OJ82T5 - 悲しみがあるところ、愛はない home
第5回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1982年5月15日

1:11 よろしければ、私たちは、先の土曜日に 話していたことを、継続しましょう。 あなたたちの幾らかは、たぶんここに いなかったでしょう。 だから、私たちが話していたことを、 私は短くもう一度述べてもいいですか。 よろしければ、これは娯楽でないことを、 指摘したいとも思います。 ほとんどの人々は、 娯楽で楽しむことに、慣れています - 他の誰かの言葉、行為などにより、 扶養されることに、です。 これは、普通に理解されているような、 講義ではありません。 また私たちは、あなたに対して、何をすべきかを、 指示しようとか、語ろうとかしていません。 これは宣伝ではありません。 私たちはともに、問いを、問題を考えています - それはなかなか困難です。 なぜなら、一人一人が、自らの視点で 自分の特有の形で、考えたいと思うから、などです。 3:00 しかし、ここでは、これら先の四回の講話の間に、 私たちは、ともに考えることが いかに重要であるかを、言っていました。 考える能力が、です。 何かについて、ではない。 それは少し後で来ます。 しかし、考えること、すなわち、外側で、世の中で 実際に何が起きているのかを、観察すること、 そしてまた、自らが持っている、すべての困難、 心理的苦労に気づくこと、 そして、いわゆる個人と、心理的に彼の活動と、 世の中との間の関係を、 自分自身で発見することです。
4:06 私たちはまた、言っていました - すなわち、この外的な社会は、 こんなに危険に、不安全になってしまいましたが、 その社会は、私たち自身の 日々の活動の結果である、ということを、です。 おそらく過去の世代が、それに付け加えてきました。 しかし、世の中で起きていることすべてに対して、 私たちは実際に、責任があるのです。 私たちはまた、指摘しました - 私たちの意識は、 すなわち、いわゆる各個人の意識、 彼の考えること、彼の信じること、 彼の感情、彼の絶望、 彼のさびしさ、彼の恐れ、彼の楽しみ、彼の喜び、 彼の特有の形の崇拝など - それらが、私たちの意識の内容です。 5:21 この意識は、共通です - その「共通」という言葉を 使っていいなら、全人類に共通です。 このすばらしい大地のどこに行こうとも - 私たちは、それをゆっくり破壊しています。 どこに行こうとも - たとえ旅行客として行くのでも - すべての人間にとって、この問題があるのです。 彼らは苦しみます。 彼らは、大きな苦悶、さびしさの恐れを、 経て行きます。 一人立つことができないこと、 彼らの形の崇拝、 彼らの信念、彼らの神々など - ちょうど西洋でと似ています。 で、私たちが指摘しましたように、 あなたが、この問いにとても深く入るとき、 この意識は、私たちの一人一人が、自分たちのもの、 自分たちの特別の資産(属性)である、 と考えますが、 それは、人類の共通の資産(属性)です。 6:48 で、意識的に、深くで、私たちは個々人でないのです - すべての宗教、 すべての社会、すべての家族などは、 私たちは分離した個々人である。 私たち自身の特有の傾向、能力、 外的な形、名などをもつ、と主張してきましたが。 私たちは、残りの人類です。 ゆえに、私たちは人類です。 私たちは世界です。 そして世界は、私たちです。 これは、奇妙な異国風の理論でなく、 理想としての何かでなく、実際の心理的な事実です。 あなたがそれを好きでも、好きでなくても、 これは事実です。 7:50 なぜなら、あなたは苦しむし、 アジア人もまた苦しむからです。 あなたは、自分の多くの問題を持っています。 彼らもまた、持っています。 あなたは、国家主義者です。 彼らもまた、そうです。 あなたは、安全、恒常性、持続、 継続性がほしい。彼らもまた、ほしいのです。
8:24 で、私たちは、意識において、分離した意識である、 との幻影は、事実ではありません。 それを悟るとき - 観念としてではなく、 理想主義的な概念や、 私たちが求めて奮闘する何かとしてではなく、 むしろ、これは、世界中の人間すべてがよって立つ 基盤である、ということなのです。
