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MA8384T1 - 私たちは、根本的に私たち自身に、変化をもたらせるのか。
公開講話、第1回
インド、マドラス(チェンナイ)
1983年12月31日



0:18 指摘したいと思いますが、 - これは、娯楽ではありません。 これは、講義でもありません。 講義は、特定の主題について、情報を伝えること、 それについて情報を知らされることを、意図しています。 で、これは、講義ではありません。 私たちの間の会話です。 仲良く、真剣です。 そして、お互いに深く疎通し合うこと、 そして、ともにできるなら、長い旅を行くことが、可能なのかどうか、です - 願わくば、 人間の全地位に及ぶ旅を、です。 特定の国のとか、 特定の人々の集団や共同体の、ではありません。 また私たちは、どの特定の哲学にも、関心を持っていません。 もし、自らが、教示され、情報を与えられ、 何をすべきかを言ってもらうのを待っているなら、 残念ながら、あなたは、失望するでしょう。 で、私たちはともに、きわめて長い旅を、行おうとしています。 外的に、 物理的な世界において、だけではなく、 また、心理的な世界において、 私たちの内側に潜む世界において、 いわば、肌の内側にも、です。 私たちのほとんどが、真剣に取ったり、 きわめて深く入ったりしてこなかった世界に、です。 で、ともに、私たちが講義をしていないことに、留意して - また、説教でもありません。 そう望みます - だから、それに退屈しないでください。 また、指摘したいと思います - すなわち、語り手のような誰かに、聞く中で、 耳で聞こえることで聞くだけではなく また、聞かなくてはいけません。 それは、芸術です - 誰かに、自由に、 智恵をもって、聞くことは、です。 何の解釈もなく、 何の結論もなく、 二人の友として、一緒に話し合っています。 世界の状況について、だけではなく、 また、彼ら自身の問題についても、 彼ら自身の振るまい、 彼ら自身の考え方、先入観、 意見、結論についても、です。 で、あなたがそう聞くだろうことを、望みます - 言葉のネットワークだけではなく、 また、生の、より深い主題についても、です。
4:53 このように思われます - 宗教と、世界に平和を持つことは、 自らの生において、最も重要な二つのことである、と。 宗教(レリジョン) - その言葉の語源的な意味は、 あまり明らかではありませんが、 宗教は、一般的に、世の中で進んでいることだと、 受け入れられています。 キリスト教の宗教、イスラム教、イスラム教徒、 ヒンドゥー教徒、仏教徒など、 彼らの寺院、神殿、モスク、教会や大聖堂と、 それらの中で進む儀式すべてと、 寺院、神殿の中、教会、モスクの中にある 物事すべてとともに、です。 一定の信仰、信念を持って、従うことと、 一定の文句の反復、 供養、儀式を行うことなど、 迷信の構造全体。 それが一般的に、宗教だと理解されているものです。 語り手にとって、それは宗教ではありません。 それはすべて、思考により組み立てられています。 思考は、物質的な過程です。 そして、思考が創り出してきて、 聖性を与えられたもの、伝統は、 そのとき、その思考こそが、 自らが創り出してきたものへの崇拝に、向かいます。 これは、事実です。 理論ではありません。 私たちは、あの航空機を待ちましょう。
7:30 また、世界には、平和もありません。 すべての国家、民族による戦争への準備が、あります - 特に、現在の危機、核戦争と、人類全体の破滅です。 で、世界に、平和はありません。 また、私たち自身にも、平和が、ありません。 宗教的な人間であることは、 大変多くの智恵を、必要とします。 また、この世界に平和に生きるには - 葛藤なく、問題なく、この分割的な過程なく、です - それもまた、大変多くの智恵を、必要とします。 何かの標語の反復ではなく、 或る導師に従うことではない。 そのすべてが、去りました。 終了しました。 なぜなら、人はもはや- そもそも、気づいていて、 智恵があり、進んでいることを意識しているなら、 人は、そのすべてのゴミを、片付けてきました。 あなたは、同意しないかもしれませんが、 どうぞ、まさにその最後まで、聞いてください - あなたが、辛抱できるなら、 そして、あなたが事実に向き合いたいなら、です。 なぜなら、事実は意見が、要らないからです - それらは、そうなのです。 あなたが事実をどう翻訳するかは、あなたの背景に、依存します - あなたの先入観に、あなたの条件づけに、ですが、 事実は、事実のままに留まります - 世界の一定の地域には、戦争が、あるように、 彼らが準備しているように、です- 右も左も、どちら側も、です。 戦争がないだろうことを、望みます。
