CC82T2 - 思考より全然違った、新しい思考が、あるのか home
公開講話 第2回
インド、カルカッタ(コルカタ)
1982年11月21日

0:19 私たちは今、昨日の晩に話していた ことを、継続してもいいですか。 私たちは、こう言っていましたね - これは、私たちの間の会話である。 講義ではない、と。 講義は、特定の主題に ついての講演です - あなたに情報を与えるよう意図されて いますが、これは、講義ではありません。 私たちはともに、友好的に 話し合っています - 会話の中で、世界で起きつつある ことを、観察しています。 外的に、私たちの外側に、 だけではなく、また私たちは、 人へ内的に、心理的に起きつつある ことについても、話し合っています。 外側の世界を観察すると、 実質的にあらゆる国に、ますます 大きな混沌が、あります。 この国では、それは 相当に明白です。 それは、あからさまです。 それは、触知可能です。 1:51 そして、不確実性、 動揺があり、 政治的信頼の欠如が、 あるところ - 世界中の政治家たちは、物事を はるかに悪くしつつあることを、知り、 世界中の宗教は、自らの意味すべてを 失ってしまったことを、知り、 このすべてを見て、 原理主義者を名乗ってきた 人たちが、います。 彼らは、バイブルへ戻っていく 人たちです - または、コーランへ、 または、様々ないわゆる 宗教的な聖典へ、です。 自分たちがそれらの本に従うなら、 混沌が減るだろうと、考えて、です。 これが、世界中で起きつつ あることです - 過去へ戻り、 一定の信念、伝統へ 取りすがっています。 そして、「これらの本は、 不朽である。 それらは、真理を語る」 などと、です。 3:36 私たちのほとんどは、何らかの 形で、これをしています。 きわめて混沌とし、きわめて動揺し、 危険で、戦争の準備をしている世界の中で 自然と、或る種の安全が ほしいのです - 私たちの外側か、 内側に、です。 外的な世界には、あまり 安全がありません。 あなたは、きわめて 豊かであるかもしれません。 あなたは政治的に、大きな権力を 持っているかもしれません。 あなたは、たくさんお金を稼いでいる 導師たちの一人であるかもしれません。 あなたは、何かの教義に、何かの信念に 安全を、見つけるかもしれません。 しかし、これらのどの一つにも、 絶対的な安全は、ありません。 人は、安全がほしいのです。 私たちは みんな、安全を持たなければなりません - 衣食住、という 意味での安全を、ですが、 5:00 また私たちは、内的に安全がほしいの です - 何か、私たちに保証、 安定性、強さの感覚を、与えて くれるだろうものが、です。 そこにもまた、 安全はありません - どの信念にも、どの教義にも、 どの理想にも、です。 これらのどれにも安全を 見つけないので、人は過去に転じて、 それにより、何か一筋の光、 何かの種類の言葉や文句 - 取りすがれるものを、 見つけたいと望みます。
5:55 あなたが注目したのか どうか、私は知りませんが、 あなたが何かの種類の結論に、 縋りつけばつくほど - 合理的な結論、論理的な結論や、 一定の権威の結論に、です - 結論があるところ、エネルギーの 欠如が、あるにちがいありません。 なぜなら、あなたが、結論に到るとき - それは、議論、論争の後、 あなたが正しいと思う点に来る、それを 終結させることを、意味しています - そのときあなたは、さらなる 探究へ、扉を閉めます。 それが、世界でもまた 起きつつあることです。 私たちはみんな、結論が ほしいのです - 神がいるのか、平和が あるのだろうかなどと、です。 それは阻止します。 あなたが、結論するとき - それは、様々な論争、提案、観念を 終わりにする、という意味です - そのとき、あなたが それらの結論を、持つとき、 あなたは必ず、エネルギーを失う ことになります。 なぜなら、 あなたは、さらなる探究、さらなる探検に 対して、扉を閉めてしまったからです。 7:36 おそらくそれが、この国と 世界中で起きつつあることです。 すなわち、内的と外的に、 明白に、安全を欠いている。 何か私たちが全的に 頼られるもの、 私たちが依存できるもの、 私たちに、慰め、幸福感を 与えてくれるだろうもの、という 意味で、安全を、欠いている。 それを持っていないので、私たちは 何か伝統的な結論に、縋りつきます。 それにより、あの探究の創造的な エネルギーを、失います。 探究は、透徹すること、 究明すること、探検すること、 扉を開くこと、さらに見出す ことを、意味しています。 8:44 しかし、私たちのほとんどは、あの エネルギー、衝動を、持ちません。 それで、私たちはまたも、何か伝統と 呼ばれるものや何らかの書物へ、陥ります。
9:05 今日と来週末の、 これらの講話において、 私たちは、どの定式、どの万能薬、 どの確実性の感覚をも、与えていません。 ともに、あなたと語り手は、 仲の良い会話の中で、 探検しています。 それで私たちが、自分のエネルギーを解放 するし、誰にも依存しないように、です。 どの本にも、どの人物や どの観念、信念にも、です。 私たちは創造的なエネルギーを解放して いないと、語り手には思われます - 新しい文化、新しい生の道を もたらすように、です。 なぜなら、この国の古いバラモン文化は 完全に消え去ってしまったからです。 10:33 文化 - 私たちは、それが良かった とか悪かったとか、言っていません。 おそらく三千年から五千年の間、 存在してきた文化は、 一夜にして、完全に去ってしまった、 すっかり消え去ってしまったのです。 そして、自分は 問い、訊ねます - なぜ人間たちは、特定の文化をもって、 こうも長く生きてきたのに、 その文化は、 消え去ってしまったのか、と。 おそらくそれは、まったく 文化ではなかった。 それは、一連の言葉であり、その裏に 何の生命もない伝統であったのです。
11:24 で、私たちの精神と私たちの心の 条件を、ともに探検する中で、 頭脳の本性を 究明する中で - それは、 私たちの行為すべての、 私たちの感情すべての、 あらゆる思考の中心です - 混沌、不確実さ、危険に取り囲まれて、 それが可能であるのかどうか、 私たちの一人一人が、あの創造的なエネルギーを 解放することが、可能であるのかどうか、です。 私たちは今晩、よく気をつけて、 これに入ろうとしています。