9:07 また私たちは、指摘していました。 すなわち、お互いとの関係において - 親密でも、そうでなくても、男や女と、です - 大変多くの闘争、大変多くの誤解、 矛盾があるということを、です。 各々が心理的に、わが道を行き、 自分の野心、自分の充足などを、 追求しているのです。 二つの平行線のように、けっして出会わない。 おそらく、性的に(出会う以外)は、です。 また私たちは、恐れの本性、様々な形の恐れをも、 指摘していました。 そして、何千年に何千年もの間、このひどい恐れの重荷を 運んできた人間たちは、 いったいそれから、完全に 自由でありうるのかどうか、です。 私たちは、一歩一歩それに、とても深く入りました。 それは可能です。 理論ではなく、目標ではなく、 心理的な恐れから、全的に完全に 自由であることは、実際に可能です。
10:41 また私たちは、楽しみの追求について、話をしました。 この世界では、外的に、ますます多くの 様々な形の娯楽です - 様々な娯楽の事実 - フットボールなど - とともに、 宗教的なのも、です。 私たちはまた、自分たちがいかに 機械的になりつつあるかを、指摘しています - 同じことを、何度も何度も何度も反復しているのです。 それは、コンピューターがやっていることです。 それは、もっと急速に、もっと効率的に、 もっと幅広く、それをするかもしれません。 しかし、私たち自身の精神、 私たち自身の感情は、反復的です。
11:59 で、今朝、私たちは、許していただけるなら、 話をしようとしています - なぜ私たち人間は、百万年かそれ以上の間、 この地上に生きてきましたが、 なぜ私たちは、今の私たちなるものに、なったのか - 残忍で、暴力的で、矛盾していて、 神の名、国の名、平和の名において、 互いに殺し合っています。 第一次世界大戦の後、スローガンがありました。 それは、こう言いました - 「この戦争は、次の戦争と同じく、 すべての戦争を終わらせるためだ」と。 13:12 互いに殺し合うこの反復的な過程は、 つづいてきました。 私たちは、高い教育を受けていて、 テクノロジーでは、 とてつもなく効率的であるけれども、 心理的に私たちは、きわめて原始的なのです。 私たちは言っていました - 私たちが変化しないのは、なぜでしょうか。 このすべてのひどい個人主義的な、競争好き衝動に、 終わりがないのは、なぜでしょうか - それは世界を破壊しつつあるのです。
14:06 私たちは、ともに話し合おうとしています - 愛と考えられるものの本性について、です。 これは、古代エジプト人たち、 古代ヒンドゥー教徒の中に、 存在してきた問いでした。 近来は、キリスト教世界と、イスラム教の概念です。 彼らはすべて、 隣人を愛することなどを、説き、話してきました。 これは、宗教的に、すべての国々で、 主張されてきました。 しかし見たところ、私たちは、それが何なのかを 悟るに、けっして到っていません。 私たちはそれについて、大変多く話をします。 幾つも書物が、書かれています。 私たちは、神、または神々を、創り出してきました。 私たちは、その神か、神々を愛しています。 私たちは、あの美しさの本性を、正しくは知りません。 15:55 で、私たちは先日、短くそれに入ったけれども、 私たちはこの問いに、とても深く入るべきです。 それは、単なる感覚的な応答、 性的な楽しみでしょうか。 どうか、私たちが言いましたように、 これは講話ではありません。 これは、語り手がどの視点をも、 主張しているのではありません。 私たちはともに、検討しています - どうぞ、私はもう一度 反復しますが - ともに、です。 私たちは、愛と呼ばれるものの 本性を、探究しています。
17:00 で、自分自身に、訊ねなければなりません - それは、単なる感覚的、性的な応答なのかどうか。 それは西洋世界では、ますます多くなっています。 今、それは東洋世界に、忍び込もうとしています。 それは、楽しみに変えられてきました。 愛は楽しみでしょうか。 一つの形の娯楽でしょうか。 或る種の感覚的充足を要求するものでしょうか。 それは、欲望でしょうか。 私たちは、欲望は何かの問いに、入りました - よく気をつけて、です。 欲望はどのように生ずるのか、そして、 その充足の要求、です。 充足がないとき、挫折があります。 そして、充足されない欲望の、 神経症的な活動すべてが、です。 私たちはそれに入りました。 (再び)それ(に入ること)は、不必要でしょう - もしあなたが、初めて来られたのなら、 私たちがもう一度それに入らなくても、 気にされないであろうことを、願っています。
