SA81Q2 - 第2回質疑応答会合 home
第2回質疑応答会合
スイス、サーネン
1981年7月30日

0:12 私たちは、通常の服を 着ていますか。 または他の人たちが 異常な服を着ていますか。
0:37 またもや、多くの問いがあります。 毎日、それらが積み上がっています。 私たちは、それらすべての質問に とうてい答えられません。 それはたぶん、二ヶ月が 掛かるでしょうが、 きっとあなたたちは、ここに座って いたくないでしょうし、私もです - これらの問いに答えて、 二ヶ月間、そうしたくないのです。
1:06 昨日私たちが言いましたように、 答えは、重要ではありません。 問いが、重要です。 私たちはそれらの質問を、真剣にするのか、 浮ついてか、気軽にするのか、です。 もし質問が 真剣にされるなら - 自らの精神と自らの心を本当に 動揺させている問題、ですが - そのときそれらの問いは 答える甲斐が、あります - または、それらの問いを 探究する甲斐が、です。 で、どうぞ、私たちは質問を 幾つか、選んでおきました。 私たちが好きか、嫌いかに 応じて、ではなく、 一般的に議論し、 入る甲斐が あるかもしれないものを、です。 これらの問いを読む中で、 私たちはともに検討しています - 問いを、だけではなく、それらの 問いから出てきたことを、 そして、それが私たちの日々の生に、影響 するのかどうかをも(検討するの)です。 それが、大事なことです。
2:58 問い1: 「私は、大切に 愛している息子を、持っています。 私は、世界が彼を腐敗 させるのを、防止できますか。 私はどうやって彼に 正しい教育を与えられますか。」 この問いにあなたたちが、興味を 持たれることを、望みます。
3:15 「私は、大切に愛している息子を、持っています。 私は、世界が彼を腐敗させるのを 防止できますか。 私はどうやって、彼に 正しい教育を与えられますか。」
3:43 彼らは、発見しつつあります - 科学者と、 赤ちゃんと子どもに関心を 持っている人たち、ですが、 赤ちゃんはきわめて鋭敏であり、学び、 見守っている、ということを、です。 彼らは、いつ母親が 他の人たちから好かれているか、 嫌われているかを、知るか、 悟るか、感知できるのです。 これらは、すっかりテストされつつ あります。 特にアメリカにおいて、です。 その男の子や女の子が 生まれた瞬間から、 親たちはすでに、その子を 条件づけつつあります。 親たち、彼らの親戚、 その子のまわりの人々が、すでに その子の精神、頭脳を 形作りつつあります。 それで、その子が 生まれた瞬間から、 条件づけが起きます。 5:09 その子が年を取るにつれて、 この条件づけが、強められます - その子が生きる社会により、 親により、他の少年少女 などによって、です。 そして、学校、専門校、 大学において - 彼らが運良く大学へ 行けるほどなら、です - 学問的に条件づけは 進んでいきます。 知識が、とてつもなく 重要になったのです - 巧みに行為するため、日々の生で 良い生計を立てるために、です。 親、教育者のほとんどは、 自分たちの子ども、 学生、大卒者などが 学問的に 良い成績で 合格することに、 関心を 持っています。 彼らは - 親も、教育者も - 全的に、学生の 心理的世界全体を 無視します。 6:37 で、私たちは、正しい教育は 何であるかを、訊ねるとき、 それは、ただ学問的に、 良い頭脳を持つこと、 私たちの生きるところの 世界(を知り)、 テクノロジーの発達全体を 知ること、それについて 巧みに学びつくすだけではない - それでその子が、良い職などを 持てるように、です。 親たちは、その子が早く 結婚し、落ち着くことに 関心を持っています - それは職です。 妻をもち、 余生の間、ねじを 締めつけられるのです。 それが、親たちが 関心を持っていることです。
7:36 そして社会は、その子が良い市民 であり、多かれ少なかれ物事を あるがままに受け入れるべき ことに、関心を持っています - 宗教的にも、政治的にも、 経済的にも(あるがままに)、そして 現状が留まるべきことに(関心を)、 です。 政治的に右側の保守主義者は 保全したいだけです。 自由主義者と労働党、左は、 物事を変化させたいのです。 で、闘いが、政党の間で 進んでいます。 かわいそうな子どもは、 この混沌の世界で育ってきて、 何をするのか、何を 考えるのかを、よく知らないし、 まったく容易に 何かへ滑り込みます。 それは、家族、職を持つことと、 余生の間、 五、六十年の間、オフィスへ 行きつづけ、行き来する。 8:52 これが、私たちが教育と呼ぶものです。 これが、世界で実際に 起きつつあることです - アメリカでも、ここでも、 インドやアジアでも、です。 見たところ、 世界中の人間の大多数は、 あるがままの物事に、満足して いるように、思われます。 または、 不満足でいるようです。 なぜなら、 あなたはお金を持っていないし、 あなたは、もっと良い地位、もっと 大きな権力、金銭が欲しいからです。 あなたが金銭、権力、地位を得る とき、世界はまったく安心です - テロリストはいるけれども、です - 彼らの役割は、恐怖させることです。
9:45 さて、正しい教育とは、何ですか。 その子が成長するにつれて、 その子のまわり、学生のまわりで これらが 進んでいくのを、知って、 母親と父親は、彼ら自身に、 (関心を持ち)、自身の経歴に、 自身の野心に、 自身の分離した成功に 関心を 持っているのですが、 では、その子はどこで これらに入ってきますか。 明白に、アジアでのように、 自らが見守ってきたなら、 赤ちゃんは、母親により 親しく抱かれます。 10:33 彼らは、乳児院も、病院での 子ども用蓄電池も、持っていません。 彼らはきわめて、きわめて貧しくて、 子どもたちは、母親と 留まらなくてはいけません。 社会保障はありません。 ゆえに、彼らはもっと多く 子どもを、持たなければなりません。 彼らが年老いたとき、生計を立てるために もっと多くの子どもが、必要です。 なぜなら、東洋には 社会保障がないからです。 で、様式が、何度も何度も 何度も、反復されます。
