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LS84S2 - 創造は冥想の中から出てくる
科学者たちとのセミナー、第2回会合
アメリカ合衆国、ロス・アラモス
1984年3月21日



0:41 M.ラジュー: お出でくださって、ありがとうございます。 今日、私たちの計画は、 著名な講演者とともに、創造性について、 一時間半の活発な対話を、行うことです。 私があなたたちの数名より受け取った質問の 写しを、みなさんが持っておられます。 これらすべての問いを述べるには、 時間がとても短いことを、私たちは悟ります。 ゆえに私たちは、時間制限の中で、 創造性の主題に適切である質問を 選択するよう、講演者にお願いいたします。 私たちは、この対話の途中で、追加の質問のために 幾らか時間があるかもしれないことを、願っています。 私は、カール・ブライトバイテ、フランシス・メンロウ、 レイモンド・ロジャーズとフランク・ハーローの諸博士に、 この議論での調整を、お願いしておきました。 みなさまには、この対話の間、どうか全的な注意をもって、聞いてくださるよう、 お願いしてもよろしいでしょうか。 幾つか質問をなさりたいのなら、 どうか、手短にしてください。 私たちには、長い質問のための時間が、ありません。どうか、手短にしてください。 私はもはや、貴重な時間を取らずに、 講演者に、この対話を始めるよう、お願いいたします。
3:25 K: ここには、十五の質問があります - 私たちは初めに、どれを取りましょうか。 一番目のものを、取りましょうか。
3:42 質問: 「冥想とは何でしょうか。それは、どのように創造性に関係していますか」
3:50 私たちは初めに、それを取っていいでしょうか。
4:00 冥想は、とても複雑な事柄です。 これは、私たちの間の対話です。 私が言いましたように、それは、とても複雑な事柄です。 「冥想(メディテーション)」という言葉は、サンスクリットでも英語でも、 頭脳が一定の主題へ集中することを、含意するだけではなく、 またそれは、大変多くの注意をも、含意しています。 しかし、第一に冥想(メディテーション)は、サンスクリットで、測量する、という意味です。 英語でもまた、語源的に、測量することである、と思います。 なりゆく、という問い全体が、そこに関与しています。 それは、測量することです - 私はこれである、私はあれになるだろう、 私は貪欲である、だが、私は次第に無貪欲になるだろう、と。 それは、一つの形の測量です。 それは、一つの形のなりゆくことです。 世の中の事柄において、なることと、 心理的に、なることとの両方です。 それが、測量の問い全体です。 ギリシャ人、古代ギリシャ人は - それについては、すべてご存じです。 私がそれに入らなくてもいい - 彼らは、測量の創始者でした。 測量なしに、テクノロジーはないでしょう。 アジア人は、特にインドでは、 測量は幻影である、と言いました。 測量は、制限を意味する、と。 私は翻訳しています - 彼らは正しくはこう言わなかった。 彼らはそれを違ったように、表しました。 で、測量は、比較を意味しています- 「あるもの」、「あるべきもの」、 理想、事実を、比較する。 事実が、理想になっていく。 それらが、冥想に含蓄されています。 また、冥想には、冥想者と冥想も、含蓄されています。 あなたが、付いてきておられるかどうか、分かりません。 語り手が言っていることを、理解するのに、 困難があるなら、どうか、跳び込んできてください。 なぜなら、それはとても複雑な事柄であるからです。 特に、インドの導師たちの数人は、 この言葉をアメリカへ持ち込んで、そこから、たくさんのお金を稼ぎました。 彼らは、億万長者です。 私は彼らに会ったことがあります。 彼らは、おぞましい者たちです。 彼らは、お金を求めてばかりです。 で、冥想を探究するには、初めに、 測量(を探究する)だけではなく、また、この常なる、 心理的に、何かになることをも、探究しなくてはいけません。 人間たちは、暴力的です。 理想は、非暴力の状態にあることです。 それは、なることです。
7:54 質問者: で、あなたは、冥想のために、目標を設けますか。
7:56 K: 私は、冥想の構造全体と本性に、 何が含蓄されているかを、言っています。 それは、どう冥想するかより、むしろ、 冥想とは何なのか、です- どうするか、ではない。 話が明らかになっていることを、願っています。 また、そこに関与した問いも、あります - 誰が冥想しているのか。 冥想の体系のほとんどは、 日本のもの、 ヒンドゥー教のものなど、チベットのものにおいても、 いつも、制御者と制御されるものが、ある。ですね? 私たちは、互いに出会っていますか。 それで、思考を制御している制御者が、ある - 目的をもった方向づけ(指令)に応じて、 思考を静めるため、思考を形作るために、です。 で、制御者と制御されるものが、ある。 制御者は、誰ですか。 どうぞ、このすべてが、冥想には含意されています。 冥想において一般的に理解されているように、 単に、自分の思考を制御するだけではない。 それが、禅の冥想であっても、 または、インドと他のどこかで行われる 最もきわめて複雑な形の冥想であっても、 いつも、(方向づける)指令者、 思考を制御する実体が、ある。 それで、彼らは心理的に、思考者と思考を、分割してきたのです。 で、思考者は、自身を思考の活動全体より、分離します。 ゆえに、冥想においては、制御者が思考を制御することが、 含意されています。 - 思考を静かにするために、です。 それが、冥想の本質です - 頭脳の或る状態をもたらすことです。 私は当面、「精神」(という言葉)を使わないでしょう。 頭脳を静かにすることです。 私はもう少し説明し、それに入るでしょう。
10:57 で、制御者と制御されるものとの間に、分割が、ある。ですね? 制御者は誰ですか。 ほとんどの人々は、その問いをしたことがない。 彼らはみんな、冥想するのを喜んでいます- どこかへ到るのを願って、です。 光明、覚りと頭脳の静けさ、 精神の平和など、です。 しかし、ほとんどの人々は、制御者が誰なのかを、探究したことがありません。 私たちは、それをつづけてもいいですか。 制御者もまた思考です。 制御者は過去です。 過去としての、時の実体や動きと、 度量です。 で、思考より分離して、 思考者である過去が、あります。 思考者は、思考を制御しようとします。 人間たちは、神を創案してきました。 すみません。 気になさらないことを、願っています。 私がこれらに入っても、あなたは衝撃を受けないでしょうか。
12:30 質問者: いいえ、進んでください。
12:33 K: 人間たちは、自らの恐れの中から、神を創案しました。 彼らは、神に到ろうとしました - それは、究極的な原理です。 インドでそれは、ブラフマンと呼ばれますが、それは、究極的な原理です。 冥想は、究極のものへ到ることです。 で、冥想は本当に、きわめて複雑です。 それは単に、朝に二十分、午後に二十分、 晩に二十分、冥想するだけではない - それは、お昼寝をすることであり、まったく冥想ではない。 で、冥想とは何なのかを、発見したいなら、 訊ねなくてはいけません - なぜ、冥想をしなくてはいけないのでしょうか。 自らの頭脳が常におしゃべりしていて、常に計画し、 企画していることを、悟ります - 自らがするだろうこと、自らがしてきたこと。 過去が、現在に突き当たる。 それは、永久におしゃべりし、おしゃべりし、おしゃべりしています。 科学的なおしゃべりでも - すみません。 または、普通の日常生活のおしゃべりでも、です。 主婦が何らかのことについて、果てしなくおしゃべりしているように、です。 それで、頭脳は常に、動きの中にある。 さて、冥想の観念は、頭脳を静かに、静寂に、 完全に注意深くすることと、 その注意において- おそらくあなたは、この言葉に 反対するでしょう - 永遠であるものを、見つけることです。 または、何か神聖なものを、です。 それが、本当にこの問いへ 入ってきた人たちの意図です。 語り手は、ここ六十年以上、これへ入ってきました。 彼は、この問いについて、禅の学者と、禅の老師と、 ヒンドゥー教徒と チベット人と、残りすべての連中と、議論してきました。 私が口語的に話すのを、気になさらないことを、願っていますが、構いませんか。