10:05 そして、宗教は、もはやまったく意味を持ちません - 感傷的、感覚的な興奮と、 情動的な快感以外には、です。 その他では、宗教は、その言葉の最も深い意味において - それは、正しき生を生きることです。 自由の生、 環境に依存せず、 自分の行為への責任などの生、です。 そのすべてに、私たちは、これら四回の講話の間、入るでしょう。 だから、どうぞ、 これらの講話のまさに始まりから、 あなたがそうしたいのなら、 語り手が言っていることだけを、聞くのではなく、 また、語り手が言っていることへの あなた自身の解釈をも、聞く - 言われつつあることを、 あなたがどう、受け取るか、受け入れるか、反応するのか、です。 で、これには、互いとの常なる意思疎通が、必要とされます - 語り手の言葉に、 言葉の意義に、気づくだけではなく、 また、自分の応答にも気づくのです。 だから、それは、応答すべき責任です。 麗しい。 これが、現代文明です。 進みましょうか。 彼らが叫ぶのより、もう少し叫びましょう。
12:39 で、私たちは、長くて仲の良い旅を行おうとしています - 教義的なものではありません。 外的にも、内的にも、です。 内的に旅をするほうが、はるかに困難です。 あなたが、世の中で進んでいることの情報を、よく知っているなら、 それは、相当に簡単です。 が、評価するには、基準を持たなければなりません - 鏡の中に、のように、物事をありのままに見るには、です。 世の中で、外の世界で、起きつつあることを、見るには、です。 それは本当は、まったく外的な世界ではありません。 それは、私たちが創り出してきた世界です。 それは、出ていき、入ってくる潮に、似ています。 それは、同じ水なのです。 ですが、私たちは、不幸にも、世界を分割してきたのです - 外のものと、内のものとして、です。 この永遠の動き - 行為と反応(作用と反作用)、 挑戦と応答、 問題に次ぐ問題のそれですが、 これらの問題は、ますます増大しています - 政治家により創り出されただけでなく、 宗教的な人々すべてによっても、です。 また、私たちが自分自身で創り出してきた問題も、です。 それは、私たちが創り出してきた社会です。 それは、突然に生じませんでした。 これが、私たちなるものです。 私たちの家が燃えていて、 無秩序であり、競争が激しく、非情であるなら、 私たちが、そういう社会を、創り出してきたのです - それが、残忍なこと、 残酷さ、不正義などであっても、です。 で、それは、私たちの責任です - 社会を変化させることが、ではなく、 私たちがともに行おうとしている旅の中で、見ることが、です。 旅を行う、その動きこそにおいて、 私たち自身を根源的に変化させる可能性が、あるのかどうかを、見る。 心理的な革命です - 物理的な革命ではありません。 で、ともに行きましょう。
16:00 世界は、地理的に、民族的に、宗教的に、分割されています。 経済的に、伝統的に、 世界は、砕けてしまっています。 断片化しています。 その断片化は、民族主義をとおして、起きてきました すなわち、栄達した部族主義、です。 各国が、自分自身に関心を持っています。 ですが、政治家と、指導者である人たちは、 私たちがみんな人間であり、私たちが一つの人々であるのを、忘れます。 あなたは自分自身を、イスラム教徒やヒンドゥー教徒や仏教徒や キリスト教徒と呼ぶかもしれませんが、私たちは、一つの人類です。 あなたは、一定の派に所属していて、 自分の個人的野心を主張するかもしれませんが、 そのすべての裏で、私たちは、一つの実体です。 人類の全体が、私たちです。 ですが、不幸にも、 様々な安全の理由のために、 私たち自身の、安全への探求は- 家族をとおし、 共同体をとおし、 民族をとおして、ですが - 私たちは、世界を分離してきたのです。 アメリカ人、ロシア人、フランス人とインド人と、 アラブ人と、ユダヤ人などとして、です。 この分離は、この分割、この断片化は、 戦争の原因の一つであったのです。 神の名において、宗教の名において、 イデオロギーの名において、互いに破壊し合っています 私たちは、みんな、これを知っています。 この過程は、最古の時代から進んできました。 部族主義のこの分割、 経済的な分割、宗教的な分割、 社会的な分割など、伝統、です。
18:56 で、この分割、断片化があるところ、 葛藤が、あるにちがいありません。 それは、事実です。 それは、語り手の結論ではありません。 これは、進んでいることです。 一つのイデオロギーが、別のイデオロギーに反対し、 保守的なイデオロギーが、リベラルなものに反対し、 社会主義のものが、共産主義のものに反対し、 ファシストが、他のあらゆる人に、反対する。 人種的な分割、言語的な分割などが、あります。 で、どうぞ、私たちは、ともに旅を行っています。 単に、語り手に聞くだけでなく、 事実を見てください - 語り手に沿って、ではなく、私たちの生で日々、 実際に、起きつつあることを、です。 その分割が、完全に停止するのでなければ - すなわち、あなたが、もはやヒンドゥー教徒、仏教徒、イスラム教徒、 キリスト教徒でないとか、異なったイデオロギーに所属していないのです。 共産主義、社会主義、資本主義などのに、です- 私たちは必ず、戦争を創り出すのです。 それは、他の人間たちを、何千ごとに、何百万ごとに、 殺すことを、意味しています。 この戦争が、起きることになるなら、私たちはみんな、消え去るでしょう。 大地は、焼き尽くされてしまうでしょう。 