12:28 私たちが昨日、言いました ように、聞く芸術が、あります。 そして、学ぶ芸術が、 あります。 私たちの学びのほとんどは、 知識の蓄積です。 数学や生物学や 物理学を知らなくて、 次第に大変多くの情報を 物理学について、蓄積する。 それを頭脳に 蓄えておく。 それが、私たちの知識になります - 物理学、数学、何についても、です。 それが、私たちがすることです。 それが、私たちが学びと呼ぶものです - 様々な主題について たくさんの知識を蓄積する。 技師として、 天文学者として、 もしお望みなら、不幸にも、 政治家として、です。 13:42 私たちは、世の中で上手に行為する ために、知識を蓄積します - 大工として、石工として、 医師として、です。 それが、私たちがすることです - 知識は蓄積されます。 そこから私たちは、行為します - 上手にか下手に、 効果的にか 非効果的に、です。
14:16 で、私たちはともに、探究しなければ なりません - 知識は何であるのか、 知識は、どんな所を 持つのかを、です。 私たちの互いとの関係において、 知識は、どんな所を持ちますか。 どうぞ、私たちは、 これを探究しています。 ただ単に、語り手に 聞かないでください。 あなたは単に、語り手が使っている 言葉が、気軽に聞こえるだけなら、 それは、きわめて浅く、 空っぽになるでしょう。 私たちはすでに、他の人々の 知識で、満ちています。 しかし、おそらく私たちは、生における知識の 所が何であるかを、問うたことがありません。 職業を持つこと、 良い科学者、医師、技師などに なるのを、別にして、です。 私たちは、きわめて深刻な、 真剣な質問を、しています - すなわち、人間関係において、 知識は、どんな所を持ちますか。
15:47 話をさせてください - 気にされないなら、です。 そのときおそらく、時間がある なら、あなたは質問をできます。 それで、 だいじょうぶですか。
16:03 私たちは訊ねています - 人間関係に おいて、知識はどんな所を持ちますか。 知識はいつも、過去にあります。 未来の知識は、ありません。 知識は、過去としての時の 過程を、含意しています。 いいですか。 それは明らかです。 この知識は、科学的な世界に おいても、人間存在においても、 経験に 基づいています。 この経験は、何百万年の間、 集められています。 または、ここ三百年の間、 科学者でもって、です。 その知識は、さらなる知識、 さらなる探検を蓄積するために、 使われますが、知識は いつも、過去にあります。 それについて、 疑問はありません。 そして、知識は、何についても けっして、完全ではありません。 17:27 ですね? 私たちは、ともに ここを行っていますか。 どうぞ、私たちは同意していません。 あなたはただ、聞いていません。 私たちは、ともに 考えています。 私たちは、知識はいつも 不完全であると、言っています。 何についても、 完全な知識は、ありません。 それは事実です。 で、私たちの知識は、頭脳の中に 記憶として蓄えられているし、 その記憶の応答が、 思考です。 すなわち、経験は、 継承されたのか、あるいは、現在に蓄積 されたのか、それが知識になります。 そのとき、その知識は記憶です - それは、過去です。 その記憶から、 反応が思考です。
18:51 ですね? これは明らかですか。 私たちは、そこから進めますか。 で、思考は、いつも 制限されています。 ですね? 自分は、例えば、科学的な知識を 蓄積してきました。 その知識は、いつの時も 付け加えられつつあります ますます多く、彼らは 発見しつつあります。 それで、科学的な知識は けっして、完全ではありません。 いいですか?  で、思考は、 何をしようと、制限されています。 おそらく、あなたたちの幾人かは これを、拒絶するでしょうが、 あなたがそれを究明してくださり、それを 見るよう、ともに行ってくださるなら、です。 それについて明確な立場を取るのではなく、 それについて、ともに考えましょう。
20:09 私たちは 断定的に、明確に、 知識は制限されていると、 言っています。 なぜなら、何についても、 完全な知識は、ないからです。 知識には、いつも 無知の影が、伴います。 知識から生まれた どの思考も、 必然的に断片的で、制限され、 有限であるにちがいありません。 思考は、何か測量不可能なもの、 何かすべてを越えた、無際限のものを、 創案できますが、それは やはり、思考の動きです。 一人の人、或る人物は、神を 創案できます。 なぜなら、彼は、 自分の慰めのため、自分の安全のために 神が必要であると、感じるからです。 しかし、その神は、 制限されている思考の産物です。 21:24 私たちはこの点について、きわめて 明らかでなければなりません。 あなたが語り手に同意する、ということ ではない - それは役立たないでしょう。 あなたが、自分自身で その事実、真理を、見るなら - すなわち、思考は、 すべての環境のもとで、 その思考が、科学者のや、 偉大な哲学者の何であっても、 それは、いつも、束縛され、 狭く、制限されています。
22:05 思考は、民族性を 創案してきました。 思考は、それを創り出しておいて、 人々の間に、分割をもたらします。 イスラム教徒とヒンドゥー教徒、 ユダヤ人とアラブ人、 共産主義者、社会主義者、 資本主義者、などです。 思考は、このすべてを 創案してきました。 私たちの社会は、どれほど腐敗していても - この国でそうであるように、です - 他の国々に腐敗が存在しない、 ということではないが、 この国では、こうも あからさまに見られます。 この腐敗は、思考により 創案されています。 すべての儀式は、 思考の産物です。 軍隊の儀式でも、宗教的な儀式でも、 それらはすべて、娯楽の形です。 思考により 創案されています。 思考が、問題を創り出してきました - 戦争のように、葛藤などのように、です。 そのとき思考は、これらの問題を 解決しようとします。ですね?
