SA81T6 - 愛と自由

第6回公開講話
スイス、サーネン
1981年7月23日
テキストのみのバージョン
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1:09
私たちは、私たちの生の問題の ほとんどを、扱ってきました - 錯綜した存在を、です。
そしてまた私たちは、 悲しみを終わらせることが 可能であるのかどうかにも 入るべきです。
私たちはともに、それについて じっくり話し合い、 それにかなり深く入り、
私たち自身で見出すべきだと、思います - 悲しみの含蓄が 何であるのかと、
悲しみと愛はともに 存在できるのかどうかを、です。
そして、人類の悲しみへの 私たちの関係は、何ですか
- 私たち自身の個人的な 日々の嘆き、
傷、痛み、 そして、死とともに来る 悲しみだけではない。
2:55
そしてまた、 先日、私たちが 指摘していましたように、
人類は、何千もの戦争に 苦しんできました -
終わりがあるとは 思えない戦争です。
私たちは世界中で、それを 政治家たちに、任せてきました - 平和をもたらすように、です。
そして、彼らがしていることは - あなたが彼らを追ってきたなら、です - けっして平和をもたらさないでしょう。
彼らはみんな、戦争の準備をしています。
あなたは準備するとき、それは 何かの種類で吹き出そうとしています。
中東においてか、 ここ西洋や極西においてか、 アジアにおいて、です。
そして、私たち人間は けっして、互いに平和に 生きることができなかったのです。
4:14
私たちはそれについて、大変多く話します。
宗教は、平和について 説教し、話してきました
- 地上の平和と、 善意などを、ですが、 見たところ、それはけっして 可能ではなかったのです
- 地上に平和を持つことは、です。
私たちが生きる大地に、です。
それは、私たちの大地です。
イギリスの大地と フランスの大地などではなく、 それは、私たちの大地です。
見たところ、私たちは、 互いに殺し合う問題を けっして 解決できなかったのです。
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5:01
たぶん私たちは、自らの心に 暴力を持っています。
私たちは、どの敵対の感覚、 どの報復の感覚からも
けっして自由でなかったのです。
私たちの恐れ、悲しみ、 負傷と、日々の存在の痛みから
けっして 自由でなかったのです。
きわめて豊かな人と、 地位を持っている人々以外、 見たところ、残りの私たちはみんな けっして平和、快適さを得られません。
いつも苦労しています。
それが、私たちの生の部分、 私たちの日々の苦しみの部分です。
この苦しみは、 愛もなく、
人は、それより自由であるために、 きわめて多くの道を、試してきました。
6:32
人は、それを抑圧し、 それから逃避し、
自分自身を、もっと 大きな何かと同一視し、 自分自身を何か観念へ 手渡してきました - 何か理想、信念と 信仰などへ、です。
しかし、見たところ、この悲しみは けっして終わりえません。
私たちはそれが、慣習になってきました。
私たちはそれを堪えます。 私たちはそれを忍耐します。
私たちは、けっして 大きな気づきの感覚をもって、 真剣に、自分自身に 訊ねません -
悲しみを終わらせることが 可能であるのかどうかを、です。
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7:33
私たちはまた、 ともに話し合うべきです -
死の無量の含蓄全体について じっくり話し合うのです。
なぜなら、死は生の一部であるからです。
私たちは、それについて話すことすら 先送りし、回避してきたけれども、です。
それはそこにあります。
で、私たちは、それにも また入るべきです。
そして、愛は - 楽しみを憶えていること ではありません。
それは、愛と慈悲とは 何の関わりもありません - その愛と慈悲は、 それ自体の
特異な、すべてを了解する 智恵とともに、
その愛は、私たちの生において 存在できるのかどうか、です。
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8:55
これらが、今朝、 私たちがともにじっくりと 話し合おうとしている 問題や問いです。
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9:10
まず第一に、 私たちは人間として 本当に 悲しみから自由に なりたいのですか。
または私たちはけっして、実際に それに入り、それと向き合ったこと、
その動きすべてを 理解したことがないのです - そこに関与した含蓄が 何であるのか、
なぜ人間たちは 自らのテクノロジーの世界では とてつもなく利巧であるのに、
なぜ悲しみはけっして 解消されなかったのかを、です。
それについて - この問いを、です - ともにじっくり話し合うことが 重要であると、思います -