18:50 で、愛は欲望でしょうか。 そうであるなら、すべての錯綜、挫折、 その充足への要求 - 生ずる葛藤すべてとともに、ですが、 それで、愛は葛藤でしょうか。 どうか、これを再び、反復しなければなりません。 あなたが、これらの質問をしています。 語り手が、ではありません。 語り手は単に、指摘しているだけです。 それを、あなた自身が検討しています - 単に言語的に、知的に、 過ぎ去るものとして、だけではなく、 日々の生活において、実際に、です。 愛は、楽しみと欲望に 継続性を持っている動きでしょうか。 あなたが、質問をしています。 楽しみが、世の中で、こんなにとてつもなく 重要になったのは、なぜでしょうか。 20:34 娯楽産業全体、いわゆるスポーツ、 そしてまた、許してくださるなら、 宗教的な娯楽 - それは、神聖だと考えられています。 これらは、様々な形の楽しみです。 それで訊ねます - 愛は、動きでしょうか。 果てしない楽しみの動きでしょうか。 愛は、執着でしょうか。 信念へ、概念へ、知識へ、 人物へ、象徴への執着(でしょうか)。 執着には、恐れがあります - 一人であることの苦悩すべてとともに、です。 で、執着の帰結が見えるなら - 自分は国に、国旗に執着しています。 世界の誰もがみな、それをやっているように、です。 分離的、象徴的な旗に、です。 22:27 アジア人たちは、自分の旗を持っていて、 それに対して、怖ろしく執着しています。 この国でと同じように、です。 そのために、あなたたちは、互いに殺し合おう としています。 それは、今起きつつあることです。 私たちは言います - それは原理である。 攻撃的になった国は、押し返さなければ ならないという原理である、と。 それで、私たちは進んで、 他の人たちを殺そうとしています。 これは、最も古代の日々から、古い反復でした。 あらゆる宗教、 最も古代のものと、二千年の近来のものは、 いつも、言ってきました - 愛しなさい、殺すなかれ、と。 しかし、私たちの楽しみが、 この命令に、打ち勝ちます。
24:02 それで、そもそも、互いとの関係において、 真剣であるならば - 男と女、残りの人類との関係、です。 彼らが黒でも、白でも、紫でも、どんな色であっても、 その関係において、なぜこんなに多くの葛藤が、 あるのでしょうか。 それは、その関係において私たちは、安全、安心を 探し求める、ということなのでしょうか。 関係における安全へのこの探求と、 当然、その関係における 充足へのこの探求 - それは、愛でしょうか。 で、どうか、探究してください。 この問いを、ともに、とても深く探究しましょう。 25:20 そのすべてが愛でないなら - 執着、充足したいとの願望、欲求、 一人であり、さびしいことへの恐れ、それら。 そのすべてが、愛でないなら - 嫉妬、憎しみ、傲慢、誇りのように、です。 そのすべてが愛でないなら、 それは終わりうるでしょうか。 これは本当に、全く深刻な問題です。 なぜなら、私たちはけっして、 何をも終わらせない、終わりにしないからです。 しかし、終わりがあるところ、私たちは、 代わりのものが、ほしいのです。 私はこれをあきらめるなら、 何を持つのだろうか、と。
26:37 特定の問題を終わらせるという問いは、 本当に全く重要です - 終わらせることです。 なぜなら、結局のところ、私たちは少し後で、 死と呼ばれる生の終わりについて、 議論しようとしているからです。 そこであなたは、論争できません。 何をも運んでいけません。 あなたの記憶、執着などの 全的な終わりが、あるのです。 で、大変真剣に、終わりがあるのかどうかを、 探究すべきです - 代替物を見つけるのではない。 これの終わりがあるなら、あれがあるだろうとの 保証を、要求するのではない。 で、私たちは、言いましたように、 とても深く探究すべきです。 虚偽である物事すべて、 誇り、傲慢、執着と、 欲望、楽しみなどのようなもの - それらは、明白に愛ではありません。 そのすべては、終わりうるでしょうか。 28:33 なぜなら、生において、愛なしには、生の香り、 熱情、深さは、失われているからです。 生は、きわめて表面的に、 きわめて世俗的、世間的になるのです。 それは、世の中のほとんどが、ますます なろうとしていることです。 なぜなら、 私たちは、互いに愛しあうとはどういうことかを、 自分自身で見出したことがないからです。 愛は、過去の出来事と過去の楽しみを、 憶えていることではない。 愛は、知識ではない。 けれども、知識は、私たちの生に、 とてつもない役割を果たしてきました。 