11:16 さて、質問者は訊ねます - 親は子どもを愛しているのかどうかと、 正しい教育とは何ですか。 あなたはとうてい子どもを家に留めて、 教育することはできません。 なぜなら、その子は 他の子たちに会うだろうし、 集団本能はとても強くて、 あなたをものともせず、 彼らは、その子を 条件づけるであろうからです。 あなたは話し、促し、 すべての条件づけ、不条理、 残酷さを指摘するかも しれませんが、観察してみると、 仲間たち、集団、他の子たちの 精神のほうが、あなたの特定の子へ はるかに大きな影響力を、 持っています。 いいですか?  これらはすべて事実です。 自らがこれらに、気づいているなら - 戦争、残忍性、 学問的に知識を 取得することへの強調、 一人一人が、快適であり、自分に 何か保証を与えてくれるで あろう職を、見つけたいことに、です。 そして、その過程全体が 現代の教育です。
13:02 これらについてはきっと ご存じだと、思います。 もしあなたが、世界を 見つめてきたなら、 あなたが、自分の子どもを、 何が起きつつあるかを、 見つめてきたなら、 これが、現代社会の 様式、枠組みです。 それが正しい教育ですか。 それは、学問的知識、 テクノロジー的知識を強調し、 養成することです - どうやって技術者、心理学者、 医師などであるかを、です。 そして、そこで終わります。 または、人間存在の 全体の養成です - 学問的な面だけではなく、 また、心理的世界の深さを 理解することも、です。 これを、学校ですることは 可能ですか - どちらも、です。 学業へ 注意するだけではなく、 また学生を助けます - 彼の心理的本性全体、 葛藤、混乱、 恐れ、心配を理解する ように(助けるの)です。 14:51 そして、男の子であるなら、 彼は軍隊へ入ります - 特にヨーロッパでは、です。 アメリカやイングランドで、ではない。 二年の間、殺すために訓練し、 戦争の準備をします。 そして親たちは、「私は我が子を 大切に愛している」と言います。 すなわち、あなたはその子が すぐに殺し、殺されるように 準備しつつあります。 これが現代の文明です。 彼らは、美しさ、愛、 神について、話します。 そして、社会の(上下の) 位階的な構造、 すべてが、戦争の準備をしています。 これが、五千、一万年の間、 進んできました。 そして、私たち、通常の市民は これらを受け入れます。 そして私たちは、「私たちは 何ができるのか」と言います。 怪物のような構造全体が 戦争を目指しているとき、 自分や一団の人々は 何ができますか。 16:45 たぶんあなたは、何もできません - これに気づくことしか、です。 戦争は、民族的、国家的分割、 人種的分割、経済的分割、 共同体的分割、 理想、信念などがもたらした 分割により、 引き起こされることに 気づくことしか、です。 このすべてに気づくことです。 そして、自らが気づくなら、 まさにその気づきこそが、それ自体の 行為をもたらしつつあります。 それは、あなたが何かをしなくては いけない、政党に加わるとか、 あれやこれ、という ことではない - もし自らが 本当に深く関心を持つなら、 自らが本当に自分の子どもを 愛しているなら、です、 しかし、残念ながら、それは 可能ではないと、思います。 なぜなら、世界のほとんどの親は きわめて利己的であるからです。 彼らは、自分自身を充足したいのです。 そうね、それらが 起きつつあります。 18:17 女は外へ出て、お金を 稼がなくてはいけません。 なぜなら、彼女は、 もっと良いカーペット、 もっと良い冷蔵庫や、 何であっても、欲しいし、 夫は、成功の階段を 登りたいからです。 で、彼らは、彼ら自身に 没入しています。 子どもは、彼らの生において ほとんど役割を、持っていません。 で、教育者たちが、彼らを引き受けるし、 欲望された様式へ 彼らを条件づけます。
19:02 しかし、これらに気づいていて - 知的に、ではなく、 深く自分の心において、 自分の感情において、です。 もし本当に自分の子どもを 愛しているなら、 その子を教育することや、学校を持つことは、 可能ですか - そこでその子が、学問的にだけではなく、 はるかに心理的に(教育される)、 自らの全存在を 理解するよう、 自分の問題から自由であるよう、 諸問題に向き合い、来る日も来る日もそれらを 運びつづけないで、 終わらせるよう、 教育されるところの学校を (持つの)です。 で、それは、これらを理解する 教育者たちを、要求します - 世界が何であるか、 社会が何になったか、 文化が何であるかを理解する 教育者を(要求するの)です。 その文化は、私たちはみんなきわめて 誇っているが、まったく 破壊的になってしまったのです。 そして、善い人間をもたらす 自らのまったくの全的責任を 悟る教育者を (要求するの)です。 20:52 私たちは、「善い」という言葉を 全包括的、という意味で使っています - 全体的な人間です。 分割された、砕かれた 人間ではない。 断片化し、 ゆえに永続的に自分自身と 葛藤(状態)にあるのではない。 それは、これらを理解する 教師を、要求します。 しかし、不幸にも 世界中で 教師たちは 最も尊敬されていなくて、 最も給料が安いのです。 教師は、世界で 最も重要な人々です。 なぜなら、彼らは、新しい世代の 人々を、もたらしつつあるからです。 ゆえに彼らは、尊敬され、 いい給料をもらい、 面倒を見られなければなりません。 昔のアジア世界でのように、です。 そこで教師は、社会の中で 最も重要な人物でした。 22:04 そういう教師たちは、おそらく存在しています - 私たちが連係している学校の 幾つかにおいては、です。 しかし、それはものすごい任務です。 なぜなら、親たちは、何か全体的な ものを、欲しくないからです。 社会はそれを欲しくないのです。 で、本当に教育に関心を 持っている人たちが - しかも、正しい種類の教育に(関心を) です。もし彼らが集まれて、 自分たちの資源を これに注げるなら、です。
