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MA8384T2 - 時は恐れに、どんな関係を持っているのか。
公開講話、第2回
インド、マドラス(チェンナイ)
1984年1月1日



0:19 たくさんの人々がいますね。 大きな聴衆です。 なぜあなたが、来られるのかと、思われます。 来てくださるのは、とてもありがたいですが、なぜかと思われます。 あなたは、語り手より言われつつあることを、真剣に取りますか。 または、それは、何かあなたが週末に出席し、 週の残りに忘れてしまうものですか。 見出すのは、なかなか興味深いでしょうね - なぜ人間たちが講義を受けるのかを、 なぜ彼らは、会合に出席するのか、 なぜ、矛盾し合ったことを、こうも多く聞き、 きわめて博識であり、情報と知識に満ちていて、 そのすべての終わりに、私たちは、多かれ少なかれ、 前の私たちなるものに、留まっているのか - 私たち自身の問題をもち、 自身の些細な小さな生をもち、 不幸せで、格闘する。 私たちが生まれた瞬間から、死ぬまで、 常なる闘争、葛藤、格闘です。 あなたは、ただ昼の時間を過ごすために、 ここに来られるのかと、思われます - または、あなたは、評判のために、来るのか、 または、あなたたちは、本当に真剣な人々であるのか、と。 簡単に納得しない、という意味で、 真剣です。 私たちは、どの種の宣伝をも、していません。 あなたに、何をも、納得させようとしていません - いかなることをも、です。 また、語り手は、あなたの導師でもありません。 ありがたい。 また、あなたたちも、彼に従う者ではありません。 あなたは、教師と、学ぶ人物の両方です。あなたが、です。 あなたが学んでいるとき、 その学ぶ行為こそが、あなたを教師にします。 で、私たちは、学徒と導師の両方です。 あなたは、きわめて真剣に聞くなら、考慮すべきです - 指摘してもよろしいなら、です。
3:30 私たちはともに、多くのことについて話し合おうとしています - 今晩と、 来週末に続こうとしている、次の二回の会合で、です。 あなたは、幾つものことを、聞くかもしれません - たぶんあなたが、前に聞いたことがないことを、です。 語り手が言ってきたことを、 あなたが聞いたり、読んだりしたことがあるなら、 彼が言ってきたことを、単に反復するのは、ほとんど意味がありません。 ですが、聞く行為こそに・・・ まさにその行為こそが、自らが理解し、生きるのを、助けてくれます。 注入(適用)するのを、です - 「私が注入しようとしよう」ではなく、自らは注入します。 あなたが、専門校や大学の学生であるなら、そうするように、 あなたは勉強します。 あなたは、数学、歴史などを、学びたいなら、 あなたは、学習しなくてはいけません。 探究しなくてはいけません。 良い頭脳を持たなくてはいけません。 が、大変不幸にも、 いわゆる宗教的な人々は、けっして自分の頭脳を、使いません。 私は、何か法外なことを、言っていますか。 彼らは、けっして探究しません。 彼らは、こうも容易く受け入れます。だまされやすい。 特に、世界が、こんなにむちゃくちゃになっていて、 こんなに多くの破壊的活動が、進んでいるとき、 私たちは、助けてくれるだろう誰かを、見つけようとします - このすべてのむちゃくちゃを理解するように、です。 それで、絡まってしまいます。 ところが、ここで、今晩と、続く二回の講話で、 私たちは、ともに話し合おうとしています。会話、です。 人類にすっかりありふれていて、 すっかり受け入れられている物事について、会話します。 私たちは、理解しよう、解消しよう、そしておそらく、乗り越えようと、 それらと格闘しています。
6:12 で、今晩、私たちは、ともに話し合おうとしています - なぜ世界中の人間たちは、 実際に彼らのあるがままなのか、 こうも長い進化の持続の後、 なぜ私たちは、心理的に、こうも原始的なのかを、です。 テクノロジー的に、あなたは、すばらしいかもしれない。 あなたは、優秀な学歴などを、持っているかもしれないけれども、 心理的に、内的に、 私たちはむしろ、野蛮で、原始的な人々です。 残忍で、暴力的で、残酷で、 大いなる美しさ、道徳的な清廉さなどの感覚を、欠いています。 なぜ私たちは、このようになったのかと、思われます - なぜ私たちは、助けてくれる他の人を、頼みにするのか、 なぜ私たちは、指導者をほしいのか、と。 私たちは、たくさん指導者を持ってきましたが、 彼らは、私たちを、あらゆる種類の紛糾へ、導いてきました。 で、私たちはいつも、一番良い指導者を、 極上の指導者を、探しています - 政治的、経済的な世界でも、 また、宗教的な世界でも、です。 不幸にも、私たちは、けっして彼らを見つけません - あなたが、そこいらに、自分の特定の小さな導師を、 見つけたのでなければ、です。