たぶん、あなたはこれらを、ご存じです -あなたが、新聞を読んできたり、 一定の科学者に話してきたなら、です。 そして、論議は、進んでいきます。 それは、百万年の間、このようであったのです。 または、実際に、四万五千年の間、 人間たちは、この地上に、存在してきました -考古学者と生物学者によれば、です。 そして、人は、格闘し、格闘し、格闘し、 戦い、殺してきました。 前にそうでありつづけたように、今、そうであるでしょう。 また、それが、人類の未来です。 果てしない格闘、 果てしないけんか、破壊。 これが、あなたが向き合っているものです。 あなただけではなく、あなたの孫たちも、です。 私たちは、それを受け入れます。 あなたは、ユダヤ人であるなら、自分がユダヤ人であるのを、確認します。 または、ヒンドゥー教徒や、何か他の愚かな名称を、です。
22:59 で、私たちは、人間たちの破壊を維持し、養っています。 それが、進んでいることです。 政治家たちは、この問題を解決できません。 反対に、彼らは、もっともっと多くの問題を、付け加えています。 一つの問題の解決こそにおいて、 彼らは、1ダースの他の問題を、増殖させます。 あなたは、これらを見ますよ。 私たちの頭脳は、問題で混雑しています。 内的に- それは、外的な世界です - 内的に、あなたがそもそも、検討してきたなら、 進みつつあることに、気づいているなら、ですが、 私たちは、きわめて原始的な人々です。 私たちは、この地上に、四万五千年の間、 生きてきたけれども、 私たちは、きわめて野蛮な人々です。 残酷な人々です。 私たちは、多かれ少なかれ、時の始まりから、 そうであったものであったのです。 憎み、嫉妬し、怯えていて、 自らの恐れの中で、あらゆる種類の恐怖を、創り出します。 これが、私たちが生きているところの世界です - 外敵にも、内的にも、です。 どの哲学、どの導師、どの政治家も、 誰も、私たち人間の問題を、解決したことが、ありません。 あなたは、それらから逃避できます。 私たちは、それらから逃避できます 何か僧院に加わることにより、 一定の誓いを立てたり、 何かカルトに加わったりすることによって、です。 どの権威も、私たち人間の問題を、けっして解決したことが、ありません。
26:05 で、私たちは、自らが何をも信じていない地点に、至ったのです。 私たちは、自らが全く混乱しきった地点に、至ったのです。 なぜなら、始まりに確実である人たちは、 不確実に終わってしまうからです。 これらを理解されますか。 語り手が話していることを、理解なさるのかどうかと、思われます。 私は、神を固く信じて、始めるなら - または、或る種の神秘的な事柄を、信じて、です。 私は、智恵を持っているなら- 幾らか智恵を、です - 私は成長するにつれて、あらゆる物事を、疑いはじめます。 で、不確実性でもって始めなければなりません - 疑い、問うて、懐疑的精神を持って、です。 そのとき、絶対的な確実性が、ある所に、来るのです。 なぜなら、結局のところ、外的にも、内的にも、 私たちは、安全を探し求めているからです。 そういうわけで、私たちは神を考案してきたのです。 なぜなら、それが、究極的な安全であるからです。 どうぞ、衝撃を受けないでください。 あなたたちはみんな、神を信じる人たちです - たぶん、あなたたちの大多数が、 神か、何か高い原理などを、です。 そのすべてが、思考により創案されています。 思考は、物質的な過程です。 で、宗教の世界で、思考により創り出された何も、 やはり、物質主義的です。 テクノロジーがそうであるように、です。
28:43 で、ともに、私たちは、旅を行っています - 私たち人間が、根本的に私たち自身に 変化をもたらしうるのかどうかを、見出すように、です。 強制をとおして、ではなく、 何か誘惑や、何か約束をとおして、ではなく、 物事をありのままに見るのをとおして、です。 人が至ってしまった、怯える、絶望的な状態、 本当に考える人が入っている混乱を、です。 なぜなら、人は、生涯、こうも多くのことを、言われてきたからです - すべて、矛盾し合っています。 で、私たちは、混乱した人間です - あなたが、それを認めても、認めなくても、です。 混乱しています - 意識的に、だけではなく、 深く、意識の深層においても、です。 私たちは、混乱しています。 世界は、その地点に、至ったのです - あなたが、科学者をも、政治家をも、 信じていないところに、です。 または、いわゆる、これら無思考の導師たちのどれをも、です。 人は、変化してきませんでした。 自らが、深く、この混乱の状態に、至ったとき、 その混乱こそが正しい行為を、要求します。 その混乱こそが、私たちの生に、危機を、もたらします。 危機は、外に、あちらにはない。 危機は、私たちの意識に、 私たちの存在に、あるのです。