そして、悲しみが本当に終わりうるのかどうかを 私たち自身で見出すことが(重要)です。
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10:24
私たちは、みんな いろいろな形で苦しみます。
誰かの死の悲しみが あります。
大きな貧困の悲しみが あります - 東洋はそれを よくよく知っています。
無知の大きな悲しみ
- 私たちは、「無知」という言葉を 書物の知識の意味で、ではなく、
自分自身を全然知らない無知、 という意味で、使います
- 自己の複雑な活動全体を (知らないの)です。
私たちがそれをあまり 深く理解しないなら、 その無知の悲しみが あります。
そして、何かを根源的に
深く悟ることができないことの 悲しみが、あります
- 私たちは、テクノロジー的成功と この世界での成功を達成することでは、 とても利巧であるけれども、です。
11:55
そしてまた私たちは、痛みを 理解することができませんでした。
物理的な痛みだけではなく、 また深い心理的な 痛みをも、です。
自らはきっと、これらすべての ことを知っていると、思います。
自らはこれらに気づいています。
どれほど学識があっても、 あまり学殖がなくても、私たちは これらすべてのことを知っています
- すなわち、外的に美しくないことの 個人的な悲しみが、あるのです。
または、内的に(美しくないことの)です。
常なる格闘、葛藤の 悲しみが、あります
- 私たちが生まれた瞬間から 死ぬまで、です。
執着の悲しみが あります -
その恐れとともに、 その腐敗とともに、です。
13:32
愛されないこと(の悲しみ)と、 愛されたいと求め、
渇望することの悲しみが あります。
そして、何か思考を越えたもの、 永遠であるものを けっして悟らないことの 悲しみが、あります。
究極的に、死の悲しみが あります。
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14:12
さて、私たちは、様々な形の 悲しみを、叙述してきました。
悲しみの要因は 自己中心的な活動です。
ですね?
私たちはみんな、自分自身に こうも関心を持っています - 私たちの果てしない問題に、 老齢に、です。
地球的な、深い内的な見通しを 持つことができないのです。
今朝、ともに 私たちはそれに入られますか -
言語的に、知的に、ではなく、 自らが持ってきたか、 持ちつつある悲しみを
そして、世界全体の 悲しみを、 実際に悟るのです。
物理的な痛みは 理解できます。
それについて何かをできるし、 おそらくそれを登録しない、 それを記録しないのです。
16:06
これを試されたことがあるのか どうか、私は知りません。
あなたは先週、痛みを 受けていて、
その痛みが過ぎたとき、その痛みを 終了させたかもしれません。
それを記録しないのです。
あなたがよく気をつけてそれに 入るなら、それは可能です。
物理的な痛みを受けて、 それが過ぎた瞬間、
それを終わらせることは 可能です - それを憶えたのを、まったく 持ち運ばないのです。
それは可能です。
それで、その痛みは 私たちの日々の生で 介入しないか、神経症的活動を もたらしません。
そして、それを 他の人たちを傷つけることの 言い訳にしないのです。
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17:34
私たちは 心理的な痛みに耐えます。
先日指摘しましたように、 私たちはみんな、 私たち自身のイメージと、他の人たちに ついての(イメージ)を、持っています。
頭脳はいつも活動的です
- 白昼夢を見ていて、
何らかのことで 占有されている中か、 あるいは、想像し、
その想像から映像、観念を 創り出す中で(活動的)です。
そして、子ども時代から次第に このイメージの構造を、築きます - それが「私」です。
私たちの一人一人が 常にこれをしています。
そして、傷つくのは そのイメージです。
それが、「私」です。
ですね?
私たちが指摘しましたように、 自らが傷ついているとき、 この抵抗が、あります
それは、もはや傷つかないように、 自分自身の まわりに、壁を築くことです。
ゆえに、もっと多くの恐れと 孤立、そして 関係を持っていない 感じです。
そして、さびしさを助長する - それもまた、悲しさをもたらします。
19:33
私たちはともに考え、これに 付いてきていて、単に一連の
言葉と観念を聞いている だけではないことを、望みます - (聞くだけ)それは、 かなり退屈になるでしょう。
しかし私たちが実際に、 いかにこの傷が、その帰結すべてとともに
私たちの生の一部であるかを 見るか、気づくなら、 そして、それらの損傷はいったい 完全に消え去りうるのかどうか、です。
なぜなら、それが完全に 消え去らないなら、それは、 私たちの悲しみの一部であるからです。
ですね?