8:21 で、今晩、私たちは、ともに、 多くの問題について、話し合おうとしています。 問題の一つは、こうです - 人間たちはなぜ、そもそも理想を持っているのか、です。 これは本当に、まったく重要な問いです。 なぜ人間たちは、 世界中で、何かの形の理想に、縋りつくのか。 理想は、けっして・・・事実ではありません。 それらは、現実ではありません。 現実なるものは、今、起きつつあることです。 今は、すべての過去、現在、未来を、収容しています。 私たちは、それに少し入りましょう。 で、私たちは、訊ねています - なぜ私たちは、このようになったのか。 こうも狭く、利己的で、残忍で、自分自身に、関心を持っています。 そうね、その他すべて、私たちなるものです。 私たちはけっして、自由であって、見つめられるように、 思われません - 世界と、私たち自身の小さな世界を、 新鮮に、新たに、です。 私たちが、過去すべてを拭い去れる能力、 白紙状態、タブラ・ラサを持ち、そこから出発できる能力を、 持つのでなければ、です。 それは、驚くべき世界です。 が、不幸にも、私たちは過去を、拭い去れません。 過去は、きわめて錯綜した時の過程です。 時は、私たちの生、日々生きることの要因の一つです。 過去としての時、 現在としての時、未来としての時は、 生物的にも、同じく物理的にも、です。 すべての思い出、悔恨、罪悪、 そのすべてが、時の動きです- すなわち、過去の、です。 そして、過去の時は、現在、または今です - そこに、すべての時が、収容されています。 これは、かなり困難になろうとしています。 一歩一歩、それに入りましょう。
12:06 なぜなら、私たちは、時により生きるからです。 私は、明日、あなたに会いたいと、望みます。 私は、達成したいと望みます。 私は、今の私より、良くなりたいと思います - 私の職で、私の生き方などで、です。 いつも、なっていくこと、成長が、あります。 いつも成長しているものは、いつも、終わっていきます。 ですね? 私たちは、一緒にこれらに、いますか。 そして、未来は、今です。 理解されますか。 今の私たちなるものに、 明日、私たちは、なるでしょう- そして、千の明日に、です。 それは、事実です。 が、私たちが、今、根本的に変化するなら - 心理的に、内的に、です - そのとき、未来は今なのです。 理解されますか。 私たちは、今すぐ、それに入るでしょう - はるかに詳細に、です。 みなさんは、こうも悩んで見えます。 それは、さほど複雑ではありませんが、 私たちは、あらゆる物事を、ひどく複雑にします。 私たちは、単純な人々ではありません。 私たちは、知識に満ちています。 おそらく、それが、私たちの困難の一つです。 そして、知識は、頭脳を条件づけます。 そして、知識は時です。 そして、何か暴力のようなものを、理解するには - ほとんどの人間は、暴力的な人間です - この暴力の過程全体を、理解するには、 私たちが、暴力について取得してきた知識と、 非暴力の知識 - 知識ではない。 むしろ、非暴力の理論です。 それもまた、知識の一部です。 それで私たちは、暴力より、けっして自由ではありません。 もう少し、私に、それへ入らさせてください。
15:16 暴力の例を、取りましょう。 私たちは、暴力的な人々です。 私たちは、静かな生活を、するかもしれません。 あなたは、自分の妻や夫とけんかを、しないかもしれません。 それは、かなり稀ですが、 深く私たちは、暴力的な人々です- 怒り、攻撃。 暴力は単に、物理的な行為だけではありません。 暴力は、模倣、順応の一部です。 私たちは、その対極を、持っています - 非暴力です。 この国では、非暴力について、たくさん話してきました。 この国で、あなたたちが行ってきた最近の戦争では、 戦争に反対して立ち上がった人物は、一人もいないと、私は聞かされました。 ですが、それは、不適切です。 重要なことは、こうです - 暴力の本性全体を理解し、 それより自由であることは、可能ですか - そして、非暴力を追求しないことは、です。 理解されますか。 