SD72CES1 - 善は、自由の中で花開くのみ。

ユージン・シャラートとの対話 第1回
カリフォルニア、サンディエゴ
1972年2月17日
テキストのみのバージョン
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クリシュナムルティ ユージン・シャラート神父との対話
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J.クリシュナムルティは、南インドで 生まれて、イングランドで教育を受けた。
過去40年の間、彼は、合衆国、 ヨーロッパ、インド、
オーストラリアと、世界の 他の地方で、話をしてきた。
彼は、生涯の仕事の始まりから、 組織された宗教と
イデオロギーとの関連 すべてを、拒絶して、
自らの唯一つの関心事は、 人を絶対的に無条件に
自由にすることである、 と言ってきた。
彼は、多くの書物の著者 であり、それらの中には、
『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、
『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。
クリシュナムルティと対話 するのは、イエズス会の、
ユージン・
J.シャラート師、 サンフランシスコ大学の
社会学研究センターの 所長である。
シャラート神父は、そこの 社会学の准教授である。
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1:02
S: 私たちはおそらく、私たちが生きる 世界に大いに実在するものの発見と、
私たちが大いに実在するものを 見るのをどう学ぶのかを、
互いに探検することから 出発すべきだと、思います。
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1:24
K: あなたは、こう お考えになるでしょうか。
きわめて複雑な 人間の問題全体を
きわめて明らかに見るには
- 政治的、宗教的、 社会的に、だけではなく、
また、内的な道徳、 他なるものの感覚をも、です。
私たちがその言葉を 使えるなら、ですが -
自らは、全的な自由を 持たなければならない、と。
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2:06
S: ええ。私は、私たちが生きる 世界に妥当な何をも、
どうしてとうてい探検 できるのか、分かりません -
彼自身の内的な自由の認識や 気づきの不在においては、です。
思うのですが、私たちは社会的、 経済的、政治的、道徳的な問題への
自らの接近が制限されているか、どうにか 制約されていることを、感じるには
- 特に、私たちの 宗教的な問題に、ですが -
私たちは、実在の基礎、すなわち 自由であるとの基礎より他の、
何か基礎から、これらを 探検できないのだ、と。
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2:43
K: ですが、ほとんどの宗教と ほとんどの文化は、
アジア、インドでも、 ヨーロッパ、ゆえにアメリカでも、
それらは、大変多く 精神を条件づけます。
旅行してまわると、 それに注目します -
いかに、各国において、 各文化において、
精神を形作るために、彼らは、 ものすごく骨を折ってきたのです。
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3:16
S: これが文化の機能であると、私は 思います - 精神を形作ることが、です。
あまり効果的な機能だとは思いませんが、 それが文化の機能であると、思います -
或る意味で、人間存在の圧倒的な次元との 間に、緩衝材を提供することが、です。
そのときそれは、すべての存在を 超越し、包摂するでしょうし、
それは、或る人物にとって、 圧倒的な経験になるのです。
文化は、或る意味で、和らげるのか、 文化を管理可能とか
何らかの形で行えるように しようと試みます。
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3:47
K: はい。ですが、私は本当に 考えていました。
世界がいかに分割されているかを、 考えるとき - 政治的に、宗教的に、
社会的に、道徳的に、特に、 宗教的な分野において、です
- すなわち、すべての文化を統合する 要因であるべきものにおいて、です -
そこでは、諸宗教がいかに人を分離して きたのかが、見られます。
S: ええ。
K: カトリック、プロテスタント、 ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、そして
彼らはみんな、「私たちはみんな一つの ものを探し求めている」と言っています。
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4:28
S: ええ、どの与えられた宗教の 枠組みの中でさえ、
人々が、一つの下位集団を、 別の下位集団に対して、分割する
大きな傾向が、あります。これは、 固有であると思われます・・・
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4:40
K: ゆえに、自由は、
条件づけられることの否定です - どの文化によっても、
どの宗教的な分割や 政治的な分割によっても、です。
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4:58
S: 私は、究極的な自由は或る意味で、 そういう条件づけの否定であると、
考えるでしょうね。
自由への格闘は、正確には、
これら様々な条件づける過程を、 突き破ろうとか、もとを断とうとか、
もとに潜むものを突き止めよう とかする試みだと、思います。
条件づける過程自体は、 各々の人間において、進みます。
または、各々の花や 各々の動物において、です。
そして、自由の追求での 課題は、正確には、
究極的に実在であるものへ、 どうにか突き抜けることです。
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5:34
K: 私たちがいう条件づけとは、 どういう意味かと、思っています。
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5:38
S: 文化における条件づけは - 歴史をとおしてずっと、
そして、空間をとおして、ですが - ご存じのように、全く異なっています。
例えば、今日の西洋世界に おける条件づけは、主に、
理性的、論理的な過程の啓蒙の過程を とおして、達成されてきました。
それらは生産的であると 私は思います。
理性的な過程なしには、 私たちは、
話をするためのテレビ・
カメラを 持たなかったでしょう。
同時に、テレビ・
カメラでもって 私たちは、何も見ないかもしれません。
で、私たちが、自分たちの世界で 初期の条件づけ機関として、
取り扱っているものは、思考や 範疇や概念や構成物の種類の
世界全体ではないかと、疑っています - 私はそれらを、夢想と呼びますが、
すなわち、人々が取り扱い、どうやら 実在だと考えるもの、です。
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6:31
K: はい。しかし、これらの 条件づけは、人を分離しませんか。
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6:38
S: 疑いもなく、そうです。それらは、 人を分離します - 人自身の中でも、
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6:41
K: ・・・外的にも。 S: 外的にも、ええ。
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6:43
K: で、私たちが、平和に、戦争を 終わらせることに、関心を持っているなら
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6:44
- その中で、このひどい暴力、 分離、残忍なこと、その他すべてが
終わることになる世界に、生きる ことに、(関心を持つなら)です -
私には、それが、どの真剣な宗教的な 人の機能でもあると、思われます。
なぜなら、宗教は、人を統合する たった一つの要因であると、
私は感じるからです。
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7:20
S: はい。
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7:21
K: 政治、経済、その他すべて ではなく、宗教的な要因です。
そして、人を まとめる代わりに、
宗教は、人を 分離してきたのです。
