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ユージン・シャラートとの対話 第1回
カリフォルニア、サンディエゴ
1972年2月17日

0:02 クリシュナムルティ  ユージン・シャラート神父との対話
0:07 J.クリシュナムルティは、南インドで 生まれて、イングランドで教育を受けた。 過去40年の間、彼は、合衆国、 ヨーロッパ、インド、 オーストラリアと、世界の 他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の始まりから、 組織された宗教と イデオロギーとの関連 すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、 人を絶対的に無条件に 自由にすることである、 と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者 であり、それらの中には、 『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、 『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 クリシュナムルティと対話 するのは、イエズス会の、 ユージン・ J.シャラート師、 サンフランシスコ大学の 社会学研究センターの 所長である。 シャラート神父は、そこの 社会学の准教授である。
1:02 S: 私たちはおそらく、私たちが生きる 世界に大いに実在するものの発見と、 私たちが大いに実在するものを 見るのをどう学ぶのかを、 互いに探検することから 出発すべきだと、思います。
1:24 K: あなたは、こう お考えになるでしょうか。 きわめて複雑な 人間の問題全体を きわめて明らかに見るには - 政治的、宗教的、 社会的に、だけではなく、 また、内的な道徳、 他なるものの感覚をも、です。 私たちがその言葉を 使えるなら、ですが - 自らは、全的な自由を 持たなければならない、と。
2:06 S: ええ。私は、私たちが生きる 世界に妥当な何をも、 どうしてとうてい探検 できるのか、分かりません - 彼自身の内的な自由の認識や 気づきの不在においては、です。 思うのですが、私たちは社会的、 経済的、政治的、道徳的な問題への 自らの接近が制限されているか、どうにか 制約されていることを、感じるには - 特に、私たちの 宗教的な問題に、ですが - 私たちは、実在の基礎、すなわち 自由であるとの基礎より他の、 何か基礎から、これらを 探検できないのだ、と。
2:43 K: ですが、ほとんどの宗教と ほとんどの文化は、 アジア、インドでも、 ヨーロッパ、ゆえにアメリカでも、 それらは、大変多く 精神を条件づけます。 旅行してまわると、 それに注目します - いかに、各国において、 各文化において、 精神を形作るために、彼らは、 ものすごく骨を折ってきたのです。
3:16 S: これが文化の機能であると、私は 思います - 精神を形作ることが、です。 あまり効果的な機能だとは思いませんが、 それが文化の機能であると、思います - 或る意味で、人間存在の圧倒的な次元との 間に、緩衝材を提供することが、です。 そのときそれは、すべての存在を 超越し、包摂するでしょうし、 それは、或る人物にとって、 圧倒的な経験になるのです。 文化は、或る意味で、和らげるのか、 文化を管理可能とか 何らかの形で行えるように しようと試みます。
3:47 K: はい。ですが、私は本当に 考えていました。 世界がいかに分割されているかを、 考えるとき - 政治的に、宗教的に、 社会的に、道徳的に、特に、 宗教的な分野において、です - すなわち、すべての文化を統合する 要因であるべきものにおいて、です - そこでは、諸宗教がいかに人を分離して きたのかが、見られます。  

S: ええ。
K: カトリック、プロテスタント、 ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、そして 彼らはみんな、「私たちはみんな一つの ものを探し求めている」と言っています。
4:28 S: ええ、どの与えられた宗教の 枠組みの中でさえ、 人々が、一つの下位集団を、 別の下位集団に対して、分割する 大きな傾向が、あります。これは、 固有であると思われます・・・
4:40 K: ゆえに、自由は、 条件づけられることの否定です - どの文化によっても、 どの宗教的な分割や 政治的な分割によっても、です。
4:58 S: 私は、究極的な自由は或る意味で、 そういう条件づけの否定であると、 考えるでしょうね。 自由への格闘は、正確には、 これら様々な条件づける過程を、 突き破ろうとか、もとを断とうとか、 もとに潜むものを突き止めよう とかする試みだと、思います。 条件づける過程自体は、 各々の人間において、進みます。 または、各々の花や 各々の動物において、です。 そして、自由の追求での 課題は、正確には、 究極的に実在であるものへ、 どうにか突き抜けることです。
5:34 K: 私たちがいう条件づけとは、 どういう意味かと、思っています。
5:38 S: 文化における条件づけは - 歴史をとおしてずっと、 そして、空間をとおして、ですが - ご存じのように、全く異なっています。 例えば、今日の西洋世界に おける条件づけは、主に、 理性的、論理的な過程の啓蒙の過程を とおして、達成されてきました。 それらは生産的であると 私は思います。 理性的な過程なしには、 私たちは、 話をするためのテレビ・ カメラを 持たなかったでしょう。 同時に、テレビ・ カメラでもって 私たちは、何も見ないかもしれません。 で、私たちが、自分たちの世界で 初期の条件づけ機関として、 取り扱っているものは、思考や 範疇や概念や構成物の種類の 世界全体ではないかと、疑っています - 私はそれらを、夢想と呼びますが、 すなわち、人々が取り扱い、どうやら 実在だと考えるもの、です。
6:31 K: はい。しかし、これらの 条件づけは、人を分離しませんか。
6:38 S: 疑いもなく、そうです。それらは、 人を分離します - 人自身の中でも、
6:41 K: ・・・外的にも。 S: 外的にも、ええ。
6:43 K: で、私たちが、平和に、戦争を 終わらせることに、関心を持っているなら
6:44 - その中で、このひどい暴力、 分離、残忍なこと、その他すべてが 終わることになる世界に、生きる ことに、(関心を持つなら)です - 私には、それが、どの真剣な宗教的な 人の機能でもあると、思われます。 なぜなら、宗教は、人を統合する たった一つの要因であると、 私は感じるからです。
7:20 S: はい。
7:21 K: 政治、経済、その他すべて ではなく、宗教的な要因です。 そして、人を まとめる代わりに、 宗教は、人を 分離してきたのです。
7:37 S: それが全く正しいのか、私には 定かではありません。私は、宗教は、 人々の間の統合力として、諸文化に より定義されてきたと、思います。 歴史には、それがかつて この特定の機能を達成したとの 証拠は、あまり多く ありません。 これはまた、どの与えられた宗教の 制限的な次元の機能でもあるのか、 または、宗教的な人々の 無能力であるのもしれません - 何らかの形で 自分たちの宗教的概念や、 自分たちの宗教的伝説や神話や 教義を超越できないことの、です。 それらを何と 呼びたいとしても、です。 事実、統合のために、より深い 基礎が、あると、私は思います。