なぜなら、すべての科学者と生物学者などが、 人の向上は、知識をとおしてのみである、 と言っているからです。 私たちは、専門家たちが言うことを、 たやすく受け入れます。 私たちは、けっして自分自身で探究しません。 30:19 それは災禍の一つである、と思います - 私は間違っているかもしれません - すなわち、書物がこう重要になってしまった、 ということは、です。 他の人々が言ったり書いてきたものが、です。 すべての職業的専門家、心理学者たちが、です。 私たちは、テクノロジーの世界の 専門家たちについて、ではなく、 心理学的な専門家たちについて、話しています - 彼らは、自分自身について、他の人間たちについて、 大変多くの知識を、蓄積してきましたが、 その知識は、知識は、人を変容させるでしょうか。 人の意識の本性を、全的に、完全に変容させる - 部分的にではなく、ここそこで、 少し恐れが減り、もう少し親切で、 もう少し寛大で、葛藤が減るのではない。 この知識は、きわめて多くの世紀をとおして、 精神・ 心理について、 意識の様々な分割について、人が 取得してきましたが、 知識は、すなわち、蓄積された情報と、 蓄積された経験ですが、 その知識は、人の内容全体、人の意識の内容を 変容させるでしょうか。 32:32 どうか、あなた自身に、この問いをしてください。
32:41 あなたは、研究してきました。 あなた自身について、探究してきました。 または、他の心理学者たちより、 自分が何かを、言われてきました。 あなたは、自分自身について、 知識を蓄積してきました。 おそらく、あまり多くはなくて、少しです。 その知識は - 知識はいつも、過去についてです - その知識は、人を変容させてきたのかどうか、です。 または、全然違った種類のエネルギー、 全然違った種類の活動、または無活動 - それが、意識に変容を、もたらすのでしょうか。 なぜなら、これはまたもや、 理解し、入ることが、重要であるからです。
33:56 「意識は、人は条件づけられている。その条件づけは、 とうてい変容させられない」と言う人たちが、います。 或る哲学全体、或る学派全体が、存在します - それを信じ、それを主張し、 それについて、すっかり書いています。 きわめて利巧な人々が、です。 それはとうてい変容させられないのなら、 私たちは永続的に、葛藤に生きる、 矛盾に生きるのでしょうか。 様々な種類の神経症を、継続するのでしょうか。 で、自分の妻についての知識は、葛藤を、 変容させるでしょうか - 男と女の間に存在するものを、です。
35:14 で、訊ねなくてはいけません - 知識の持ち場は、何でしょうか。 あなたが、学校、専門校、大学で 学んできたことすべて、 あなた自身の個人的経験、 蓄積された記憶の貯水池は - 私たちが頭脳に蓄えるもの、すなわち、過去です - 現在に出会う。 それは自体を修正し、 その修正した形で、時の中、 未来として継続するかもしれません。 で、私たちは訊ねています - その知識は、 人間たちに、深い変化を、もたらしたのでしょうか。 それで、彼らが殺さないように、 心理的にいかなる恐れもないように、 人間たちが、互いに愛し合う、 このとてつもない能力を、 持つように、です。 36:47 知識は、愛への障壁になったのでしょうか。 どうぞ、これらを探究してください。 で、あの香りを妨げる物事すべてに、 終わりが、ありうるのでしょうか。 葛藤をとおし、闘争をとおし、 意志の主張をとおして、 それは、もたらせません。 というのは、結局のところ、意志は、 欲望の総和、願望の本質であるからです。
37:57 また私たちはともに、最も複雑で、見たところ 終わりなきことの一つについて、話をすべきです - 苦しみです。 苦しみ - 分離的、個人主義的、 私的な苦しみだけではありません。 また、人類の苦しみも、です。 とても多くの戦争がありました。 実質的に毎年です。 世界中で、去る五千年以上の間です。 戦争 - それは、毎年、 殺す、殺す、殺す、という意味です。 何百、何千万の人が、苦しみ、涙を流し、 さびしさの炎を、感じてきました。 けれども私たちは、見たところ、 この残酷さ、この暴力の獣性を止めるように、 自らの智恵を使いません - それらについてもまた、 私たちは先日、話をしました。 で、苦しみがあるのです - 物理的にも、非物理的にも、です。 非物理的な苦しみを理解することは、 物理的な苦しみを、助けてくれるでしょう。