私たちは、互いに出会っていますか。はい? 私は暴力的です- 仮にそうだとします。 語り手は、かつて一度だけ、怒ったことが、あります。 それは、かなり変に聞こえます。 彼が怒っている、その瞬間に、 何かについて怒ることは、 こうも不条理で、ばかげていると、思われました そして、怒りの愚かさが見えるとき、それは去っています。 あなたは、それを制御しようとしません。 あなたは、それを抑圧しようとしません。 あなたは、何についても、怒ることの不条理が、見えます。 それが、それの終わりです。 これについて、考えてください。 観察する、気づく、十分に注意を注ぐ - あなたが怒っていることに、です。 その瞬間に、あなたは、怒りの本性全体が、見えます。 で、例えば、暴力ですが、暴力は何ですか。 それは、事実です。 非事実は、非暴力です。 ですね? それに同意されるでしょうか。 非暴力の追求には、あなたの全生涯が、掛かるかもしれませんが、 その理想の追求の中、あなたは、いつの時も、暴力的でありつづけます。 あなたはそれを、制御しようとします。 あなたはそれを、抑圧しようとします。 あなたは、それに対して、行為します。 が、あなたは、その暴力の一部です。 そうではないですか。 あなたが怒るとき、あなたは、その怒りの一部です。 あなたは、怒りです。 あなたが、貪欲であるとき、 その感情は、あなたより分離していません。ですね? あなたは、それです。 ですが、私たちは、抑圧か、分析か、制御か、しようとするとき、 あなたは、その事実より自分自身を、分離します。 そのとき、それを支配か、それを抑圧か、その他すべてを、しようとします。 が、あなたはそれであることが、悟られます。 どうかと思われます。 私が暴力的であることが、悟られるとき、私がそれを完全に悟るとき、 私は、その事実とともに、留まります。 私は、非暴力の観念を愚かにも、追求しません。 それは、事実です- 私は暴力的です。 狂い、怒り、残忍です。 それは、事実です。 そして、私は悟ります - 私より分離した暴力は、ない。 私が暴力である、と。なぜなら、私が怒っているからです。 私が、競争したがり、野心的で、非情などです。 また私は、模倣します。 私は、順応します - それは、怒り、暴力の一部です。 で、「私は暴力的だ」と言う観察者 - 観察者は、それの一部です。 ですね? で、何も矛盾は、ありません。
21:17 矛盾があるところ、葛藤があるにちがいありません。 あなたが、その問いに入ったことがあるのかどうかと、思われます - 問題ではなく、問いに、です - 自らがこの世界に、正常に、健康的に、正気に、 生きられるのかどうか、です。 神経症的にとか、他の方向ではなく、 葛藤の単一の影もなしに、です。 あなたがそれを問うたことがあるのかどうかと、思われます - あなたが、実際に生きられるのかどうかを、見出すように、です。 境遇が何であろうと、 環境が何であろうと、 圧力、制限が何であろうと、 自らが、そこに単一の葛藤もない生を、 生きられるのかどうか、です。 あなたは、それを問うたことが、ありますか。 さあ、どうぞ。 または、それは、あなたに起きたことが、ないのですか。 私たちは、葛藤を、生の道として、受け入れます この国と、他の国々での腐敗が、 生の道であるように、です。 で、私たちは、それを受け入れます。 それは、その一部です。 私たちは、それとともにやっていきます。 で、葛藤は、精神を、頭脳を、鈍くします。 頭脳は、機械です。 良い車のように、です。 私たちはそれを、完璧な状態に、保たなければなりません - 調えておく。 適切なオイルを入れて、 二千マイルごとに、オイルを交換する - あなたが運がいいなら、 エンジンを長持ちさせるために、です。 で、頭脳は、物質です。 物質的なもの、機械です。 そのとてつもない能力すべてとともに、です。 それは本当に、まったく際限がありません。 しかし、その頭脳は、常に格闘、葛藤の中にいて、 自分の問題、自分の悲惨でもって、ぐるぐる回っているなら、 その葛藤こそが、頭脳を、退廃させます。 それは、擦り切れてしまいます。 それで、私たちは、生に新鮮に出会う能力が、ありません。 お分かりなのかどうか・・・ 語り手がこれらについて、話しているとき、私たちは一緒にいますか。 あなたは、それに興味がありますか。 または、それはただ、あなたが行くもう一つの会合だけですか。 そして、あなたは、講義をされつつあります。 あなた自身を、理解し、究明しつつありません - あなた自身の生、あなたの生きる道を、です。
