SA82T6 - 冥想と、自己が終わること home
公開講話、第6回
スイス、サーネン
1982年7月22日

1:12 これが最後の講話です。 日曜日に、質疑応答の 会合が、あるでしょう。
1:30 私たちは、 この集会の間、ともに、 多くのことについて、 話してきました。 私たちはともに、私たちの 生の多くの他の要因と 問題を、観察し、 検討してきました。 私たちはまた、今朝 ともに探検すべきです - この世界に生きることは可能 であるのかどうかを、です。 そこは、ますます腐敗し、 ますます不道徳に なりつつあります。 戦争、不確実さ、 危険です。 この世界で私たちは平和に 生きられるのかどうか、 外的に進んでいる 葛藤、抗争 - その葛藤、抗争はまた私たちを 破壊しつつあるのか、 または私たちは世界のその混沌に 寄与してきたのかどうか、です。 3:04 そして私たちは、ともに じっくり話し合うべきです - 平和に生きるとは、どういう 意味であるかについて、です。 それは、大変多くの探究を 必要とします。 大変多くの・ ・・ 単に表面的な、言語的な 検討だけではなく、 自らが、自分の生を、 世界との関係において、 見つめて、 私たち自身で見出さ なくてはいけません - 私たちが全く内的に平和に 生きられるのかどうかを、です。 自らが、常に葛藤の中に あるなら、 自分自身と平和に 生きられません。 私たちは、その問いに 入りました - 葛藤の原因は 何であるのか、です。 そして私たちは、自分たちの 一緒での検討の中で、 原因があるのかどうかを、 指摘しました - その原因は終わりに なりうるのか、です。 4:28 そして私たちは生を、一連の 原因にしてきたのです。 そして、原因が終わる ことが、あるとき、 平和がありますか。 私たちはまた、ともに恐れの 本性を、探究しました。 恐れの原因は 何であるのか、と。 そして私たちは、短く、 苦しみの問題へ入りました。 世界中の人類は、 大変多く苦しんできて、 いまだに 苦しみつづけています。 苦しみから自由でありたい との彼らの欲望の中で、 彼らは、あらゆる種類の 幻影を、受け入れてきました。 彼らは、様々な信念、 教義、儀式と概念の 罠に掛かってきました。 けれども、恐れは、 私たちの生の主な要因の 一つに留まっています。 5:54 私たちは、それにも また、入りました。 私たちはまた、その 問いにも、入りました - この世界に生きる人間ができる ことは何ですか - すなわち、 自らの生にも、まわりの生にも 影響するであろうことは、です。 もし彼の行為が、理想、 結論、イデオロギー的概念に 基づいているなら - これらの様々な行為の原因から 生まれた、どの行為も、です - そのとき必然的に、葛藤が あるにちがいありません。 私たちは、まったく慎重に 深く、それに入りました。 私たちはまた今朝、苦しみの 問いにも、入るべきです - 人類の中、私たちにおいて苦しみは 終わりうるのかどうか、です。 7:12 そして、宗教の問いにも (入ったの)です。 宗教は何であるのか、 そしてまた、 冥想の本性を理解し、 探検することも、です - そして、そもそも何か神聖な ものが、あるのかどうか、です。 これらが、私たちが 今朝、ともに じっくり話し合おうと している問題です。
7:55 人は、苦しんできましたし、 いまだに苦しんでいます - 様々な原因の ために、です。 戦争の原因、 分割の原因のため、 民族的に、 経済的に、社会的に、です。 そしてまた人は、孤立の 中で、苦しんできました。 人は孤立しています - 自らの活動においても、 自らの生きる道に おいても、です。 人は、自分自身に 関心をもっています - 人は、他の者たちに親密に 関係していても、いなくても、 人は、自分自身に 関心をもっています。 そして人は、孤独なさびしい 生を、生きています。 様々な、物理的な 対象物だけではなく、 また、心理的な投影物をも 欲望しています。 自分の孤立の中で 達成したい、と。