39:57 で、私たちは初めに、ともに、苦しみの本性を、 探究しなければなりません - なぜ、人間たちは、 心理的、内的に苦悩を経ていくのか、です。 この探究は、冷笑的(シニカル)や 加虐的(サディスティック)ではありません。 心理的な苦しみは、終わりうるのかどうかを、 探究しなければなりません。 その問いは、自己の動機に発するのでしょうか。 その問いは、不適当でしょうか。 なぜなら、私たち、人間たちは、 他の人たちに対して 心理的に、大変多くの苦しみを、 加えているからです。 私たちは傷つきます - 深く、です。 私たちは、これら講話の始まりに、 それについて、話をしました。 それもまた、苦しみです。 そして、心理的に傷つくことの帰結 - 私たちはそれに入りました。 抵抗、孤立、恐れなどです。 41:43 キリスト教の世界では、苦しみは、 或る象徴への崇拝の中、回避されてきました。 しかし、苦しみはやはり存在します。 アジア世界では、苦しみに対して、 あらゆる種類の説明を、持っています。 けれども、彼らは苦しみます。 見たところ、苦しみに終わりはありません。 人間の悲しみ、人間の痛み、嘆き - それは、終わりがないように、見えます。
42:34 私たちはともに、探究すべきです - 言語的に、知的に、ロマンチックに、ではなく、 見出すべきです - 悲しみの完全な終わりがあるのかどうか、です。 なぜなら、悲しみがあるところ、愛はないからです。 悲しみがあるところ、慈悲はない。 悲しみがあるところ、智恵に深みはないのです。 で、この問いに、入らなければなりません - 苦しむのは、誰でしょうか。 これはまた、死の問いにも、関係しています。 今朝時間があるなら、 私たちはそれにも入るでしょう。 苦悩、涙、全くのさびしさ、絶望を 経ていくのは、誰でしょうか - あなたが、自分が愛していると思う 誰かを失うときに、です。 44:16 苦しむのは、誰でしょうか。 意識におけるその感情やその状態の、 本性は、何でしょうか。 これらを理解なさっていますか。 私たちは、 互いに出会っているのでしょうか。 または、語り手は、自分自身に 話しているのでしょうか。 これらは、あなたの問題です。 語り手のものではない。 で、どうか、聞いてください。 探究してください。 他の誰かに任せておかないで、見出してください。 なぜなら、あなたは、この問題を 解決するよう、他の誰かに任せておくなら、 他の人たちに依存していて、 ゆえに、自分の本来の能力を 失ってしまうからです - あなたがよっている人間的問題すべてを、 解決できる能力を、です。
45:32 で、私たちは訊ねています - 苦しむのは、誰でしょうか。 あなたが、涙を流し、全く迷った感じであるとき - あなたが大切にしてきた何かが、去ったり、 失われたりした衝撃ですが - 大きな痛みのこの感じを、 持っているのは、誰でしょうか。 それはこういう意味です - 「私は苦しい」と言う「私」は、誰でしょうか。 この衝撃と痛みと、さびしさの絶望を、感じる この実体は、誰でしょうか。 どうか、これは、自らに問うのが重要な疑問です - そのとき私たちは、死ぬことの本性を 探究しているからです。 うるわしい朝に、それは陰鬱かもしれないけれど、 そうではありません。 そこでもまた、死んでいくのは、誰でしょうか。 精神・ 心理(サイキ)は、誰でしょうか。 精神・心理の、苦しむ「私」の 本性は、何でしょうか。 47:47 そうですね、私たちは、「私」は何か 恒常的なものであるとの観念に、すがってきました - 「私」は継続性を持っている、と。 反復です。 私の家、私の資産、私の知識、 私の経験、私の条件づけ、 私の恐れ、私の楽しみ - それは内緒でありがちです。 で、この「私」は、誰でしょうか。 様々な心理学者たちは、それに、 様々な解釈を、与えてきました。 もしも私たちは、心理学者すべて、 彼らが言ってきたことを、脇に置いて、 自分自身で観察できたなら - 語り手が言っていることをも、含みます - 私たち自身で、きわめて明らかに観察する。 どの方向づけもなく、どの動機もなく、 実際に、私たちのあるがままを、です。
