OJ85T2 - 私たちの意識の危機

第2回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1985年5月12日
テキストのみのバージョン
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0:32
私たちは昨日の朝、話していたことを、
継続してもいいですか。
私たちには、次の二つの講話、
むしろ三つの講話があります -
今日と、次の土曜日と日曜日です。
私たちは、大変多くの地盤を、 扱わなくてはいけません。
私たちは、ともに話し合わなければなりません -
時という問い、
思考、
様々な形の恐れと、
楽しみ、満足、喜悦に対する
永久の追求について、です。
私たちはまた、ともに、悲しみについて、
話をすべきです -
悲しみを終わらせることは、可能なのかどうか。
1:51
そしてまた、愛と慈悲、
死と、
宗教的な精神
または頭脳についても、です。
私たちはまた、冥想の問いにも入り、
自分自身に訊ねるべきです - 人の苦労すべて、
この混乱すべて、このさびしさと
絶望と心配すべてを越えて、
何かあるのかどうか、
何か神聖なものがあるのかどうか。
それで、私たちには、 扱うべき地盤が大変多くあるのです
- もしあなたにその気があれば、です。
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2:53
昨日言いましたように、
私たちは、あなたに何も課そうとしていません。
あなたに何をも、確信させようとしていません。
語り手は、本気でそう言っています。
私たちは、あなたを改宗させようと していません。
宣伝や、
あなたをプログラムしようとしていません。
なぜなら、私たちはかなり、 だまされがちであるからです -
新しい形の経験と感動に、たやすく満足しがちです。
で、私たちは、ともに、
- 語り手がただ一人、話す人であるというのでなく -
ともに、あなたと語り手は、
これらすべての事柄を、覗いてみようとしています。
言語的にとか分析的には、
比較的簡単ですが、それだけではなく、
むしろ、単なる合理化、
説明、叙述よりも、はるかに
深く
行くのです。
4:30
私たちの間で、それははっきりと理解されるなら -
すなわち、語り手は、幸いにも、
あなたから何もほしくないのです。
あなたの拍手喝采も、
- どうか、講話の終わりの拍手も、です -
あなたの励ましも、けなすのも、
文字通り、彼はあなたから、何一つほしくありません。
で、あなたたちはみんな、 静かで寛いで、聞けるのです。
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5:19
それは、私たちの問題の一つでした -
おそらく何千、何万年もの間、
罪悪という問いが、です。
この問いを理解することは、重要です -
なぜ、世界中の人間たちは、
この罪悪感を持っているのか。
子どもの頃から、何かをするよう言われてきたが、
ほとんどの子どものように、上手にそれができない。
だが、不幸にも、彼らはこの罪悪感を養成します。
また宗教でも、特にキリスト教では、
原罪、
- キリスト教徒であるなら、 それについて、すっかりご存じにちがいありません -
そして、その罪から救ってくれる人、です。
で、あなたはそこでも、罪悪を持ちはじめます。
すなわち、私たちはみんな罪がある。
私たちはみんな、原罪の所産である、と。
それがどういう意味であろうとも、です。
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6:45
そしてまた、いつも
私たちは、自分の理想に届かないでいます。
それによってもまた、罪悪を感じます。
これはご存じにちがいありません。
たぶん私たちのほとんどが、知っています。
私たちはそれに気づいているのか、または、
ほとんどの人々には、 それは深く潜んでいるのか、です。
私たちは、それらに無頓着です。
それに目覚めて、
罪悪の過程を知るなら、
そこに何が含意されているのか、です。
そしてまた、他の人々に罪悪を 感じさせておくのが、大好きな人たちも、います。
すると彼らを言いなりにできるし、
その種の権力を愛しています。
で、正しくふるまわないことの罪悪が、あります -
何かの伝統に沿ってとか、
あなた自身の思考様式に沿って、です。
その水準に届くことができなくて、
罪悪を感じはじめる、などです。
8:17
そしてまた、他の問いもあります。
私たちは、身の回りの、 何か怖ろしいものとともに、生きています -
きわめて醜いものと、です。
確かに私たちはみな、それに 気づいているにちがいありません。
戦争の醜さ、ひどさ、
残虐性だけではなく、
また、このものすごい、
- 邪悪と呼んでいいなら、です。
語り手は、その言葉を使いたくないですが -
一定のイデオロギーの常なる圧迫、
影響力です。
全体主義の共産主義イデオロギーのように、です。
それについて、すっかりご存じならば、
それは完全に奇怪で、おぞましい。
私たちは、それとともに 生きなくてはいけません - お隣です。
9:41
それは、壁の向こうの兄弟です。
ベルリンの壁だけでなく、
これを追い払うため、それと戦い、
向き合うために存在する壁、です。
私たちは、それとともに生きています。
