CC82T4 - 時、死と冥想

公開講話 第4回
インド、カルカッタ(コルカタ)
1982年11月28日
テキストのみのバージョン
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0:19
これが、 最後の講話です。
私たちは、こうも多くの物事に ついて、話してきました -
多くの人間的問題に ついて、です。
私たちは今晩、さらに、幾つもの ことについて、考慮すべきです -
世界で起きつつあることを 見て、です。
腐敗、暴力、
政治家たちによる、 人々への全的な無視。
そして、導師たちは、もはや 何も言うことを、持ちません -
何か擦り切れた文句と標語を 反復する以外は、です。
このすべてを考慮して、
私たちは、あなたと語り手は、 ともに考えるべきです。
同意するのではなく、無視したり、 拒絶したりするのではなく、
ともに考える。
なぜなら、思考が この世界を、築いてきたからです。
思考は、人間たちの悲惨すべてに、 責任が、ありました -
それは、テクノロジーの世界に おいて、大変とてつもない物事を、
創り出してきたけれども、です。
2:30
そして、私たちがみんな、 ともに考える、ともに協働する、
私たち自身で見出すことが、全く 切実で必要だと思われます。
なぜなら、もはや どの指導者もいない、
どの政治家、どの導師も いないからです。
私たちは、私たち自身に 全く全的に責任があります。
それで、危機が大きいので、私たちは ともに考えることが、できるべきです。
見たところ、それは、最も するのが困難なことの一つです。
なぜなら、私たちの一人一人が、 こうも多くの意見、
こうも多くの結論を、 持っているからです
- それらが、私たちが まとまるのを、阻止します。
ともに考えることは、あなたの すべての個人的な先入観、偏見、
意見と様々な形の結論を、脇に 置くことを、意味しています
- それらは実際に、互いとの 意思疎通を、阻止するのです。
4:07
もしも私たちが、今晩、 そのすべてを、脇に置けて、
- 一時間の間でも、です -
ともに考え、生の真理、実際を、 私たち自身で見出せたなら
- それを、何の偏見も なく、見つめるのです。
共産主義者、マルクス主義者、 社会主義者としてとか、
何かの派閥や宗教や民族性に 所属しているのではなく、
ともに、私たちの生を、きわめて 間近で見つめるのです。
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5:02
誰も、私たちの生を 変化させようとしていません。
どの環境も、どの権威も、 どの書物も、です。
で、私たちはともに、私たち 自身を、ありのままに見つめ、
大いなる深さをもって、探検 しなくてはいけません - 存在の意味、
私たちの生の意味、 私たちの活動の意義を、です。
で、どうぞ、指摘しても よろしいなら、
これは、講義ではありません。
語り手は あなたに、何をすべきかを語っていません。
ともに、あなたと語り手は、 思考の領域へ、入ります。
なぜなら、思考は、 大きなテクノロジーを、
そしてまた、大きな戦争、 大きな悲惨、大きな悲しみをも、
もたらしてきたからです。
そして、思考はまた、大きな保健衛生、 外科医療とそれらを、もたらしてきました。
6:40
で、どうぞ、 今晩、ともに、
私たちは、人の存在全体に、 透徹しようとしています
- その一つの様相に、 ではない。
宗教的な人や 世間的な人として、
学者や僧侶としてや、 女や男として、ではない。
私たちの生の存在全体を、 ともに見つめましょう。
来る日も来る日も、オフィスへ 行く。
次の四、五十年の間、です。
そして、 その終わりに死ぬ。
または、工場へ行く。
そのすべての騒音、醜さと 残忍さとともに、です。
私たちは、この私たちの生の存在全体を 見つめることができるべきです -
一人一人の生のを、です。
それを見つめられる、それを観察 できる。
それを指令するのではなく、
目標は何なのか、私は何をすべきかと 私たち自身に訊ねるのではなく、
初めに、私たち自身を 知悉する、理解する、
私たちが実際に何であるかを 理解するのです -
なぜ私たちが 一定のことをするのか、
なぜ私たちはこれやあれに 所属するのかを、です。
8:38
で、私たちが、自分たちの生を 見つめることが、重要です。
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8:47
あなたが間近で観察するなら、私たちの 生は、断片化していて、壊れています。
あなたが、ビジネスマンでも、 医師でも、外科医、技師でも、
そして、あなたの自身の生、 個人的な生活には、
いつもこの分割が、あります - どれほど 親密でも、あなたと他の一人の間に、です。
いつもこの分割、この格闘、 この痛みが、あります。
もちろん、或る種類の喜び、 楽しみが、ありますが、
それもまた、 生の一部です。
私たちの生は、今そうであるように、 壊れてしまい、断片化しています。
そして、私たちが考えるのも 断片的であるから、
この断片化は、 起こります。