49:19 古代ギリシャ人と古代ヒンドゥー教徒たちは、 自分自身について知ることについて、話してきました。 何か専門家によってではなく、 あなた自身を知るのです。 その自己は、何でしょうか。 それについて知るとは、どういうことでしょうか。 理解できますか。 自己は、そして、 それについて知るとは、何なのでしょうか。 それについて知った後、 蓄積される知識は、何でしょうか。 問いを理解されますか。 私は時をとおして、私自身を知りうるのでしょうか。 すなわち、私は学んできました。 私は、自分自身を観察してきました。 他の一人との関係において - 親密でも、そうでなくても - 反応すべてを見守ってきました。 私は、その観察をとおして、 大変多くの知識を、蓄積してきました。 50:43 私が再び、他の反応、他の特質と 感覚的応答を観察するとき、 その以前の知識が、 実際に起きていることを、解釈します。 ですね? これらに付いてきていますか。 で、あなたは実際に、 あなた自身を知りつつありません。 あなたは、自らが取得してきた知識を、 様々な検討と観察をとおして、 永続させつつあるのです - それらは、あなたの知識になったのです。 その知識は再び、現在の応答、 現在の出来事と起きることを、 解釈しはじめています。 51:31 で、あなたは、自らが取得してきた知識を、 永続させつつある - 修正し、未来へ投影しているのです。 この循環は、知識、行為です - その行為から学ぶ。 それが、さらなる知識になる - 循環を動かしつづけるように、です。 あなたが、これらを 理解されていることを、願っています。 そうではないでしょうか。 私たちは、あなたに対して、あなた自身が 観察してこなかったことを、何も言っていません - あなたが観察してきたならば、です。
52:10 で、本当に、深く自分自身を知るには、 以前の憶えたこと、以前の知識は、 何の持ち場もないのです。 あなたは、各出来事、各応答を 観察しなくてはいけません - まるで、初めてかのようにです。 すなわち、知る、観察する、 この無量の生の分野に、入るのです - その生は、「私」として特殊化されています。 「私」、自己があるところ、愛はありません。 で、この問いから逃避するのではなく、 自分自身で見出すことが、とても重要です。 なぜなら、それはあなたの生であり、 それはあなたの責任であるからです。 あなたは、単にそれを回避し、様々な形の娯楽の中へ 逃げ去るだけなら、 世の中に大きな災害を、もたらしつつあるのです。 それに対して、あなたは、 全く全的に責任があるのです。
53:49 そして、苦しみの終わりがあるところ、 慈悲(コンパッション)があるのです。 苦しみ、それが終わることは、 熱情(パッション)を持つことです。 欲情と熱情との間には、巨大な違いがあります。 欲情は、誰もがみな、知っています。 しかし、熱情は、(受難として)何か象徴 - キリスト教のや、アジアの象徴 - と、 同一視されません。 私たちは、その熱情(パッション)を持ちません。 宣教師たち、福音主義者、神の説教者、 その他すべて - 彼らは、セールスマンです。 熱情(パッション)を持つ。 行きたい(との熱情)、残忍さ、暴力、恐れ、 苦悩を理解したい、 それらを解消したいとの熱情、です。 55:22 で、精神は、格闘の汚染すべてから、自由です。 あなたはそのために、大きなエネルギーを 持たなければなりません - これに入るには、です。 しかし、単に恐れ、楽しみに 捕らわれているだけなら - 楽しみは、喜びとは、違っています - 大変美しい何かを見守ることとは、違っています。 しかし、それを憶えているのと、 その憶えたのを、継続したいとの欲望は、楽しみです。
56:07 私たちは時間があるなら、 そして、今朝、あなたが疲れていないなら、 死のこの無量の複雑な問題を、 ともに考慮すべきです。 楽しみ、恐れ、執着、 傷、関係の葛藤と同じく、 それは、私たちの日々の実在です。 死はまた、私たちの生の一部です。 それは、何か老齢、病気、事故の後、 生の終わりに、来るものではありません。 それは、この生きることの事柄全体の一部です。 私たちはけっして、死の重要性を、考慮しません - その言葉の性質、深さを、です。 ほとんどの人々は、それを恐れています。 恐れているので、彼らは、あらゆる種類の理論、 すなわち、慰めを与えてくれるだろうものを、 創案、発明してきました。 58:20 アジアの世界には - その起源は おそらくインドに生まれましたが - 輪廻転生です。 すなわち、「私」は、死んでいき、 来世に、もっと幸せになったり、もっと貪欲などに なったりする機会を、得るだろう、と。 キリスト教の世界には、 この復活という全概念が、あります。 アジア世界とここで、あなたはどこに行こうとも、 一日中、それについて聞きます。 どちらが、重要でしょうか。 死の後に、あることか、死の前にか。 どうか、あなた自身に、この問いをしてください。 