31:27 で、私たちは、自分自身に訊ねています - 私たち自身に、深く心理的な革命を、もたらすことは、 可能なのかどうか、です。 外的な革命ではありません。 外的な革命は、失敗してきました。 フランス革命、最近の革命、 フランスのそれと、共産主義革命、 それらは、まったく失敗してきました。 重要なのは、心理的な変異があるべきことなのです 頭脳の細胞こそに、根源的な変化が、です。 なぜなら、私たちの頭脳は、条件づけられているからです。 すなわち、脳の細胞が、条件づけられています。 語り手は、頭脳の専門家ではありません - 脳の構造などのそれではありませんが、 彼は、大変多くの科学者などと議論してきました。 それは、重要ではありませんが、 自分自身において、それを見守れます。 無数の科学者に、話をするのより、はるかに重要です - 彼らの権威と、彼らの矛盾より、です。 自分自身において、私たちの頭脳がいかに条件づけられているかが、見られます。 ヒンドゥー教徒として - 伝統です - ユダヤ教徒として、イスラム教徒として、キリスト教徒として、です。 民族的に、言語的に、宗教的に、経済的に、 私たちの頭脳は、条件づけられています。 そして、私たちは、訊ねています - その頭脳は、知識をとおし、教育をとおして 条件づけられてきましたが、 それらの細胞こそが、 それら自体に、変異をもたらしうるのかどうか、です。 理解されますか。 私たちは、互いに理解し合っていますか - 問題を、です。 仮に、語り手は、イスラム教徒として訓練されてきた、とします。 少年時代からコーランを反復し、 彼の頭脳は、自然にその言葉に、適応してきました。 言葉の内容に、言葉の意味などに、です。 で、頭脳は、条件づけられます- 気候により、 食べ物により、伝統により、あなたの教育によって、です。 で、知識自体が、条件づける要因に、なります。 ですね? これをお分かりになるのかどうかと、思われます。 これが、分かりますか。 私たちは、どこかで、互いに出会っていますか。 どうぞ、私に言ってください。 さもないと、私は・・・
35:11 知識は、経験から出てきたものです。 そして、経験と知識は、制限されています。 科学者を、見てください - 彼らが何をしているかを、です。 二百年の後、彼らは、次第に知識を、蓄積してきました - 仮説をとおし、 様々な形の実験をとおして、ちょっとずつ、 大変多くの知識を、取得してきました- 物質などについて、です。 で、知識はけっして、完全ではありません。 それは、いつも、制限されています。 コーランや、あなたの聖典やバイブルの知識でも、です。 なぜなら、それは、経験に基づいているし、 経験は、いつも、制限されているからです。 一度あなたが、その事実を、それの実在性を、掴むとき、 そのとき、考えるすべてが、制限されています。 ですね?考えることすべてが、です。 考えるのは、記憶の反応です。 記憶は、頭脳に、細胞こそに、蓄えられています。 それらの細胞は、条件づけられてきました - 幾世紀もの人間生活と経験と格闘をとおして、です。 それらの細胞は、条件づけられ、制限されています。 私たちは、訊ねています- それらの細胞自体が、 根源的な変異を、遂げられるのかどうかを、です。 それで、人は、人間は、全面的に異なっていて、 もはや、条件づけられていないように、です。 あなたは、それは可能でないと、言うかもしれません。 それは、自然な反応でしょう - それは可能でない、と。 私たちは、こうも多くの世紀に、このように生きてきましたが、 あなたは、言っています - その変化は、その変異は、 どうして起こりえますか。 それが、私たちがともに探究しようとしていることです。 それは、大変多くの探究を、必要とします - 見出すには、 大変多くの注意、エネルギー、熱情を、です。 ですが、あなたが、無気力であり- 私たちのほとんどは、そうですが - こうも多くの物事に占有され、 自分の生活に占有され、 起きようとしていることに、怯えているなら - 過去に怯え、未来に怯え、 現在に怯えていて、 私たちの頭脳が、こうも詰まってしまっているなら - ほとんどの頭脳は、そうですが - そのとき、初めの問いは、こうです- 問題を解決すること、 問題を持たないことは、可能ですか。 私たちは、それに入るでしょう。
39:14 私たちの頭脳は、子ども時代から、 問題を解決するよう、条件づけられています。 子どもは、学校へ行きます。彼は数学の問題を、持っています - どう読み書きするのかを、です。 ですね?よろしいですか。 私は、何も変なことを、言っていません。 だから、こう驚いたり、退屈したようすを、しないでください。 子ども時代から、学校をとおし、専門校をとおし、大学をとおして - あなたが、運良くか、運悪くか、それらを経ていくなら、です - あなたの頭脳、物理的な頭脳、 細胞は、問題を解決するよう、訓練され、教育されます。ですね? で、あなたは、生きることの全体を、 解決されるべき問題として、取り扱います。 あなたは、あらゆる物事に、問題として接近します - 性的な問題、関係の問題、 経済的な問題、宗教的な問題、 政治的な問題、です。 よろしいですか。 私たちは、それらを解決しつつあります - 問題を解決するよう、条件づけられている頭脳でもって、です。 で、問題はけっして、解決されません。 あなたはそれを、悟ったことが、ありますか。 これらは、事実です。 あなたは、一つの問題を、うまく解決するかもしれませんが、 その問題のまさに解決の中で、 あなたは、もう一つ、別の問題を、持ちます。 