9:12 そして私たちは、人間 意識について、話しました。 すなわち、私たちの 生(について)です。 それは、私たちの 蓄積された経験、 出来事、信念、心配、 さびしさなどの結果です。 それが、私たちの意識の 内容全体を、作り上げます。 私たちの意識は、 個人的ではありません。 なぜなら、私たちの意識は、 残りの人類であるからです。 すべての人間が 苦しみます。 最も無教育で、無知で、 小さな村や町に 生きている者さえも、 彼もまた、苦しみます - それは 人類の共通の定めです。 これを、非言語的に 観察するとき - または、観念として ではなく、実際に、です - そのとき、 自らの意識は、 特定の意識ではない ことが、見えます。 それは、 人類すべての意識です。 10:38 ゆえに、あなたの意識は、 その内容すべてとともに、 人類すべての意識です。 ゆえに、あなたが 観察するとき、実際に、 あなたは残りの人類です。 あなたは実際に、 個人ではありません。 それが、私たちの 条件づけ、私たちの伝統、 私たちの教育、私たちの 宗教的な信念です - すなわち、私たちは 分離した魂である、 私たちの頭脳は、分離して いるということが、です。 あなたがそれを検討するなら、 それは全然、不条理です。 私たちの頭脳は、 大いなる進化、 時の結果です。 それは、特定の個人的 意識ではありません。 11:43 個人的思考は ありません。 思考はまたもや、人類 すべての共通の地盤です。 で、個人的思考は ありません。 または、個人的な 孤立した存在も、です。 私たちは、よく気をつけて これに入りました。 そしてまた、 意識と、その内容すべてに ついて話す中 - 思考は、組み立ててきたの です・・・
12:45 一時に、一つの雑音で 十分です。 で、私たちは今、 継続できます。
12:54 思考が、私たちの意識の 内容を、組み立ててきました - 私たちの神々、 私たちの儀式、 私たちの 振るまいを、です。 思考が外的と内的に 創案してきた 物事すべてを、です。 私たちは、その問いへ 入りました - 考えるとは何なのか、思考の 本性は何なのか、です。 なぜなら、私たちのみんなが、 私たちのほとんどが、 思考の活動の上に 生きるからです。 そして、思考の一部は 私たちの悲しみです。 そして、思考は いったい 悲しみを終わらせられるのか どうか、です。 質問を理解されますか。 私は苦しむ。 仮に、私は苦しむ、 とします。 どこかの国で、たくさんの 愚行などに取り巻かれて 生きる普通の人は、です。 私は苦しみます。 私の息子は 死にました。 または、私が愛していると思う 人物が、去ってしまいました。 14:28 この無執着の中、 この孤立の中で、 私は、大切にしてきた何かを 失ってしまったからです。 私は、あの人物に 執着してきました。 または、 あの観念に、です。 あの観念は、 砕け散ってしまいました - 道理、論理、健全な 観察によって、です。 そしてまた、私の息子は 死んでしまいました。 この地上から 完全に消え去りました。 そして、私は苦しみます。 そして、どうぞ、私たちが言い ましたように、ともに、です。 私たちはともに 探究しています。 語り手は、まったく 重要ではありません。 彼は全然、完全に 匿名です。 彼は、権威を 持っていません。 しかし、ともに私たちは、 苦しみの本性を 探究しようとしています。
15:53 突然に私は、自分自身が完全に 孤立したのを、見つけます。 私は、息子に 依存してきました。 または、妻にか、 彼女などに、です。 或る日、私は、彼や 彼女を失ったのです。 そして、悲しみ、痛み、 嘆きが、私の定めです。 地上に生きているすべての 人間の定めのように、です。 そして私は、何を することになりますか。 苦しみに耐えますか - 私たちのほとんどは そうします。 孤立の中で、です。 または何かの形の薬物をとおして その苦しみから逃避します。 その薬物が概念であっても、 未来の投影された 定式であっても、です - すなわち、私は死ぬとき、 彼に会うだろう、と。 17:16 それらすべての形は、 実在からの逃避です。 実在は、私が 苦しむことです。 私はその苦しみから 逃避していないし、 慰めをも 探し求めていません。 私たちがここに一緒に いることを、望みます。 なぜなら、 悲しみがあるとき、 慰めを探し求めるとき、 それは、現実から、 その苦しみの実情からの 逃避であるからです。 様々な形の慰めが あります - 信念、合理化、 自分自身を深く 探究すること。 それらすべての 形の観察は、 別の形の逃避です。 で、私は、 自分の涙でもって、 私の息子へ、妻へ、彼女 への恋い焦がれでもって、 または、失われた信念と 理想へ、ですが、 私は、あの苦しみに 留まれますか。 精神や頭脳は、 留まれますか。 19:11 私たちがいう留まることの 意味することは、 現実のことから、どの形でも 逃避しないことです - 現実の痛み、 本当の嘆きから、です。 それは、涙を もたらします。 そのとき生は、全く 無意味になります。 なぜなら、私はこうも依存し、 執着してきたからです。 そして、私が執着してきた ものが、去ってしまいました。 そして私は突然に、いかに私が 全くさびしいのかを、悟ります。