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7:37
S: それが全く正しいのか、私には 定かではありません。私は、宗教は、
人々の間の統合力として、諸文化に より定義されてきたと、思います。
歴史には、それがかつて この特定の機能を達成したとの
証拠は、あまり多く ありません。
これはまた、どの与えられた宗教の 制限的な次元の機能でもあるのか、
または、宗教的な人々の 無能力であるのもしれません
- 何らかの形で 自分たちの宗教的概念や、
自分たちの宗教的伝説や神話や 教義を超越できないことの、です。
それらを何と 呼びたいとしても、です。
事実、統合のために、より深い 基礎が、あると、私は思います。
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8:16
K: 外のものから自由でなければ、 より深いものへ、行けません。
私の精神は、きわめて、きわめて 深く入らないでしょう -
信念から、教義からの自由が、 あるのでなければ、です。
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8:30
S: それは或る意味で、真実だと、 思います。人の中に、
感覚が、なければならないと 思います - 意識、経験、何かが、
人自身の内的な自由の感覚が、です。
人が適正に、宗教的でありうる前に、
人が、宗教的な範疇を、 自分にとって意味を持つ
分析的な範疇として、 認められる前に、です。
どうにか人は、人間的で 自由でなければなりません -
彼が、宗教的だと考えられる前に、です。 起きてきたことは、正反対のことです。
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9:02
K: はい、はい。ゆえに、私たちはこう 言っています。世界が今、何であるかを
実際に見て - 概念的に、 ではなく、分離の実際の事実、
戦争、世界中に普及しつつある、 ひどい暴力を、です。
人間たちに、本当の 統合をもたらしうるのは、
宗教的な精神であると、 私は感じます。
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9:31
S: 私はむしろ、こう言うでしょう。 それは、人間精神か、見つつある精神、
すなわち、いわば何らかの昂揚を 感知可能かもしれないものである、と。
刺激という意味で、ではなく、
それ自体である現象へ 関連した何か昂揚です。
どうにか人々をまとめられるとか、 葛藤に終わりを達成できるものは、です。
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9:53
K: 私たちは、こう訊ねることから、 それに接近できるでしょうか
- 何が人を分離するのか、 何が人間を分割するのか、と。
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10:05
S: 究極的には、 人らしさだと、思います。
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10:06
K: 卑しさ? S: 人らしさです。
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10:08
K: それは、どういう意味 ですか - 人らしさとは。
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10:09
S: 私がいうその意味は、私たちが 自分たち自身について考える傾向です
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10:12
- 存在としてより、むしろ、 人たちや人間として、ですし、
私たちが生きるところの 世界より、分離するのです。
樹、花、日の入り、 海、湖、川、
動物、鳥、魚より、そして 究極的に、お互いより、です。
K: すなわち、お互いより、です。
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10:34
S: ええ、究極的にお互いより、です。
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10:36
K: お互いよりね。それは、 これらの分離的な宗教により、
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10:37
強められます。または、 それらをとおして、です。
私は、或ることを目指したいと 思います。
すなわち、
実在や真理は、
どの特定の宗教をとおしても、 接近されることになりますか。
または、それは、組織的な 宗教的な信念と宣伝、教義と、
すべての概念的な考え方が、 完全に去ってしまうときだけ、
接近可能か、 知覚可能なのですか。
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11:27
S: 私は、それが完全に去るべき だと言うことが適正であるのか、
さほど定かではありません - 第一に、人間であるとか、
単純に第一に、 あるとの現象より
以降のたくさんの 他の理由のために、です。
思うに、私たちが、真理の問いを 目指そうとしているなら
- それは、理解するとか、見るとか の問いだと、思うのですが -
私たちはまず第一に、あるとの 問いと、あることの内なる力学と
あることの進化的な特徴全体の 問いを、目指さなくてはいけません。
11:58
私たちが始まりに、 その水準を目指さないなら、
私たちはどうにか本当に、様々な 宗教の「教え」が人々へ提供する
いかなる価値をも、 目指さないでしょう。
それらの教えが、存在にとって、 あること、見ること、
理解すること、愛することや、 葛藤の終わりにとって
適当でないのなら - 否定的な 意味で、です - そのとき、どうやら
それらの教えは、本当に人にとって適当 でありません。重要でありません。
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12:28
K: 同意しますが、事実は 残っています。ただご覧ください。
事実は残っています。
自らがヒンドゥー 教徒やイスラム教徒に生まれるし、
彼が、それにより条件づけられる なら - その文化の中で、
その振るまいの様式の中で、です - そして、賦課されたか、
気をつけて養成された一連の信念に より、条件づけられるなら
- 様々な宗教団体、裁可、書物、 その他すべてによって、です。
そして、もう一人は、キリスト教に より条件づけられるなら、
出会う点がありません - 概念的に以外は、です。
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13:15
S: クリシュナジ、こう仰るつもりですか - 単純に、人が自由であるためには、
人はどうにか自分自身から、 いかなる宗教的なものをも
取り除かなくては いけないだろう。
特に宗教的なものを、だが、 また、政治的と文化的と
社会的な教義や教理や神話、 すなわち、彼が宗教的な人物として
自分自身に連携させてきた ものからも、と。
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13:38
K: そのとおりです。なぜなら、 そうね、結局のところ、
生きる中で重要なのは、人間たちの 間の統合、調和であるからです。
それは、一人一人の中に調和が あるときだけ、訪れえます。
その調和は、内側と外側に、 外面的にか、内面的に
どの形の分割もあるなら、 可能ではありません。
外面的には、政治的な分割、 地理的な分割、
民族的な分割が あるなら、
明白に、葛藤があるに ちがいありません。
そして、内的な分割が あるなら、
明白にそれは、大きな葛藤を 生み育てるにちがいありません -
それが、暴力、残忍さ、攻撃性、 その他すべてに、表現されるのです。
で、人間たちは、このように 育てられています。
ヒンドゥー教徒、イスラム教徒は、 いつの時も、いがみ合っています。
または、アラブ人とユダヤ人、 または、アメリカ人、ロシア人
- よろしいですか。 外的に、これです。
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14:49
S: 私たちがここで 取り扱っているのは、さほど
人間に対する外からの 調和の賦課や、
人間に対する不調和の賦課 ではないと、私は思います。
私の両手は、互いに完璧に調和し あっています。
指は一緒に動きます。
私の目は、私の両手と ともに、動きます。
思うのですが、私の精神の中や、 私の精神と私の感情との間には、
葛藤があるかもしれません。
私が、 一定の概念と観念を内面化してきた
かぎりにおいては、です - そのとき それらは、葛藤の中にあります。
