OJ79T2 - 欲望、思考、行為の間の関係は、何なのか home
第2回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1979年4月8日

0:56 私たちは、昨日話していた ことを、継続してもいいですか。 私たちは、昨日 言っていました - すなわち、世界中で、 宗教は、その正統性、 儀式とともに、 その信念と迷信と ともに、ですが、 根源的に人を 変化させてきませんでした。 また、科学者も、 また、哲学者も、 そのとてつもない理論とともに、 その願いとともに、 その特定の条件づけとともに、 ですが、そうしませんでした。 また、政治家も、です。 あなたが 観察するにつれて、 世界は、生きるには、 ますます危険になりつつ、 ますます混乱し、 無秩序になりつつあります。 戦争は、いつの時も 地球中で、進みつつあります。 現代の心理学者も、 分析者も、 私たち人間の問題を、 解決してきませんでした。 2:53 世界中のほとんどの人々は、 きっとそうだと私は思いますが、 善い社会を持ちたいと 願望します - 平和に生きたい、 一定の平静さをもち、一定の安全を もって、生きたいと、です。 しかし、このすべては、ますます 不可能になりつつあります。 おそらく、きわめて、きわめて 豊かな人たち以外には、ですが、 世界中の平均的な人は、 生きることが、とてつもなく 困難だと、見ます。 外的にも - そこでは、こうも 多くの不安全と危険が、あるし、 内的に、心理的に、 人は、果てしなく葛藤の中に、 あります - 自分自身と、 そして、 隣人とも、です。 彼が間近にいても、千マイル 離れていても、です。
4:02 で、このすべてを 観察するとき、 みなさんはきっと、このすべてに 気づいていると、私は思うので、 訊ねます - なぜ人間たちは、 私たちの一人一人は、 根本的に変化しないのか。 なぜ私たちは、このように 生きるのを、受け入れるのか。 なぜ私たちは、このとてつもない 破壊的な無秩序に、服従するのか。 なぜ私たちは、大地、空気を、 環境を、保護しないのか、と。 それらを、あなたたちは 次第に破壊しつつあります。 きっと、これらを ご存じだと、思います。 そして、人、人間たちは、 何か指導者を、頼りにして きました - 何か政治家、 何か英雄、何か救い主 何か私たちの外側の機関、 神々を、です。 これらもまた、私たちを 裏切ってきました。 それはまたもや、 明白な事実です。
5:38 で、このすべてを 考慮して、 人間は、何をすることに なりますか。 なぜ私たちは、このすべてを 受け入れますか。 私たちは、 文明化し、教育され、 裕福であると、 されています。 それは、おそらくむしろ、 悲惨であるかもしれませんし、 私たちは実質的に、自分が物理的に ほしいものすべてを、持っています。 秩序は、社会の中に もたらせますが、 社会の中に生きることは、ますます 危険になりつつあります。 それはまたもや、 相当に明白です。 で、私たち人間は、どうやって、 自らの些細な反応すべてをもち、 自らの信念と教義と先入観 すべてをもって、ですが、 私たちはどうやって、 善くなるのか、善いのか。 なぜなら、これは本当に、問わなければ ならないとても重要な問いであるからです。
7:24 私たちが昨日、 言っていましたように、 私たちは、この事柄について、 ともに考えなければなりません。 私がいうその「考える」という言葉は、 問題をともに見る、という意味です - それについて、異なった 意見を持たないで、 起きつつあることを、 実際に見るのです。 そして、明らかに 観察するには、 自分の特定の先入観、特定の狭い、 制限された些細な反応から、 自由でなければなりません。 明白に、自分の民族性より、 自由でなければなりません - 地理的に分割された、大地の 特定の部分への執着より、です。 これが、人間たちを分離しつつ あり、破壊しつつあるものです。
8:40 で、私たちはどうやって、 私たちの一人一人は、 善い社会を創り出すか、 もたらしますか。 どうぞ、私たちが言いましたように、 私たちは、ともに考えています。 私たちは、ともに 究明しています 以前、語り手が言ってきたように、 思考は、きわめて制限されている。 思考は、断片的で、 砕けているけれども、 私たちは、思考を 使わなければなりません。 それは制限されているけれども、それは 物事を砕いてしまうけれども、です。 なぜなら、思考はそれ自体が 部分的であるからですが、 私たちは、思考を 使わなければなりません。 その制限を悟って、私たちは 思考を行使しなければなりません - 見出すように、理性、論理、正気でもって きわめて明らかに観察するように、です。 