私たちは、これに付いてきていますか。 私たちはともに考えていますか。
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20:27
そして、この孤立、 分離の痛みが あります。
人種として、共同体として、 民族としてだけではなく、
また、個人として私たち自身を 孤立させつつあります。
そして、 その個人の帰結、 苦労、悲惨です。
私たちの活動は、いつも 自己中心的です。
それは、孤立の 要因の一つです。
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21:29
さて、そのとき問いは、こうです
- 様々な形の悲しみを 叙述してきた後で、
私たちはそれを見つめられるのかどうか、です - 言語化なく、
それから逃げ去ることなく、
または、何か他の形の
宗教的か 知的な結論への 知的翻案によって、 でもない。
それを完全に見つめる - 動いてそれから離れるのではなく、 それに留まる。
理解されますか。
私たちがいうそれは、こういう意味です - 仮に、私は聾唖の息子を
持っている、とします。
彼は死ぬかもしれません。
私は責任があります。
なぜなら、私が彼を誕生させたからです。
それは悲しみです - 彼がけっして美しい空を 見つめられず、けっして 川のせせらぎが聞こえないのを、知って、です。
23:26
そして、悲しみがあります。 動いてそれから離れず、 それに留まること。
理解されますか。
付いてきていますか。
すなわち、 私は、この大きな痛み、 この悲しみを、持っています
- 彼の奇形か、あるいは、 私が長年、ともに
生きてきた 誰かの死と、 その人物が終わることの(悲しみ)です。
この悲しみがあります。
悲しみは、 孤立の本質です。
これを理解なさるのか どうかと、思われます。
いいですか?
私たちが全的に孤立していて、 完全に一人であるとき、 その感じは、悲しみです。
さて、その感じに 完全に留まる。
それを言語化する、それを 合理化する、それから逃避する、 それを超越するのではない。
(それら)思考がもたらす動き すべて(ではないの)です。 私たちは互いに出会っていますか。
25:01
それで、 その悲しみがあるとき、
そして、思考がまったく それに入らないとき - それは、あなたが完全に 悲しみである、という意味です。
あなたが悲しみを乗り切ろうと している、という意味ではない。
あなたは全的に悲しみです。
それのあの総体が あるとき、 そのとき、それが 消え去ることが、あります。
それは、断片化が あるときだけです - そのとき、苦労があります。
これを理解されますか。 私たちは互いに出会っていますか。
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26:07
で、悲しみがあるとき、 思考の単一の動きもなく、 それに留まること。
悲しみの全体性、です。
私は悲しみの 中にいる、ということではない。 私が悲しみです。
で、悲しみに関与した 断片化が、ありません。
で、あれの 総体があるし、 それから離れた動きが ないとき、 そのとき、それが萎れて しまうことが、あります。
ですね? 私たちはともに、ここにいますか。
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27:22
そうね、悲しみを終わらせることなしに、 どうして愛がありえますか。
私たちは奇妙にも、悲しみと愛を 一緒に関連づけてきました。
私は、息子を愛しています。
彼が死ぬとき、私は 悲しみに充ちています。
で、私たちは、悲しみを 愛と関連づけてきました。
さて、私たちは訊ねています - 苦しみがあるとき、そもそも 愛は存在できますか。
いいですか?
どうぞ。
そのとき、私たちは訊ねています - 愛は欲望ですか。
愛は楽しみですか。
その欲望、その楽しみが 拒否されるとき、苦しみがあります。
そして私たちは、こう言います - 苦しみは、嫉妬、執着、 所有とそれらと同じく 愛の一部である、と。
それが私たちの条件づけです。
そのように 私たちは教育されているのです。
それが 私たちの大きな遺産、 伝統の一部です。
29:14
さて、私たちは訊ねています - 愛と苦しみはとうてい 伴って行けません。
ですね?