22:45 集団討論会で親の一人は こう言いました - 「なぜ私は、自分の子どものために私自身を 犠牲にし、自分の飲酒、マリファナ、 薬物を使うのを、諦めるべきですか」と。 理解されますか。 で、彼らは、関心を持っていません。 それで私たちは、自分たちが生きるところの このひどい社会を、永続化させます。
23:19 で、正しい教育は、 頭脳の全体の養成です。 その一部分、ではない。 その頭脳の全体の養成が 訪れるとき、 そこに葛藤のない全包括的な 行為が、あります。 そういう人間は、善い 慈悲深い人間です。 それは、あなたたち次第です - あなたたちが そういう学校を欲しいなら、です。
24:02 問い2: 「もし個々人がないのなら、 どうして個人の努力が・・・」 「もし個々人がないのなら、 どうして個人の努力は、 真剣で、注意深く、 鋭敏であるように できますか。 ここにおいて、自らの 行為への個人の責任は、 どこにありますか。」
24:55 私たちは、すでにある雑音へ さらに雑音を加えています。
25:09 「もし個々人がないのなら、 どうして個人の努力は、 真剣で、注意深く、 鋭敏であるように できますか。 ここにおいて、自らの 行為への個人の責任は、 どこにありますか。」 あなたたちが、問いを 理解されたことを、望みます。
25:33 個人が何であるか、きわめて 明らかにしましょう。 もしそういう個人があるのなら、 そしてもし、個人性といった ものがないのなら、 そのとき、そのいわゆる個人は 何をすることになりますか。 それが問いです。 すなわち、正しい行為、 真剣さ、 深い関心と 責任。 それが問いです。 私たちはみんな、自分たちが みんな分離した個々人 であることを、受け入れます - 西洋においても、 東洋においても、です。 これが伝統です。 これが、私たちが子ども時代から 受け入れるよう、教育されてきたものです。 またそれは、宗教により、きわめてよく、 よく気をつけて養成されています。 たぶん無意識的ですが、 それは、宗教により、教育者により、 女と男と子どもにより 養成されています。 27:04 これが、私たちが 受け入れてきた様式です。 今、私たちは訊ねています - いわゆる個人が機能する ところのその様式は、 その個人は、現実的ですか。 または、彼は自分が 個人であると、考えますか。 現実と、「私は個人 である」と言う思考。 違いは見えますか。 私たちはそれについて明らかですか。 現実と、 現実を創り出す 思考 - (現実)それを思考は、実在すると考えます。 これらの二つの点を理解 されましたか。いいですか?

聴衆: はい。
27:56 K: さて、私たちは個々人ですか。
27:59 客観的でありましょう - 情動的ではなく、 ロマンチック、感傷的ではなくて、です。 私たちは個々人ですか。 または私たちは、 何千年に何千年に何千年もの 集合体の結果、 時をとおして進化してきた 頭脳の結果ですか。 - (頭脳)それは、無数の 経験を集めてきて、 多くの戦争に向き合い、苦しみ、 心配で、不確実であったのです。 もしあなたが、自分は個人であると言い、 それがあなたに起きつつあるなら、 それは、世界中のあらゆる 個人に、起きてきたのです。 ですね? あらゆる人間に、です - 彼が圧政のもと、(ソビエト・ ) ロシアに生きていても、 彼が、いわゆる民主主義世界に 生きていても、 または、かなり無秩序な東洋の 世界に生きていても、です。 29:21 幸運にもそれは、幾らか 無秩序で、非効率的です。 幸運にも、です。 なぜなら、あなたたちはきわめて効率的で、 きわめて秩序正しくなった瞬間、 溝へ落ち込むし、 そこに留まるからです。 それは、私たちが非効率を提唱して いる、という意味ではありません。 私たちは個々人ですか。 または、私たちの意識全体は、 「私は個人である」と 言うのです。 私たちの意識全体は 個であると、私たちは考えますが、 その意識は、あなたより、または 他の一人より分離していますか。 理解されますか。 あなたは、個人としてこう言います - 自分の意識は他のものより 分離している、と。 そのとおりですか。 私たちは問うています。私たちは、そうで ある、そうでないと、言っていません。 そのとおりですか。 30:39 または、あなたの意識は同様です。 修正されているが、 世界のあらゆる人間の 意識と同様です。 彼は苦しみます。 ひどい時を過ごします。 苦悶します。 貧困、 極貧などなど、 あなたにそっくりです。 私たちはこれに気づいていますか。 それは事実です。 あなたはそれを、好きでないかもしれません。 あなたは、「私は 自分の個人性が好みだ。 私は、他の誰かより違った性格を 持っている」と言うかもしれません。 性格は、あなたの条件づけ などなどにより、形作られます。 インドでも彼らは、まったく 同じことを言います。 「私は違っている。 なぜなら、 私の名前は違っている(から)、 私の形態は違っている、 私の特徴は違っている、 私は一定の傾向、あれ、これ、 他を持っている(から)、 私は一定の階級の人々に 所属しているから」と。 31:57 個人性を維持するための 彼らの理性的説明全体です。 しかし、あなたがよく気をつけて 辛抱強くそれを見つめ、 実際に何が進んでいるかを 観察するとき、 人間の意識は同様です。 外的には、彼らのいろいろな 文化により、修正されています。 いわば、 意識の表皮では、ですが、 内的には、 同じ潮流です。 それは、あらゆる人間が拠って立つ ところの共通の地盤です。
