実践し、実践し、 実践するかもしれません。
1:02:20
で、どうぞ、これに 入ってください。
東洋の世界は、この不幸な言葉を ここに、もたらしてきました。
で、冥想は、方法を実践 することではありません。
それは、こうも明白です。
それが禅であっても
- それは、とてつもなく 組み立てられています。
古代インドから、それは シナへ行きました。
シナから日本へ、です。
彼らは、一定のサンスクリットの 言葉を発音できませんでした -
ディヤーナ、です。
それが、そう(禅という発音に) なった、などなどです。
また、それは、なっていく ことでもありません。
冥想は、なっていくこと ではありません。
それは、冥想は時の過程 ではない、という意味です。
これは明らかですか。
すなわち、
冥想を提唱してきた 人々すべてによれば、
それは達成の過程です。
1:04:00
私はここにいる。 私は築いている。
一段一段と、 煉瓦を一つずつ、
来る日も来る日も、私が 開悟するまで、です。
(開悟)それが何を 意味していようとも、です。
で、それは、時の中の、 実践、なっていくことです。
これの含蓄を 見てください。
私たちはともに、じっくりと 話し合っています。
あなたは、語り手が言っている ことを、受け入れていません。
ここに何が関与しているかを 見てください。
すなわち、開悟は 時の事柄である、と。
そうですか。
あなたは、ブッダはあらゆる 種類の試練を経ていったと、
言うかもしれません
- 樹の下に座った、そして 突然、開悟した、と。
私はそれを問います。
開悟は 時の事柄ではありません。
(時の)それは、次第に何かに なっていく、という意味です。
次第に、自分の生の悲惨 すべてを、片付けてしまう。
一歩一歩、 タマネギを剥くように、
次から次へ 涙を流して、です。
1:05:36
それが何を意味しているかを 見てください。
結果を達成するための この常なる意識的な努力です。
結果は、 約束されてきたものです。
私の日々の悲惨な生より全然違った 何かを、持っているものです。
私は、すべての悲惨を ものともせず、
そのために働くでしょう。
それは、砂上に邸宅を 建てるのに、似ています。
そして、これが 冥想と呼ばれます。
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1:06:26
冥想はまた、大いなる 気づきとも、呼ばれます。
あなたの呼吸、あなたの 制御に気づきなさい。
一歩一歩、制御です。
すなわち、あなた自身に 気づく -
あなたの思考に、あなたの感じに、 あなたの反応に、です。
それが冥想ですか。
あなたは、それらを とても容易くできます。
なぜそれを 冥想と呼びますか。
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1:07:09
で、そのすべてが 冥想でないのなら
- それは、冥想は意識的な 努力ではない、という意味です。
意識的、意図的な努力が あるところ、
意志の行為があります。
意志は、欲望の総和です。
自分がビジネス世界で傑出したい と欲望するように、です。
違いは何ですか。
あなたが、 こちらのほうが神聖だ、
他方は世俗的であると呼ぶだけ ですが、それは、同じ動きです。
で、冥想が、意識的な 過程でないのなら
- それは、意志の行為です。
私は実践しよう。
私は今朝怠けている。私は起きなけ ればならない、その他すべてです。
1:08:18
脚を組んで座りなさい。 適切に呼吸しなさい。
この種類のヨーガ、あの種類の ヨーガをしなさい、と。
よろしいですか。
それはすべて、こうも 子どもっぽくなります
- あなたがそれをそもそも 見つめるなら、です。
それは 不忍耐ではありません。
なぜあなたは、醜さについて 忍耐すべきなのですか。
それは、あなたがそれを 堪える、という意味です。
で、このすべてが 戯言であるなら
- 彼らはみんな、これらから 多額の金を儲けています。
彼らは豊かです。
彼らの幾人かは 言葉にできないほどです。
で、このすべてが冥想でない なら、冥想とは何ですか。
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1:09:12
すなわち、 精神、人間は、
この世界を理解します -
私たちの外側の世界と 内側の世界を、です。
そして、 外側の世界を理解し、
内側を理解する中で、
それらは、潮の 満ち引きに似ています
- 出ていき、入ってくる。
どうぞ、これの実在性を 理解してください。
それは、満ち引きです。
いいですか。
潮は、引いていった。
世界を創り出したのです
- 私たちの外側の世界、 戦争と、その他すべてを、です。
そのとき、潮は 満ちてきます。
私たちの内側に 同じ動きを運んで、です。
私たちは、それを修正します。
私たちは、それを大切にします。
私たちはそれに、何かをします。
それは、外へ出ていきます。
これが動きです。
それらは、分離した 動きではありません。
私の動きは、世界より 分離していません。
それは、進んできた この永遠の動きです。
人は、社会を 創り出してきましたが、
そのとき、人は 社会の奴隷になります
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1:10:45