そもそも、これらに気づいているなら
- 戦争の醜怪さと残虐性だけでなく、
戦争のイデオロギーにも、です -
それとどのように、出会うのでしょうか -
個人としてだけでなく、集団的にも、です。
私たち一人一人の応答は、何でしょうか。
私たちは世の中で、何かますます醜くなり、
ますます破壊的、圧政的に
なろうとしているものと、
ともに生きています。
これは世界中で起きています。
それは、世界の一定地点だけのことではありません。
それは次第に、忍び寄ろうとしています。
11:18
それらに対する私たちの応答は、何でしょうか。
それは無頓着でしょうか。
それは、私たちは他の分野で起きることを 気にかけない、ということでしょうか。
それは、私たちはこれらに 向き合いたくない、ということでしょうか。
それに向き合うとしても、何ができるでしょうか。
組織的にではありません。
なぜなら、それはいつも、別種類の めちゃくちゃに終わってしまうからです。
私たちは人間として、この地上に 生きていて、何をするのでしょうか。
この大地もまた、人口過剰、
ますます大きな都市、
私たちの自然に対する無頓着のせいで、
次第に破壊されつつあるのです。
これらに対する私たちの責任は、何でしょうか。
私たちはそもそも、責任を感じるのでしょうか -
12:52
自分の妻や夫や家族にだけでなく、
残りの人類に対して、という
意味での責任です。
あなたが、プロテスタントでも、カトリックでも
ヒンドゥー教徒でも、仏教徒でも、です - それらはすべて、名のみ、
ラベルのみで、あまり深みはありません。
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13:24
あなたは、これらの事柄に入るでしょうか。
たいへん尊敬を込めて
ご指摘を申し上げていいのなら 、語り手があなたに
何をすべきかを語るのを、待たないでください。
それは、もう一つの形での罪悪の養成になるでしょう。
むしろ、一緒に物事を話し合い、
観察し、
よく気をつけて、互いに聞きあう中で
- 単に言葉だけでなく、言葉の裏、
一言の深い意義と、それが何を意味するかを聞く -
そのとき、お互いに、 何をすべきかを語らなくていいのです。
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14:27
で、罪悪があります。
そして、私たちが日々、 ともに生きているものが、あります。
それの、それら二つの、
恐れに対する関係は、何でしょうか。
この恐れという問い、すなわち、残忍で怖ろしいもの、
世界で起きつつあることを探究し、
また、私たち自身の不適切さ、無能さを - それも別の形の罪悪です -
それを探究する中で、
このすべての、恐れに対する関係は、何でしょうか。
そして、恐れは何でしょうか。
表面的または深い恐れではなく、その根です。
その幹だけでなく、そのきわめて多くの枝もですが、
その根は、何でしょうか。
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15:49
で、私たちは探究しようとしています -
時を、だけではありません。
なぜなら、時は恐れに関係しているからです - 私たちはそれに入るであろうように、です。
私たちは時により生きますが、 それは何なのでしょうか -
今日、明日、過去、未来。
そしてまた、思考は何でしょうか。
なぜなら、私たちは、 思考することにより、生きるからです。
私たちがすること、行為することすべてが、
思考に基づいています。
で、私たちは、それらに入っていいでしょうか。
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16:47
すてきな、暑すぎない朝です。
樹々の下は心地よい。
なかなか涼しいそよ風 - あなたが それを気にされないことを、願っています。
ここで眠りに就くのは、なかなか便利です -
毛布等を、しっかり掛けているなら、です。
すてきな日曜日の朝。
オフィスの仕事、労働、 苦労と技能すべてから解き放たれて、
樹々の下、木漏れ日の中、
なかなか心地よい。
「あなたは話を続けていいが、 それは大事なことでもない。
私は眠りに就こう。
あなたは続けなさい。」と。
それがあなたの望むことであるなら、 眠りに就きなさい。
しかし、私たちが真剣で、熱心であるなら、
- そうでなければなりません -
なぜなら、それは、私たちが 到った危機の一つであるからです。
18:08
それはもはや、娯楽ではありません。
もはや、単なる知的ゲームではありません。
または、一つのことからもう一つへ、 またはもう一つから、と
感動を探し求めることではありません。
私たちは、生の幾つかのとてつもない危機に、 向き合わなくてはありません -
生とは私たちの意識です。
危機は、経済になく、
政治的、宗教的ではなく、
危機は、私たちの意識にあるのです。
なぜ、何千年、何万年の後、 私たちは、今の私たちなのでしょうか。
それが、危機のあるところです。
単に経済的危機や、
政治的危機や、イデオロギーと戦争の残忍さを、
解決すること -
それは、そこだけにはなくて、はるかに深いのです。
19:37
で、私たちはまず始めに、探究しようとしています。
なぜなら、それらはすべて関係しているからです。