なぜ私たちは、今生きる ように、生きるのか - 自分の小さな問題に、 自分の小さな性欲に、 自分の心理的葛藤とその他すべてに 関心を持っているのか、です。 10:23 で、私たちは、 言いました - 善さは、 抽象概念ではない。 観念ではない。 何か理想的なものではない。 現実です。 善いことは、です。 なぜなら、それは、 個々人や、 個々人や人間たちの集団が、 その言葉の深い意味で 善いときだけであるからです。 そのとき、異なった社会を もたらす可能性が、あります。 私たちは、昨日、このすべてを 言っていました。 そして私たちは、その点に 来ました。 すなわち、 この善さの感覚を 持つには - 私たちは気をつけて、それを説明しました - その言葉が何を意味するのかを、です すなわち、 大きな責任感を持つこと、 一定の気づかい、慈しみ、 愛を持つことです。 そのすべてが、あの言葉に 含意されています。 12:03 それを悟って - その「善さ」という言葉の 意義、十分な深さを、です。 それは、邪悪であるものの 対極ではありません。 私たちはそれを、気を つけて、説明しましたし、 私たちは、こう言いました - 人間が、この善さを 自分自身にもたらすことは、 可能ですか、と。 なぜなら、彼が、社会を 創り出すからです - 私たちが持っている社会は、私たちの 一人一人により創り出されます。 私たちは、それに 寄与してきました - 私たちの貪欲により、私たちの怒りに より、私たちの憎しみにより、 私たちの様々な形の楽しみ、 野心などにより、 私たちは、この怪奇な社会を 創り出してきたのです。 私たちは、自分自身を、私たちが 何であるかを、理解し、 私たちなるものに、変化を もたらすのでなければ、 善い社会は、けっして ありえません。 13:27 で、私たちは、自分自身を理解する ことが重要であると、言いました。 古代のヒンドゥーとギリシャ人と 他の人たちは、言いました - 「あなた自身を 知りなさい」と。 どうぞ、私たちは ともに考えています。 私たちはともに 究明しています。 講話を聞いて、去って しまわないでください。 あなたは、語り手と同じく しっかり働いています。 私たちは、この問題を ともに究明し、 探検し、考え、 感じています。 なぜなら、真剣な、どの 思慮深い人も、自分自身で、 生の道を見出さなければ ならないからです - 混沌に取り囲まれ、無秩序、 不道徳で混み合っていても、 本質的に善い生を 生きるように、です。 14:40 それを見出すには、 あなたは あなた自身を知らなければならない と、私たちは言いました。 あなた自身を知ってください - 誰か哲学者に沿って、 誰か指導者に、誰か分析者に、 誰か導師に沿って、ではない。 なぜなら、彼らは、あなたが何で あるかと自分が考えることの情報を、 伝えてくれるだけだからです。 フロイト派の人、ユング派の人と、 その他すべてを含めて、です。 あなたが、それらすべてを 捨て去るなら - あなたが何であるかを発見したい なら、そうしなければなりません。 そして、あなたなるものに、 変化をもたらすには、 あなたは、あなた自身の意識、 あなた自身の精神、 あなた自身の反応、あなたの生の 道を、究明しなければなりません。 それは相当に明白ですね。 15:51 私たちは、私たちが何であるかを 教えてもらうよう、 とうてい他の人たちに 依存できません。 彼らは、これを してきました。 あなたはきっと、これらを ご存じだと、私は思いますが、 あなたはたぶん、けっしてそれに ついて、考えたことがありません。
16:14 そして、世界中の司祭者と 宗教的な指導者は、 あなたはとうてい、あなた自身を 変化させられないと、言ってきました - あなたは、最高の神へ、最高の 原理へ、身を委ねられるだけだ。 そのときおそらく、あなたは 変化するかもしれない、と。 それは 十分ではありません。 で、私たちは、 訊ねています。 あなたは、他の人たちが、あなたが 何であるかを言ってきたことを、 捨て去られ、あなた自身の中で 何が実際に進んでいるのかを、 あなた自身で究明でき、 見られますか。 これが幾らか明らかで あるのを、望みます。 すなわち、あなたが自分が何であるかを 教えてもらうために、権威に頼るなら、 あなたはそのとき、 他の人たちの主張、 推測、理論に 依存しつつあります。 どれほど善く、どれほど合理的で、 どれほど論理的でも、です。 17:33 あなたが、それらを受け入れ、彼らの 眼をとおしてあなた自身を検討するとき、 あなたは、他の一人の権威をとおして あなた自身を、見つめています。 