20:34 これは、深刻な主題です。 騒音により中断される べきではありません。 私たちは本当に、すべての 文明よりはるかに離れて、 これらの会合を、 行うべきです - 物事をともに 真剣に、何も中断なく じっくり話し合える ところで、です。 それは可能でないので、 私たちは、騒音を 聞かなくてはいけません。 航空機の、 ジェット機の雷鳴を 何の抵抗もなく聞く。 そして、あなたが語り手に、 そして、あなた自身に、 何の抵抗もなく 聞くであろうように、です。 しかし、私たちのほとんどにとって 抵抗は、私たちの生の一部です。 22:11 私たちは、どの新しい ものにも、抵抗します。 私たちは、どの変化にも、 抵抗します。 私たちは、どの新しい 思考にも、抵抗します。 思考はけっして、新しい 概念を、持ちえないけれども、 思考は何かを投影でき、 それを新しいと呼べるし、 私たちはそれに 抵抗します。 もし私たちが、抵抗の 本性を、理解するなら、 そのとき私たちは、 いつ抵抗すべきでないかを 知るでしょう。 私たちが、協働するとはどう いうことであるかを、知るとき - 或る人物や、観念や、 何か権威をめぐってか、 または、何か有益な 理由のために、です。 すみません。 協働するが、 特定の理由のためや、 動機をもってではなく、 協働の性質、 ともに働くこと、 ともに働きたい との感じです。 何かのためではなく、 何かのせいでもない。 24:17 協働のその精神、 その明瞭さが、あるとき、 いつ協働すべきでないかを 自分自身で知るでしょう。 いつ抵抗すべきでないかを 知るであろうように、です。 で、望むのですが、ともに 私たちの会話の中で、 私たちの探究の中で、私たちは 互いに抵抗し合っていません。
26:31 で、私は失って しまいました。 すべての人間が失って しまったように、です。 アヴァンティ! (進みましょう) すべての人間が失ってきた ように、私は、 自分がきわめて親しく大切に してきた何かを、失ったのです。 そして私は、自分自身が全的に 孤立したのを、見つけます。 で、愛、孤立と 嘆き、悲しみの間の 関係は何ですか。 苦しみの、愛への 関係は、何ですか。 私は、息子を 愛しています。 そして、愛が悲しみを もたらすなら、 それは愛ですか。 悲しみは 愛の一部ですか。 嫉妬のように、 恐れ、心配のように、 それが 愛の本性ですか。 または、愛は、悲しみと いかなる関わりもない。 いかなる関係も ないのです。 どうぞ、私たちは ともに探究しています。 29:32 私たちは、 検討しています - 愛と苦しみの実際の存在を 見出すように、です。 語り手は、何かあなたが 受け入れるか、拒否するか しなくてはいけないことを、 述べていません。 私たちは、ともに 検討しています。 ゆえにそれは、あなたのでも、 私のでもありません。 それは検討です。 科学者が、癌の原因を 検討しているように、です。 もし彼が、かなり安っぽい 科学者であるなら、 そのとき彼の個人的な利害が、 その検討に、関与しています - それが、その検討を 歪曲します。 ところが、私たちは今、 通常の人間です - 自分たちの日々の 問題すべてをもっていて、 それらの一つが 悲しみです。 そして、悲しみはいったい 終わりうるのか、 または、それは 人の定めであるのか、です。 30:55 このものが終わることが ありますか。 そして、終わる中で、 頭脳は、さらなる結果を 探し求めていますか。 みなさんが気をつけて、 これらに付いてきて おられることを、望みます。 私は悲しみを終わらせる かもしれません。 それは、大変多くの理解を 必要とします - 自分の意識、人類の意識に ついて(の理解を)、です。 きわめて深く それに入るには - それは、こういう意味です。 思考、すなわち、 意識の構造全体を まとめる中で、 中心的な要因、 寄与する要素ですが、 思考の、悲しみへの 関係は、何ですか。