24:45 で、全的な暴力より、自由であることは、可能です。 未来に、ではありません- それは、理想ですが。 そして、その理想の追求は、人々をどこにも、導いてきませんでした。 が、自らが、暴力を取り上げ、見つめ、それに入っていくなら - 分析的に、ではありません。 それは、もう一つの問いです。 分析者は、誰ですか。 理解されますか。 あなたが持つ、どの反応をも、分析する実体は、誰ですか - 暴力のように、です。 暴力は、反応です。 暴力を分析する実体は、誰ですか。 なぜなら、あなたが、暴力であるからです。 が、あなたが、暴力より自分自身を、分離するとき、 あなたは、それを分析できます。ですね? で、分析されるものより離れた、 分析者による分離は、 分割を、創り出します。 ゆえに、その分割には、葛藤があるにちがいありません。 ところが - どうぞ、それを聞いてください。 たとえ面白さのためでも、です。 ただ聞いてください。 ところが、分析者は、分析されるものです。ですね? 私は、暴力的です。 分析者はまた、私の一部です- 彼もまた、暴力的です。 一つの暴力が、もう一つの暴力を、検討し、分析します。 で、いつも、この矛盾が、あります。 分割がないなら、矛盾がありません。 で、分析者は、分析されるものです - 思考者が、思考であるように、です。 思考は、思考者より、分離していません。 これをお分かりになるのかどうかと、思われます。 経験者は、経験より異なっていません。 ですが、私たちは、いつも経験を、探し求めています - まるで、経験は、何か私より異なったものであるかのように、です。 で、まったく二元性が、ありません。 これを理解されるのかどうかと、思われます。 あなたの不二一元論と、それらの種類の事柄にも関わらず、 あなたの哲学すべて、 あなたの教師すべてにも関わらず- 不二一元論について、ですね? 十分です - その言葉は。 彼らはみんな、二元性について、理論化してきました - 覚った者だけが、二元性すべてより、逃避できる、と、 それらの種のことを、ですが、 実際の事実は、こうです - あなたが、それに入るなら、 「有るもの」だけが、あります。 暴力だけが、ある。 それに、対極はありません。 理解されますか。 ですが、私たちの頭脳は、対極に、条件づけられています。 ゆえに、私たちの頭脳は、 対極を達成するために、格闘しています。 ゆえに、そこには、葛藤、抑圧などが、あります。 が、ところが、事実は、こうです - ただこれだけが、あります。 すなわち、「有るもの」が、です。 それは、暴力です。 ですね? あなたが、暴力の事実に注意を注ぎ、 何も分析的な過程なく、それを見つめるなら、 そのときあなたは、それは、地図に似ているのが、 分かるでしょう - ゆっくりと開示されつつあるものに、です。 そのときあなたは、その言葉の内容全体が、見えます。 私たちは、互いに出会っていますか。いいですか? 私たちは、一緒にここにいますか。 みなさんは、眠っています。 いいですよ。私は、進みましょう。 で、私たちは、ともに、恐れについて、話し合うべきです。
30:02 なぜなら、それは、私たちの生の一部であるからです。 たぶん、私たちの生の主要な部分です。 恐れ。 恐れの原因は、何ですか。 恐れを創り出す対象物、ではない。 何かその言葉が喚起するもの、ではない。 理解されますか。 その言葉が、恐れをもたらすかもしれません。 「恐れ」という言葉が、恐れを、引き起こすかもしれませんが、 あなたが、何の言葉をも持たなくて、 恐れと呼ばれる反応を、観察するだけのとき、 それの根は、何ですか。 これは、大変多くの探検を、必要とします。 あなたが、語り手とともに、 進んでこれに入ろうとされることを、望みます。 恐れは、時です。 私はそれに、入ろうとしています。 恐れは、時の中の動きです。 で、初めに、時が何であるかを、気をつけて、検討しましょう。 昇るのと沈むとの時。 ですね? 日は昇り、沈みます。 日が昇るのと日が沈むのとの間の間隔は、時です。 ですね? 点から点への距離を、埋める時が、あります。 あなたが行く、時があります - すなわち、ここから、あなたの家には、時が掛かります。 それは、一瞬間なのか、一時間なのかもしれません。 で、物理的な時が、あります。 すなわち、言語を学ぶには、時が掛かります。 車の運転を学ぶには、時が、掛かります。 