どうぞ、この単純な事実を 見てください。 私が、あなたが何であるかを、 あなたに語るなら - 私は、そういう馬鹿者に ならないでしょう - そのときあなたは、あなたが何で あるかの私の理論や私の概念、 私の観念を受け入れて、 その様式に順応するでしょう。 これが、実際に私たちが していることです。 で、次第に私たちは、受け売りの 人々になります。 いいですか? これを見てください。 どうぞ、どんなに これが重要なのかを、見てください。 なぜなら、私たちは、他の人たちの 権威をもって生きているかぎり、 どれほど智恵があり、どれほど 彼らが探検してきても、 そのとき私たちは、私たちの 意識が何であるべきか、 私たちが何であるかの彼らの 様式を、受け入れているし、 そのとき、究明し、発見する自発性、 創造的な能力を、失ってしまいます。 19:14 私たちがこれを明らかに しているのを、望みますし、 私たちがこう しているのを、望みます。 なぜなら、その中から、 自由が出てくるからです。
19:24 あなたは、自由なしには、 とうてい究明できません。 いいですか。 これは 明白です。そうですね? すなわち、あなたは、 自分自身を知りたいのなら、 他の人たちがあなたについて 言ってきたことを、 全的に、完全に 捨て去らなくてはいけません。 あなたは、それを できますか。 または、あなたは、彼らの理論を 受け入れなければなりませんか - 論理的でも、非論理的でも、 正気でも、狂気でも、です。 彼らが言うことを 受け入れて、 彼らの情報を集めること - それらは、あなた自身の精神を 鋭くするかもしれないし、 その鋭くなった精神でもって - 他の人たちの負担によってか、 彼らの指令で鋭くなったのです - あなた自身を見つめます。 よろしいですか。 または、そのすべてなく、あなた自身を 見つめる可能性が、ありますか。 いいですか?  私たちは 出会い、ともに考えていますか。 私たちは 理解しつつありますか。
21:03 私たちが互いに出会っている ことを、望みます。 すなわち、自らは 自分自身を知られます - きわめて明らかに、客観的に 関係において、です。 関係は、そこに私たちが 自分自身を見る鏡です - 実際に、私たちの あるがままに、です。 なぜなら、私たちは、自分自身を 欺瞞しがちであるからです。 私たちは、幻影を 創り出しやすい。 私たちは、観念、定式、幻影を 創り出す傾向を、持っています。 そして、それらが 実在性を帯びます。 これらに注目なさった ことが、ないですか。 で、自らは絶対的に、すべての幻影 より、自由でなければなりません。 それは可能ですか。 私たちが互いに 出会っていること、 私たちがともに究明している ことを、望みます。 なぜなら - 留意してください - これは、語り手が行う講話、 あなたが聞いて、同意や 不同意をし、家に帰り、 あなたのいつもの生を続けていく ためのものではないからです。 22:47 反対に、一緒でのこの究明は、 とても深刻になるし、 深刻なので、それは、 私たちの生に影響します。 もしあなたが、動揺 させられたくないのなら、 どうぞ、 聞かないでください。 自らがそうするように、あなたが 日々の生を、続けていきたいのなら - この講話を聞いた後でも、たぶん あなたは、そうするでしょう - そのとき、耳を塞いで、 気に掛けないでください。 映画へ行くか、 他の何かをしてください。 しかし、あなたが真剣であるなら - あなたがそうであるのを望みます - そのとき自分自身を、 見つめなくてはいけません - 何も幻影なく、 関係の鏡において、です。 24:09 そこにあなたは、あなたの反応 すべてを、発見します - 客観的に、何も 歪曲なしに、です。 すなわち、あなたが、 あなた自身を、発見したいなら、 すなわち、あなたが、 善い社会を、もたらしたいなら - 健康で、正気で、 道徳的であるものを、 価値を持っている 人間たちを、です。 想像上の価値 ではありません。