32:04 ゆえに、訊ねなくてはいけません - 欲望の関係は、何ですか。 それ(欲望)は、私たちの ほとんどにとって、現実です。 欲望の、愛への関係は、 何ですか。 そして、欲望が あるところ - 充足したいとの欲求、 その欲望のエネルギーが (あるところ)、です - それは、悲しみを 終わらせるでしょうか。 または、 因果作用すべての理解、 因果作用すべての究明が - 付いてきて おられますか - 私たちの生は、因果作用(コー ゼション)に、基づいています。 私はこれをする。 なぜなら(ビコーズ)、 これをする中で、私は 褒美を得るだろうから、と。 私はこれをするなら、 私は処罰されるだろう。 で、私たちの生は本質的に、 様々な原因に基づいています。 そして、原因があるところ、 終わりがあるにちがいありません。 33:35 で、私たちは 因果作用に、縋りつきます。 これらに付いてきておられるのか どうかと、思われます。 理解されますか。 因果作用 - 動機、結果、 褒賞、処罰。 それが、私たちの生です。 それで、私たちの生は 因と果の過程です。 その結果から、 原因になる。 それで、それは、 永続的な連鎖です。 そして、思考は これを悟ります - あなたがそもそも、これらに 気づいているなら、です。 そして、原因なしの 生とは、何ですか。 原因なしに 生きられますか。 苦しみは 原因を持っています。 すなわち、 執着したいとの 私の欲望、 所有したいとの 私の欲望、 その所有の中で、私は 安心を感じます。 信念に取りすがる中で、 一定の安全があります。 で、いつも、この因果の 過程が、あるのです。 35:20 で、苦しみの原因は、 私の、自己中心的な 孤立の動きです。 これは明白です。 現在、二つの戦争が 進んでいます。 レバノン、 イラクとイランで、です。 彼らは、みんな 人間です。 彼らは、彼ら自身を孤立させて きたのです - イスラエル人、 イラン人と イラク人として、です。 彼らは、彼ら自身を 孤立させてきました。 その孤立の中に、彼らは安全が あると、考えてきました。 その孤立は、ものすごい戦争を もたらしつつあります - 世界中で、 過去にも、現在にも、 たぶん未来にも、です。 36:31 で、どこでも孤立があるところ、 嘆きがあるにちがいありません。 葛藤があるに ちがいありません。 これは法則です。 このとおりです。 私たちの生全体が 孤立の過程です。 で、葛藤があります。嘆きが あります。悲しみがあります。
36:57 で、そのとき訊ねます - この世界に、原因なく、 孤立なく生きることは、 可能ですか。 いいですか。 ゆえに、訊ねます - 愛は、原因を 持っていますか。 どうぞ、あなた自身に 訊ねてください。 語り手は、あなたが何を訊ねている のか、あなたが何を欲しいのか、 あなたの探究が何であるかを、 言語化しているだけです。 愛は、原因を 持っていますか。 智恵、 きわめて 明らかに観察する能力 - 何の歪曲もなく、 何の偏見もなく、 導いてくれる 以前の知識なく、です。 こうも間近で 観察する - それは、原因を 持っていません。 38:20 で、愛は、原因を 持っていません。 そして、この世界に 生きられますか - そこは、おぞましく、 こうも全く破壊的ですが - 原因を持たない智恵をもち、 原因を持たない愛をもって、 この世界に 生きられますか。 それは、こういう意味です - 完全な慈悲をもって この世界に 生きられますか。 思考がどの集団、 どの関連、どの孤立にも 所属していないときだけ、 慈悲はありえます。 これらを理解されますか。
39:26 そのとき私たちは、ともに 見出すよう、前進できます - 宗教とは何ですか。 宗教とは何ですか。 なぜ人間たちは、組織的宗教の 罠に、掛かっていますか - キリスト教徒、 仏教徒、 ヒンドゥー教徒、イスラム教徒 などなどとして、です。 小さな宗派と、大きな 拡大する宗派、です。 彼らはみな、自分自身を 宗教的と呼びます。 彼らは、自らの宗教の中に 千の分割を、持っています。 インドには、30万といった 神々がいると、思います。 あなたは、自分で 選択できます。 ここでもまたあなたたちは、大変 多くの分割を、持っています。 おそらく さほどではないが、 多くを持つ中で、 なかなか快い。 あなたは、どれにも 所属していません。 しかし、あなたが、一、二の 主要な分割を、持っているなら、 そのときそれは、 なかなか困難になります。