私たちが考えるのは、 知識から出てきたものです。
そして、知識は、いつも 制限されています。
知識はいつも、無知と 手に手を取って進みます。
何についても、 完全な知識は、ありません。
それで、私たちが 考えるのは
- それは、私たちの知識の中から生まれて いますが - いつも制限されています。
すべての境遇のもとで、 あなたが科学者や心理学者や
技師などであっても、です。
10:48
で、思考、考えることは、制限されて いて、周囲を囲い込まれています。
そして、制限されているものは、 必然的に
その作用中に、断片化を 創り出すにちがいありません。
これに付いてきて おられますか。
思考自体が、すべての分割の、 すべての断片化の原因です。
思考の本性と構造を 理解するのでなければ、
あなたは、あまり遠くに行けません。
そして、はるか遠くに行くには、
あなたは、きわめて近くで 始めなければなりません -
それが、あなたです。
あなたがどう考えるのか、
あなたが何を 考えるのか、です。
そして、思考がいつも制限されている ことを、あなた自身で発見するのです。
それは、神を、創案できます - 測量不可能なもの、名のないもの、
至高のものを、ですが、 それはやはり、思考の産物です。
12:16
それで、思考は、私たちの 葛藤の、私たちの悲惨の、
私たちの悲しみの 主な要因の一つです。
私たちは他の講話で、それに 手短に入ってきましたが、
自らがこれを基本的に、きわめて 深く理解するのでなければ
- 知的にではなく、言語的にとか、 論争的にとか、論理的にとかではない。
あなたが、考えることの本性を 理解するのでなければ 、です。
それから、自分自身で、新しい 道具を、発見しはじめるのです
- 全然違った道具を、です。
なぜなら、私たちが今、持っているたった 一つの道具は、思考であるからです。
そして思考は、信じがたい 問題を、創り出してきました。
大変複雑な問題を、です。
そして思考は それらの問題を、解決しようとします。
それにより、もっと多くの 問題を、増大させます。
13:44
あなたは、これに注目したに ちがいありません
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13:52
- 政治的に、宗教的に、 などで、です。
で、私たちはともに、新しい道具を 見つけなければなりません。
それが、私たちがしようと していることです -
私たちが死、宗教、冥想に ついて、話をするとき、です。
そして、何か人が 作っていないものを、
理解する、発見する、 出くわすように、です -
それは、時を越え、すべての度量を 越えていなければなりません。
私たちは、それを発見しよう、 それについて話そう、
互いに意思疎通しようと していますが、
私たちは、思考の地位、思考の 価値を、理解しなければなりません。
思考がもたらす活動を、です
- そこには、分割があります。 断片化があります。
14:53
これが、きわめて明らかであるなら、 私たちは、自分たちの生を見つめられます
- 私たち自身の個人的な、 周囲を囲まれた生を、です。
なぜなら、死の前に何が 起きるかを理解するほうが、
死の後に何が起きるかより、 はるかに重要であるからです。
これは 明らかですか。
私たちはいつも、死の後に何が 起きるかを、探究していますが、
私たちは、死の前に何が起きつつ あるかを、けっして探究しません -
最後の日や 最後の一分に、ではなくて、
私たちが三十、四十、五十年かそれ以上を 生きて、それから死ぬるさまを、です。
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16:00
時は - どうぞ、これらを 聞いてください。
あなたがそうなさりたい なら、です - 時は死です。
時 - 私たちは、内的な時、心理的な 時について、話しています。
望みの観念を 創り出してきた時、です
- 「私は何かに なりたいと望む。
私は豊かに なりたいと望む。
私は、聖者や霊的な人物に なりたいと望む」と。
時は、動きです。
時計による時、 日の入りによる時など、
または、一つの点から別の 点への時は、別として、です。
そのすべてが、時を必要とします。
言語を学ぶために、などです。
今、私たちは、こう言って います。
すなわち、時は、
内的な時、心理的な時 - 望みの、達成の、
あるものについて、それを変化させる ため、他の何かになるための、です -
17:39
そのすべてに、時が関与しています。 物理的にも、心理的にも、です。
私たちは、心理的な時に ついて、話しています -
いわば肌の内側に ある時です。
その時は、死です。
時ということに立って 考えることは、
指摘しましたように、分割、 断片化をもたらすことと、
未来を・
・・
未来のほうに、現在より、 大きな意義を与えることです。
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18:35
これらに付いてきて おられますか。
これらに、少し付いてきて おられますか。
はい?
私が、「はい?