23:39 これらに付いてきておられますか。 これらに興味はありますか。 私に言ってくださるでしょうか。 おそらく、少しね。 または、たぶんあなたは、それについて まったく、考えたことがありません。 あなたは、これらに 入ったことが、ありません。 あなたは、思考を、人が持つただ一つの 道具として、受け入れてきただけです。 その道具は、世界に荒廃を 創り出してきました。 良い大工は、自分の道具が役立たずだと 見つけるとき、それを放り棄てて、 新しい道具を見つけようとしますが、 私たちは、そうしません。 私たちは、思考が 政治的に、宗教的に、 人間たちとしての 互いの間に、 思考が無数の問題を 創り出してきたことを、見ます。 24:53 そして思考は、政治的に、宗教的に、 「私はそれを解決しよう」と言います。 それらの解決の中で、あなたは、もっと 多くの問題を、産出しつつあります。 で、生は、ますます複雑になり、 ますます問題で満ちつつあります。 なぜなら、私たちは、思考がたった 一つの道具であると、考えますが、 その思考は、制限されているからです。 ですね? これは明らかですか。 言語的に明らかなのではなく、 あなた自身にとって、明らかですか。 それで、私たちは そのとき、訊ねられます - 新しい道具がありますか。 よろしいですか。 私たちは世界中で、見つけます - 最大の科学者さえも、 最大の・ ・・それらが何であっても、 彼らは、問いはじめています - なぜなら、語り手は、彼らの 多くと、話をしてきたからです - 思考の本性を 問いはじめています。 26:16 思考は、 物質的な過程です。 なぜなら、思考は、頭脳に、脳細胞 自体にこそ、保たれているからです。 で、思考は、 物質的な過程です。 で、何でも思考が考えたり、 創案したりするものは、 物質的な過程の結果です。 で、思考が神を創造するとき、 それはやはり、物質的な過程です。 思考は、 神聖ではありません。 これが、きわめて明らかであるなら - 言語的にではなく、深く、深遠に、です - そのとき私たちは、訊ねられます - 新しい道具がありますか。 上の意識や下の意識ではない。 私は まったく、そういうつもりではありません。 それは、思考の 別の創案です。 27:19 上の意識 - それを下の意識へ 降ろしてくること。 自らが行うゲーム すべてを、ご存じです。 それは、やはり 思考の産物と過程です。
27:37 で、私たちはともに、 見出そうとしています - 思考より全然違った、新しい道具が、 あるのかどうかを、です。 すなわち、思考がまったく 触れたことがないものが、です。 なぜなら、何でも思考が触れるものは、 制限されるにちがいないからです。 それは、制限されているので、 必然的に、葛藤を創り出し、 断片化をもたらすにちがいありません。 それが世界でしてきたように、です - 宗教的な断片化、 政治的な断片化、などです。 これは明らかですか。 私たちは、 そこから進めますか。よろしいですか。 あなたが単に言葉を受け入れている、 言葉を受け入れているだけなら、 あなたは、はるかに 行けません。 しかし、あなたが本当に、 人類に、深い関心を持ち、 世界で起きつつあることに、 深い関心を持ち、 人の未来に、深遠な関心を 持っているなら - すなわち、あなたの子どもと 孫たちの未来に、です - あなたは必然的に、この質問を するにちがいありません。 あなたがそもそも、真剣であり、 深い関心を持っているなら、 あなたが人類に、大きな 慈しみを、持っているなら、です。 29:24 しかし、そうね、私たちのほとんどは、 探究するエネルギーを、持っていません。 見出す衝動、熱情を、 持っていません。 で、私たちは、マルクス、 レーニンへ、向かいます。 または、バイブルや コーランに、です。 それらは、新しい道具の発見のための エネルギーを、けっして与えないでしょう。 この世界では、それが、 こうも絶対的に必要です - 日に日に退廃し、自体を破壊し つつあるところでは、です。
30:16 で、どうぞ、ともに、 私たちは、見出そうとしています - 何の疑いの影もなく、です - 思考の本性を 問うことこそにより、 問い、疑い、訊ね、 探索することによって、です。 そして、私たち自身で見出そうと しています。 すなわち、思考は、 どんな水準でも、断片的で、 制限され、有限であるが、 この制限が、頭脳を 条件づけてきたことを、です。 頭脳は、とてつもない能力を 持っています - テクノロジーの世界で起きつつある ことが、見られるように、です。 とてつもない能力です。 しかし、その能力は、一方向に のみ、発達させられてきました。 すなわち、テクノロジーの 世界において、 医師、外科医、数学者、 コンピューターの専門家 などにおけるように、です。 31:51 しかし、人間の問題を - すなわち、私たちの互いとの葛藤、 私たちの悲しみ、痛み、嘆きと、 終わりなき葛藤を - テクノロジーの世界は、 けっして解決できません。 彼らはそれに、まったく 関心を持っていません。 どの政治家、どの体制、どの方法も それらに、関心を持っていません。 で、通常の人間として 私たちは、 私たち自身で、 見出そうとしています - 新しい道具があるのか、 ないのかを、です。 すなわち、思考に触れられていない もの、時の結果ではないもの、 進化の過程、すなわち、思考に 捕らわれていないものが、です。
33:07 私たちは訊ねています。私たちは、一歩 一歩、それに入ろうとしています - あなたがその気があるなら、 あなたが真剣であるなら、です。 あなたは、真剣でなければなりません。 それは、あなたが笑ってはならない、 という意味ではありません。 それは、 あなたが身体を拷問しなければならない、 という意味ではありません - 宗教が提唱するように、です。 あなたは、大きな鋭敏さ、注意、能力、 敏感さを、持たなければなりません。 どの集団にも、どの信念にも、 どの教義にも、参与できません。 あなたは、本当に地球的な精神を、 持たなくてはいけません - 自分の小さな問題に関心をもった 些細な小さな精神ではなくて、です。 34:06 より大きなものの中で、 より小さなものは、消え去ります。 より大きな人類の中で、わずかな、小さい 人間の問題は、解決されるのです。 しかし、あなたが、小さな問題を 解決しようとしているなら、 人間の頭脳と精神と心の広大な 複雑さを理解することなしには、 そのとき、あなたはけっして、どの 問題をも、解決しないでしょう。 だから、どうぞ、あなたの注意、 気づかいを注いでください - 語り手が言うことを反復するのではなく、 あなた自身で見出すように、です。 語り手は、何の価値をも持って いません。 彼はただの電話ですが、 彼が言うことは、おそらく重要性を 持っているかもしれません。 だから、どうぞ、 見出してください。