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15:19
K: そのとおりです。 そのとおりです。
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15:20
S: 私が自由であるならば、私が 発見しなければならないのは、
私の内に実際に、 調和があることです。
そして、私があなたと 一つであるのであるならば、
私はどうにか、自分の手から 発見しなければなりません -
「手よ、何かの一部であるとは、どの ようなことかを、語ってくれ」と。
なぜなら、私の手はすでに、私の腕と 調和的に存在しているからです
- そして、私の身体と、 あなたと、です。
しかしそのとき、私の精神は、 これらの変な二元性を、設けます。
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15:47
K: で、それが問題ですね。
これら二元性は、まず第一に、 人為的に創り出されていますか。
なぜなら、あなたはプロテスタント であり、私はカトリックであるとか、
私は共産主義者であり、あなたは 資本主義者であるからですが、
それらは、人為的に 創り出されていますか。
なぜなら、各々の社会が、 自らの既得権を持っていて、
各々の集団が、自らの特定の形の 安全を、持っているからですか。
または、分割は、 自分自身の中に、
「私」と非「私」により、 創り出されますか。
私がいう意味を理解されますか。
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16:38
S: 仰る意味は、理解します。
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16:39
K: 「私」は、私の自我、私の利己性、 私の野心、貪欲、妬みです。
それは、あなたを排除し、分離します - あなたがあの分野へ入らないように、です。
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16:54
S: 思うのですが、本当に自分の利己性、 自分の貪欲、自分の野心を意識するか、
囲いの反対側での 自分の安全や、
自分の平和をさえ - 表面的な意味で、 です - 意識すればするほど、
彼は、内なる自己を、意識して いません。
すなわち、実は、すでに
あなたと一つである者に、です - 私がどれ ほどそれに気づいていなかろうとも、です。
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17:18
K: ちょっとお待ちください。 それは、危険なことになります。
なぜなら、ヒンドゥー教徒は、 ほとんどの宗教が主張してきたように、
あなたの中に、調和がある、 神がいる、実在があると、
主張してきたからです。
- あなたの中に、です。
あなたがしなくてはいけない すべては、腐敗の諸層、
偽善の諸層、愚かさの 諸層を、剥ぎとって、
次第に、あの点に 来ることです -
あなたが調和の中に確立されて いるところに、です。
なぜなら、あなたはすでに それを、持っているからです。
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17:56
S: ヒンドゥー教徒は、その特定の考え方を 独占していないと、私は思います。
私たちカトリックも、同じ問題を持って います。
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18:03
K: 同じ問題を、もちろんです。
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18:05
S: 私たちは、発見に 直面しています -
見ること、理解すること、愛すること、 信用することの発見に、です。
これらすべての 初歩的な種類の言葉ですが、
私たちは、これらのことの 発見に、直面しています。
諸層を剥ぎとることが、それらを発見 する道であるとは、私は思いません。
思うのですが、それが腐敗の層や 善や悪や何の層であれ、
それは、それらを発見する 道ではありません。
自らは、自分自身を見つけるために、 自分自身の中の邪悪さの感覚より、
抽出するとか、離れたふりを するとか、しません。
必要とされるのは、透徹する共感的で 開いて自由な精神だと、私には思われます。
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18:47
K: はい。ですが、どうやって、それに 来ますか。自らはどうしますか
- 自らがそこで 育てられるとか、
自らがそこに生きるとかの 過ちすべてを、です -
そのすべてを努力なく、脇に 置くことは、可能ですか。
なぜなら、努力があった瞬間、 歪曲があるからです。
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19:14
S: 確かにそれは真実だと思います。 努力なく、すなわち、活動、
振るまい、多すぎる会話なしに、 ですが、確かに、
甚大な量のエネルギーの 支出なしに、ではない。
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19:28
K: ああ! 努力がないとき、 あのエネルギーは、来られるだけです。
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19:33
S: 正確です・・・
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19:35
K: 軋轢がないなら、あなたは 豊富なエネルギーを、持っています!
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19:40
S: 正確です。軋轢は、エネルギーの 幾らかを、破壊します。
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19:44
エネルギーを散失させます。 K: ええ。 分離があるとき、軋轢が存在します
- 正しいことと 間違ったこととの間、
邪悪と呼ばれることと、善いと 呼ばれることとの間に、です。
私が、善くあろうとしているなら、 私は、軋轢を創り出します。
で、問題は本当は、この豊富な エネルギーをどう持つのか、です
- すなわち、どんな葛藤もなく 来るだろうものを、です。
真理が何であるかを発見するには、あの ものすごいエネルギーが、必要です。
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20:23
S: または、善が何であるかを、です。 あなたがそこで使われる意味で、
私たちが善を取り扱うなら - 自分は善くあろうとする、と -
私たちは、規則を、法律を 取り扱っています。
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20:34
K: いえ、いえ。そういう 意味ではありません!
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20:35
S: 或る意味で、 道徳的な善です。
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20:37
K: 善は、自由の中でのみ、花開きます。 それは、どの宗教的な裁可や
どの宗教的な信念の法律の 中にも、花開きません。
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20:46
S: または、政治的や経済的なものにも、 です。それについて疑問はありません。
すると思うのですが、私たちが、自由と 善と、あることの内なる意味を、
発見しようとしているなら、私たちは、 自分自身に言わなくてはいけません
- 私たちがこれを発見して こなかった理由や、
私たちがなぜこれを発見して こなかったかの理由の一つは、
私たちが自分自身の中に、 物事の表面でもって出発し、
けっして終わらない、この変な 傾向を、持っているからです。
私たちは、そこに止まります - 自分たちが出発したところに、です。
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21:19
K: で、私たちは、ここに 来られるでしょうか -
仮に、あなたと私が何も 知らない、とします。
どの宗教もなく・・・
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21:32
S: 私たちは、何も構想もなく・・・
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21:34
K: ・・・概念的な・・・ 観念が、まったくない。
私は、何も信念、教義を 持っていません。
何も、です!