これが動きです。さて、 これに入ってください。
そういう動きを 何も持たないこと
- あなたは、これを 捉えたのですか。
そういう動きを 終わらせる
- 何も原因なしに、です。
なぜなら、そういう 動きが、あるなら、
それは、永続的な反応 であるからです
- 外への 永続的な応答です。
そのときあの応答は、私の中に 別の反応を創り出します。
私は反応し、別の外的な 応答を創り出します。
で、外と内との この動きは、
それが止まるとき、
終わりになります。
意識的に、ではありません。
そのとき、あなたは戻っています。
あなたが意識的に それをするなら、
そのときあなたは、同じ 動きの中に、戻っています。
すなわち、 これの真理を見る、
この動きの本性を 知覚する -
それの論理、それの健全さ、 それの真理を、です。
自らがあれを知覚するとき、 あれの終わることが、あります。
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1:12:12
それを違ったように 表すと
- あなたが疲れて おられないのを、望みます -
それを違ったように 表すと、
私たちは、経験に 依存します。
それが、 冥想的な人々みんなが・
・・
彼らは、これらすべての 種類の変な経験を、します。
すなわち、経験を 経験として認識するには、
あなたはすでに、それについて 知っていなければなりません。
私は、他の人の何か変な 経験について、読みます。
彼は、まったく 間抜けなのかもしれないが、
彼は、すばらしい本を書いたのです。
そして私は、それを読みます。
そして私は、「おやまあ、 私は頭か、どこかに、
何か痛みがしていた」 とか、ですが、
「私は、あの経験を しはじめている」と。
で、生きるには - どうぞ、 これを理解してください -
単一の経験もなく 生きる。
それは、自分自身にとって光で あることを、意味しています。
1:13:40
そして、世界で進んでいる 宗教的サーカスすべては
- 神の名において、何の名に おいて、であろうとも -
無意味であることを、 見る。
そのすべての真理を 知覚して、
そのすべてを完全に 脇に置いてしまって、
それは、あなた以外に、 外側の機関がないことを、
意味しています。
そして、冥想は、この動きが 終わることなのです
- 行為と反応、外と内との (動き)が、です。
そのとき、そういう 終わることは、
何の原因も持っていないから、 それは終わりがありません。
理解されますか。
それは、時がない。
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1:14:40
そのときまた、私たちは、
この静かである精神、頭脳の 問いへも、入るべきです。
これは、冥想の一部です。
頭脳を静かに するのではない -
呼吸をとおし、 反復をとおし、
様々な仕掛けをとおして ではなく、
物理的、心理的な 実体全体を
絶対的に静かにする。
この静けさを もたらす。
すなわち、頭脳の静寂を もたらす。
様々な種類の静寂が あります。
二つのひどい 騒音の間の静寂、
二つの思考の間の静寂、
二つの努力の間の静寂、
二つの音の間の静寂。
それは、二つの戦争の間の 静寂、平和に、似ています。
それが、私たちが 持ちつつあるものです。
二つの戦争の間に、静けさが あります。
平和があります。
それは、静寂ではありません。 それは、平和ではありません。
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1:16:13
で、原因なき深い静寂を 持つとはどういうことかを、
探究しなくてはいけません。
頭脳が自らの条件づけから 全的に自由であるとき、
そのときだけ、あの性質が、あの 静寂の大いなる深さが、あります。
そのとき、あの静寂には、
永遠であるものが 花開くことが、あります。
しかし、それは、このすべては、 大いなる真剣さを、必要とします。
自分の残りの生より分離した 一時間だけではありません。
しかし、生は 深刻、真剣です。
そして、自らが 真剣でありたいのなら、
それは、私たちみんな しだいです。
世界は、そういう人たちの 集団を、要求します
- ものすごく真剣である 人たちの(集団)を、です。
その真剣さには、また ユーモアもあります。
1:17:39
で、小さな集団は、 世界全体に影響できます
- 一人の人間が、世界全体に 影響できるように、です。
で、この動き全体が 冥想です。
そして、時がなく、名がなく、 測量がないものの出来事です。
冥想はまた、度量を持たない ことをも、意味しています。
それもまた、その言葉「冥想」(メディ テーション)の語源的意味の一部です。
測量を持たないこと、
比較を持たないこと、
起きてきたことは、 終了しました。
あなたは、起きてきた ことの上に、築きません。
常なる空っぽが なければなりません -
それで、何も原因なき 動きがあるように、です。
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どうぞ、 立ち上がってもいいですか。
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