24:54 で、私たちはともに究明し、この鏡を 覗きみなくてはいけません。 困難の一つは、 私たちの精神が、 この鏡の中を観察する中で、 鏡が何を語るべきかを、 指令することです。 これらに付いてきて おられますか。 私たちの精神、すなわち、 私たちの思考、私たちの欲望、 私たちの楽しみ、 私たちの恐れ、私たちの心配、 私たちの手探りする 不確実性が、 その鏡が何を示すべきかを、 指令します。 これらに付いてきて おられるのを、望みます。 で、鏡において、きわめて 明らかに観察するには、 どの歪曲もなく観察できる能力の ある精神が、なければなりません。 いいですか? すなわち、何が 歪曲を進めますか。 質問を理解されますか。 鏡は、明白に 歪曲されていません。 26:38 なぜなら、私たちの妻、夫との関係 において - それが何でも、です - その関係には、歪曲がありません。 それらは事実ですが、 精神は 歪曲しはじめます。 すなわち、思考が 歪曲しはじめます。 これらに付いてきておられるのを 望みます。 いいですか? 私たちはともに、これで 進んでいますか。 で、私たちは、究明しなくては いけません。 なぜ精神は - 私たちは、「精神」を、 頭脳というだけでなく、 思考、情動、感覚的応答という 意味で、使っています。 そのすべてが、 精神です。 ですね? それは、意識です。 私は それに入らないでしょう。 私たちは、少し後で それに入るでしょう。 すなわち、 あなたの精神は、 感覚、情動、思考、 欲望の産物です。 そして、すべての経験、記憶が 自分の精神の内容です。ですね? 28:12 あなたがそれを観察するとき、 それは、きわめて単純です。 その精神は、自らの思考、 感受などとともに、 その思考が、自己、「私」の 感覚を、創り出してきました - 自己です。 ですね? で、自己はいつも、歪曲 しています。 いいですか? すなわち、自己、「私」は、 思考の産物です。 制限されている思考の (産物)、です。 明白です。 思考は記憶の応答ですが、 記憶は、経験と知識です - 継承されたのでも、 取得されたのでも、です - その思考が、この自己を 創り出してきたのです。 この自己は、いつも歪曲して います - 私の欲望、私の願い、 私の特定の体質、私の 特定の傾向、私の欲望、 私の意見、私のあこがれ、 私の充足、と。 29:37 この自己は、きわめて多くの 形で、それ自体を隠蔽します。 それに注目なさったのか どうか、私は知りません。 あなたは注目しましたか - 例えば、人たちは大いに・ ・・ 政治の世界や 宗教の世界において、 自己は、神の名に、 それ自体を隠蔽してきました。 いいですか?  これらをご覧に なるのかどうかと、思われます。 どうぞ、語り手が言っている ことを、受け入れないで、 自己と呼ばれる このとてつもないものの 活動を、 観察してください。
30:35 自らは、宗教的指導者になれる - 括弧付きの「宗教」指導者です - 神について話し、神について説教 できます - それらの種類のことです。 そして自己は、あの神と 同一視されます。 それは彼に、大変多くの 地位、金銭を、与えます - 神の名において、 その他すべての戯言です。 これらに注目したことが ないですか。 または、あなたは、経験を します。 経験があります。 そして即時に、自己は それを、引き継ぎます。 それを、何か哲学的な 概念に、します。 それはとてつもないと 自分が考える何かの経験、 そして、それについて話し、 それについて説教しはじめます。 まさにそれを説教する中でこそ、 彼は、きわめて重要になり、 金銭、地位、体裁を集めます - そうね、影響力を、です。
31:54 で、鏡をどう歪曲なく 観察するかを、見出すには、 私たちは初めに、感受の本性を 理解しなければなりません。 これらに付いてきて おられますか。 進んでもいいですか。 どうぞ、 私たちはともに出会っていますか。 そうね、私たちは、感覚を 持っています。 すなわち、 私たちは、自分たちの感覚すべてを 同じ瞬間に、使っていません。 私たちは感覚を、特定の感覚と して、部分的に使っています。 あなたは、芸術家であるかも しれません。 あなたが見るものと、 あなたが観察するもの、 山々の色、美しさ、形など、 そこであなたは、視覚を 行使しています。 あなたは、自分の感覚 すべてを、行使していません。 33:13 これらに付いてきておられるのか どうかと、思われます。 で、私たちは、どれかの感覚でもって 機能するよう、条件づけられています - それらに 重要性を与えて、です。 これに注目したことが ないですか。 それで私たちは、けっして自分の 感覚すべてで、作動していません。 で、それが、私たちの 困難の一つです。 私たちの感覚すべてでもって見る、 観察することは、可能ですか。 これに付いてきて おられますか。 なぜなら、これは、きわめて 重要であるからです。 あなたが、自分の感覚すべてで もって、そう注意するとき、 あなたがそこから観察している 中心が、ありません。 これをご覧になるのか どうかと、思われます。 これを実験してください。 語り手が何か戯言を 言っているのか、あるいは、 それが妥当性を持っているのか どうかを、見出してください。 34:40 で、見出すには、 あなたの感覚が どう作動しているのかに、 気づかなくてはいけません。 一つか二つの感覚が、 とてつもなく重要になったし、 他のものは、放置されたり、萎縮 したりしつつあるのかを、です。 ところが、あなたが、 気づいて、見出すなら、 そのときあなたは、 自分が感覚すべてでもって 作動できることを、発見します。 そのとき、感覚すべてが、 十分な作動をしているとき、 自己としての中心が ありません - すなわち、観察を歪曲する ものが(ないの)です。 あなたは、これを見出さ なくてはいけないでしょう。