32:49 これは、論理的で、 客観的で、健全です。 で、あなたは、個人ではありません。 それは、受け入れることが きわめて困難です。 それは、カトリックやプロテスタントや 仏教徒などとして 育てられるのに、似ています。 彼らが見ることは、きわめて 困難です - すなわち、 宗教は思考により創案され、 組み立てられてきたこと、 あなたはコンピューターのようにプログラム されてきたし、あなたは反復することを、です。 それは、指摘することと 深く受け入れることが、きわめて困難です - すなわち、すべての宗教は 思考により組み立てられているし、 思考はけっして神聖ではないことを、です。 思考がいかなる象徴、 絵画、イメージ、 像を創り出してきても、それら象徴は けっして神聖ではありません。 なぜなら、思考自体が、きわめて 小さな事柄であるからです。 ですね? で、同様に、私たちは、 自分たちが個々人ではないことを 受け入れることは、きわめて困難です。
34:14 もしあなたが、 個人でないのなら、 はるかに真剣であり、 人類の全体に はるかに関心を持つことは 可能ではないですか - (人類全体)そこから、あなたはあるのです。 その人類の全体性の感じから 正しい行為が、来ます。 あなたが、 残りの人類である人間として、 自分の行為へまったく全的に 責任を感じるとき、 その感じの中から、 正しい振るまいが、出てきます。 それは、個人の振るまいではありません。 あなたは人類の全体であるとの この感じが、あるとき - 知的に、ではなく、 あなたの心に、あなたの存在の深みに その感じが、です - そのときあなたは、どうして他の一人を殺せますか。 さあ、どうぞ。 35:39 そのときあなたは、どうして 自己中心的でありえますか。 もしあなたが個人であるのなら - それは、語り手が関係する かぎり、幻影です - そのときあなたは、分離し断片化し 砕けた人間として、行為します。 その断片化の中から あなたは、行為します。 ゆえに、もっと多くの 葛藤を生み育てます。 これが、起きつつあることです。 世界で彼らが政治的に何を しているかを、見てください。 後生ですから、これらを見てください。 各国が 自国に関心を持っていて、 他の国々と競争しています。 それが、政治家たちの職です - これを維持することが、です。 なぜなら、さもないと、彼らは 自らの職を失うだろうからです。
36:56 で、それは、あなたが 人類の全体へ まったく全的に 責任を感じるときだけです。 その感じの中に、愛があるのです。 そして、愛があるとき、 あなたは、他の人間を破壊する ことを、一つもしないでしょう。 それが、正しい行為、正しい 振るまい、正しい考えです。
37:39 問い3: 「私たちは、どう気づきを 維持するかを訊ねることが、間違った 問いであることを、知っています。 気づきは 瞬間、瞬間であるからです。 しかし、気づきの能力は 発達し、 持久性がますます 強くなりますか。 そしてこれが、あなたが智恵の目覚めと いうことで、いわれる意味ですか。 そうであるなら、これは 過程を含蓄していませんか。」
38:28 「私たちは、どう気づきを維持するかを 訊ねることが、間違った問いで あることを、知っています。」 - では、出さないでください - 「気づきは 瞬間、瞬間であるからです。 しかし、気づきの能力は 発達し、 持久性がますます 強くなりますか。 そしてこれが、あなたが智恵の目覚めと いうことで、いわれる意味ですか。 そうであるなら、これは 過程を含蓄していませんか。」 ああ、神様。
39:07 暑いですね。 まず第一に、私たちがいう気づきとは どういう意味かを、理解しましょう。 それを錯綜させないでください。 後生ですから、 それを単純に保ちましょう。 気づきとは、どういう意味ですか。 あなたがどこにいるかに、気づいている - この瞬間に、あなたがそこに 座っているところに、です。 テントに気づいている - テントの形に、 テントを支える 様々な区分に、です。 テントの均整を 見る。 そして全般的に、テントの まわりにある環境、 山々、丘々、 緑の牧場、 せせらぎと 青空です - もし青空があるなら、です。 外的に、そのすべてに 気づいていること。 また、隣に座っている人物にも、 気づいていること、 衣服、色、 彼の顔の様子などに、です。 40:44 このすべては、一瞥で 観察できます。 いいですね? このすべてに気づいている。 質問者は、気づきは瞬間、瞬間 であると、言います。 そのとおりですか。 または語り手は、それを 言ったとされています。 そのとおりですか。 なぜいつの時も 気づいているべきですか。 質問を理解されますか。 それが、含蓄されていることです。 持久性、長続きすることです。 なぜそれは、長続きすべきですか。 なぜなら、あなたはこう感じる からですか - その注意の状態は 気づきの一部であり、 一定のエネルギーの性質、 喜びの感覚、 境界なく感じる感覚を あなたにもたしてくれる 状態です。 理解されますか。 そういうわけで、 あなたは気づきを維持したい、 扶養したい、養成したいのですか。