私は、どう正しく生きるのかを、 どう善くあるのかを、見出したい。
どう善くあるのではない。善くある。
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21:55
S: 善くある。ええ、ええ、ええ。
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21:57
K: さて、そうするには、私は 探究しなくてはいけません。
私は観察しなくてはいけません。
ですね? 私はただ、観察できる・・・
分割ないときだけ、 観察は可能です。
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22:16
S: 観察は、分割を 消去するものです。
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22:18
K: ええ。精神が、分割なく 観察する能力が、あるとき、
そのとき、私は知覚します。 そのとき、知覚があります。
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22:29
S: 起きる、 どの見ることの中でも
- 概念的か範疇的に見ることや、精神的 構造物を観察すること以上のですが -
起きる、どの見ることの中でも、 真理が、遭遇されます。
そして、あるのと真理と善は すべて、同じことです。
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22:47
K: もちろんです。 もちろんです。
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22:48
S: で、そのとき 問いは、こうです -
なぜ私は、真理について 考えなくてはいけませんか。
まるでそれが、範疇の論理的一貫性と 連携しているかのように、です。
むしろまるで、真理が、私があること 自体と連携しているかのように、
それについて 考えるよりも、です。
私はどうやら、いつも、自分の世界を 部分化しなくてはいけないなら
- 私たちは、二元性について語りました - 私たちがカトリックの宗教で頻繁にするか、
したかのように、身体と霊魂の二元性、 です。
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23:17
K: そして、悪魔、善と・・・
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23:19
S: そして、善と邪悪が、 何らかの形に、受肉する。
私たちがいつも、そのように考えなくては いけないなら、私たちはけっして
見つけないでしょう・・・
K: 明白です。
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23:25
S: ・・・それがどういう意味かを、です。
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23:26
K: ・・・善くあるとは、ね。 S: 善くあるとは。ええ、ええ。
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23:27
または、誠実であるとか、 そもそも、あるとかが、ね。
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23:28
私は、これが問題であると思います。 あなたが提案なさったように、
こうも多くの世紀の文化的な 条件づけが、あるので
- すべての眺望からです - で、それは困難です。
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23:44
K: 人間たちは、この 二元的な生き方の中で、
育てられるんですね。 明白です。
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23:50
S: はい。たぶん、私たちは、 もしも、善と悪の明白な二元性を、
考慮できなかったなら、これを もっとうまくできたのでしょう
- 神聖なものと 世俗的なものとの、
正しいことと間違ったこととの、真理と 虚偽との(二元性)を、です。
これらの二元性の どれ一つとして、どうやら、
私たちを最も悪魔化させる 二元性に、取り組みません。
あなたと私の、男と女の 二元性に、です。
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24:22
K: ええ、あなたと私の二元性、です。 さて、それの根は何ですか。
「私」と「あなた」、 我らと彼らの、
この分割の起源は、何ですか - 政治的に・・・よろしいですか。
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24:37
S: 私たちに、これの起源はありえません。 なぜなら、私たちは一つであるからです -
私の手の指々が一つであるように、です。 私たちは、それに気づいていません。
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24:44
K: ああ、待って。いいえ。あなたが 「私たちは一つである」と仰るとき、
それは、仮定です。
私は、自分が 一つであるのを、知りません。
実際に、分割は 存在します。
分割が止まるときだけ、 私は、そう言えます・
・・
私は、「私は一つである」と 言わなくていい。統合が、あります。
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25:06
S: あなたは、「私はある」と言うとき、 「私は一つである」と言っています。
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25:09
K: ああ、いいえ!
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25:10
S: 「一つだ」を付け加えるのは、 「私がある」ことへの余剰です。
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25:12
K: いえ、私は、これへ少し 入りたいと思います。なぜなら、
人間たちが生きるとき、ただ・
・・ あなたと私が、あるのです -
私の神とあなたの神、私の国とあなたの 国、私の主義主張 - よろしいですか。
この私とあなた、 私とあなた、です。
さて、「私」は、 条件づけられた実体です。
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25:35
S: はい。「私」は、 条件づけられた実体です。
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25:38
K: 一歩一歩、行きましょう。 「私」は、条件づけです。
条件づけられた実体です - 文化をとおし、社会をとおし、
宗教をとおし、概念的、 思想的な生活をとおして、
もたらされ、 養われたのです。
利己的である「私」、 怒る、暴力的である「私」、
「私はあなたを愛している」、 「私は愛していない」と言う「私」
- そのすべてが、「私」です。
その私が、 分離の根です。
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26:10
S: 疑いもない。事実、 あなたが使う用語法こそが、
あなたの観念の実体を、裏切ります。
「私」という言葉は、代名詞です。
一度私が自分自身から、あそこに見つめる べきものを、何か作ってしまったとき、
私はけっして、実在の何をも、 見えないでしょう。
なぜなら、私は、あそこに 見つめられるべく、いないからです。
一度私が、自由を、あそこの 追求すべき何かに、するとき、
私はけっして、自由を 達成しないでしょう。
一度私が、自由を、誰かが私に与えて くれる、あそこの何かにするとき、
私はけっして、自由を 達成しないでしょう。
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26:43
K: ええ、ええ。すべての権威、 そのすべては、脇に押しやられます。
私とあなたが、います。
この分割が存在するかぎり、
あなたと私との間に、葛藤が あるにちがいありません。
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26:54
S: 疑いもない。
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26:55
K: あなたと私との間に、 葛藤があるだけではなく、
私の中にも、葛藤が あります。
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27:01
S: 一度あなたが、自分自身を 客体化してきたとき、
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27:04
あなたの中に、葛藤が あるにちがいありません。
K: で、私は見出したいのです - どうやってかを、ではない。
この私は、終わりうるのか どうか。
それで・・・
私が終わる! そう言うことで、 十分です。「それで」ではない。
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27:21
S: はい。なぜなら、 「私」が終わるなら、
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27:26
明白に「それで」は、ないからです。 K: さて、「私」です。
精神から「私」を、完全に空っぽに することは、可能ですか。
意識的な水準で、 だけではなく、深く、
深い無意識の、自らがある 根において、です。
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27:47
S: 私は、それは可能なだけでなく、 それは、私たちがあるために、
善くあるか、誠実であるために、支払わ なければならない対価だと思います。
または、そもそもある、 生きているために、です。
生きるために、私たちが 支払わなければならない対価は、
私たち自身から、「私」を、 「私性」を、取り除くことです。
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28:03
K: 「私」を終わらせるために、 過程、体系、方法が、ありますか。
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28:10
S: いいえ。過程や方法が あるとは、私は思いません。
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28:13
K: ゆえに、過程はない。それは 即座に、されなければなりません。
さて、これが、私たちはきわめて 明らかでなければなりません。
なぜなら、すべての宗教は 過程を、主張してきたからです。
心理的に、進化的な 体系全体が、過程です。
あなたが、仰るなら - 私に とって、それは実在です -
それは、とうてい 過程ではありえないのです -
それ(過程)は、時、程度、 漸進性の事柄を、意味しています。
そのとき、たった一つの 問題が、あります -
すなわち、それを即座に 終わらせることです。
S: はい。一歩でその怪物を破壊する。
K: 即座に、です。
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28:56
S: はい。
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28:59
疑いもなく、それは、 されなければなりません。
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29:00
私たちは、「私性」を 破壊しなければなりません。
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29:07
K: いいえ、破壊する・・・私は使わない でしょう。「私」が終わることです
- 蓄積すべてとともに、 経験すべてとともに、です。
それが意識的にと無意識的に 蓄積してきたこと、ですが、
その内容全体は、 放り出されうるのですか。
努力によって、 「私」によって、ではない。
私が、「私により私はそれを放り出そう」 と言うなら、それは、やはり「私」です。
S: はい。
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29:30
K: または、 私が意志の尽力により
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29:31
それを放り出すなら、 それは、やはり「私」です。
「私」は 残っています。
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29:38
S: 明らかに、私の考えにおいて それは、行為ではありません。
または、精神の活動でも、 意志の活動でもなく、
感情の活動でも、身体の 活動でもありません -
それらは、私が「私」を見るのを、助けて くれるでしょうが - いえ、すみません -
私が見るように、助けてくれる でしょう。
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29:57
K: ええ、見るように。
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29:59
S: 私たちは、この世界において、する ことに、持つことに、行為することに、
こうも包み込まれているので、 私たちは、自省的に、深遠に、
私たちが行為する前か、 私たちが所有する前に、
何が起きるかを、 本当に理解しないのです。
後ろへ反省して見ることが、 私たちの責務だと、私は思います
- 見ることが起きる前に、 見ることがあるように、です。
見るという言葉の、 二つの意味で、です。
ちょうど、自分が愛することに気づく 前に、愛することがあるように、です。
そして確かに、ちょうど 自分があることに気づく前に、
あることが あるように、です。
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30:37
K: はい。ですが、 私は・・・
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30:40
S: 後ろへ反省する問いは、 深く内的で、深く十分ですか。
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30:45
K: さて、ちょっとお待ちください。 それが困難です。なぜなら、
「私」は、意識的な水準と、意識の、 より深い水準に、あるからです。
意識的な精神は、無意識的な「私」を 検討し、それを露出させられますか。
または、意識の内容が、 「私」です!