35:41 で、私たちは、こう 言っています - 特定の一つか二つの感覚が 他のを支配しているかぎり、 歪曲があるにちがいないの です - 明白です。 で、私たちが 言いましたように、 精神は、これらの感覚から 作り上げられています。 そのとき、欲望を 理解しなくてはいけません。 なぜなら、あなたが、鏡を 明らかに覗きみているとき - あなたがそれを 見つめたいなら、 客観的に、健全に、 理性的に、明らかに、です - あなたは、欲望の動き全体を 理解しなくてはいけないからです。 これらに、興味が おありですか。 または、あなたは、麗しい 朝に、眠ろうとしていますか。 私は考えていました - あなたは、 麗しい朝に、真剣であるべきですか。 または、かなり霞んで、曇り、 雨降りで、薄暗い朝であるとき、 あなたは真剣なだけですか。 37:08 これは、真剣な集会です。 知的、その他の 娯楽ではありません。 私たちは、社会の問い全体に ついて、議論しています - バラバラになりつつあり、衰退し、 退廃しつつある社会の、です。 そして、 真剣な人々であるので、 彼らは、違った生き方に 関心を、持っています - 違った社会、違った文化を もたらすように、です。 むだ、不尊敬などなどなどに 基づいた文化ではありません。 そういう社会を もたらすには、 各々の人間が、根源的に、深く 善くなくてはいけません。 「善い」とは、正気、理性的であり、 気づかい、深い愛の感覚です。 それが、善さの本質です。
38:29 私たちが言いましたように、 鏡に観察するには、 欲望の動き全体を 究明しなければなりません。 なぜなら、私たちは、 自らの欲望により駆り立てられる からです。 いいですか? 特に、この国においては、 私たちは、商業主義を とおして、奨励されます - 私たちの欲望の、こうも 法外な爆発までに、です。 私たちは、買え、買え、 買え、と言われます - あなたがテレビとコマーシャルを 聞くなら、ね。 神様! で、私たちのまわりの社会は、私たち により創り出してこられました - 私たちの貪欲により、私たちの妬みに より、私たちの心配によって、です。 私たちがその一部分である その社会こそが、 この衝動、このエネルギーを 奨励します - それが欲望になったのです。 いいですか?
40:16 そして、すべての宗教的組織、古代の ヒンドゥー、カトリックなどは、 神の名で仕えにくる自分たちの僧侶、 修道士に、いつも言ってきました - 「あなたの欲望を抑制しなさい。 あなたの欲望を制御しなさい」とか、 「あなたの欲望を、神へ 委ねなさい」と、です。 「あなた自身を捧げなさい」 - すなわち、あなたの欲望を、 すなわち、エネルギーを、すなわち、 欲望をとおして表現されるものを、 名のないもの、聖なるもの、 究極のものへ、です。 人間たちは、それを完全にする ことができないので、 彼ら自身を制御します。 41:13 欲望でもって燃える - 性的なのと他の形の欲望で、です。 そして、闘い、闘い、闘い、格闘 します - 神の名において、です。 で、こういう人々は明白に、鏡を 歪曲なく、覗きみられません。 明白です。 で、私たちは欲望を理解しなくては いけないと、私たちは言っています。 - それを抑圧する、それを制御 する、それを変質させるとか、 それより逃げ去るの ではなくて、です。 なぜなら、私たちは何かを きわめて明らかに理解するとき、 そのときあなたは、それを 取り扱えるからです。 それは、私たちがあまり 明らかでないときだけです - そのとき、私たちは それと闘います。