15:27 質問者: いいです。
15:31 K: 語り手は、その種の冥想すべてを、論駁します。 なぜなら、彼らの冥想の観念は、目的を達成することであるからです。 目的とは、思考の動きが何もないように、 頭脳の完全な制御です。 なぜなら、頭脳が止まっていて、 意図的に修練されて、意図的に 探し求められたとき、それは静寂ではないからです。 それは、何かを達成することです - それは欲望の作用です。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 つづけてもいいですか。
16:30 で、これらに興味があるのなら、 欲望が何なのかをもまた、探究しなくてはいけません。 欲望を抑圧するのではない - 修道士と、インドのサンニャーシたちがするように、です。 欲望を抑圧するか、欲望を何か高いものと同一視する - より高い原理、より高いイメージと、です。 あなたがキリスト教徒であるなら、キリストなどと、です。 で、自らが、冥想とは何かを、見出したいのなら、 理解しなくてはいけません - 欲望を、探究しなくてはいけません。 よろしいですか。
17:22 質問者: 欲望とは意志と同じですか。
17:24 K: 私たちは一分後にそれへ入るでしょう。 欲望とは何でしょうか。 なぜ人、人間は、 なぜ私、人物は、欲望によりそんなに支配されているのでしょうか - 豊かになりたいとの欲望、なりたいとの欲望。 そうね、様々な形の欲望です。 私たちは、欲望の奴隷です- それは反応です。 で、欲望とは何でしょうか。 これは、冥想の一部です。理解されますか。 これが、冥想について、語り手が言っていることです。 すなわち、時の動きを理解するのでなければ - いいですか。私はこれらに、入ってもいいですか。 あなたは、これらに興味がありますか。 つづけてもいいですか。
18:20 質問者: ええ、どうぞ。
18:21 K: あなたがそれへ入りはじめるなら、それはなかなか面白い。 しかし、それは、単に知的な興奮であるなら、 何の価値もありません。 で、冥想とは何かへのこの探究こそが、 冥想の一部です。 で、私たちはともに、探究しています - 冥想とは何でしょうか。 欲望とは何でしょうか。 欲望は、 知覚、 接触、感受です。ですね? 何を見る - 女や、住宅や、庭園や、うるわしい絵画。 見る、それと接触する、それに触れる、 そこから感受が生ずる。 そのとき、何が起きますか。 理解できますか。 見る、接触、感受。 それが、実際に起きることです。 あなたは、お店に入るとき、シャツを見る - あなたが買いたいものです。 それを見る。それに触れる。 それを感じる。感受。 そのとき、何が起きますか。 それが、重要性が来るところです。 そのとき思考が、感受に形を与えます。 すなわち、「私はあのシャツを着て、どう見えるだろうか」と。理解できますか。 で、見ること、 接触、感受がある。 そのとき、思考が 感受を、自己満足の手段として、使う。ですね? で、感受と思考との間に、中断、 隔たりが、ありうるでしょうか- 感受は、自然で健康的です。 もちろん、麻痺しているのでなければ、です - 思考が入ってきて、それを 満足の手段として使うのとの間に、です。 私はこれを明らかにしたでしょうか。
21:11 質問者: 満足は、それを所有したいとの欲望ですか。
21:14 K: それを所有したいとの欲望- 私はそれを着て、どう見えるだろうか。
21:20 質問者: 私自身との関係で、です。
21:22 K: で、思考は、そのシャツを着たあなたの イメージを、創り出します。 それが欲望ですし その欲望の強烈化が、意志です - 「私はそれを持たなければならない」と。
21:45 質問者: で、意志は、欲望の現実化や施行ですか。
21:49 K: ええ、欲望の。 どうぞ、これは対話の事柄です。 それは、何かを受け入れるという事柄ではない。
21:57 質問者: 私たちが声を上げても、構いませんか。

K: いいえ。
22:00 質問者: よし。
22:05 K: これが明らかであるなら - 感受と、思考がイメージを創り出すのとの間に、 いわば、広い隔たりを保つことが、可能なのかどうか、です。 感受は、健康的で通常です。 そして思考が、あなたが車に乗ったり、 あなたがシャツを着たりのイメージを、 創り出すのとの間に、です。 それが、欲望の始まりです。いいですか?
22:36 で、それが、冥想の一部分です - 欲望の本性を理解することです。 けっしてそれを抑圧することではない。 あなたが理解されるのか、私は知りません。 これが必要とする修練。 修練 - 順応ではなく、 理解の修練、 学びの修練、という意味で(の修練)、です。
23:11 質問者: あなたは、欲望を消すのではなく、 単にもっとそれを検討するよう、言っておられて・・・
23:15 K: いえ、欲望のこの動き全体に、気づくのです - 欲望がどのように生ずるのか など、です。
23:26 質問者: あなたはまた、それをよく知るよう、言われています - 隔たりを置くことができるように、です。 すると、次の一歩は、必ずしも付いてこない。 施行の歩みを止める、と。
23:39 K: 私たちが話しているとき、あなたがそうするなら、私たちがそれについて話しつつあるとき、 あなたが実際にそうするなら、何が起きているかが、見えるでしょう。 すなわち、見る、感受、接触、 そのとき、思考が、その感受にイメージを与える、 その欲望を充足させる - その錯綜、葛藤など すべてをともなって、です。 で、感受と、思考がイメージを創り出すのとの間に、 隔たりがあるところ、それが静寂です。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 いえ、どうぞ、私に同意しないでください。 それは致命的です。
24:27 質問者: あなたによれば、冥想は、とても活動的な事業のように、聞こえますね。 私たちは通常、冥想とか、 静かな精神を達成することを、 無活動的な種類のこと、実践として考えると、私は思います。
24:40 K: 精神を静かにするには、薬物をとれますよ。 あなたは集中できます - 私は当面、それに入らないでしょう。 あなたは、精神を静かにするため、頭脳を静かにするために、 様々な形と仕掛けを、することができます。 それは、鈍い頭脳です。 しかし、冥想の含蓄と錯綜を 理解した頭脳 - その頭脳は、とてつもない器具になるのです。
25:16 質問者: で、静かな精神は、空っぽな精神ではないのですか。
25:20 K: 空っぽなこと - これは難しい。 空っぽな精神を持つことは、 エネルギーに充ちていることを、意味します。 空っぽなことは、エネルギーです。 どうぞ、私たちはそれへ、一歩一歩入らなければなりません。さもないと・・ 気になさいませんか。

質問者: ええ、まったく構いません。

質問者: で、静かな精神は、物事を知覚しています。 それは、外側から感覚情報を受け取りつつあります。 でも、それは、それらの物事を操作していません。
25:51 K: ええ。 で、またそれは、時をも、理解しなくてはいけません。 瞬間の連続という意味での、科学的な時間、ではない。 時とは何でしょうか。 科学者や他の人たちが研究する、特殊な主題として、ではなく、 私たちの日常生活において、時とは何でしょうか。 なぜなら、私たちは日常生活において基礎を敷くのでなければ - 理解できますか。 それは堅固で、止まっています - そのとき、冥想は、一つの形の幻想的な欺瞞になるのです。
26:45 で、私は欲望を、理解しなければなりません。 欲望の理解がある。 また、時の理解も、です。 時とは何ですか。