8:16 K: 外のものから自由でなければ、 より深いものへ、行けません。 私の精神は、きわめて、きわめて 深く入らないでしょう - 信念から、教義からの自由が、 あるのでなければ、です。
8:30 S: それは或る意味で、真実だと、 思います。人の中に、 感覚が、なければならないと 思います - 意識、経験、何かが、 人自身の内的な自由の感覚が、です。 人が適正に、宗教的でありうる前に、 人が、宗教的な範疇を、 自分にとって意味を持つ 分析的な範疇として、 認められる前に、です。 どうにか人は、人間的で 自由でなければなりません - 彼が、宗教的だと考えられる前に、です。 起きてきたことは、正反対のことです。
9:02 K: はい、はい。ゆえに、私たちはこう 言っています。世界が今、何であるかを 実際に見て - 概念的に、 ではなく、分離の実際の事実、 戦争、世界中に普及しつつある、 ひどい暴力を、です。 人間たちに、本当の 統合をもたらしうるのは、 宗教的な精神であると、 私は感じます。
9:31 S: 私はむしろ、こう言うでしょう。 それは、人間精神か、見つつある精神、 すなわち、いわば何らかの昂揚を 感知可能かもしれないものである、と。 刺激という意味で、ではなく、 それ自体である現象へ 関連した何か昂揚です。 どうにか人々をまとめられるとか、 葛藤に終わりを達成できるものは、です。
9:53 K: 私たちは、こう訊ねることから、 それに接近できるでしょうか - 何が人を分離するのか、 何が人間を分割するのか、と。
10:05 S: 究極的には、 人らしさだと、思います。
10:06 K: 卑しさ? S: 人らしさです。
10:08 K: それは、どういう意味 ですか - 人らしさとは。
10:09 S: 私がいうその意味は、私たちが 自分たち自身について考える傾向です
10:12 - 存在としてより、むしろ、 人たちや人間として、ですし、 私たちが生きるところの 世界より、分離するのです。 樹、花、日の入り、 海、湖、川、 動物、鳥、魚より、そして 究極的に、お互いより、です。 K: すなわち、お互いより、です。
10:34 S: ええ、究極的にお互いより、です。
10:36 K: お互いよりね。それは、 これらの分離的な宗教により、
10:37 強められます。または、 それらをとおして、です。 私は、或ることを目指したいと 思います。 すなわち、 実在や真理は、 どの特定の宗教をとおしても、 接近されることになりますか。 または、それは、組織的な 宗教的な信念と宣伝、教義と、 すべての概念的な考え方が、 完全に去ってしまうときだけ、 接近可能か、 知覚可能なのですか。
11:27 S: 私は、それが完全に去るべき だと言うことが適正であるのか、 さほど定かではありません - 第一に、人間であるとか、 単純に第一に、 あるとの現象より 以降のたくさんの 他の理由のために、です。 思うに、私たちが、真理の問いを 目指そうとしているなら - それは、理解するとか、見るとか の問いだと、思うのですが - 私たちはまず第一に、あるとの 問いと、あることの内なる力学と あることの進化的な特徴全体の 問いを、目指さなくてはいけません。 11:58 私たちが始まりに、 その水準を目指さないなら、 私たちはどうにか本当に、様々な 宗教の「教え」が人々へ提供する いかなる価値をも、 目指さないでしょう。 それらの教えが、存在にとって、 あること、見ること、 理解すること、愛することや、 葛藤の終わりにとって 適当でないのなら - 否定的な 意味で、です - そのとき、どうやら それらの教えは、本当に人にとって適当 でありません。重要でありません。
12:28 K: 同意しますが、事実は 残っています。ただご覧ください。 事実は残っています。 自らがヒンドゥー 教徒やイスラム教徒に生まれるし、 彼が、それにより条件づけられる なら - その文化の中で、 その振るまいの様式の中で、です - そして、賦課されたか、 気をつけて養成された一連の信念に より、条件づけられるなら - 様々な宗教団体、裁可、書物、 その他すべてによって、です。 そして、もう一人は、キリスト教に より条件づけられるなら、 出会う点がありません - 概念的に以外は、です。
13:15 S: クリシュナジ、こう仰るつもりですか - 単純に、人が自由であるためには、 人はどうにか自分自身から、 いかなる宗教的なものをも 取り除かなくては いけないだろう。 特に宗教的なものを、だが、 また、政治的と文化的と 社会的な教義や教理や神話、 すなわち、彼が宗教的な人物として 自分自身に連携させてきた ものからも、と。
13:38 K: そのとおりです。なぜなら、 そうね、結局のところ、 生きる中で重要なのは、人間たちの 間の統合、調和であるからです。 それは、一人一人の中に調和が あるときだけ、訪れえます。 その調和は、内側と外側に、 外面的にか、内面的に どの形の分割もあるなら、 可能ではありません。 外面的には、政治的な分割、 地理的な分割、 民族的な分割が あるなら、 明白に、葛藤があるに ちがいありません。 そして、内的な分割が あるなら、 明白にそれは、大きな葛藤を 生み育てるにちがいありません - それが、暴力、残忍さ、攻撃性、 その他すべてに、表現されるのです。 で、人間たちは、このように 育てられています。 ヒンドゥー教徒、イスラム教徒は、 いつの時も、いがみ合っています。 または、アラブ人とユダヤ人、 または、アメリカ人、ロシア人 - よろしいですか。 外的に、これです。
14:49 S: 私たちがここで 取り扱っているのは、さほど 人間に対する外からの 調和の賦課や、 人間に対する不調和の賦課 ではないと、私は思います。 私の両手は、互いに完璧に調和し あっています。 指は一緒に動きます。 私の目は、私の両手と ともに、動きます。 思うのですが、私の精神の中や、 私の精神と私の感情との間には、 葛藤があるかもしれません。 私が、 一定の概念と観念を内面化してきた かぎりにおいては、です - そのとき それらは、葛藤の中にあります。
15:19 K: そのとおりです。 そのとおりです。
15:20 S: 私が自由であるならば、私が 発見しなければならないのは、 私の内に実際に、 調和があることです。 そして、私があなたと 一つであるのであるならば、 私はどうにか、自分の手から 発見しなければなりません - 「手よ、何かの一部であるとは、どの ようなことかを、語ってくれ」と。 なぜなら、私の手はすでに、私の腕と 調和的に存在しているからです - そして、私の身体と、 あなたと、です。 しかしそのとき、私の精神は、 これらの変な二元性を、設けます。
15:47 K: で、それが問題ですね。 これら二元性は、まず第一に、 人為的に創り出されていますか。 なぜなら、あなたはプロテスタント であり、私はカトリックであるとか、 私は共産主義者であり、あなたは 資本主義者であるからですが、 それらは、人為的に 創り出されていますか。 なぜなら、各々の社会が、 自らの既得権を持っていて、 各々の集団が、自らの特定の形の 安全を、持っているからですか。 または、分割は、 自分自身の中に、 「私」と非「私」により、 創り出されますか。 私がいう意味を理解されますか。