なぜなら、私たちのほとんどは、死に怯えているので、 それを合理化します。 それは回避できない。 樹が育ち、しおれ、死ぬように、 あらゆるものが、育ち、老い、終わり、 しぼんでしまう、と言うのです。 1:00:00 で、私たちは、自らの存在を合理化します - あなたが知識人であるなら、です。 または、人生の間に、 とても良い時間をすごしたなら - 人気、金銭等です - そのときあなたは、「私は愉快な時を 過ごしてきた」と、言うでしょう。 または、私たち素人のほとんどのように、 私たちの生は、浅く、不充分です。 おそらくテクノロジー的に、私たちは良い。 金銭、地位、身分。 または、私たちはただのか弱い人間です。 不安定で、心理的に何も安全がない。 それで私たちの生は、かなり、 わびしく無意味になるのです。 で、私たちは初めに、考慮すべきでないでしょうか - 私たちの生は、何でしょうか。 死ぬとはどういうことなのか、ではない。 私たちはそれに行くでしょう。
1:01:30 私たちの生は、何でしょうか。 私たちが生まれた瞬間から、死ぬ瞬間まで、 私たちの生には、実際に何が起きるのでしょうか。 あなたは、それについてすべて、知っています。 私たちは、それを反復しなくてもいい。 あなたが大人、成人であるなら、 工場で働く。 または、ビジネスマン、法律家 - 朝から夜まで、です。 反復し、反復し、反復する。 あなたは、主婦であるなら、 その事柄すべてを、ご存じです。 その詳細すべてに、入らなくてもいい。 で、私たちの生は、かなり浅いのです。 それが科学者でも、 偉大な哲学者でも、将軍でも、政治家でも、 称号と地位を別にして、 彼らは、他の人間たちとそっくり似ています - 空疎で、心理的に挫折し、 地位を探し求めている - そうですね、その他すべてです。 1:03:04 で、私たちの日々の生は、決まり切った道筋と、 その道筋からの逃避です。 私たちの日々の生は、何の余暇もなく、 仕事、仕事、仕事です。 余暇があるなら - それは休日と呼ばれます - それは単なる楽しさです。 で、私たちの生は、見かけ倒しで、けばけばしい - どうか、これらの言葉をお許しください。 それらはただ、それが何なのかを、 叙述しているだけです - 時折、大いなる美しさと深さと幸せの ひらめきがある。 そのすべてが終わることが、死ぬことです。 人は、世界中の男、女は、 生きることより、死に関心を持っています - 葛藤なく生きること、 大きなエネルギーをもって生きること、 明晰さに生きること、葛藤の影一つなく生きること。 1:04:57 それは、恐れが心理的に、 完全に終わるときのみ、可能です。 そのとき、神々への必要はありません。
1:05:21 で、死ぬのは、何でしょうか。 自分自身についての知識の蓄積ですか。 あなたの資産の蓄積ですか。 あなたが執着している物事すべての蓄積ですか。 で、どうか、理解してください - いつの時も 死とともに生きることは、可能でしょうか。 それは、生きながら、終わることです - 来る日も 来る日も、あらゆることが、です。 理解できますか。 それは、毎日、精神が新鮮に受肉している (生まれ変わっている)、という意味です。 それが創造です。 それは、発明の才があるのではなく、 創造的な精神です。 発明の才と創造との間には、大きな違いがあります。 1:06:39 すべてのテクノロジー世界と、 その世界の技術者たちは、発明の才を持っています。 なぜなら、彼らは知識を使っているからです。 知識から知識へ、彼らは動きます。 だが、彼らはけっして、知識から自由ではありません。 そのため、全的に、新しい始まりがあるのです。 で、死とともに生きる - 自殺を遂げるのではない。 それは、あまりにバカげています。 死とともに生きる。 私の傷を終わらせる。 それを完全に終わらせる。 自らの執着などを終わらせる - そのため、生と死はいつの時も、 一緒に動いているのです。 やってください!
1:07:56 この探究とその活動へ、 自らの精神とエネルギーを専注するなら、 そのとき、全的に違った種類の生が、あるのです。 私たちは明日、それについて話すでしょう。 そういう生は、この世の中に、 どんな持ち場があるのか。 それは、宗教的な生でしょうか。 そして、冥想における 宗教的な生の持ち場、などです。
1:08:48 立ち上がってもよろしいでしょうか。
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