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31:18
S: いえ。自己は、 意識の内容を、超越します。
しかし、「私」は、 意識の内容であっていいが、
「私」は私ではなく、 「私」は、自己ではありません。
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31:28
K: 待って、待って。私は、 「私」に、自己、自我を含めます
- 私自身についての概念的な 観念化全体を、です。
より上の自己、 より下の自己、魂、
そのすべてが、 私の意識の内容です。
それが、私を作ります。それが、 自我を作ります。それが「私」です。
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31:54
S: それは確かに「私」を作ります。ええ。 私はそれについて、疑いもなく同意します
- それが、あの客観的自己を、作るのだ、 と。
すなわち、私が検討し分析でき、
見つめ、比較できるもの、私がそのことで 他の人たちと、暴力的でありうるものです。
それは、こう言っていいなら、 説明的です。
または、全部の総和 - すなわち、 「私」に入れられるもの - は、
現在の多数の関係全体の 歴史について説明的ですが、
それはやはり、実在に 到りつつありません。
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32:23
K: はい。「私」があるなら、実在は、 到られません。または、花開けません。
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32:32
S: 私が前に言いましたように、 いつでも私が、あなたを「私」として
眺めることを主張するとき、 実在は花開けないし、
自由は、ないでしょう。
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32:43
K: で、私の意識の内容は - それが私です。
それが、私の自我、私の自己、 私の観念化、私の思考、
私の野心、私の貪欲です - そのすべてが「私」です。
私の民族、
私の安全への欲望、私の楽しみへの 欲望、私のセックスへの欲望、
私の、これをしたい、あれを したいとの欲望。
そのすべてが、 私の意識の内容です。
その内容が残っているかぎり、 分離が、あるにちがいありません
- あなたと私との間、 善と悪との間に、です。
そして、分割全体が 起きます。
さて、私たちは言っています - その内容を空っぽにすることは、
時の過程ではありません。
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33:32
S: またそれは、方法論に 従属していません。
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33:34
K: 方法論に、ね。で、そのとき、 自らは、何をすることになりますか。
少しそれを見つめましょう。
これに ついて、少し時間を掛けましょう。
なぜなら、これは全く重要であるから です。
なぜなら、ほとんどの人々は、
「あなたは実践しなければならない」と 言うからです。
よろしいですか。
「あなたは、奮闘しなければならない。
あなたは、ものすごい努力をし、
規律ある生活をし、制御し、 抑制しなければならない」と。
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33:59
S: 私は、そのすべてに、 きわめて慣れ親しんでいます。
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34:01
K: それは、 すべてだめです!
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34:04
S: それは、役立って きませんでした。
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34:06
K: まったくです。 S: ええ、ええ。
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34:07
K: で、内容はどうやって、 空っぽにされることになりますか
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34:08
- いわば、一撃で、です。 S: 私はこう言うでしょう
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34:15
- たぶん私たちは、ともに これを追求できるでしょう -
内容は、内容の否認の否定的 行為により、空っぽにできません。
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34:26
K: ええ、ええ。明白です。
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34:28
S: で、それは袋小路です。私たちは それに、そのように接近してはなりません。
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34:32
K: 明白です。それを拒否することにより、 あなたはそれを、絨毯の下に隠しています。
それは、閉じ込めてしまうのに、似て います。
それはやはり、そこにあります。
S: それは、ふりをすることです。
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34:38
K: そうなんです。
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34:40
自らは、これを 見なくてはいけません。
ここで、ものすごく 正直でなくてはいけません。
さもないと、自分自身に悪戯を します。
自分自身を欺瞞します。
私は明らかに、論理的に見ます - 「私」は 世界の中の過ちであることを、です。
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35:03
S: 私は、単純に直観的にほど、 論理的には、それが見えませんね。
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35:07
K: いいですよ。 S: それは、 議論的な行為の結果ではありません。
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35:09
K: ええ、ええ、もちろんです。 S: それは、弁証法的ではなく・・・
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35:11
K: 分析的、弁証法的ではない。 あなたはそれを見ます。
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35:11
あなたは、利己的な人間を見ます - それが政治的に上でも、下でも、ですが、
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35:12
あなたは、人間たちが 利己的なのを、見ます -
そして、彼らがいかに 破壊的であるかを、です。
さて、問題、問いはこうです - この内容は、空っぽにされますか。
それで、精神が本当に 空っぽであり、
活動的であり、ゆえに、 知覚能力があるように、です。
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35:46
S: たぶん内容は、単純に 空っぽにできません。
内容は、その不適切さや その不適合のために、
眺望に入れられうるとか、 見られうると、私は思います
- 単純に見る、きわめて 精力的な行為によって、です。
それが、始まりに 私が言ったことです -
私が、どの与えられた宗教の 真理をも見つめるかぎり、
私は、真理自体を 見つけつつありません。
どの与えられた宗教の真理の、相対的な 価値をも、私が発見する道は、
的確に、真理自体を 見ることによって、です
- 対象物として、ではなく、 それ自体において、です。
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36:26
K: いいえ。私はできません。 精神は、真理を知覚できません -