16:38 S: 仰る意味は、理解します。
16:39 K: 「私」は、私の自我、私の利己性、 私の野心、貪欲、妬みです。 それは、あなたを排除し、分離します - あなたがあの分野へ入らないように、です。
16:54 S: 思うのですが、本当に自分の利己性、 自分の貪欲、自分の野心を意識するか、 囲いの反対側での 自分の安全や、 自分の平和をさえ - 表面的な意味で、 です - 意識すればするほど、 彼は、内なる自己を、意識して いません。 すなわち、実は、すでに あなたと一つである者に、です - 私がどれ ほどそれに気づいていなかろうとも、です。
17:18 K: ちょっとお待ちください。 それは、危険なことになります。 なぜなら、ヒンドゥー教徒は、 ほとんどの宗教が主張してきたように、 あなたの中に、調和がある、 神がいる、実在があると、 主張してきたからです。 - あなたの中に、です。 あなたがしなくてはいけない すべては、腐敗の諸層、 偽善の諸層、愚かさの 諸層を、剥ぎとって、 次第に、あの点に 来ることです - あなたが調和の中に確立されて いるところに、です。 なぜなら、あなたはすでに それを、持っているからです。
17:56 S: ヒンドゥー教徒は、その特定の考え方を 独占していないと、私は思います。 私たちカトリックも、同じ問題を持って います。 
18:03 K: 同じ問題を、もちろんです。
18:05 S: 私たちは、発見に 直面しています - 見ること、理解すること、愛すること、 信用することの発見に、です。 これらすべての 初歩的な種類の言葉ですが、 私たちは、これらのことの 発見に、直面しています。 諸層を剥ぎとることが、それらを発見 する道であるとは、私は思いません。 思うのですが、それが腐敗の層や 善や悪や何の層であれ、 それは、それらを発見する 道ではありません。 自らは、自分自身を見つけるために、 自分自身の中の邪悪さの感覚より、 抽出するとか、離れたふりを するとか、しません。 必要とされるのは、透徹する共感的で 開いて自由な精神だと、私には思われます。
18:47 K: はい。ですが、どうやって、それに 来ますか。自らはどうしますか - 自らがそこで 育てられるとか、 自らがそこに生きるとかの 過ちすべてを、です - そのすべてを努力なく、脇に 置くことは、可能ですか。 なぜなら、努力があった瞬間、 歪曲があるからです。
19:14 S: 確かにそれは真実だと思います。 努力なく、すなわち、活動、 振るまい、多すぎる会話なしに、 ですが、確かに、 甚大な量のエネルギーの 支出なしに、ではない。
19:28 K: ああ! 努力がないとき、 あのエネルギーは、来られるだけです。
19:33 S: 正確です・・・
19:35 K: 軋轢がないなら、あなたは 豊富なエネルギーを、持っています!
19:40 S: 正確です。軋轢は、エネルギーの 幾らかを、破壊します。
19:44 エネルギーを散失させます。 K: ええ。 分離があるとき、軋轢が存在します - 正しいことと 間違ったこととの間、 邪悪と呼ばれることと、善いと 呼ばれることとの間に、です。 私が、善くあろうとしているなら、 私は、軋轢を創り出します。 で、問題は本当は、この豊富な エネルギーをどう持つのか、です - すなわち、どんな葛藤もなく 来るだろうものを、です。 真理が何であるかを発見するには、あの ものすごいエネルギーが、必要です。
20:23 S: または、善が何であるかを、です。 あなたがそこで使われる意味で、 私たちが善を取り扱うなら - 自分は善くあろうとする、と - 私たちは、規則を、法律を 取り扱っています。
20:34 K: いえ、いえ。そういう 意味ではありません!
20:35 S: 或る意味で、 道徳的な善です。
20:37 K: 善は、自由の中でのみ、花開きます。 それは、どの宗教的な裁可や どの宗教的な信念の法律の 中にも、花開きません。
20:46 S: または、政治的や経済的なものにも、 です。それについて疑問はありません。 すると思うのですが、私たちが、自由と 善と、あることの内なる意味を、 発見しようとしているなら、私たちは、 自分自身に言わなくてはいけません - 私たちがこれを発見して こなかった理由や、 私たちがなぜこれを発見して こなかったかの理由の一つは、 私たちが自分自身の中に、 物事の表面でもって出発し、 けっして終わらない、この変な 傾向を、持っているからです。 私たちは、そこに止まります - 自分たちが出発したところに、です。
21:19 K: で、私たちは、ここに 来られるでしょうか - 仮に、あなたと私が何も 知らない、とします。 どの宗教もなく・・・
21:32 S: 私たちは、何も構想もなく・・・
21:34 K: ・・・概念的な・・・ 観念が、まったくない。 私は、何も信念、教義を 持っていません。 何も、です! 私は、どう正しく生きるのかを、 どう善くあるのかを、見出したい。 どう善くあるのではない。善くある。
21:55 S: 善くある。ええ、ええ、ええ。
21:57 K: さて、そうするには、私は 探究しなくてはいけません。 私は観察しなくてはいけません。 ですね? 私はただ、観察できる・・・ 分割ないときだけ、 観察は可能です。
22:16 S: 観察は、分割を 消去するものです。
22:18 K: ええ。精神が、分割なく 観察する能力が、あるとき、 そのとき、私は知覚します。 そのとき、知覚があります。
22:29 S: 起きる、 どの見ることの中でも - 概念的か範疇的に見ることや、精神的 構造物を観察すること以上のですが - 起きる、どの見ることの中でも、 真理が、遭遇されます。 そして、あるのと真理と善は すべて、同じことです。
22:47 K: もちろんです。 もちろんです。
22:48 S: で、そのとき 問いは、こうです - なぜ私は、真理について 考えなくてはいけませんか。 まるでそれが、範疇の論理的一貫性と 連携しているかのように、です。 むしろまるで、真理が、私があること 自体と連携しているかのように、 それについて 考えるよりも、です。 私はどうやら、いつも、自分の世界を 部分化しなくてはいけないなら - 私たちは、二元性について語りました - 私たちがカトリックの宗教で頻繁にするか、 したかのように、身体と霊魂の二元性、 です。 
23:17 K: そして、悪魔、善と・・・
23:19 S: そして、善と邪悪が、 何らかの形に、受肉する。 私たちがいつも、そのように考えなくては いけないなら、私たちはけっして 見つけないでしょう・・・ 

K: 明白です。
23:25 S: ・・・それがどういう意味かを、です。
23:26 K: ・・・善くあるとは、ね。 S: 善くあるとは。ええ、ええ。
23:27 または、誠実であるとか、 そもそも、あるとかが、ね。
23:28 私は、これが問題であると思います。 あなたが提案なさったように、 こうも多くの世紀の文化的な 条件づけが、あるので - すべての眺望からです - で、それは困難です。
23:44 K: 人間たちは、この 二元的な生き方の中で、 育てられるんですね。 明白です。