世界で政治的に起きつつあることを、見てください - 西洋世界で、共産主義世界で、です。 彼らは、こうも多くの問題を、持っています - 経済的な問題、政治的な問題、 大統領になりたい、一番上の者になりたい欲望、 そうね、それらはすべて、問題です。 あなたは、自分の妻と、夫との問題を、持っています。 あなたは、自分の子どもとの問題を、持っています。 あなたは、自分の導師との問題を、持っています。 私たちは、あなたのために、問題を、作っていません。 語り手は、あなたのために、問題を、創り出していません。 彼が言っているすべては、こうです - 初めに、物事をありのままに、見なさい - 何も先入観なく、何も結論なく、です。 あなたが、結論、意見、判断を持っているなら、 それらを、脇に置きなさい。 なぜなら、見られるのは、自由な頭脳だけであるからです。 で、あなたは、それらすべての意見、判断、 評価、伝統を、脇に置いて、 物事をありのままに見つめられますか。 政治家として、ではなく、 従う者として、ではなく、 大変多く読書してきて、 果てしなく話せる人物として、ではなく、 一人の人間として、私たちの頭脳が、 問題を解決するよう条件づけられていることを、です。 で、頭脳自体が、問題を持っています。 - これを理解されますか。どうぞ、これを理解してください - ゆえに、それは、何でも出会うものを、問題に変えてしまいます。 で、私たちの問いは、こうです - 問題の解決に条件づけられている頭脳を、 持たないことは、可能ですか。 見るものを、問題に変えないで、 自由に見られる頭脳を持つことは、です。 ですね?
43:52 で、私たちは、訊ねています- 脳細胞自体は、 何の強制もなく、 何の教唆もなく、 何の圧迫もなく 外的にも、内的にも、ですが、 それ自体に、変化、変異をもたらせますか。 さもないと、私たちは、今のように生きようとしています。 互いに破壊しあう、 果てしなく格闘しようとしています。 けっして、一瞬の平和もなくて、です。 で、私たちは、見出そうとしています。 これら四回の議論、会話- 本当は対話です - こうも多くの人々とは、対話を行えませんが、 あなたとは対話を、行えます。 あなたたちのみんなと、ではなく、 あなたたちの一人一人と、個別に、です。 私たちは、こう言っていました - 宗教は、生において、最も重要なことです・・・ カラスは、ねぐらへ行こうとしています。 最後の(時を知らせる)トランペットです。 いいですよ。
45:47 私たちは、訊ねています - 新しい文化、新しい文明は、 経済的な調整をとおし、 政治的な行動をとおして、訪れえません。 様々な形の制度、施設と財団をとおしても、です。 宗教は、ただ一つの要因です。 その宗教は、私たちの探究です - 人間の頭脳が、本当に 宗教的でありうるのかどうかを、見出すように、です。 私たちがいう宗教とは、絶対的な自由、という意味です - 恐れからの自由、 葛藤からの自由、問題からの自由、 悲しみからの自由、という意味です。 それで、精神、頭脳は、完全に自由ですが、 あの愛と慈悲の性質が、あるのは、 そのときだけなのです。 そのとき、その状態のみが、神聖であるものを、見出せます。 その真理を理解する中、 または、真実であることの知覚の中、 そのとき、平和があります - 自分自身に、自分の心理に、平和が、です。 それは、いかなる葛藤もない、という意味です。 さて、これは可能ですか。 あなたが、それは可能でないと、言うなら、 そのとき、それは、妨げになります。 それは、あなたがその可能性を見つめるのを、阻止します - 見るための扉を開く可能性を、です。 または、あなたが、それは可能であると、言うなら、 そのときあなたは、単に、理論的に話しているだけです。 そのとき、あなたは、扉を閉じてしまったのです。 で、探究している頭脳の性質を、持たなければなりません - 見つめ、探求し、訊ね、問い、疑っているそれを、です。 他の人たちを、あなたの書物などを、疑うだけではなく、 あなた自身が考えるのは、何であるかを、疑い、 あなた自身の応答、 あなた自身の反応を、問うているのです。 それは、精神の鋭敏さを必要とします。
49:26 で、私たちは今、旅の途中です。 私たちは、ともに探究しようとしています。 第一のことは、こうです - 考えるとは、どういうことですか。 なぜなら、私たちは、考えることにより、生きるからです。 私たちの行為すべては、考えることに、基づいています。 私たちの、互いとの関係は、考えることの一部です。 あなたが、築いてきたイメージは- 自分の妻と夫について、 自分の導師、指導者などについて、です - 思考により、組み立てられています - イメージとして、です。 私たちは、今すぐそれに、入るでしょう。 で、考えることは、私たちの根源的な道具です。 それは、献身的に、考えるかもしれません - ロマンチックに、想像力豊かに、ですが、 それは、やはり考えることです - あなたが、科学者でも、哲学者でも、 数学者でも、生物学者でも、 ただのふつうの人間でも、です。 最も無教育の人物さえも、考えます - 村人も、です。 で、私たちの旅での初めの探究は、 考えるとは、どういうことかを、見出すことです。 なぜ考えることが、こうもとてつもなく重要になったのか、です。 考えることは、物質的な過程であることを、知って - なぜなら、それは、蓄えられているからです。 知識と記憶、経験は、 脳細胞に蓄えられているし、 そして、知識、経験、記憶は、制限されています。 それで思考も、そうです。 これは、事実です。 何についても、完全な知識は、ありません。 あなたは、神が完全な知識であると、考えるかもしれません または、何か特別な原理や、外側の機関が、です。 私たちはみんな、信じたいのです- 私たちみんなの中に、 あの性質の何かが、あることを、ですが、 それは、またもや思考です。