41:03 で、私たちはともに探究して います - 宗教とは何ですか。 なぜ人は、幾つもの 時代をとおして、 生が痛みであり、 生が悲しみであり、 生が常なる苦労であることを 受け入れて、 人は、神と呼ばれる何かを 投影してきました。 思考が、それを 創案してきました。 私たちのどれほど多くが、その 事実を見るのかと、思われます。 すなわち、思考が 責任があることを、です - 神々へ、儀式へ、 教義へ、 宗教の様々な分割へ (責任があるの)です。 思考が、その核心に あります。 何でも思考が 組み立ててきたものは、 けっして、神聖では ありえません。 いいですか。
42:37 そのとき、真理が 見えるなら - 言語的な説明ではなく、 実際のことが、です - 何でも思考が 創り出してきたものは、 機械的であるとの真理が、 見えるなら、 思考はそれ自体、 分割的で、 制限されていて、 頭脳は今、思考により 条件づけられており、 その頭脳は、 とてつもない能力、 無際限の能力を 持っているけれども - あなたの頭脳が、ではなく、 頭脳、人類の頭脳が、です。 で、宗教を探究する中で、 私たちは全的に、完全に 捨て去れるのです 思考が組み立ててきて、 それから思考が、 あなたは崇拝しなければならない と言う物事すべてを、です - (組み立てて崇拝という) それはただ、一つの形のゲーム、 一つの形の幻影 だけなのです。 43:55 幻影(イリュージョン) という言葉は、 その語源は、 遊び戯れることです。 で、私たちの宗教は、 面白み、娯楽、 感動の事柄です。 そのすべてを 脇に置いたのなら、 それは、精神、 頭脳が明らかである、 ゆえに、未来や過去に 起きることを恐れていない、 という意味です。
45:07 どうぞ、よろしければ、 ともに、もう少し間近で、 これらに 付いてきてください。 今あるような頭脳、 私たちの頭脳は、制限され、 条件づけられています - 幾千年の広大な 経験によって、です。 私たちの頭脳は、 蓄積された知識の結果です - 書物から、 預言者から、 過去、現在、未来の心理学者 すべてから(蓄積されて)です。 私たちの頭脳は、 形作られ、条件づけられ、 ゆえに制限されています。 そして、今あるような その頭脳は、けっして、 無制限なものを、 解き明かせません。 宇宙全体、万物への探究 (をできないの)です。 科学者たちは、宇宙を 探検しています - 望遠鏡をとおし、 様々な形の衛星などを とおして、です。 46:42 それはすべて、 思考の活動です。 思考が、宇宙、万物を 探究しています。 理解されますか。 そして思考は、何を しようとも、けっして、 宇宙、万物の 深い充実と美しさを、 理解できません。 私たちの頭脳は、制限 されており、機械的です。 そして、その条件づけ すべてから、 頭脳を自由にすることは、 可能ですか。 理解されますか。 そのとき、自らは発見します - 自らが、ではない - そのとき、 時がないものを 見出す可能性が、 あります - 何も制限がないもの、 測量の結果ではないものを (見出す可能性が、)です。
47:56 で、私たちは 訊ねています。 宗教的な人は - 様々な宗教に所属して いる人ではない - 宗教的な人、 どの共同体にも、 どの集団、どの民族にも 所属していない、 何の信念をも 持っていない人、です。 これらすべては、条件づけの 要因であるからです。 そのとき、 訊ねられます - 全的に自由でありえますか。 私たちの意識の内容からの 自由が、ありえますか。 私は、そのことを、 違ったように表しています。 私たちの意識は、思考により 組み立てられています。 すなわち、 私は神を信じています。 私は神を信じていません。 私は信仰を持っています。 私は信仰を持っていません。 私は、特定の国に 所属しています。 私は愛国主義的です。 私は苦しみます。 私は 痛みを持っています。 私は心配を持っています。 私はさびしさを持っています。 そのすべてが、思考により意識 として組み立てられています。 (意識)それが、「私」です。 49:40 いいですか。それは こうも明白です。 その内容は 終わりえますか。 理解されますか。 その内容は、 こうも混乱していて、 こうもめちゃくちゃで、 無秩序で、 矛盾していますが、 その意識は、 その内容とともに、 全的に 消え去れますか。 すなわち、私たちは、 恐れとしてのそれに ついて、話してきました - 恐れが終わること、です。 その意識の様々な内容に ついて、話してきました。 それは、可能ですか。 理解されますか。