23:50 S: はい。たぶん、私たちは、 もしも、善と悪の明白な二元性を、 考慮できなかったなら、これを もっとうまくできたのでしょう - 神聖なものと 世俗的なものとの、 正しいことと間違ったこととの、真理と 虚偽との(二元性)を、です。 これらの二元性の どれ一つとして、どうやら、 私たちを最も悪魔化させる 二元性に、取り組みません。 あなたと私の、男と女の 二元性に、です。
24:22 K: ええ、あなたと私の二元性、です。 さて、それの根は何ですか。 「私」と「あなた」、 我らと彼らの、 この分割の起源は、何ですか - 政治的に・・・よろしいですか。
24:37 S: 私たちに、これの起源はありえません。 なぜなら、私たちは一つであるからです - 私の手の指々が一つであるように、です。 私たちは、それに気づいていません。
24:44 K: ああ、待って。いいえ。あなたが 「私たちは一つである」と仰るとき、 それは、仮定です。 私は、自分が 一つであるのを、知りません。 実際に、分割は 存在します。 分割が止まるときだけ、 私は、そう言えます・ ・・ 私は、「私は一つである」と 言わなくていい。統合が、あります。
25:06 S: あなたは、「私はある」と言うとき、 「私は一つである」と言っています。
25:09 K: ああ、いいえ!
25:10 S: 「一つだ」を付け加えるのは、 「私がある」ことへの余剰です。
25:12 K: いえ、私は、これへ少し 入りたいと思います。なぜなら、 人間たちが生きるとき、ただ・ ・・ あなたと私が、あるのです - 私の神とあなたの神、私の国とあなたの 国、私の主義主張 - よろしいですか。 この私とあなた、 私とあなた、です。 さて、「私」は、 条件づけられた実体です。
25:35 S: はい。「私」は、 条件づけられた実体です。
25:38 K: 一歩一歩、行きましょう。 「私」は、条件づけです。 条件づけられた実体です - 文化をとおし、社会をとおし、 宗教をとおし、概念的、 思想的な生活をとおして、 もたらされ、 養われたのです。 利己的である「私」、 怒る、暴力的である「私」、 「私はあなたを愛している」、 「私は愛していない」と言う「私」 - そのすべてが、「私」です。 その私が、 分離の根です。
26:10 S: 疑いもない。事実、 あなたが使う用語法こそが、 あなたの観念の実体を、裏切ります。 「私」という言葉は、代名詞です。 一度私が自分自身から、あそこに見つめる べきものを、何か作ってしまったとき、 私はけっして、実在の何をも、 見えないでしょう。 なぜなら、私は、あそこに 見つめられるべく、いないからです。 一度私が、自由を、あそこの 追求すべき何かに、するとき、 私はけっして、自由を 達成しないでしょう。 一度私が、自由を、誰かが私に与えて くれる、あそこの何かにするとき、 私はけっして、自由を 達成しないでしょう。
26:43 K: ええ、ええ。すべての権威、 そのすべては、脇に押しやられます。 私とあなたが、います。 この分割が存在するかぎり、 あなたと私との間に、葛藤が あるにちがいありません。
26:54 S: 疑いもない。
26:55 K: あなたと私との間に、 葛藤があるだけではなく、 私の中にも、葛藤が あります。
27:01 S: 一度あなたが、自分自身を 客体化してきたとき、
27:04 あなたの中に、葛藤が あるにちがいありません。 K: で、私は見出したいのです - どうやってかを、ではない。 この私は、終わりうるのか どうか。 それで・・・ 私が終わる! そう言うことで、 十分です。「それで」ではない。
27:21 S: はい。なぜなら、 「私」が終わるなら、
27:26 明白に「それで」は、ないからです。 K: さて、「私」です。 精神から「私」を、完全に空っぽに することは、可能ですか。 意識的な水準で、 だけではなく、深く、 深い無意識の、自らがある 根において、です。
27:47 S: 私は、それは可能なだけでなく、 それは、私たちがあるために、 善くあるか、誠実であるために、支払わ なければならない対価だと思います。 または、そもそもある、 生きているために、です。 生きるために、私たちが 支払わなければならない対価は、 私たち自身から、「私」を、 「私性」を、取り除くことです。
28:03 K: 「私」を終わらせるために、 過程、体系、方法が、ありますか。
28:10 S: いいえ。過程や方法が あるとは、私は思いません。
28:13 K: ゆえに、過程はない。それは 即座に、されなければなりません。 さて、これが、私たちはきわめて 明らかでなければなりません。 なぜなら、すべての宗教は 過程を、主張してきたからです。 心理的に、進化的な 体系全体が、過程です。 あなたが、仰るなら - 私に とって、それは実在です - それは、とうてい 過程ではありえないのです - それ(過程)は、時、程度、 漸進性の事柄を、意味しています。 そのとき、たった一つの 問題が、あります - すなわち、それを即座に 終わらせることです。 S: はい。一歩でその怪物を破壊する。

K: 即座に、です。 
28:56 S: はい。
28:59 疑いもなく、それは、 されなければなりません。
29:00 私たちは、「私性」を 破壊しなければなりません。
29:07 K: いいえ、破壊する・・・私は使わない でしょう。「私」が終わることです - 蓄積すべてとともに、 経験すべてとともに、です。 それが意識的にと無意識的に 蓄積してきたこと、ですが、 その内容全体は、 放り出されうるのですか。 努力によって、 「私」によって、ではない。 私が、「私により私はそれを放り出そう」 と言うなら、それは、やはり「私」です。 S: はい。 
29:30 K: または、 私が意志の尽力により
29:31 それを放り出すなら、 それは、やはり「私」です。 「私」は 残っています。
29:38 S: 明らかに、私の考えにおいて それは、行為ではありません。 または、精神の活動でも、 意志の活動でもなく、 感情の活動でも、身体の 活動でもありません - それらは、私が「私」を見るのを、助けて くれるでしょうが - いえ、すみません - 私が見るように、助けてくれる でしょう。 
29:57 K: ええ、見るように。
29:59 S: 私たちは、この世界において、する ことに、持つことに、行為することに、 こうも包み込まれているので、 私たちは、自省的に、深遠に、 私たちが行為する前か、 私たちが所有する前に、 何が起きるかを、 本当に理解しないのです。 後ろへ反省して見ることが、 私たちの責務だと、私は思います - 見ることが起きる前に、 見ることがあるように、です。 見るという言葉の、 二つの意味で、です。 ちょうど、自分が愛することに気づく 前に、愛することがあるように、です。 そして確かに、ちょうど 自分があることに気づく前に、 あることが あるように、です。
30:37 K: はい。ですが、 私は・・・
30:40 S: 後ろへ反省する問いは、 深く内的で、深く十分ですか。
30:45 K: さて、ちょっとお待ちください。 それが困難です。なぜなら、 「私」は、意識的な水準と、意識の、 より深い水準に、あるからです。 意識的な精神は、無意識的な「私」を 検討し、それを露出させられますか。 または、意識の内容が、 「私」です!