52:15 で、私たちの考えることの本性を、 きわめて明らかに理解しなければなりません。 どうぞ、あなた自身が考えるのを、観察してください - 語り手があなたに語っていることではなくて、 あなた自身の思考を、観察してください - それらがどう生ずるのか、 それらがどう制限されているのかを、です。 私たちの一人一人が、基本的に、自分自身に、関心を持っています。 自己中心的です。 そして、あなたは、それを あらゆる種類の言葉の裏に、隠そうとするかもしれませんが、 それはやはり、そこにあるのです。 その自己中心的な考えは、制限されています。 あなたが、自分自身について考えるとき - あなたの達成、 あなたの欲望、あなたの目的、 あなたが、西洋に寺院や、ここに寺院を建てたいことについて、ですが - それはやはり、制限されています。ですね? 何であれ、制限されているものは、 葛藤を、もたらすにちがいありません。 分割を、もたらすにちがいありません。 それは、法則です。 私は、あなたに対して分割されていて、 一日中、自分自身について考えているなら、 それは、きわめて制限された過程です。 それが、私たちがみんなしていることなのです - 幸せに、悲惨に、成功裏に、ですが、 それが、私たちがしていることなのです。 で、考えるのは、制限されているので、 私たちを、制限してきたのです- 私たちの見通し全体を、です。 ですね? これらをお分かりになるのかどうかと、思われます。 あなたは、疲れつつありますか。 または、あなたは、眠っていますか。 私は気にしません。 あなたは眠っていい。 それは、あなたの事柄です。
54:35 この考えることは、まさにその制限ゆえに、 民族性、国籍を、創り出してきました。 民族性、国籍に、安全を見つけたいと望んで、です - 部族主義に、部族的な神に、です。 あなたたちは、安全を見つけたことが、ありません。 そして、共同体に安全があるだろうと、考えました。 そこにもまた、安全はなかったのです。 で、どこに安全は、ありますか。 よろしいですか。 私たちにとって、安全は、どこにありますか。 分割をとおして、ではなく、自分自身をヒンドゥー教徒、 イスラム教徒、その他すべてと呼ぶことをとおして、ではない。 で、あなたは、危険が見えるとき - 私が何について話しているかを、理解されますか- 後生ですから、動いてください。 立ち上がって、去りなさい、という意味ではありません。 おそらくあなたは、立ち上がって、去りたいでしょう。 私は、あなたの見通しについて、話していますよ。 それへのあなたの見方について、です。 何が、あなたを変化させるのでしょうか。 あなたは、悲しみを持ってきました。 あなたは、痛みを持ってきました。 あなたは、戦争をしてきました。 あなたは、あらゆる種類の苦労と骨折りを、してきました。 けれども、私たちは、今あるように、つづけてゆきます。 何が、私たちを、変化させるのでしょうか。 褒賞ですか。 天国での褒美、この地上での褒美ですか。 あなたが褒賞を、探し求めているとき、 いつも、その裏側があります - 処罰です。 褒賞と処罰は、私たちの原理の一つです。
57:00 で、見出すことが、きわめて重要になります - 思考が、私たちが持っている、ただ一つの道具であるのかどうか、 そして、それが世界に、こうも荒廃を、創り出してきたことを、です。 私たちは、それを悟りますか。 科学者たちが何を生産してきたかを、見てください - 医療と外科手術と、速い通信と、 あれらの幸せな便利なものだけではなく、 また彼らは、最も悪魔的なものをも、生産してきたのです - 核戦争、原子爆弾、潜水艦- よろしいですか - 戦争のテクノロジー的な世界全体は、思考の産物です。 月へ行くことは、思考の産物です。 あそこに旗を立てることは、思考の産物です。 私たちの、互いとの関係は、思考に基づいています。 で、当面の間、関係の問いについて、 ともに話し合いましょう。 神経質にならないでください。 私はあなたを、攻撃しようとしていません。