」と訊ねるとき、 あなたは、私を励ましていません。
どうぞ、あなたは、私を励まして いません。
私は訊ねています
- 私たちがともに同じ道路、同じ小道を 歩んでいるのかどうかを、です。
おそらく手に手を 取り合って、です。
あなたが、私の、語り手の前や 後を、歩んでいるのではなく、
ともに私たちは、同じ気持ちの いい小道を、歩んでいます
- 陰に満ち、芳しい空気と、 木々の美しさ、です。
で、私が訊ねるとき、
どうぞ、それはただ、私たちがともに 歩んでいるかを、見出すためだけです
- ともに考えて、ともに 協働しているかを、です。
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19:48
私が、語り手が 言いましたように、
時は、動きです -
思考により 創案されています。
心理的な時は、思考により 創案されています。
そして、思考自体が、 時の産物です。
それは、時の産物です。
なぜなら、
人は、長い進化をとおして 知識を、取得してきたからです。
進化は、時を含意しています。
そして、私たちが、
時ということに立って考えるとき、 私たちは、生を分割します。
私たちは、生を 断片化します。
私は、ヒンドゥー教徒です。
あなたは、仏教徒です。
私はイスラム教徒です。
あなたは キリスト教徒です、などと。
この断片化は、思考の結果です - それは、自体が制限されています。
21:08
そして心理的な時は、 思考により、創案されています。
あなたが、「私はある。
私はなるだろう。
私はこれであるが、私は或る日、 違っているだろう。
」と言うとき、
あるものと、 あなたがあるべきものや、
あなたがありたいものとの間の その隔たりは、時です。
あなたがそういう時を、持っているとき、 断片化が、あるにちがいありません。
今、生きられつつある生 -
その生の中で、私たちは、生きる ことより、死を分離してきたのです。
そうですね?
私は、それに入るでしょう。 私たちが言いましたように、
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22:13
私たちは、死のはるか前に何が 起きるかを、けっして深く探究しません
- 自分たちの生に 何が起きるかを、です。
ほとんどの人々は、 それを訊ねません。
彼らはみんな、死の後に何が 起きるかに、関心を持っています -
あなたは生きるだろうか、あなたは兄弟に 会うだろうか、などなどなどに、ですが、
三十年、四十年、五十年の 長い期間に、ではありません。
そちらのほうが、後で何が 起きるかより、はるかに重要です。
で、私たちはともに、 自分たちの生が何であるかを
検討しよう、観察しようと しています。
なぜなら、私たちはそれを 深遠に理解しないなら、
あなたが死に 出会うとき、
- あなたがきわめて長い間、 そうならないことを、望みます -
あなたは、死に出会うとき、 怯えています。
そのときあなたは、あらゆる 物事に、全然盲目です。
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23:49
私たちはともに、自らが日々生きる 私たちの生を、究明すべきです
- それは、そもそも 意義を持っているのか、
それは、何か価値、深さ、美しさを 持っているのかを、です。
私たちの生は、何ですか。
あなたの日常生活は、何ですか。
おそらくあなたは、9時から5時まで オフィスへ行きます。
余生の間です。
あなたは、それがどんなに悲劇で あるかを、考えたことがありますか。
そして、何のために、 働いていますか。
あなたは、「私の家族への私の責任、 私の義務」と言うでしょう
- 「私はお金を 稼がなくてはいけない。
だから、私は、9時から 5時まで、オフィスへ行く」と。
次の六十年間です。そのとき、 あなたは引退して、死にます。
25:09
それが、私たちの日々の 存在の要因の一つです。
そこで、オフィスや工場の中で あなたは、格闘しています。
あなたは、競争しています。
あなたは、部長になりたい。
事務員は、 重役になりたい。
司祭は、司教に なりたい、などです。
あなたは 家に帰ります。
くたびれて、 侮辱されて、
退屈しています。
そして、 あなたは、家に帰ります。
あなたは、何を 家と呼びますか。
ただの屋根、半ダースの部屋か、 一部屋だけですか。
家とは何ですか。
あなたは、これらについて 考えたことがありますか。
その言葉「家」は、あなたに とって、何を意味していますか。
26:20
それはただ、そこに生きる、 食べる、セックス、子ども、
喧嘩すること、議論すること、論争する こと、互いにいじめ合うことだけですか。
または、そのすべてから退くこと、 僧侶、サンニャーシになることですか。
あなたは、生より 退かれません。
あなたは、異なった衣を、 着けるかもしれませんが、
生は、あなたがいるところに あります。
あなたなるものです。
これら四十年、五十年の 間に、常なる格闘、
常なる葛藤、痛み、
少しの喜びがあり、 楽しみの追求と、
回避不可能な死に 向き合うこと。
それが、私たちの生です - 掻い摘まんで言えば、です。
27:54
あなたは、それを拒否 できません。そのとおりです。
さて、これが、地上の あらゆる人間の生です。
彼らが、裕福な社会に 生きていても、
独裁制のもとや、 全体主義国家にいても、
彼らがマルクス主義者、レーニン主義者や 民主主義者であっても、これが彼らの生です
- 痛み、格闘、葛藤、 朝から夜まで働くこと。
あなたは、そういう人間に、何が起きるかを ご存じですか - 彼らの考える能力に、です。
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28:59
あなたはどうして、 明らかに考えられますか。
実際に残りの人類である 人間として、考えられますか。
これが、あらゆる人間の状態です。
それが、彼の意識です。
で、あなたは、実際に 残りの人類です。
これは、論理的な結論では ありません。
これは、事実です。
私たちは先日、 それに入りました。
なぜなら、あなたは、この事実を 理解しなければならないからです。
さもないと、私たちが死について、さらに話す につれて、あなたは理解しないでしょう。
あなたは、その意義を 理解しないでしょう。
すなわち、内容をともなった あなたの意識ですが、
内容は、信念、教義、 名前、形態、
痛み、心配、さびしさ、 絶望、憂鬱、欲望です。
そのすべてが、あなたです。その すべてが、実際にあなたなるものです。
30:28
この意識は、 人間すべての意識です。
いいですね?