あなたは、パイロットになりたいなら、 大変多くを学ばなくてはいけません - 多くの月など、です。 で、物理的な時が、あります。ですね? 理解されますか。 また、心理的な時も、あります。 私は、なるだろう。 私はなるだろう - 私は事務員であるが、 いつの日か、私は経営者になるだろう。 私は、無知であるが、いつの日か、私は、覚りを開くだろう。 すなわち、私は、これである。 私は、あれになるだろう。 それは、心理的な時です。 物理的な時が、あります - 日が昇る、日が沈む。 移ること - 一つの地点から、もう一つの地点へ、動くこと。 そして、心理的な時が、あります。 すなわち、私はいる。 私は、いなくなるだろう。 私は、生きているが、私は、死ぬだろう。 それは、ものすごい間隔です。 私は十五歳です- 私はそうではないですが - 私は十五歳ですが、私は、或る日、死ぬでしょう - 私が八十のときに、です。 それは、あの長い間隔の動きです - すなわち、心理的な時の、です。ですね? また、未来としての時も、あります。 ですね?私は今、職を持っています。 私は、その職を失うかもしれません。 私は、自分の妻とけんかをしています。 が、私たちは、或る日、一緒に幸せになるでしょう。 で、過去としての時、現在としての時が、あります・・・ どうぞ、気をつけて聞いてください - 気にされないなら、 興味がおありなら、です。 過去としての時、現在、今としての時、 未来としての時が、あります。ですね? ですが、今の時は、未来です。ですね? 今の時は、今の私なるものです。 が、未来は、現在であるものです。 ですね?分かりましたか。 で、今の中に、すべての過去と未来が、収容されています。 ですね? で、未来と過去は、今、存在しています。 私は、すべての過去の結果です - それ自体を、現在において、修正します。 そして、未来は、現在です。ですね? 私の頭脳に、私が根本的に、変異をもたらすか、 あるいはむしろ、変異があるのでなければ、 私は、今の私なるものに、なるでしょう - ものすごい心理的な革命が、あるのでなければ、です。ですね? で、現在は、過去と未来です。 今に収容されています。ですね? それが、時ですね。
37:24 時は、恐れに、どんな関係を、持っていますか。 なぜなら、それが、私たちがともに議論しよう、 話し合おうとしていることであるからです。 なぜなら、ほとんどの人間は、怯えていて、 無数の形の恐れを、持っているからです - 闇の恐れ、 それは、神経症や精神病などですが、 死ぬことの恐れ、生きることの恐れ、 あなたは、自分が持っているものを失うかもしれないとの恐れ、 あなたの妻と夫への恐れ。 それは、この国において、稀ですか。 みなさんは聖人なのかと、思われます。 あなたたちは、何にも反応するように、思われません。 あなたが所有するものへの恐れが、あるなら - あなたは、失うかもしれません。 年老いて、死ぬことの恐れ。 で、世界中の人間は、ものすごい心配を、持っています - それは、恐れの一部です。 充足しないことの心配、 あなた自身でないことの心配、 他の人々が、あなたへするかもしれないこと、などの心配。 そのすべてが、恐れの形です。
39:25 で、恐れと時との間の関係は、何ですか。 私たちは、私たちの会話の中で、 恐れの枝々を、刈り込むのでしょうか。 理解されますか。 次々と、枝を取るのか、 または、私たちは、恐れの根を、取り扱うべきでしょうか。 質問を理解されましたか。 私は、自分の妻に、怯えていたり、 闇に怯えていたりするかもしれません。 私は、その特定の問題を、解決したいと思います。 ですが、私はまた、他の恐れの問題をも、持っています。 それは、たった一つだけではありません。 私は、死ぬことの恐れを、持っています - 老いることの恐れ、 自分の頭脳が退廃するだろうとの恐れ、 神が、私のほしいものを、与えてくれないだろうとの恐れ - あなたが特定の寺院へ行くのでなければ、です。 ご存じですか。 私たちは先日、 近くに或る寺院があると、聞かされました - 二百マイルか、三百マイルですが、 そこは、三日ごとに百万ドルが、儲かります。 神は、とても収益がいい。 はい、あなたは、それを笑われますが、 あなたの神々は、あなたのポケットに、強く要求します。 すなわち、あなたは、神へ、何かを捧げます。 彼はあなたに、何かを見返りに、与えます。 褒賞と処罰です。 それが、私たちが神への崇拝と、呼ぶことです。 あなたたちは、ふしぎな群衆です。