分割があるなら、です。私は それに拘らなければなりません。
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36:35
S: 一度あなたが、どの種類でも 分割を持っているなら・・・
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36:37
K: それは終了しました。 S: ・・・ そのときあなたは、範疇的水準にいます。
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36:39
そのときあなたは、見ないでしょう。 K: ゆえに、私の問いは、
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36:41
精神がその内容を空っぽに できるのかどうか、です。
これは本当に・・・ 付いてきておられますか。
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36:51
S: 私は、仰っていることに、 付いていっていますが、
あなたは新しい方法論を、 創案しつつあると、私は思います。
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36:55
K: ああ、いいえ、いいえ! 私は 方法論を、創案しつつありません。
私は、方法を 信じていません。
それらは最も機械的な、破壊的な ものであると、私は思います。
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37:05
S: でも、そのとき、それを仰った後、 あなたは戻ってきて、仰いますが、
もし精神が・
・・もし自己が 本当に見ることになるなら、
それは、自分自身から内容を 空っぽにしなければなりません。
これは、方法ではないですか。
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37:18
K: いいえ、いいえ。
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37:19
S: でも、なぜ、それは 方法ではないのですか。
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37:20
K: お示ししましょう。 それは、方法ではありません。
なぜなら、私たちは、 こう言ったからです -
分割があるかぎり、 葛藤があるにちがいない、と。
そうなのです - 政治的に、宗教的に、です。
そして私たちは、言います - 「私」のせいで、分割は存在する、と。
「私」は、 私の意識の内容です。
そして、精神を空っぽにすることが、 統合をもたらす、と。
私はこれを見ます。
論理的に、ではなく、 事実として、です。概念的に、ではない。
私は、これが世の中で起きて いるのを、見ます。
そして私は、
「このすべては、なんと不条理だ。
何と残酷だ」と言います。
そして、それへの知覚が 精神を、空っぽにします。
知覚することこそが、 空っぽにする行為です。
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38:14
S: 提案なさっていることは、意識の 内容や「私」の不適切さへの知覚、
これの不適切さや「私」の 無真実さへの知覚はそれ自体が、
あることの発見でないか、と。
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38:32
K: そのとおりです。そのとおりです。
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38:34
S: 私たちはそれを 追求すべきだと、私は思います。
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38:35
K: そうすべきです。
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38:37
S: なぜなら、知覚は実は、 そんなに否定的なのか、
または実は、とても肯定的なのかも しれないと、思われるからです。
すなわち、それはむしろ、物事が あるのを、単純に見ることにある、と。
それは、客観的な意味で、私や あなたでなくていいでしょう。
それは、このテーブルや私の手や、 何であっていいかもしれません -
意識の内容といったものの不適切さを、 私が発見するのは、です。
または、
「私」やあなたのように、これら客観的種類 の物事のそれを、客観的な意味で、です。
で、それは、知的な、または むしろ人格的なエネルギーの
かなり深遠な展示なのかも しれません -
展示の理由により、単純に私に 可視化するのは、です。
それは容易い。
それは消散するし、 同時に概念を取り扱うことは、容易い。
私たちは、それについて合意しました。
概念を創り出すことは、容易い。
単純に見ることのほうが、 容易いと、私は主張します。
K: もちろんです。
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39:39
S: 概念より先に、です。
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39:40
K: 見る。 S: ただ単純に見る。
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39:41
K: 私はできない・・・ 知覚はありません -
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39:43
もしその知覚が、イメージを とおして、であるなら、です。
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39:44
S: 知覚がイメージをとおして、 であるなら、知覚はない。
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39:54
それはきわめて真実だと、 思います。
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39:59
K: さて、精神は イメージを持っています。
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40:03
S: 精神は、イメージでもって 悪魔化します。 K: そうなんです。
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40:05
それは、イメージを持っています。 私は、あなたのイメージを持っています。
あなたは、私のイメージを 持っています。
これらのイメージは、接触をとおし、 関係をとおして、築かれます -
あなたがこれを言うこと、あなたが 私を傷つけることをとおして、です。
そうね、それは築かれています。
そこにある - それは記憶です。
脳細胞自体が、記憶の残滓です - それは、イメージ形成です。
ですね?
さて、そのとき 問いは、こうです。
記憶は - すなわち知識です - 機能するには、必要です。
技術的に、です。
家へ歩くとか、車で 家へ帰るには、私は記憶が必要です。
ゆえに、記憶は、知識として 所を、持っています。
そして、イメージと しての知識は、
人間たちの間の関係において、 何の所をも、持っていません。
|
|
41:15
S: 私たちは、手近な主題を忌避し つつあると、私はやはり思います。
なぜなら、記憶の問いに 関係して仰ってきたことは、
提案なさってきたように、ひどく 重要であると、思うからですが、
記憶は、または、 意識による記憶の否認や、
意識の内容の否認は、問題の 解決であるとは、私は思いません。
思うに、私たちがしなくては いけないのは、
それはどうしてなのか - クリシュナジ、あなたは・
・・
私は今、方法論について 話していません。
あなたが見てこられたのを、 私は知っています。
あなたが見たとか、あなたが 見るのは、どのようにですか。
あなたがどう見るかを 私に叙述するために、
あなたが何を消去したのかを、 私に語らないでください。
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|
41:57
K: 私は、自分がどう見たかを、お話し しましょう。あなたは単純に見るのです!