42:24 この言葉「欲望」を理解する中に、 一つの問題が、あります。 私たちがいう「理解」と いうのは、どういう意味ですか。 理解されますか。 これらに 付いてきてください。 理解するとは、了解する、 知る、気づく、 認知する、十分な意味を見る、 という意味ですが、 そうしていいなら、私たちは、その 言葉を違った意味で、使っています - すなわち、何かを理解することは それを変容させることです。 それを完全に 変化させることです。 私は気をつけて、これに 入ろうとしています。 どうぞ、私たちは ともに、究明しています。 あなたは、私に聞いているだけでは ありません - それは役に立ちません。 なぜなら、それは、あなたの生である からです - 私の生ではありません。 で、私たちは、欲望の動き 全体を、究明しています。 なぜ人はけっして、 それを理解して、 それに正しい所を与えて、 それより自由であることが、 できなかったのか。理解されますか。 43:52 私たちはけっして、それを することができませんでした。 今私たちは、この欲望の問いに 入ろうとしています。 どうぞ、私たちは、それを抑圧して いないことに、留意してください - 私たちはそれを 制御しようとしていない、 私たちは、この甚大なエネルギーを 何か理想へ、何か神へ、 何かイメージへ、委ねようと していないのです。 私たちは、人のこの甚大なエネルギーを 了解しようとしています - それは、私たちの 駆動力です - 欲望は、 その意志とともに、です。 なぜなら、意志は、欲望の 本質であるからです - 「私はこれをほしい。 私はそれを得るだろう。 私は成功しなければ ならない」と。 よろしいですか。 そのすべてが この甚大なエネルギーです - 人が欲望をとおして、 表現してきたものです。 これが明らかであるのを 望みます。 それが、とてつもない問題を 創り出してきたのです。 なぜなら、あなたは 自分の欲望を持っていて、 他の一人は自分の 欲望を持っている。 それで、二人の間に 葛藤が、あるからです。 45:26 あなたの欲望は、あなたを 一つの方向へ、駆り立てます。 他の人を、別の方向へ、です。 で、現実的な関係が けっして、ありません。 各々の欲望が、互いを 別々に駆り立てて、 或る日、私たちはともに 出会うだろうと、望みます - 性的にか、あるいは、 何か天国において、です。 それは戯言です。 これらに出会って おられるのを、望みます。
46:07 で、私たちは、この甚大な エネルギーを、持っています - それが世界で作動しています。 月へ行くには、あなたは、 甚大なエネルギーを持たなくては いけません。 そこに欲望を、です。 良い政治家であるには、大統領になる には - それが何であっても、です - あなたは、このとてつもない欲望、 野心を、持たなくてはいけません。 この野心は、 欲望の表現ですが、 それは、この国では 最高度にまで、養成されます。 それで、この衝動には、 常なる非情さが、あります。 これに付いてきておられるのを 望みます。 いいですか? それは非情です。 私は、このものすごい欲望を持ち、 何かを経験するかもしれません そして、私は何かとてつもない 状態を達成したと想像し、 それについて話し、それについて 説教するかもしれませんが、 それはやはり、 この欲望です - 私をして、演壇に座らせ、それに ついて話をさせるものは、です。 47:27 私は、そうでありません。 私は本気で申しています。 すると、あなたは、お訊きに なるかもしれません - なぜあなたは、 話をしますか。 それがあなたの欲望でないなら、 あなたはなぜ、そもそも話しますか。 なぜあなたは、五十年以上の間、 話してきましたか、と。 いいですか。 それは、論理的な問いです。 私はそれに 入らなければなりませんか。 まず第一に、 この人物は、何の 動機もなく、話します。 どうぞ、理解してください。 私は、あなたに何をも説得する 動機を、持っていません - すなわち、私は偉大である、 私は評判がいい、 私はこれを持っている、 私はあれを持っている、と。 それはすべて、 的を外れています。 また私は、あなたに、何をも 説得したくありません。 あなたが信じていること以外の何かを あなたに、信じてほしくありません。 49:00 反対です。 信念は、人々を破壊します。 人々を分離します。 それは、妥当性を持ちません。 それは、現実的ではありません。 そして、語り手は 話しています。 なぜなら・・・ - 私は知りません - なぜなら、それは、 自分が仲間の人間たちへ 愛を持っているということ なのかもしれないからです。 それは、自分が 慈悲を持っている、 そして、他のものがある、と いうことなのかもしれません。 あなたはけっして太陽に、あなたは なぜ朝、昇るのか、と訊ねません。 または、日はなぜ沈むのか、 と言いません。 あなたはけっして花に、それは なぜ咲くのかを、訊ねません。 あなたは、それを見つめ、 それを楽しみ、それを嗅ぐ。 そのとてつもない美しさを見て、 毎日それを見つめます。 おそらく、そういうわけで、 話をしているのです。 50:22 それを別として、 それについて、言われるべき ことが、はるかに多くあります。 人は生の方向を失って しまったと、私は思います。 また、何かすべての 思考を越え、 すべての度量を越えている ものを、述べるには - すなわち、どの哲学も、何物も 説明できないものを、です - 自らが、それに 来なくてはいけません。 で、私たちが言っていたことへ 戻りましょう。