35:13 あなたは、自分自身を観察しようと したことがありますか - あなたの妻を、 道路の向こうの樹と、過ぎ去る あの動物を、言葉なしに、です。 あなたは、樹を見つめようとしたことが、 ありますか - それに名づけることなく、 樹についての過去の映像すべてを 持ち込むことなく、 ただ樹を観察する。 その言葉 - すなわち思考 - なしに、 それを見つめる。 あなたは、 そうしたことが、ありますか。 いいえ、もちろん ありません。 あなたは、自分の妻や夫や 見つめたことがありますか。 または、自分の 制限された政治家を、です。 あなたは、彼らを見つめたことが ありますか - あなたの妻、夫などを 言葉なく、映像なく、 象徴なく、です。 あなたは、語り手を 見つめるでしょうか - その言葉なく、です。 見つめるでしょうか。 36:41 すべてのゴミと すべての評判なく、です。 それは、ともかく 気持ち悪い。 彼を見つめてください。 あなたが彼について 築いてきたイメージなく、です。 あなたは、それを できますか。 おそらく、語り手をそのように 見つめるほうが、容易いでしょう。 なぜなら、彼はあなたを知らないし、 あなたは、彼を知らないからです。 で、おそらく、そのほうが容易いが、 あなたの妻、あなたの夫を見つめる。 その樹を、その動物を、映像、 イメージ、言葉なく、です。 それは、樹との 同一視ではありません。 もちろんです。 明白です。 あなたが自分自身を、樹と同一視する なら、あなたは樹です。 ですね? これらに付いてきておられますか。 私は、自分自身に話していますか。
37:57 で、初めに、気づくこと - あなたが、単一の言葉、映像もなく、 見られ、観察でき、 見つめられるのかどうかに、です。 なぜなら、そのときあなたは、自分の 敏感さを、目覚めさせるだろうからです。 私たちは、 敏感ではありません。 私たちは、受け入れてきました。 私たちは、埃に、汚れに、 悲惨に、貧しさに、 敏感ではありません。 私たちは、ただ それを受け入れます。 この国の貧しさは、けっして解決できません。 けっして解決されようとしていません - あなたが自分の民族主義を完全に 落とすのでなければ、です。 それは、あなたが 人の人への地球的な関係を 理解したときだけ、 解決されるでしょう。 そのとき、国境は ないでしょう。 が、あなたはたぶん、それに 興味を持っていないでしょう。
39:17 で、私たちは、 こう言っています。 究明において、探究において、 初めの本質的な性質は - 別の道具があるのかどうかに ついて、ですが - 初めのことは、 自らは、とてつもなく敏感でなくては いけないのです。 すなわち、 すべての宗教は、あなたの感覚を 抑制しなさい、と言ってきました。 ですね? あなたの感情を、あらゆるものを 抑制しなさい、それを抑制しなさい、と。 それで、私たちは次第に、諸感覚の 敏感さを、失ってしまったのです。 語り手は、正反対のことを 言っています。 私たちは、感覚によって 生きます。 おそらく幾らかの人は、特定の 感覚を、発達させてきましたが、 語り手は、あなたの感覚 すべてをそれらの最高度に、 目覚めさせるように、 言っています。 それであなたは、自分の感覚すべてで もって、世界を見つめるのです。 40:51 私が何について話しているかを、 理解されますか。 感覚すべてが十分に 目覚めているときの あの無量の感じをもって、 世界を見つめる。 そこには、大いなる、とてつもない エネルギー、美しさの感覚が、あります。 それで、もう一つの 道具の究明の中で、 私たちは、初めのことが こうであることが、見えます - 人は、反復をとおし、 伝統をとおし、 環境の抑圧をとおして、 鈍くなってしまったのです。 環境は単に、 自然だけではありません。 環境は、 政治家、導師と、 あなたのまわりで 進んでいるすべてです。 私たちは、そのすべてにより、 抑圧されています。 で、私たちは、次第に すべての敏感さ、 創造するためのすべての エネルギーを、失ってしまったのです。 42:08 私たちは、「創造する」という、その 言葉を、使っています。絵画や詩歌、 文芸作品を 創造することではない。 私たちは、創造について 話しています - 何か全然新しいものを もたらす、という意味で、です。 そして、あの能力、衝動、 美しさを、持つには、 自らは、大いなる敏感さを、 持たなければなりません。 あらゆる感覚が十分に機能して、 十分に気づいていないなら、 あなたは、大いなる敏感さを 持てません。
42:59 さて、なぜ私たちは、自分たちの 感覚を、破壊してきましたか。 質問を理解されますか。 宗教は、言ってきました - キリスト教世界において、 そして、この国の聖典類と 宗教的な指導者たちは、 「欲望を抑制しなさい」と、 言ってきました - 「あなたの感情を抑制しなさい。 女を 見つめるな。あなた自身を拷問しなさい。 そのときだけ、あなたは、神や涅槃や解脱や 何でもほしいものを、見つけるだろう。 そのときだけ、あなたは啓明を得る だろう」と。 それはまったくの戯言です。 私たちが持っている最も とてつもない道具を、 あなたは、どうして 破壊できますか - 身体を、その感覚 すべてとともに、です。 身体は - あなたがそれに入ってきた なら - こうもとてつもない道具です。 44:12 で、これらの人々は、 「欲望を抑制しろ。 欲望に負けるな」と 言います。 「しかし、あなたが欲望を持つなら、 それを救い主と、同一視しなさい - クリシュナと、または、世界にどんな 宗教上の神があろうとも、です。 あなたが悟ったのかどうかと 思われますが、この国には、 誰かが計算しましたが、三十三万の 神々が、いるのです。 おそらく、一人の神を持つより、 そのほうがいい。 あなたは、多くでもって、 もっと面白くできます。 ですね? そんなに深刻に ならないでください。