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42:00
S: はい。さて、仮に、あなたが、 誰かそういう経験を持たない人へ、
「あなたは単純に見る」と 言いたかった、としましょう。
なぜなら、私自身はいつの時も、 同じことを、言うからです -
「あなたは単純に 見るんですね」と。
そして人々は、「あなたは単純に 見る。
どうやって?」と言います。
私たちは、教師であるのであれば、 どうにか、
これを取り扱わなければなりません - 「私はあなたの手を取るし、
私はあなたに、どう見るのかを 示しましょう」と。
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42:23
K: 私はお示ししましょう。 それは相当、単純だと思います。
まず第一に、自らは、世界が何で あるかを、見なくてはいけません。
あなたのまわりに、何が あるのかを、見る。
見る。どちらかに 付かないでください。
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42:42
S: ええ。私たちの用語法は、ここで じゃまをするかもしれないと、思います。
仮に、「世界が何であるかを見ること により、出発しなければならない」と
言うより、むしろ私たちは、 「世界を見なければならない」と
言うことにより、 出発できたと、しましょう
- 本性や範疇に、 関心を持たずに、です。
K: いえ、いえ。世界を見る。
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42:58
S: ええ、何であるか、ではない。
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42:59
K: 世界を見る。 S: 世界を見る。
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43:00
K: 同じことです - 世界を見る。
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43:01
S: ええ。 K: 世界をありのままに見る。
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43:02
それを、あなたの概念ということに 立って、翻訳しないでください。
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43:03
S: さて、またもや私は、「世界を、 そのありつつあるとおりに、見る」
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43:03
と言えるのでしょうか。 K: ええ、表してください。
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43:10
S: それは、助けになりますか。 私たちは試しているんですが・・・
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43:15
K: 世界をありままに見る。あなたは 世界を、ありのままに見られません -
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|
43:17
もしあなたがそれを、自分の用語法で、 自分の範疇で、自分の気質で、
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|
43:19
自分の先入観で、解釈するなら、です。 それをありのままに、見てください。
暴力的だ、残忍だ - それが 何であっても、です。
S: または、善い、美しい、と。
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43:37
K: それが何であっても、です。
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43:40
あなたは、それを そのように見つめられますか。
それは、 こういう意味です -
あなたは樹を、樹のイメージなく、 見つめられますか。
植物学的と、名づけのすべてなく、 ただ樹を見つめられますか。
|
|
43:55
S: 一度あなたが、発見したなら - 私たちの世界で発見するのは、
容易くないが - 樹を見る単純な経験、です。
樹たることや その本性を考えることなく、
または、仰るように、その植物学と その種類のことなく、です。
そのとき、見ることの 追求の中で、
次の一歩は何だと、 提案なさるのでしょうか。
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44:18
K: そのとき、私自身を、私の ありのままに、見ることです。
|
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44:24
S: あなたの意識の内容の下の、です。 K: すべてを見る。下のではない。
|
|
44:26
私はまだ、始めていません。 私は、私が何であるかを見ます。
ゆえに、自己を知ることです。
私自身 への観察が、なければなりません。
私のありのままに、です。
何とひどい、 何と醜い、何と美しい、
何と感傷的だと言うことなく、です。
ただ、私自身の動きすべてに、気づく
- 意識的なものと同じく、 無意識的なものにも、です。
私は樹で始めます。
方法、過程 ではなく、私はあれを見ます。
また私はこのように、私自身を 見なければなりません。
偽善、私がやるごまかし。
よろしい ですか - その全体を、です。
何の選択もない見守り。
ただ見守る。
私自身を知る。 いつの時も、私自身を知る。
|
|
45:24
S: しかし、非分析的な 流儀で、です。
|
|
45:27
K: もちろんです。しかし、精神は、 分析的であるよう、訓練されています。
で、私はそれを、追求しなくては いけません。
なぜ私は、分析的ですか。
それを見守ってください。
それの無益さを、見てください。
それは、時間が掛かります - 分析は、です。
あなたは本当に、けっして 分析できません -
専門職によっても、 自分自身によっても、です。
で、それの無益さ、それの不条理、 それの危険を、見てください。
で、あなたは、何をしていますか。
あなたは物事を、ありのままに見ています
- 起きつつあることを、 実際に、です。
|
|
46:07
S: 私の傾向は、こう言うことでしょうね - 私たちが、これについて議論するとき、
私たちは、これらの言葉を使うかも しれません。
例えば、自己を存分に見る
- その否定的と肯定的な極性 すべてとともに、です。
自己を存分に見る。
そのとき、 自己の一定の次元を
分析的に見つめることの 無益さを、悟る -
そのとき「でもやはり、私は見なければ ならない」と言うことの、です。
K: もちろんです。
|
|
46:34
S: なぜなら、この点で
|
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46:35
私はまだ、見えていないからです。 私が見てきたすべては、
分析的な範疇であるからです - すなわち、私がどうにか
自分自身を細切れに解き明かす ために、使ってきたものです。
|
|
46:44
K: そういうわけで、 私は言ったのです -
|
|
46:48
あなたは知識なく、樹を 見つめられますか、と。
S: 先の条件づけなく。
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|
46:49
K: 先の条件づけ、ね。
あなたは見つめられますか。
あなたは、花を見つめられますか
- 何も言葉なく、です。
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|
46:59
S: 私は、いかに自分がどうにか
自己を見つめられなければ ならないのかが、分かります。
私は、あなた、クリシュナムルティを 見つめられなければなりません -
そして、「クリシュナムルティ」と いう言葉を、使わないのです。
さもないと、私はあなたを見ない でしょう。
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47:12
K: そのとおりです。
|
|
47:13
S: これは真実です。 K: そのとおりです。
S: さて、私は、考えるのをとおして、 学んできた後 - 「私はどうにか、
その言葉を使いもせず、あなたを 見なければならない」と言って、です。
それから・・・
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|
47:25
K: 言葉、形、イメージ、
そのイメージの内容、 その他すべてを、です。
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47:32
S: ええ。何でも言葉が表示する ことを、私は使ってはなりません。
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47:34
K: それは、ものすごい 見守りを、必要とします。
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47:38
S: はい。それは、 必要とします・・・
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47:41
K: 見守りを、ね - 訂正ではない、 「私はしなければならない。
私はしてはならない」と言わない との意味で、です。見守っている。
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47:51
S: あなたが、「見守っている」との言葉を 使われるとき - またもや、ですが、
私たちは、教えているから、自らの 言葉に、気をつけなければなりません。
|
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47:57
K: または、気づいている。どんな 言葉を使われても、構いません。
|
|
48:01
S: 見守ることは、観察の含蓄を持って います。観察(オブザベーション)は
(語源的に)見つめるために、何かを あそこに置くとの含蓄を、持っています
- 科学者が、顕微鏡のもとで、 するように、です。
これは、私たちが教えたくない ことだと、私は思います。
K: ええ。もちろんです。もちろんです。
|
|
48:13
S: で、今、クリシュナジ、
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|
48:15
もしもあなたが、またもや「見守る」 という言葉を、使えたなら・・・
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|
48:21
K: 見守る代わりに、気づいている。 選択なく気づいている。
|
|
48:25
S: 選択なく気づいている。 良いです。だいじょうぶです。
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48:27
K: そのとおり。 S: これを 私たちは、しなければなりません。
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48:28
K: ええ。 選択なく気づく・・・
|
|
48:29
・・・この二元論的、分析的、 概念的な生き方に、です。
それに気づいてください。