26:58 質問者: なるための手段です。 時はただ、何かになるための手段ではないですか。
27:08 K: 時は、何かになることだけではない - 私はこれである。私に時をくれ。 私はあれになるだろう。 私は暴力的である。 私に時、空間、 間隔をくれ - 私が非暴力的な人間になるであろうように、です。 それが、時の一部です。 また、私たちの日常生活における時は、 広大な知識の蓄積です。ですね? 時はまた、未来です。 それで、時がある - どうぞ、私は専門家ではありません。 私がそうでないなら、お許しください。
28:03 質問者: 時は、因と果の知覚でしょうか。
28:09 K: 因があるところ、果は根絶できます。 で、時の起源は何でしょうか - 人間としての時、です。 私はそうだった、私はそうである、私はそうなるだろう。 時はまた、究極のものを達成するための動きです。 私は、一つの生を持っている- 全アジア人が信じています - 私は、一つの生を持っている。私は死ぬなら、もう一つの生を持つにちがいない。 それは輪廻転生と呼ばれます。 それで、私は生から生、生から生へ、 もっと良く、もっと良く、もっと良く、もっと良くなるだろう。 ついに私が究極的に、最高の原理や神に到るまで - それを何と呼びたいのであっても、です。 で、それが時の一部です。 私はこれである。 だが、私はあれになるだろう。 なることは、欺瞞でしょうか。 理解されますか - 心理的に、です。
29:39 質問者: 理解できません。 なることは、欺瞞ですか。
29:43 K: ええ。幻影です - もしあなたが、もっと良い言葉を使いたいなら、です。
29:48 質問者: 私は、それを理解するには、しっかり働かなくてはいけないでしょう。
29:52 K: そうですよ。それは冥想の一部です。 お分かりでしょう、 冥想は、あなたがそれを理解されるなら、何かとてつもないことです。
30:00 質問者: それは明白に見えます。 私たちは、自分自身が変化するのが、見えます。 で、どうしてあなたは、なることが幻影である、と言えますか。
30:13 K: 私は貪欲です - 仮に、私は貪欲である、とします。 私の伝統、宗教、智恵は、 そのものを最小化せよ、永久に貪欲でいるな、バカげている、と言います。 で、何が起きましたか。 私はこれである、私はなるだろう、と。 理解されますか。 私は、暴力的である。 私は、非暴力的になるだろう。 それは、時の中の動きです。 その動きの中、私はやはり暴力的です。 あなたが理解されるのかどうか、私は知りません。 どうか、それは私たちの間の対話です。
31:04 質問者: 私たちは変化させられないと、あなたは言います。
31:06 K: 初めに、私が言うべきことを、ただ聞いてください。 私は暴力的である。 私の伝統と、私のまわりの人々みんな、 環境、宗教書などなど、社会は、私に対して、 私は非暴力的でなければならない、と語ります。 しかし、私は暴力的です。 で、何が起きますか。 「あるもの」と「あるべきもの」との間で、葛藤があります。
31:39 質問者: ああ、あなたが言っておられることは、分かります。

質問者: それは、そのとき、私は暴力的であり、 これを変化させたいのなら、私が起こしている非暴力へのこの動きは、 暴力的な行為、という意味ですか。 私は貪欲であるなら・・・
31:51 K: まったく変化はない。
31:55 質問者: あなたは、有るものは、時なしである、といわれるのですか。
31:58 K: あなたはあまりに早く、跳びこんできていますね。 ゆっくり、それへ入りましょう。
32:05 質問者: 私には、程度に変化があるように、見えます。 あなたが、まったく変化がない、と言われるなら それは、私にとって、程度での変化の可能性を、拒否するように、見えます。
32:17 K: ちょっと待って、私に機会を与えてください。 私は暴力的です。 人間たちは暴力的です。 それは歴史的な事実です。 一万年や五万年の後、私たちは いまだに、暴力的な人間です- 動物などから由来して、です。 事実は、私は暴力的であることです。 それは事実です。 非暴力は非事実です。ですね? それは理想です。 それは何かであって、事実ではない。 しかし、これは事実です。 しかし、私が初めに非事実を追求するとき- 理解されますか - それは、もっと多くの問題を、創り出します。 で、事実と非事実の間に、葛藤がある。ですね? で、何が重要でしょうか。 非暴力を達成するのではなく、暴力から自由であることです。 それがお分かりになるのかどうかと、私は分かりません。 で、私は、非暴力を達成しようとしているとき、 私は、それに到るまで、いつの時も、暴力の種子を蒔いています。 それを、私は欺瞞、妄想、幻影と呼びます。ですね? あなたが付いてこられるのかどうか、私は知りません。
33:40 質問者: 私は、暴力の不在と非暴力との 違いが、分かりません。
33:47 K: もちろんです。 非暴力を達成することは、欺瞞である、と私は言いました。 で、私の問題は - 問題(プロブレム)は、何か投げつけられたものを、意味しています。 その言葉は語源的に、「何か投げつけられたもの」を、意味しています。 さて、これは、暴力は、私が解消すべき問いです。 暴力とは何でしょうか。 物理的な損害、誰かを傷つけることだけではなく、 それはまた、怒ることも、憎むこともです。ですね? 暴力はまた、順応でもある。 そうです。

質問者: それは近く・・・

K: 聞いてください。 暴力はまた順応です。 暴力は、模倣の天職です。 私は、それがすべてに反しているのを、知っています。 で、私は暴力を、理解しなくてはいけません。 なぜ暴力が、あるのでしょうか。 なぜなら、私は順応し、模倣していて、怒り、嫉妬しているからです。 私は、暴力の構造全体に、気づいています。ですね? 気づく。 それへ完全な注意を向ける。 あなたがそれへ、完全な注意を向けるとき、 それは、炎が暴力を焼きつくすのに、似ています。 あなたがこれを理解されるのかどうか、 私は知りません。科学者として、あなたたちは、何かへ完全な注意を向けます。 そして、それへの答えを見つけます。ですね? 問題を創り出すのは、不注意だけです。 これらに付いてこられるのかどうか、私は知りません。
36:03 質問者: 私は、感受へ完全な注意を向けるなら、 欲望を焼きつくすのでしょうか。
36:10 K: そうです。 それは複雑で・・・もちろんです。 焼きつくすのではない。 そうね、私は、有るものを、説明してきました。 あなたが、それに同意されるなら、 それの論理が見えるなら、 そのとき、なぜ私たちは、欲望へ、こんなにとてつもない重要性を、与えてきたのでしょうか。 アメリカの公衆全体が、「充足しなさい」と言われます。ですね? 「抑制するな。それはひどい」、 「制御するな。はめを外せ。 好きなことをしろ」と。 そして、私たちは世界に、こういう荒廃を、創り出しています。 それは違った事柄です。
37:09 で、完全な注意があるとき - それは、あなたの全的なエネルギーを、その暴力の事実へ注ぐことを、意味しています。 そのエネルギーが、暴力を消散させます- その一部ではなく、その全体を、です。 理解できますか。それもまた冥想です。
37:34 質問者: もう一つの目的が、なくてはいけないように、私には思われます。 あなたは確かに、冥想の唯一の目的は、 非暴力を達成することである、とは提唱されないでしょう。 加えて、なければならない・・・私がいうのは、それは否定的です。 あなたは、他の何かを探し求めなければなりません。他に何を、探し求めていますか。
37:57 K: 彼の言葉を理解されましたか。
38:00 質問者: 君は、もっと大きな声で話をしないといけないよ。

質問者: あなたは、非暴力を達成するという一つの目的について、議論したとか、 触れられたように、私には見える、と言うんです。
38:12 K: 私はそれを、一例として取り上げました。