42:14 そのとき、それがあなたの動機であるなら、 すなわち、あなたが自分の気づきを 維持したい、それを扶養したい、 それを強化したい、それを 可能なだけ、長続きさせたいのなら、 その裏には、動機があります。 ゆえにそのとき、気づきは 選択の事柄になります。 理解されますか。 もし私が、気づくための動機を持っているなら、 そのとき私は、気づくための 正しい瞬間を、選択します。 または私は、この気づきを 持久させたいと願望します。 しかし、それは気づきですか。 もし私が、テントの形が好きだ、 その形が好きでないから、 見つめるなら - 私は、もっと涼しかったらと願います。 私は、あれやこれを願います - そのとき私は、気づいていません。 現実の事実を観察していて、です。 で、気づきは、何か 養成可能ではないものです。 あなたは観察するのか、 あるいは、観察しないのです。
43:38 かつて語り手は、ロンドンで バスを待って、長い列に 立っていました。 山高帽子、シャポー・ ムロンを被った男が 歩いて、長い列を通り過ぎ、 先頭に入りました。 彼の隣の人が、 彼の頭から帽子を取って 後ろへ渡しました。 その男は、戻らなくてはいけませんでした。 しかし、その男は気づいていたなら、 そうしなかったでしょう。 しかし、私たちのほとんどは、自分の 問題に、関心を持っています。 私たち自身の・・・そうね。 私たちが何世代にもわたって 収集してきた泥のすべて、ですが、 私たちはそれに、関心を持っています。 44:49 智恵は、何か全然 違ったものです。 それは、(英語の)本の題名です - 『智恵の目覚め』は、ですが、 智恵は、ゆっくりと目覚め させられることになりますか。 それは過程ですか。 さて、過程は時を含意しています。 いいですね? 私は眠っています。 私は次第に目覚めます。 それは、即時に目覚めることで あるかもしれません - それは、何分の一秒かの 間隔があるかもしれません。 それは、時です。 またはそれは、長い時が掛かるかもしれません。 過程は、時を含蓄しています。
45:42 それが一つのことです。 智恵は何ですか。 あなたが、「彼は智恵のある人だ」 と言うとき、 あなたがいうそれは、どういう意味ですか。 智恵(インテリジェンス)は、 辞書の意味によれば、 行間を読む - どうぞ、聞いてください - 言葉の間を読む能力を、 持つことです。 またそれは、情報を集めることをも 意味しています - 観察することにより、 学ぶことにより、見守ることにより、 まわりの情報を(集めるの)です - そして、その情報に応じて 行為すること、 行間を読むことです。 そのすべてが、智恵に含蓄されています。 思考が作動している、 という意味で、です。 46:41 - すなわち、思考が 行間を、言葉の間の意味を 読んでいる。 隠れた意味を、です。 また思考は、情報を 集めています - 見守る、見る、聞く、 視覚的に読むことなどにより、 それは集めています。 その集める中から 行間を読み、行為することが、 いわゆる智恵(インテリジェンス)です。 すなわち、とても利巧であること、 聡いこと、 意見について議論すること、 あなたの意見に取りすがること、等々です。 そのすべてが、一般的に 智恵と呼ばれます。いいですか? 47:39 私たちは、語り手は、それを問うています - それが智恵であるのか、 または、智恵は、何か 全然違ったものです。 私たちはともに、ここにいますか。 語り手は、何をも 定めていません。 彼は、教義的(独断的)になっていません。 ともに、私たちは探究しています。 私たちは、ちょうど今叙述してきた ような智恵を、受け入れてきました。 また私たちは、アジアへ行ってしまい、 誰かしらから冥想することは 智恵であると、言います。 よろしいですか。 これらすべての様式は、何度も 何度も反復されてきました。 私たちはそれを、智恵と呼びます。
48:26 今、私たちは訊ねています - 智恵の深さは何ですか。 深さが、です。 それは、とても表面的です。 情報を集める、 行間を読む、 見守る、学ぶ、 その思考の智恵を 養成する。 それは、人類すべてに共通しています。 私たちは、その智恵は本当に 人類を破壊しつつあると、言います。 なぜなら、それは競争的であるから、 それは、個人的な智恵へ 還元されてきたからです。 それは、アインシュタイン、あれや これへ還元されてきたのです。 で、思考の産物である (智恵)、 競争的、攻撃的になった智恵、 ですが、 で、それは次第に、人間を 破壊しつつあるのです。 私たちは、それは智恵では ないと、言っています。 智恵の別の性質が あるにちがいありません。
49:51 今、私たちはともに、 智恵のあの性質を 探究しようと しています。 あなたは、聞くこと、探究することにより、 その智恵を得ようとしているわけではない。 自らが、辛抱強くそれを探究する 能力を、持っているなら、 その探究こそが あの智恵です。 これを理解されましたか。 理解されなかったのが、分かります。 ああ、私は、これらすべての 忌々しい説明に、くたびれています。