問題すべては、互いに関係しあっています。
それらは分離していません。
一つの問題を完全に解決できるなら、
他の問題すべてを解決したのです。
なぜなら、分離した問題は無いからです -
それが性的であっても、
充足したいとの欲望などであっても、です。
で、一つを解消する中で、全部が解決されるのです -
それをどうするかを知っているなら、です。
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20:31
で、時は何でしょうか。
時は、ただ日の出と日の入りによるだけではない -
夜の闇と、朝の輝き。
過去としての時。
自分の人生の過去だけでなく、
広大な歴史的な過去、
人類の物語(ストーリー)。
それが、人類の歴史(ヒストリー)です。
すなわち、長い諸世紀、
幾千年に幾千年もの過去。
そして、現在。
過去は、現在をとおして自体を修正し、
未来になる。
時は循環です。
それは円環です。
その中に、私たちは捕らわれています。
で、私たちはそれを、近くで見つめるべきです。
単に知的に理解するだけでなく、
実際にそれに入るのです - あなたがそうなさるなら、ですが。
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22:20
私たちは過去です -
その過去が、一日であっても、
何千、何万年であっても、です。
過去とは、知識、
記憶、思い出です -
隠蔽されていても、明るみでも、です。
その過去から、私たちの行為があるのです。
その過去は伝統です。
その過去は、ここ二千年間の、
分割すべてをともなったキリスト教の諸宗教です。
それが過去です。
そして、インドとシナでは、
過去は、三千から五千年であり、
彼らの伝統、彼らの信念、
彼らの迷信、彼らのたわごとをともないます。
で、過去は、私たちなるものです。
23:50
過去なしに、あなたはありません。
で、その過去、その膨大な過去、
重たい過去が、
現在を通りぬけ、それ自体を修正するのです。
それは経済的に見られます -
諸々の圧力が、現在を変化させますが、
それは過去です。
そして未来は、
明日でも、人生の最後とその先でも、
- 輪廻転生ではありません - まもなく、それらに入るでしょう。
未来。
未来は、修正された形の過去です。
それは明白です。
その未来は、
今にあるのです。
ですね?
なぜなら、過去が自体を修正するのが、 未来であるからです。
25:16
その未来は今です。
なぜなら、私は今、喫煙しているなら、 明日、喫煙するであろうからです。
私は貪欲であるなら、明日やはり貪欲になるだろう、
などとです。
で、過去は、現在にあるのです。
どうか、このとても単純な事実を、理解してください。
この動き全体 -
過去から現在をとおしてそれ自体を 修正する。
未来として、です。
その未来は今です。
なぜなら、 私は根源的に変化しないのなら、
未来は、今の私なるものであろうからです。
ですね?
この単純な事実の真理を、見てください。
私があなたを納得させようと しているということではなく、
あなたは、告げられているとか、 圧力を加えられているとか、
コンピューター化されているということではない。
26:19
これは単純な事実です。
私は、過去にそうであったように、
今日、意地悪で、残忍で、冷酷であるなら、
明日、私はそれになるでしょう。
あなたは、それから逃れられません。
私は、妻や夫などとけんかしているなら、
明日もまた、そうするでしょう。
で、明日は今なのです。
私たちが捕らわれているこの連鎖を、破るには、
今、変異がなければなりません。
付いてきていますか。
単純な事実です。
これが、時の循環全体です。
でないですか?
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27:24
そして、この変異をもたらすことは、可能でしょうか。
なっているのは、何でしょうか -
変容したのではない。
「変容した」という言葉は、一つの形から
別の形へ動くことを、意味しています。
ゆえに、それは変異ではありません。
根本的に変化されつつあるのは、何でしょうか。
その「変化」という言葉さえも、 時を含意しています -
これからあれに変化する、と。
で、私たちはこの言葉で、通さなくてはなりません - 変異をもたらすこと、です。
すなわち、何かが根本的に終わること、
そして、何か全的に新しいものが始まること、です。
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28:26
私たちの意識、
一人一人の意識 -
それは、私たちなるものです。
このことについて、 書かれた書物は、たくさんあります。
しかし、それはとても単純です。
人々がなぜ、とても複雑なものが好きなのか、 私は知りません。
たぶん、かなり複雑なことについて、 話を始めることに、とても興奮するのでしょう。
でも、それはかなり単純です。
自らの意識とは、何でしょうか。
確かに、自らが信じていること、
自らが信を置いていること、
自らが願望すること、
自らの国籍、自らの恐れ、
自らの恐怖、自らの憂鬱、
心配、
さびしさ、
絶望、
残虐性、
罪悪、
恐れ、楽しみ、悲しみ、
欲望の増殖 -
そのすべてが、私たちの意識です。
ですね?