38:16 質問者: けれども、私にとっては混乱します。 非暴力を見つけるために、 暴力へ、完全な注意を向けるなら・・・
38:27 K: ああ、私はそうしていません。 私は、暴力の本性を、理解したいのです。 あなたたちが、原子の本性を理解したいように、です。 あなたたちは、ご自分の注意全体をその忌々しいものへ、注いできました。もちろんです。 あなたたちは、それを研究してきました。 それへ入ったし、それを砕いてしまいました。 アインシュタインとオッペンハイマーとその他すべての人が、です。
38:51 質問者: すみません。 本当に私が悩んでいるものが、何かあると、思います。 何かへ完全な注意へ向けるというこの概念全体は、 私にとって、ほとんど何か想像も付かないことです。 私たちが注意を向けてきたということに、私は不同意するでしょうね。
39:08 K: あなたのいわれる、想像も付かないとは、どういう意味でしょうか。
39:11 質問者: あなたが言われることの意味を、私は知りません。
39:17 K: 注意と不注意との間の違いは、何でしょうか。 あなたが、一定の線に沿って勉学や修練しているなら、 それへ、大変多くの注意を、注ぎます。 残りの時間、あなたは不注意です。ですね? それは、事実、自然な人間的な事実です。 私は、何かへひどく興味を持っているなら、 それへ注意を注ぎます。 残りの時間、私は注意深くありません。
39:56 質問者: あなたは、異なった間隔に、一つ以上のことへ 注意を、向けつつあるかもしれません。 多くの異なったことへ、注意を向けつつあるかもしれません。
40:03 K: で、注意が大事です。 異なったことへ、ではない。
40:09 質問者: 大事なのは、注意自体ですか。
40:14 K: もちろんです。
40:15 質問者: あなたが注意を向けているものより、ですか。 でも、それは、完全な注意の概念です。
40:23 K: よろしいです。「完全な」という言葉は忘れてください。 注意は、完全な、という意味です。 また、自分自身を理解しなくてはなりません。よろしいですね。 これが、冥想の重要性です- 時、欲望、 私である物事すべて。 私は何でしょうか。 私は、自分自身を理解しないなら、 いつの時も、自分自身を欺瞞しているかもしれません。 私はかつて、或る友人を知っていました。 彼はインド人で、 高い教育を受け、イギリスのケンブリッジへ行っており、 インドで良い地位を持っていました。 彼は裁判官になりました。 或る朝、彼は目覚めて言いました - 「私はこれらの人々へ判決を下すが、真理とは何だろうか」と。 家族とそれらを離れ、冥想をとおして、 真理が何なのかを見出すことは、 インドの伝統の一部です - 特にバラモンの間では、ね。 彼はそう言いました。 言っていることに、付いてきておられますか。 で、彼は林へ入った、それらです。 彼は、真理が何かを見出すために、 二十五年間、冥想しました。 で、誰かが彼を、語り手の講話の一つへ、連れてきました。 彼は後で、語り手に会いに来ました。 彼は言いました - 「私は二十五年間、自分自身を欺瞞してきました」と。 言っていることを、理解されますか。 その人の勇気等を、考えてください。 それで私たちは、それについて大変多く、話をしました。 さて、私は自分自身を、自己、自我、人物、 ペルソナ、気性などが何かを、 理解するのでなければ、 私は、余生の間、冥想するかもしれないし、 自分自身を欺瞞しつつあるかもしれません。理解されますか。 私は、広大な一連の幻影の中に、生きているかもしれません - それらは実在すると考えて、です。 で、私は、自分自身を理解しなければなりません。 ゆえに・・・私は、自分自身を理解できます。 誰か心理学者、フロイトとその他すべてに沿って、ではなく、 私は自分自身を理解しなければなりません。 誰かをとおして、ではない。理解されますか。
43:22 質問者: 自分自身を欺瞞していないことは、けっして確かめられないです。
43:25 K: 私はそれを、お示ししようとしています。 一つのことは、私は自分自身を、知らなければなりません。 どの哲学に沿って、でも どの科学者、 どの精神科医などに沿って、でもなく、 どの体系に沿って、でもない。 私は、自分自身ではなく、体系を理解しつつあります。 違いを見てください。 さて、私はどのように、自分自身を理解しますか - 何も欺瞞もなく、です。 さもないと、私は、間違ったゲームを、やってきました。 その終わりに、私は自分自身を欺瞞しています。 で、私はどうやって、自分自身を完全に理解するのを、学びますか - 欺瞞、自己幻想の陰もないように、です。 それは、だいじょうぶですか。 つづけてもいいですか。 どうぞ、これは対話です。 私はただ・・・
44:37 質問者: その中で、感じについては、どうしますか。
44:40 K: 感じるのは、思考の一部です。 そうでないですか。 私は感じる。私は感じを認識する。 それは当面、置いておきましょう。
44:50 質問者: 私たちは、再び注意に戻ってきますか - 私自身を理解するということに立って、ですが。
44:54 K: いいえ。私はお示ししようとしています。 あなたは早すぎます。 私は自分自身を理解したい。 私は、自分自身を徹底的に、理解しなければなりません - 最もわずかな欺瞞もないように、です。 ものすごい誠実さと正直さです。 ですね? さもないと、何の意味もありません。 あなたは、これをもって、行けますか - 正直さと誠実さ、です。 で、私はどうすれば・・・ 私は、正直さ、誠実さがなければならないことを、悟ります - そして、特に懐疑が、です。 キリスト教世界には - キリスト教全体は、バイブルに、 救い主などに、基づいています。 キリスト教は、何の疑いをも、許しません。ですね? 信心深いキリスト教徒は、どんな疑い、どんな懐疑も、です。 もしも、懐疑と疑いがあったなら、全部のことが、崩壊するでしょう。 私たちがイタリアにいたとき- 私はイタリア語を、幾らか知っています - 私は、教皇が言うのを、聞きました -彼は、何らかのことを説教していて、 「あなた方は、もっと信仰を持たなければならない」と言いました。 私の隣に座っていた、私の友人が、言いました - 「ごらんなさい。これが、彼らのしていることです。 どの種の探究をも破壊するよう、信仰を養成している」と。 で、ものすごい正直さ - それはとても困難ですね - そして、大きな誠実さです。
46:58 質問者: キリスト教での信仰のもう一つの定義は、信頼です。 それは、探究を破壊するだけではなく、信頼を持つという事柄です。
47:09 質問者: もう一つの事柄は信頼である、というのが、彼の言うことです。
47:13 K: 信頼。誰への信頼ですか。 バイブルへ、ですか。 あなたは、誰を信頼していますか。 あなたは妻を信頼していますか。 あなたは夫を信頼していますか。 あなたたちは、自分の大統領を信頼していますか。 あなたはなぜ、信頼していますか。 あなたがいう信頼とは、どういう意味ですか。 疑いがあるなら、あなたは探究しています。 あなたは訊ねています。要求しています。
47:38 質問者: でも、信頼していて、それでもなお、神の本性を探究できます。
47:43 K: 信頼とは、どういう意味でしょうか。 私は信頼している。私は妻を持っているなら、彼女を信頼している。私は彼女を愛しているからです。 私は、彼女が私に対して何も醜いことを、しないだろうと、知っています。 私は、自らが彼女に対して何も醜いことを、しないだろうと、知っています。私は彼女を愛しているからです。 愛があるところ、信頼がある。 あなたは、それ自体では、信頼していません。それは、何をも意味していません。私はこれには入りません。 どうか、これへ戻ってきましょう。