51:10 私たちは、このとてつもない欲望を 持っています - 駆り立てており、 ほぼ制御不可能である そのエネルギーとともに、です。 これらに注目なさったのか どうか、私は知りません。 私たちはそれに、正しい所を与える ことができたことが、ありません。 で、どうぞ、これを 聞いてください。 思考と欲望の間の関係は、 何ですか。 質問を理解されますか。 思考と欲望は、 どこで出会いますか。 思考が欲望に 出会わないなら、 そのとき、思考なしの 行為は、どんな関係ですか。 質問を理解されますか。 どうぞ、私はそれに 入らなくてはいけないでしょう。 どうぞ、少し辛抱をしてください。 52:31 なぜなら、私たちは、きわめて複雑な 問題を、究明しているからです。 あなたは、欲望を持っているし、 あなたは、行為します。 あなたは、店に何かを見ます。 あなたは、欲望します。 あなたは、それを買います。 または、何かをします。 思考なしの、欲望の 行為とは、何ですか。 思考なしに、欲望の行為が ありますか。 これらに 出会っておられますか。 で、私はお訊きしています。 私たちはお訊きしています - 二つの間の関係は 何ですか。 質問を理解されますか。 どうぞ、初めに、私の問いを 理解してください。 すなわち、 欲望は感受です。 ですね? すなわち、あなたは、 何か美しいものを、見ます。 知覚、接触、感受が あります。 54:01 それが単にそれだけあるなら、 それはきわめて単純でしょうね。 見る、接触、感受。 そこで終わるなら、 何も問題は、ありません。 いいですか?  これを理解 されるのかどうかと、思われます。 どうぞ、私とともに、それに入って ください。 これは本当に重要です。 あなたは、美しい花瓶、 美しい住宅を、見られます - または、美しい女や男をです。 それが 何であっても、美しいものを、です。 見ること、触れること - 感受があります。 そこで終わるなら、 何も問題はありません。 しかし、思考が 入ってきて、 あなたの家に、あの花瓶を 持つイメージを、創り出すとき - または、あの人物を、です。 それが何であっても、です。 そのとき、問題が始まります。 よろしいですか。 55:23 で、私は訊ねています - 欲望との間の関係は、何ですか。 すなわち、 見る、知覚、接触、感受、 そのとき、思考が あの感受を引き取り、 イメージを創り出す。 あなたの家での花瓶、 あなたのガレージでの車、 あなたの部屋での その男や女 - イメージを創り出す。 そのとき、格闘の動き 全体が、始まります。 これは明らかなのかと思われます。 付いてきておられますか。 あなたは、 疲れつつありますか。 で、私は訊ねています。 私たちは訊ねています -
56:17 欲望、思考と行為の間の 関係は、何ですか。 知覚、接触、感受が ありえますか - 思考の介入なしに、です。 その介入がそのとき、イメージを 創り出し、そのイメージの追求です。 これを分かりますか。 お分かりに なるのかどうかと、思われます! そのイメージを追求することが、 充足したいとのあなたの欲望です。 そして、充足できないので、 欲求不満だし、 怒り、嫉妬、困惑、 苦々しさ、冷笑癖 - 欲求不満の人々の 事柄全体です。 なぜなら、彼らは、自分の 欲望を、充足できないからです。 それらに付いてきて おられますか。 それは、とてつもない - いかに精神が・ ・・ あなたが欲望を、きわめて 間近で観察するなら、 この動きが進んでいくのを 見られます。
57:37 で、欲望は、見ること、 知覚、接触、感受ですが、 それはそこで止まり、思考にイメージを 創り出させずにいられますか - そして、 そのイメージの追求、 そのとき、充足、欲求不満と その他すべてです。 私たちは今、 訊ねています - 知覚、接触、感受は、止まれますか - そして、もはやない。 それは、思考は欲望へ何も関係を 持たない、という意味です。 それが、イメージを創り出す。 そして、そのイメージの追求と、 充足、欲求不満 - そのすべてが、つづきます。 これを理解されましたか。 これは、大変多くの注意を 要求します。 この欲望の動きがあるとき - すなわち、接触、感受です - 一目でこのすべてに 全的に気づくことを、です。 58:57 私が言っていることを 理解されますか。 すなわち、これへ 明らかな洞察が、あるとき - 私は、洞察という 言葉を、使っています。 あなたがそれの全体を了解する とき、という意味で、です - そのとき欲望と意志は、生において ほとんど役割を果たしません。 そのとき、他の何かが作動して います - すなわち、智恵が、です。 理解されますか。 これはおそらく、少し・・・ 私は他の何かを導入しつつ あります。 すなわち・・・ 私はこれを、 つづけていいですか。 または、あなたは これに飽き飽きですか。