これは、論理的です。 が、あなたが単に
それを論理に還元し、それから結論する だけなら、それは価値がありません。
が、あなたが、その深さを、その とてつもない美しさ、その強さを
感じるなら - すなわち、あなたは 残りの人類であることの、です。
それは事実です。
あなたが、それを自分の血に、自分の 心に、自分の精神に感じるとき、
あなたは、もはや 個人ではありません。
あなたにとって、これを飲み込むことが 困難であることを、私は知っています
- または、それについて 考えることさえも、です。
なぜなら、あなたは、個人であるよう、 条件づけられているからですが、
あなたは、そうではありません。 あなたは、背が高いかもしれません。
31:34
あなたは、低いか、利巧などであるか もしれません - 周辺的な水準で、です。
外側で、ですが、内側であなたは、 残りの人類に、似ています。
どうぞ。
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31:59
で、あなたが 残りの人類であるなら
- あなたは人類です -
そのとき、あなたの、 人への責任は、何ですか。
世界で起きつつあることへの、 あなたの責任は、何ですか。
たぶんあなたは、この質問を 自分自身にしたことが、ありません。
あなたは、 「私の責任は、私の家族に、
私の国に対して、だ」と 言います。
しかし、あなたの国という観念は、 もう一つの思考の創案物だけです。
だから、どうぞ、あなたの 日常生活を、検討してください。
その質問をするとき - 残りの人類への あなたの責任は、何であるか、と。
残りの人類は、自身を 破壊しています。
あなたは、カルカッタで安全に生きるかも しれません - それは疑わしいと思います。
この汚い都市、貧困に 虐げられた国で、
一人一人が、 相手を破壊しつつ
搾取しつつある、 その他すべてです。
33:42
で、あなたは、自分自身で 見出さなくてはいけません -
あなたの責任が、何であるのか、 正しい行為は、何であるのか、
このすべての前で、です。
あなたは、それから 逃避できません。
あなたは自分自身を、一定の直近の 責任に、制限するかもしれませんが、
あなたは、残りの人類 である人間です。
で、あなたは、人類にも また責任があります。
で、あなたの意識は、 あなたのではありません。
それは、この地上に生きる人間 みんなにより、分かち合われています。
彼らはみんな、 あらゆる種類の悲惨、
あらゆる種類の苦しみを、 経てゆきます -
痛み、心配、絶望と、 まったくのさびしさの感じです。
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35:01
で、あなたが、世界で起きつつある ことに、そもそも気づいているなら、
そのときあなたは、自分自身に 訊ねなくてはいけないでしょう
- あなたの責任は何ですか。
あなたの行為は何ですか、と。
私たちは、それに入る時間が、ないので - この前で正しい行為は、何なのか、と。
私たちは、時間がありません。
おそらく私たちは、
それについて、マドラスと 他の所で、話すでしょう。
あなたは興味をお持ちなら、 何か腐った本を、読んでください。
それはあなたへ、それに ついて、語るでしょう。
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35:45
で、今、あなたは、自分が 個人であると、考えます。
あなたは、自分が残りの人類より 分離していると、考えます。
そのとき、あなたは訊ねます - 「私が死んだ後、私に何が起きるのか。
私は転生しないのか」と。
で、それを、きわめて 間近で、検討しましょう。
あなたとは何ですか -
あなたが、「私は 来世に生まれたい。
私は輪廻転生を信じている」 などと言うとき、
生まれ変わろうと しているのは、何ですか。
あなたは何ですか。
どうぞ、それを検討してください。
ともに冷静に、それを検討しましょう。
あなたは、名前、形態、 身体です。
あなたは、 あなたが考えることです。
あなたは、あなたの教育の結果です - あなたがそれを受けるなら、です。
そして、教育は、 こうも腐っています。
それはあなたを、何か技師、事務員やあれ これになるよう、条件づけるだけです。
37:47
彼らはあなたを、美しさ全体、生の 全体性を、理解するよう、教育しません。
彼らはただ、あなたに知識を、たくさん 与えます - それであなたが、世の中で
上手にか下手にか、 行為できるように、です。
それは、教育ではありません。
それは 教育のきわめて小さな一部分です。
教育は、 人間存在全体の養成です。
人間精神が解き明かされる こと、花開くことです -
専門化により 不具にされたのではない。
またもや、私たちは、それに 入る時間が、ありません。
で、あなたは何ですか。
あなたは、一連の言葉 - どうぞ、 聞いてください - 一連の観念、
反復的な記憶、
確信の継続ですか。
このすべては、言語的な 構造です。いいですか?