48:14 で、私は自分自身を、知らなければなりません。 私自身を知ることなしには、あらゆる種類の欺瞞が、可能です。 ですね?それに同意されますね。 正直さ、誠実さと懐疑、疑い。 その疑いは、革紐に繋いでおかなければなりません - 革紐が何かは、ご存じです。 革紐に犬を繋いでおく。 時折、犬は走れるように、革紐から解き放たれなければなりません。 しかし、犬をいつの時も、革紐に繋いでおくと、 もはや・・・それは、活力を持ちません。 それはもはや、犬ではありません。 で、私たちは、その性質を持たなければなりません。ですね? さて、私はどのように、自分自身を理解しますか。 これは、冥想の一部です。理解されますか。 私は自分自身を、関係をとおして理解します - 環境へ、妻へ、父へ、 それらへの自分の関係をとおして、です。 私は関係において、自分の反応が見えます。 ですね?私たちは、互いに付いてきていますか。 ここまでは、だいじょうぶですか。 賛同されますか。 なぜなら、関係なしに、私は存在しないからです。私は存在できません。 私は、修道院へ引っ込むかもしれませんが、やはり私は、関係しています - 過去へ関係し、 イエスが言ったことなどの概念へ、関係しています。 で、私はいつも関係しています。ですね? その関係、すなわち鏡には、 ありのままに、私自身が、見えます - 私のあるべきものではなく、実際に、私なるものが、です。
50:31 質問者: 反応ということに立って、ですか。
50:33 K: 私の反応すべて、です。 で、それは、とてつもない見守りを、必要とします。ですね? あなたがこれらをできるのか、と思われます。 それで、 関係は、そこにありのままの私自身が見える、鏡です。 そのほうが、私があるべきものより、はるかに重要です。 なぜなら、私なるものは、変容できるからです - 変容ではない。 「変容」という言葉は、一つの形からもう一つの形へ動くことを、意味しています。 そうでなく、変異をもたらす。 私はその言葉を、使いましょう。 で、それが鏡です。 で、私は、自分の関係において鏡を、見守っています。 鏡は私の関係です。 で、私は、自分がいつの時も、人々についてイメージを創り出していることが、見えます。 ですね?私は、妻についてイメージを、創り出してきました。 私は彼女とともに、四十年、二十年か、十日間、生きてきました。 私はすでに、彼女についてイメージを、創り出してきました。 彼女はすでに、私についてイメージを、創り出してきました。ですね? で、これらは事実です。 で、私たちの関係は、これら二つのイメージの間に、あります。 ですね?私がこれらを言うなら、神経質になられますか。
52:13 質問者: いえ、いえ。
52:14 K: あなたの奥さんも、ここにいらっしゃいますか。
52:19 質問者: 自分自身を、社会の鏡に照らして測量するなら、

K: そうです。そうです。

質問者: 私は、すっかりあなたが表されただろうようには、表してこなかったのかもしれません。 しかし、私の問いの焦点は、こうです - 自分が社会を変化させるなら、自分の自己イメージに、何が起きますか。
52:39 K: さて、ちょっとお待ちください。 誰が社会を、創り出しましたか。 私たちが、社会を創り出しました。 私たちは攻撃的です。 私たちは暴力的です。私たちは貪欲です。 私たちの社会は、私たち自身です。 社会は、私より違っていません。 私は共産主義者ではありません。
53:03 質問者: 私たちは、一つの社会からもう一つへ動くなら・・・
53:07 K: それは同じです。 それは、私が、なるようなものです・・・ 私はカトリックであり、私は仏教徒になる。 それは同じ動きです。 私は名前を、変更しました。 仏教はキリスト教より、はるかに知的、はるかに微妙で、 はるかに・・・等々です。 で、一つの宗教や国家から、もう一つへ動くことは、同じです。 どうぞ、私は、問うています。 私は、言っています - 自分自身を理解するには、 自然への自らの関係が何なのかを、見なくてはいけません。 樹々、自然の世界、 自然の実在、 自然の美しさ、深さ、栄光へ、 そしてまた社会(への関係を)、です。 私は社会へ、関係しています。 私は、自分は社会とは違っている、と言います。 私たちはそうではない、と私は言います。 私たちがこの社会を、創り出してきました。 ですね?それは事実でしょう。 私にこれを、終了させてください。 どうか、一分間、待ってください。 私たちが、この社会を創り出してきました。 思考が、この社会を創り出してきました - 特定の社会の文化を、です。 私たちは、それらの結果です。 この社会を創り出してきたのは、私たちの行為です - 私たちは、貪欲です。私たちは、攻撃的です。 私たちは、暴力的です。私たちは、所有したがり、 不安定で、安全を欲しがります - 物理的とともに、心理的にも、です。 それで、私たちは、この社会を持っています。 それは腐敗しています - 私たちが腐敗しているように、です。 すみません。みなさんは、そうではないかもしれません。 で、それは、私たちの産物です。 で、私が、この社会の一部が、根本的に、心理的に 変化するのでなければ、 社会には、何の変化もないでしょう。 それは事実です。 共産主義者たちは- 私がその言葉を使っていいなら - いいですか? 私は、或る時に、たくさんの共産主義者の友だちを、持っていました。 安楽椅子の共産主義者ではなく、 党員証を持つ(正式の)共産党員です。 彼らは、本当の共産主義者でした。 私たちは、パリと他の場所で、大変多く議論をしたものです。 彼らは、一定の点まで行き、それから、「すみません。もう行きません。 マルクスが限界です」と言ったものです。 理解されますか。 この国(アメリカ)の(キリスト教)原理主義者たちのように、です -バイブルが限界です。 彼らとは議論できません。終了です。
56:44 で、私たちは冥想について、議論しています。 その冥想において、創造性は何でしょうか。 それが問いです。 今、私は、関係においてありのままに自分自身を、見ます。 また私は、私なるものを変化させるどの動きも - どうか、これを理解してください。 それは少し複雑です。 お気になさらないなら、です - 私なるものを変化させるどの動きも、やはり、同じ様式にあることが、分かります。ですね? 私は・・・いいですよ、それを違ったように、表しましょう。 それを変化させることになるのは、誰ですか。ですね? 私は貪欲です。 仮に、私は貪欲である、とします。 どのさまで私は、それを変化させますか。 変化は、他の何かへ、を意味しています。ですね?
57:52 質問者: で、無貪欲になりたいのは、もう一つの形の貪欲ですか。
57:56 K: ええ。まさにそうなんです。 貪欲になりたくないのも、もう一つの形の貪欲です。もちろんです。 で、その事実は、どのように変化するのか。 私は自分の関係において、発見します- 私がどんなに貪欲なのか、 私がどんなに所有したがるのか、 性的、その他で、です。 執着。 執着の複雑さすべて - 恐れ、嫉妬、心配、憎しみとともに、です。 その(執着という)言葉には、このすべてが、収容されています。 よろしいでしょうか。 これらに、付いてきておられますか。 私たちはともに、ここにいますか。 または、私は自分自身に話しているだけですか。
58:52 質問者: あなたは、これらの物事が見えるには、 見守りが必要である、と指摘なさっています。
58:57 K: もちろんです。
59:00 質問者: でも、私たちはどうやって、見えるほどに強くなるよう、 見守りを、助けられますか。
59:06 K: ああ、あなたは、それを助けられません。 なぜあなたは、科学者ですか。 あなたは、そうなりたい。 あなたは、何年も使います - あなたが科学者になるために、何年を使うのか、私は知りません。 あなたは、これに五分間を、掛けさえしないでしょう。 私が、大変尊敬をこめて、指摘してもよろしければ、 どうやってを訊ねることは、体系を求めることである、と思います。ですね? 体系は必然的に、破壊的な性質を、内在させているにちがいない - エントロピーと、その他すべてです。 で、私は、関係において、自分自身を発見します。ですね?