30:09
それについて、単純でありましょう。
そうですね、とても複雑な問題に接近するには、
初めにそれへ単純に来なければなりません。
それから複雑になる。
それから理解できるのです。
しかし、すでに複雑さをもって始めるなら、
そのことは、ますます複雑になるでしょう。
私たちはけっして、何も解消させないでしょう。
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30:38
で、私たちの意識は、その内容すべてです。
その内容へは、あなたが 考えつくことすべてを、容れられます -
あなたの知識、迷信、
恐れなどを、です。
人間的な経験と試練と
試み等の増殖です。
そして、内容は、
私たちなるものであり、
過去だけでなく、未来でもある。
その未来は、今です。
私たちはちょうど今、 それらに入りました。手短に、です。
それの全体が、あなたです。
ペルソナです。
自我です。
ものすごい利己性です。
31:49
私たちは訊ねています - それは、
その意識は、広大な進化の結果ですが、
生存だけでなく、
また、生存の知識も、です。
で、その意識に、
全的変異がありうるでしょうか。
私たちは現にそうであるように、時に頼るなら、
同じ古い様式を、再び始めるでしょう。
私たちはお互いに 理解し合っているのかと、思われます。
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32:49
語り手は近頃、
- 大変、謙虚に指摘させていただくなら、
これは虚栄からではありません。
お知らせしているんですが -
語り手は、国際連合で話をしました。
なぜ招待されたのかは、知りませんが、 彼はそこに行きました。
講話の後、そこの最高権威の一人が言いました -
「私は、或る結論、むしろ確信に到りました。
すなわち、この組織で四十年間働いた後、
私は殺してはならないとの結論に到りました」と。
彼には四十年が掛かりました。
いえ、その意義を見てください。
33:57
人間の頭脳が、或る真理へ到るために、
四十年間が掛かった、ということなのです -
すなわち、他の一人の人間を殺さない、と。
その組織全体が、
戦争を引き起こさないため、
防止するためです。
それはなされていません。
それは不適切です。
しかし、全論点はこうです - 人間の頭脳は
いかに事実に向き合い、行為するのを、 拒否するのか、ということなのです。
私たちは、時の間に、あらゆるものが 解決されるであろうと、考えます。
時は、忘れるのを助けてくれるだろう、
などと、です。
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34:57
で、それが時の本性です。
過去が、現在をとおして自体を修正し、
未来として継続する。
で、未来、過去、現在は、一つです -
それらが根源的、根本的に終わることが
無いのならば、です。
さもなければ、あなたは明日、 今のあなたになるでしょう。
私たちはあいにく、 惨めな人々です。
不幸せな人々です。
それは事実です。
私たちは今、変化しないなら、 明日、同じことになるでしょう。
それは単純な真実です - それの真理です。
また、時の関係は何でしょうか。
時系列の時だけではなく、
時の、思考への関係は、何でしょうか。
36:13
そして、時、思考の、恐れへの関係は、何でしょうか。
付いてきていますか?
つづけていいですか。
これらに、 うんざりしすぎていませんか。
お日様で温かくなりつつあることを、願っています。
ですが、どうか、もう五十分か そこらの間、目覚めていてくださいね。
どうか、それは侮辱ではありません。
お願いしているんです。
で、私たちは訊ねています - 時、思考、恐れの
関係は、何でしょうか。
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37:00
私たちは、時という問いに、 多かれ少なかれ、入りました。
で、思考の問いに、入りましょう。
考えるとは、どういうことでしょうか。
語り手は、言葉を使っています -
彼が考えているとされることを、伝達するためです。
あなたは、その言葉が聞こえます。
それら言葉を翻訳します -
あなたの快や不快に応じて、です。
または、普通に聞こえています。
またはたぶん、あなたは英語をすっかりは理解しない。
または、英語をすごくよく理解して、
それら言葉に、一定の意義を与えます。
考えること。
これは、考える過程全体です。
思考は、人を月に立たせました。
思考は、戦争の道具を創り出しました。
38:12
思考は、人の破滅を創り出しました。
世界の一番驚くべき大聖堂を、組み立てました。
寺院、神殿、モスクを、です。
それらの幾つかを見たことがあるなら、 驚くべき美しさです。
思考はまた、広大なテクノロジーの世界をも、 創り出しました。
思考はまた、男と女の間の関係をも、築きました。
それには、もうすぐ後で、入るでしょう。
思考は、私たちの行為すべてを、産出します。
だから、思考はとても重要です。
思考を拡大するとか、それに さらに大きな深みを与えるのではなく、
私たちは、思考の、考えることの、
まさしく本性と構造を、
探究しようとしています。
ですね?それに入りましょうか。
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39:33