45:07 で、私たちは、欲望の本性を 理解しなければなりません。 それは、新しい道具の究明の 中で、とても重要です - 古い道具、すなわち思考が、 どの人間問題をも 解決しつつないことを、 悟って、です。 で、それへの究明の中で、私たちは、欲望と 呼ばれるこのものに、出くわしたのです。
45:44 欲望とは何ですか。 なぜ人々は、それを抑制しろ、それを 拒否しろ、と言ってきましたか。 それができないなら、それを、何かもっと 大きなものと、同一視しなさい、と。 それは、いつも 格闘の問題です。 で、私たちは、欲望の抑制、回避、 逃避とそれらを、提唱していません。 私たちはともに、欲望の本性を 究明しています - 欲望がどう生ずるのか、私たちは なぜ、それに捕らわれるのか、 なぜそれは、こうもとてつもなく 強力になったのかを、です。 で、私たちは、欲望が何であるかの 問いに、ともに入ろうとしています。 欲望とは何ですか。 あなたは、気持ちいい対象、美しい対象を 見ます - 美しい女や男を、です。 あなたは、彼や彼女や その対象物を、欲望します。 47:10 そのとおりです。 あなたは、すてきな車を見ます。 磨かれて、輪郭も良く、強力です。 あなたは、それに触れる。 中へ乗り込む。 それを所有する楽しみを、感じる - それを買う余裕があるなら、です。 おそらくこの国で、ではないで しょう。 気にしないでください。 そこに欲望が あります。 初めに、対象が、欲望を 創り出します。 または、対象より別に、欲望が存在 します - これらに付いてきていますか。 すなわち、対象、車が 欲望を、創り出します。 または、欲望が存在していて、 対象は、変わるかもしれません。 で、私たちは、欲望の対象に ついて、議論していません - 有力な大臣や首相、 知事、重役や、 才能あるヴァイオリン奏者 であること、ではなく、 私たちは、欲望のまさに構造と 本性こそを、探究しています。 48:43 私たちは、それを理解するなら - 言語的にではなく、事実本位で、です - そのとき、けっして、 それを抑制するとの問い、 けっして、それを制御する との問いは、ありません。 どうぞ、気をつけて、語り手が 言っていることを、聞いてください。 私たちは、制御してきました - 誰が制御者 であるかを、けっして理解しないで、です。 私たちは、欲望を制御してきました。 私たちは、自分たちのセックスを 制御してきました - セックスを制御するなら、です。 私たちは、制御するよう、 育てられています。 そして、欲望があるところ、私たちは、 それを理解しよう、それを探検しよう、 それを探索しようとしています - それを制御するのではない。 これが明らかであるなら、私たちはともに 欲望の理解、真理へ、入られます - それが生において、どんな所を持つのか、 まったくどんな所をも持たないのか。 50:04 で、私たちは、どの結論でもっても、 とうてい出発できません - すなわち、 欲望を抑制しろ、とか、欲望に 好き勝手をさせろ、とかで、です。 私たちはともに、 ゆっくり、躊躇いつつ、 気をつけて、これを 探索しつつあります。 それは、生において、とてつもない要因に、 そしてまた、拷問にもなったのです。 で、私たちは訊ねています - 欲望とは 何ですか。 どんな起源から・・・ 欲望の本源、 起源は、何ですか。 どうぞ、あなたは、私と ともに考えています。 語り手が与えようとしている説明を、 ただ聞いているだけではない。 あなたは、考えています。 能動的に参加しています - 欲望の起源への 探求に、です。 対象が欲望を 創り出すのか、 または、それは、すべての対象より 全的に独立しているのか、です。 51:32 それは、明らかですか。 私たちは、進めますか。 みなさま、これを理解することは、 きわめて重要です - きわめて、きわめて深く それに入ること、 欲望の動き全体を、 その含意、その深さ、 その実在性を、 捉えることが、です。
52:14 もしもあなたが、何も感覚を持たなかった なら、何も感受はないでしょう。 あなたが、何かを見るとき、感受が 生じます - お店のウィンドウに、 シャツ、ワンピース、ラジオや 何であろうとも、です。 あなたはそれを見ます - 視覚です。 そのときあなたは、そのお店の 中に入り、素材に触れます。 それに触れることから、 感受が、あります。 ですね?   これは、単純です。 あなたは、車を見ます。 それに触れます。 あなたは、輪郭、つやを見つめます。 インドの車の美しさではなく、 ヨーロッパの車の幾つかは、 とてつもなく美しい。 航空機が とてつもなく美しいように、です。 あなたは、それに触れます。 あなたは、 ウィンドウに見えるあのシャツに、 触れます - 青いシャツです。 そして、触れることこそにより、 感受が、あります。ですね? 53:45 これは、まったく明白です。 感受が、あります。 そのとき、何が 起きますか。 私たちは、ともに考えています。 あなたは 私が言っていることを、受け入れていません。 あなたは、あのシャツに触れます。 あの ラジオ、テレビを、何でも、見つめます。 その触れることや見ることこそが、 感受を、創り出します。 そのとき、あなたが、きわめて 間近で観察するなら、思考は、 「もしも私が、あのシャツを着たなら、 何てすてきなんだろう」と、言います。 「もしも私が、あの車に 乗り込んだなら」と。 で、あの瞬間に、感受の中から 思考が、イメージを創り出すとき、 欲望の起源が、あるのです。 ですね? これらに付いてきて おられますか。
54:53 私は、美しい樹を 見ます - それを、人は 創り出していません。 人は、大聖堂、モスク、寺院を 創り出してきました - そして、その中のもの すべてを、です。 人は、そのすべてを創り出してきましたが、 人は、その樹を創り出していません。 人は、自然を 創り出していませんが、 人は、自然を 破壊しつつあります。 で、あなたは 美しい樹を、見つめます。 あなたは、それが自分の庭に あったならと、望みます。 あなたは、それを見ます。 感受が、あります - 威厳、影、木の葉への光、 樹の動きへ、です。 そのとき感受が、生じます。 そのとき思考は、こう言います - 「もしもあの樹を、私の庭に持てた なら、何とすてきなんだろう」と。 思考が、あなたの庭にあの樹の イメージを、創り出すとき、 その秒に、欲望が 生まれます。ですね?