それは、 教義的(独断的)な発言や 修辞的な主張ではありません。
自らが悲しみの深さを 覗きみて、
その動きを 理解するとき - そこには、楽しみ、欲望、 執着が、関与しています。
そして、 その執着の帰結が、です。
それが、腐敗をもたらします。
私たちが何へでも繋がれているなら、 それは必然的に、腐敗をもたらすでしょう。
そして自らが気づいているとき - 何の選択もなく、 何の動きもなく、
悲しみの本性全体に 気づいている - そのとき愛は、悲しみと ともに存在できますか。
理解されますか。 または、愛は何か全然 違ったものですか。
31:03
私たちは明らかであるべきだと思います - すなわち、人物へ(の献身)、
象徴へ、家族へ、何らかの ものへの献身は 愛ではないことが、です。
ですね?
どうぞ、そうですか。
私はあなたへ献身しています - 様々な理由のために、です。
その献身の裏には 動機があります。
愛は動機を持ちません。
いいですか?
動機があるなら、それは 愛ではありません。明白です。
あなたが私に楽しみを与えて くれるなら - 性的に、 様々な形の快適さ、
依存を、です。
動機はこうです - 私はあなたに依存します。
なぜなら、あなたは代わりに 何かを私に与えてくれるからです。
そして、私たちは一緒に生活するので、 私はそれを愛と呼びます。
そうですか。
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32:37
で、問います - 動機があるところ、 愛は存在できますか。
野心があるところ - 物理的な世界において、でも、
心理的な世界において、でも、 野心 - (すなわち、)
あらゆる物事の一番上にいたい、 大成功者でありたい、
宗教的にか、物理的にか、 権力を持ちたいと(の野心)、
攻撃、競争性、嫉妬が あるところ、 愛は存在できますか。
明白にできません。
けれども、それは 存在できないと認識するけれども、 私たちは続けていきます。
私たちの頭脳に何が起きるかを 見てください - 私たちがそんな種類の ごまかしをやっているときに、です。
私は、「あなたを愛している」と言います。
その愛の裏に、私は 動機を持っています。
私は野心的です。
私は霊的に、神の隣に いたいのです - 特に彼の右手に、です。
私は開明を達成したいのです。 そうね、そのすべての欺瞞です。
34:46
あなたは開明を達成できません。 あなたは、時を越えているものを とうてい達成できません。
しかし、それが、私たちの常なる 尽力です - 心理的に、です。
で、私は野心的で、 競争的で、 順応し、 嫉妬し、恐れ、憎んでいます。
そのすべてが、心理的に、 内的に進んでいきます。
私たちは、それを意識しているのか、 あるいは、意図的にそれを回避しています。
けれども、私は自分の妻や父親へ - それが何であっても、です - 「あなたを愛しているよ」と言います。
で、何が起きますか - 私の生に、私の関係に
そういう深い矛盾が あるとき、です。
どうしてその矛盾は、 深い統合の感覚を、持てますか。
これらに付いてきていますか。
けれども、これが、私たちが いつの時も、していることです - 私たちが死ぬまで、です。
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36:30
で、野心はないけれども、 この世界に生きられますか。
オフィス、工場へ行く。
イングランドでは、「店の主任」である - その言葉はご存じないかもしれません。
導師の野心。
理解されますか。
この世界に、生きられますか - 野心なく 競争なく、です。
外的な世界で何が起きつつ あるかを、見てください。
様々な民族、国家の間に 競争が、あります。
それは起きつつあります。
後生ですから、どうぞ、 それを見てください - 世界で何が起きつつあるかを、です。
37:31
政治家たちは、互いに 競争し合っています - 経済的に、
テクノロジー的に、 戦争の武器において、です。
彼らは競争しています。
それで 私たち自身を破壊しています。
私たちはこれが続くのを許します。
なぜなら、 私たちも内的に競争好きであるからです。
私たちは、政治家たちが何一つ 解決しようとしていないのを、悟ります。
しかし、私たちは自分自身へ 全的に責任があり、 367 00:38:28,980 --> 00:38:34,370 この深い統合を持つのなら、
そのとき私たちは、世界の 意識に、影響するでしょう。
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38:42
私たちが指摘しましたように、 もし私たちのわずかな者が、本当に この動き全体を理解するなら
- ここ六十年間、私たちが話して きたことの(動きを、)です -
そして私たちのわずかな者が 本当に深く関与していて、
恐れ、悲しみなどの終わりを もたらしたなら、 それは、人類の意識全体へ 影響するでしょう。
私たちは、それが人類の意識へ影響 するだろうかどうかを、疑っています。
ヒットラーは、人類の意識へ 影響してきました。
いいですか?