50:39 私たちは、人類がそれを智恵として 受け入れてきたと、言います。 私たちはそれについて議論していません。 私たちは、その危険な本性を 指摘しています。 今、私たちは 探究しはじめています - 智恵のまさに根が 何であるのか、 その深さ、 そのとてつもない活力、 あの智恵に関与している ものすごいエネルギーを、です。 その智恵には、 愛、慈悲があります。 私たちは、それを探究しています。 さて、探究するには、 精神、頭脳は、自らの縛り紐から 自由でなければなりません - 自らの先入観から、 自らの結論から、自らの制限された 狭い伝統から(自由)、です。 すべての伝統は、狭いのです。 51:50 で、精神の深さと性質が 何であるかを 探究しはじめる 頭脳、 慈悲深い頭脳 - 愛です - 探究する、それに透徹するには - 探究より、むしろ透徹です。 透徹は、完全に自由である 頭脳を、持つことです。 さもないと、それは 透徹できません。 明白です。 私は、自分の信念へ縛られ、 自分の家族へ繋がれ、 結論へ繋がれているなら、 頭脳は制限されています。 それは、きわめて狭く 制限された形で、機能します。 ところが、頭脳は 自らの繋留から、自らの執着から 自由であるなら、そのとき それは透徹できます。 なぜなら、自由である精神が 透徹できるだけだからです。 ですね? 明白です。 52:59 自由であるその頭脳は、すでに 智恵を持っています。 その智恵は 養成できません。 自由の真理こそが 智恵です。 なぜなら、愛は嫉妬ではなく、 愛は憎しみを持っていないからです。 愛は、一つの集団や一つの家族に 所属していません。 愛です。 慈悲は、誰かへの 個人的な慈悲ではありません。 それは、互いに伴う 愛と慈悲と智恵です。 そこから、正しい行為が 来ます。
54:02 さて、自らは本当に理解したなら - 知的に、ではなく、 あなたの心の心において、です - そのときあなたは、智恵があります。
54:18 問い4: 「私は研究し、 アジアへ行ってきて、 そこの人々と議論してきました。 私は、諸宗教の表面性を越えて、 私が自分の骨身に沁みる何かに、 透徹しようとしてきました - 私は論理的な人であるけれども、 何か深遠に神秘的で 神聖なものに、です。 けれども、私はそれを 捕捉するように思われません。 私を助けてもらえますか。」 「私は研究し、アジアへ行ってきて、
54:50 そこの人々と 議論してきました。」 - それはすべて、あなたが誰と 議論したのかに、依存します - 「私は、諸宗教の表面性を越えて、 自分の骨身に 沁みる何かに、 透徹しようとしてきました - 私は論理的な人であるけれども、 何か深遠に神秘的で 神聖なものに、です。 けれども、私はそれを 捕捉するように思われません。 私を助けてもらえますか。 」 私たちは、この問いを 進められますか。 疲れておられませんか。
55:43 なぜあなたがそもそもアジアへ行かれるの かと、思われます - 商売以外で、です。 おそらく、宗教的な目的のために そこへ行く人々もまた、 商売をしています。 あなたは私に何かを与えてくれる。 私はあなたに何かを与えよう、と。 自らは問うのです - なぜそもそも東洋へ行きますか。 真理はそこにあり、ここにないのですか。 真理は、人々をとおして 見つけられることになりますか - 導師をとおし、 道をとおし、 体系をとおし、 預言者をとおし、 救い主をとおして、ですか。 または真理は、道を持っていませんか。 インドには すばらしい物語が、あります。 真理を探求して家を 出る少年の(物語)です。 彼は、様々な教師へ行きます - あの国の 様々な地方へ、 果てしなく歩いて、です。 あらゆる教師が、何らかの ことを、主張します。 57:23 長年の後、 老人になって、 彼は、自宅へ戻ってきます。 探求し、探求し、 探求した後で、です。 訊ね、冥想し、 一定の姿勢を取り、 正しく呼吸し、 断食、禁欲、それらの後で、です その時の終わりに、彼は 自分の古い家へ、戻ってきます。 彼が扉を開けると、 そこにあります。 真理は、ちょうどそこにあります。 理解されますか。 あなたは、こう言うかもしれません - もしも彼が、至る所を さすらってこなかったなら、 それはそこになかっただろう、と。 それは、ずる賢い発言です。 しかし、あなたは、あの物語の 美しさを、見失います - もしあなたが、真理は探し求められる べきではないことを、見ないなら、です。 58:31 真理は、何か到達されるもの、 経験されるもの、 保たれるものではありません。 見られる人たちにとって、 それはそこにあります。 が、私たちのほとんどは、 果てしなく探し求めていて、 一つの流行(’はやり)から、 別の流行へ 一つの興奮から別の興奮へ 動いて、 犠牲にする。 そうね、 進んでいく不条理すべてです。 私たちは、これへ行くのを時が 助けてくれるだろうと、考えます。 時は助けてくれないでしょう。
59:18 で、問いは、こうです - 私は論理的な人です。 何か深遠に神秘的な、神聖なものが 存在すると、私は感じます。 私はそれを捕捉できません。 私はそれを理解できます。 私は論理的にそれが見えますが、 私は、自分の心に、自分の精神に、 自分の眼に、自分の微笑みに、 それを持てません。 質問者は、「助けてくれ」と言います。 何かを指摘してもいいなら、 誰からも助けを求めないでください。 なぜなら、人の歴史全体が あなたにあるからです - 苦労全体、神秘が(あるの)です。 1:00:37 - もし神秘があるなら、です - 人が格闘し、探し求め、見つけ、 拒否してきた物事すべて、幻影。 そのすべてが、あなたの 意識の一部です。 あなたが助けを求めているとき - 冷笑的にでなく、大変尊敬を込めて、 これを指摘するなら、 許してください - あなたは、助けを求めるなら、 外側から、他の一人から 何かを求めています。 あなたは、相手がその真理の性質を 持っているのを、どうして知りますか。 あなたがそれを持っているのなければ、 彼がそれを持っているのか、 いないのかを、けっして知らないでしょう。