58:39 あなたの関係 - 生は、関係の過程です。 生きることは、関係です。 あなたは、自分一人ではとうてい生きられません。 あなたは、余生の間、ヒマラヤや、 或る共同体や僧院へ、隠遁するかもしれませんが、 あなたは、やはり、人類と接触しています。 あなたは、関係しています。 あなたは、或る人物に関係していないかもしれませんが、 あなたは、或る伝統に関係しています。 知識に関係し、あらゆる種類の物事に、関係しています。 で、関係は、生の基礎的な要因の一つです。 夫と妻と子ども、 その関係の中 - 彼らの葛藤とともに、彼らの性欲とともに、 彼らの楽しみとともに、彼らの痛みとともに、 彼らのへつらいとともに、彼らの侮辱とともに、 彼らの口うるさいのとともに - そうね、関係の中で進むすべて、です。 それらを、ご存じないですか。 または、あなたは、それが存在しないふりを、しますか。 やれまあ。みなさんは、こうも静寂なんですね。 その関係の中、あなたは・・・ 思考は、あなたの妻について、イメージを創り出してきました。 そして、妻は、あなたについてイメージを、創り出してきました。 それは、事実です。 関係は、これら二つのイメージの間に、あります。 私は、自分の妻を知っています。 妻は、「私は夫を知っている」と、言います - あなたたちは、本当は互いを、知りません。 あなたが知っているすべては、 あなたが、彼女について持っているイメージです。 そして、彼女は、あなたについて、イメージを持っています。 それは、時をとおして、築かれます。ですね? これは、事実です。その主題を避けないでください。 二つのイメージの間に、関係があるところ、 実際には、まったく関係がありません。 それは、またもや、事実です。 そういうわけで、関係にこうも葛藤が、あるのです。 ともに生き、本当に幸せに関係しあっている人々は、 ほとんどいません - 互いに適応しあったり、互いに忍耐しあったり、 互いに利用しあったりではなくて、です。
1:01:52 で、問いは、こうです - 単一のイメージもなく、 生きることは、可能なのかどうか、 そして、イメージを創り出すのは、誰なのか、です。 そこにあなたは、います。 あなたは、そこに座っています。みなさんが、です。 あなたは、語り手についてイメージを、持っているでしょう。 さもないと、あなたは、ここにいないでしょう。 それは、事実です。 ですね? あなたが、語り手について築いてきたイメージは、 語り手ではありません。 ですね? しかし、あなたは、そのイメージを、崇拝します。 または、あなたは、それを崇拝しないかもしれません。 あなたは、それを蹴飛ばすかもしれません。 それを無視するかもしれませんが、それでも、 あなたは、語り手についてイメージを、創り出してきました。 で、あなたの関係は、そのイメージと、です。 まったく語り手と、ではありません。 なぜなら、語り手と関係を持つには、 私たちは、互いに出会わなければならないからです - 同じ水準で、同じ時に、同じ強烈さで、です。ですね? 言っていることを、理解されますか。 後生ですから。 それは、愛ではないですか。 あなたが誰かに出会うとき - 同じ水準で、同じ時に、 同じ強烈さをもって、です。 性的に、ではありません。私は、それだけについて、話していません。 あなたの人間存在すべてでもって、あなたの全存在でもって、です。 そのとき、それは愛です。 あなたたちが、互いにイメージを持っているなら、愛はありません。 愛があるところ、時はありません。 愛があるところ、葛藤はありません。 愛と呼ばれる、あのとてつもないものを、理解するには、 私たちは、大いなる智恵を、持たなければなりません。 恐れではなく、野心ではなく、貪欲ではなく、 嫉妬、憎しみではなくて、です。
1:04:42 で、私たちは、訊ねています - なぜ、思考は、私たちの生において、こうも重要になったのですか。 思考が何をしてきたのかを、悟って - テクノロジー的に、それが何をしてきたのか。 無量の物事です。 おぞましい、恐ろしい、危険な、悪魔的な物事も、 また思考は、医療、外科手術、通信をも、創り出してきたのです。 また思考は、戦争をも、創り出してきました。 人々を分割してきました - ヒンドゥー教徒、仏教徒として、です。 そうね、すべての戯言です。 思考が全的に理解されたのでなければ - そして、思考は、自らの所を持っています。 そして思考は、心理的にまったく、どの所をも、持たないかもしれません。 私が言っていることを、理解されますか。 私たちが言いましたように、 思考は、制限されています。なぜなら、知識が、制限されているからです。 経験が、制限されているからです。 そして、関係において、 思考が、互いとの意思疎通の手段であるなら、 葛藤があるにちがいありません。 また思考は、あなたが家へ帰るには、必要です。 バスに乗るには、 あなたの事務所へ行くには、です。 明日、日曜日ではなく、月曜日にです。 そして、余生の間、事務所へ行く。 来る日も来る日も、来る日も来る日も、来る日も来る日も、です。 これは、すべて、思考の産物です。 自分の事務所へ、工場へ自分のビジネスなどへ 行かなくてはいけないのは、知っています。 そこでは、思考が必要です。 が、関係において、思考は、必要ですか。 それを探究し、それに入ってください。 あなたは、見出すでしょう。