31:18 S: いえ。自己は、 意識の内容を、超越します。 しかし、「私」は、 意識の内容であっていいが、 「私」は私ではなく、 「私」は、自己ではありません。
31:28 K: 待って、待って。私は、 「私」に、自己、自我を含めます - 私自身についての概念的な 観念化全体を、です。 より上の自己、 より下の自己、魂、 そのすべてが、 私の意識の内容です。 それが、私を作ります。それが、 自我を作ります。それが「私」です。
31:54 S: それは確かに「私」を作ります。ええ。 私はそれについて、疑いもなく同意します - それが、あの客観的自己を、作るのだ、 と。 すなわち、私が検討し分析でき、 見つめ、比較できるもの、私がそのことで 他の人たちと、暴力的でありうるものです。 それは、こう言っていいなら、 説明的です。 または、全部の総和 - すなわち、 「私」に入れられるもの - は、 現在の多数の関係全体の 歴史について説明的ですが、 それはやはり、実在に 到りつつありません。
32:23 K: はい。「私」があるなら、実在は、 到られません。または、花開けません。
32:32 S: 私が前に言いましたように、 いつでも私が、あなたを「私」として 眺めることを主張するとき、 実在は花開けないし、 自由は、ないでしょう。
32:43 K: で、私の意識の内容は - それが私です。 それが、私の自我、私の自己、 私の観念化、私の思考、 私の野心、私の貪欲です - そのすべてが「私」です。 私の民族、 私の安全への欲望、私の楽しみへの 欲望、私のセックスへの欲望、 私の、これをしたい、あれを したいとの欲望。 そのすべてが、 私の意識の内容です。 その内容が残っているかぎり、 分離が、あるにちがいありません - あなたと私との間、 善と悪との間に、です。 そして、分割全体が 起きます。 さて、私たちは言っています - その内容を空っぽにすることは、 時の過程ではありません。
33:32 S: またそれは、方法論に 従属していません。
33:34 K: 方法論に、ね。で、そのとき、 自らは、何をすることになりますか。 少しそれを見つめましょう。 これに ついて、少し時間を掛けましょう。 なぜなら、これは全く重要であるから です。 なぜなら、ほとんどの人々は、 「あなたは実践しなければならない」と 言うからです。 よろしいですか。 「あなたは、奮闘しなければならない。 あなたは、ものすごい努力をし、 規律ある生活をし、制御し、 抑制しなければならない」と。
33:59 S: 私は、そのすべてに、 きわめて慣れ親しんでいます。
34:01 K: それは、 すべてだめです!
34:04 S: それは、役立って きませんでした。
34:06 K: まったくです。 S: ええ、ええ。
34:07 K: で、内容はどうやって、 空っぽにされることになりますか
34:08 - いわば、一撃で、です。 S: 私はこう言うでしょう
34:15 - たぶん私たちは、ともに これを追求できるでしょう - 内容は、内容の否認の否定的 行為により、空っぽにできません。
34:26 K: ええ、ええ。明白です。
34:28 S: で、それは袋小路です。私たちは それに、そのように接近してはなりません。
34:32 K: 明白です。それを拒否することにより、 あなたはそれを、絨毯の下に隠しています。 それは、閉じ込めてしまうのに、似て います。 それはやはり、そこにあります。 S: それは、ふりをすることです。
34:38 K: そうなんです。
34:40 自らは、これを 見なくてはいけません。 ここで、ものすごく 正直でなくてはいけません。 さもないと、自分自身に悪戯を します。 自分自身を欺瞞します。 私は明らかに、論理的に見ます - 「私」は 世界の中の過ちであることを、です。
35:03 S: 私は、単純に直観的にほど、 論理的には、それが見えませんね。
35:07 K: いいですよ。 S: それは、 議論的な行為の結果ではありません。
35:09 K: ええ、ええ、もちろんです。 S: それは、弁証法的ではなく・・・
35:11 K: 分析的、弁証法的ではない。 あなたはそれを見ます。
35:11 あなたは、利己的な人間を見ます - それが政治的に上でも、下でも、ですが、
35:12 あなたは、人間たちが 利己的なのを、見ます - そして、彼らがいかに 破壊的であるかを、です。 さて、問題、問いはこうです - この内容は、空っぽにされますか。 それで、精神が本当に 空っぽであり、 活動的であり、ゆえに、 知覚能力があるように、です。
35:46 S: たぶん内容は、単純に 空っぽにできません。 内容は、その不適切さや その不適合のために、 眺望に入れられうるとか、 見られうると、私は思います - 単純に見る、きわめて 精力的な行為によって、です。 それが、始まりに 私が言ったことです - 私が、どの与えられた宗教の 真理をも見つめるかぎり、 私は、真理自体を 見つけつつありません。 どの与えられた宗教の真理の、相対的な 価値をも、私が発見する道は、 的確に、真理自体を 見ることによって、です - 対象物として、ではなく、 それ自体において、です。
36:26 K: いいえ。私はできません。 精神は、真理を知覚できません - 分割があるなら、です。私は それに拘らなければなりません。
36:35 S: 一度あなたが、どの種類でも 分割を持っているなら・・・