56:21 で、そのとき、 問いは、こうです - 敏感であること、 感受を持つことは、自然です。 さもないと、あなたは 麻痺しています。 あなたは、感受を持たなければ なりません。 あなたは、自分の指に、 眼に、見聞きするのに、敏感さを 持たなければなりません。 あなたは、敏感であるとき、 見守ります。 見つめます。 その見つめる、見守る、観察する 中から、必然的に感受が生じます。 それは、生じなければなりません。 さもないと、あなたは盲目で聾です。 さて、感受があるとき、思考が イメージを、創り出します。 その瞬間に、欲望が 生まれます。ですね? 57:25 あなたは、そのとおりだと 見つけましたか。または、あなたは ただ、語り手が言ってきたことを、 反復しようとしているのか、 あなたの伝統に戻って、「私たちは 欲望を、抑制しなければならない」とか、 「あなたが話していることは、 戯言だ」とか、言おうとしていますか。 私たちの宗教書すべては、 言ってきました・ ・・ とにかくあなたが、なぜこれらの 宗教書を読むのかを、私は知りません。 で、もしあなたが、本当に この欲望の問いに、入るなら - それは生において こうも重要です - そのとき、あなたは、欲望の起源、 始まりを、自分自身で見出すでしょう。 58:12 さて、問いは、車、シャツ、 女、絵画を、見つめることです - 感受の発生が、 ありますが、 思考が休止中でありうるのか どうかを、見出してください - あなたがあのシャツを着たり、 あの車に乗ったりなどの映像を 即時に創り出す、イメージを即時に 創り出すのではなくて、です。 感受と、その感受へ 思考が衝突するのとの間に、 隔たりが ありえますか。 この問いを理解されますか。 見出してください。 それにより、あなたたちの精神、 頭脳は、鋭敏になり、見守るでしょう。
59:20 で、また、私たちはともに 話し合うべきです - 新しい道具の究明の中で、 人はいったい、恐れより自由で ありうるのかどうかを、です。 私たちは、みんな、何らかの ことに、怯えています - 究極的に、死に怯えています。 私たちはおそらく、 次の週末、それについて話すでしょう。 もし時間があるなら、です。 私たちはみんな、何らかのことに 怯えています - 過去のか、 あるいは、未来のか、あるいは、 生きた現在のことに、です。 現在の生きた活動、 過程が、不確実です。 私たちは、いつも この恐れを、持っています。 あなたは、 恐れていませんか。 おそらくあなたは、 自分の妻を、恐れていませんね。 なぜなら、あなたは 彼女を支配などするからです。 または、あなたは、政治家を 恐れているかもしれません。 1:00:37 あなたは、自分が大臣の前で、どう 振るまうかに、注目したことがありますか。 それに注目したことが、ありますか - あなたが 彼の前で、いかに這いつくばるか、です。 ほとんど彼に跪きます。 あなたが導師へするように、です。 あなたは、これらに 注目したことが、ないですか。 で、自らは、この恐れの 重荷を、持っています。 人はけっして、その問題を 解決したことがありません。 人は、それより逃避してきました。 人は、 それを抑制する、それを拒否する、 それから逃避するために、 様々な手段を、持っていますが、 人は、けっして、この問題を 解決したことが、ありません。 恐れがあるとき、 怖ろしい活動が、起こります。 あらゆる種類の間違った行為が、 起こります。 あなたの全身、全精神が、縮みます - 恐れの本当の危険が、あるとき、です。 1:02:07 で、これは、私たちが解決 しなければならない問題です - 理論的に、ではなく、 実際に、です。 恐れを完全に終了させなければ ならないのです。 それは可能ですか。 ですね?  私たちは、ともに その問いを、探究しようとしています。 どの教義的な立場をも取ったり、 「それはできない」とか、 「それはできる」とか 言ったりするのではない。 私たちはともに、探索しています。 恐れの本性を、覗きみています - その原因、その根、 その始まりを、です。 恐れの様々な枝を、ではなく、恐れの きわめて多くの葉っぱを、でもない。 これを理解されますか。 私たちは、恐れの根が何であるかを、 見ているか、見出そうとしています。 あなたが、それを見出すとき、 枝々は、枯れてしまいます。 葉っぱは、消え去ります。 それらは、干上がります。 1:03:31 で、どうぞ、あなたが疲れていないなら、 この問いへ、注意を向けてください。 全的に、完全に恐れより自由である ことが、可能であるのかどうか、 それで、あなたは、この場所から 歩いて出て行くとき、 本当に恐れより 自由であるように、です。 そうね、死の恐れと、 そのすべてより、です。 それは、あなたが 自分の頭脳を注入し、 その究明の中で活動的でなければ ならない、という意味です。
1:04:20 恐れの原因は、 何ですか。 原因があるところ、いつも、 その原因に、終わりがあります。 ですね?  これは論理です。 これは自然です。 私は、痛みを持つかもしれません。 原因は、癌なのかもしれません。 私は、原因を発見するなら、痛みは終わる でしょう。 または、それは末期でしょう。 それで私は、死ぬかもしれませんが、私は 原因を、発見しなければなりません - 良い医師すべてのように、です。 彼らは、原因を、知りたがります。 で、彼らは、症状をとおして 原因を究明します。 で、私たちはともに、見つめています - 恐れの症状を、ではなく、 闇に怯え、あなたの 両親や祖父母に怯え、 あなたの夫や妻に怯え、 政治家に怯える、などです。 1:05:32 それらはすべて、症状、 恐れの対象ですが、 私たちは、訊ねています - それの根は、何ですか。 それは、樹を切り倒すのに、 似ています。 あなたがけっして、樹を 切り倒さないことを、私は望みます。 それは、物事のまさしく 根に行くのに、似ています。