50:40 さて、これが冥想です。 彼らの体系でもって、 彼らの実践でもって、 彼らの、何らかのものを 達成したいとの欲望でもって 進んでいる、ばかげたこと すべてではありません。 なぜなら、彼らが 実践すればするほど、 彼らが毎日、 一歩一歩進むほど、 頭脳は、ますます 機械的になる、 ますます鈍く、ますます 反復的になるからです。 あなたは、お好きなように なさるでしょうが、 もしあなたが、 冥想の本性を、 そこに何が関与しているかを 本当に理解したいのなら、 自由がなければなりません。 けっして誰かに 従わないで、 けっして内的に権威を 受け入れないで、です。 自由は、ものすごい 智恵を要求します。 自由には、 原因がありません。 私は苦しみます。 ゆえに私は 自由でなければなりません。 そのとき、あなたが 探し求めているものは、 別の形の投獄です。 52:20 しかし、自由を 探究しはじめるとき、 それは、世界の一つの片隅 から別の片隅へ行くこと、 旅をすることでは ありません。 また、自由は 選択でもありません。 私たちの選択は、平野の片隅 から別の片隅へ動くが、 同じ平野に 留まることです。 この動きが 選択と呼ばれます。 で、ともに、自由の本性を 探究しなくてはいけません。 私は、痛みを持っている から、自由になりたい。 動機があります。 私は、執着すべてから 自由でありたい。 なぜなら、執着は、 痛み、嫉妬、心配を、 一人であることの恐れを、 含蓄しているからです。 で、自由は 原因を持っていません。 で、そのとき私たちは、
54:01 冥想が何であるかを、 探究しはじめられます。 その言葉(メディテーション) こそが、その語源が、 熟考する、じっくり 考えることだけではなく、 深く、 すべての測量からの自由を、 含蓄しています。 理解されますか。 測量です。 すなわち、何かを 達成することですが、 それは時を必要とします。 いいですか。 あらゆる形の測量、 もっと良いもの、 もっと多いもの、 なること、 達成すること - それを、通常の冥想は 約束しますが、 冥想には、測量からの 自由が、あります。 どうぞ、気をつけてこれに 付いてきてください。 あなたがそれに 興味がおありなら、 これは、 きわめて深刻です。 測量なく観察すること - それは、比較なし、 という意味です。 私はそうであった。 私はそう である。私はなるであろう。 それは、測量です。 それは、時です。 55:45 人は、時が止まるのか どうかを、訊ねてきました。 冥想は、時への 探究です - それが止まるのか どうか、です。 すなわち、時は、「私」、 自己を、組み立ててきました - その知識すべてを ともなった自己を、です。 その自己は、 進化の結果です。 それは時です。 それは思考ですが、 それは、終わりがあるのか、 止まるのか、です。 それは、 すべてのなることから、 すべての測量からの自由を、 意味しています。 あなたが、 脚を組んで座り、 違ったように 呼吸をし、 自分の食べ物について 神経症になり、 或る種、入れ込んで、 或る種の体系を 実践しようとも、 そのすべては、 時の継続です。 頭脳は、もっと多くの 経験を、要求しています。