ナポレオン、諸々のカエサル、 世界の殺し屋たちは 人類へ影響してきました。
また、善い人々も 人類へ影響してきました。
私がいうのは、善い人々です。
体裁のいい人々ではありません、 善い人たちは、 全体的に生を生きる人たちです。
断片化したのではない。
40:26
世界の偉大な教師たちは 人間の意識へ、影響してきました。
個々人は、人間の意識へ 影響してきました。
しかし、もしも、これら、 私たちが話してきたことを
理解した一団の 人々が、いたなら -
言語的にではなく、実際に、大きな 統合をもってその生を生きるなら、 そのときそれは、人の意識 全体へ影響するでしょう。
これは理論ではありません。
これは、実際の事実です。
なぜなら、偉大な戦士たちは 人類へ影響してきましたからです。
ですね?
あなたがその単純な 事実を理解するなら、 あなたは、それが 突き抜けるのを、見るでしょう。
テレビ、新聞、 あらゆる物事が、人の 意識へ、影響しています。
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41:56
で、愛は存在できません - 動機があるところ、
執着があるところ、 野心と競争状態が あるところでは、です。
そして愛は、欲望と 楽しみではありません。
ただそれを感じ、それを見てください。
そしてまた、 人間たちの間の
関係は、何ですか - 死が発生するとき、 死が起きるときに、です。
いいですか。
ともにそれについて話し合いましょう。
なぜなら、私たちは、これらに 入ろうとしているからです - 私たちの生に秩序を もたらすために、です。
ですね?
私たちの家に秩序を、です。
それは秩序を持っていません。
そこには、私たちの生には、 こうも多くの無秩序が、あります。
全体的で統合的な秩序を
深く 確立することなしには、 冥想は、いかなる意味をも 持ちません。
43:49
それの論理を見てください。 いいですか?
なぜなら、私の家が 秩序立っていないのなら、 私は冥想の中、座るかもしれません。
冥想をとおして、私は秩序を もたらすだろうと望んで、ですが、 私が無秩序の中に生きていて、私が 冥想するとき、何が起きますか。
私は、空想的な夢と 幻想を、持ちます - そして、あらゆる種類の 無意味な結果を、です。
しかし、(正気の)健全な人、 智恵があり、論理的な人は 初めに、日々の生に秩序を 確立しなければなりません。
そのとき、私たちはともに、 冥想の深みと
その冥想の意味へ 入られます - その美しさ、 その偉大さ、 その幅広さ などへ、です。
で、私たちはまた、死が何であるの かをも、理解しなくてはいけません。
私たちがとても若くても、 中年でも、老いていても、 それは、私たちの生の一部です。
愛が私たちの生の一部であり、 痛みが私たちの生の一部であり、
苦悶、疑惑、傲慢 - そのすべてが 私たちの生の一部であるように、です。
45:36
しかし、私たちは死を 私たちの生の一部と、取りません。
私たちは、それを先送りしたい、 自分たちからそれを、可能なだけ はるか遠くへ置きたいのです -
生きることと死ぬこととの間に 時の間隔、空間を、 持つために、です。
で、私たちは、ともに この問いへ入るべきです
- それはまたもや、かなり複雑です - 死は何であるのか、です。
もしあなたが観察してきたなら - きっとなさったと思います - すべての宗教は
どうにか、この問いを 回避してきました。
キリスト教の世界では、 そうね、こういう意味で 回避しました -
誰かがあなたのために苦しんでくれる、と。
アジア世界では、 こういう観念全体が、あります -
あなたは過去に生きてきた。あなたは 死ぬし、来世に生まれるだろう、と。
47:18
あなたが来世に 生まれようとしているなら、 今、正しく生きなさい。
正しき生を送りなさい。
他の者たちを害しない、 傷つけない、残酷でないなどの生を
送りなさい、と。
しかし、アジア世界で 来世を 信じている人たちは、 正しき生を送ることを ちっとも気にしません。
それは信念だけなのです。 実質を持たない すべての信念と同じです。
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48:09
で、そのすべてを脇に置き - キリスト教の死と苦しみの 概念と、