1:00:04 そのとき、次の問いは、こうです - 注意は何でしょうか。 集中は何でしょうか。 あなたは、これらに付いてきていますか。 これに興味はありますか。 礼儀正しくしないでください。そうですね、あなたたちが去られても、私は気にしません。
1:00:26 質問者: 私たちは、一つの切れ目を補えるでしょうか。 あなたは、貪欲と、このような様々なことと、 それらを変化させようとすることについて、話していました。 それは、感受を変化させるとか、それの充足を変化させる、 という脈絡において、でしょうか。 あなたは、自分は貪欲である、と言われます。 あなたは、感受を持つ、という意味で・・・
1:00:44 K: それは反応です。
1:00:47 質問者: あなたは充足を消去できるが、それでもなお、 感じを持てるように、見えます。
1:00:51 K: いいえ。 そこが、困難なのです。お分かりですね。 貪欲の感じは、何でしょうか。 所有したがること。ですね? あなたは、すばらしい邸宅を、持っています。 私も、その種の邸宅が欲しい。
1:01:07 質問者: それは感受です。 それから、欲しい。 それが他の何かであるのは、あなたが出て行って、それを得るときです。
1:01:15 K: ええ。ここ、アメリカでは、 買え、買え、買え、買え、です。
1:01:22 質問者: どんどん行け、と。

K: そうです。
1:01:31 で、そのとき私は、集中と注意の問いへ、入らなくてはなりません。 集中とは何でしょうか。
1:01:37 質問者: 集中は、排除を含意しているでしょう。 集中は、排除、排除することを、含意していませんか。
1:01:44 K: それに入ってください。気をつけて見てください。 それを見つめましょう。 集中する。 学校で子どもは、教師から、集中するよう、言われます - 「思考を駆け去らせるな。窓の外を見るな。 集中しろ」と。付いてきていますか。 で、私たちは子どもの頃から、訓練されます。 あなたは、信心深いキリスト教徒であるなら、 イエスやキリストに、焦点を合わせます- それが何であっても、です。 あなたがインド人であるなら、違った名前で、同じことをします。 私たちは名前の奴隷です。ですね? で、集中は、排除を含意してます。 私は集中していますが、思考は、さまよいつづけます。 で、私はそれを制御しなくてはいけません。 ですね? そのとき問いは、制御者は誰であるか、です。 制御者は、制御されるものです。それがお分かりになるのかと、思われます。いいですね?
1:03:00 質問者: あなたがいわれるのは、制御したいとの自らの願望によって制御される、という意味ですか。
1:03:03 K: いえ、いえ。 観察者は観察されるものです。
1:03:12 質問者: キリスト教徒として、私が提示せざるを得ないと感じることの一つは、 あなたは、キリスト教徒はキリストに集中する、と述べられました。 私は、キリスト教徒であろうと試みますし、 確かに私は完璧な者ではないけれども、 キリスト教での一つの信念は、 個人に焦点を合わせない、ということです。 キリスト教を他の宗教より区別する一つのことは、 それがもっと利他的である、ということです。 自己に焦点を合わる代わりに、キリスト教で私たちは、外的に焦点を合わせ、 他の人たちのために、自分自身を犠牲にします。
1:03:43 K: あなたが表すように、もっと利他的だ、愛する、と。
1:03:50 質問者: そこでは、個人への焦点になるとは、私は思いません。
1:03:52 K: 私がそれに触れたのは、すみません。 それは放っておきましょう。
1:03:54 質問者: 理想的には、人類すべてへの気持ちの広がりが、あります。
1:03:56 K: 利他的は、放っておきましょう。 私たちは当面、冥想と創造性とは何なのかを、 見出そうとしています。 私たちは、様々な形の宗教について、話をできます - それらは、思考により組み立てられています。 それについて、疑問はありません。 儀式すべて、教義すべて、 信念すべてとそれらは、思考により、組み立てられています。
1:04:21 質問者: たぶん私が、話を明らかにしていなかった・・・
1:04:23 質問者: どうか、宗教へ入らないでおきましょう。
1:04:25 質問者: 私は、或る点を擁護しようとしていませんでした。
1:04:28 質問者: いいえ。主題に拘りましょう。 いいですか。ただ今は。
1:04:30 質問者: いいよ。これは主題に関係しています。
1:04:35 質問者: いや。ただ今は、それに拘りましょう。

K: すみません。
1:04:37 質問者: 私は、自己と反省の間の違いが何かを、知りたいと思います。
1:04:41 質問者: 私が思うに、あなたは、訊ねることをとおして・・・
1:04:44 K: 私がキリストを持ち込んだのなら、お許しください。
1:04:55 で、私たちは集中について、話しています。 集中は、あなたのエネルギーの焦点を、特定主題へ合わせることを、含意しています - それは、思考が何かへ、集中しようとすることです。 しかし、思考はまた、浮浪しています。 いつの時も、さまよっていきます。 で、そこには、葛藤があります。 ですね?行きつ戻りつです。 で、どうぞ、理解しなくてはいけません - あなたが本当に、これらへ興味を持っておられるなら、です - 葛藤とは、何でしょうか。 なぜ人間たちは、何千何万年の後、永続的に 葛藤の中に、生きてきたのでしょうか。 それは通常に見えるし、あなたは、 「いや、前進するには、葛藤の中にいることが、必要だ」と言うでしょう。 前進とは何でしょうか。 私たちは前進しつつありますか。 おそらくテクノロジー的に、あなたたちは驚くほど、前進しつつあります。 その他で私たちは、心理的に前進しつつありますか。明白にそうではない。 私たちは、ここ四万年以上の間、 そうであったものなのです。
1:06:05 で、私は、集中とは何かを、理解しなくてはいけません - それは、排除を意味しています。 それは、私があらゆる物事を排除し、あらゆる物事を回避し、あらゆる物事に抵抗して、 自分の生を生きることを、意味しています。 付いてきておられますか。 それで、常に闘いがある。 葛藤の中の頭脳は、自ら擦り切れていまいます。 自らのエネルギーを失います。ですね? 同意ですか。 これは明白です。論理的です。 で、葛藤なく生きることは、可能でしょうか。理解されますか。 冥想の深さ、何が含意されているかを、理解されますか。 で、葛藤なく生きることは、可能でしょうか。
1:07:06 語り手は、はい、と言います。 語り手は言います - 私は自慢していません。 彼は、自慢していたり、お手本になろうとしていません。 彼は、その種のことすべてへ、恐怖を持っています。 彼は、「はい、それは可能です」と言います。彼はそうしてきました。 葛藤とは何でしょうか。 なぜ私たちには、二元性があるのでしょうか。理解されますか。 一つのことを言って、何か他のことをする - 自らが言ってきたこととは反対に、です。 私は貪欲であり、私はそうであってはならない。 それは矛盾です。ですね? 同意ですか。で、私たちには、いつの時も二元性があって、機能しています。 で、二元性が、葛藤の原因です。 それは可能でしょうか・・・いや、すみません。 そもそも、二元性があるのでしょうか。

質問者: 二元性はあります・・・