1:01:27 で、第一のことは - どうぞ、 私はこれを、大きな慈しみ、 気づかいでもって、言っています。 どうぞ、助けを求めないでください。 そのとき、あなたがそうするなら、 司祭者、導師、解釈者 - 彼らのみんなが、あなたに注ぐし、 あなたは押しつぶされます。 ところが、あなたが問題を 見つめるなら、 問題はこうです - 幾時代をとおして人は、何か 神聖なものを、探し求めてきました - 何か、時により、緩やかな時により、 思考の苦労すべてにより 腐敗していないものを、 です。 人はそれを探し求め、 それにあこがれ、犠牲を払い、 物理的に自分自身を拷問にかけ、 何週間も断食してきましたが、 人はそれを見つけなかったのです。 で、誰かがやってきて、「私が示してあげよう。 私が助けてあげよう」と言います。 1:02:50 そのときあなたは、迷っています。 ところが、あなたが、何か神聖なものが あるのか、と言うなら、です。 神秘は、それが神秘的である から、存在するだけです。 が、あなたがそれを暴くなら、 それはもはや神秘ではありません。 真理は神秘ではありません。 それは、神秘の概念すべてを はるかに越えた何かです。
1:03:40 で、それは、人にとって可能ですか - どうぞ、初めに問いを聞いてください - 東洋と西洋の 宗教の 様々な様相を、大変多く 研究してきた(人)、 大変多くの知識を、 科学的世界においても 蓄積してきて、 左と右、マルクス等々・ ・・ それらを読んだ人。 それを読んできた人々が たくさんいるし、 彼らの頭脳は混雑しています。 私たちは、或る作家を よくよく知っていました。 彼は私へ、よく言ったものです - 「私は、すべてのアジアの宗教的思想、 キリスト教の思想を 知っています。 (例えば)『無知の雲』、 ヨーロッパの様々な神秘主義者を、です。 それで、私の頭脳は、他の 人々の知識で満ちていますが、 私は、何か全的に本源的なものを いったい経験できますか」と。 1:05:03 理解されますか。 そういう人間の叫びです。 必死に何かを欲しがっている そういう人間の叫びです - 欲しがっているのではない - 何かを見る - 「これは十分ではない」と。 そのとき彼らは、何をしますか。 彼らは、薬物をやりはじめます。 あの本源的な何かを 経験したいと望んで、です。 あの本源性を産出しようと しているのは、 化学薬品ではありません。
1:06:03 で、自らは何をすることになりますか。 私は何をすることになりますか。 私は訊ねています - あたかも外部者として、私は 訊ねています - 私は何をすることになりますか。 私は真剣な人であるのを知って、です。 私はユーモアを持っています。 私は笑えます。私は涙を流せます。 が、私は真剣な人です。 私は、宗教の様相すべてを 表面的に探究してきたし、 私はそれらの表面性を 認識します。 ゆえに私は、それらを 捨て去ったのです - 導師たち、教会、寺院、 神殿、モスク(の表面性)、 世界の説教師すべての 表面性でも、です。 なぜなら、もし私は、 宗教的な様相の、 表面性の一つの実状を 見るなら、 私は、その全部を 見たからです。 1:07:22 で、私はそれらすべてを 経ていかなくていい。 で、私は何をすることになりますか。 何かされることが、ありますか。 誰が、する者ですか。 されつつあるのは 何ですか。 どうぞ、これらに一歩一歩、付いてきて ください - それに興味があるなら、です。 もしあなたが、自分の表面性 すべてを取り除けるのなら - あなたの花輪、画像での(表面性)、 そうね、それらの戯言を、です - もしあなたが、そのすべてを 取り除け、一人で立てるなら - なぜなら、一人でなくてはいけないからです。 一人(アローン)という言葉は全く一つという意味です。 孤独と、全く一つは 別々のことです。 孤独は、さびしさの性質を 含んでいます。 あなたは林を一人、歩いて、 一人でいられます。 またはあなたは、林を歩いて、 自分は孤独であると感じられます。 1:08:48 その感じは、 あなたが 一人であるとの感じより、 全然違っています。 さて、私は何をすることになりますか。 私は冥想してきました。 私は、いろいろな体系に従って きました - わずかに、です。 そして私は、それらの 表面性を認識します。 もし気にされないなら、私は物語を もう一つ、お話しなければなりません。 私たちは、ボンベイで話していました。
1:09:29 膨大な群衆、などです。 翌日、或る人が私に会いに来ました。 語り手に会いに、です。 彼は老人で、 白い髪と、白い髭でした。 彼は私に、次の物語を話しました。 彼は、インドの重要な 裁判官の一人でした。 法律家、判事で、 高い位にあり、 家族、子どもがあり、 尊敬された、それらのことでした。 ある朝、彼は 自分自身に言いました。 「私は他の人たちに対して、判決を下す - 犯罪者、詐欺師、強盗犯、 企業の強盗犯、 政治的な強盗犯などに対して、だが、 私は判決を下すが、私は 真理が何であるかを知らない。 1:10:42 で、私は、真理が何かを知らないなら、 どうして判決を下せるのか」と。 語り手に会いにきたこの人が、 これを語っていました。 それで彼は、退きました。 それは、インドの 古い伝統の一つです。 尊ばれて、尊敬されています。 彼は自分の家族から退き、 冥想するために 林に入りました。 それは、今でも インドでは伝統です - すなわち、人が 世間を放棄するとき、 彼は、衣服、食べ物をもらい、 尊敬されなければなりません - 彼がインドでどこをさすらおうとも、です。 それは、僧侶の組織化 された社会ではありません。 彼は一人です。 で、彼は林へ 退きます。 そして彼は、自分は二十五年間、 冥想したと、言いました。 1:11:52 「昨晩、語り手に 聞いた後、私は あなたに会いに来ました」と 彼は言いました - 「私は、いかに深く自分自身を催眠に かけていたかを、言いに来ました。 この催眠の中で、いかに私が 自分自身を欺瞞してきたかを、です」と。 二十五年間、 冥想してきた人が、 自分は自分自身を欺瞞して きたことを認知するとは、 あなたは、それを言う人間の 本性を理解されますか。 これら新型僧侶だけではない。