1:07:27 で、私たちの頭脳は、思考により、思考をとおして、 条件づけられているので、 それは可能ですか - どうぞ、これを聞いてください - 全然違った動きを、見つけることは、可能ですか - 思考のではなく、 思考により組み立てられていない動きを、です。 思考は、時の活動、物質的な過程です。 冥想と、それらの種類のことに、入ってしまわないでください。 私たちは今すぐ、それを取り扱うでしょう。 ですが、見出すには、すなわち、 思考は、私たちが持っているただ一つの道具であるなら、 そのとき、私たちは、永久に運命づけられています。 これを理解されますか。 なぜなら、そのとき、私たちの行為すべては、制限されるからです。 そのとき、私たちが何をしても、 - 宗教的に、政治的に、経済的に、ですが - いつも制限されるでしょう。 ゆえに、永続的な葛藤と、もっと多くの問題でしょう。 ですが、思考は、必要です。 もし私が、あなたに手紙を書きたいのなら、 私は、思考を使用しなければなりません。 ここから、自分の家へ行くには、あなたは思考が必要である、などです。 で、私たちは、訊ねています - 互いとの関係に、思考は必要ですか。 自分自身で発見するには - 果てしなく言われつづけるのではなく、 自分自身で発見する。 道具を- 道具ではない - 生きる過程を、 そこに思考が入ってこないものを、です。 これは、尋常でない探究を、必要とします。 これは、あなたの大変多くの注意を、必要とします。 なぜなら、知識は、あなたにとって、こうも重要になったからです - ギーターについて、ウパニシャッドと、 注釈すべてについての知識が、です。 知識は - あなたは知識を崇拝します - あなたの女神 - あなたたちは、知識の女神を、持っていますね。 ですが、知識は、自らの所を、持っています。 真理は、知識ではありません。 それは、何か思考により組み立てられたものではありません。 それは、何か、頭脳が全的に自由であるとき、 生じてくるものです - 汚染されず、素朴で、本源的であるとき、です。 それを発見することが、冥想の一部です。 この愚かな反復ではありません。
1:11:09 で、私たちは今、止めなければなりません。 私たちは、継続するでしょう。 が、どうぞ、 私たちは、何かについて、理論的に話していません - 仮説的なことを、です。 私たちは、事実を取り扱っています。 事実は、今、起きつつあること、 前に起きてきたことです。 起きようとしていること、ではない。 それは、事実ではありません。 事実は、あなたが今、考えて、していることなのです。 そして、あなたが前にしてきたことの事実です - それらは、事実です。 が、理想は、事実ではありません。 しかし、あなたたちはみんな、理想を持っています。 ゆえに、あなたは、幻影の世界に、生きます。 頭脳が、幻影の世界に生きるとき、 あなたは必ず、葛藤を、自分自身にと他の人たちに、創り出すことになります。 が、あなたは、事実を取り扱っているとき - 来る日も来る日も、です。 事実についての仮説を、ではない。 「私にとって、私の意見が事実だし、 私はその事実に拘るから」と言うことではない。 それは、こうも明白です。 あなたの意見は、他のどの意見とも同じく、非事実です。 が、あなたが、その意見の中から、その結論の中から、 その理論の中から、することは、事実です。 理解されますか。 あなたが、幻影を持っていて、その幻影に応じて行為するなら、 それは、事実になります。 あなたの幻影もまた、事実です。 理解されますか。 で、見出すには、気づき、見つめ、問い、疑わなくてはいけません。
1:13:25 先日、カリフォルニアで、 二ヶ月前、私がそこにいたとき、 私たちの前の車が、バンパーにステッカーを、貼っていました。 それは、「すべての権威を問え」と言いました。 あなたは、すべての権威を問うでしょうか。 初めに、あなた自身の権威を、 そして、あなたの宗教の、 あなたの神々と寺院の権威を、です。 問うてください - 政治家を、あらゆる物事を、です。 問い、疑ってください。 それで、あなた自身の頭脳は、活動的になりはじめます。 が、私たちのほとんどは、問いません。 なぜなら、私たちは、怯えているからです。 私たちはむしろ、何をすべきかを、語ってもらいたいと思います。 「あなたのほうが、私より知っている。 どうぞ、私に語ってください」と。 そして、権威が、権力、地位、身分が、あるところ、 悪がある。 それは、こうも悲惨につながります。 ですが、謙虚さを持つには、 その謙虚さは、あなたが、問いはじめるとき、 自然に、招かれず、楽に来られるだけです - 自分の思考を、自分の関係を、 自分の欲望を、自分の達成を、問うのです。 そのとき、その中から、この謙虚さの性質が、出てきます。 謙虚さがあるとき、あなたは、学んでいます。 学びは、際限がありません。 知識は、制限されています。 その謙虚さは - 誰かにお辞儀をすることではありません。 それは、謙虚さではありません。 誰かの足に触れることではありません。 それは、謙虚さではありません。 寺院へ行くこと、そのすべては、ごみです。 謙虚さを持つ。 「私は知らない。見出そう」と言うこと、 自由であって、見つめられること、 そして、あの大いなる単純さを持つこと - 腰布の単純さではなく、 明晰な精神と明快な心の単純さ、です - そのときだけ、時を越えているものが、生じてきます。 よろしいです。