いいですよ。 で、恐れと時との間の関係は、何ですか。 また、恐れの、思考との関係は、何ですか。 理解されますか。 私は、恐れています。 こうも多くの物事を恐れていますが、 私は、その根を理解したいと思います。 なぜなら、私は、恐れの性質、本性、構造を、 理解でき、見られるなら、 そのとき、私は・・・それは、終了しているからです。 ですが、私が単に、枝々を刈り込むだけなら、 そのとき、恐れは、継続するでしょう。 で、私たちの関心事は、恐れをいかに取り除くのか、ではありません。 それは、別の私たちの誤謬の一つです。 が、入ってゆき、恐れの本性を、深く掘り下げられるなら、 そのとき私たちは、それから全面的に自由であることが、できるはずです。 私たちは、今晩、それについて、話そうとしています。 あなたが、自分の頭脳を注入するなら - 語り手が示そうとしている説明ではなく、 あなたの側での、実際の究明です。 ただ聞くとか、聞こえる、 そして、それについてすべて忘れる、のではない。 が、あなたがそこに座っていながら実際に聞き、注入するなら、 そして、究明する中で、語り手とともに行く。 彼が言うことを、受け入れるのではなく、 究明し、あなた自身に問い、訊ねる。 そのとき、全く恐れより自由で、立ち上がるかもしれません。 そのとき、神々は、ないでしょう。 すべての恐れより自由である人 - 彼は、慰めが要りません。 彼は、褒賞が要りません。 彼は、自分を助けてくれるだろう何かを、探し求めません。 これは、人類が百万年の間、持ち運んできた重荷です - 恐れです。 で、それに入りましょう。
44:32 私たちは、時が恐れの要因であると、言いました。 時は、或る出来事の思い出です - 恐れを引き起こしたことの、です。 どうぞ、これに付いてきてください。 気にされないなら、 それに、興味がおありなら、ですが、 恐れを引き起こした出来事の思い出、です。 それは、頭脳に登録か、記録されます。 その記録は、やはりそこにあります。 私は今、恐れを持っています。 で、記録は、恐れの事実を、憶えています。 で、過去から、私は、恐れを認識します。 理解されますか。話は明らかになっていますか。 恐れを引き起こした過去の出来事の知識は、 頭脳に登録されています - (録画)テープにされるように、です。 で、頭脳は、恐れの知識を持っています。 ですね? 恐れの知識、です。 で、知識が、恐れです。 理解されますか。よければ、それに入ってください。 それの美しさを見てください。 そのとき、それが何を意味するかが、見えるでしょう。 で、今、恐れが生ずるとき、 記憶が、踏み込んできて、言います - 「ええ、私は、あれが恐れであるのを知っている」と。ですね? それは、あなたが恐れに関して持ってきた知識、という意味です。 その知識が、「あれは恐れだ」と言います。 で、知識自体が、恐れになります。ですね? これを理解されますか。 そして、その言葉。 「恐れ」という言葉もまた、恐れに寄与するかもしれません。 理解されますか。 で、知識は、その言葉ですし、 その言葉が、恐れを引き起こすかもしれません。 で、あなたは、見つめられますか- どうぞ、聞いてください - 恐れの観察が、ありますか - 他の恐れの知識なしに、です。 それで、あなたは、見つめています - 知識の動きなく、恐れの知覚が、あります。 理解されますか。 で、恐れは、過去としての知識の動きです。 その知識は、時です。 ですね? で、恐れはまた、思考の一部です。 私は明日、死ぬかもしれません。私は自分の職を、失うかもしれません。 私は、これであるが、私は、あれになるだろう。 それはすべて、思考の動きです。ですね? いいえ?ですね? 私は今、職を持っています。 私は工場で、働いています。 または、私は料理人か、大工です。 あなたたちの偉い、一番上の人々ではない。 私は、ただの普通の人物です。 一番上の人々さえも、大変多くの恐れを、持っています - 保証しますよ。 私は大工です。 私は明日、自分の職を失うかもしれません。 明日は、時です。 思考は、言います - 「私は職を失うかもしれない」と。 それは、思考です。 で、思考、時は、動きです。 ですね? 知識の動きです。 これらをご覧になるのかどうかと、思われます。 私は、進んで行きながら、自分自身、これを発見しつつあります。 すなわち、頭脳は、 記録しないことができますか。 理解されますか。 お示ししましょう。 それを聞いてください - あなたが、面白くしたいなら、です。