1:05:56 今、私たちは、それを 見つめようとしています。 で、初めに、私たちは 訊ねています - 恐れの原因は、時ですか。 時、時間です。 気をつけて、それを見つめてください。 どうぞ、それを見つめてください。 語り手が言う、いかなる ことをも、受け入れないで、 それを問い、疑い、 訊ねてください。 語り手は、何も権威を持っていません。 彼は、人物は、重要ではありません。 しかし、彼が言うことは・ ・・ 見出してください。 時が、恐れの 主な原因ですか。 すなわち、時は明日です。 明日、起きるかもしれないことや、 昨日、起きてきたことです。 または、千の昨日です。 または、今、起きるかもしれない ことです。 質問を理解されますか。 時が、恐れの要因ですか。 要因の一つですか。 1:07:23 私は、先週、何か間違った ことを、したかもしれません。 私がしてきたことは、 痛みを引き起こしてきました。 私は、それが再発しない だろうことを、望みます。 「望み」という言葉は、 未来を、含意しています。 いいですか?  これに 付いてきておられますか。 で、時計による時、 日の出と日の入りによる時、 昨日、今日と 明日としての時、 昨日の記憶、 経験としての時が、 現在において、それ自体を修正し、 未来へ進行していきます。 そのすべてが、時です。 物理的な時 - ここからそこへ、 一点から別の点への距離を埋める。 この場所から、あなたの家へ行く。 それは、時を必要とします。 1:08:36 で、物理的な時があるし、いわゆる 心理的な時、内的な時が、あります。 すなわち、「私は、年末にもっと 良い職に就くだろうと、望む」、 「私は、もっと良くなるだろう。 尊いとか、 何にでも、幾らか後で、なるだろう」、 「私は明日、すてきな人に 会うだろうと、望む」と。 で、「望む」という言葉は、 時を含意しています。 ですね? そして、もう一つは、 「もっと良い」との観念です。 「私はこれだが、私は もっと良くなるだろう」、 「私は暴力的だが、私は、 非暴力的になるだろう」と。 で、「あるもの」と、「あるもの」を 他の何かへ変容させる、この過程は、 時の過程です。ですね? これは明らかですか。
1:09:54 で、時は、 恐れの要因です。 私は、生きています。 私は、十分な エネルギーを持っていますが、 何かにより、事故により、 私は死ぬかもしれません。 私は元気ですが、 いつも、死があります。 で、この時の感覚が、 あります - 間隔です。 その間隔は、もっと良い ものとして、望みとして、 自己改善などとして、 翻訳されます。 私は充足したい。 私は、充足できない かもしれません。私は職に応募します。 私は、その職のための能力を、 持っていないかもしれません。 で、恐れがあります。 で、 時は、恐れの要因の一つです。 ですね?  私たちは、時をどう 拭い去るかを、言っていません。 私たちは、恐れの本性を 探究しています。 1:11:08 そのとき、思考が、考える過程が、 恐れの別の要因ではないですか。 それを 見つめてください。 私は、自分が死ぬかも しれないと、考えます。 私は、神が存在すると考えますが、 あなたがやってきて、 私の信念を脅かします。 そして、私は怯えています。 で、思考 - 過去の出来事を考えて、 痛みが再発しないだろうと望むこと、 それについて考えることと、それが、 再び起きないだろうと願うことが、 思考の動きです。 ですね? で、思考と時は、 恐れのまさに根です。 あなたは、時を 止められません。 物理的な時 - ここからあなたの家へ、 それは、時を必要とします。 あなたは、それを 止められません。 1:12:35 言語を学ぶことは、 時を、 どの技術を学ぶことも、 時を必要とします。 私たちは、時が恐れの要因の 一つであることを、見ます - 思考とともに、です。 ですね? で、思考は動きです。 そうで ないですか。時は動きです。 これらを 理解なさっていますか。 私たちは、一緒にいますか。 または、 あなたと私は、遠く離れていますか。 私は、あなたの頭脳に、何が 起きたのかを、知りません - あなたの 究明する能力に、です。 進みましょう。
1:13:44 実際に、事実本位に、そもそも 心理的な時が、ありますか。 質問を理解されますか。 私に、私の感情に、実際にありますか - その時は、考案されていますか。 私がいう意味を、 お示ししましょう。 7時15分です。 6時15分です。 あなたは、疲れていますか。 私はそれをつづけましょうか。
1:14:29 質問者: はい。はい。
1:14:32 K: あなたは疲れていないと、 仰るつもりですか。
1:14:36 質問者: いいえ、いいえ。 K: いいえ? なぜですか。
1:14:39 ああ、いいえ。ただ聞いてください。 私は、真剣な質問をしています。 笑い飛ばさないでください。 なぜですか。 いいえ、ただ問いを聞いてください。 即答しないでください。 もしあなたが、働いてきて、 能動的に究明してきて、 見出すように、持てる能力 すべてを、行使してきたなら、 あなたは、疲れているでしょう。 あなたは、疲れているはずです。 それは、あなたがただ 気軽に聞いてきて、 言葉を玩んできたことを、 示しています。