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39:20
しかし、あなたは、「それは、 すべてではない」と、言うでしょう
- 「何かもっと 深いものがある」と。
それが、あなたが 言うだろうことです。
さて、あなたが、何かはるかに 深いものが、あると、言うとき -
神やアートマンや、何と呼びたかろうと、 です。
キリスト教徒が呼ぶような魂、
そして、あなたは、それを 別の名前で、呼ぶでしょう。
あなたが、「私は、そのすべてでは ない。
私は、はるかにそれ以上だ。
私の中に、光の断片が ある」と言うとき、
すなわち、あなたが、「何か単なる 物理的な属性以上のものが、ある。
単なる結論、概念、信念と言葉、言葉、 言葉以上のものが、」と言うとき
- あなたは、「何か越えたものがある。
私はそれ以上のものだ」と、言います -
あなたが、自分はそれ以上のものだと 言うとき、それもまた、思考の創案です。
40:32
明白です。
で、あなたは、思考により 組み立てられています。
ですね?
明白です。あなたは、自分 自身をヒンドゥー教徒と、呼びます。
他の一人は、自分自身を イスラム教徒と呼ぶ、などです。
そのすべての分割が、 思考の結果です。
で、あなたは 実際に、一連の記憶、
一連の反応と応答です - あなたの知識、
あなたの経験、あなたの精神の 性質に、基づいて、です。
それが、 あなたなるものです -
それは、本質的に 死んでいます。
ですね?
あなたは、過去に 生きているし、過去は死んでいます。
知識すべては、 過去にあります。
ゆえに、あなたが、知識でもって生きる とき - すなわち、過去で、です -
そして、過去は過ぎ去って いるので、あなたは何ですか。
進んでください。あなた自身を見つめて ください - 私を見つめないで、
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42:14
あなた自身を見つめてください。 あなたが鏡を覗きみるように、です。
で、それが、 あなたなるものです。
どしてあなたは「私が死ぬなら、私は 別の生へ転生したい」と、言います。
それは、同じことを、来世へ 持ち運んでいくことです
- たくさんの言葉、たくさんの 経験とたくさんの記憶を、
より良い住宅を、または、お望みなら、 もっと多くのお金などを、ですが、
あなたが、未来の生、すなわち 来世を、信じているなら、
そのとき、あなたが今、 することのほうが、大事です。
なぜなら、来世あなたは、その付けを 支払うだろうからです。ですね?