49:52 あなたは私に、へつらいます。 頭脳は即時に、それを記録します。 あなたは、私を侮辱します。 頭脳は、またもや、それを記録します。 それは、いつの時も記録している機械です。 ですね? それは、私たちの知識に、なります。 その知識から私たちは、行為します。 さて、あなたが、記録しないなら - あなたが私に、へつらうなら、頭脳は、記録しません。 私は、「あなたは、私の大親友です」と、言いません。 または、私を侮辱します。 侮辱も、へつらいも、記録されません。理解されますか。 そのとき、知識は、必要ではありません。 それは、恐れを創り出すかもしれません。 が、私は、知識を持たなければなりません - 手紙をどう書くのか、 どうビジネスをするのか。 もし私が、ねじ曲がっているとか、その他であるなら、ですが。 私は、知識を持たなければなりません。 私は、会計士であるなら、知識を持たなければなりません。 これらに付いてきておられるかどうか、私は知りません。 が、心理的な知識は、記録されますが、 記録しないことは、可能ですか- 心理的に、です。 理解されますか。 見出してください。私に同意しないでください。 心理的に記録しないことが、可能なのかどうかを、見出してください。 それは、頭脳がこれの事実を見た、という意味です。 ゆえにそれは、それ自体の条件づけを、解きつつあります。 で、恐れは、時と思考の動きです。ですね? さて、どうぞ、「私はいかに考えるのを止めるべきか」と、 訊ねないでください。 語り手が、あなたに体系を与えるほど、ばかであるなら、 その体系こそに、本来的な衰えが、あるのです - それが、官僚制度の体制であっても、 特定の冥想の体系、 思考の体系であっても、です。 理解されますか。 体系の構造こそに、本来的にその中に、衰えがあるのです。 それは、エントロピーと呼ばれますが、 私はそれらに、入らないでしょう。 物理学者たちは、これを知っています - エネルギーの損耗です -それは、測量できます。
53:25 そして、頭脳は今、大変多くの知識の重荷を、負っています。 その知識は、私たちの条件づけになったのです。 ゆえに、その知識こそが、 私たちが、何か新しい、新鮮なものを、見るのを、阻止します。 ところが、あなたが初めて、 恐れが生ずるままに、それを見つめられるなら、 そのときそれは、何か全然違ったことです。 それは、反応です。 物理的な反応と、心理的な反応です。 で、恐れ、恐れの根は、時と思考の動きです。 ですが、あなたは時の本性を、理解するなら - 知的に、ではなく、実際に、 時の本性と構造を、です - そしてまた、思考の本性と構造を、理解するなら - 理解する。 それは、究明する、 そのものと、完全に親しい、という意味です - 時の動きと、思考の動きと、です。 それらは、恐れの基礎です。 そのとき、恐れは、 あなたが、このものを、こうも完全に、 いわば両手に保っているから、です。 それは、あなたの注意を、必要とします。 その注意こそが、恐れを焼き尽くしてしまうのです。 これらを、理解なさるのかどうかと、思われます。
55:19 さて、あなたは、恐れを持っているなら、どうして、愛せますか。 あなたたちはみんな、自分の神々に怯えているでしょう。ですね? あなたたちはみんな、自分の神々に、褒美を頼んでいます。 あなたは、祈ります。あなたは、供養します - 何か儀式を、です。 そのすべてが、表示します。 ですね? 私は、大変尊敬を込めて、お訊きしているだけです - それは、あなたが怯えていることを、表示しませんか。 生きることに怯えている。 自分の問題に怯えている。 それで、あなたは、神々に頼んでいます - 自分が考案してきたものに、です。 ですね?それに同意されますか。 あなたの思考は、これらの神々を、創案してきました。 それに、同意されるでしょうか。 または、あなたは、神聖すぎて、そういうことを認められませんか。 理解されますか。 思考は・・・ どうぞ、このことをあなた自身で、理解してください。 私は、指令していません。 私たちは、宣伝をしていません。 それは、あなたの生です。 この恐れの中から、 思考は、最もすばらしい教会、大聖堂を、創り出してきました - 建築的に、すばらしい。 建物の、大いなる美しさ、大いなる重みと強さです。 が、思考は、大聖堂、寺院、 神殿、モスクを、創り出してきました。 また思考は、その中にある物事すべてをも、創り出してきました。 