それを訂正しないで、
「これは正しい」とか言わないで、 それに気づいてください。
危機があるとき、私たちは、これに こうも強烈に、気づいています。
|
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49:04
S: 私たちはこの問題に1インチ、先行 する別のものを持っていると、思います。
私は、他の問題は こうであると、思います。
どんな種類の問いを、私は 自分自身に訊ねられるのか -
範疇を使わずに、 あなたに気づくために、です。
または、あなたに気づく中で、 私が、範疇と決まり文句と、
これらすべての他のおかしなイメージ - いつの時も私が使うもの - を、
使っているとの事実に、気づくことです。
私があなたに話しかける道が、
何かありますか - 一定の 種類の言葉を使って、です。
観念ではない。
観念に まったく関係しない言葉を、
観念に関係しない、 一定の種類の言葉を使って、です。
で、どうにか言葉が、私に教えてくれる だろうようにか、あなたや誰にでも、
何かもっと重要な、もっと意義深いものが あなたにあると、教えるように、です -
あなたの名前や あなたの本性やあなたの内容、
あなたの意識やあなたの善や あなたの悪よりも、です。
50:03
あなたは、どんな言葉を使われるの でしょうか - もしもあなたが、
若者へ、または老人へ教える ことになったとしたなら、です。
私たちはみんな、問題を 持っているからです。
それを理解可能にするために、あなたは どんな言葉を、使われるのでしょうか
- 非理性的か・
・・むしろ 理性以前の形で、ですが -
あなたは、あなたの名前が含蓄する もの以上であることを、です。
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50:25
K: 私はその言葉を、使うだろうと、 思います - 選択なく気づく。
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50:30
S: 選択なく。 K: 選択なく気づく。 なぜなら、選択することは
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50:31
- 私たちがそうするように - 私たちの 大きな葛藤の一つであるからです。
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50:42
S: 私たちは、何か変な理由のために、 選択を、自由と連携させます
- それは、自由の 反対命題です。
K: それは不条理です。もちろんです!
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50:48
S: それは不条理です。はい。
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50:50
が、今、で、そのとき、 自由に気づくこと。
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50:55
K: ええ。自由に、 選択なく、です。
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50:57
S: 選択なしとの意味において、 自由に気づく。
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51:00
さて、仮に、誰かが、こう 言いたいと思う、としましょう。
「でも、私は、あなたが選択なく 気づくと仰ることの意味を、
完全には理解できません。あなたが 仰る意味を、示してもらえますか」と。
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51:13
K: お示ししましょう。まず第一に、 選択は、二元性を含意しています。
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51:23
S: 選択は、二元性を 含意しています。ええ。
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51:25
K: しかし、選択はあります。私は、 他の絨毯より、あの絨毯が良いと、
選択します。
その水準で、選択は 存在しなければなりません。
しかし、あなた自身への 気づきが、あるとき、
選択は、二元性を含意しています。 選択は、努力を含意しています。
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51:46
S: 選択は、制限への高度に発達した 意識を、含意しています。
|
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51:51
K: ええ、ええ。選択はまた、 順応をも、含意しています。
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51:57
S: 選択は、順応を含意しています - 文化的な条件づけを、です。
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52:01
K: 順応ね。順応は、模倣を 意味しています。 S: ええ。
|
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52:03
K: 模倣は、もっと多くの 葛藤を、意味しています
|
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52:04
- 何かを叶えるよう 生きようとすることを、です。
で、あの言葉の理解が、 なければなりません -
言語的にだけでなく、内的にも、 それの意味、それの意義を、です。
すなわち、私は、選択の十分な意義を 理解します - 選択全部の、です。
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S: 私は今、これを翻訳しようと 試みてもいいですか。
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K: ええ。 S: あなたは、 こう仰るのでしょうか -
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選択なき気づきは、 私がどうにか、あなたの存在を
私の中へ意識していることを、 意味している、と。
そして、私は選択が要らない。
選択は、不適当である。
選択は、抽象的である。
選択は 範疇と関わりがある、と。
私があなたを見てきて、私はあなたを 選択しなければならないとか、
あなたを好きだと選択しなければ、 とか、あなたを愛すると
選択しなければならないとか 感じないときです。
それで、何も選択が、 関与していない。
そのときあなたは、私はあなたへの 選択なき気づきを持っていると、
仰るのでしょうか。
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K: はい。ですが、そうですね、
愛に、選択が ありますか。
私は愛しています。 選択がありますか。
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S: 愛に、選択は ありません。
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K: ええ。そうなのです。 選択は、知能の過程です。
私はこれを、説明します - 私たちが できるかぎり、それについて議論し、
それに入りますが、私は それの意義が、見えます。
さて、気づくこと。
それは、 どういう意味ですか - 気づくとは。
あなたのまわりの物事に、気づく - 外的に、です。
また内的にも、起きつつあることに、 気づく - あなたの動機、心配にです。
気づく。
またもや選択なく、 見守る、見つめる、聞く。
それで、あなたは、何も思考の 動きなく、見守っているのです。
思考は、イメージです。
思考は、言葉です。
見守る - 思考が入ってきて、
あなたをどの方向へも 押すことなく、です。
ただ見守る。
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S: あなたは前に、仰ったとき、 より良い言葉を使われたと、思います。
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K: 気づく。 S: 気づいている。
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K: はい。
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S: なぜなら、それは、精神や 感情の行為より、むしろ、
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存在の行為であるからです。 K: もちろんです。もちろんです。
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S: で、そのとき私はしなくては いけない・・・私はどうにか、結局、
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ゆえに、気づかなくてはいけません。 - 認知以前的な意味で、
あなたの存在に、です。
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K: 気づく。そのとおりです。
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S: これが、選択に先行します。 K: はい。
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S: それは、選択を 不必要にします。
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K: 選択はありません。 気づく。選択はありません。
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S: 気づく。 選択なく気づく。
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K: さて、そこから、 「私」への気づきが、あります。
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気づき。どれほど偽善的なのか - ご存じですね -
「私」と「あなた」の 動きの全体、です。
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S: あなたは今、後へ 動いていかれます。
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私たちはすでに・・・ K: 意図的に、です。知っています。
私たちがそれを関係させられる ように、私は動きました。
それで、「私」より自由である 精神のこの性質が、あるように、
ゆえに、分離がないように、です。
私は 「私たちは一つである」と言いません。
私たちは統合を、概念的なものでなく、 生きものとして、発見しました
- この選択なき注意の 感覚が、あるとき、です。
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S: ええ。
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