43:06
これが、 あなたの確信です。
これが、あなたが 縋りつくものです
- たくさんの記憶です。
それらは、 死んで、去っています。
観念です。
それらもまた 終了しています。
それらもまた、 死んでいます。
で、あなたの生の内容は、 何ですか。
そういうわけで、この国は、こうも 多くのことを、信じていて、
こうも多くの信念、こうも 多くの迷信を持ち、
輪廻転生を 信じていますが、
そういうわけで、ここには 緩やかに死ぬことが、あるのです。
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44:10
さて、そのとき問いは、 こうです -
死とは何ですか。
理解されますか。
どうぞ、この質問をして ください - 死とは何ですか。
すなわち、あなたはただ、 記憶、言葉、映像、象徴の
広大な貯水池だけです。
あなたの意識は、 残りの人類です。
あなたは個人ではありません。
あなたが 考えることを、他の人々は考える。
あなたが考えるのは、 個人的ではないのです。
ただ考えることだけが、 あります。
で、あなたが、自分は 個人ではないと、悟るとき
- あなたは、違った形態、 違った頭の形、職などを、
持っているかもしれませんが、 それらは、物理的、周辺的な活動です。
しかし、内的に、あなたは 残りの人に、似ています。
で、そのとき死は、何を意味して いますか。質問を理解されますか。
45:34
これに幾らか、付いて きておられますか。
ご覧ください。
仮に、私がそのすべてであると、 しましょう - それは事実です。
名前、形態、教育、 物理的な応答、心理的な反応、
すべての継承された人種的な 記憶と、個人的な記憶です。
それはすべて、過去にあります。
私は、そのすべてですし、
すべての人間たちは、それです。
すべての人間意識は、それです。
で、死ぬことは、何を 意味していますか。
この質問を なさってください。
今、私たちは、 生きていて、活動的です。
あなたは、反復的に活動的で、 機械的に活動的です -
ほとんどの人々がそうであるように、 です。
しかし、あなたは、活動的です。
あなたは、命を持っています。
あなたは、感情を持っています。
あなたは、応答、感受を 持っています。
そして、死が来るとき、 そのすべてが、拭い去られます。
47:13
脳細胞自体が、空気の欠如 などなどのために、崩壊します。
それが、私たちが 死と呼ぶものです -
それは、あなたが保ってきた物事 すべてを、終わらせることです。
すべてのあなたの宝石、
あなたの住宅、 あなたの銀行口座、
あなたの妻、あなたの 子どもたちを、です。
そのすべてが、終わらされます。
あなたの執着が、です。それが死です。
しかし、あなたはそれを、来世へ 持ち運んできたいと思います
- それは、ただ観念、 願いの充足だけです。
で、どうぞ、これを 聞いてください。
生きている間に、例えば、 執着を終わらせる。
なぜなら、あなたが死ぬとき、 すべての執着は、終わるからです。
しかし、あなたは、執着が 終わるのを、招かれますか。
これを理解されますか。
これに 付いてきておられますか。
その終わることが、 死です。
48:50
で、あなたは、生きて、 活発で、活動的であり、
自分の執着を 終わらされますか。
特定の習慣を、自発的に、楽に、 静かに終わらされますか。
なぜなら、そのとき、 終わることがあるところ、
全然違った始まりが、 あるからです。
あなた特有の観念すべてなどを もった人間として、ではない。
あなたが、執着のような何かを 終わらせるとき、
違った活動が、 進みつつあります。
で、今現在に、転生すること - これを理解されますか -
それが、 創造的な活動です。
それは、あなたしだいです - あなたがこれらをしたいなら、です。
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50:08
私たちはともに、じっくりと 話し合うべきです -
宗教(レリジョン)は 何であるのか、
宗教的な生活は、 何であるのか、
宗教的な精神は、 何であるのかを、です。
私たちは、それに 入りましょうか -
サンニャーシの衣とそれらを着けて いる、あなたたちさえも、です。
私たちは、これらに 入りましょうか。
私は、疲れていません。
私にとって、これは・・・
それは私にとって、何であるかを 気にしないでください。
その言葉(レリジョン)の起源は、 語源的に、明らかではありません。
元来それは、結びつけることを、 意味していました。
バインドです。
あなた自身を、何か 上の原理に、結びつける。
あなた自身を、何か 尊い観念に、結びつける。
しかし、それさえも、 今、捨て去られています。
で、その言葉(レリジョン)の根本 の意味は、明らかではありません。
51:47
で、私たちは、辞書の 意味を、忘れられます。
すなわち、その言葉の 普通の用法を、です。
今、私たちはともに、探究しようと しています - 宗教は何であるのか、
宗教的な生活は、何であるのか、 冥想は、何であるのか、
そして、思考により触れられたことの ない何かが、あるのかどうかを、です。
現在の世界中の宗教
- あなたは、それらを 宗教的と呼びますか。
そう呼びますか。
あなたは、ヒンドゥー教徒です。
あなたは信じています。
あなたの宗教は、これとあれを 言います - あなたの本は、です。
あなたは、偶像を 崇拝します。
イスラム教徒は、そうしませんが、彼は 自分の形の崇拝を、持っています。
53:08
キリスト教徒は、自分の 象徴を、持っています -
儀式、教義、信念、迷信、 そのすべてを、です。
宗教的な社会の、 階層的構造 -
ですね?