57:42 で、冥想は、自己、 「私」が、終わることです。 それは、愛です。 もし私が私自身に、大変 関心を持っているなら、 私はどうして あなたを愛せますか。 もし私が野心的で、 貪欲で、妬んでいて、 充足したい、 達成したいのなら、 どうして愛が ありえますか。 で、それの真理を見ること - それに時間を 掛けるのではない。 それを分析する、一歩一歩 それに入るのではない。 説明に次ぐ説明ではなく、 即座に見る。 すなわち、頭脳が、時と 思考に捕らわれているかぎり - それは 制限されています - 何でもそれがすることは、もっと 葛藤を創り出すでしょう。 それを即座に、見てください - それの真理を、です。 すなわち、それへ 洞察を持つことです。 それの動き全体へ、です。 そのとき、私たちが会話の 始まりに言いましたように、 頭脳は、静けさ、 静寂のあの平和を、 自然に持っています。 いつの時も、思考を永続化 させることが、ありません - おしゃべりし、おしゃべりし、 おしゃべりすることが、です。
59:45 この世界に生きていて、 それは、可能ですか。 9時から5時までオフィスへ 行かなくてはいけません。 なぜかは、 誰も知りません。 もちろん、私は なぜかを知っています。 私たちはみんな、 なぜかを知っています - 責任、お金、地位、 そうね、その事柄全体です。 9時から5時まで、です。 そして、オフィスへ行きたく ない人たちが、います - コミューンを形成し、彼ら 自身の土地で一緒に働くとか、 それが何でも、 する人たちですが、 それもまた別の職務、 9時から5時です。 自らは、この世界に 生きなくてはいけません。 お金、住居、衣服を 持たなくてはなりません。 それは、通常で、 自然です。 1:00:56 自らは、 あの愛の性質をもち、 あの智恵と自由の性質を もって、生きられますか。 (愛など)それらは すべて一つです。 それらは、三つの 分離した活動ではない。 時、思考、智恵、 愛は、です。 理解されますか。 私たちが今、それを 知っているように、ですが、 この制限からの 自由があるとき - 原因なしの愛、 原因なしの自由と、 原因なしの智恵ですが、 あの性質の状態をもって この世界に生きられますか。 オフィスへ行く。 工場へ行く。 料理する、皿を洗う、 孤独な散歩へ行く - たとえ 十分間でも、です。 このひどい世界に生きて いて、それは可能ですか。 1:02:11 あなたがこの問いに 答えなくてはいけません。 私が、ではない。 あなたは、思考が 中心的主題であることを 悟ったときだけ、 それに答えるでしょう - すなわち、思考はいつも すべての境遇のもとで、 断片的であることを、 (悟るの)です。 なぜなら、知識は 断片的であるからです。 完全な知識は、けっして ありえません。 そのとき、冥想は 全的な拒否です。 拒否 - 私は、その言葉の 正しい意味で使っています。 自己、「私」の拒否です。
1:03:20 そのとき、訊ねます - このすべてを越えて、何か 神聖なものが、ありますか。 理解されますか。 なぜなら、それが、人が探究 してきたことであるからです。 人は、この世界に 私たちは生きるが、 そこは、永続的な葛藤、抗争 と痛みであると、言います。 ささやかな喜びと楽しみが あるかもしれないが、 いつも、これがある。 いつも、死がある。 いつも、痛みがある - 物理的にも、 心理的にも、です。 そして人は、言います - このすべてを越えて、 何かがあるのか、と。 なぜなら、このすべては こうも無意味であり、 空っぽであるのが、 見えるからです。 そして、訊ねます - 越えて何かがあるのか。 このすべてを超越するものが 何か、あるのか、と。 で、これを超越することが できなくて、人は考案します - 神々、原理を、です。 よろしいですか。 で、自らは、これに 気づいていますか - 司祭者の、専門家のあの罠に 捕らわれないで、です。 いいですか?
1:04:58 そのとき、この自由、 愛と智恵の中で、 精神、頭脳は自然におしゃべり 好きではありません。 次から次へ思考を追求して いません。 静かです。 そうね、静寂は、自らの 響きを持っています。 思考が創り出す静寂は、 騒がしい。 自由である頭脳の静寂は、自らの 妙な響きを、持っています。 その響きの中から、 創造性が、あります。 あなたは、これらを してきたのでなければ、 これを理解しないでしょう。 それは、ただ 言葉だけのようです。 自らの響きをもった その静寂の中、 何か無制限であり、時がない ものが、あるかもしれません。 それは、永遠の愛である かもしれません。 理解されますか。 いいです。
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