K: 一瞬間、ただ聞いてください。 私たちは、止めなくてはいけません・・・ そもそも、二元性があるのでしょうか。 二元性はあります- あなたは女です。私は男です。 私は背が高い、あなたは低い、とか、あなたは背が高い、私は低い、とか、 あなたは色白だ、私は浅黒い、などと、二元性はあります。 日の出、日の入り、暗闇、光はあります。 二元性はあります。 しかし心理的に、そもそも、二元性がありますか。 または、「有るもの」だけですか。 理解されますか。 暴力だけがあります。それの対極はない。 それの対極は、非実在です。 しかし私たちは、対極を実在にしてきました。 ゆえに、二元性があります。 あなたがこれらに付いてきているのかどうか、私は知りません。 天国と地獄、悪魔と神 - そうですね、 私が議論している、二元性の心理的な動き全体です。 私たちは言っています、語り手は言っています - 心理的に二元性は何もない。 ただ、「有るもの」だけがある、と。 「有るもの」の理解があるなら、そのとき、二元性はありません。 ゆえに、心理的に葛藤すべての終止が、ある。 なぜなら、冥想は、必要とされるものすごいエネルギーを、含意しているからです - ただ、どこかバカげた片隅に座って、 何らかのものを反復しているだけではない。 (禅の)或る祖師の うるわしい物語が、あります - 賢い、それらの種類のことです。 或る弟子が、彼の所へ来て、 彼の前で脚を組んで座り、目を閉じます。 祖師は、「友よ、君は何をしているのかい」と言います。 「私は冥想しております」と。 「ああ、そうなのか」と彼は言います。 で、彼は二つの石を、拾い上げます。 祖師は、二つの石を拾い上げ、それらを擦り合わせます。 物音で彼は目覚めます。弟子は彼に言います - 「先生、何をなさっていますか」と。 「私は、これら二つの石から、鏡を作ろうとしているよ」。 弟子は言います - 「それらを余生の間、擦り合わせられますが、 けっして鏡はできないでしょう」と。 で、祖師は、「君は余生の間、 そのように座っていられるよ」と言います。
1:11:24 で、集中です。 それから、注意とは何でしょうか。 集中には、いつも中心がある。ですね? 中心は「私」です - 私が集中している。 これらに付いてこられるのかどうか、私は知りません。 集中は、「私」、自己を 強調します。 注意は、いかなる中心をも、持っていません。 私は注意しているとき、私は注意している。 注意がある。それは、「私は注意している」ではない。どうですか・・・ で、注意があるところ、 中心は、周辺とともに、直径とともに、 拡がりなどとともに- それが一つもありません。 その中から、私たちは、静寂な精神、頭脳とは何かを、探究しなくてはいけません。 私たちは、基盤を敷いてきました。 すなわち、自分自身を完全に理解する。 それで、恐れがないように、です - 心理的に、いかなる恐れもない。 さもなければ、恐れは、あらゆる種類の幻影を、創り出すでしょう。
1:13:11 質問者: あなたは、精神と頭脳について、話されましたし、 それらの間に、よく気をつけた区別を、されました。
1:13:17 K: 私はそこへ来ようとしています。
1:13:31 私は一息をついています。すみません!
1:13:43 注意があるところ、静寂があります。 しかし、その静寂は、炎に似ています。理解されますか。 生きて、燃えています。 何を焼き去るのでもない。 理解されますか。 それは太陽等に似ています。 で、注意は、自己の完全な終止を、意味しています。試してください。 あなたは、注意しているとき、自分自身を忘れてしまっています。 自己がないのです。 不注意があるとき、注意がないときだけ、 自己は存在します。 愛は注意です。 どうなのか・・・ セックスではなく、楽しみではなく、欲望ではない。 アメリカ人は愛を、セックスと楽しみ、それらへ還元してしまいました。 で、注意は、静寂を意味しています。 その静寂は、愛です。 愛なしには、何もありません。
1:15:18 で、そのとき、訊ねます - 思考がまったく触れたことがない、何か神聖なものが、あるのでしょうか。理解されますか。 生すべては、物質的な過程でしょうか。 私は神について、何も知りません。 私は、神を創案しようとしていません。 理解されますか。 恐れがないとき、神への創案はありません - 物事の起源、です。 絶対的に恐れがなく、どんな慰め、安全への願望も、ないとき、 私たちは、物事の起源を、見出すでしょう。ですね? なぜなら、それらはすべて幻影のようであるからです。理解されますか。 で、頭脳が完全に静寂であり、 そのとてつもないエネルギーを持つとき- 理解されますか。 なぜなら、それは今、おしゃべりするのを、止めたからです。これらに付いてきておられるのか、私は知りません。 おしゃべりするのを、止めた - どうぞ、これはすべて論理的、健全で、理性的です。 それは、何か異国風のインドのゴミではありません。 私は、そこで育てられましたが、それから、九歳でインドを去りました。 語り手は、一冊の宗教書も、 哲学や心理学をも、読んだことがありません。 あなたは、「おまえは独特の変種だ」と言うかもしれません。たぶんそうではない。 「生物学的な変種だ」と。 私はそうではありません。
1:17:19 で、頭脳が絶対的に静かであるところ、 ゆえに、イメージについて空っぽであり、 それは、あのエネルギーを持っています。 何か神聖なものが、あるのでしょうか。 それは、こういう意味です - 何か思考が、人が自らの尽力の中、 探求の中、葛藤の中、苦しみの中、何かのために 望むものが、あるのでしょうか。 理解されますか。これらを理解されますか。 そのとき、人は望むなら、創造するでしょう。 そのとき人は、自らの望みの中から、 何か自らが無量に欲しいものを、投影するでしょう。 それで、欺瞞がある。 これらは、洞察を含意しています。 洞察は、憶えていることの結果ではありません。 それが、憶えていることに、基づいているなら、 それはただ、もう一つの記憶、思考の継続です。 で、洞察は、思考、記憶、経験、時に、関係していません。 何か、あなたは一閃きで、全体のものが、見えるのです。 これは、あなたたちのみんなに、起こります- あなたが科学者であるなら、です。 その洞察は部分的です。 私がそう言うのを、お許しください。 芸術家のように、それは部分的です。 私たちは、全包括的な動きとしての洞察について、話しています。 どうぞ、これらは言葉ではありません。 私にとって、とにかくそれらは言葉ではありません。
1:19:25 で、時を越え、測量を越え、人のすべての欲求、願望などを、 越えているものが、何かあるのでしょうか。 それを見つけるなら、生は、ものすごい意味を持つのです。ですね? 語り手は、ある、と言います。 私はそれを、証明できません。 さて、これが冥想です。 その中から、創造があります。 愛、慈悲は、自らの智恵を持っています。 その慈悲、愛と智恵が、創造性です。 なぜなら、その創造性は、一方で建設し、 他方で破壊をもたらさないからです。 私は、話を明らかにしつつあるのかどうか、知りません。
1:20:37 そして、最後の質問があります。
1:20:47 質問: もしもあなたが、国防への責任をもつ (この国立)研究所の所長であって、 物事のあり方を認識したなら、 あなたは、研究所の活動と調査を、 どのように指令するのでしょうか。
1:21:10 ありがたい。私は所長ではない。 しかし、私は、そうであるなら、この質問をするでしょうか。 その問いは、正しい問いでしょうか。
1:21:26 質問者: それは、人類へのあなたの理論、 あなたの信念と、 私たちがみんなしようとしていることと、私たちが持つ毎日の 実用的な問題との 間の関連を、見つけようとする問いなのです。