これらに 付いてきておられますか。
あなたは、そのすべてを 宗教と呼びます。
あなたの、神への信念。
あなたは、神か、何か至高の 原理を、信じているのでなければ、
あなたは宗教的でないと、 考えられています。
しかし、あなたの神々は、思考に より、組み立てられてきました。
いいですか。
なぜなら、私たちの生は、
こうも悲惨で、不確実であり、 こうも醜いから、
私たちは、自分自身に言います - 「もっと何かが、あるにちがいない。
何か保護してくれている、与えて くれている、創造的なものが」と。
54:28
で、思考は、観念を 創造します -
書物、伝統に 基づいて、です。
神を信ずるよう、 プログラムされています。
プログラムされた - それは 確かに、宗教ではないですね。
あなたは、それに同意しますか。
もちろんしません。
しかし、それは宗教ではありません。
あなたの信念、
あなたの崇拝、寺院へ、 モスクへ、教会へ行くこと、
何か、日常生活より全く全然離別した 文句を、反復することは、です。
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55:34
日常生活を理解する。
その生に、根本的な変化を もたらす。
迷信深くない頭脳を 持つ -
事実に実際に向き合うものを、です。
自分が何であるかに向き合い、
「あるもの」を乗り越える。
それが、宗教的な精神 の始まりです。
すべての迷信ではない。
身体の苦行ではない。
それが、伝統がしてきたことです - あなたは、自分の身体へ残忍にし、
破壊し、拒否することなしには、 啓明や神へ来られない、と。
しかし、内側では、欲望の炎が そこにあり、燃えています。
日常生活の意味全体を 理解すること
- それは、関係を 理解することです。
互いとの関係を、です。
あの愛の性質を持つこと、
それは、「私は妻を愛している」とか、 何か他のことではありません。
その香り、その美しさ、 その炎を持つこと。
57:19
それが、宗教です。 それが、宗教的な精神です。
そして、今、存在している ような宗教すべては、
その文句、儀式の常なる反復、屈従 することなどなどなどとともに、
宗教ではないとの 理解とともに、です。
葛藤を持たない生を 生きること -
愛とともに、智恵とともに 慈悲の感覚を持つものを、です。
慈悲が智恵です。
それが、 宗教的な生です。
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58:22
しかし、それで 十分ではありません。
私たちは、はるかに深い物事を 理解しなくてはいけません -
すなわち、 冥想とは何ですか。
それは、一定の姿勢で 座ること、
目を閉じて、何か文句、 マントラを、反復することですか。
マントラという言葉は、 サンスクリットで、
熟考する、考慮する、ならない、 という意味だ、と思います。
理解されますか。
その、ならない ことについて、熟考する。
その意味は - あなたがこれを理解 されるのかどうかと、思われます。
あなたは、 なっていないとき、何ですか。
あなたは何ですか。
また、その言葉「マントラ」、 「ならないことについて熟考する」は、
また、自己中心的な活動すべてを、 解消する、片付ける、です。
それが、その言葉「マントラ」の 本当の意味です。
さて、あなたがそれを、どうして きたのかを、ご覧ください。
あなたは、何か言葉を反復し、 それを、マントラと呼びます。
で、私たちが言いましたように、 宗教的な生は、それです
- 内的に、何にも ならないことです。
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そのとき私たちは、それより、はるかに 深く行かなければなりません。
冥想(メディテーション)、 その言葉は、
辞書によれば、熟考する、 じっくり考える、という意味です。
私たちは、その熟考すること、じっくり 考えることへ、付け加えています。
私たちは、それに付け加えています - 測量が終わることを、です。
私は、それに入るでしょう。
あなたは、疲れていませんか。
あなたは本当に、これらに 興味をお持ちですか。
ああ、神様。
お持ちでない。 持っておられたならと、思います。
あなたがこれに、人生を 注いだらなあと、思います。
言われつつあることへ、ではなく、 見出すように、あなたの生を注ぐのです。
どう正確に、真実に、
秩序正しく 生きるのかを、です。
秩序正しい生は、愛と慈悲 なしには、存在できません。
あなたの生を、それに 注いでください。
何かのカルトへ、 ではありません。
で、冥想とは何ですか。
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どう冥想するのか、 ではありません。
あなたが、「どう」を出すとき、あなたが、 その「どう」という言葉を使うとき、
それは、「私に体系を与えてくれ」 という意味です。
ですね?