あなたがそもそも本当に、この問いに、
入ったことがあるのかどうか、私は知りません。
たぶん一度も訊ねていないのでしょう。
職業的専門家さえも、訊ねません。
だから、あなたがどうして訊ねるでしょうか。
あなたは、探究するよう、教育されていません。
順応するよう、教育されています。
「ええ、私は記憶しました。
私は情報、知識を取得しました」
と言うよう、教育されています。
そして、「私は良い仕事を得るでしょう。
」、または、
仕事がないとか、何をするにしても、です。
しかし、この問いに、本当に、 とても深く入ったことが、ないのです -
考えるとは何かを探究することに、です。
頭脳は、結局のところ、
私たちが持つ唯一の道具です。
神経学的、生物学的、情動的に、
それは、私たちの存在すべての中心です。
40:40
頭蓋骨の内側の、そのものは、
頭脳と呼ばれますが、
その頭脳は、それ自体に訊ねたことが ないのです - なぜ私は、常に考えているのか、
あらゆることについて、
猛烈にしゃべりまくっているのか、と。
私が昨日、したこと、明日、するであろうこと、
今していること、なぜこれか、なぜあれか、と。
夜に夢を見る。
一日中ずっと、しゃべっている。
私たちは、何ととてつもない人間なんでしょう。
で私たちは、思考は何か、考えるとは何かを、 探究しなければなりません。
その起源は、何でしょうか。
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41:37
私の説明がほしいですか。
そうですね、それが、私が反対していることなんです。
なぜなら、あなたは実際に探究していないからです。
あなたは、誰かが語ってくれるのを、待っています。
ゆえに、彼は嫌らしい導師になり、 あなたは従う人になる。
語り手は、「どうか、そう しないでください」と言うのです。
すなわち、あなたは、あなた自身だけでなく、
あなたを導く者をも、破壊するでしょう。
だから、それらの戯言を脇に置いて、 ともに探究しましょう。
「ともに」という言葉は、重要です。
ですが、当分の間、それには入らないでおきましょう。
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42:44
で、考えるとは、何でしょうか。
考えるのは、記憶に頼っているのでしょうか。
蓄積された記憶、憶えていること -
私は、大物になりたい。
なぜなら、私は多くの大物たちを見てきたから。
- 大した人たち。
楽しい時間を過ごした。
有名になった。
たくさんのお金、たくさんの車、等です。
で、この記憶の広大な集成が、あるのです。
個人的にだけでなく、
過去の多くのものごとの記憶も、です。
歴史的に憶えていること、
集団的な記憶、
意識的な記憶と、記憶の深い諸層。
私たちは記憶ではないでしょうか。
私たちは、記憶の束ではないでしょうか。
その言葉を使って、そんなに制限された手法で
表すことを、お許しください。 私たちはみんな、記憶ではないでしょうか。
44:07
記憶は、何に基づいているのでしょうか。
どうか、私とともに探究してください。
どうか、こいつから聞くだけにしないでください。
語り手とともに、それに入ってください。
記憶は、何に基づいているのでしょうか。
それらは、知識に基づいていないでしょうか。
知識としての情報のものすごい蓄積に、です -
それが広大であっても -
広大ではない。
科学の制限された知識。
いつの時も、それ自体に付け加えています。
付け加えられつつある知識は、 いつも制限されているにちがいないのです。
なぜなら、あなたはそれに付け加えているからです。
ゆえに、それは制限されています。
航空工学や天体物理学については、何も知らない。
だが、私は実験につぐ実験で、 それを収集しよう。得るだろう。
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45:26
で、知識は経験に基づいています。
ですね?
経験、または、経験とそれらは、
本質的に制限されています。
でないですか。
経験すべては - それが何の経験であろうと、 大事なことではありません。
それは、制限されているにちがいありません。
なぜなら、経験しつつある経験者が、あるからです。
そして、経験者は過去です。
彼の記憶、彼の蓄積、彼の望み、彼の恐れ、
彼が覚りを開きたいこと、神のようになりたいこと、
「私は有名になりたい」と言いたいこと。
「だから、私は二、三の語句を 学んで、自分なりに翻訳しよう。
それから、なるのは・・・」とか、何とかかんとか。
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46:37
で、経験は、認知されなければなりません。
さもないと、それはそもそも経験ではありません。
そして、認知する者は、過去です。
すべて、ばかげているでしょう。
で、経験はいつも制限されています。
私は、神的なものを経験する。
そのものすごい昂揚感。
一時的に、です - 後戻りするかもしれません。
で、経験はいつも制限されています。
ゆえに、知識はいつも制限されています。
いつも、です -
過去でも、今も。
その知識が付け加えられつつあるものは、 制限されています。
で、記憶は制限されています。
で、思考は制限されています。
ですね?