輪廻転生についての アジアの結論、
- 業、 あなたは種を播くものへ 支払うだろう(自業自得) - それが、 あのアジア的概念の一部です。
それら二つ、キリスト教的と アジア的な関心や説明を
脇に置いて - または、死との直面の 欠如をも(脇に)、です -
ともにそれに入りましょう。
それは、快くないかもしれません。
なぜなら、誰もそれに 向き合いたくないからです。
あなたは今、健康的に生きています。
楽しみ、恐れ、心配を持っています。
明日、希望、 それらが、あります。
49:30
そして、他のこと、 すなわち、 このすべてが終わることには、 関心を持ちたくありません。
で、私たちが智恵があり、 健全で、理性的であるのなら、
私たちは、生きることだけではなく、 生きることの含蓄と 死ぬことの含蓄にも、 向き合わなくてはいけません。
私たちはどちらをも、知らなければなりません。
それが、生の全体性です - そこに分割はありません。
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50:23
で、死は何ですか。
物理的に終わること、 生物的なことは別にして、
間違った生活を してきた組織体の使用、
飲酒、薬物、 耽溺、 禁欲、拒否。
そうね、対極の間の この常なる闘いです。
均衡した、調和的な 生活ではなく、諸々の極端です。
それで身体は、大きな格闘を 経ていきます - 思考により賦課されて、です。
それを悟られるのかどうかと、思われます。
思考が指令します。
そして身体は、 思考により制御されます。
私たちがそれに入ったように、 思考は制限されているので、 それがすることすべてが 不調和を、もたらします。
51:49
そして私たちは、物理的に 不調和の中に、生きます。
それに強いる、それを制御する、 それを屈従させる、それを駆り立てる。
これが、私たちがみんなしていることです。
そうね、断食です。
北アイルランドは 政治的か 宗教的な理由で、です。
それは同じことです - 暴力です。
身体は 長年、持ちこたえられます。
老齢、 そして、老衰しない。
身体は必然的に 終わりになるでしょう、 組織体は死ぬでしょうが、
それが、死なるものですか。
組織体が 終わりになることは - 何かの病気、老齢、
事故をとおして、 それは、終わりになるでしょう。
それが、私たちが死について 懸念していることですか。
53:35
それは・・・どうぞ、 これに付いてきてください。
それは、思考がそれ自体を身体と 同一視する、ということですか
- 名と、 形態と(同一視)、 記憶すべてと(同一視、)です。
そして、死を 回避しなければならない、と言います。
いいですか?
で、それが、私たちが 恐れていることですか。
終わりになることが、ですか。
世話をされ、 気づかわれてきた身体は - あなたがそれを気づかうなら、です - 終わりになる、死ぬ。
私たちは特別にそれを恐れて いるとは、私は思いません。
私たちは、それについて 少しこっそり心配していますが、 それは、あまり 重要ではありません。
しかし、私たちにとって はるかに重要なのは、 私たちが持ってきた関係を 終わらせることです
- 私たちが持ってきた 楽しみ、 快い記憶と
快くない記憶、 私たちが生きることと呼ぶもの、 ですね?
55:17
日々、生きること、 オフィス、工場へ行くこと、 何か巧みな仕事をすること、
家族を持つこと、 家族へ執着すること - その家族の記憶 すべてでもって、です。
私の息子、私の娘、 私の妻、私の夫、 その一団 -
それは、速やかに消え去りつつありますが、 誰かに関係しているとの あの感じが、あります。
あの関係には 大きな痛み、心配と その他すべてがあるけれども、 それはそこにある。
私は、誰かと(家のように)寛いでいます。
またはあなたは、誰とも 寛いでいません。
誰とも寛いでいないなら、そのとき それは、自体の悲しみを持っています。
56:27
で、それが、 私たちが恐れていることですか。
私の関係が、 私の執着が 終わること。
何か私が 知ってきたもの、
何か私が 縋りついてきたもの、 私が生涯 専門にしてきたこと、
それらが終わること。
私は、それを終わらせるのを、恐れています。
ですね?
すなわち、「私」である すべてが終わることを、です。
ですね?