36:37 K: それは終了しました。 S: ・・・ そのときあなたは、範疇的水準にいます。
36:39 そのときあなたは、見ないでしょう。 K: ゆえに、私の問いは、
36:41 精神がその内容を空っぽに できるのかどうか、です。 これは本当に・・・ 付いてきておられますか。
36:51 S: 私は、仰っていることに、 付いていっていますが、 あなたは新しい方法論を、 創案しつつあると、私は思います。
36:55 K: ああ、いいえ、いいえ! 私は 方法論を、創案しつつありません。 私は、方法を 信じていません。 それらは最も機械的な、破壊的な ものであると、私は思います。
37:05 S: でも、そのとき、それを仰った後、 あなたは戻ってきて、仰いますが、 もし精神が・ ・・もし自己が 本当に見ることになるなら、 それは、自分自身から内容を 空っぽにしなければなりません。 これは、方法ではないですか。
37:18 K: いいえ、いいえ。
37:19 S: でも、なぜ、それは 方法ではないのですか。
37:20 K: お示ししましょう。 それは、方法ではありません。 なぜなら、私たちは、 こう言ったからです - 分割があるかぎり、 葛藤があるにちがいない、と。 そうなのです - 政治的に、宗教的に、です。 そして私たちは、言います - 「私」のせいで、分割は存在する、と。 「私」は、 私の意識の内容です。 そして、精神を空っぽにすることが、 統合をもたらす、と。 私はこれを見ます。 論理的に、ではなく、 事実として、です。概念的に、ではない。 私は、これが世の中で起きて いるのを、見ます。 そして私は、 「このすべては、なんと不条理だ。 何と残酷だ」と言います。 そして、それへの知覚が 精神を、空っぽにします。 知覚することこそが、 空っぽにする行為です。
38:14 S: 提案なさっていることは、意識の 内容や「私」の不適切さへの知覚、 これの不適切さや「私」の 無真実さへの知覚はそれ自体が、 あることの発見でないか、と。
38:32 K: そのとおりです。そのとおりです。
38:34 S: 私たちはそれを 追求すべきだと、私は思います。
38:35 K: そうすべきです。
38:37 S: なぜなら、知覚は実は、 そんなに否定的なのか、 または実は、とても肯定的なのかも しれないと、思われるからです。 すなわち、それはむしろ、物事が あるのを、単純に見ることにある、と。 それは、客観的な意味で、私や あなたでなくていいでしょう。 それは、このテーブルや私の手や、 何であっていいかもしれません - 意識の内容といったものの不適切さを、 私が発見するのは、です。 または、 「私」やあなたのように、これら客観的種類 の物事のそれを、客観的な意味で、です。 で、それは、知的な、または むしろ人格的なエネルギーの かなり深遠な展示なのかも しれません - 展示の理由により、単純に私に 可視化するのは、です。 それは容易い。 それは消散するし、 同時に概念を取り扱うことは、容易い。 私たちは、それについて合意しました。 概念を創り出すことは、容易い。 単純に見ることのほうが、 容易いと、私は主張します。 K: もちろんです。
39:39 S: 概念より先に、です。
39:40 K: 見る。 S: ただ単純に見る。
39:41 K: 私はできない・・・ 知覚はありません -
39:43 もしその知覚が、イメージを とおして、であるなら、です。
39:44 S: 知覚がイメージをとおして、 であるなら、知覚はない。
39:54 それはきわめて真実だと、 思います。
39:59 K: さて、精神は イメージを持っています。
40:03 S: 精神は、イメージでもって 悪魔化します。 K: そうなんです。
40:05 それは、イメージを持っています。 私は、あなたのイメージを持っています。 あなたは、私のイメージを 持っています。 これらのイメージは、接触をとおし、 関係をとおして、築かれます - あなたがこれを言うこと、あなたが 私を傷つけることをとおして、です。 そうね、それは築かれています。 そこにある - それは記憶です。 脳細胞自体が、記憶の残滓です - それは、イメージ形成です。 ですね? さて、そのとき 問いは、こうです。 記憶は - すなわち知識です - 機能するには、必要です。 技術的に、です。 家へ歩くとか、車で 家へ帰るには、私は記憶が必要です。 ゆえに、記憶は、知識として 所を、持っています。 そして、イメージと しての知識は、 人間たちの間の関係において、 何の所をも、持っていません。
41:15 S: 私たちは、手近な主題を忌避し つつあると、私はやはり思います。 なぜなら、記憶の問いに 関係して仰ってきたことは、 提案なさってきたように、ひどく 重要であると、思うからですが、 記憶は、または、 意識による記憶の否認や、 意識の内容の否認は、問題の 解決であるとは、私は思いません。 思うに、私たちがしなくては いけないのは、 それはどうしてなのか - クリシュナジ、あなたは・ ・・ 私は今、方法論について 話していません。 あなたが見てこられたのを、 私は知っています。 あなたが見たとか、あなたが 見るのは、どのようにですか。 あなたがどう見るかを 私に叙述するために、 あなたが何を消去したのかを、 私に語らないでください。
41:57 K: 私は、自分がどう見たかを、お話し しましょう。あなたは単純に見るのです!