私たちはこれを理解するのかどうかと、思われます -
実際に、それの真理を、です。
それの知的な概念やそれの観念だけではない。
それの真理 - すなわち、思考はいつも 制限されるであろうということを、です。
48:03
思考は、無制限のものを想像できます。 でもそれは、やはり制限されています。
思考は、世界中で神々を創案してきました。
ここ数千年に数千年もの間に、です。
それらの神は制限されています。
当然です。
で、思考の活動、その作用は何であろうと、
いつも制限されるにちがいないのです。
ゆえに、思考はホリスティック (全包括的)でないのです。
理解できますか。
この単純な事実が、悟られるなら - すなわち、
思考と思考者は一つである、ゆえに、
それらはいつも制限されるということ、
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48:55
ゆえに、世界の宗教すべては、
神の啓示だ、そいつから直接言われたと言うけれども、
- 私は見当違いをしていないし、 冷笑的にもなっていません -
そのとおりなのです。
彼らはみんな、 直接的だと主張します。
そして、中世の衣装と衣をつけます -
宗教の名で行われている、そのごまかしすべては、
思考により創案されています。
ゆえに、位階制度全体と
宗教的構造は、制限されています。
彼らの信念、信仰、儀式等は、
制限されています。なぜなら、 思考に基づいているからです。
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49:51
で、問いが生じます - あなたが 聞いてくださるならば、です。
思考を越えた何かが、あるのでしょうか。
それとも、あらゆるものが、思考でしょうか。
もちろん、自然はそうでない。
虎は、思考が組み立てていません - ありがたいことです。
または、すばやいガゼルも、です。
で、恐れに対する、時、思考の
関係は、何でしょうか。
私たちは、恐れについて話しています。
時と思考なしに、恐れはあるのでしょうか。
どうか、気をつけて、見つめてください。
思考と時に根ざしていない、
恐れの感覚は、あるのでしょうか。
私は、しばらく前に、何かをしました。
私はそれに怯えています。
罪悪、
何か私のした醜いこと -
まっすぐでなく、その性質が優秀でないこと。
私はそれを恥じている。
私はそれに怯えている。
私はそれに罪悪を感じる。
私はそれとともに生きてきた。
それらへの恐れ。
51:48
ゆえに、恐れの根は、時と思考です。
起こるかもしれないことへの恐れ。
私は、良い評判を取ってきた。
しかし、明日、あなたたちは現れないかもしれない
- 私が気にするだろう、 ということではなく、私はただ・・・
で、私たちにはいつも、恐れの影がある -
男と女の間のこの恐れの影、
起きるかもしれないこと、
そして、究極の恐れは死です。
この恐れの中から、すべての神が創案されるのです。
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52:46
で、訊ねます - 恐れに、終わりが あるのでしょうか。全的な終わりが、です。
あなたがこの質問をしています。
私ではない。語り手ではない。
それは、こういう意味です -
思考と時に、終わりがあるのでしょうか。
関係は、理解できますか -
これらの論理的な順序、です。
それは、論理的なだけでなく、事実に即しています。
このすべての過程が、恐れを引き起こすのですが、
それに、終わりがあるでしょうか。
恐れの結果、恐れの帰結は、知っています -
残虐性すべて、
醜さすべて、縮こまること、
暗い恐れの世界全体、です。
それは、大変多くの神経質等を、生み育てます。
で、これらに終わりが、あるのでしょうか。
その種の質問をするだけでない -
まさにその問いは、かなりばかげて聞こえます。
時は終わらせられません。
54:33
思考は終わらせられません。
なぜなら、ここから自宅に行くには、 考えることが必要です。
(車の)点火スイッチを入れるには、 考えることが必要です。
月曜日の朝、あなたはたぶん、 オフィスとか、何らかへ
行くでしょうが、考えることが必要です。
で、思考は終わりうるのか、 時は終わりうるのか、と言うことは、
実際の問いではなく、
むしろ、こう訊ねることなのです -
私は本当に、時と思考の真理を 了解するのか、理解するのか、と。
なぜなら、思考にはその場所があり、 時にはその場所があるからです。
しかしなぜ、考えることから、 恐れが生ずるべきなのでしょうか。
問いを理解できますか。
なぜ時が、恐れでの要因であるべきなのでしょうか。
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で、もし私が、時、思考、罪悪や恐れの
全体像、全デザイン、
全地図を理解するなら、
そのまさに観察こそ、
まさに眼が見ること -
眼だけでなく、あなたの全存在が、 それを見つめている。
それは、あなたの全注意を、 この恐れの地図に向ける、という意味です。
地図の一地点だけではなく、
一つの村や町や道路ではなく、
それの地図の全体です。
どんな歪曲もなく、
それのこの構造全体を、観察できるでしょうか。
もちろんできます。
それは、どんな歪曲もない
純粋な観察へ、注意を向けることです。
そのとき、その連鎖全体が、壊れます。
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57:06
何時でしょうか。
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聴衆: 1時まで26分です。
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57:14
K: 25分ね。
もう少し長く続けましょうか。
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57:19
聴衆: はい。 K: 疲れていませんか?