1:12:40 で、私は何ですか - 私は 一定量の余暇を持っていて、 真剣であり、 誰にも従っていません。 もちろん、あなたが誰かに 従うなら、それでそれは終わりです。 どうぞ、これら、申し上げていることを見てください。 それは、永遠であるものへの あなたの探求、透徹の終わりです。 あなたは完全に、あなた自身にとって 光でなくてはいけません。 誰にも依存しないのです - 彼らのイニシエーション、 彼らの花輪、誰にも、です! さもないと、あなたは あなた自身にとって光ではありえません。 で、私はいます。 私は、私が自分自身にとって光で なければならないことを、悟ったのです。 私は従いません。 私は、どの礼拝をも、 どの儀式をもしません。 けれども、永遠であるものは 私を忌避しつつあります。 それは、私の息に、私の眼に、 私の心に、ありません。 で、私は何をすることになりますか。
1:14:12 まず第一に、 頭脳は、「私」である中心から 自由でありえますか。 質問を理解されますか。 私の頭脳は、私自身から、 自己から自由でありえますか。 その自己が 超自己でも、 超、超、超上でも、 それはやはり自己です。 利己性の全的な消散が ありますか - それをきわめて単純に表すと、です。 利己性、自己中心は、 きわめてずる賢い。 それは、自らがすべての利己性を (免れている)、それ自らの実体、 それ自らのなることについての関心 すべてを免れている、と考えられます。 けれども、きわめて微妙に、深く、 それは、触手を出しています。 これらを理解されますか。 で、自分自身で 発見しなくてはいけません - 利己性すべてからの 完全な、全的な自由が ありうるのかどうか、です。 すなわち、自己中心的な活動 すべてから(の自由が)、です。 1:16:14 ですね? それが冥想です。 この世界に生きる道を 見出す - 利己的、自己中心的で あることなく、 自分本位の活動、自分中心の 動きなく(生きる道を)、です。 (自己中心の)その影が、 その動きが、あるなら、 そのときあなたは、迷っています。 で、あらゆる思考の動きに、ものすごく 気づいていなくてはいけません。 それは、きわめて簡単です。 それを錯綜させないでください。 あなたが怒っているとき、 当分の間、あなたは知りません。 それは、あの感じだけです。 しかしあなたは、それを検討するとき、 それが生ずるのを観察できます。 ですね? 貪欲が生ずる、 妬みが生ずる、 野心、攻撃が 生ずるのを、です。 それが生ずるままに、見守る。 それの終わりに、ではなく、 それが生じつつあるときに、です。 1:17:49 あなたがそれを見守るにつれて、 それは萎れてしまいます。 理解されますか。 で、頭脳は、思考が生ずるのに 気づけます。 思考が生ずるのへの 気づきが、注意です。 それを押しつぶす、破壊する、 片付けてしまうのではない。 ただ感じだけです。 あなたは、空腹の感じが 生ずるとき、それを知りませんか。 明白に知っています。 または、あなたの性的な感じを、です。 それが生ずるままに、完全に それに気づいている。 で、「私」の動きへの 気づき、注意 - 私の欲望、私の野心、 私の自分本位の追求へ、です。 それが生ずるままに、気づいている とき、それは萎れてしまいます。 それは絶対的に必要です。 で、この「私」の粒子、影も ないように、です。なぜなら、 「私」は分離的であるからです。 1:19:17 私はそれらへ入りました。 で、それが、私が理解すべき 最初のことです。 私の身体の制御、特別の呼吸、 ヨーガではない。 それらすべてはご存じです。 あなたは、それらすべてから 手を洗います。
1:19:46 そのとき、部分的でない 頭脳を持つ。 いいですか?  理解されますか。 それは、部分的に行為していなくて、 全体的です。 あなたがこれらに入られたことが あるのかどうか、私は知りません。 私はこうも長く話しています。 手短でなければなりません。
1:20:15 私たちは先日、指摘しました - すなわち、 私たちは、自らの感覚すべてでもってではなく、 部分的にだけ 機能していることを、です。 部分性、 狭さが 自己を強調します。 もちろんです。 私はそれへ詳細に 入ろうとしていません。 あなた自身で、それは見られます。 しかし、あなたが、 山、樹々を(観察し)、 川、青空を、 あなたが愛している人物を - または、それが何であっても - あなたの感覚 すべてでもって、観察するとき、 自己はありません。 そのすべてを感じている 「私」は、ありません。 で、それは、こういう頭脳を意味しています - 歯医者として、学者として、 労働者として、 すばらしい天文学者として 機能していない(頭脳)、 1:21:43 あなたの頭脳の全体でもって 機能している頭脳を、です。 それは、頭脳が完全に静かである ときだけ、起こりえます。 で、自己の影がないのと、 精神の絶対的な静寂、 静けさ、です。 私は、「空っぽ」という言葉を 使いたいですね。 それは、間違った意味を与えます。 ほとんどの人々の頭脳は、 ともあれ、空っぽですが、 占有されていない 頭脳を持つ。 何にも - 神や冥想を含めて - 何にも(占有されていないの)です。 そのときだけ、頭脳は静寂であり、 活力に満ちています。 その頭脳は、愛、慈悲の 大きな感覚を、持っています - (愛、慈悲)それは智恵です。 よろしいです。 こうも長くお引き留めして、すみません。
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