42:00 S: はい。さて、仮に、あなたが、 誰かそういう経験を持たない人へ、 「あなたは単純に見る」と 言いたかった、としましょう。 なぜなら、私自身はいつの時も、 同じことを、言うからです - 「あなたは単純に 見るんですね」と。 そして人々は、「あなたは単純に 見る。 どうやって?」と言います。 私たちは、教師であるのであれば、 どうにか、 これを取り扱わなければなりません - 「私はあなたの手を取るし、 私はあなたに、どう見るのかを 示しましょう」と。
42:23 K: 私はお示ししましょう。 それは相当、単純だと思います。 まず第一に、自らは、世界が何で あるかを、見なくてはいけません。 あなたのまわりに、何が あるのかを、見る。 見る。どちらかに 付かないでください。
42:42 S: ええ。私たちの用語法は、ここで じゃまをするかもしれないと、思います。 仮に、「世界が何であるかを見ること により、出発しなければならない」と 言うより、むしろ私たちは、 「世界を見なければならない」と 言うことにより、 出発できたと、しましょう - 本性や範疇に、 関心を持たずに、です。 K: いえ、いえ。世界を見る。
42:58 S: ええ、何であるか、ではない。
42:59 K: 世界を見る。 S: 世界を見る。
43:00 K: 同じことです - 世界を見る。
43:01 S: ええ。  K: 世界をありのままに見る。
43:02 それを、あなたの概念ということに 立って、翻訳しないでください。
43:03 S: さて、またもや私は、「世界を、 そのありつつあるとおりに、見る」
43:03 と言えるのでしょうか。 K: ええ、表してください。
43:10 S: それは、助けになりますか。 私たちは試しているんですが・・・
43:15 K: 世界をありままに見る。あなたは 世界を、ありのままに見られません -
43:17 もしあなたがそれを、自分の用語法で、 自分の範疇で、自分の気質で、
43:19 自分の先入観で、解釈するなら、です。 それをありのままに、見てください。 暴力的だ、残忍だ - それが 何であっても、です。 S: または、善い、美しい、と。
43:37 K: それが何であっても、です。
43:40 あなたは、それを そのように見つめられますか。 それは、 こういう意味です - あなたは樹を、樹のイメージなく、 見つめられますか。 植物学的と、名づけのすべてなく、 ただ樹を見つめられますか。
43:55 S: 一度あなたが、発見したなら - 私たちの世界で発見するのは、 容易くないが - 樹を見る単純な経験、です。 樹たることや その本性を考えることなく、 または、仰るように、その植物学と その種類のことなく、です。 そのとき、見ることの 追求の中で、 次の一歩は何だと、 提案なさるのでしょうか。
44:18 K: そのとき、私自身を、私の ありのままに、見ることです。
44:24 S: あなたの意識の内容の下の、です。 K: すべてを見る。下のではない。
44:26 私はまだ、始めていません。 私は、私が何であるかを見ます。 ゆえに、自己を知ることです。 私自身 への観察が、なければなりません。 私のありのままに、です。 何とひどい、 何と醜い、何と美しい、 何と感傷的だと言うことなく、です。 ただ、私自身の動きすべてに、気づく - 意識的なものと同じく、 無意識的なものにも、です。 私は樹で始めます。 方法、過程 ではなく、私はあれを見ます。 また私はこのように、私自身を 見なければなりません。 偽善、私がやるごまかし。 よろしい ですか - その全体を、です。 何の選択もない見守り。 ただ見守る。 私自身を知る。 いつの時も、私自身を知る。
45:24 S: しかし、非分析的な 流儀で、です。
45:27 K: もちろんです。しかし、精神は、 分析的であるよう、訓練されています。 で、私はそれを、追求しなくては いけません。 なぜ私は、分析的ですか。 それを見守ってください。 それの無益さを、見てください。 それは、時間が掛かります - 分析は、です。 あなたは本当に、けっして 分析できません - 専門職によっても、 自分自身によっても、です。 で、それの無益さ、それの不条理、 それの危険を、見てください。 で、あなたは、何をしていますか。 あなたは物事を、ありのままに見ています - 起きつつあることを、 実際に、です。
46:07 S: 私の傾向は、こう言うことでしょうね - 私たちが、これについて議論するとき、 私たちは、これらの言葉を使うかも しれません。 例えば、自己を存分に見る - その否定的と肯定的な極性 すべてとともに、です。 自己を存分に見る。 そのとき、 自己の一定の次元を 分析的に見つめることの 無益さを、悟る - そのとき「でもやはり、私は見なければ ならない」と言うことの、です。 K: もちろんです。
46:34 S: なぜなら、この点で
46:35 私はまだ、見えていないからです。 私が見てきたすべては、 分析的な範疇であるからです - すなわち、私がどうにか 自分自身を細切れに解き明かす ために、使ってきたものです。
46:44 K: そういうわけで、 私は言ったのです -
46:48 あなたは知識なく、樹を 見つめられますか、と。 S: 先の条件づけなく。
46:49 K: 先の条件づけ、ね。 あなたは見つめられますか。 あなたは、花を見つめられますか - 何も言葉なく、です。
46:59 S: 私は、いかに自分がどうにか 自己を見つめられなければ ならないのかが、分かります。 私は、あなた、クリシュナムルティを 見つめられなければなりません - そして、「クリシュナムルティ」と いう言葉を、使わないのです。 さもないと、私はあなたを見ない でしょう。 
47:12 K: そのとおりです。
47:13 S: これは真実です。 K: そのとおりです。 S: さて、私は、考えるのをとおして、 学んできた後 - 「私はどうにか、 その言葉を使いもせず、あなたを 見なければならない」と言って、です。 それから・・・
47:25 K: 言葉、形、イメージ、 そのイメージの内容、 その他すべてを、です。
47:32 S: ええ。何でも言葉が表示する ことを、私は使ってはなりません。
47:34 K: それは、ものすごい 見守りを、必要とします。
47:38 S: はい。それは、 必要とします・・・
47:41 K: 見守りを、ね - 訂正ではない、 「私はしなければならない。 私はしてはならない」と言わない との意味で、です。見守っている。
47:51 S: あなたが、「見守っている」との言葉を 使われるとき - またもや、ですが、 私たちは、教えているから、自らの 言葉に、気をつけなければなりません。
47:57 K: または、気づいている。どんな 言葉を使われても、構いません。
48:01 S: 見守ることは、観察の含蓄を持って います。観察(オブザベーション)は (語源的に)見つめるために、何かを あそこに置くとの含蓄を、持っています - 科学者が、顕微鏡のもとで、 するように、です。 これは、私たちが教えたくない ことだと、私は思います。 K: ええ。もちろんです。もちろんです。
48:13 S: で、今、クリシュナジ、
48:15 もしもあなたが、またもや「見守る」 という言葉を、使えたなら・・・
48:21 K: 見守る代わりに、気づいている。 選択なく気づいている。
48:25 S: 選択なく気づいている。 良いです。だいじょうぶです。
48:27 K: そのとおり。 S: これを 私たちは、しなければなりません。
48:28 K: ええ。 選択なく気づく・・・
48:29 ・・・この二元論的、分析的、 概念的な生き方に、です。 それに気づいてください。 それを訂正しないで、 「これは正しい」とか言わないで、 それに気づいてください。 危機があるとき、私たちは、これに こうも強烈に、気づいています。
49:04 S: 私たちはこの問題に1インチ、先行 する別のものを持っていると、思います。 私は、他の問題は こうであると、思います。 どんな種類の問いを、私は 自分自身に訊ねられるのか - 範疇を使わずに、 あなたに気づくために、です。 または、あなたに気づく中で、 私が、範疇と決まり文句と、 これらすべての他のおかしなイメージ - いつの時も私が使うもの - を、 使っているとの事実に、気づくことです。 私があなたに話しかける道が、 何かありますか - 一定の 種類の言葉を使って、です。 観念ではない。 観念に まったく関係しない言葉を、 観念に関係しない、 一定の種類の言葉を使って、です。 で、どうにか言葉が、私に教えてくれる だろうようにか、あなたや誰にでも、 何かもっと重要な、もっと意義深いものが あなたにあると、教えるように、です - あなたの名前や あなたの本性やあなたの内容、 あなたの意識やあなたの善や あなたの悪よりも、です。 50:03 あなたは、どんな言葉を使われるの でしょうか - もしもあなたが、 若者へ、または老人へ教える ことになったとしたなら、です。 私たちはみんな、問題を 持っているからです。 それを理解可能にするために、あなたは どんな言葉を、使われるのでしょうか - 非理性的か・ ・・むしろ 理性以前の形で、ですが - あなたは、あなたの名前が含蓄する もの以上であることを、です。
50:25 K: 私はその言葉を、使うだろうと、 思います - 選択なく気づく。
50:30 S: 選択なく。 K: 選択なく気づく。 なぜなら、選択することは
50:31 - 私たちがそうするように - 私たちの 大きな葛藤の一つであるからです。
50:42 S: 私たちは、何か変な理由のために、 選択を、自由と連携させます - それは、自由の 反対命題です。 K: それは不条理です。もちろんです!