「どうぞ、何をすべきかを、私に教えて ください。
私に道を示してください」と。
で、あなたが、その言葉「どう」を、 すっかり自分の精神より、取り除けて、
それから、それを見つめられる なら、冥想とは何ですか。
体系、方法、実践、 一定の形の修練、
正確に深く呼吸すること などは、冥想ではありません。
あなたは、何か誰かが語ってくれた ことを、実践しているだけです。
「あなたは、これをするなら、 あれを得るだろう」と。
それは、取引、市場です - そこで、 導師があなたに、何かを売ります。
そして、あなたは 実践します。
で、私たちは、冥想が何であるかを 見ようとしています。
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冥想は、どの体系の 実践でもありません。
なぜなら、あなたが体系を実践するとき、 あなたの頭脳は、萎縮するからです。
それは、鈍くなります。
それは、 生きて活動的ではありません。
で、あなたが本当に、深く 冥想に関心を持っているなら、
そのとき、何も体系、 方法は、ありません。
毎日実践すること、半時間、静かに 座ることは、冥想ではありません。
それであなたは、寛ぐかもしれません。
それは、良い食事の後で、
ベッドへ行って、 横になるのに、似ています。
その水準に置いてしまって、 すみません。
そうなのです。
あなたは、そのすべてを、 智恵をもって拒否するなら -
なぜなら、あなたは、方法を実践する ことの不条理を、見るからです。
なぜなら、それは 課業を設けるし、
あなたの精神は、すでに 機械的であるからです。
あなたはそれを、もっと機械的に、もっと 薬物漬けにし、もっと条件づけています。
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ところが、冥想においては、 自由が、なければなりません -
恐れからの自由 - 私たちは これらに入りました -
妬み、貪欲、 悲しみからの自由、
自らが子ども時代より受けてきた すべての損傷から、です。
心理的な損傷、傷 - 自らは、その すべてから、自由であるべきです。
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で、私たちは初めに、 気づくとは、
何を意味しているかを、 探究しなくてはいけません。
三つのこと - 気づくとは、 何を意味しているのか、
集中するとは、何を 意味しているのかと、
注意するとは、何を 意味しているのかを、です。
なぜなら、これが、冥想の中に、 含意されているからです
気づくこと、
気づくこと、意識すること
- あなたの環境に、です。
あなたがどう話すのか、 あなたがどう歩くのか、
あなたがどう食べるのか、あなたが 何を食べるのかに、気づくこと。
あなたが他の一人へ どう語るのか、
あなたが他の一人をどう 取り扱うのかに、気づくこと。
気づく - そこに座っていながら、 あなたの隣人に気づくこと、
色、コート、彼のようすに、 批判なく、ただ気づく。
1:07:30
それがあなたに、大きな敏感さ、 共感を、与えてくれます -
それで、あなたの身体は、 微妙で、敏感であり、
あなたの回りで進んでいること すべてに、気づいています。
どの選択もなく、気づく。
理解されますか。
これを理解されますか。
気づく - あなたがどこにいるか。
語り手を 見つめ、あなたの回りすべてを見る
- 単一の選択もなく、です。 ただ見る。気づいている。
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それから、集中。
あなたが集中するとき、 何が起きますか。
一つの思考以外の すべての思考を、制御する -
それは、何かへ集中すること、 本に集中すること、
あなたがしていることに、集中 することです。
集中する -
それは、一つの思考以外、他の思考 すべてを閉め出す、という意味ですね。
考えるすべてを、特定の点に 集中させること - ですね?
それが、一般的に集中が 意味していることです。
すなわち、あなたが 集中しようとしている間、
他のすべての思考は、さまよい、押し、 入ってきたり、出たりしています。
で、あなたは、他のあらゆる 思考へ、抵抗を築きます -
一つの思考、一つのページ、一つの象徴、 一つの観念以外へ、です。
それを見つめる。
それが、一般的に集中と 呼ばれているものです。
それは明らかです。
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それから、注意。
あなたは、何かへ 注意したことが、ありますか
- あなたの全エネルギーを 注いだこと、
他の一人に全的に聞く、 完全に注意することが、です。
注意するよう、しごかれる 兵士のように、ではありません。
あなたが、気づき、集中の 本性を、理解するなら、
そのとき、注意です。
完全に注意する。
あなたが、言われつつあることへ、 今、完全に注意しているなら、
その注意の中に、「私」としての 中心は、ありません。
これを理解されますか。
あなたは、言われつつあることに そう注意していますか。
すなわち、あなたのエネルギーすべてを 注ぎ、聞き、溌剌と生きて注意する。
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あなたは、 そうであるなら、
注意している「私」としての中心が ないことを、見つけるでしょう。
そのとき、あなたがそう 深く注意しているとき、
頭脳は、自然に 静かになります。
おしゃべりが、ありません。
制御がありません。
思考を制御するとの観念。
思考を制御する 制御者は、誰ですか。
それは、思考の別の一部分です。
そうでないですか。
思考の一部分が、 「私は目撃者だ。
私は、自分の思考を制御しようと している」と言います。
制御者は、 制御されるものです。
これらを理解されますか。
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で、冥想の中に 制御者は、ありません。
意志の活動は、ありません - すなわち、欲望(の活動)は、です。
そのとき頭脳が、 頭脳の動き全体が
- それ自身のリズムを持っている それ自体の活動を、別にして -
まったく静かに、 静寂になります。
それは、思考が養成した 静寂ではありません。
それは、智恵の静寂、 至高の智恵の静寂です。
その静寂の中、
名のないものが、来ます。
名のないものが、あります。
それは、神聖で、 動かしえない。
それは、思考により、尽力により、 努力により、触れられていない。
それが、智恵の道です - すなわち、慈悲の道です。
そのとき、神聖なものは、 永久に続きます。
それが冥想です。
そういう生が、宗教的な生です。
そこには、大いなる 美しさが、あります。
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