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聴衆: いいえ。 K: なぜですか?
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57:21
あなたたちはみんな、能動的に考え、 働き、当たっていますか。それとも、
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「まあ、すてきな日だな。それについて話そうか」 と言っているだけですか。
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また、恐れを理解する中で、
欲望を見つめるべきです。
私たちは、欲望により駆り立てられます。
神に対してだけではない - それがどういう意味であっても、です。
成功に対して、権力、地位に対して -
あらゆるものの中心にいることに対して、 だけではない。
(首都)ワシントンのように、
または、デリーやロンドンやパリやモスクワや
北京のように。
北京を含めましょうか。 そのほうがいい。
私たちは生で、とても多くのものをほしがります。
物理的なものだけではない - 良い車、
良い衣服。
そうね、すてきな体、
すてきな顔、すてきな化粧品を持つ。
そうね、そのゲーム全体です。
この国の商業主義は、奔放です。
- 買え、買え、買え、と。
そして、良くなりたい願望、
一番の親友を傷つけたくないとの願望、
だが、他の人たちを傷つけるなら、大事ではない。
でも、近い誰かは、などと。
59:24
私たちは、多くの欲望、願望を持っています。
大きくなりたい、これになりたい、 あれになりたい、と。
私たちはおそらく、一度も訊ねたことがありません - 欲望は何だろうか、と。
なぜ宗教、僧侶たちは、欲望を抑圧してきたのでしょうか。
彼らは、それで燃えるのですが、
それを抑圧するのです。
語り手はかつてヒマラヤで、
たくさんの僧侶の後を、歩いていました。
あなたたちは、ヒマラヤに行ったことがありますか。
幾つかのすばらしい丘、すばらしい山々。
そこは、地平線にわたり、400マイル近くが
見える所でした。
雪の頂、
大きな谷、
大きなすばらしい青空。
汚染されず、冴えて、澄んでいる。
山並みから次々、山並みへ、400マイルか350マイル、
一番高い峰々。
語り手は、小道で後を歩いていました。
私の前には、僧侶たちがいました。
1:01:09
彼らは詠唱していましたが、
けっしてどの花も、空も、樹も、
川も、見ませんでした。
歌いつつ 丘を流れくだる小川が、ありました。
舞い踊る水。
そこで彼らは、
自分たちが考えているとされることに、
完全に没頭していました。
敢えて見上げて、空の美しさを 見ようとしませんでした -
樹々と川と花々を、です。
なぜなら、それは散漫であるからです。
世界中の僧侶すべてと同じように、です。
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で、あらゆる人間には、この欲望があるのです。
そして、抑圧や拒否をせず、
何か高いものへ変容や変換せず
- それは、もう一つの形の欲望になります -
私たちは・・・笑ってすみません。
私たちは欲望を見つめ、それの本性は何か、
動きは何か、構造は何かを、見出せるでしょうか -
すっかり客観的に、です。
欲望は、何でしょうか。
それの始まりは、何でしょうか。
それの終わりではありません。
それの起源、本源、
動きは、何でしょうか。
それに入りましょうか。
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私たちは、感受により生きます。
生物学的に、それは必要です。
さもないと、私たちは麻痺しています。
感受は、私たちの生において、 ものすごい役割を果たします - 性的にだけではない。
もっともっと多くの感受を欲しがること、得ること。
感受は、見ることの結果です。
どうか、少しの間、これに 付いてきてくださいますか。
見る、接触、感受。
ですね?
あれら丘が見える。
そして、「何と美しい」と言う。
それから、感動を得る。
それが感受です。
私は、美しい詩歌を読む。
そして、感受です。
または、すばらしい絵画を見る。
それもまた、
感受などです。
それは、自然なことです - 感受は。
ですね?
あなたは、樹々と、木の葉と、空を、見つめます。
そして、「何と美しい」と言います。
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私たちは、美しさは何かについて、話していません。
おそらく次の会合で、時間があるなら、話すでしょう。
ですが、私たちは、感受により生きます。
神経組織全体が、感受です。
欲望に対する、感受の関係は、何でしょうか。
質問は理解できますか。
なぜなら、私たちは欲望を探究しつつあるからです。
感受と欲望の間の関係は、何でしょうか。
なぜそれらはいつも、即座に関係するのでしょうか。
私は、これら樹々の下に、すてきな家で、 いつも生活できたらなあと、願います。
それから欲望です - 私は樹の下に、 すてきな住宅を持たなければならない、と。
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で、実際の事実は、何でしょうか -
感受と、欲望と呼ばれるものとの関係、
疎通は、何でしょうか。
いいですか?