50:48 S: それは不条理です。はい。
50:50 が、今、で、そのとき、 自由に気づくこと。
50:55 K: ええ。自由に、 選択なく、です。
50:57 S: 選択なしとの意味において、 自由に気づく。
51:00 さて、仮に、誰かが、こう 言いたいと思う、としましょう。 「でも、私は、あなたが選択なく 気づくと仰ることの意味を、 完全には理解できません。あなたが 仰る意味を、示してもらえますか」と。
51:13 K: お示ししましょう。まず第一に、 選択は、二元性を含意しています。
51:23 S: 選択は、二元性を 含意しています。ええ。
51:25 K: しかし、選択はあります。私は、 他の絨毯より、あの絨毯が良いと、 選択します。 その水準で、選択は 存在しなければなりません。 しかし、あなた自身への 気づきが、あるとき、 選択は、二元性を含意しています。 選択は、努力を含意しています。
51:46 S: 選択は、制限への高度に発達した 意識を、含意しています。
51:51 K: ええ、ええ。選択はまた、 順応をも、含意しています。
51:57 S: 選択は、順応を含意しています - 文化的な条件づけを、です。
52:01 K: 順応ね。順応は、模倣を 意味しています。 S: ええ。
52:03 K: 模倣は、もっと多くの 葛藤を、意味しています
52:04 - 何かを叶えるよう 生きようとすることを、です。 で、あの言葉の理解が、 なければなりません - 言語的にだけでなく、内的にも、 それの意味、それの意義を、です。 すなわち、私は、選択の十分な意義を 理解します - 選択全部の、です。
52:26 S: 私は今、これを翻訳しようと 試みてもいいですか。
52:28 K: ええ。 S: あなたは、 こう仰るのでしょうか -
52:29 選択なき気づきは、 私がどうにか、あなたの存在を 私の中へ意識していることを、 意味している、と。 そして、私は選択が要らない。 選択は、不適当である。 選択は、抽象的である。 選択は 範疇と関わりがある、と。 私があなたを見てきて、私はあなたを 選択しなければならないとか、 あなたを好きだと選択しなければ、 とか、あなたを愛すると 選択しなければならないとか 感じないときです。 それで、何も選択が、 関与していない。 そのときあなたは、私はあなたへの 選択なき気づきを持っていると、 仰るのでしょうか。
53:02 K: はい。ですが、そうですね、 愛に、選択が ありますか。 私は愛しています。 選択がありますか。
53:17 S: 愛に、選択は ありません。
53:19 K: ええ。そうなのです。 選択は、知能の過程です。 私はこれを、説明します - 私たちが できるかぎり、それについて議論し、 それに入りますが、私は それの意義が、見えます。 さて、気づくこと。 それは、 どういう意味ですか - 気づくとは。 あなたのまわりの物事に、気づく - 外的に、です。 また内的にも、起きつつあることに、 気づく - あなたの動機、心配にです。 気づく。 またもや選択なく、 見守る、見つめる、聞く。 それで、あなたは、何も思考の 動きなく、見守っているのです。 思考は、イメージです。 思考は、言葉です。 見守る - 思考が入ってきて、 あなたをどの方向へも 押すことなく、です。 ただ見守る。
54:19 S: あなたは前に、仰ったとき、 より良い言葉を使われたと、思います。
54:22 K: 気づく。 S: 気づいている。
54:23 K: はい。
54:24 S: なぜなら、それは、精神や 感情の行為より、むしろ、
54:24 存在の行為であるからです。 K: もちろんです。もちろんです。
54:29 S: で、そのとき私はしなくては いけない・・・私はどうにか、結局、
54:30 ゆえに、気づかなくてはいけません。 - 認知以前的な意味で、 あなたの存在に、です。
54:42 K: 気づく。そのとおりです。
54:43 S: これが、選択に先行します。 K: はい。
54:44 S: それは、選択を 不必要にします。
54:45 K: 選択はありません。 気づく。選択はありません。
54:48 S: 気づく。 選択なく気づく。
54:50 K: さて、そこから、 「私」への気づきが、あります。
54:52 気づき。どれほど偽善的なのか - ご存じですね - 「私」と「あなた」の 動きの全体、です。
55:11 S: あなたは今、後へ 動いていかれます。
55:14 私たちはすでに・・・ K: 意図的に、です。知っています。 私たちがそれを関係させられる ように、私は動きました。 それで、「私」より自由である 精神のこの性質が、あるように、 ゆえに、分離がないように、です。 私は 「私たちは一つである」と言いません。 私たちは統合を、概念的なものでなく、 生きものとして、発見しました - この選択なき注意の 感覚が、あるとき、です。
55:44 S: ええ。
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