1:21:53 K: そうです。あなたが持っている毎日の問題です - 生計を立てること、 セックス、子どもを持つことや子どもを持たないこと、 天職 - それは今、模倣になりつつあります。 けんか、不和、痛み、 傷、苦しみの毎日の問題。 これが、私たちの日々の存在です。 私たちの頭脳は、子どもの頃から、問題を解決するよう、訓練されます。 私たちは、解決は 問題の理解を阻止する、と言っています。 解決を探し求めることは、問題の理解を、阻止します。 すみません。 なぜなら、私たちの頭脳は、解決へ訓練されるからです。 私は、妻との問題を持っています。 私は、「解決は何だろうか」と言います。 離婚か、弁護士へ行くか、適応か、逃げ去るか - それらの種類のことは、ご存じでしょう。 しかし、問題は何でしょうか。 私の主張、私の願い、私の充足と、彼女の、です。 それを理解しましょう。 それを議論し、終了させましょう。 しかし、私は、解決を探し求めているなら、けっしてその問いへ、入りません。 問題の因果は、解決ではなく、問題自体の理解をとおして、 終わらされられるのです。 すみません。これは大変多くを必要とします。
1:23:53 で、問いはこうです。 もし私が(この国立研究所の)所長であるなら - あなたは訊ねておられます - 答えは、それは間違った問いである、と私は言うのです。 なぜなら、これは、今ではなく、まさに始まりに、出されるべきであったからです。 人を殺すこと - 一人の人間が、宗教の名において、 国の名において、 神の名において、 王冠と忠誠の名において、 もう一人の人間を殺すことの始まりに、です。 あなたの国に対立した私の国、 あなたのイデオロギーに対立した私のイデオロギー。 私が、献身的なマルクス主義者、レーニン主義者であり - 私はそうではありませんが - もう一人はカトリックである。 それで私たちは、互いに戦争をしています。 それが本当の問いなのです。 これらの終わりに、 私は何をすべきだろうか、ではなくて、です。 私たちがこれを、もたらしてきました。 私たちが世界を、分割してきました - あなたはキリスト教徒である。 私は黒人である。あなたは白い。 あなたはコーカサス人(白人)である。 私はシナ人である - または、おぞましいものが何であっても、です。 私たちは、分割してきました。 時の初めから、互いに闘ってきました。 西洋文明は、他のどの文明より、 多くの人々を殺してきました。 これは、事実です。 私はそれに反対でも、賛成でもありません。
1:25:49 ロス・アラモス(国立研究所)のあなたたちのような人々の集団は、 ご自分の時間を破壊のために、注いできました。 あなたたちはまた、他のことをも、します - 太陽光を使う、そうね、それらです。 あなたたちは、一方で利益をしています- 大変多くの利益です。 他方で、あなたたちは、地上のあらゆる人間を、破壊しつつあるのです。 なぜなら、あなたたちは、私の国、私の責任、 私の防衛を、認識してきたからです。 (ソビエト・)ロシア人たちは、他方で まったく同じことを、言っています。 インドは、同じことを、言っています。 そこは、無量の貧困を持っていますが、 軍備を増強しています。 で、これへの答えは、何なのでしょうか。 それへの答えは、私にとって- 私は間違っているかもしれません。 あなたの訂正を受け入れます。 一つの目的のために、ロス・アラモスに 集まってきた人々の集団として、 もし集団が、「さあ、民族主義、国家主義すべて、宗教すべてを、忘れよう。 人間として、この問題を、解決しよう - いかに破壊なく、ともに生きるかを」と言い、 もしも私たちが - 絶対的に献身していて、 私たちが話してきた物事すべてに関心を持つ 人物たちの集団 - が、それらへ時間を注いだなら、 そのときおそらく、何か新しいことが、起こりうるでしょう。
1:27:52 私たちはけっして、死に向き合ったことがないのです。 (初代所長で、原爆の父、)オッペンハイマー、 彼は、サンスクリットを知っていました。 彼は(初の原爆実験の成功を見て)、 「私は死となった」と言いました。 あなたたちは、それをよくよくご存じです。 私たちは、死をもまた理解しません - 私は今、それへ入る時間がありません。 しかし、私たちは破壊者となったし、 また同時に、人間たちを利益するのです。 よろしいですか。 どうか、私はできません・・・私は、あなたに何をするようにも、頼んでいません。私は宣伝者ではありません。 しかし、世界は今、このようです。 誰も、地球的な見通しについて、考えていません - 人類すべてへの地球的な感情です。 私の国ではない。後生です。
1:29:18 もしもあなたが、語り手がするように、世界を回ったなら、 あなたは余生の間、泣くでしょう。 平和主義は、軍事主義への反動です。 それだけです。 語り手は、平和主義者ではありません。 彼は、言います - これらの原因、これらの始まりを、 見つめましょう。 因果がそこにあるなら、 私たちみんながともに、因果が見えるなら、 そのとき、事は解決されるのです。 しかし、一人一人が、因果について異なった意見を持っていて、 自分の意見、自分の歴史的な弁証法に、拘るのです。
1:30:19 それで、こうなっています。
1:30:25 質問者: 私がお訊きしてもいいなら、あなたは私たちを納得させた、と私は思います。
1:30:29 K: 私は、あなたに、何をも納得させていません。
1:30:31 質問者: すみません。 私は、適切な言葉を使っていません。 聴衆の静寂から見て、私たちは、 問題を理解し評価するだけのエネルギーを 持っているようだと、私は思います。
1:30:40 K: いえ、いえ、それは私ではありません。
1:30:43 質問者: でも、私が言いたいのは、こうです - 私たちがひとたび、本当にこれを理解しよう、 その方向へ何かをしようとするとき、 どうやら私たちは、必要なエネルギーを欠いているようだ、ということです。 で、結果は、 私たちはまだ、私たちみんなが望むほどの前進を、遂げることができません。 ですが、私は、あなたから批評を二、三、お聞きしたいと思います。 私たちを本当に引き留めているのは、何なのでしょうか。 私たちはそれが見えます。 私たちは、家に火が付いているのが、見えます。 それでもなお、私たちは、火を止めることにかけては、何もできないのです。
1:31:12 K: 火の付いた家 - 私たちは、それが外、あそこにあると、考えますが、それは内、ここにあるのです。 私たちは初めに、自らの家を秩序立てなくてはいけないのです。
1:31:29 すみません。私たちは話してきました・・・ 彼らは時計を見ています。 かつて私は、しばらくの間 知っていた家族から、言われました。 息子が私に会いに来て、言いました - 「私の父が死のうとしています。 どうか来て、父に会ってもらえるでしょうか」と。 すべての家族で、何が起きるのかは、ご存じです。 父親は、死のうとしています。 彼らはみんな、彼を取り囲んで泣いています。 それで私は、父親へ、彼らを部屋から追い出すように、頼みました。 で、彼は、「出て行きなさい」と言いました。 彼は、彼らを立ち去らせました。彼らみんなが立ち去って、彼は扉に、鍵を掛けました。 彼は言いました - 「私は死のうとしています。 不治の病気で、です。私は怯えています」と。 理解されますか。 それで私は、彼とともに座り、彼の手を握りました。 彼は、「誰かが私の手を握ってくれたのは、これが初めてです」と言いました。これらを理解されますか。 語り手は、彼に言いました - ともに死にましょう、と。 それは、どういう意味ですか。 彼は、家族すべてを去ろうとしていました。 彼は、すてきな邸宅を持っていました。 とても豊かな人です。 あなたは、そのすべてを去ろうとしている。 それが、あなたが恐れていることである、と 私は言いました。 また、あなたは、知らないものを恐れている。 あなたは、執着している。 執着があるところ、恐れがある、などと。 私たちはともに、優しく話をしました。 私は言いました - どんな種類でも執着があるのなら、 私はあなたとともに、死ぬでしょう、と。 あなたが、死ぬなら、 執着から自由であるなら、です。 私が言っていることを、理解されますか。 で、死は、生において、とてつもない意味を、持っています。 死とともに生きる。 分離して、死はそこ、生きるのはここ、ではない。 ともに、です。 終了しました。