そのすべて - 家族、名前、 形態、伝統、
遺産、 文化的な教育、
人種的な継承物。
そのすべてが、「私」です。。
格闘している「私」、 幸せである「私」が、です。
57:58
それが、私たちが 恐れているものですか - 「私」が終わることですか。 (私)それは、そのすべてです。
すなわち、私が送っている生、 心理的に私が知っている生が、
その痛み、悲しみ、 それらとともに、 心理的に終わること。 それが、私たちが 恐れていることですか。
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58:25
もし私たちが、それを恐れていて、 その恐れを解消してこなかったなら、 死は必然的に来ます。
そして、あなたの意識に 何が起きますか。
どうぞ、聞いてください。
その意識に、何が起きますか (意識)それはあなたの意識ではありません。
私たちはすっかり それに入りました。
それは 人類の意識です。
広大な人類の 意識です。
私の意識ではない。
私たちは、よく気をつけて それに入りました。
私は今、それに入らないでしょう。 私は時間を持っていません。
で、どうぞ、見てください。
私が個人として、 私の制限された意識でもって
恐れているかぎり、 私が恐れているのは、それです。 ですね?
59:29
これに付いてきていますか。 それが、私が怖がっているものです。
それを回避するために、私は あらゆる種類の戯言を、経ていきます。
(大天使)ガブリエル、 そうね、それらのものです。
そして、それが事実では ないことを、悟ります。
私の意識が他のあらゆる 人から全的に分離している ということは、 事実ではありません。
それは幻影です。
それは不条理です。非論理的です。 それは、不健全です。
非健康的です。
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1:00:17
それで - 気をつけてこれに付いてきてください - 私はこれを悟ります。
おそらく私の心において、 私の感じにおいて、私は自らが 人類の全体であることを、悟ります。
個人の意識ではない。
それはあまりにばかげて、非論理的 です。それは意味がありません。
そして私は、この種類の生を 生きてきました - すなわち、痛みであり、
悲しみであり、 心配、それらである生を、です。
もし私の頭脳が、それらの幾らを 変容させてこなかったなら、
私の生は、全体性へさらに 混乱を、付け加えているだけです。 これを理解されるのかどうかと、思われます。
1:01:28
しかし、私が生きていて、
私の意識は人類の意識 であること、そして
人間の意識へ私は全的に 責任があることを、悟るなら、
そのとき、その意識の 制限からの自由は とてつもなく重要に なります。
なぜなら、そのとき私は、 その意識の制限に 寄与しつつあるのか、制限を 崩しつつあるからです。
で、死は、全然違った 意味を、持っています。
付いてきておられますか。
私たちは互いに出会っていますか。 ご覧ください。
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1:02:27
私は、いわゆる個人的な生を 生きてきました。
私自身に、私の問題に 関心を持ってきました。
それらの問題は、けっして終わりません。
それらは、増大しつつあります。
私は、その種類の生を生きます。
私は、その種類の生へ育てられ、 教育され、条件づけられてきました。
あなたがやってきて、友だちとして 気持ちよく私に語ります。
または、あなたは私が好きです。
または、 あなたは私を愛しています。 あなたは私に語ります - 「ごらん、 あなたの意識はあなたのではない。
あなたは苦しむ。
アジア人たちもそうです。 他の人たちも苦しむ」などなどと。 私はこれへ入ってきました。
で、あなたは私に、それらを語ります。
私はそれを聞きます。 それは私にとって、意味をなします。
私は、あなたが言うことを、拒絶しないでしょう。
なぜなら、それは、論理的に 意味をなし、健全であるし、 私は、そこに、あなたが 語ってきたことに、おそらく 世界での平和がありうることが、 見えるからです。
1:03:56
で、私はあなたに聞きますし、 私は自分自身に言います - 「私は恐れから自由でありうるか」と。
いいですか?
なぜなら、私は、意識の全体へ 全的に責任があるからです。
で、私が恐れを究明していて、 恐れから動いて離れつつあるとき、
私は、人間の全意識が 恐れを減らすのを、助けています。
理解されますか。
これは幾らか明らかですか。
そのとき死は、全然 違った意味を、持っています。
私が神の隣に座ろうとしているとか、 私は何か特異な光る雲をとおって 天国へ行こうとしているとか、
いうことではない。
私は、私の特定の生では ない生を、生きています。
私は、人類の全体の 生を、生きています。
1:05:21
私が死を理解するなら、 私が嘆きを終わらせるなら、 私は、人類の意識の全体を 浄化しつつあります。
そういうわけで、死の意味を 理解することが、重要であるのです。
おそらく死は 大きな意義を、 愛との大きな関係を、持っています。
なぜなら、あなたが何かを終わらせる ところ、愛があるからです。
あなたが執着を 完全に終わらせるとき、 そのとき、愛があります。
いいですか? よろしいです。
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