59:55 欲望は、適切に究明された ことが、ありません - 人々により、 専門家によって、です。 私たちは幸運にも 専門家ではありません。 私たちは 普通の人々、素人です。 私たちは、それを究明できます - 何も面目を失ったり、 お金、地位、何を失ったり することなく、です。 私たちはただ、それを 究明できるし、 この欲望全体の動きを、 見られます - すなわち、知覚、 見ること、接触、感受。 思考が感受を引き取り、 イメージを創り出す。 そのとき、 そのイメージを追求する。 そして、そのイメージでの 充足や欲求不満、です。 あなたが、この動き全体を、全体と して、全包括的に見つめるとき、 それへの洞察があります。 いいですか? あなたは、それの内的な 働きが、見えます。 それが智恵です。で、そのとき 智恵が、作動します - 1:01:04 欲望が、ではない。単なる感受が、 ではない。分かりましたか。 これを幾らか、 理解されましたか。 すなわち、 私たちの行為は、今、 欲望に基づいています - 思考により創り出された イメージが、行為しています。 ゆえに、あなたの欲望は 他の欲望に対立しています。 それで、二つの欲望の間に、 葛藤があります。 あなたが、結婚しているとき - 夫、妻、彼女、彼氏です - これが、いつの時も 進んでいる作動です。 あらゆる形で、 性的に、野心において、 このものが、進んでいます - あなたの生すべてでの動きです。 それが、大きな葛藤を、様々な形の 神経症などなどなどを、もたらします。
1:02:08 で、私たちは、何か全然 違ったことを、言っています - 欲望の動き全体へ洞察を 持つこと、です。 すなわち、 欲望の全体を見つめる。 そして、「欲望なしで 私は何をしようか」と言う - それはばかげて 聞こえます。 「欲望が取り去られるなら、 私は行為できない」と。 私たちは、何をも 取り去っていません。 私たちは単に、欲望の構造全体と 本性を、見つめているだけです。 あなたが、何も歪曲なく、 それを完全に見つめるとき、 その見ることこそが、智恵です。 理解されますか。 いいえ? これは困難です。 智恵とは何ですか。 あなたは、「彼は、きわめて 智恵のある人だ」と言います。 私は、そういう意味で 言っていません。 あなたは、智恵があっても、 なかなか愚かでもありえます。 1:03:21 その言葉(インテリジェンス)の 意味は、良い辞書によれば、 理解すること、 行間を読むこと、 非言語的に 了解できることです。 なぜなら、それが、それの意味する ところであるからです - 行間を読む。 身振りなく、言葉なく、 理解すること、 何かの意義全体を、 即座に掴むこと、です。 理解されますか。 それが智恵です。 さて、欲望の意義全体を 即座に掴む、 そして、それの真理を 見ることです。 その智恵が、そのとき 作動するでしょう。 それは、あなたが欲望を拒否する という意味ではありません。 智恵が作動しています。 ですね?
1:04:39 で、あなたは今、智恵でもって 作動していますか。 または、そのイメージと充足を もった欲望でもって、ですか。 違いが見えますか。 智恵があるとき、欲望は、 自らの所を持っています。 思考は、自らの所を持っています。 ゆえに、葛藤がありません。 これは、自分自身への 大変多くの探究を、必要とします - 欲望が生ずることへ、こうも気づき、 こうも注意深くあるように、です。 それは、知覚、接触、感受です - 生ずることは、です。 そのとき、思考が 即座に引き取ります - イメージを創り出し、 そのイメージの追求です。 「私は大統領でなければ ならない」 - その事柄全体です。 あなたが、 この動き全体を理解し、 洞察を持つとき、 まさにその洞察が、智恵です - そのときそれが、機能します。 そのとき智恵が、作動し、 行為しています。 いいですか?  あなたは それを幾らか、捉えましたか。 今日はそれで十分だと 思います。そうでないですか。
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