間隔があるのでしょうか - どうか、聞いてください。
感受と、欲望の動きとの間に、
間隔が、隔たりが、あるのでしょうか。
それとも、
それらは即時でしょうか。
何かを見る。
それをつかむ - ほしければ、です。
で、私たちは、見出そうとしています - 分割があるのかどうか、
分離があるのかどうか、 間隔があるのかどうかを、です。
ですね?
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美しい庭園を見ることには、感受があります -
きちんと保たれている。
ここ五百年間、刈り取り、ローラーで均してきた芝生。
そういう芝生があるのです。
それを見る。
そして、 「神様、なんとすばらしいのか」、
「あの芝生には、何という深さ、 何という美しさか」と言う。
そして、自分の裏庭にそれを持てたらなあと、願う。
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で、見守ってください。どうか、 それを、感受を、ただ近くで
見守ってください。
あの芝生を見る -
豊かで厚く、深く根づいた芝生。
そのとき、感受。
そのとき、それを自分の庭に欲しい。
で、すなわち、欲望が生まれますが
- どうか、聞いてください -
思考が、感受を制御した瞬間、
または、かたどったその瞬間に、
欲望が生まれます。
付いてきていますか。
すなわち、その芝生を見る -
壁の裏に保護されている。
それを見る。
感受。
思考は、「私はあれを持てたらなあ」と言う。
その瞬間、欲望がそこにあるのです。
理解できますか。
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今、私たちは、訊ねています - 感受と、
思考がそれに形、イメージを与えるのと間に、 動き、間隔が
あるのでしょうか。
理解できますか。
すなわち、感受は自然です。
あの美しい芝生を見る。
あの地面、
あの芝生、
そのとき、思考が入ってきて、 「私はそれを持てたらな」と言う。
その瞬間に、欲望がある。
ですね?
それは、真理です。
で、私たちは訊ねています - これら二つは、 しばしの間、分離していられるでしょうか。
ウィンドウにシャツを見る。
行って、それに触れ、 「何と美しい素材なんだ」と言う。
そのままに置いておく - 私たちは そこに、置いておきません。
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私たちは、「私はそれを持てたらなあ」と言います。
そのとき、欲望が生まれます。
それで、間隔が保たれます。
隔たりが、しばしの間、分離しておけるのです。
そのとき、欲望の動きが、見えるでしょう -
それがどのように生ずるのかが、です。
そのときその空間は、無際限に伸ばせます。
または、とても狭く保てます。
私が言っていることを、理解できますか。
これを理解するとき、
修練、規律は、まったく必要でない -
制御や抑圧や戦いは、です。
これらを理解できますか。
言語的に、ではない。
あなたの心に、です。
そのとき、自然にそれをするでしょう。
何か美しいものが見えるとき、
それは美しいし、それはそこにある。
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あなたは、あれらの山々を、持てません。
または、あの美しい芝生も、です。
あなたは、それを見つめ、賞賛し、
「何とすてきだ」と言い、感じられるのです。
それには、大きな鋭敏さ、 気づきが、必要とされます -
それに対する深い注意の感覚が、です。
しかし私たちは、めったにそれを向けません -
お金のためや、楽しみのため、以外は、です。
これは、はるかに厳重です。
多大なきびしさを、必要とします。
「きびしさ(オステリティ)」という言葉は、 ギリシャ語から、来ます。
それは、「渇いた口」という意味です。
それから、それが翻訳された等です - 「きびしい」
わずかな衣服、一日一食、それらのことです。
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しかし、きびしさは、何かものすごいことです。
些細なことではありません。
感受と欲望のこの動きに対して、
注意深いこと。
そして、私たちが話を してきたことすべてに対して、です。
それを、よく気をつけて見守る。
自分のあらゆる思考を見る。
それがなぜ生じたか、何がその原因なのかを
理解せずに、やり過ごさない。
それが本当のきびしさです。
僧院に加わることと、その種すべてのことではない。
きびしさは、私たちの日々の生にあるのです。
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で、私たちはこれらについて、話してきました。
火曜日と木曜日は、質問でしょう。
次の土曜日と日曜日、私たちは 他のことについて、話をするでしょう -
楽しみ、
悲しみ、痛み、
そして、さびしさの意味合いすべて、
時間があるなら、死について、
そして、宗教は何か、宗教的精神は何か、
思考が全く触れたことがないものが、何かあるのか。
無限のもの、無量のもの、
名のないもの、です。
それは、お出でくださいとの招待ではありません。
それは、私たちの生の一部です。
すべての買う、買う、買う、そして売ること、
人生の毎日、オフィスへ行くこと、
葛藤、それらすべてではないのです。
単に信仰、象徴とそれらによって 生きるだけではなく、これを見出すには、
自らのエネルギーをもまた、注がなければなりません。
で、おそらく明後日か、次の土曜日
と日曜日に、お目にかかるでしょう。
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