1:15:26 で、私は、あなたに 訊ねています。 時の問題は、きわめて重要です - 思考の問題と同じように、です。 私たちは、時により 生きます。 私たちの知識すべては、 時に基づいています。 もっと非暴力的に なろうとする格闘、 何かになろうとする格闘 - それは、すべて測量です。 私は、これらに入ってはなりません。 これらに付いてきておられますか。 ご覧ください。 私は、これです。 私は、私なるものです。 それが、「あるもの」です。 私は不幸せで、暴力的で、 さびしく、憂鬱で、心配しています。 それが、「自分のあるもの」です。 それは、事実です。 そのとき、観念が来ます - 私は、「あるもの」より他の何かに、 ならなければならない、と。 そのなることが、 時です - 事務員から経営者になることが、 時を必要とするように、です。 1:16:58 その同じ考える過程を、 私たちは、 心理の分野に、 意識の分野に、 感じる、考える分野に、 持ち込んできたのです - すなわち、「私は暴力的だが、私は 非暴力的になるだろう」と。 すなわち、あなたは、時に来る、 介入するのを、許しています。 しかしあなたが、「私は暴力的だ。 私はそれを理解しよう。 それを見つめ、それを見守り、 きわめて速く、深く それに入ろうとしている」と 言うとき、時はありません。 しかし、あなたが、他の何かになろうと しているなら、時があります。 ですね? なることは、度量です。 それは、時を要求します。 例えば、あなたが自分自身を、 誰かと比較する、とします - もっと智恵があり、もっと 聡明な、等のと、です。 1:18:03 あなたが比較するなら、 比較は、測量です。 あなたが、まったく 誰とも比較しないなら - あなたの偉大な神や聖者と導師と その他すべてを含めて、です。 まったく比較しない - そのとき、何が起きますか。 あなたは、あなたなるものです。 そこから、あなたは 出発します。 しかし、あなたが、比較していて、 他の何かになろうとしているとき、 あなたはけっして、あなた自身を、 あなたなるものを、理解しません。
1:18:48 で、時は、なることです。 非事実である、 なることです。 すなわち、「私は暴力的である。 私は、 非暴力的にならなければならない」と。 非暴力は、事実ではなく、 それは、実在性を持ちません。 あなたたちはこの国で、それに ついて、大変多く話すけれども、 それは、存在していません。 存在するものは、暴力です。 あなたは、非暴力を忘れるなら、そのとき 暴力に取り組め、それに入られます。 暴力の理解は、長いかも、 きわめて速いかもしれません。 あなたの暴力への究明は、 時が掛かるかもしれません。 なぜなら、あなたは 怠けているか、こう言うからです - 「私は、明日それを究明しよう。 それは、重要ではない」などと。 しかし、暴力に、 関心を持っている人は - すなわち、世界中に ますます拡がり、 人類を破壊しつつ あるものに、です - 彼は、関心をもち、暴力の 深さを理解したがっているなら、 彼は、あなたは、それを 即座に、理解するでしょう。
1:20:09 で、なることが、あるところ、あなたは、 心理的な時を、持つにちがいありません。 そのなることは、 幻影のようです。 あるもの、事実は、存在するもの、 今の瞬間にあなたであるものです - あなたの怒り、あなたの反応、あなたの 恐れです。 それを見つめてください。 で、時は、恐れの主な要因ですし、 思考もまたそうです。 あなたは、物理的な時を 止められませんが、 あなたが、内的に 時の本性を、理解しはじめる - なることと、 ならないことを、です - そして、思考の動き全体を 理解するとき - それを理解する。 それを抑制する、 それを拒否するのではなく、 「私はどう思考を制御すべきか」では ない。 それらはすべて不条理な問いです。 なぜなら、制御者は 誰ですか。 1:21:28 制御者は、思考の 別の一部です。 私は、それに入らないでしょう。 私たちは、時間がありません。 で、あなたが、恐れの本性と、 心理的な恐れが全的に終わることに、 本当に、深く関心を 持っているなら、 時の問いへ、深く 入らなくてはいけません。 また、思考の本性と構造が 何であるかにも、です。 しかし、あなたが、「恐れを取り除く 方法を、教えてください」と言うなら、 そのとき、あなたは、ひどく 間違った質問を、しています。 なぜなら、その問いこそが、あなたが、 あなた自身を理解してこなかった、 あなたが、あなた自身を見つめてこな かったことを、含意しているからです。
1:22:34 で、私たちは、悲しみ、愛と 慈悲について、話すでしょう。 私たちは、おそらく次の日曜日、宗教は 何であるかについて、話すでしょう。 宗教的な精神の本性は、何であるかと、 冥想は何であるかと、 すべての思考を越えた何か神聖な ものが、あるのかどうか、です。 私たちは、そのすべてを 究明しなければなりません。 なぜなら、それはすべて 生であるからです。 死、葛藤、痛み、悲しみ、 楽しみ、恐れ、冥想、 そのすべてが、 私たちの生です。 私たちがそれらを 理解しないなら・ ・・ それを理解するには、活力、強さを 持たなければなりません。 あなたは、単に言葉を反復しているなら、 そのエネルギーを、持たないでしょう - あなたが、何かの信念に、何かの結論に 縋りつくなら、です。 それは、 すべてのエネルギーを、破壊します。 エネルギーは、自由を含意しています。 あなたがしたいこと ではなく、自由です。 そのときだけ、あなたは、とてつも ないエネルギーを、持つのです。 よろしいです。
🢁