儀式、衣装、お香、言葉は、 すべて、思考の結果です。 そして、思考は、物質的な過程なのでしょう。 なぜなら、記憶は - 頭脳の細胞が、記憶を保っています。 それは、事実です。 そして、その記憶は、知識と経験に、基づいています。 で、この動き全体は、物質の動きです。 で、思考は、神を創案してきました。 または、女神や神々を、です。 インドには、三十万以上の神々が、いると、思います。 ヨーロッパには、一つか、二つかだけです。 彼らは、不幸な人々です。 なぜなら、あなたたちは、 それらから幾つの数でも、選択できるからです。 なぜなら、それらがこうも多く、あるからです。 あなたは、一人の導師、一つの神から、 別のへ行き、大変面白くできます。 私が罰当たりだと、考えないでください。 思考が創り出してきた神々は、神聖ではありません - 私たちは、それらを崇拝するけれども、です。
59:09 神聖であるものは、寺院、神殿にありません。 モスクや教会に、ありません。 神聖なものは、恐れより自由である精神にとってのみ、存在します - 葛藤より自由で、暴力より自由である精神に、です。 ですが、暴力、恐れ、心配を持っているので、 私たちは、これらの神々の増殖を、持っているだけです。 で、思考と時は、同じです。 ですね?なぜなら、知識を持つには - 科学的な知識や、どの種類の知識でも - 時を、必要とするからです。 そして、時と思考は、恐れの根です。 そして、時と思考は、今にあります。 現在に、あります。 この中から、きわめて深刻な問いが、生じます - 思考に所属していない時が、あるのかどうか、 または、時として知られた動きが、です。 理解されますか。
1:00:53 で、自らが聞いてきたなら- 単に聞こえただけではない - 私たちが一時間、話してきたことを、です。 あなたが実際に聞いて、吸収してきたなら、 あなたが暑い日に、冷たい飲み物を、吸収するように、です。 あなたが、言われてきたことを、吸収してきたか、 言われてきたことを、聞いて、それの真理を、見てきたなら - その知覚こそが・・・ そして、知覚は、時のではありません。 これを理解なさるのかどうかと、思われます。 私たちはまた、短く話さなければなりません - もう、止める時間です。 知覚、見ることについて、です。 あなたはあの樹を、見ます。 あなたはいったい本当に、そもそもその樹を、見ますか。 あなたは、いったい本当に、日の出の美しさを、見ますか - または、日の入りの、です。 または、あなたたちは、自分自身に占有されすぎているので、 あなたはけっして、大地の美しさを、見ないのです。 あなたが、あの樹を見るとき、 何が起きますか。 「樹」という言葉が、介入します。 それで、あなたは、実際にそれを見つめないのです。 それに注目したことが、ありますか。 いいですよ。 はるかに近く来ましょう。 あなたが、「それは、私の妻です」と言うとき、 あなたはいったい、自分の妻を見つめたことが、ありますか - または、自分の夫や、自分の彼女や、 何でも、あなたが持っているものを、です。 あなたは、その言葉をもって、見つめます- あなたが彼女や彼について、持っているイメージをもって、映像をもって、です。 で、これが、障壁として機能します。 あなたは、けっして見ません。 で、あなたはけっして、敏感になりません。ですね?
1:03:25 マドラス中に、汚物と汚れが、あります。 あなたは、けっして見ないでしょう。 または、あなたは、それが慣習になっています。 あなたは、何をも堪えます - どの政府、どの官僚制度、どの神をも、です。何でもあり、です。 大いなる敏感さを、持たなくてはいけません。 その敏感さは、養成されることになりません。 それは、あなたが空の唯一つの星の美しさを 見つめるとき、生じてきます - あなたが、新しい月を見るとき、 あなたが、海を見るとき、です。 が、あなたが、一つか二つの感覚的応答を、使用するだけのとき、 その制限こそが、狭い見通しを、創り出します。 が、あなたが、自分の感覚すべてでもって、見つめるなら - 樹を、 空を、 夕べの雲 - 光と大いなる美しさに満ちているのを、 あなたの感覚すべてでもって、です。 そのとき、その観察の中に、自己、「私」は、ありません。 それは、諸感覚の部分的な応答があるとき、だけです - そのとき、その部分性、制限こそが「私」を、創り出します。 で、恐れは、完全に終わりになりえます - あなたが、時と思考の本性を、理解するとき、です。 よし。